米国の対中国政策について (1)

後藤三郎君から興味のある文献を紹介してもらった。米国政府の公式文書らしく、持って回った表現も多いが、最近の情勢の判断(とまでいかなくとも解釈)には役立つ情報と思え、独占するにはもったいないので、素人の拙訳を試みた。原文(面白いことに訳文もそうなったが)がA4に印刷して16ページとやや長いので、連続4回に分けてご紹介したい。固有名詞には公式な日本語訳ばあるのだろうが調べる手間を省き適当な訳語を当てたが、訳注 として原文を併記した。翻訳の過程で、言外の意味がありそうに思える単語も同様にした。識者のご指導を頂ければありがたい。

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      中華人民共和国に対する米国の戦略的アプローチ

United States Strategic Approach to the People’s Republic of China

 

 米国と中華人民共和国(以下中国)との外交関係が1979年に樹立されて以来、米国の対中国政策の基本は二国間の交流の深化によって中国の基本的な経済や政治体制がオープンになり、その結果中国がより開かれた社会になることによって、世界規模で建設的かつ責任を有するステークホルダになってゆくことを期待したものであった。以来40年余が経過した今日、このアプローチは中国における経済的・政治的改革を抑制しようとする中国共産党の意志を過小評価していたのだということがあきらかになったと言える。過去20年間、改革は遅延し、減速し、あるいは逆方向に転じた。中国の急速な経済発展と世界各国との関連の深まりは、米国が期待してきた個人を尊重し、自由かつ開かれた体制には結びつかなかった。その代わりに中国は自由かつ開かれたルールを悪用し、国際的なしくみを自国の利益のために書き換えるという道を選んだのである。北京は中国の利益とイデオロギーに一致するように国際的ルールを変更しようとしていることを公言していて、中国が経済的、政治的、軍事的手段を拡大しながら各国の黙認を強制していることは明らかに米国の利益に反し、世界各国の主権と尊厳を危うくするものである。

この北京の挑戦に対して、米国政府は対中国政策として明確に競合していく方向を選んだ。この基盤にあるのは、中国の意向と活動を冷静に見極めるとともに米国の戦略的優位性と欠点を評価し、双方向に発生する摩擦の増加を覚悟することである。このアプローチは中国に関する特定な終局を規定するものではなく、米国にとって重要な国益を保護することであり、その内容は2017年制定の米国安全保障戦略(National Seurity Strategy for the United States of America, NSS)に規定された4本柱、すなわち、(1)米国国民、領土、生活様式の保護 (2)米国の繁栄の推進 (3)力による平和の維持 (4)米国のかかわりあい(訳注:American influence)の推進 である。

この中国戦略に対抗すべき競合アプローチには、二つの目的を設定した。

第一の目的は中国からの挑戦に対し、米国の制度組織、諸国との連携、パートナシップの基盤の対抗力の強化(訳注;Resiliency)によって激化する中国の影響に立ちむかい勝利する(prevail)ことである。第二の目的は北京が米国および連携各国のの致命的(vital)な国家利益を脅かすような行動を辞めるか、削減するようにしむける(compel)ことである。

だが中国に対して明確に対抗するとしても、米国は両国において共通する利点が存在すれば、協調していくことは歓迎する。競合は必ずしも対抗や対立へむかうことを意味しない。米国は中国市民に対する深くかつ永続的(deep and abiding)な敬意を持ち、長い期間にわたってのきづなを持っている。中国の封じ込めとか中国の人々と疎遠になることなどを望んでいるわけではない。米国が期待するのは中国との間の公正な競争を通じて、双方の国家、企業、個人が安全と繁栄を享受することなのである。

中国との戦略的競合に優位に立つには、複数の利益共有者(stakeholders)と協力体制を構築し、わが政府(the Administration)は我々が有する固有の利益と価値観を保護することを公約する。この面で政府にとって致命的なパートナーは連邦議会, 州および地方自治体、企業セクタ、市民社会および学界である。連邦議会は各種のヒアリング、声明、報告書などを通じて、中国が手を染めている悪意ある行動様式(malign behavior)について明らかにしてきた。また一方で連邦議会は米国政府に対し、我々の持つ戦略的諸目的を遂行するに必要な法的権限と資源を与えた。政府はこれに加えて連携先やパートナーがより冷静かつ強固な対策を講じていくための段階的な指針をあきらかにしている。それらのなかでは、2019年3月にヨーロッパ連合(EU)があきらかにした EU-CHINA: A Strategic Outlook が特に重要と考えられる。

米国は連携国、パートナー、国際諸組織などと協力関係を結び、お互いに共有する自由と開かれた関係の原則を支援していくべく、積極的な諸方策を築きつつある特にインド・太平洋領域では、これらの活動は国防省の2019年11月付け 自由で開かれたインド太平洋報告(A free and Open Indo-Pacific: Advancing a Shared Vision)に書かれているし、米国はこのほかにも、相互の理解に基づいたビジョンやアプローチ、ASEAN(Asso-ciation of Southeast Asaian Nation) のインド太平洋概観(Outlook on the Indo-Pacific), 日本の開かれたインド太平洋ビジョン、インドの領域安全保障・成長政策、オーストラリアのインド太平洋政策、韓国の新南方政策、台湾の新南方政策,などと協調している.のである。

この報告の目的は、現政権がわれわれの競合戦略の一部として、世界規模で実行している政策や実際の行動のすべてについて詳細を述べることではなく、前記NSS戦略の実現に当たって、特に中国に特化した部分について焦点をあてることにある。 

挑戦  Challenges 

中国は米国の国家的利益に対して数多くの挑戦状を突き付けている。

  • 経済面での挑戦 Economic Challenges

北京政権は経済面での改革を重視せず、その代わりに国家指導の保護主義を通じた活動で米国企業の活動を妨げ、国際的慣行を守らない上に環境破壊をもたらしている。2001年、WTOに参加した際には、北京は開かれた市場経済政策を認め、その行動原理を同国の商業制度や関係機関に遵守させることに合意した。したがってWTO参加国は中国が改革を推進し、中国を市場原理に基づく経済貿易体制にする路線を推進するものと期待したのである。

