高尾山へ行くのは不要不急か

不要不急、とはなにをいうのであろうか。不要and不急か、不要or不要か。ホリが上高地までのこのこ行ったり(後報)三嶋が富士山を見に行ったりしてもおとがめなしなら、おれが高尾へ行くぐらい、文句あるめえ。

自宅発9時40分。ここのところ覚えた悪習でケーブル使用。素直に行けばよかったのを、3号路に入った。目論見通り、人は少なく1号路に合うまで、すれ違ったのは10人くらい。付かず離れず,後方にいるオバタリアン2名のうんざりするような声が気にかかったが。予想より結構かかって、頂上まで90分かかってしまった。三嶋の悪口を言ったせいか、富士山は彼の時のようではなかった。

ミス冒愛好会 (13) 日・中・英 それぞれのお話

(菅原)

久し振りに、大変、面白い冒険小説に出会った。と言っても、1913年の作品だから、今から100年以上も前の話しだ。名前だけは聞いていたが、本物に出くわしたのは今回が初めてだ。英国の作家、サックス・ローマーの「怪人フーマンチュー」だ(漢字では、溥満洲だそうだ。 そこから、てっきり満州人だと思っていたが、出身地から漢人らしい)。一言で言ってしまえば、江戸川乱歩の「怪人二十面相と明智光秀(は、「麒麟がゆく」か)じゃない、明智小五郎」と思っていただければ良い。ここでは、白人世界の支配を目論む怪人フーマンチュー(悪)対、それを防ぐ英国政府高等弁務官のネイランド・スミス(善)の構図となる。とにかく、危機に次ぐ危機が、スミスだけでなくフーにも襲ってくる。そして、いずれもその危機から脱出するお話しだ。従って、物語りにただ身を委ねていれば良い。ところが、偶然が多過ぎるとか、平仄が会わないとか、屁理屈を言って文句を言いだすと、このお話しは成立しなくなる。従って、そう言う人にはお薦めしない。これがフーマンチューの第一作で、最後は1959年の13作目まで続いたとのことだ。日本では、あと第二作目の「悪魔博士フー・マンチュー」(1916年)が私家版で出ているだけだ。

なお、小生が読んだのは、ハヤカワ・ポケット・ミステリー(2004年発行の1757番。翻訳は嵯峨静江)。他にも、ジョン・フィリップス・マーカンドの「サンキュー、ミスター・モト」(1936年)も読んだが、面白さと言う点では、「フーマンチュー」には遥かに及ばない。

(中司)ここのところえらく評判のいい ”カササギ殺人事件”。先ほど読了。宣伝文句にいわく、読み終わったらボーゼンとする、とか、こういうの、あり?なんてのが多かったけど、ストーリーそのものはともかく、構成が非常によろしい。おすすめ。フーマンチューはこれから。先週まで、ジョー・ネスボを2冊、抱えていたので。

(菅原)「カササギ・・・」、上巻は明日から借りられるが、下巻はまだ4人が待ちの状態。ここが、図書館の泣き所。

ジョー・ネスボ、全く知らなかった。Wikipediaを見ると、最近の流行りの人らしい。でも、こいつを原書で読んでるんだから、貴兄、大したもんだね。逆に、小生は、マイケル・ギルバートの「スモールボーン氏は不在」(1950年。訳者:浅羽莢子。小学館)を読んだ。70年前の本を、一生懸命、読んでたら、現状には全く疎くなっちゃうね。こいつは面白かったが、犯人がムリ筋でいささかガッカリ。

(岡野)菅チューから紹介された辻真先の本はまだ図書館の順番が来ないので、すぐ借りられた「焼け跡の二十面相」を読みました。

時代設定が戦中から戦後なので、懐かしい風景が思い出される”少年探偵団”でした。もう一冊は陳浩基/訳・玉田基、二段組みで537ページ、読みでがありましたが予約が入っていて延期が出来ないので電車の中でも読みました。

痴漢被害に遭った妹がネットの書き込みで炎上し自殺、姉が”ネット探偵”に依頼して犯人捜し「復讐」というストーリーですが、ネットのハッカーや仕組みがも判るテンポ良く読める本でした。

(中司)4,5年前になるかなあ、”K-20″  怪人二十面相っていう映画見ました。太平洋戦争は直前に回避されたが、代わって独裁政権が出来た日本、という設定でしたけど、これが原本になるのかなあ。主演は金城武、明智小五郎が中村トオル,松たか子、国村隼人。DVDがアマゾンにもありますが、えらく面白かったです。

