朝日連峰W報告 (42 下村祥介)

大朝日避難小屋前のお花畑

8/4(日) 東京駅11:00発つばさ自由席に乗車。山形駅で降り、駅前でレンターカーを借りて月山ICへ。

そこで高速道路を下りて古寺鉱泉に16:00時ごろ到着。古びた(ひなびたと言うと少しイメージが良くなりますが)山小屋で一泊。夕食はイワナの塩焼きと山菜で、手の込んだ美味しい料理だった。

8/5(月) 5時起床、6時出発。小屋の裏から山道に入りジグザグ道を30分ほど行くと尾根筋へ。樹林帯の中のこの尾根筋を2本の小休止を入れながら2時間半ほど登って漸く一服清水へ。ここで小休止をし、かなり急な登りを行くと40分ほどで三沢清水に到着。この辺からニンニンの足がつるようになりぺースダウンしながら登行。古寺山への登りは相当つらかったと思う。

古寺山から小朝日岳のかなり急な巻道を経て熊越へ。ペースは遅いもののニンニンもつり止めの薬を服用しながら何とか銀玉水へ。ここでまた一休み。この辺まで来ると大朝日岳の避難小屋が見え、勇気づけられる。お花に慰められながら1時間ほどでようやく避難小屋へ。着いたのは15:30。コースタイム6時間のところを9時間半を要してしまったが、無事にたどり着けて先ずはホッと。

 小屋にはおよそ50名ほどの登山者がいて、それぞれ自炊。我々もホヤノ君持参の牛丼で夕食。ウイスキーが疲れた体に沁みわたった。19:00就寝。木の床に寝袋1枚。床が固くて夜通し寝返りばかり打っていたが、翌朝聞いてみると皆同じよう寝苦しかったようだ。

避難小屋まえで

8/6(火) 4時ごろ起床し、空身で約30分、大朝日岳山頂へ。まだ暗かったが月山と飯豊山、遠くに鳥海山が見え、最高の景色。やがて東から太陽が顔を出し始め写真撮影。ブロッケン現象も見ることができた。山頂には単独行の女性が2名。写真を撮ってもらいしばし佇む。

 朝食のおにぎりを食べて6時に下山開始。ニンニンの足も順調で12:00には古寺鉱泉に。急な坂道を下りながらニンニンはよくこんな急なところを登ったものだと改めて感心した次第。

 停めておいたレンターカーを転がし、途中の大井沢温泉で汗を流して、山形駅へ15:30到着。

(この後つばさに乗車したものの赤湯まで来たら線路が暑さのために曲がってしまい不通に。2時間ほど車中で待機させられた後、バスで福島駅へ。東京に着いたときは22:00を軽く回っていた)

 いろいろハプニングがあったものの、天気と仲間に恵まれた思い出深い山行になった。ホヤノ君はこれで99座を達成。あとは男体山だけということでまた付き合わされそうな気がしている。

大朝日のご来光が荘厳

2019 8月 月いち高尾 (39 堀川義夫)

8月の月いち高尾は従来のスタイルで10時高尾登山口に集合。連日の猛暑は今日も35度を超えるとか?そして今日は納涼会を兼ねているので山は軽めに楽しんでうまいビールを期待して勇躍15名が参加しました。

でも、油断は禁物! 無理をせず個人の申告で5名はリフト・ケーブルカーに乗って頂上へ。10名は琵琶滝コース⇒稲庭尾根⇒高尾山頂上へと向かいました。納涼会は登山口駅に隣接したイタリアン「FUMOTOYA」でジャイさんもこの為にだけ参加され総勢16名でワイワイと楽しい時を過ごすことが出来ました。

今年は天気に恵まれ(雪の中の御陵参拝もありましたが)8月まで中止にすることがなく、8連荘達成です。昨年は7勝5敗でしたので早くも去年より開催回数が多くなりました。このまま、年末のBBQまで天候に恵まれ、楽しい「月いち高尾」が開催されますよう事務局として切に祈る次第です。

日時 2019年8月7日(水)

リフト・ケーブルカー組 船曳夫妻、岡、吉牟田、立川 以上5名

*ケーブルカーに2人とリフトに3人に分かれて一気に登る。10;40頃にケーブル山頂駅付近で合流。

歩き始めるとヒラヒラと蝶々が舞っている。旅する蝶「アサギマダラ」だ! なんだか得した気分。10分ほど行って、ベンチで小休止、カボちゃんの差し入れの梨をいただく、美味しいこと。感謝!

