2019年6月 月いち高尾  (39 堀川義夫)

6月の月いち高尾は八王子城山に行くということで当初18名の参加+テング飯店のみ1名と言うことでしたが、直前の2日間くらいで5名がキャンセルになり、参加は13名となりました。また、梅雨のさなかで開催が危ぶまれましたが、雨には全然合わず、午後には青空が出るほどで昨夜来の雨で木々はしっとりとして緑の色鮮やで、さほどの汗もかかず楽しいワンデリングが出来ました。

10時20分集合にもかかわらず10時頃には予定参加者全員集合、10時34分の陣馬高原下行きのバスで松竹(まつたけ)下車、ゆっくりしたペースで歩き始めました。途中、イノシシが掘り起こした穴が登山道を壊しています。相当の数のイノシシのいたずらだと思います。静かなやや直登気味の道をゆっくりと、途中1回の球形で12時10分ごろ頂上着。集合写真を撮って少し下ったベンチのある見晴らし台で昼食。13時10分心源院歴史古道を下山開始。下っては少し上り、下っては少し上るという結構疲れる道でしたが、途中、素晴らしい展望休憩所もあり、無事に下山完了。バス停に着くと間髪を入れずにバスが来て15時10分ごろ高尾北口に到着。テング飯店で恒例の打ち上げ。ビールが旨い季節になりました。

日 時  2019年6月12日(水)

参加者  吉牟田、遠藤、高橋、椎名、町井、岡沢、武鑓、藍原、久米夫妻、保屋野、関谷、堀川 13名

てんぐ参加者は、天狗岳に参加の1名が加わり12名でした。

昨日は涼しく快適な新緑ハイクを楽しめました。城山(八王子城跡)は麓に実家があり、昔よく登った山ですが、今回の登り、下りのルートは初めてで新鮮でした。                          42年 保屋野


昨日は絶妙の天気読みと時間配分で有難うございました。
報告書1ケ所、休憩(球形)の変換違いありました!                      40年 武鑓

 

 

喫茶店とのつきあい (1)

今考えても楽しかった普通部での3年を終えて高校に入学するとすぐ、新聞会に入った。当時は全国の主な高校には学生新聞があり、コンテストなども行われていたが慶応高校の Highschool News は常に別格扱いされる、内容も編集技術も抜群の存在だった。編集長のYさんはまるで別世界の人のように大人びていて、それを支える上級生も神様のように見えた。あの、どっしりとしたコンクリート3階建て、冷え冷えとした日吉校舎の2階、206号室の鉄製の重いドアを開け、隅に座って上級生の声がかかるのを待っていたのが懐かしい。

夏休み前になってYさんから、僕ともう一人の1年生、藤本恭(一時創刊間もない“女性自身”の編集長などを歴任した職人肌の好漢だったが、2001年に急逝)の二人(考えてみると藤本ではなくてカメラが職人裸足だった船津於菟彦だったかも)で、喫茶店探訪を命ぜられた。当時の普通部は学外の行動にとても厳格で 保護者なしでは映画館にはいることもできなかったくらいだから、渋谷や銀座の喫茶店を”探訪“するなどおっかなびっくりだった。初めて入ったのが渋谷の”“という店だったのだけは覚えている。ここはまだ同じ場所( 建物は当然変わってしまっているのだが、そうだと思っている)で営業しているのがうれしい)。

これが僕の”喫茶店”というものとの付き合いのはじめなのである。高校時代は日吉駅の北口を出たところにできた“巴里苑”(普通部3年の時までは丸善だった)くらいしか覚えはないが、大学に入ってからは自由が丘が便利になり、ちょくちょくと映画を見に行くことが増えた。南風座とロマンス座というのがあって、横山美佐子とたしか阪田清なんかがいたような気もするのだが、数人で入ったものの座れず、後ろから背伸びしながら“シエーン”を見た記憶がある。そんなことがきっかけで当時まだ珍しかったジュークボックスがおいてあったセ・シ・ボン”という店を見つけた。学部は違ったが授業の空き時間が偶然に一緒だった住吉康子と彼女の友人中島教子など何人かでよく出入りした。サム・テイラーの”ハーレム・ノクターン”や”夕陽に赤い帆” なんかが流行りだしたころである。

