エーガ愛好会  (64)  無頼の群

名前だけは知っていたが今まで見ることなく来てしまった作品である。西部劇映画というものはもちろん範囲が実に広い。勧善懲悪、ガンプレイ、大西部の自然、フロンティアスピリット、などといったものを真っ正直に取り上げたいわば正統的作品と、場所と時間をアメリカ西部にもとめた野放図な活劇としてマカロニウエスタンがあり、その間にたとえば先住民族問題とか自然破壊へのプロテストとかいろいろな現代の視点から見たことをテーマにした作品がある。そういう目で見てみると、グレゴリー・ペックの出演作には 大いなる西部 に代表される正統的作品もあるが、ひとひねりしたものが結構ある。例えば 勇者のみ なんていうのは西部劇としてよりも心理劇みたいな要素が多かったし、この 無頼の群 もわかりにくい作品だった。

クレジットタイトルに リー・ヴァン・クリーフ とか ヘンリー・シルヴァ なんて名前が出てくればこれで敵役がだれかはわかってしまうし、導入部のセリフからもペックが復讐のために人探しをしていることは明らかだった。だが見ていくうちにどうも腑に落ちないことが次々に出てきた。まず、4人を脱獄させた男とこの4人とはどういう関係だったのかがわからない。追い詰めていって対決していく3人のペックの質問に対する答えがどうも嘘だとは思いにくいし、最後のどんでん返しで金を盗んだのが隣人だったことがわかるのだが、ペックに4人組のことを教えたのはこの人物しかなさそうだ。もしそうだとしたら、小屋へ彼らが現れたときにお互い、顔はわかるはずなのに全く知らなかったのはなぜだ。ペックの大金を奪ったこの男は大金を手にしたのになぜこの小屋で貧乏暮らしを続けているのかも不思議だ。

この映画の邦題の 無頼 というタイトルから、当然の成り行きとして4人の悪漢と正義の闘いだろうと思い込んでしまうのだが、原題の Bravados という単語には 威張りたがり、とか、向こう見ずとか、空威張り、などという意味はあるが、善悪の分別は入っていないはずだ。4人が悪者であることは当然なのだが、なぜ このようなタイトルがついているのだろうか。もしかすると結局は自分の思い込み(うその情報だったことは確かだが)によって間違った人間を殺してしまった、いわば独りよがりにすぎなかった行為のことを指しているのだろうか。そうならば対象はペックのことになるのだろうが、Bravados と複数形なのはなぜか。プロフェッサー小泉の解説によれば、”実情を知らない町民たちの歓呼の声も聞こえないようにして……苦い顔で去っていく” というあたりが答えなのかもしれない。どうもここのところ、暇に任せてミステリに没頭しているせいか、妙な後味が残った作品だった。例によってウイキペディアによれば、ペックの出演作品56本のうち、この映画は12位にランクされている(第1位は ご存じ ローマの休日、大いなる西部 は6位、拳銃王 が11位 なのでペック西部劇ではトップ3に入る、ということになる)。

(34 小泉)
「地獄への道1939」「拳銃王1950」のヘンリー・キング監督、グレゴリー・ペック主演の西部劇。都会的な知性と明晰なる頭脳を持つスターであるペックだが、出演56作品中11作品が西部劇というのも意外だ。しかも次週からBSチャネルで始まる「拳銃王1950」が早射ちジョン・リンゴに扮し、心の休まらないガンマンの悲哀を演じたり、「新ガンヒルの決闘1971」では幼い女の子とロード・ムービーをしながら、裏切って金を独り占めした相棒を殺したい執念の男を演じているように、「大いなる西部1958」での東部からやって来た紳士役を別として、西部劇では、紳士ならぬ執念に取り付かれた男を演じてきた。この映画でも、4人の無頼漢に妻を殺された男が復讐のために、一人ずつを追い詰め、いつしか残忍な男になった主人公を演じ切っている。

相手をする俳優が夫々名の売れた男女優で、昔馴染みで、妻との子供を通し、愛が復活する大作「ピラミッド1955」のジョーン・コリンズ。4人の無頼漢で、最初に殺されるのが、「真昼の決闘1952」やその後マカロニウエスタンの主役にまで上り詰めた若きリー・ヴァン・クリーフ、手を合わせ命乞いするのを構わず射殺する。2番目は、TVドラマ西部劇作品等で活躍したアルバート・サルミ、ロープで捕まえ木に逆さに吊るす。3人目は、翌年製作のあの「ベン・ハー1959」の敵役スティーブン・ボイドで、メキシコまで追いかけ、酒場で射ち殺す。4人目は、ハードボイルやマカロニウエスタン出演の多かったインディアン役のヘンリー・シルヴァ、メキシコの自宅で妻と子供と再会したところで、ペックがその妻から壺で頭を叩かれた後、真実が明かされ、これはネタバレになってしまうが、事実は、友人だったジーン・エヴァンス扮するバトラーが犯人で、スティーブン・ボイドに殺されていたことが判る。結果的には、復讐したくても出来なかったのだ。

