ピントがずれてねえかなあ

今朝、読売の第一面トップ記事、”書店振興、官民で” をみて、(なんかおかしくはないか)という感じを持った。

書店、なんていうから勿体が付くんで、要は本屋、だろう。幼い時から活字中毒の小生はどこでもいつでも、本屋をブラウズするのが習慣になっているので、この 本屋文化の衰退は嘆くべきだと思っている。だからその復活に手を貸そう、という企画に反対ではない。

しかし問題は、本屋があるかないか、ではなく、国民(世界中でそうだろうが)が本から離れている、ということなんであって、そのサプライチェーンが変化している、ということではあるまい。自分のことでいえば、いま、いわばわが人生の最後っ屁、と思ってやっているポケットブックの乱読なんてえのは、アマゾンという形態ができたからこっそ手軽に言えるんであって、もし毎回、紀伊国屋だ丸善だと出かけなければならず、探してるものがなければ特注して何か月も待つ、という過去のスタイルならまずやる気にもならなかったはずだ。本屋があり、本屋文化というか、(ぶらりと本棚を眺める)ことがすきか嫌いか、というのは全く個人レベルの問題であって、お国が騒ぐべきなのは本屋の数ではなく、全世界で起きている情報伝達のシステムそのものの課題ではないのか。爆弾のつくり方からむかしは人目を忍んで本屋の隅っこで盗み読みしていた怪しい本や写真やいまでは動画まで、安易に手に入る時代になってしまっている。そういうことや、それが引き起こす社会問題こそ国が乗り出すべき課題のはずだ。本当に本が読みたいという人にとって、いまや本屋がない、というのは確かに寂しいことには違いないが、それじゃ、本屋さえあれば若者が本を読むようになるのか?

書店、というビジネスモデルがなくなり、そのために苦労する人々がおられることは十分理解するし、その支援をしたい気持ちもわかる。だが、今回の国を挙げての騒動がサプライチェーンの変貌という、もう不可逆的に起きてしまっていて、おそらく経済的には成り立たない現象に竿さすだけならば、これは壮大な無駄だという気がする。それよりも教育現場でデジタル教科書がいいか悪いか、なんてものをしかつめらしく議論しなければならない(小生は大反対だ、もちろん)とか、国会議員大先生からポルノ作家はたまた街のギャングまで広がっているSNSの悪用、ということの対策のほうが、喫緊の政治課題なのではないのか。

東京の空は今日も晴れているが、寝起きの悪い一日になりそうだ。