三田へ通うようになると、やはり地の利で銀座界隈へ出る機会が増えた。当時あったルノーのタクシーを使うと90円で映画街までいけたから、部室で何人かまとまれば150円で映画を見て、というのが自由が丘にとってかわった。山へ行っている以外には、酒の好きな連中は別として、当時は映画か、僕はやらなかったが麻雀くらいしかパスタイムの選択肢がなかったから、時間を過ごす場所として喫茶店、というのがごく当たり前だった。インテリを名乗る連中は“田園”とか“らんぶる”などの”名曲喫茶“を好んだし、”バッキー白方とアロハハワイアンズ”なんてのが出ていた“ハワイアン喫茶”や”銀巴里“などシャンソン喫茶などいろんなバリエーションが出現、言ってみれば喫茶店文化の絶頂期だったのだろう。このころ売り出し中だった“クレイジーキャッツ”を見に、田中新弥や小川拡、広田順一など高校時代のクラスメートと”ジャズ喫茶“と称する店にも行った。中でも新橋にあった”テネシー“はちゃんとしたポピュラーの生演奏がきける大変な人気の店だった。ここで聞いたなかに ”世界は日の出を待っている“ があって、新弥が偉そうに解説してくれたのをなんとなく覚えている。某日、飯田昌保が通ぶって”ここはいい店だ“というので、”エリザベス“というところへ入ったら、店中女の子しかいなくて、二人で小さくなっていたことがある。出がけによく見たら、”パフエ専門店”とあってふたりで妙に納得したこともあった。ここだけはさすがにその後も出入りはしなかったが。

このころからまだ通っているが昔通りの雰囲気が健在なのが新橋に近い”エスト“(さすがにLPレコードではなくなったが、ウエイトレスの制服からテーブルクロスまで、見かけは全く変わっていない)で、銀座へ出れば3回に1回ぐらいは今でもよく行く。銀座界隈の店も当然淘汰があって、なじみは減ってしまい、最近はこのウエストか、あづま通りの”トリコロール“がお気に入りである。ここは1階のカウンターを担当しているベテランの何人かの店員応対が暖かく感じられて、長居を過ごさせて貰うことが多い。

高校が四谷近辺だったせいであの辺りに詳しい八恵子と良く通ったのが紀尾井町の先にあった”清水谷茶房“だが、ここも廃業してしまった。いい雰囲気の静かな店だったが。当時のまま健在なのが新宿、旧三越の裏通りにある”ローレル”だ。オーナーはまだ変わっていないらしく、昔話をして喜ばれたりした。

会社勤めが始まると最初の勤務地は三鷹だった。同期に入社した曽山光明が成蹊の出身で吉祥寺に詳しく、あちこちとよく連れて行ってもらった。 洋菓子専門の”メナード“とか、”ルーエ“なんかがそれだ。5-6年前の話だがルーエのほうは同じ場所にまだあった。その後、やはり曽山に教えてもらった” 檸檬“は小さくてとても居心地がよく、本を持ち込んで長居したものだったし、いま、第一ホテルのある当たりの裏手にはほかにも”春風堂”とか家庭的でくつろげる小さな店がたくさんあった。最近吉祥寺が住みたい街としてよく出てくるが、僕に言わせると昔のほんわりとした雰囲気は消え失せてしまった、月並みな繁華街としか思えないのは残念だ。

(掲載した写真は新聞のコピーのほかは最近撮ったものである)

2019年春季日帰りW

野山に満ち溢れる新緑を訪れる、というのが ”春ワン” のテーマのはずだが、今年は何しろ異常天候、まるで真夏のような1日だった。

5月25日、予定通り開催。相模湖周辺の低山歩き、有名な石老山から長いコースでは高尾から陣馬山を越えてというのもあったが、今回の参加者合計は107名。最年長33年の荒川先輩から平成最後の卒業となった安部(あんべ)君まで、これぞKWVの真骨頂ともいうべき、”縦のつながり”、大家族の雰囲気が横溢した楽しい1日を過ごした。