実はステイホーム中の読書三昧用に何冊かアマゾンから本を買ったのですが(スガチューご推薦のフーマンチューもそのうち)、なんと間違えて同じ本を2冊買ってしまいました。田村兄にご相談したらやってみようと快諾されたので、本日送りますが、題名は翻訳では”影の護衛” 菊池光訳 ハヤカワ文庫 です。彼に送ったのは原本 著者は Gavin Lyall  という英国の正統的冒険小説の大家、題名The Secret Servant  .。アメリカ人なら Servant ではなく Agent  というのかもしれません。たむちゃんには警告?しておいたのですが難しい英語ではないけれどおよそイギリス人か英国滞在の長い人しかしらないだろういいまわしとか俗語が出てくるので、結構時間はかかるのではないか? しかしその分、コロナ鬱予防にはよろしいのでは。各位、一念発起して原書購読?しませんか。もっと読みやすいの、ご紹介しますよ。語学は認知症予防に最適、という医学的意見もありますし。

(中司―田村)今朝、本を発送しました。

そのあと、自分でも読み始めたのですが、物語は主人公マキシム少佐が全く畑違いの政府機関に配属になって戸惑うところから始まります。ですので、辞書を引いてもわかりようのない政府機関の名前(それがまた略称になったり)だとか独特の言い回しが出てきます。小生、こういう時は深追いせずに想像力で補うことにしていますが(要はストーリーの展開がわかれば十分、と割り切って)、たまたま翻訳本が手元にあるので、その部分だけ参考にすることにしています。同じイギリスの作品でも、ジャック・ヒギンズ(代表作は 鷲は舞い降りた Eagle has landed)のものはとても読みやすいのです。ライアルは今までに4冊ほど読んでいますが、いずれも苦労しています。

エーガ愛好会(46) ”ドクトル ジバゴ” を巡って

(44安田)

ロシアの大河小説の映画化ですから3時間強と長いですね。一挙に観るのは流石に疲れます。映画の主題曲「ララのテーマ」が素晴らしい。英仏コンビの監督デヴィッド・リーンと作曲家モーリス・ジャールは「アラビアのロレンス」に続き、映画史に残る名音楽だと思います。雪の荒野にポツンと凍った屋敷がありましたが、雪と氷で覆われているのではなく室外・内とも蝋で造っていたということです。「ドクトル・ジバゴ」の極寒の雪景色: 撮影場所は驚くなかれスペイン北部のソリアでした。50年以上前はもっと寒く雪も沢山降ったのでしょうね。
ララ役のジュリー・クリスティが若い時に恋に落ちて結婚する相手はボルシェビキの闘士パーシャ。イギリスの名優トーマス・コートネイ(Thomas Courtenay)が演じた。パーシャはロシア革命後、名前をストレルニコフと変え体制側の民衆を苦しめる将軍になっていた。ドクトル・ジバゴは1965年の作品ですが、コートネイは1983年「ドレッサー」(The Dresser)、2015年「さざなみ」(45 Years)にシャーロット・ランプリングと夫婦役で共演。共に彼の名演技が光ります。
(金藤)
もう一度観たかった映画でしたから、原作はロシア文学、長いのも承知で終わりまで観ました。舞台が19世紀の初期から、第一次世界大戦勃発、ロシア革命も起き、時代背景が厳しく、とても一言感想では書ききれませんでしたので、映画の内容にふれずお粗末様でした。「ララのテーマ」は素敵な曲ですね! 心を揺さぶられるような旋律もあり、私も好きです。軍の行進では“インターナショナル“が流れていたんですね!
凍ったお屋敷は蝋で作られていて、撮影はスペインの北部だったとは、スペインに雪のイメージはありませんでしたから、ビックリです(O_O) !
(保屋野)

「ドクトル・ジバゴ」は、昨年初めて観ましたが、監督、シナリオ(原作)、俳優、音楽、そして映像等全て「ハイレベル」の「大作」でした。ハリウッドの長編大作といえば、先日観た「80日間世界一周」や昨年観た「エデンの東」「アラビアのロレンス」「ゴッド・ファーザー」「史上最大の作戦」そして、「風と共に去りぬ」「ベン・ハー」等思い付きますが、映画全盛期ならではの「映画の華」だと思います。ちなみに、この中で、ドクトル・ジバゴ」と「エデンの東」「史上最大の作戦」以外は、アカデミー作品賞を受賞しています。