この期待は実現されなかった。北京政権は競争原理に基づいた規範や行動を貿易や投資行動に反映させることをしなかったばかりか、WTOのメンバーであることを悪用して世界最大の輸出国に躍り出るとともに自国市場の保護する政策を実行してきた。この経済政策は巨大な過剰産業能力を生み出して世界規模の価格破壊を惹起し、結果として中国が自国企業に与えている不公平な保護手段を持たない競合各国の犠牲の上に市場規模を拡大することになったのである。中国は非市場型経済構造を温存する一方で貿易、投資面では国家主導の重商主義的政策を堅持している。政治的改革も後退するばかりか逆行して、政府と共産党との区別がつかなくなりつつある。任期制限廃止を決定したことによって事実上、周主席の終身在位が定まったことがこの間の事情を明確に示しているといえる。合衆国通商代表部 (USTR) は2018年の報告(注1)において、中国政府の行動、や政策、その実践の多くが非合理的、差別的であって、米国の通商の妨げ、またその行動を制約していると結論した。徹底した調査を通じてUSTRは中国が

  • 米国企業に対し、その技術を中国企業に移転するよう要請し、圧力をかけている
  • 米国企業が有する技術のライセンスを市場で活用することを強硬に制約している
  • 米国企業の有する先端的技術や資産の自国企業への移転を、直接、あるいは不公正な方法で指導している
  • 米国企業ネットワークへの非合法なサイバー攻撃を実施あるいは支援して重要な情報や企業秘密を探っている

と結論付けている。

北京はこのような略奪的経済行為をやめさせると公約はしたが、その多くは破られ、実行に移されていない。2015年、北京は政府指導によるサイバー攻撃を用いた企業秘密の入手をやめさせると公言し、同じ声明を2017年、2018年に繰り返した。2018年後半、米国ほか1ダースにも及ぶ国々が、世界規模で発生している、知的財産や企業秘密の窃取を目的としてコンピュータへの不法侵入が、中国国防省(訳注 Ministry of State Se-sucurity)に関係する業者によって行われているとした。これは北京の2015年の公約違反である。2018年以降、北京は知的財産保護に関する複数の国際公約に署名しているにもかかわらず、世界で起きている公約違反事象の63%は中国によるものであり、その影響は世界中の合法的企業に巨額の損失を与えている。

北京政府は中国がいまや ”成熟経済(mature economy)“ に達したと公言しながら、一方では国際的環境にあってはなお、開発途上国 (developing country)であると主張し、その中にはWTOも含まれている。高度技術製品の世界最大の輸入国、GNP、国防費、対外投資においては米国に次ぐ世界第二位でありながら、みずからを開発途上国であると言い募ってその政策や行動を正当化して、世界規模で多くの分野を組織的に攪乱して、米国及び各国に害をなしている.

一帯一路(One Belt One Road, OBOR)は中国が主宰するいろいろな活動の総称であるが、その多くは国際的な規範、標準やネットワークを北京の利益や構想に役立つ形に書き換え、あわせて中国国内の経済的要求に沿うようにし、その構想と関連する活動によって、中国は自国の産業標準を主な技術分野に定着させ、中国以外の諸国の企業を自国の企業に隷属させようとするものである。北京が一帯一路と呼ぶものには、運輸、情報および通信技術、エネルギー基盤の分野、インダストリアルパーク事業、メディア活動上の協力、科学および技術、文化および宗教面の各種プログラム、さらには軍事および安全保障上での協力などが含まれており、関係する商業上の紛争については中国共産党に属する独自の法廷によって調停するものとしている。米国は中國による持続可能かつ高品質の開発を、国際的規範にのっとるものであれば歓迎するものであるが、一帯一路のもとでのプロジェクトは度々これらの規範から逸脱し、低品質、不正行為、環境悪化、公的な監視や関係コミュニティの無視、不透明な貸し付けや主管する国家のガバナンスを悪化させ、財政的問題を引き起こす契約行為を引き起こしている.。

これら経済的優位性を利用して他国に政治的譲歩を迫ったり、あるいは明らかな報復行為を行う中国の行動が激化していくことにかんがみ、米国は中国が一帯一路政策を不当な政治的影響や軍事行為への転化をはかるだろうと判断している。すなわち、北京は各国政府、指導層、企業、シンクタンクそのほかの機関に対し、しばしば不透明な方法によって、中国共産党の意向と報道の自由に対する検閲へと向かわせるべく、威嚇と誘導を行っていると判断せざるを得ない。中国はすでにオーストラリア、カナダ、韓国、日本、ノルウエイおよびフィリピンなどの国々との交易や観光旅行に制限を加え、特にカナダ市民を拘留するという態度に出て、各国の国内政治や司法制度を妨害する行為を行ってきたし、またダライ・ラマの2016年のモンゴル訪問後、中国は内陸部にある同国からの鉱物輸出を中国経由に制限し、同国の経済を一時的にマヒさせるという行動に出た。

北京はまた、環境保護上の努力を世界的に誇示して ”環境緑化(訳注 green development)の推進をしていると主張する。しかしながら、過去十年以上にわたり、中国は世界最大の、それもはなはなだしい量の温室ガス放出国である。同国は  “2030年ごろまで“ はこの放出を是認するというあやふやで実効の危ぶまれる公約を明らかにしているが、この計画に含まれている排出量の増加分は、他の世界各国が努力している削減量をはるかに上回るものである。一方で中国は多くの開発途上国へ環境汚染につながる火力発電設備を輸出している。さらに中国は世界最大のプラスチックによる海洋汚染の発生元であり、毎年350万メトリック・トンにおよぶ放出をしているし、世界第一の違法、無届、無制限の漁業活動を行って、沿岸諸国の経済を害し、海洋環境を破壊しつづけてが、環境保護に指導的役割を果たすと称する美辞麗句には全く適合していないのはあきらかであろう。

 

足慣らしの丹沢    (39 岡沢晴彦)

39年卒の 岡沢です。 同期の三嶋君に誘われて 三人で 西丹沢の畔ヶ丸に登ってきました。

西丹沢自然教室迄 三嶋君の車で行き 8時半着 雨の降りそうなガスに覆われた天気なのでレインコートをつける。 40分位沢のなかを行く 何度も堰堤を超え 昨年の台風で流された丸木橋 何度も渡渉をくりかえす。日の光はないが木々の緑のその明るさ 鮮やかさ 最高です。