BC地での散会後、まだ日は長く、グループごとに高尾、八王子あたりで二次会がにぎやかだったようだ。次回は北アルプス夏合宿での再会を待とう。

今回の写真は51年斎藤邦彦君の提供。当日のほかの写真は彼のFBで閲覧可能なのでぜひご覧いただきたい。

”82年同期会―俺達のYHP”

1982年4月、YHP 入社の人たちの同期会があり,お招きにあずかった。光栄なことだ(もっとも ”来賓” でも会費をしっかり取るあたり、いかにも ”動物園”の異名をとった集団だと妙なところで感心)。1982年、といえば小生はその前2年間、親会社横河電機へ出向していて戻ったところ、”エッチピー” 文化、が微妙に変わり始めた時期だった。 人事の親玉だった故青井達也さんが、”ジャイよ、YHPも千人を超えた。これからは大きくかわるぜ” とつぶやかれた記憶がある。青井先輩が言っておられた意味が、古いものへの郷愁だったのか、新しいものへの期待だったのか、判然とはしなかったが。

Ever onward, guys !

1982年入社、大学高専高校あわせて371人の新卒が八王子にやってきた (誠に残念だがうち7人が鬼籍に)。人事担当増田君が ”先着順で採用したようなもんだ” と得意のブラックジョークをとばしたように、受け入れから配置、教育までそれまでの会社組織として未経験の体験だったろう。しかしこれが混乱ではなく、誰かが(今となっては不明だがたぶん故小林戴三君あたりだったか?)いみじくも ”動物園” 世代、と名付けたように、ありとあらゆる ”生き物” が 雑然たる中に暗黙の規律 を保っていたのがこの時入社した諸君だったと思っている。この会合はすでに何度か開かれているとのことだが、公式なOB会組織は別として、”同期” という感覚、おそらく軍隊をのぞけば世界広しと言えどもわが日本の中にしか存在しえない連帯感、がこのような人間集団を生み出したのだろう。

このすばらしい連帯感、これを会社、というメカニカルな組織の文化として作り上げた、そしてそれが日本ではなく個人第一のアメリカという風土の中に生まれた、今では現社員の間では死語になったようだが ”HP Way” のもとで芽生えたものであろう。われわれも”動物園”諸君もその中に育まれたことを幸せに思い、光栄だと思っている。

この ”HP Way” も皮肉なことにヒューレット・パッカードの繁栄の中で、いつしか消失してしまった。青井さんが見抜いておられたいわば歴史の必然だったのだろうか。HPのクラウンプリンスだったジョン・ヤング、そのあとを任されたリュー・プラットは ”HP Way” を常に語ったし、組織の巨大化に伴う無機化、官僚化をなんとしてでも防ごうと努力していたのを僕も何度も見ていた。それが会社の実態の変化(電子計測―プロの市場 から コンピューター 大衆の市場 への)とともに、皮肉に言えば会社実績の上昇とともに退場してしまった。それに拍車をかけたのが ”グローバリゼーション” という魔物だった。

いつのことだったか思い出せないが、ミスター・ヒューレットが ”地球上どこへ行っても電流は同じ方向に流れる” と言われたことがあった。ぼくはこれが”グローバリゼーション”の原点なのだと思っている。その後HPは独自の発想で完成した HPIB の技術を公開し、これが世界共通の基本技術として定着した。科学の世界におけるグローバリゼーションにはいささかの疑問も存在しないことのひとつの証左だろう。経理の世界では税務措置を大前提とした伝統的な会計システムに並行して通称”マネジメント” と略称された管理会計システムがジョン・ヤングのもとで導入され、経営の視覚を明瞭に、公正なものにした。ここまではグローバリズムの成功例としてだれもが認めることだっただろう。しかしその世界標化の流れが、”人間” ないし ”文化” をも包含する域までの話となっていったのが80年代後半から90年代へかけてのhpだった。谷勝人さんがアジアパシフィック本部へ栄転され、のちに社長となられた時期は歴史的に見るとこのような流れの中だったのだ。今度の会の冒頭、次代を振り返って甲谷さんが述べられた事実は当時中堅的な立場にあった82年同期生が真正面から取り組まれた課題であった。いろいろなエピソードを聞きながら当時を懐かしく思い出したことだった。