確かに、同じ、監督(デビット・リーン)音楽(モーリス・ジャール)俳優(オマー・シャリフ)の「アラビアのロレンス」と比べると若干評価は低いようですが、映像(舞台)が(暗い)ロシアであることが(明るい)アラビアの砂漠に負けたのかも?最後に、「ララのテーマ」は映画音楽史上、「ベスト10」に入る名曲だと思います、ビデオで間奏曲を何十回も聴いたほどです。

コロナに関する講演を聞いて来ました (42 下村祥介)

昨晩、42年卒河瀬さんのお招きで映像学会によるコロナウイルスに関する講演を視聴しました(河瀬さんは本学会の副会長、会長は40年卒の林勝彦さん)。

講師はインペリアル・カレッジ・ロンドン(王立ロンドン大学)で免疫学専攻の小野昌弘准教授です。本内容について免疫学会など医療の世界ですべてが合意され認められているかどうかは不明です。小野先生の講演を下村の理解しうる範囲でまとめ、河瀬さんにチェックしてもらいました。これまでの実験や検証から得られた先生の知見ですが、まだ不明な点が数多く残っているとのこと。このことを理解した上で参考になさって下さい。

コロナの発症率

無症状の人が30%、軽症の人が60%、重症になる人5%、亡くなる人1%。9割の人がコロナにかかっても軽いか無症状ですんでいる。問題は重症になったり亡くなる恐れのあること。これにどう対処するか。

ワクチンの効果

ワクチンには大きな効果がある。ワクチンを接種した人と接種していない人との間では感染率にきわめて大きな違いがあることが分かった。検証の結果、ワクチン接種したほとんどの人は感染しなかったが、無接種の人はほとんどの人が感染したことが判明。

今のワクチンはイギリス型ウイルスには効果があるが、南ア型ウイルスに対しては効果が大幅に落ちる。ブラジル型に対する効果はまだ未解明。ワクチン開発は常にアップデートしていく必要があるが、コロナの変異に合わせてワクチンの構造を簡単に変えられる様に出来ているので、ワクチンのアップデートは容易。

ワクチンの副作用

現在、ワクチン接種による重篤な副作用は起きていない。米国では既に2,200万人以上の国民に接種されており、またイスラエルでは国民の50%以上が接種済み。今のところ生命に危険を及ぼすような重大な副作用は起きていない。

ワクチンの持続効果

ワクチンの効果が出るのは接種後4週間たってから。持続効果は半年ぐらい。

コロナ感染者の体内にできる抗体(体内に入ったウイルスの悪さを防いでくれるもの)の持続効果は8か月ぐらい。従って、感染が終息するまでは半年~8か月ごとにワクチンを接種する必要があると思われる。

変異について

新型コロナウイルスは頻繁に変異し、多種多様な型のウイルスが世界各地で発生している(イギリス型、南アフリカ型、ブラジル型など)。免疫がまたコロナの変異を助長する。イギリス型変異ウイルスの感染力が強いのは健康な細胞にとりつくための突起にあるSタンパクの変異が多数あるため。

アフターコロナの生活について

全国民のワクチン接種が終わり感染が終息に向かっても変異したウイルスは残り続ける。従ってコロナ以前のように無防備に自由に動けるようになるとは考えにくい。一定の予防措置を講じながらの制約を受けた生活になるだろう。

集団免疫は生れない

感染病は一般的に国民の6割~7割の人がウイルスの抗体をもつようになると集団免疫ができる。この結果、実効再生産数が減り社会的な広がりが抑制されて自然に終息に向かうが、新型コロナウイルスの場合は集団免疫が生まれない。

昨年ブラジルのある町では4月~5月ごろから感染が急増し、秋には市民の76%が感染したが、それでも今だに終息していない。当地では夏に当たるこの1月に感染が再発・感染者が急増し、集団免疫のできていないことが認められた。

これはウイルスの変異が頻繁に起こること、そして抗体の防御機能が長続きしない(持続効果がない)ことが考えられる。

重症化について

コロナ感染者の約5%が自分自身のもっている免疫細胞が過剰反応して臓器に障害を与えることで重症化する。重症化は免疫暴走(サイトカインストーム)で起こり、肺炎型、血栓型、血管炎型(川崎病様)の三種がある。重症化するかしないかは人によって大きく異なり、基礎疾患者が重症化する率の高いことは統計学的に分かっているが、医学的にはどのような場合に過剰反応し重症化するかについてはまだ解明されていない。     以上

 