ある町で、4人組が逮捕され処刑されることを知ったペックが、160キロの道程をやって来るところから始まる。4人組のもう一人の仲間が処刑人に成り代わって脱獄に成功、町の人に協力する形で、ペックが追跡することになるのだ。ペックの葛藤がストレートに伝わって来るし、最後のどんでん返し迄が、じわじわと浸み込んで来る。4人の無頼漢を殺すことに執念を燃やしてきた結果、3人までを人違いで殺してしまったことが誤りであったことを知ったペックの心境、相手は法的には死刑に値するとても人違いなのだ。教会で懺悔するものの、実情を知らない町民たちの歓呼の声も聞こえないようにして、ジョーンと子供を連れペックは苦い顔で去って行く。

(44 安田)

小泉さん、いつもながらの名解説とご感想に感心いたしております。観た映画の印象と輪郭がはっきりとして、映画を反芻して楽しませて頂きました。同時代の映画と出演俳優の付帯説明も大変貴重でとても価値ある情報です。

妻が殺され自宅から盗まれた金塊入りの袋が、良い隣人だと思っていたバトラーが所有していたことが判明し、お門違いの犯人探しになってしまう筋書きがこの映画の味噌でした。共演した女優ジョーン・コリンズは英国出身だけあって、ブルーネットの髪で、ジーン・シモンズ、エリザベス・テーラーを少し彷彿とさせました。「ベン・ハー」での戦車競走が忘れがたいチャールトン・ヘストンの適役の俳優スティーブン・ボイド、鋭い眼光に鷲鼻が特徴のリー・ヴァン・クリーフが印象的でした。

ワクチン接種体験談です   (普通部OB 船津於菟彦)

2021-5-10月曜日 新型コロナウィルス・ワクチン接種の一回目完了。墨田区では4月に案内の手紙は来ていて5月1日8時30分から受付開始しました。

開始時はやや繋がりにくかったですが11時頃アクセスできて予約完了。少し前でも出来たのですが、一応10日の日を予約しました。電話よりWebの方が早そうです。

区役所の一階ホールを使い、スムースに接種していました。14時半の受付に対して、少し前に受付順の札を配り、先ず受付。そして6名の列で待っていると、そのグループごとに隣室へ誘導して、先ず熱を計り、問診票に記入して予診確認・予診-女医さんが特にないですか?-直ぐ終わり、次の接種-やや年配の男の先生がぷっと接種-そんなに痛くないですが、その後接種したところはやや痛い-済証発行-後15分程度-別室で座って状態観察-何分の方終わりですと合図在り。総て修了。当初待つのみで後はスムース。5〜6分程度手修了か。墨田区の場合は3週間後の同じ時間が予約されている。二回目は31日月曜日14時半。

現在、やや熱っぽい。解熱剤を飲むほどでは今のところ無い。これは1/2位の人がそうなり、直ぐ治るとのこと。接種したところはやや痛い。男性より女性が二回目にやや重くなるとか。さてさて。

エーガ愛好会 (63) ニューシネマパラダイス (44 安田耕太郎)

ストーリーの時代は第二次世界大戦直後(多分1940年代後半)から、この映画が制作された80年代後半の40年間くらいの期間に亘っている。舞台は貧しいイタリア・シシリア島の架空の「ジャンカルド村」。パレルモから南へ50キロ離れた内陸の僻地パラッツオ・アドリアーノ村で撮影された。この村から西へ15キロ離れた所に映画「ゴッドファーザー」のマフィアの故郷コルネオーネ村がある。映画に登場する村の広場の映画館は撮影用に建造されたという。今でも、村には世界中から「ニュー・シネマ・パラダイス」を感じたくで観光客が訪れるという。

中年を迎えた映画の都ローマで活躍する映画監督が、映画に魅せられた少年時代の出来事と青年時代の恋愛を回想する物語。純粋無垢で映画に一途な少年サルバトーレ(愛称トト)と村で唯一の娯楽である映画館の映写技師アルフレードとの素朴で温かい交流が描かれる。感傷と郷愁、映画への愛情が描かれている作品。
主人公サルバトーレの愛称の「トト」は、イタリアの喜劇王「トト」に由来するという。作中に数十本の映画の場面が細切れで登場するが彼の出演映画も上映されている。