本棚から善六ノタワ迄の一時間の登りは結構きつかったです。あと頂上までは凸凹のある尾根筋を一時間 タイムコース3時間を 休憩を入れ3時間半 12時20分着 尾根筋は結構崩れており階段等 だいぶ手を入れているが 何年か先が思いやられる。 ブナ林はガスに包まれ 幽玄そのもの。

頂上の避難小屋は 解体され同じところに新築中。 下りは大滝峠 一軒家避難小屋経由 大滝橋へ避難小屋までは急な下り階段が続く。小屋から下の沢は 滑状で 上から見ると 澄んだ流れがまたよろしい。 とにかく緑に包まれた一日でした。 大滝橋 3時45分着 3時間かかる但し 私は林道に出てから 歩くとき体が右に傾き自分でもどうにどうにもならない状態でした。。

三嶋君と話したのですが 7時間の山行は 79歳としては 今の状態では限度かなということでした。

(中司)

ご苦労様に存じます!丹沢はとんと不案内で、高校3年の春、雪の中をまだできていなかった宮ケ瀬ダムへ、主脈からおりたのがただ一度です。やはり沢なんでしょうね,。79歳で7時間、立派なもんです。僕で言えば5年前ですから、もう高尾しかいかない!と決めた年齢であります!このつぎはもうケーブルでしか行かない!の決断ですかな。

コロナはまだまだ続きます    (34 船曳孝彦)

東京を中心にまだまだ新規患者が続いています。東京では20~60人/日で経過し、夜の街の感染が1/3~2/3を占めていますので、予想よりはやや多い原因でしょう。前にも書きましたが、無症状感染者がゴマンといるのですから、新規に感染しても不思議ではありません。COVID19に特効的な薬はまだですし、ワクチンももう少し時間がかかるでしょう。街中へ外出するときは、混雑した電車・バスが最も危険だと思いますが、とにかく三密を避け、ソーシャルディスタンス(実際は2Mは無理なことが多いですが)を守り、マスクをし、なるべく他に手を触れないようにし、なおかつ嗽い、手洗いを頻繁に行って下さい。夜の街は禁です。

これまでを振り返ってみますと、そもそもパンデミックに広がる感染症に対する十分な覚悟がないまま政府対策会議が帰国者センター・保健所という流れで検査し、一人の感染者からどのように感染者が広がるかの追及をして国内の感染を明らかにしてゆこうとしました。それ自体間違いではなく、人の往来が多くなければ十分な把握が出来たかもしれませんが、予想を超えたため、検査を受けられない患者が続出することとなった。それを受けて専門家会議としては対策の変更をもっと強く上申すべきでした。しかし専門家会議自体が根本的改革を忌避し、絞り込んだPCR検査対象を広げることになりませんでした。発熱患者が検査に殺到して医療崩壊を来すことのないようにとの配慮といいますが、結局医療崩壊は起こっており、むしろ最初からPCR検査を広くやっていた方が混乱も少なかったと思います。他国と比べて1桁以上の少なさです。

PCR検査を行政検査と位置付けたことに問題があり、このため検査法も、検体運搬まで法に規制されることとなりました。後に簡易法(これは日本で開発されていたのに国内では正式に認可されていなかった)や唾液で検査するなどの改善を取り入れるのに大変な手間がかかってしまいました。それどころか保健所、国の定めた検査センター以外でのPCR検査データは基本的に認めようとしませんでした。陽性なら登録せざるを得ないにしても、陰性例の扱いは結局判然としないままです。検査の遅れにしびれを切らし、大学や、医師会で独自に検査をしたところでは、検査費用が保険効かずの有料ないし病院持ち、そのデータはパソコンでなくFAXで送り、都道府県で「採用してやるか」という状態でした。日本の死亡率は低いことは確かですが、分母の分からない分子だけのデータで本来死亡率は出せません。それなのに専門家会議副座長が国会で「感染者はこの10~20倍いるかもしれない」などと口にしてよいのでしょうか。

法に基づいた対応と、疫学的根拠(数理疫学に偏った)での判断という原則から一歩も出ようとしない専門家会議の態度に、大いに反発を感じていたところ、昨日突如として担当大臣から専門家会議は廃止するとの発言がありました。国民は政府・専門家会議は一体となって取り組んでいてくれたものと信じていたのに、一体どうなっているのでしょうか。その後の専門家会議座長の発言にも驚きました。評論家のような発言で、まるで反省の意を感じませんでした。今後は別組織としての有識者会議が任命されるようですが、見事なバトンタッチは期待できそうにありません。

問題は第2波対策です。禁止事項が次第に消えてゆきますが、第2波は必ずと言ってよい程海外から押し寄せるでしょう。昨日の報道では、第1便による入国者30人にPCR検査を行い、結果判明まで2週間ホテルに待機させようというものでした。その後の便については未定とのこと。大変な手間と費用が掛かることは分かっていますが、正常に復帰することを考えると、1日何万人もの入国者・帰国者を迎えます。大量の宿泊施設を準備しなければなりませんし、PCR検査も大量に施行(十分可能です)しなくてはなりません。こうしなくてはオリンピック開催など消え去ってしまうでしょう。

さて医療崩壊の問題です。厚労省は再拡大に備え、病床確保と外来新診療体制樹立を7月までに策定せよと都道府県に指示しました。一般病院では、医師数、医療スタッフ、医療器具並びに消耗品(マスク、ガウンなど)、病床及び診察スペースなどなど、全てが不足して「医療崩壊」ぎりぎりの線上にあると思います。それに加えて、感染症診療上のコストに十分な考慮がなされていない、一般病院でPCR検査しようにも病院持ち出しの経費となる、コロナに人手をとられて、予定手術が出来ない(延期)、病院にはコロナ患者が溢れているだろうからと、一般患者が通院拒否、延期などが経営的な「医療崩壊」を起こしています。コロナ用に何10床、あるいは100床以上の空きベッドを用意したものの、コロナ患者数が峠を越えてくると直接減収につながっています。患者数減少と手術症例減少が重なり、病院の収益は非常な落ち込みです。永寿病院などで職員の給料カット迄始まっており、医師、看護婦の退職者が出始め、休業、閉院する病院が出てきています。

厚労省はコロナが始まる前まで、公的病院のベッド数を削減しろ、出来なければ公立・私立の開設者お構いなしに合併せよと通達を出し、病院側から反発があったばかりです。ベッド数など、余力を持っていなければ、このようなパンデミックばかりでなく、巨大震災、巨大噴火、大水害などのとき、対応しきれないことは自明のことと思います。