11:00に再出発、薬王院にお参りして、急な階段を登り、奥之院から頂上を目指す。

11:25高尾山頂到着。各自持参のレーションで小腹を満たしながら、本体到着を待つ。(記述:立川)

琵琶滝コース組 椎名、遠藤、深谷、翠川、町井、蔦谷、岡沢、堀川、武鑓、河合 以上10名

*10:10登山開始、快調に琵琶滝コースへ。でも、暑い!! 暑いだろうと沢筋の道を選んだが、沢も尾根も関係無いようで暑さであっという間に汗でぐっしょり。でも、休憩時に沢に降りると風があり気持ちが良い。

 椎名さんが快調に飛ばしすぎたかバテ気味なので岡沢に託し稲庭尾根に出て頂上に向かう。直下の225段の階段も全員一気に登り切り11:50、頂上でリフト・ケーブルカー組と合流。堀川が秘かに運び上げた大きな冷たい、冷たいスイカ(半分)を切り分け舌鼓。旨い!!(自画自賛)

2019夏合宿でのスケッチ (36 後藤三郎)

室堂でのスケッチ

夏合宿の4班で立山(雄山)に登りましたが本当にしんどい思いはこれが人生最後でしょうか。室堂でのスケッチを添付します。

今回の合宿は体調不良で大事をとって不参加に終わった。同行予定だったサブちゃんからのメール、一部転載。

 

19年8月 月いち高尾 (39 堀川義夫)

8月の月いち高尾は従来のスタイルで10時高尾登山口に集合。連日の猛暑は今日も35度を超えるとか?そして今日は納涼会を兼ねているので山は軽めに楽しんでうまいビールを期待して勇躍15名が参加しました。

でも、油断は禁物! 無理をせず個人の申告で5名はリフト・ケーブルカーに乗って頂上へ。10名は琵琶滝コース⇒稲庭尾根⇒高尾山頂上へと向かいました。納涼会は登山口駅に隣接したイタリアン「FUMOTOYA」でジャイさんもこの為にだけ参加され総勢16名でワイワイと楽しい時を過ごすことが出来ました。

今年は天気に恵まれ(雪の中の御陵参拝もありましたが)8月まで中止にすることがなく、8連荘達成です。昨年は7勝5敗でしたので早くも去年より開催回数が多くなりました。このまま、年末のBBQまで天候に恵まれ、楽しい「月いち高尾」が開催されますよう事務局として切に祈る次第です。

 

日時 2019年8月7日(水)

リフト・ケーブルカー組 船曳夫妻、岡、吉牟田、立川 以上5名

*ケーブルカーに2人とリフトに3人に分かれて一気に登る。10;40頃にケーブル山頂駅付近で合流。歩き始めるとヒラヒラと蝶々が舞っている。旅する蝶「アサギマダラ」だ! なんだか得した気分。10分ほど行って、ベンチで小休止、カボちゃんの差し入れの梨をいただく、美味しいこと。感謝!

11:00に再出発、薬王院にお参りして、急な階段を登り、奥之院から頂上を目指す。

11:25高尾山頂到着。各自持参のレーションで小腹を満たしながら、本体到着を待つ。(記述:立川)

琵琶滝コース組 椎名、遠藤、深谷、翠川、町井、蔦谷、岡沢、堀川、武鑓、河合 以上10名

*10:10登山開始、快調に琵琶滝コースへ。でも、暑い!! 暑いだろうと沢筋の道を選んだが、沢も尾根も関係無いようで暑さであっという間に汗でぐっしょり。でも、休憩時に沢に降りると風があり気持ちが良い。

椎名さんが快調に飛ばしすぎたかバテ気味なので岡沢に託し稲庭尾根に出て頂上に向かう。直下の225段の階段も全員一気に登り切り11:50、頂上でリフト・ケーブルカー組と合流。堀川が秘かに運び上げた大きな冷たい、冷たいスイカ(半分)を切り分け舌鼓。旨い!!(自画自賛)

喫茶店とのつきあい (2)