ただ、その後、人事を担当していた僕には、甲谷さんのご苦労には申し訳ない気持ちがあるが、この ”グローバリゼーション” 志向をすべて肯定し賛同する気持ちにはなれなかった、ということを告白する。一部の方々からは強烈な反対反抗を受けた、伝統的部課長制度の廃止とか、人事部諸君のご苦労の結果できあがった新・給与システムとか、労働組合との関係改善、といったあたりまでは、自分がやろうとしていることが ”グローバリゼーション下のYHP  にとって進むべき道だ”という信念があった。しかしアジアパシフィック本部(この地域性に着眼した管理体系はほかの企業でも同じようだが、僕はこの地域による位置づけをヨーロッパにおける場合と同様に考える、という発想自体が間違っていた、あるいはいる、と今でも信じている)の下部にYHPが位置付けられるようになり、その文化的要素まで世界標準にあわせて考えることが暗黙の要求になってからは、疑問煩悶が絶えず、自分の立ち位置の自己矛盾に悩む日が増えたものだった。このあたりはすでに老人の繰り言に過ぎないが。

そのような悩みに向き合う前、ビジネスコンピュータ部門で苦楽を共にした”いっぱち”の18人や、その後東京支社で ”東部には負けるな” と(今回、元気でいれば当然招かれていただろう片岡嗣雄、あのふくれ面が無性に懐かしい)疲れを知らぬ活躍をみせてくれた ”動物園” 世代の底力に助けられたのがぼくの営業時代だった。その懐かしい面々の還暦顔をまぶしく見た、楽しい時間だった。

”yhp82” スタッフのご厚情に改めて感謝する。

 

 

6月 月いち高尾 報告 (39 堀川義夫 36 後藤三郎)

2019年の5月13日(月)は久しぶりに従来の方法で高尾を楽しむことにしていました。事前に出席希望者は申し込んでいただきましたが、当日集まったメンバーでコースを分けてそれぞれワンデリングを楽しむことにしていました。ところが、2日前まで参加予定者は22名となっていましたが、2日間の間にあっという間に5名がいろいろな都合でキャンセルになり、当日西澤さんが予告なしで参加になり都合当日の参加は18名となりました。かく言う私自身も家内の思わぬ体調不良で参加できなくなった次第です。従いまして、今月の報告は岡沢さんをリーダーにお願いし、皆さんからの行動記録や写真を編集したものです。悪しからずご了承ください。(岡沢さん、後藤三郎さんの行動記録に一部加筆、訂正をさせていただいています。ご了承ください)

 

日時  2019年5月13日(月)

参加者 楽々コース 船曳、平松 2名

びわ滝コース 吉牟田、後藤、相川、福谷、関谷、蔦谷、岡沢 7名

稲荷山コース 遠藤、翠川、深谷、小泉、椎名、町井、多田、西沢,三嶋

9名 合計18名  てんぐ参加者は 15名でした。

 

  • 楽々コースの2名は、リフト利用でのんびりとエスコートなしで行っていただきました。
  • 琵琶滝コースは リーダー岡沢で初めて参加の福谷さん(小林章悟さんの妹)を含め7名で沢沿いを行きました。琵琶滝神社にも寄り、大山橋で小休止(11時)をして沢の中の石を渡り、最後の急な階段を15分登ると山頂に付きました。山頂は遠足の小学生で占められていました。細田小屋に11時55分に着きましたが、細田小屋は休業しているというまさかの事態でした。楽々コースの平松さんと船曳さんはもみじ台のベンチで待っておられました。稲荷山コースは三嶋さんがリーダーで山頂への急階段は避けてう回路を利用して12時過ぎに到着。下りは12時40分に発で逆沢林道(郵便道)を誰も会わずに25分で日影林道に到着し、カキパーティの会場となったキャンプ場で小休止して時間調整して14時13分のバスで高尾北口へ到着しました。

てんぐ飯店は14時45分から開始して16時45分には恒例の集合写真を撮り、解散しました(岡沢記)