映画を賛美する映画に相応しく、映画中に以下の映画(貼付ファイル)が、ポスターを含め短く上映される(ウイキぺディアより)。映画の冒頭に、ジャン・ギャバン主演の「どん底」のキスシーンが上演され、お堅いカトリック教徒の村人の観客はドギマギする。観客の一人である神父が鐘を鳴らして、彼の判断による“映倫” に触れる画像はカットするように映写技師に合図する。トト少年はじめ観客は地団駄を踏む。男女の絡みシーンが観客のお目当てなのに。当時のイタリア・シシリア地方の倫理観が忍ばれて面白い。また、かっこいい「駅馬車」のジョン・ウエインなどにも村人は見惚れる。さらに、「カサブランカ」「風と共に去りぬ」、「戦場よさらば」(若きゲーリー・クーパー登場)、「素晴らしき哉、人生!」、ブリジット・バルドーの「素直な悪女」、リタ・ヘイワースとタイロン・パワーの「血と砂」など名作揃いの映画の映像が短く細切れで上映されて、大変懐かしい。大半は知らない映画であるが、知っている人にとっては堪らないであろう。

ある晩、映写中にフィルムの発火事故で映画館は全焼。トトの必死の救助でアルフレードは一命を取り留めたものの、火傷で視力を失った。トトは新しく立て直された映画館「新パラダイス座 (Nuevo Cinema Padadiso) – 映画の題名」で子供ながら映写技師として働き、父親のいない家計を支えるようになった。
サルバトーレ青年は、映写技師の仕事のみならずムービーカメラを手に入れ映画を撮影するようになる。アルフレードの強い勧めもあり、映画で生きることを決意してローマに旅立つ。アルフレードは30年間は故郷に戻ることなく映画の仕事に専念するよう諭す。二人の関係は父子のようだ。

映画監督として大成したサルバトーレの許へシシリアの母親から電話がかかって来たが、彼は留守でパートナーの女性が伝言を受け取る。「アルフレードが亡くなった。葬式は明日」と知らされる。彼は30年振りに故郷へ帰る。葬式に出席した後、映画館は6年前に閉館されたことを知らされる。テレビとビデオに押されて客が来なくなったのだ。更に、映画館が壊される現場にも昔の知り合いたちと立ち会う。
母親は言う、「ローマに電話するたびに違う女性が応答するが、誰一人としてトトと一生寄り添う感じがしない女性ばかりだ。相性の合う価値ある女性が現れて家庭を築いてくれれば良かったのだが」。トトは青年時代好きだったガールフレンドのことが忘れられなくて、結婚せずに、映画に没頭したのだろうか。

映画の最初と最後に出てくる、カットされたキスシーンのフィルムを繋げて主人公の監督がたった1人で見ているシーンが良かった。昔、神父が検閲のためカットされたキスシーンをアルフレードが集めて、トトのために一本のフィルムにして、彼の形見としてトトに渡すようにしていたのだ。トトはそのフィルムを観ながら涙し、映画は終わる。

少年「トト」は小学5年生と劇中で言われる。喜怒哀楽を見事に表現した演技には感心した。映画「ライフ・イズ・ビューティフル」の子役と双璧だ。主人公の若い頃のガールフレンド(アニェーゼ・ナーノ演じる)は青い眼でイタリア人らしくなく(ソフィア・ローレンやジーナ・ロロブリジータなどの妖艶なイタリア女性と異なり)、繊細で可愛かった。完全版の長いヴァージョンは主人公が故郷に帰って来た時、そのガールフレンドと再会する筋書きになっているそうだ。30年後の彼女の役はフランス女優ブリジット・フォッセーが演じた。彼女は映画「禁じられた遊び」の主人公の女の子として有名。こちらの完全版の結末も観てみたい。ラスト・シーンで主人公が一人でフィルムを見る時の映写技師は監督のジュゼッペ・トルナトーレ本人のカメオ出演だった。

最後に、全編にわたりエンニオ・モリコーネの極上のテーマ音楽がストリー展開にも見事に合って心に染み渡り、面白い映画を更に価値のあるものにしている。「Viva, Italia!」と言いたくなる秀作だ。

(菅井)この映画にはインターナショナル版(劇場版)とディレクターズ・カット版(完全版)の2種類が存在します。劇場版は完全版からかなり大胆なカットがなされており、見終わった印象はかなり異なります。BSプレミアムで放映されのは劇場版です。

(保屋野)「ニュー・シネマ・パラダイス」初めて観ました。モリコーネ音楽含め、久しぶりに堪能しました。安田兄、情報ありがとうございます。「完全版」・・ネットにその後の「あらすじ」が書いてありました。私も、エレナのことが気になっていたので、納得・・・