結婚したてで恵比寿に住んでいたころ、地下鉄日比谷線がオープンし、家から六本木まですぐいけるので嬉しくなって夕食後、よく八恵子とふたりで”クローバー”に出かけて行った。この店もまだあるけれども僕らが通っていたころの上品さと丁寧さが薄れてしまっているのが残念だといいあっていたら、なんということか、業績不振で閉店したそうだ。大手のケーキメーカーが買い取ったが店の名前も変えてしまうという。いま、調布の端っこに住むようになって、近くを歩いてみつけたコーヒーの専門店 “さかもと” の店主がクローバーで修業したプロだったことを知り、それ以来、すっかりなじみになった。落ち着いた、大人の店である。この廃業に伴う裏話もここの坂本さんに聞いた。残念なことだがこの世の中浮き沈みはあきらめなければならないようだ。

今住んでいるつつじヶ丘・仙川近辺だが、喫茶店にかんするかぎり、この “さかもと” 以外気に入った店はない。調布まで行くと、いろいろと店はあるが、散歩ついでにミステリでも読もうかという時にはチェーン店にしては店員のしつけがいい ”ニューヨークカフェ”か、北口を出て線路に沿った道ををちょっと戻ったところにある”サンマロ”がぼんやりとし雰囲気でいい。また、甲州街道からつつじヶ丘の隣駅柴崎に入る路にある”手紙舎” は本やと軽食レストランとゆっくりコーヒーを出してくれるカウンターが調和して、静かな、ゆっくりくつろげる店である。本は幼児教育、美術、音楽、料理などのせまいジャンルに絞ってあって、週刊誌だのコミックなどでがやがやしていないのがまた、いい。コーヒーは各種そろえてあって、挽き方まで好みを聞いてくれる。

つつじヶ丘周辺では、前記 ”さかもと” のほかは駅まえのちいさなロータリーをへだてて、ご存知ドトールと最近になって進出してきた Piers というチェーン店があるきりだ。好みにうるさい浅海昭あたりにいわせればこういう店は馬鹿にされるのだが、僕が何となく居場所として悪くないな、と思うのは、コーヒーの味ではなく、まして若いころの甘酸っぱい記憶でもない。一種の社会観察の場としてで、そのような中に自分も生きているんだな、という一種の確認みたいなものができるからだろうか。

同じドトールでも青山だとか赤坂だとかいうところの店は、ビジネス人の一部みたいな、活発だが冷たい感じがするし、人の出入りも激しい。ここつつじヶ丘の店は言ってみれば停滞、といった感じがする。客はほぼ6割まで老人である。僕の滞在時間は長くて30分くらいだが、その間、店の空気は、まず、じっとしたまま動かない。観察するに、1杯のコーヒーを前にして、本を読んでいる人、黙って空を見つめている人、が半分くらいで、会話をしている人はちらほらとしかいない。一度、隣にいた上品な老婦人から、ここにはよくおいでになるのですか、と突然声をかけられたことがある。私、毎日来て、常連の人と顔見知りになって、今日もその人を待っているんですが、どうもお見えにならないみたいです、ということだった。見知らぬ人との会話だけが人生に残された楽しみなような言い方を聞いて、どう答えていいかわからず、用事があるふりをして席を立ったのだが、あとでそんな自分がみじめな思いになった。勇気を出して、愚痴か痛恨か亡くなった夫の追想か、聞いてあげる勇気がなかった自分が、である。

越してきて間もなくのころ、段ボールとの戦いで疲れはて、コーヒーでも、というだけでこの店に入り、窓際のカウンタに座った時のことを今でも思い出す。

ちょうど雨模様で、目の前の欅の木が(その後駅の改築で伐られてしまったのが悔しいが)揺れているのを見たとき、まったく唐突に ”嘔吐” の  “ブーヴィルは明日も雨だろう” という結びの一節が心に浮かんだ。サルトルがこの結びをどういうつもりで書いたのか、わかるすべもないのだからこの時の反応も言ってみれば一種の発作のようなことだった。年老いた人間が集い、何かを求めて、たぶん今日も期待したことは起きないだろう、と思いながら座っている。明日も雨か。そういうやりきれなさなのか、ひるがえって見れば究極の楽観なのか。著者がこの本の中で語ろうとした”実存“とかいう難しい概念の、ひょっとするともっとも原理的な解釈なのか、よくわからないのだが、それ以来、天気が悪くて暇があるとちょくちょくこのカウンタに座ることが多くなった。自分もまた、この人たちと一緒に時代を生きてきたのか、という感慨を改めることだけなのだが。