  • 好天に恵まれ予定通りに高尾山口駅に集合し、10時少し過ぎから稲荷山経由、琵琶滝経由、リフト利用での三班に分かれて新緑のまぶしい登山路を歩きました(総勢18名)。頂上には小学生の団体などが大勢がおりましたので休む間もなく細田小屋に向かいました。残念ながら今日は小屋はクローズでしたので、いつもの”なめこの味噌汁”などなしで小屋の前のベンチで昼食をとりました。記念の集合写真の後、12:50分には下山開始し小屋の横の作業路を一気に降りましたので13:30分過ぎには裏高尾キャンプ地まで来てしまいました。ゆっくり休憩をとり14:13分のバス(超満員)で一路高尾駅に直行、15:00時前には天狗の客として飲み始めました。これまでの高尾山の山行では最も早い時間に天狗に到着したようです。岡沢リーダーの適切で確りした指揮により全員無事に春の高尾を楽しみました。帰路皆様からの提案を頂戴し途中下車して天狗の料理の一部を急に来れなくなった中司ご夫妻に届けましたので併せてご報告いたします。私の写真を添付しますのでご覧ください。(後藤三郎記)

 

 

細田小屋にて

 

(福谷)私の方は皆様にご親切にして頂き、新緑の中気持ち良く歩く事が出来ました。普段の運動不足のため、筋肉痛のおみやげがありました。又宜しくお願い致します。

(深谷)膝を痛めて暫らく遠ざかっていた月いち高尾に久方ぶりの参加でしたが、お蔭様で無事に完走でき、復活を実感できました。ありがとうございました。

 

リバタリアニズムと米国テクノロジー エリート起業家達との関係 (日本HP OB 五十嵐恵美)

(五十嵐さんは編集子横河(日本)HP勤務時の同僚。同社退社後カリフォルニアに移り、現地企業で日米企業間の交流に尽力してきた。現在はシリコンバレーの中核の一つ、メンロパークに居住)

4月20日付でご投稿のあった「リバタリアニズム」に関して、エディターより “カリフォルニアあたりではこの動きがどのように受け取れられているか、何かご存知でしたらご投稿いただければ嬉しいです。トランプのことも日本では結構まじめに考えている人もいるので、そちらの受け止め方がとても興味があるところです” とのメールを頂いた。残念ながら、リバタリアニズムはあまりシリコンバレーで頻繁に(少なくとも筆者の周りでは)ディスカッションされている話題ではないし、渡辺靖氏著の「リバタリアニズム:アメリカを揺るがす自由至上主義」を購読していないのでもしかしたらポイントがずれているかもしれないが「リバタリアニズムと米国テクノロジー エリート起業家達との関係」に焦点を絞って私見をまとめてみた。

2017年9月にスタンフォード大学のDavid E. Broockman教授、同大学Neil Malhotra教授、ジャーナリストGregory Ferenstein氏によって “Wealthy Elites’ Policy Preferences and Economic Inequality:  The Case of Technology Entrepreneurs” https://www.gsb.stanford.edu/gsb-cmis/gsb-cmis-download-auth/441556 と題する論文が発表された。論文は全米のテクノロジー関係の起業家および最高責任者約600名(うち三分の一はアップル、フェイスブック、グーグルを含む、シリコンバレーの起業家、最高責任者たち)を対象に行ったアンケートの結果で、簡単に言うと、米国のテクノロジー エリート達は(予想に反して)民主党が掲げる社会福祉をサポートし、ビジネスを中心に動くプラグマティズムをモットーとする集団で、恐らくリバタリアンではないという結論である。彼らは民主党、共和党、またリバタリアンの思想、路線ではないミックスされた考えを持ち、アンケートの結果として、

  1. 24%がリバタリアンと自称
  2. 62%が政府のビジネス介入には反対、社会福祉のプログラムをサポートするためにより高い税金を払う富の再分配には賛成(下記テーブル)

全米のテクノロジー エリートは富の再分配には賛成、政府のビジネスに対する規制には反対

ワシントンD.C.に本部を置くシンクタンクのケイトー研究所/財団が2018年に(2017年のデータをもとにして)全米でリバタリアンとして登録されている党員の上位10州を発表した(2017年7月時点でのリバタリアン党員数は51万、ちなみに民主党員数は4470万、共和党員数は3280万)。