医療関係者に感謝の拍手を送ろうという国もありますが、我が国の現況はとても拍手だけで済まされない状況です。病院側が耐えられているうちに国は手を打ってほしいものです。沈没する船からネズミが逃げ出すと言います。あるいは拍手の国でも同じ事が起こっているのではないかと思います。第2波の来ないうちに新しい医療体制が必要です。

エーガ愛好会 (7) ”ビッグ・ケーヒル”のこと    (34 小泉幾多郎)

 ジョン・ウエイン(1907~1979)最晩年の作品。仕事一筋で家庭を顧みない連邦保安官ケーヒルとその17歳と11歳の息子との関係を軸に展開。ウエイン66歳の作品だから、親というよりも爺さんに見えてしまうが、時に過去の若々しい姿を彷彿とさせる場面もある。多忙から不在がちの親に反抗し、銀行強盗の仲間に加担した息子達を、その自主性を尊重しながらも反省させるまでを親の愛を示し好演している。自分自身も連邦保安官程でないにしても、仕事にかまけて、子供のことをないがしろにしてきたのではないかと反省してしまう。

 追手にコマンチインディアンを採用したり、そのインディアンの奥さんを侮辱した息子をウエインが馬から蹴落とす等70年代の西部劇らしき場面にも遭遇した。そのインディアン役のネビル・ブランドや悪党ながら若干人情味も見せるジョージ・ケネディ、主役級の息子二人ゲイリー・グライムズとグレイ・オブライエンと脇役も好演。御大ジョンウエインは、悪を憎み連邦保安官としての職務を全うする強い意志と息子達を愛する親の愛情を併せ持つ西部男の真骨頂を年齢を超越して見せてくれた。

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わが ”デューク” ことウエインが亡くなったのは1979年だが、その以前から癌にかかっていたことは公表されていた。一度、病床から復帰して、俺はビッグC(cancer のこと)に勝った!と言ったことが伝えられているが、結局、再発して不帰の客となった。全米で彼の回復を祈る声があったのはけだし当然かもしれない。ジョン・フォード映画の常連だったモーリン・オハラが全米に 何とかして、彼を救って! と呼びかけたのは有名だし、ロサンゼルス近郊、オレンジカウンティ空港は彼の死後、名前をジョン・ウエイン空港と改めたほど、まさに古き良きアメリカ、の象徴だった人物だ。彼の遺作となったのが ”ラスト・シューティスト”で、親友だったジェイムズ・スチュアート、それにローレン・バコールの共演だったが、見ているものにはすでに運命を知っている友人たちが、これが最後、と思って演じているのが感じられる、名作というか、形容しがたい映画だった。”ジョン・ウエインはなぜ死んだか” という本があるが、それによるとネバダの砂漠地帯で映画のロケに参加した俳優の多くが癌にかかり、ウエインもその一人だとしている。ウエイン西部劇で彼の良きわき役だったペドロ・アーメンダリスもその一人で、癌とわかって自殺したというし、科学的に証明可能なのかどうか知らないが、”駅馬車” から始まって彼の主演西部劇にはまずほとんどと言っていいくらい、砂漠が登場するのは事実だ。モニュメント・バレーだったら、癌にはならなかったのか、など思ったりするが、やはり駅馬車が疾駆するのは砂漠でなければならなかったと思う。一時、ジョン・ウエインの再来!などと騒がれたアレックス・コードによるリメイクの駅馬車はワイオミングの森林の中を駆け抜けたが、コード本人もその後不発だったし、やはり砂漠でなければなあ、などと思ったこともあったりした。小泉さんのご指摘通り、ウエイン晩年の作品ではあるけれども同じように老境にはいって作られた ”リオ・ブラボー” ”エルドラド” ”チザム” がいずれもユーモアあふれる、正統的勧善懲悪ガンプレイフィルムだったのに対し、”ケーヒル” には少し違ったトーンがあった。監督はアンドリュー・マクラグレン、アーメンダリスやハリイ・ケリー父子などとともにウエイン西部劇に欠かせなかった愉快な仲間、ヴィクター・マクラグレンの子供である。このあたり、父の親友のありようを知り尽くした演出だったのかもしれない。

 

Sneak Preview (5)  アーヘン、ヨーロッパ誕生  (44 安田耕太郎)

ヨーロッパに関して理解できない点があった。ローマ帝国の滅亡から現在の大陸の中核をなすフランス、ドイツ、イタリアがどのようにして形成されたのか、であった。解く鍵がアーヘンにあるのではないかと睨んだのだ。パリの北駅(Gare de Nord)からケルン行きの電車に乗ってアーヘンに向かった。

アーヘンAachenは鉱泉を意味する。古代ローマ時代から温泉保養地であったという。フランス語ではエクス・ラ・シャペルAix-la-Chapelle。Aixは水・鉱泉のこと。Chapelleは礼拝堂のこと。後述する大聖堂を指す言葉。「礼拝堂の泉」という名の町である。 

東西に分裂したローマ帝国の内、西ローマ帝国は5世紀末に滅亡。そのあとヨーロッパ全域を統一する勢力はすぐには現れなかった。統一したのがゲルマン民族の一つフランク王国であった。フランク王国は5世紀末にゲルマン人の部族フランク人によって建てられた王国で、最初の王朝メロヴィング家時代の732年にはトゥール・ポアティエ間の戦いでイスラム勢力を駆逐した。その後、子供の相続問題で衰退、代わって王朝の宰相であったピピン3世(Pippin III)がメロヴィング王朝を打倒して、自らカロリング王朝を創始して王国を支配。カロリングという名はピピンの父カール・マルテルからとった「カールの」という意味である。732年ポアティエの戦いでイスラム勢力に勝利した英雄がメロヴィング朝の宰相だったカール・マルテルである。

カール・マルテルの孫、ピピンの子カール1世(大帝)の時代8世紀末には、イベリア半島、ブリテン島、イタリア半島南部を除く西ヨーロッパ全域を支配するに至る。カール大帝はフランク国王として40年間、西ローマ皇帝にも西暦800年に戴冠、死亡するまで15年間君臨した。初代神聖ローマ帝国皇帝とも見なされる。神聖ローマ帝国(Holy Roman Empire)は領土的に今日のドイツ+オーストリアと同じだ。これらの展開は日本の奈良時代から平安時代の幕開けとほぼ同時代になされた。カール大帝の後を継いだ息子の死後、残された三人の息子達(カール大帝の孫)はフランク王国を3分割相続した。9世紀半ばのことである。それが今日のフランス、ドイツ、イタリアと重なる領土であった。現在に至るヨーロッパの誕生だ。