まさに、シナリオ、俳優、音楽の3拍子揃った映画ですね。また、見終えて「余韻」が残りました・・・良い映画の証拠だと思います。

ちなみに、この映画は、やはりイタリアの名画「鉄道員」に何となく似ています。ニナ・ロータの素晴らしい音楽と可愛い子役。そして、鉄道員の「父親と息子の愛」に対して、「子供と映画館の映写技師との愛」・・・イタリア映画の真骨頂でしょうか。

(参考)エンニオ・モリコーネ(Ennio Morricone1928年11月10日[1] – 2020年7月6日)は、イタリア作曲家である。映画音楽で特に知られる。

ローマで生まれ、ローマのサンタ・チェチーリア音楽院[2]ゴッフレド・ペトラッシに作曲技法を学んだ後、作曲家としてテレビ・ラジオ等の音楽を担当した[1][3][4]。1950年代末から映画音楽の作曲、編曲、楽曲指揮をしている。映画音楽家デビューは1960年の『歌え!太陽』(Appuntamento a Ischia)だと言われていたが、オリジナルのスコアを使用した映画は1961年のルチアーノ・サルチェ監督の『ファシスト』(Il Federale)であり[1]、こちらがデビュー作だと言われるようになっている。同年『太陽の下の18歳』で注目を浴びた。

1960年代半ばから70年代前半にかけては、『荒野の用心棒』『夕陽のガンマン』『続夕陽のガンマン」[5]などの「マカロニ・ウェスタン」映画のテーマでモリコーネの名声は高まった。他にも『シシリアン』[6]、ジョーン・バエズが歌った「勝利への讃歌」[7]なども好評だった。マカロニ・ウエスタンでは、セルジオ・レオーネ監督との名コンビでも知られた。

 

それぞれタウンウオーク (5)  品川通り散策

我々が現在住んでいる つつじが丘 という地域は調布市の東端に位置し、三鷹市及び世田谷区と隣接している。この駅名は京王電鉄が 金子 という名だったのをこの付近に建設された住宅地の呼称に合わせて変更したもので、旧地域の金子は鎌倉時代に現在調布市西側にあたる狛江と同様、武蔵国を構成していた武家集団の本拠であったということである。現在の調布市の人口は約22万人、市内には隣接する府中のように大型企業や運動施設などはなく、住環境に富んだベッドタウン、と位置付けられている。

市のHPによればこの地域は旧石器時代から人が住んでいたとされ、市内には古墳も結構あるらしい。江戸時代には中山道沿いに布田五宿と呼ばれた集落があり、平安時代にさかのぼる古刹深大寺とともに知られた地域だったが、隣接する現在の府中市にある大國魂神社の祭礼などに使われる材木を奥多摩の山で伐採し、多摩川を下って運ぶようになり、商域の拡大に伴って川沿いに現在の六郷あたりを経由し、品川の港湾までの道が開かれた。その道が品川道、と呼ばれたということで、現在の甲州街道(国道20号)の南側をほぼ並行して走る道が品川通、と呼ばれている。調布に住むようになってすぐこの地名を知り、なんで品川?という程度の疑問はあったが、甲州街道の混雑時にはバイパスとしてよく使ってきた。その後の時代の変化や土地開発などのために事実上その東端が京王線つつじが丘駅から200メートルくらいのところで事実上終わっていて、西は調布駅の南側くらいまで意識されているがそれより先はこの名称は通用しないようだ。今までなんということなく使ってきた道だが、改めて意識をもって歩いてみた。

京王線の駅で言えばわが つつじヶ丘 のとなりの駅が柴崎、その次が国領、ということになるが、この間を野川が流れている。市内はその東を限る多摩川のほか仙川、入間川、根川、府中用水と5本の河川があるということだが、根川、府中用水は短いし暗渠化が進んでいて実際に見たことはない。歩き始めて間もなく、野川をわたる。この川は暗渠も少なく、昔通りなのだろうと思われるルートをのんびりと流れていて、わがパートナーご愛用の散歩ルートである。今日は春の一日、緑燃えて心和む雰囲気であった。

ここに架かる大町橋を渡り調布警察署の裏を通ると国領の地内である。現在の品川通にそって、江戸時代に通っていたルートが旧品川道、として示されている。このあたり、古い文化圏であっただけに、かつては地域の信仰の対象であった史跡が多い。中でも椿地蔵が有名なのは知っていたが、今度はそのわきにある樹の由来を知ることになった。そのほか、小生愛読おくあたわざる 燃えよ剣 に出てくる、多摩出身の新撰組隊士ゆかりの文物も多い。

