小淵沢のセカンドハウスへやってきた。庭に石楠花が咲いていた。10年くらい前に、隣家のEさんにすすめられてなんとなく植えて、そのままあまり見向きもしなかったのだが。
山道でみた石楠花は何年前になるだろうか、たぶん、三国峠から平標へと何人かでのんびり歩いていたときだった。観光客対策だとは聞いたが木道で囲まれてしまった今の平標にはなんの思いも感じないけれど。
(グリンビラ総合管理HP より転載)会社周辺の桜は葉桜となりました。新緑も始まりいい季節です。
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
日本に恋した6ヵ国語(母語・伊語の他、日・英・西・独・葡)
著書のタイトル「イタリア女性が沼った ジワる 日本語」は僕も本を手にして、「なんだ?
一昨日、昨日と東京へ行く用事があったので、往復の新幹線と余暇の時間に読みました。本の内容は安田さんが充分紹介されている通りです。
私は著者の年齢や国籍やこれまでの略歴を事前に知ることなく、唯々読み進みましたが、読む前は日本語の表現の多彩さや美しさを、日本での実体験を通して賛美しているのかと勝手に想像していましたが、実際にはその部分もありますが、一体この人は誰れ、どんな経歴の人?と途中から興味が沸いてくる内容でした。オーストラリアのシドニー生まれで、どうやらイタリアの片田舎に両親と住んでいた家族で妹と兄がいる、自分は南米コロンビアに留学していたと思えば、5~6歳の時に家族でインド旅行をしている。イギリスのケンブリッジ大学カレッジで難関の日本語のコースに通り、日本に来て、上智大学に一時席を置いたと思っていたら、東京は高円寺の上げ下げ出来る雪見障子のある古民家を借りて住んでいると思えば、鹿児島-福岡-大阪-京都-名古屋-岐阜-石徹白-福井-金沢-横浜-東京とヒッチハイクとカプセルホテル等で旅をする、鹿児島の小値賀島のイルカゲストハウスが気に入って、少々長く滞在した記述があれば、北海道に旅行に行っている、初めて母親を日本に呼んで大阪の街中の銭湯へ何の説明も無しに連れて行き日本の大衆浴場を経験させたり日本の脱毛サロンの経験をして驚いたことや髪を丸坊主にしたりと、まあ、びっくりする行動力と感性の豊かさが溢れていると思いました。
読了後に著作の日付を見ると2024年4月1日(出版は2024年5月5日)と今月だったことに改めて驚きました。著者は “顔が小さいが顔は広いそして鼻が高い27歳のお嬢さんだ“ ということが分かりました。旅行記でもない、イタリア人か見た日本語でもない、ジャンルの分らない著作ですがまあ凄い人が居るものだ、過去には沢山のバイトを経験しているし、日本ではあまり気の進まない英語の先生やテレビ・カメラマンのアシスタントを経験したりで、これからどんな人生経験を送るのかと好奇心をくすぐるには充分の読み易い本でした。
アメリカに住んでいる私の娘と孫娘に送るかもと思って、事前に概略紹介した時に
娘からは≪昔読んだ日本人の知らない日本語、とかダーリンは外国人、とか面白かったのを思い出しました≫と言ってきたので、さて送ろうかどうしようかと迷いながら多分送ります。
先日飯田さんから喜劇物にお目にかかれないとの嘆き節が聞かれたが、それを若干とも補う西部劇が放映されたのでご紹介。
バート・ケネディ監督、ジェームス・ガーナー主演「地平線に立つ
渓谷を走る蒸気機関車が鉱山の町パーガトリーに着くとラティゴ・
ザー)から逃げるように下車する。其処は顔役のバートン(ハリー
ラティゴは、吞兵衛のジャ
短気でアバズレな性格。また
(飯田)私も「地平線から来た男」を初見でみました。ご紹介頂いた「地平線に立つ男」「夕陽に立つ保安官」などは観て
ところで、ガンマンスイフティ役のチャック・コナーズですが
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そのウイキペディア解説:『地平線から来た男』(Support Your Local Gunfighter、もしくはLatigo)は、1971年に公開されたアメリカ合衆国の映画。映画『用心棒』とそのリメイク『荒野の用心棒』をパロディ化し、コメディとして描いた作品。監督はバート・ケネディ。出演はジェームズ・ガーナーなど。多くのスタッフやキャストが共通する映画『夕陽に立つ保安官』の姉妹編と呼べる作品である。
(大学クラスメート 飯田武昭)