カール大帝はアーヘンを首都と定め、古典ローマ、キリスト教、ゲルマン文化の融合を体現して中世以降のキリスト教ヨーロッパの太祖として扱われており「ヨーロッパの父」と呼ばれている。フランスとドイツ両国の始祖的英雄とみなされていることから、フランス風及びドイツ風呼び方を共に敢えて避けて、英語風に呼ばれることも多い。

英名はチャールズ大帝Charles the Great、フランス名はシャルルマーニュCharlemagne、ドイツ名はカール大帝Karl der Groβe。スペイン語ではカルロスCarlos。フランス語のシャルルマーニュのマーニュはMagne。ワインの大瓶マグナムMagnumと同じ語源。大きい、偉大な、という意味。 カール大帝は在任中にアーヘンにフランク王国の宮殿教会を建立、のち大聖堂に改築。当時アルプス以北では最大の大聖堂であり、北ヨーロッパで最古である。彼の墓所も大聖堂内にある。

ビザンチン様式を取り入れたモザイク画や「ガラスの礼拝堂」と言われるステンドグラスは壮絶な美しさであった。八角形の聖堂内部は建築様式、古さ、豪華さ、荘厳さなど他に類を見ない。中世には所蔵する聖遺物により、巡礼地ともなっていた。現在ユネスコ世界遺産は1030件あるが、1978年に最初の12件が登録された。アーヘン大聖堂はその内のひとつである。勿論、ドイツ最初。ドイツ語でKaiserdom皇帝の大聖堂ともいわれる。

 

政治的に重要なことは936年から1531年まで歴代30人以上の神聖ローマ帝国皇帝の戴冠式が執り行なわれていたことだ。最後の戴冠式を行ったのがカール5世、ハプスブルク家出身の神聖ローマ帝国皇帝としてスペインも統治した。オランダをもスペインの占領下に置いた。

ついでに、フランス名Charlesmagneのシャルルはチャールズ大帝と同じだということで誇り高き由緒ある名前。僕が訪れた1969年まで10年間大統領だったシャルル・ド・ゴールCharles de Gaulle(ゴールのチャールズ)は驚くべき名前だ。

ゴールGaule(フランス語)とはガリア(Galliaラテン語)即ちフランスのこと。ゴール=ガリア(フランス)のシャルル。言うなれば、現代フランスのシャルルマーニュということになる。彼は心の中ではそう思っていたのではないか?

現代に生まれたフランスの英雄としてアメリカにもイギリスにも伍していた、彼の姿が忘れられない。

話を少し前に戻すが、3分割して出来たフランスに相当する部分が西フランク王国であった。王国のカロリング朝支配も創設から200年ほど経った987年に断絶、王国もフランス王国と呼ばれるようになりユーグ・カペー(Huges Capet)によりカペー王朝が創設された。

そしてフランス革命まで800年間に亘り、フランス王国はカペー朝(dynastie des Capétiens)350年、ヴァロア朝(dynastie des Valois)250年、ブルボン朝(dynastie des Bourbons)200年と引き継がれていったが、断頭台の露と消えたブルボン王朝のルイ16世で終焉を迎えた。その後は短期間のナポレオン帝政から共和制に移行して現在に至っている。

フランク王国が三分割して出来た国家のひとつである神聖ローマ帝国(Holy Roman Empire)は、名前から判断するとどこの国か分からないが、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、北イタリアの一部に君臨した国家である。西ローマ帝国の後継国家を称した。首都はプラハ、ウィーン、レーゲンスブルグなどに置かれた。ナポレオンの登場によって1806年帝国は消滅した。

エーガ愛好会 (6) 新・若草物語見てきました  (34 真木弓子)

同期アサ会一の文武両道で優しい小泉さんがミーハーの私にお声をお掛け下さったお蔭で、映画に精通していらっしゃって、他のあらゆる分野にも造詣が深い皆様のブログを何時も感心しつつ楽しく拝読させて頂いております。

皆様のお蔭で家でのお籠り生活も飽きず、教養も増し? TV放映の映画も隈なく再見。殆ど忘れていた場面が多くて我ながら驚きでしたが 返って新鮮に見られたとも思います。その中でオルコット原作「若草物語」もこざいましたが、今「ストーリー.オブ.マイライフ」を上映中で、早速見て参りました。

「若草物語」は10代の個性的な可愛い4人姉妹で童話の様に清らかで画面も明るく懐かしく感じられましたが、今回のLITTLE  WOMENはジョーが大人になってから始まり、回想で子供時代があって、人生の重みが胸に響きました。最後はジョーがベストセラー作家になり大成功のハッピーエンド。オルコットの自叙伝映画で、先の若草物語とは監督の視点が違いますし、主役のジョーは「ジューン.アリスン」に対して「シャーシャ.ロ―ナン」、つい最近TVで見たので つい比べてしまいましたが、主役の違い同様に、当然ですが全く別の作品です。

画面も最初は暗くて ハッピーエンドでパッと明るくなりました。映画批評通りに見応えのある映画でした。内容の違い以外で面白かったのは、女優陣は皆それなりに綺麗で納得ですが、男優主役のローリー(ティモシー.シャラメ)はまるでアニメの美青年で中性的な年下の男の子 の感じ、化粧、髪型ばかりでなく骨格も違っているのかしら?私の知らない俳優ばかりですが、古い顔立ちのマーチ伯母のメリル.ストリーブ は流石!貫禄がありました。

以上、外出自由になってから初めて渋谷に出た序に見ましたので、小泉さんからのお勧めもあり、私も敬服する皆様にもしお役に立つならばと思いまして、アップさせて頂きます。4姉妹の描写はより個性的で意志力が感じられて◎。衣装も素敵で女性向きの映画かな?これからご覧になる方もいらっしゃると思いますので詳細は遠慮致しました。

矢張り映画館の大画面は良いですね~、渋谷東宝シネマズは入場席は半分だけですので、私の両隣は空き、前後も空いていて、安心して見る事が出来ました。
でも映画館は大変ですね。よし!又 映画館の為にも貢献せねば!