しかし今度改めて感じたのは並行する甲州街道がこのあたりはビジネスオンリーの雰囲気なのに対し、こちらにマンションとかレストランとか開業医とかが多いことで、住宅地域であることがよくわかるし、街路樹もまとまっている。最近できたらしいイタリアンビストロは昔ながらの建物を苦労して使っていて、その上にイタリア風を演出するつもりの工夫がよくわかる。

布田駅の南を抜けてから右折北上して調布駅前の広場に出る。数年前、京王線の地下化が完成して、市の触れ込みでは緑あふれる公園地帯になるはずだが、例の通りその計画は遅々としていて、当面はどうやらワクチン接種会場になるようだ。

地蔵さんの隣にある樹だが珍しいものらしい

 

港北区の花:ハナミズキ    (34 小泉幾多郎)

横浜市港北区の木である花水木の写真をご覧ください。港北区の花、港北区の木の制定は、どうやら平成3年のことらしい。先日歩いた近くの鶴見川畔に面した太尾公園に咲く赤と白の花水木です。

早くも4月は終わりに近づき、梅、桜も消えればゴールデンウイーク。年月だけは、いち早く過ぎ去るのに、コロナ禍の方は、いつまでも停滞し過ぎ去る気配なしとは、年寄りには辛いこと。

(参考)ハナミズキ

ハナミズキ(花水木、学名:Cornus florida)は、ミズキ科ミズキ属ヤマボウシ亜属の落葉高木。別名、アメリカヤマボウシ。ハナミズキの名は、ミズキの仲間でが目立つことに由来する。また、アメリカヤマボウシの名は、アメリカ原産で日本の近縁種のヤマボウシに似ていることから。

 

 

”明治維新はなかった”?

”明治維新はなかった“ という主題で書かれている原田伊織氏の一連の書作を通読した。わざわざ通読、とことわったわけは、この本に書かれている事柄やその解釈は歴史研究家としては当然のこととしてもわれわれ素人には研究資料をうんぬんするなどは不可能だから、あ、そうだったのかい、と言いながら読み飛ばす以外に方法がないからである。

読み方の是非はさておき、このシリーズを通じての著者の論点は、今までの日本史の教科書が一様に救国の美挙、としてきた 明治維新 というものにまつわるエピソードや文献解釈の多くが、実は薩摩長州の下級武士が企て実行した江戸幕府倒壊のためのプロセスを美化し、失敗や復讐まがいの行動を正当化するものにすぎなかった、ということであり、”維新”という美名に大きな疑問をつきつけることである。その点で、本書は明快に司馬遼太郎の小説, 特に 坂の上の雲 を、同書があくまで小説であり史書ではないと承知の上で明快に意識し、いわゆる司馬史観に挑戦している。自ら “リョータリアン”  を名乗っている小生にはその点からも興味深く面白い本であった。

この政変の要因が当時我が国を取り囲んでいた帝国主義列強に対する幕府の無能さに対するやむを得ざる行動であった、とする論に対しては、原田は逆に外国の史家による日本研究の資料を取り上げ、”維新” 時点にいあわせた小栗、榎本、大鳥そのほかの幕府側のスタッフがいかに優れていたか、また事実、”維新“ がなされたあとも官軍とされた側には行政外交の能力がなく、実際の行政は結局江戸幕府が築いてきたインフラと人的資源に頼っていたことを立証する。このあたりでいわゆる小御所会議から大政奉還に至るまでのステップが現実にどうであったかなどの資料のトレースなどにはなるほど、と思わざるを得ない説得力を感じる。

繰り返すが小生ごとき門外漢にはそのあたりの解釈の正統性を論じる能力はないので、原田理論の是非は専門家にゆだねるとして、現実に起きた史実だけを見てみれば、”維新“ だか町人流にいえば ”ご一新“ だか字語解釈はともかく、それまでの国政を変えた政変があったことだけは確かであり、さらに言えば、もしこの政変がなければ、当時の西欧の文明、特に科学技術の吸収と日本化、今のはやりで言えばグローバリゼーションに間に合わなかっただろう、ということは誰でも納得するだろう。だが、我が国よりはるか昔から西欧に扉を開いていた東南アジア諸国や当時の中国などで起きえなかった、世界の潮流にあわせた国家全体の変革を可能にしたのは、国民の知的水準がそのような急激な変化を理解し追随することができるだけの高いものだったからであり、それを築いてきたのはにわかつくりの鹿鳴館文化ではなく、江戸時代というたぐいまれな時間が醸成したものだった。つまり(原田理論を尊重して明治維新という言葉は使わない)この政変は、変革の表面上の勝利者薩長政権の俄作りのインフラで可能になったのではなく、彼らが否定しようとした江戸幕府の蓄えたエネルギーによって現実のものとなった。長い歴史をあっさり否定した結果ではなく、その恩恵によってはじめて実現できたものなのだ。この点は全面的に同意。