さらば愛しきアウトロー

不思議な映画だった。普通の映画なら見終わった後に、面白かったとかくだらなかったとか、凄かったとかなんとか、映写されたものに対していろいろな感情が湧くのだが、これにはそれがなかった。見た意味がなかったかと言えばそんなことはもちろんないのだが、考えてみると普通の映画にはその映画が切り取っている時代や世界や物語の背景などがあって、その中に自分をいわば投影してみている。見終わってみて、自分がその中にいない、いなかったことを実感して、改めてその映画を評価するのだが、この映画ではそれを見ている(いた)自分と見終わった自分との時間・空間的な隙間が感じられないのだ。つまり映画にあらわされた世界が自分の世界と区切られていないという気がする。

ロバート・レッドフォードは1936年生まれ、つまり小生と同い年(正確には数か月彼のほうが先だが)。アメリカが最高の時代に世の中に出て、ケネディからベトナム戦争をへてそれがもろくも潰えてしまった30年の空気を味わい、歴史が作られてゆく過程を目のあたりにしたある意味で同志でもある。そしてこれを最後に俳優稼業をやめる、と宣言して、自分がこれからどうしていきたいのか、それを画像にした、そういう映画なのだ。この映画には筋書きらしいものがない。タイトルから想像されるかもしれない悪人も一人も出てこない。活劇もなければお涙頂戴シーンもなければお色気話もない。じゃあ、なにがあるのか。

数日前のテレビで、かつて慶応野球部の最高のエースの一人だった天才投手志村が、”なぜプロに行かなかったのか” を語るのを見た。自分は野球が本当に好きだった。しかしいつかはそれと別れなければならない日が来る。その日を自分で納得して迎えたかったからだ、そしてそれが学生時代4年間の燃焼だったとわかったからだ、というのだ。感動した。それと同じ感動を、この映画は与えてくれた。レッドフォードが残る時間をどう生きるか、形はもちろんわからないが、それを費やしていく過程が自分に残された人生の燃焼のかたちと同じような気がしてならない。そんな気持ちにしてくれた2時間だった。

自分もいっぱしの映画ファンではあるが、こんな映画は今まで見たこともないし、たぶん、これからもないだろう。

 

”クラブハウス” 計画その後

ふとした思い付きの投稿に反応があったのに気を良くして、同志何人かに発起人になってもらい、プランを肴に何回か盃を重ね、素案ができた時点でこの趣旨について、いわばフィージビリティスタディとでもいうべき調査をさせてもらった。対象は昭和50年代以前の卒業生のなかから小生の知悉するかぎりで選び、合計263通発送し、6月末期限としたが7月14日まで来信があり、当日を最終として184人からご回答を頂戴した。厚くお礼申し上げる。

結果、このプランに賛意を表した人数は139人、反対2人、興味なし43人、であった。個人ベースの話であるから、回答の義務はないし、そもそも反対である人は回答しないはずと思って、はがきに ”反対” の選択肢を書かなかったらそのこと自体でえらく怒られた一件があった。反省。

さて、賛同票のなかで、運営費用を年会費のかたちで負担しよう、と言ってくれた人数は最終で45人である。いろいろな派生費用(安全、保険、ごみ処理、清掃)などを考えた素案を維持するにはこの人数だと当初予定した年会費では運営ができそうにない。月間2000ないし2500円、年にして2-3万円、というのが案だったがこれでも高い、というご指摘も多々あるので個人負担増額は論外となり、一方では賛同者からは期待の文面も数多いので、発起人グループで再度考えてみようという結論になり、お送りした原案は廃案に追い込まれた。