  1. モンタナ
  2. ニューハンプシャー
  3. アラスカ
  4. ニューメキシコ
  5. アイダホ
  6. ネバダ
  7. テキサス
  8. ワシントン
  9. オレゴン
  10. アリゾナ

(ケイトー研究所はリバタリアニズムの立場から「伝統的なアメリカの原理としての、小さな政府、個人の自由、市場経済、平和などの拡大のための議論を深める」ことを使命として掲げるシンクタンク)

全米で総合的に最も自由で規制のない上位5州は(ケイトー研究所による)

  1. フロリダ
  2. ニューハンプシャー
  3. インディアナ
  4. コロラド
  5. ネバダ

全米で総合的に最も規制の厳しい上位5州は(ケイトー研究所による)

  1. ニューヨーク
  2. ハワイ
  3. カリフォルニア
  4. ニュージャージー
  5. ベルモント

シリコンバレーに戻って考えてみると、昔からシリコンバレーのエリートたちは、ポリティカルな集団ではなく、一般的に極端なプラグマティズム(実用本位)をモットーとするビジネス中心の集団である。アップルのスティーブン ジョッブス、フェイスブックのマーク ザッカーバーグに代表される、ティー シャツにジーンズのエリートたちの見かけは彼らの前任者たちとは違うように見えるが、内容は昔ながらのシリコンバレーのエリートたちとビジネスの成功への努力と執着、個人または会社の富を社会に還元する姿勢に関してはあまり変わらない。彼らが育った時代が60年、70年台以降だとすると、女性、マイノリティーの社会への進出、シリコンバレーの無国籍化および国際化、IPO (新規公開株)に関連した富、成功に関するより強い執着、等々、外国人が進出したことも含め、シリコンバレーのアイデンティティー、社会的価値観は大きく変化している。ただし、恐らく、彼らの仕事への執着、成功への執着、そして同時に個人の富を社会へ還元する信条は不変であると思う。

リバタリアンの政治理論は諸々のイシュー(社会、政治問題)によって細かく定義されている。例えば、プロチョイス(人工妊娠中絶賛成)、自殺容認、移民賛成、セクシュアル・マイノリティ(性的少数者)容認、銃砲取り締まり反対、薬物使用取締反対、政府の福祉プログラム排除、年金制度の民営化、等々、総合すると党の基本的な政策は、

  1. 個人的自由の擁護
  2. 拡大国家に対する批判(軍備増強に反対)
  3. 市場優位(市場の重視)

シリコンバレーのエリートたちは民主党支持が主流で、民主党が支持する労働組合には反対だが、諸々の社会福祉のプログラムには賛成で、基本的に、ここがリバタリアンの掲げる政府の福祉プログラムを全て排除する思想と大きく違うところだ。

2020年の大統領選挙戦の予測は時期尚早ではあるが、現在の時点で、景気が続けばトランプ大統領の再選も現実的であるし、21名の民主党立候補者の中で、バイデン元副大統領の可能性もある。日本でも当てはまると思うが、米国の政治は政治献金、圧力団体のロビーが多大な勢力を振るう。全米で総合的に最も政府の規制の厳しいニューヨーク州(#1)、カリフォルニア州(#3)の政治献金、ロビーの国政に対する多大な影響力が今後も続くと仮定すると、リバタリアンが現時点で米国の政治の中心となる可能性は少さいのではないか。

ますます国際ビジネスの競争、国際政治の主義主張の違いで争いが高まる中、米国の政治の現実はリバタリアンの「個人的自由の擁護」を第一とする理想主義、あるいは主義主張に妥協のない純粋な政治思想からはかけ離れているように見える。米国流に考えると、米国で自由(リバティー)を獲得するためには純粋な政治思想の”信者”にならなくとも、現実的に入手可能なリバティーは得られるのではないであろうか。