結論からいうと、原田氏のこの一連の書作が持つ意味は、歴史学者間のアカデミックな維新論議はさておき、この政変がその後の日本の在り方をどう変えたのか、という解釈のしかたに対する提言であろう。学校で習った通り、西欧文化への急速な傾斜(古きを切り捨てて新しきものを盲信する国民性による)は確かに富国強兵路線を通じて工業を近代化し、軍備の急速な発展をもたらし、日本侮るべからずとの意識を西欧諸国に植え付けて、帝国主義の絶頂にあった西欧国家群による我が国の植民地化を阻んだ。これは誰も否定できない史実だ。しかし一方でその結果が逆に作用して米国などで排日思想を生み、国内では軍閥が跋扈して世界大戦を引き起こし、以下云々、という流れについては今更繰り返すまでもないもうひとつの史実である。この悪しき歴史の展開も原田の主張によれば、それまでの歴史を惜しげもなく否定し ”これから歴史を作る” という美辞にいとも安易に傾斜してしまう国民性が作用しているということなのだ。

つまり、原田理論の傾聴すべきはその流れの中に、日本人には(西欧や中国も含めて多くの外国には見られない)、己の歴史の軽視という風潮がある、とする主張である。この本の中には、明治時代初期に我が国を訪れた多くの人の感想のなかで、日本人の主導層がそれまでの歴史をすべて否定し、これから我々が歴史を作ると言っていることに呆然とした、という指摘がある。そうだろう、”維新” だか何だか知らないがそれまで世界史上例を見ない長期の平和を享受した国の人間が、我が国に歴史がない、というのはどういうことなのか。 ”我々が歴史を作る“ という発言の意味が必ずしも過去の否定ばかりではなく、新しいものへの挑戦、という意気込みを語ったのだろうということは想像に難くないが、何かあれば過去は捨てて次に飛びつく、という発想、”花は桜木人は武士“ 的な、よくいえば潔さ、あえていえば壮大な無責任さ、という観念は(小生自身を含めて)日本人の多くが持つものだろう。ことあれば登場する知識人なる人々が展開する ”欧米に比べて我が国は” 的議論にうさん臭さを感じてしまうのも、考えてみればこのような国民性に対する抵抗なのかもしれない。

原田がいうように、この発想は例えばマッカーサー統治下の日本人の言動をあっという間に支配した。過去のことをすべて ”封建的”としてなげうち、”民主主義”という看板にあっさり書き換え、その過程を ”歴史を作る” と言う美句に置き換えてしまった。その結果として得たもの、失ったものの論議を今さら繰り返すつもりはないが、原田が危惧するのはこの ”歴史はこれから“ 的発想が及ぼす政治や国家の大計への影響だ。たまたま見たフジのプライムニュースに出演した田中均氏が今回の菅総理の米国訪問後の発言に対して、言っていることに表面上、間違いはないかもしれないが、これまでのトランプー安倍時代に苦労して作ってきた我が国の外交原理の基盤にのっとっているように思えない、と指摘していた。外交のベテランである同氏の懸念の詳細は小生にはよく理解できていないのだが、わずかの時間経過の間に一国の指導原理の変革がいとも簡単に行われてしまうのかもしれない、という懸念があるとすれば、その遠因が原田の指摘する歴史観の断絶によるものなのだろうか、と感じたことだった。もっともこの国の政治の未成熟さはもっと低い次元の理由によるものなのかもしれない(というよりそうなのだろう)のだが。

(PS)3月16日付本稿で時代劇プログラムに関して書いた通り、江戸時代の価値を見直す気持ちが強くなっているのだが、その後それとなくアドバイスをくれ、関係書物を送ってくれた同期高橋良子に感謝。

エーガ愛好会 (62) スペシャリスト   (34 小泉幾多郎)

マカロニウエスタンでは、セルジオ・レオーネに次ぐ名匠と言われるセルジオ・コルブッチの監督による、異色の作品。

先ずは、ロケ先が、マカロニウエスタン特有のメキシコ国境あたりの荒れ果てた砂漠地帯を想定したスペインアルメリア地方でなく、フランスアルプスでロケされたと思われる美しい山岳地方の大自然が背景に広がり、陽が昇る景色や夕陽に向かって馬を走らせる。背景はとてもマカロニウエスタンとは思えない。フランスのエルビス・プレスリーと言われたロック歌手ジョニー・アリディが主人公ハッドを演じ、セリフがフランス語というのも珍しい。