ご返事いただいた方にはできる限り全員に別途ご返事を差し上げたが、ここで状況と判断とを述べておく。

1.賛成票の非常に多くが、”かつての JIJI のような場所” と述べている。たしかに理想ではあるが、”かつて” われわれは勤め人であり、その帰り道に”銀座で一杯” というイメージがこころよく、中には ”客先接待伝票” を使ってくれた心優しきワルモノもいた。現在のほとんどすべての人はこのシチュエーションにはない。したがって、素案は基本的に気軽に安価で集まれる場所と機会を提供する、ことが狙いであった。このあたりの真意が良く伝わっていなかったのかという気がする。機会があれば、違う形で(たとえママがいなくても) JIJI再生ができるのではないか、というのがそもそもの動機なのだが。

2.賛成票の中に、OB会の事務局本部、という位置づけを持たせよ、というご意見もあった。そのほとんどが現在、個人事務所のご厚意で預かってもらっている部の歴史資料の保護に継続性の危惧を抱いておられるので、この件だけは別途、検討してもらえるよう、執行部には要請ずみである。

なお、仄聞によればこの資料保管場所を三国山荘にするという意見もあるようだが、小生個人として大反対である。たしかに ”我らが三国山荘にある”といえば聞こえはいいが、第一に物理的に問題がある(温湿度の差激しく文書の長期保存が不安、外部侵入者の危険あり)し、実質的に高年齢層のOBには浅貝まで行くことすら抵抗を覚えるようになっている現実から、この問題を提起されている方たちの ”気軽に部の歴史やOBたちの足跡をたどってみたい” という要求にこたえるには不向きである。 この案の背景には ”ま、とにかく保管しておけばいいだろう” 位の関心しかないのではないか。80年を超える部の歴史はもっと慎重に考慮されるべきであり、よき対案が示されることを願ってやまない。

3.1に関してだが、消極意見の中に ”我々の代ではすでになじみの場所があるから”という投稿もあった。このこと自体は素晴らしいことで、そのような場所のない人からすれば羨ましい限りだし、それをリプレースしようなどとは夢にも考えなかった。ただ、そのような場所が好ましいというのも、1にのべたような環境条件下にある、あるいはそれが続く、という前提があってのことだろう。後期高齢(!!)時代になればそれなりの前提が必要になるし、頂いた返事の中に、総人数が少く在京の”同期”がいない、という身につまされる話もあった。このような人たちにこそ、考えてもらえる機会だったのではと思うのだが。

 

2019年7月 月いち高尾 (39 堀川義夫)

 

7月の月いち高尾は城山にかき氷を食べに行こう!と言うことで15名の参加を得ました。

懸念された天気予報は終日曇りとのことでしたが、正にその通り梅雨空の下を楽しいワンデリングが出来ました。合宿の10日前と言うことで前日、あるいは前々日に合宿のトレーニングで景信山や陣馬山に行かれた方が連荘で来てくれた方が多くいました。

 

10時50分相模湖集合にもかかわらず10時30分には1人を除いて全員集合、バスを待ちます。10時55分バスが出て約10分ほどの千木良下車、11時10分に登山開始。月いち高尾としては第8回目に城山から下山に利用されたとか? 東海自然歩道の西尾根コースを行きます。登り始めは多少急な登りで蒸し暑く、どうなるかと思いましたがみんな元気で40分で一休み、約250m登ってきました。

立派なもんです! 眼下に相模湖を望み、アジサイが咲く山道を快適に城山到着12時30分、楽しみにしていたかき氷は残念ながら小屋が休業で食べられませんでした。来年のお楽しみに取っておきます。

 

下山は岡沢班7名で小仏城山北東尾根を日影バス停に下山、2時50分バス定着、3時13分のバスで高尾北口へ。テング飯店着3時30分。堀川班8名は縦走コースを高尾に向かい、もみじ台への登りは一番ハードな直登コースを行き、高尾の頂上には行かないものの稲荷山コースを下って3時15分高尾登山口駅到着、靴を洗って高尾へ、そしてテング飯店へ。奇しくも岡沢班と到着は同時となりました。

日 時  2019年7月10日(水)

参加者  吉牟田、遠藤、深谷、後藤、町井、多田、岡沢、以上7名は北東尾根・日影コース下山

翠川、三嶋、武鑓、藍原、河合、保屋野、伊川、堀川 以上8名は縦走・稲荷山コース下山。テング飯店参加者は、13名でした。

ご報告ありがとうございます。前日に大山に登って、今回不参加にしようと思いましたが,2年先輩の、武鑓さん、デシさん、藍原さんが参加するというので夏合宿5班のトレーニング山行の続きと考えて参加しました。結果、飲み会含め非常に充実したハイキングを楽しむことができました。ただ、さすがに、少々腰が痛みます。 ありがとうございました。42年 保屋野