映画に名作は多いですが、その殆どは悲劇物、恋愛物、西部劇などであり、喜劇物は世の東西を問わず中々お目に掛かることが出来ないのであり、近年は特に喜劇物の作品は乏しいです。
抱腹絶倒、呵々大笑と言った大笑いを表す日本語の表現がありますが、凡そこの表現に当たる場面は旧交を温める懇親会での雑談中くらいで、映画やライブの舞台などでは、最早ほど遠い社会になったのかと思うことが少なくないです。すっと以前にはチャップリンは別格としてもアボット・コステロ、バスター・キートン、ボブ・ホープなどが近い存在だったと思うのですが・・・。
ミュージカル映画が好きな数人の「エーガ愛好会」の方々が居られますが「雨に唄えば」「オクラホマ」「ウエストサイド物語」「掠奪された七人の花嫁」などダンスシーンの優れた作品は中々望めない時代になっていて、バレエの演技はそれらを補って余りあるものと、近年は好んでバレエ公演を観ています。GW期間は人出も多いし、自宅に蟄居することを決め込んでの雑感です。
(HPOB 小田篤子)蟄居はじめですけど、録画しておいた2つの野球映画を観ました。
(脚注)野球選手が2度も銃撃されることなどあり得ないとは思うのですが
山歩き、という事についての文章には心惹かれるものが沢山ある。各々の好みによって、激しい登山登攀記録、登山と人生観、エッセイやら詩まで、多くの傑作と呼ばれる文章がある。小生は現役の登山家の文章のなかでは ”北八ツ彷徨” を第一に挙げる者の一人だが、もう一人、我々に先立つジェネレーションの一人、尾崎喜八の文章に強く惹かれるものを感じる。中でも有名な たてしなの歌が好きだ。
君の土地。それは無数の輻射谷に刻まれて八方に足を延ばした、やはり火山そのもの肢体の上の耕地であろうか.。或いはもっと古く、埋積し、隆起した太古の湖底の開析平野と、その水田に、今、晩夏の風が青々と吹きわたる河岸段丘のきざはしであろうか。
とはじまるこのエッセイには、信州の山々とそこに住む人たちの生きざまに限りない愛情を抱いた詩人の感性が満ち溢れている。”北八ツ彷徨”がまさに現代人のある種の疎外感を感じさせるのに対し、良き古き時代を満喫できたエリートの満足感とでもいうべきものだろうか。
連休、他に何もプランを持たないまま、八ヶ岳南麓の晩春を久しぶりに味わいながら、何となくページを開いた尾崎の ”山の絵本” に、景信山のことが書かれているのにひかれた。月いち高尾、で何度となく歩いている旅が、”古き良き時代” はどうだったのか、などと感じるよすがになるかと思い、尾崎喜八 ”山の絵本” (日本山岳名著全集)から、”山日記から” の該当部分を拾ったものを紹介しておく。次回、このルートをたどる際に思い出してもらえると嬉しい。
(尾崎喜八 山の絵本 より抜粋)
高尾山は余り雑踏し過ぎるという人に、私はその奥の景信山をすすめたい。古い小仏峠を中心にして、春は花も多いし蝶も多く、またその眺めの雄大なことは道の楽なのに反比例している。
浅川駅前から高尾山行きの電車へ乗ると次の停留所が小名路、小仏峠への追分である。右に中央線の線路を、左に黒木立の高尾山を見ながら、糸繰器械の音のする農村から農村へ、一理ばかりをぶらぶら歩くのである。これは昔の甲州街道で、往手にはもう景信山と小仏峠をつなぐ緩やかな山稜線が空をかぎっている。
高尾山蛇滝口への道を左に見て、やがて小下沢の現れるところで線路を歩いて斜め向こうへ渡ると、もう小仏の部落。地質学でいわゆる小仏層の石が、まるで石炭を敷いたように線路に沿って散らばっている。ミツマタの薄黄の花が咲き、つま先上がりの路の右側に段々になって農家がならび、その左側を小仏川のささやかな水の流れるこの村で、どうしてもシャッターを切らずにはいられないだろう。
村外れから線路は小仏トンネルへもぐり込む。人はその上を歩いて行く。やがて景信山への登り口を示す道標が小径の右に立っている。そこで一休みして、右手五六段で無くなってしなう石段から登りになるのである。まっすぐに行けばもちろん峠道。しかしこれは帰路に選んだ方がいい。
息を切らせる登りが約十分間位つづくが、それからは雑木のまばらに生えた尾根をのんびりと登るのである、左手は谷を越して小仏峠のたるみが、その掛茶屋と一緒にてをとるように見える。右手遥かに多摩丘陵や武蔵野の一角が春霞をまとってせり上がる。如何にも春の山路の感じである。