物語りは、銃を持つことを禁じられた町ブラックストーンに、凄腕の拳銃使いのスペシャリストと呼ばれる男ハッドがやってくる。兄チャーリーが銀行から大金を強奪し自分のものにしたと濡れ衣を着せられリンチの上殺されたという経緯を確認するのが目的。そのチャーリーが隠したと噂される大金を手に入れようとならず者達が次々に集って来ての争いが展開される。非暴力主義者のシェリフのガトーネ・モスキン、銀行頭取の未亡人ァージニアのフランソワーズ・ファビアン、メキシコ盗賊のリーダーディアブロのマリオ・アドルフ、ヒッピーの4人等フランスの俳優たちがその演技を競っている。コルブッチ監督は西部劇を現代社会の腐敗や不条理を映し出す暴力的な寓話として描くのが得意だが、町を支配する有力者や善良な市民でも全てが金の亡者で、金銭欲に駆られればリンチで人を殺す。逆に世間から爪弾きされている売春婦、黒人奴隷、墓堀人達の方が良識ある行動をとるということになる。最後は当初盗賊に襲われ、善人と思われたヒッピー4人組がアウトローを気取り、金の亡者たちを裸体で這い回らせる。それにしても100人ぐらい?裸体の這いつくばりには驚かされた。それも脂肪体質のお尻の大集合。

最後の対決がハッドとヒッピーの対決では、少々迫力に欠けた。ハッドは弾の無いピストルしかないものの鎖帷子(くさりかたびら)の防弾チョッキで対決。ヒッピーは、顔面とか頭部を狙えばと思うのだが、射てども射てども倒れず、逆に怖気づき逃げ出して終演。要は拝金主義とヒッピー文化へのアンティテーゼか。

 

”それぞれタウンウオーク”  (4) 生田緑地   (37 宍倉勝)

私が推奨するコースは、小田急線で新宿より約22~23分の”向ヶ丘遊園”駅下車、徒歩10分の”生田緑地”です。皆様の中にはすでに訪れた人も多いとおもいますが。緑地内には、ナンカナイ会メンバーの故寺家さんがNHKの土砂実験で犠牲になられ(注)、その時の犠牲者顕彰碑ががあります。
又見どころとしては緑地内に、
1)岡本太郎博物館(屋内)、母の塔(屋外)。
2)標高82Mの三角点のある桝形山&展望台。
3)10棟程の古民家が立ち並ぶ古民家園。
4)プラネタリュームのある科学館。
5)場所を選べば富士山、大山等の展望も出来る。                                                                                                        6)隣接する川崎国際ゴルフ場の周回を巡る多少アップ&ダウンもある散歩道。

7)緑地内にカフェタイプのレストロラン3ヶ所&蕎麦 屋。等々あります。又程よい人出です。

(注)1971年11月11日、当時の科学技術庁・通産省などの企画で、関東ローム層地域の斜面崩壊について行われた実験がこの地域で行われ、土砂流が暴発し関係者15人が生き埋めとなった事故があり、36年卒寺家幸一君がNHKカメラマンとして現場に居合わせ犠牲となった。

八甲田春スキー  (39 堀川義夫)

4月7日(水)から八甲田と浅虫温泉の旅に行ってきました。朝一のフライトであっという間に青森空港着。久しぶりに岩木山の雪景色が懐かしい。そして、仲間の集合時間まで時間が余って、何度も来た青森市内で初めて八甲田丸を見学して寿司屋で一杯やってやっと全員集合。2時のバスで酸ケ湯へ向かいました。夜は青森の銘酒「田酒」で酔いしれました。

岩木山の頂上から滑ったのは何年前だったかな? 懐かしい!

4月8日(木) 今日は酸ケ湯でガイドツアーに参加。素晴らしい天気に恵まれましたが、雪の状態は良くありません。でも景色は良いし、山登と思えば言うことなしのコンディションですが・・・本当に幸せな時間でしたが・・・しかし、地獄のスキー滑降が待っていました。ザラメでカリカリ。振動で頭がおかしくなりそうでした。スキーの滑降では本当にバテました。明日もこんな状態では・・・滑りたくない!! 自身無くした でも、本当にいい温泉と旨い酒が待っていてくれました。やっぱり明日も滑りたいなあ〜。

4月9日(金)酸ケ湯温泉は朝から雪です。季節外れの寒波来週で雪が深々と降っています。私は早々にツアー参加を諦めゆっくりすることにしましたが、若い仲間(と言っても73歳3人と70歳1人)は滑りに行きました。そして今年最後の新雪の滑降を楽しめたようです。午後から行こうかな、とも思っていましたが、私の読み通りにロープウェイも止まってしまいました。そして、なんと私より32歳も若い後輩が八戸からはせ参じて来て合流です。二人で悪天候を理由に最高の風呂と最高の日本酒を楽しみました。明日は最後の日です。午前中なんとか滑りたいと思っていますが・・・雪は見る見るうちに積もって行きます。