令和元年 初のタウンウオーク

初夏のタウンウオーク、目白界隈の緑の街中を歩いた。今回のホストは地元、アンテコこと安東静雄夫妻。我が家の庭のように知り尽くした街をゆっくり案内してもらい、一同大満足。目白駅で解散後、寛永年間創業という名代の和菓子店で疲れをいやし(いなかった新弥と吉牟田はたぶん昼酒)て解散。

(翠川) リーダーのアンテコ以下ご参加の皆様お疲れ様でした。
カテドラル関口教会から始まり、芭蕉庵、肥後細川庭園、椿山荘庭園通過、鳩山会館を巡り、目白に戻って学習院大学構内の「日比谷松本楼」での昼食、その後の乃木将軍の墓地(学習院の院長を3年務めた由)参拝を含む構内の散策と、アンテコの企画と案内のお蔭で素晴らしい時間を楽しませて頂きました。ありがとうございました。輝かしい明治時代を想像させて頂きました。

カテドラル関口教会でと、学習院構内で女子学生に撮って貰った写真を添付します。

(吉牟田)
昨日は天候にも恵まれ楽しいプランでした。
小生 カテドラル教会 細川庭園 他 ご案内頂いた場所は椿山荘以外 全て初めての場所でした。
80年以上東京で生活しながら意外に知らない場所が多い事に最近になり分かる一方、段々体力が落ちて来て月一高尾山もきつくなり始めていて、良い散歩になりました。事前調査やら 昼食場所の予約や会計など大変だっただろうと思います。大変有難うございました。 奥様にも御礼もうしあげます。

学習院大学構内。だいぶ来ないうちにすっかり変わっていた。

 

 

緊急! WANTED ! 

先の東日本大震災支援プランの ”その後の東北” を尋ねる企画が発表されたが、まだ予定人数には大分余裕があるとのことで、参加者を募集している。内容はすでにメールがとどいているはずだが、概要を再掲する。

KWV総力挙げてボランティア活動した多賀城、石巻牡鹿2か所は順調に復興を続けていますが、多賀城の現況を視察見学し、ホヤ漁用の土俵作りをした前網浜の漁師さん達を激励訪問したいと1泊2日のプランを企画致しました。「ホヤ漁が再開したら食べに来てください。」の約束を実現させましょう。ボランティア活動した有志の皆様や、震災当時のボラ活には参加出来なかった方も、是非奮ってご参加下さい。
尚、プラン最終日にはボランティア活動での物心両面からの絶大なる支援、又KWVの為長きに亘り心強いご尽力を頂きました亀井昭伍先輩(S27)と共に仙台で打上げ会を開催予定です。

日程: 2019年6月8日(土)~9日(日) 1泊2日

宿泊:牡鹿・小渕浜  割烹民宿「めぐろ」
行程:・6/8(土) 集合:仙台駅2F中央口改札前・各自10:20迄 ⇒
仙台東口バス駐車場発:10:30
東京⇒仙台 東京発「やまびこ」7:32/7:44/8:08のどれかで現地へ各自集合。

<貸切バスで移動>仙台-多賀城視察-牡鹿・前網浜訪問-民宿「めぐろ」。
多賀城下車見学(昼食)、牡鹿・前網浜漁業生産組合11名の皆様と激励歓談会を開催予定。6/9(日) 民宿「めぐろ」-鮎川浜視察-仙台-打上げ会/亀井先輩-解散・各自帰京。

前網浜の現況は、鈴木信男組合長を中心に総勢11名で新たに取り組んだ「定置網漁」と「ホヤ漁」で頑張っています。海も浜も整備され、祭等の伝統文化も再開。共に作業した牡蠣殻でのホヤ漁土俵作り、その土俵から採り立ての新鮮なホヤを肴に酒酌み交わし再会と復興を喜び、楽しい激励・歓談会を前網浜で催したいという計画です。

参加申込書先                *申込期日:4月30日(火)
卒年: 氏名: 連絡先:アドレス&携帯Or電話をS46石渡美知江までご連絡下さい。(  michie@q07.itscom.net / 090-7400-8761 (SMS可)

実行委員長:河合國尚(S40)  Sub.兼総合企画担当:田中 透(S41)
実行委員:石渡美知江(S46) 関谷 誠(S47) 伊川 望(S47) アドバイザー:菅谷國雄
(S37)