これを登りきると一寸した平へ出る。そのすぐ左に立っているのが景信山である。以前に息を弾ませながら真直ぐに登ったものが、今では電光形の路がうまくつけてあるから、急がずに登れば楽なものである。忽ち頂上。その頂上の平地には近頃景信小屋という相当な小屋が出来て、食物や飲料なども売っている。眺望はこの付近で最もすばらしい。
先ず西にはこの山から始まって相州、武州、甲州に跨る国境山脈が、縦に蜿蜒とうねっている。その奥には三頭山、権現山などの大塊を前にして、山膚の青磁に白雪の象嵌をほどこした大菩薩連嶺の長壁が、むしろ優美に夢のように横たわる。その左手笹子峠から三峠山へつづく一線の上には南アルプスの白金の山々がぴかぴか光る。富士は元より偉大だ。富士はまるで抱きかかえることができるほどに大きくかつ近い。富士の左には道志の山々の紛糾を前にして、丹沢山塊がその大鵬の翼を張っている。一転して北は馬頭刈から大岳山・御前山へと延びる一連。中でも大岳山の姿は豪壮だ。その左手奥には秩父の雲取山が、これも雪の縞をつけて頭をもたげる。もっともっと遠く北東の地平には日光や那須の連山。また東には平野の青い霞の上に紫の筑波。春は悠々として天に浮雲。草上に身を倒してこの無限の空を見つめるのはいい。
小仏峠へはこの頂上から南へ向かう尾根をだらだら降るのである。植物や昆虫採集はここからはじまる。一日には極めて楽な行程である。
マカロニウエスタンは、監督セルジオ・レオーネ、主演クリント・
「続荒野の用心棒Django1966」は監督セルジオ・コルブ
オープニングは棺桶を引きずりながら、テーマ曲ジャンゴをバック
その後の凄惨なバイオレンス描写も凄い。ロドリゲ
しロドリゲスの折半の約束が怪しく、ジャンゴは黄金を棺に詰め、
(編集子)ジャンゴが棺桶に入れていた ”機関銃”。当時というか西部開拓時代の末期に登場したガトリング砲は グレゴリーペックの 勇者のみ (だったと思うが)で初めて登場した。しかしこれは大型の ”砲”で、とても棺桶で運べるものではないように思える。その後、この ”砲” は一人で持ち運べる “銃” になり、マキシムとかブローニング製のものに置き換わっていったはずで、このタイプになると、ガトリングのように銃身を回転させるものではない。ジャンゴがぶっ放すのは、一人で持ち運べてしかも銃口が一つではない、というのはやはりこれまたマカロニの発明品のように思えるけどなあ。
今日の朝ドラ「寅に翼」は離婚後の親権についてだった。今国会で共同親権など民法改正について議論されている。離婚後
母が父と同じように子に対して親権者と呼 ばれる地位を得るようになったのは、西洋の 歴史においてもそう古いことではない。父権 から母を含む親権へと初めて改められたのは 1900年から施行されたドイツ民法においてであった。しか
旧民法は、親権について、人事編第 9 章「親權」第 1 節 子ノ身上ニ對スル權第149条に、 「親權ハ父之ヲ行フ 父死亡シ又ハ親權ヲ行 フ能ハサルトキハ母之ヲ行フ 父又ハ母其家 ヲ去リタルトキハ親權ヲ行フコトヲ得ス」修正案第890条「未成
現行法では、明治民法が母の親権に加えた制限を一掃し、共同
現行法 第818条 1 項第818条 3 項「成年に達しない子は父母の 親権に服する」 「親権は、父母の婚姻中は、 父母が共同してこれを行う。 但し、父母の一方が親権を行 うことができないときは、他 の一方が、これを行う。」フランスでは1970年法により、
戦後公表さ れた統計では、当初は夫を親権者として離婚 する場合が過半数を占めてきたが、1966年(昭和41年)に妻を親権者として離婚する場 合が過半数を占めて逆転して以降、現在に至 るまで年々その件数は増加し、最近では約 8 割に達している。そして、この離婚母子世帯 の経済状態は、著しく低く、その原因の 1 つ に離婚後の非親権者の父から子どもへの養育 費の支払が滞りがちであるという事実がある。親権法改正の基本指針 の 1 つとして、離婚後の両親の「共同親権」の原則化を提案している。
明治時代
家父長制のもと婚姻中も離婚後も「親権」は父親
戦後
個人の尊厳と男女平等の理念から婚姻中は「共同親権」
離婚後は子と暮らす方が単独で親権を持つべきとし「単独親権」に2000年ごろ子どもに会えない別居親たちによる「離婚後共同親権」を求める。
改正案は今の国会で成立し、2年後の2026年までに施行される
共同親権のメリットについては、親権を有することから子育てに関