4月10日(土)酸ケ湯温泉は本当に素晴らしい旅館だと思います。温泉は言うにおよばず平日3泊パッケージで一泊税込8000円弱のコスパは素晴らしい 風呂は言わずもがな食事も値段の割に旨い! 館内の整備も行き届いているし、従業員の教育も良く出来ていていると思います。

良い天気に恵まれました。そして、良い山歩きが出来ました。これで、もう少しスキーが上手く滑れたら言うこと無しなのですが・・・残念ながら山スキーを楽しむには足腰の筋力が衰え、思い通りに滑れない悔しさだけが心残りです。もう、歳ですから来年来て滑れるかどうかわかりません。親切に何時もサポートしてくれた後輩たちにただただ感謝あるのみです。

(36 浅海)
貴兄のように酸ヶ湯に4泊し八甲田でスキーを満喫して浅虫温泉で昔ながらの温泉宿を楽しむようなPLANではないが小生も昨年11月末に浅虫から弘前に3泊で旅行し、たまたま貴兄が浅虫で宿泊した椿屋旅館に泊まり温泉を楽しみ、貴兄がご馳走になったと同じ16だか20だかの小皿に分けた青森の名産品の夕食を楽しんできました。
小生が行った時は農閑期で地元の農家の方々が沢山泊っていて椿屋さんはほぼ満員でした。ただ夕方温泉街?というか街にでましたが 寂しい街でしたね。

翌日行くところがなくこの地で有名な水族館など廻ってきました。ちょっと懐かしくなり一筆しました。

(編集子)現役時代最高のワンデルングと思っている八甲田夏合宿の帰り、荒木さんたち野郎会のメンバーのお供をしておだをあげたのが浅虫だった。今は街のことも何も覚えていないが、一番親しい間だった先輩たちとのかけがえのない時間だったことは確かである。たしか浅海もいたはずだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4月22日、こんな日であった

(39 三嶋)
月いち高尾山岳会 が長年 敗退を続けていた生藤山(990m)に  2021年4月22日 遂に三色旗がひるがえった。
岡澤隊長以下のアタック隊 菅谷、長谷川、三嶋は 早朝 ベースハウスを出発。上野原経由  軍刀利神社で登山の成功と安全を祈願のち、 装備・食料を入念にチェック。

10時20分いよいよ登頂を目指して出発。
ルートはスタートから急登が続き 険しい。 喘ぎながら一歩また一歩と進む。 高度を上げるにつれ酸素が薄くなるのを実感する。
途中名残の山桜や 芽生えた新緑、 ヤシオつつじが 疲れた体に嬉しい。
難航の末 漸く前方に山頂が見えてきた。 ついに頂上に立ったのだ。 12時43分 のことである。

近くには富士山が まるで祝福をしているように見える。
赤飯の昼食も早々に下山にかかる。 幸い 懸念された雪崩の心配はあるはずが無い。 悪路の連続に気が抜けない戦いが続く。
足を引きずりながらも  和田バス停が見えてきた。 ほっと一息である。
ベースハウスへと向かう足取りは 達成感で軽やかである。
消灯10時。

(そのほぼ1時間まえ、11時15分、こちら高尾からの富士山)
オリンピック聖火が通るはずの場所へどうしても行きたいという吉牟田の意見で不要不急かどうかわからないが人数は政府方針通り、分散形式月いち高尾の2回目。日蔭沢へ降りて想像以上に長い下り(あちこちでがけ崩れの修復が未了だった)で消耗、高尾から直行帰宅…のはずだったが:
(吉牟田)
翠川さん 貴兄と高尾駅で別れ 京王線に行ったら 笹塚駅で人身事故で 新宿~桜上水間が不通との事。GIと特急にのったがすぐに各駅電車にななる。GIは問題なく小生も桜上水からタクシーで帰れるとつつじケ丘駅で別れた。桜上水で降りてみたらタクシーがあるような駅でなく しかた無く 甲州街道に出たが新宿方面に乗車希望の流しを探すタクシー待ちの客がかなりおり しかた無く下高井戸から明大前まで歩いて そこから井の頭線で帰宅、この日の歩行数は丁度 24000歩。コロナ騒動から運動不足解消のため 毎日 午前中10000歩 夕方5000歩 1日15000歩散歩を心がけて明大前周辺まで歩いているので、体力はまだまだOK。
(中司)
ごまかしてきた膝の具合が顕在化した1日でありました。精神的落ち込み激し。一度、ちゃんと見てもらわないとと痛感しました。疲れたあ!
細田小屋前からの遠望