 

令和元年 憲法記念日 八ヶ岳南麓

小淵沢拙宅の山桜

父親が大事にしていた掛け軸の一本を覚えている。

駒とめて 暫しは我を忘れけり 朝日に薫る 山桜花

誰の作品だか覚えていないが、明治の元勲のだれかである。まさに 坂の上の雲の時代、といっていい香りがする。

令和の最初の憲法記念日、快晴、無風。釜無川左岸にひろがる農地は平和そのもの、日本の原風景のなかにたゆたっていた。

 

平成最後の夜に

2019年4月30日の夜をまだうすら寒い(昨夜はストーブを焚かなければだめだった)小淵沢ですごすことになった。今日も小雨で新緑は窓から眺めるだけだったが、そのため、昼間から(ジャイアンツの連敗を含めてだが)テレビを見るという小生にはめったにない一日で、ご退位に関する番組を堪能することになった。天皇家の系譜の話とか、神話にまでさかのぼる事柄とか、各地での今回のご退位という歴史的事実に対する反応とかをつぶさに見て、改めて感ずることが多かった。

まず第一、平成という30年。天皇は政治には関係されない立場だから、我々の知る明治から昭和20年までの史実と比較することはできないが、結果、この30年、世界中で不穏な空気が漂い、各國で数多くの人が(理由はともかく)非業の死に直面した間、戦争という国家的事件の結果亡くなった日本人は僕の知る限りではイラク(だったかな)で事件に巻きこまれた外交官の方をのぞけばいないはずだ。少し前に自衛隊幹部の人がPKOで派遣した自衛隊員の事情をつぶさに語っていたのをテレビ番組で見て、これがほかの国々の軍幹部だったらどのように対応しただろうかと思ったことがある。政治、経済、社会問題、そのほか、日本にも数多くの倫理に欠ける行動や世界観の欠如や、言い出せばきりがない問題課題が山積している。しかし何をおいても、結果として国民を戦争で失うことなく、おそらく世界一安全で清潔な国が30年の間存在したという歴史的事実には変わりはない。僕はかたく信じているのだが、僕らみんなが姿を消した後、後世の歴史家は間違いなく、昭和後半から平成30年の間の日本は最高の時間を持った、と評価するにちがいない。それを実現したのが ”アメリカ追随政治” だろうが ”無定見政府” だろうが (こればかりはとても起きそうにないが)”幸福実現党”だろうが、何でもいい。評価されるべき結果は大多数の国民が肯定し、慈しみ、無意味に異国で命を落とすことがなかった時代だった、ということに変わりはない。世界の民主主義の理想とされているアテネだって経済を支えていたのは奴隷であり、アメリカ人が無条件に崇拝する ”建国の父”たちだって同じことだったのだ。

第二は、番組で紹介された、日本全国で、国民がこの30年という時間を、天皇の在位とともに本当にいつくしんできた(いる)という事実である。繰り返すがこの間、天皇が政治に責任を持たれたわけではない。しかしみんなが”平成”という時間の経過を天皇という存在の中に意義付けていること、それこそが、”国民の象徴でありたい” と努力された天皇の業だったのではないだろうか。そしてその国民が生き方の基本としている基盤はやはり”和”ということにつきるのではないだろうか。そう考えれば、”令和” という年号はどうやって決まったのかは知らないが、全国民が ”和” を尊ぶ、という伝統をあらわしていると思う。

グローバリゼーション、という一種の魔術のもとで、個人の能力、個人の存在、といった価値が何よりも大事であり、そのためには日本人が変わらなければならない、ということが叫ばれて久しい。僕自身、このような主張に反対するわけではない。しかし企業という場ではあるけれども グローバリゼーションなるものの光と影とにいち早く直面した経験からいえば、日本あるいは日本人が守り続けてきて、今後も守り続けなければならない価値、それが ”和” だ、ということを改めて感じたことだった。

(この拙文を ”アップ” するのは令和元年5月1日零時、ということにする。残念ながら明日甲斐の国の空は雨、”元日に霊峰富士を見る”という目論見は実現しないようだが。)