オリバー君の娘

オリバーの娘、といってもエーガの話ではない。

足掛け6年位になるだろうか、ほぼ毎週、英会話のレッスンをしてくれているロンドン生まれの好青年 オリバー・ワトソン君にお嬢さんができた。勿論、大変な喜びようだ。彼の父君がちょうど小生と同じ年だそうで、こちらも何だか父親代わりみたいな気持ちになっていて、英語を習う見返り(?)にわがヤマト民族のことをいろいろと教えている間柄でもある。夫人にはまだお会いする機会がないが、デザイン関係の仕事を持っておられるらしい。この教室(GABA)のインストラクタには、日本人と結婚している人が多い。これからの時代、これからのいわば地球俯瞰型生活のなかで、こうして国を越え、文化の違いにとまどいながら理解しあっていく家族が増えていくのは素晴らしい事ではないだろうか。僕の勝手な想像だが、英国と日本、という二つの国にはそれとなく文化的な要素のところで近いものを持っているのではないか、と思ってきた。この一組の夫婦から新しい時代の種がまかれた。彼が得意になって見せてくれた写真、娘さんの髪は漆黒、生後1週間だというのに ふさふさ という形容詞を使いたくなるような日本髪、であった。

彼の喜びようが55年前、自分が感じた歓喜の感情を思い出させ(父親がわり、と勝手な思い込みもあって)、ちいさな記念品に、わが子誕生の朝に書いた、例によって詩まがいのものをそえた。夫人がどう翻訳してくれるか、申し訳ないが楽しみである。誕生後のレッスンで、名前をどうするのだ、と聞いたら、英語のパスポートには Alyssa 、日本語では ありさ としたい。ただ日本語をかなにするか漢字がいいか、と聞かれたので、僕は漢字がいいと思う、と答えた。かなはやさしいし、読み間違えがない。しかし漢字には意味がある。それが大事なのでは、というのが理由だった。結果として、長女は 有里彩 ちゃん。彩のある(埼玉は彩の国と言っている)ふるさとをもつ娘。何と素晴らしい命名だろうか。この三つの文字を選ばれた夫人のセンスには脱帽である。オリバーはいずれ、国籍を選ぶ時期がきたら、どちらを第一にするか、本人に決めさせる、と言っている。その時期、小生はたぶん、この現世にはあばよ、と言っているだろうが、わが有里彩ちゃんに栄光あれ!

 

 

 

娘よ。

おさなき生命萌え出づるあさ

阿佐ヶ谷の空は おだやかなりき。

霜月にはあれど

ドアより垣間見たる雲は やわらかにして

朝 まだき

うす黄金色に光り居れリ。

このあさ

ふるさと東京は

気温 9.3  湿度 83

しじまをぬらしたる時雨おさまり

いと おだやかなりき。

 

娘よ。

人の親となりたる日

健やかにまどろめる母を置きて

父は街へ出でたり。

日 土曜なれば

道は人にあふれたり。

そのとき

高らかに笑い交わしつ一群の少女父がそばをすぎ

わかき香り

埃せる街をきよめたれば

卒然と心のうちに 父は叫び居れり。

 

われに娘あり

我が娘 また きよらかに生きんと。

 

娘よ。

愚鈍なる父は今こそ悟りたり。

いのちこそは尊きもの

いのちこそはうつくしきものなりと。

 

娘よ。

晩秋の空はすでに暮れ

病室に灯の入りたれば

わかき父とわかき母は

しづかに手とりあい

汝れが名前を語りき。

 

娘よ!

いまいちど

父は心に叫びき。

われに娘あり

わが娘またきよらかに生きんと。

エーガ愛好会 (5)”めまい” みました  (44 安田耕太郎)

Giさんと同じ疑問が沸きました。殺された妻の顔は一度も画面に登場しません。まさか彼女までキムと瓜二つではないでしょう。スチュアートが殺人と断定していたかは、僕には疑問です。彼女が転落したあと、落ちる現場は勿論見ずに、転落地点に人が集まっている時には裏口から逃げるように立ち去っています。自分に容疑をかけられるのを回避したのだと思います。好きな人を失って(と思って)、虚ろに街を徘徊していてキムに瓜二つの女性に遭遇した、と思いました。
この辺の曖昧さは承知の上で、ヒッチコックは既にカラクリを観客に早くから知らせておいて、知らないスチュアートに何が起きるのかハラハラドキドキさせます。サスペンスは英語suspend(サスペンド=宙づり))に由来しているとのこと。精神的に宙ぶらりんになっていて、不安感やハラハラ感を持っている状態のこと。サスペンスはミステリーと違い、謎解きはない。サスペンスは感情(エモーション)を揺り動かすことが絶対的要素、だとヒッチコックは言っています。「めまい」の場合、スチュアートのハラハラ感に観客を同化させ、感情移入させることこそがサスペンスの核だと、言わんばかりです。映像的にサスペンス感を増幅したのが、高所恐怖症のスチュアートが教会の階段を上る時めまいを起こすシーン。俗に「めまいショット」と呼ばれた技法。カメラを後ろに引きながら、同時にズームアップすることで、被写体(この場合、映ってはいないがスチュアート)の位置は変わらないのに、背景だけが遠ざかっていき、めまいを起こしたような感覚に陥らせた。実際のシーンは、階段に似せた模型を作って横に置き、カメラは水平方向に移動させズームアップしたそうです。映画で観たその場面の階段は本物でなく模型です。被写体(人間)は全く映らないので模型でも問題なし。この様なトリックを使ったそうです。仏監督トリュフォーとの対談でサスペンスの神髄と手法について語り合っているのを読んだことがあります。

キム・ノヴァクについて。予定していた女優が妊娠で無理となり、代わりに抜擢されたそうです。ヒッチコック好みの金髪ではなかったそうです。あれだけ人気のあったマリリン・モンローですら使っていません。妖艶・セクシー過ぎるのが理由のようでした。確かにお気に入りは、グレース・ケリー、バーグマン、ティッピ・ヘドレン(鳥、マーニー)、エヴァ・マリー・セイント(北北西に進路を取れ、「波止場」で助演女優オスカー)などの気品あるブロンドだった様です。グレースはモナコへ嫁いで去られ、バーグマンはロッセリーニ監督に持ち去られ、ヒッチコックは落ち込んだそうです。
ノヴァクの東欧白人らしい雰囲気はこの映画にとても合っていたと思います。アップにしたプラチナブロンドに仕立ての良いグレーのテーラードスーツはとても似合うのがこの映画で分かりました。