ジャイさん年と共に大変になりますな、お互いに80歳を超えて1.5年しか経たないが厳しくなりましたね、1.疲れやすくなる 2.疲れがとれない 3頭が悪くなる(回転しない、記憶が駄目、一つの事しか出来ない)4見えない・聞こえない・体が動かない・その他沢山 こまっております。 私は内臓はまだ調子は良いので全体としては大丈夫な方でして 昨年11月から週1~2回は秦野から鎌倉迄テニスをしに通って(通勤は車で片道1時間強 クラブ入会には32年の荻原年先輩にお世話になりました)おりテニスで楽しく運動をと目論んでますが、なかなか思うように体は動けませんが大いに健康には役だっているとおもいます。今回も何時ものドタキャンで堀川さんや皆さんに迷惑をかけました、集合時間も遅くして私でも参加しやすいプランでしたが、何かあるときは早朝に血圧が上がってしまう(今回も180~190が出てた)のでこまります、時間が少したてば下がるのですが山の場合は慎重にしています、今回は秦野駅まで家から下りで30分程ですので良い空気の中ウオームアップを兼ね歩いたのですが、若干おかしいのでまた急遽欠席とさせてもらいました。   36年 岡

3日くらい前から便秘がひどくなり、昨晩は尻の穴から胃袋まで柱がと負ったようになって不快で一睡もできず、今朝、杏林大学の救急窓口へ行ってきた。いろいろ検査があったが基本的問題はなしとのこと。ただしここ数日間、便秘解消のための薬をのまねばならず、これにはタイマーなんかついてないからいつ爆発するか、わからん。諸兄にご迷惑をかけるに忍びず明日は欠勤。36年 中司

これはこれは、小生はむしろ会社時代の方が軟便と便秘と言う矛盾したような状態に苦しめられたことが多くあり、夜の接待が不安だった時期がありました。ストレスなんかも原因だったと思います。自宅に居るのが一番安心だ。静養したまえ!自然治癒が一番。  36年 翠川

 

 

慶応義塾普通部29年卒業同期会

昭和27年、まだ “戦後” であった時代,戦災のため天現寺の幼稚舎に間借りしていた普通部に入学した我々は翌年、日吉に新設された新校舎に移転、29年にめでたく卒業した。高校、大学へ進み社会に出た我々も 昭和・平成・令和と三つの時代を経験する、”ゴールド年齢層” に加わることになった。

それぞれ、精いっぱい生き、与えられた任務を終えてきた時代を振り返るとき、この普通部での3年間こそ、僕らのバックボーンをはぐくみ、慶応ボーイとして胸を張れる素地を作ったものだったと感じる。皆、80歳を数えたこの年、卒業65年を祝って京橋のレストラン モルチェに集まった。卒業時の5クラス合計は268人、残念ながら鬼籍にはいったもの88名、結果として66名が参加した。幹事として終始奮闘してくれた船津於菟彦、岡野嘉久両君にはあらためて感謝を申し述べたい。

今回の案内状にも書いたが、”中村草田男は

”降る雪や 明治は遠く なりにけり”

と吟じた。3つの時代を生きて、いま令和にはなったが、俺たちの日吉はいまだ遠からず、俺たちのすぐそばにいる。そういう思いを共有した3時間だった。

 

 

東北被災地再訪 (34 小泉幾多郎)

今回のボラ活地激励訪問プランに参加してきました。8年前のボラ活動が、亀井先輩が、打ち上げ式で言っておられたように、KWVが文連所属が故の滅多にない素晴らしいプランだったことが今回のプランで、認識することが出来ました。写真も関谷さんから、12枚送ってもらい、今回の楽しく過ごした思い出がよみがえりました。

小生の写真は、偶々宿泊地小渕浜の夕日と虹を撮ったものがありましたので、送信しておきます。

(今回の 通称”ボラ活”再訪プランは無事終了し、曾遊の地で思い出はなしに花が咲いたようだ。詳細はリーダーの河合君が次号ふみあとに投稿されるはずなのでそちらをご覧いただきたい)