エーガ愛好会 (4) ”めまい” のこと

“めまい” は編集子にはちと特別なエーガである。この映画を見たのが自分にとって生まれて初めての”デート“ だったからである。相手は水原八恵子、すなわち現在のオクガタである(だから今、こうして書けるのだが)。場所は確か日比谷映画だったと思うが、当時あのあたりに洋画専門のロードショー館が固まっていたから、ひょとすると有楽座だったかもしれない。なんとかキミマロのセリフではないがあれから40年(プラス)、再び隣り合ってみることになったが、昼飯のときのシャルドネが効いてきて、5分くらい眠ってしまったのはこの40年プラスの時の功(?)かもしれない。1週前は ”知り過ぎた男“ だったから、2週続けてヒチコックものを見た事になるが、記憶は断片的で、改めて時間の魔力を感じた事だった。しかし、今回は一つ、疑問を持つことになった。

“めまい”のストーリーの中心は妻を殺そうとする夫が友人の刑事(ジェイムズ・スチュアート)に妻の監視を依頼するのだが、その時には本人ではなく違う女性(キム・ノヴァク)を妻と思いこませ、あたかもキムが自殺したようにみせかけておいて妻を高い塔から突き落とす、というトリックである。スチュアートが疑われることはないのだが、自分に過失があったように思いこみ悩む。その後、街でキムに酷似した女性を見つけ、トリックを見破ることになるのだが、今回おかしいなとおもったのは、スチュアートは殺された人妻の本当の顔は知らないわけだから、もし死体の検証に立ち会っていれば、あきらかにキムが偽物であることはすぐわかったはずである(判別できないほど顔がつぶれていたのなら別だが)。しかし映画の中では彼が死体確認に立ち会う場面はない。

それと、いつ、どうしてスチュアートが(自殺ではなく殺人ではないか?)という疑問を抱くようになったのかが映画の場面では定かではない。街で(サンフランシスコという大都会の中で)偶然キムに再会し、解決へもっていくというのは不自然だから、意識して探していたに違いない。このことは再会以後のスチュアートの行動が確たるステップ(事件当日と同じ服、髪型にさせて現場へ連れていき動揺させる)で導かれることから明白である。僕が今回抱いた疑問は、“なぜ死体確認に、現場にいた現職の刑事が立ち会わなかったのか?” とうことである。どなたか、この疑問にお答えいただけないだろうか?

(菅原)小生、お気に入りのキム・ノヴァクに60年振りに再会しました。キレイだけど、超ダイコンですね。従って(これって、また、独断と偏見か)、ヒッチコックは二度とノヴァクを使っていません。しかし、小生、大不覚をとりました。今のいままで、「めまい」はヒッチコックのものだとばかり思っていたら、タイトルにボワロー=ナルスジャクの「死者の中から」が原作とあるじゃないですか。シモーヌ・シニョレが出たコワーイ「悪魔のような女」の原作者です。

ヒッチコックは、映画が始まって暫くしてから、用もないのに門の前を左から右に過りました(これが彼の役どころ)。それにしても、60年前、外出するに際し、日本でもそうだったんでしょうが、米国では帽子を被り、上下おなじ色のスーツを着用し、靴はフローシャムだったかどうか。今なら、さしずめ、野球帽、ティーシャツ、ジーパン、ナイキの厚底靴と言ったところですかね。そう言えば、ヒッチコックは「知り過ぎていた男」でも、スチュワートがソフトを頭に乗せていたのに、今回も帽子なし。ヒッチコックの売りって禿頭であることなんですか。

(金藤)「めまい」観ました。子供の頃に観たヒッチコックの印象しかないのにわざわざ書くのも恐縮ですが、今日の「めまい」は私の印象の中のヒッチコック映画と、ストーリーの展開が違うような気がしました。 原作者が他にいたのですね。ヒッチコックがどこに出て来るか、見るのを忘れていました。 もっと注意深く観なくては・・・それでは、皆さま、めまいと熱中症にお気をつけてお過ごしください!

(中司―金藤)めまい がおわるとすぐ 新選組血風録。今日は夕方まで忙しい。

Sneak Preview (4) (44 安田耕太郎)

スコットランドでの驚き

南からエディンバラの市街中心部へ入って目に飛び込んできた光景が忘れられない。切り立った岩山の上に要塞のようなエディンバラ城が聳えていた。

6世紀にケルト人が建てた砦が起源であるという。 旧市街も石造りの建物は中世の香り豊かで散策も楽しんだが、何と言ってもエディンバラ城であった。街から見上げても城内に入ってもその迫力と存在感に圧倒された。城全体が「キャッスル・ロックCastle Rock」と呼ばれる岩山の上にあるので、市内全体に加えて北海まで見渡すことが出来る眺望は「素晴しい」の一言だ。バグパイプを吹くタータンチェックのスカートを身に着けたおじさんも歓迎してくれる。いかにもスコットランドに来たな、という気持ちになる。

グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(United Kingdomイギリス)のカントリーのひとつであるスコットランドは1707年までは独立した王国であった。現在でも独立志向が強く政治的懸案事項となっている。

スコットランドに来て驚いたのは、スコットランド地元の民間市中銀行が発行するポンド紙幣が流通していたことだ。エリザベス女王の図柄のイングランド銀行(日銀に相当する中央銀行)発行のイギリス公式のポンド紙幣は勿論流通していて、両方が併存しているのにはびっくりした。これは連合王国に併合される1707年以前の独立国当時のまま造幣を維持していて、現在ではイギリス連合王国の一地方にもかかわらず昔のままスコットランド独自のポンド紙幣を発行し流通させているのである。ただし、スコットランド域外のイギリス国内では使用、両替が制限されているので、スコットランド域内で使い切るようにした。イギリス国外では使用は不可能であった。

このように旧来から流通する紙幣が数百年後の現在でも併存する不思議な現実が一例として示す通り、EU離脱か留まるかのブレグジット問題でもイギリス中央政府とスコットランドの民意は相違していて、微妙な国内問題を抱えているイギリスとスコットランドの関係である。

ちなみに、スコットランドの旧名はラテン語でカレドニアと称したのは既に述べた。南太平洋上の島ニューカレドニアは18世紀後半イギリス人探検家キャプテン・クックによって発見され、新しいスコットランドを意味するニューカレドニアと命名された。数十年後にはフランス海外領土となったが現在に至るまで名前は変わっていない。

エディンバラ城とエディンバラに大満足してスコットランドの奥地に向かった。

 

スコットランドはケルト人(Celtic)が住んでいた地域。ケルト語のひとつゲール語(Gaelic)を話す人達であった。ゲール語で湖(lake)をロホ(loch)という。よく知られたスコットランド民謡ロホ・ローモンド(Loch Lomond) はローモンド湖を歌った民謡。怪獣が出ると言われたネス湖は現地ではLoch Ness(ロホ・ネス)という。

そのスコットランドの中央部を真っ直ぐハイランド地方の首都インヴァネスを目指した。深い森の中を静かに進むといった移動中、ノルウェーに次いで二人目の女性運転の車をヒッチハイクした。中年の女性で道中の会話はなまりが強くよく聞き取れず、日本と中国の区別がはっきりとは分かってない印象を受けた。しかし、親切なヒッチハイクに助けられたのは間違いない。

次に男性二人連れの車に乗った。おやっと思うことがあった。二人の話す英語が全く分からない。方言が強く聞き取り難いのは想定済みであったが、それにしても全く分からない。二人に尋ねて解った。なんと古来より地元では使われているゲール語を話していたのだ。初めて耳にした言語だった。破裂音がするオランダ語のように聞こえた。英語とゲール語が公用語であるが、スコットランド人口5百20万人のうちゲール語を話すのは6万人強(100人に1人)で年々減っているという。情報としては知ってはいたが、まさか古来の現地語ゲール語をスコットランドで耳にするとは思わなかった。

 

インヴァネス(Inverness)はスコットランド北部の行政区割りでハイランド地区随一の町で事実上の首都。これに対してローランド地方の首都はエディンバラだ。北国の静まり返った町だった。インヴァネスは「ネス川の河口」を意味する。北にあるといっても北欧のオスロ、ストックホルム、ヘルシンキより南に位置している。しかし、より人里離れた感じがした。冬は日照も少なく雨も多く寒い気候の下、人々はどんな生活をしているのかと想像した。多分スコッチウイスキーが手助けしているに違いないと思った。

ユースホステルに泊まり暮れるのが遅い静かな町を散策した翌日、町の中心部からヒッチハイク開始、10キロほど南に行くとネス湖に達する。幅は2キロと狭く35キロの細長い湖の湖岸に沿って延びた道を南下した。岸辺に廃墟になった城があり、村や人家にはほとんど出くわさなかった。勿論、ネス湖には怪獣はいないが、いても不思議でない暗い神秘的な雰囲気は充分味わえた。スコットランド(ブリテン島も)には高山はなく1000メートルを少し超えるのが最高峰。寒さと風で樹々も育たず丘陵は緑の背の低い草木に覆われていた。やたら放牧された羊の数が目立つ。やがてスコットランド民謡「ロッホ・ローモンド」で知られたスコットランド最大のローモンド湖(Loch Lomond)に着いた。

スコットランドは北海道をもっと過疎にした自然がそのまま残されていて、面積は北海道より小さく一周するのは存外早かった。人口は北海道より少し多い。最大の都市グラスゴーに一泊後、ロンドンへ戻るべく南下ルートを選んだ。スコットランドを離れるに当たってスコッチとして有名なウイスキーについてひとこと。

中世の終わり近く薬酒として修道院が独占的に製造していたが、16世紀宗教改革が起こり、ヘンリー8世によるイギリス国教会設立もあって修道院は解散させられた。その結果、修道院から蒸留技術が農家など民間に広まった。独特の香りを産む泥炭(ピート)の生産も豊富で、権力側は酒税収を当てにするようになる。自然な成り行きだ。製造者は奥地であるハイランド地方(Highland)や西海岸の沖合ヘブリディーズ諸島(Hebrides)へ製造場所を移し、理不尽な税取り立てから逃れるため、さらにアングラで密造した時期もあったのだ。スコッチウイスキーの製造がハイランド地方や、西海岸の沖合アイラ島(Islay)を含むヘブリディーズ諸島などの辺鄙なまたは田舎地域に集まった理由である。

大麦麦芽のみを使用したウイスキーが「モルトウイスキー」。そして「シングル」が意味するのは単一の醸造所で造られたウイスキーをボトリングしたものだ。つまり、一つの醸造所で造られた「モルトウイスキー」だけを瓶詰めしたのが「シングルモルトウイスキー」。

ハイランド地方東北部インヴェネスの東50キロの所にはスペイ川(River Spey)に沿って世界最大の醸造地域スペイサイド(Speyside)がある。スペイ川の流域は綺麗な湧水に恵まれ、周辺はピートの生産地でウイスキー生産にはうってつけの場所。スコットランドのモルトウイスキー醸造所の半数近い50を超える醸造所があり、まさにウイスキー産業のメッカだ。このスペイサイドは長年モルトウイスキー密造酒エリアだった。現在まで続くグレンリベットが最初に政府から公認された醸造所となった。ということは、それから税金を払いだしたということ。1824年のこと。

彼らの醸造所とシングルモルトウイスキーは特別に定冠詞がついて「The Glenlivet」という。さらに同じスペイサイドに醸造所を構えるシングルモルトウイスキーのロールスロイスと称されるザ・マッカランも「The Macallan」という。 創立は1824年で酒税を納める政府公認醸造所第2号となった。ウイスキーに「The」が付くのはこの二つのみだ。あまたのスコッチウイスキーの中にあって特別な存在なのだ。政府に公認されて酒税を納めていたこれらの先駆者は密造を続けていた他の醸造所からは当初白い目でみられていたという。

ちなみにスコッチウイスキーにはグレン(Glen)の名を冠した銘柄が目立つ。

The Glenlivet以外にも、グレンモーレンジィ(Glenmorangie)、グレンフィディック(Glenfiddich)などいくつもある。Glenはスコットランドの現地語ゲール語で谷、渓谷の意味。ザ・グレンリベットは「リベット川の谷」、グレンモーレンジィは「静寂の谷」、グレンフィディックは「鹿の谷」を意味する。