エーガ愛好会(45) 三人の名付親

(中司発 檄文!)金藤メモによれば、22日金曜日BS3チャンネルシリーズ、三人の名付親”、ジョン・フォードの最高傑作です。以前に西部魂の宣伝をしましたが、あれとはまた別ジャンルのセーブゲキです。お見逃しなく。
クライマックスの砂漠の嵐の中の彷徨、運命を知って自ら命を絶つ ペドロ・アーメンダリッツ は後年、癌を宣告されて本当に自殺しますが、ウエインの癌も多分このころ、米軍の原爆実験で汚染されたネバダの砂漠でかかったのだろう、といわれています。余計なことを書きましたが、それは別として、フォードロマンの結集と言える作品、ウエインの親友だったワード・ボンドが演じる保安官もいいし、ハリーケリー・ジュニアも好印象のいい映画です。母親役のミルドレッド・ナトウイックはちょっと老けすぎですけど、モーリン・オハラじゃ逆に
きれいすぎたんでしょうね。なんせ初期フォード一家の総出演です。見てよ!

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(小泉)冒頭「ハリー・ケリーの思い出に献ぐ。彼は古き西部の空に輝ける星であった。」との献辞で始まる。西部劇俳優ハリー・ケリーが死んだのは、1947年このエーガ完成の1年前。ジョン・フォード監督は、ケリー主演で、26本もの作品を撮り、お互い得るところがあったにしても、ケリーと組むことによって地歩を築いたことであろう。

ピーター・B・カインの原作は「恵みの光MarkedMenn1919」としてケリー主演で映画化、それ以前にも、1916年エドワード・ラ・セイント監督ケリー主演で、その後もウイリアム・ワイラー監督「砂漠の生霊1929」、リチャード・ポレスラブスキー監督「地獄への挑戦1936」が作られ、この「三人の名付親 1948」は5本目と言われている。

主演の3人は、ご存知ジョン・ウエイン、メキシコの大スター ペドロ・アルメンダリス、ケリーの長男ハリー・ケリーJr. (これまで「ローリング・ホーム」「追跡」「赤い河」に出演歴はあるものの、フォード作品は初めてで、これが認められて、その後フォードの9作品の名脇役として、欠かせぬ存在となった)。素晴らしい記憶力から出演したフォード作品全ての役者、スタッフの姿を臨場感あふれる筆致で「ジョン・フォードの旗の下に(高橋千尋訳)」に描いている。

物語りはアリゾナ州境の町ウエルカムで、三人の男が銀行強盗を働き、砂漠へ逃れ、幌馬車の中に産気づいた女と遭遇、無事出産したものの、女は三人の名、ロバート・ウイリアムス・ペドロ・ハイタワーという名付親として子供を残し死んでしまう。名付親三人は赤ん坊を抱き、ニュー・エルサレムを目指し、ワード・ポンド扮する保安官一行が追う。背中を撃たれていたケリーJrは途中で死に、アルメンダリスも足を折り銃で自殺。ウエインは、空からの二人の声に励まされ、ニューエルサレムへ辿り着く。

クリスマス興行用と言われるくらいに、聖書を基に、東方三博士をテーマに教示的な言葉が随所に登場、西部劇というよりは、ヒューマニズム溢れる人情ドラマで、射ち合いは、最初の銀行襲撃時のみ。音楽は「駅馬車」のリチャード・ヘイゲマン。駅馬車が走るところで、そのテーマが流れたり、メロディに近い音楽が流れる。最後の酒場でのピアノ弾きはヘイゲマン自身だそうだ。歌手志望だったケリーJrの歌も二曲聴ける。音楽もだが、砂漠のシーンはカリフォルニア州モハビ・デザートで撮影されたとのことで、砂嵐の場面を初め、砂漠を中心に、その景観が素晴らしい。死んだ妊婦を砂山に埋葬するシーン、照りつける荒野に死に行くケリーJrや赤子のために帽子で影を付けるシーン等々。撮影が、「黄色いリボン」「静かなる男」でアカデミー受賞のウイントン・ホーク。セリフのやりとりでも印象的な場面に何回か遭遇した。最初と最後にウエインとポンドの名前に対してのやりとり。保安官の家に立ち寄った時、表札のBe Sweetを眺めウエインが大笑い。最後の審判で、ウエインの本名ロバート・ママデユーク・ハイタワーを呼ばれた時のポンドの大笑い。アルメンダリスが足を折り、もう歩けないと悟った時のセリフ、コヨーテが怖いから銃を置いて呉れという自殺するのを知りつつ渡すウエインの切なさ等々。後年アルメンダリスが癌を患い本当に自殺したとは、信じられない。

いずれにせよ人間の善性の輝きを歌いあげてのエンディングで、甘いと言えば甘いが幸福感に満たされるヒューマンな西部劇だった。最後の判決、1年1日というのはよくわからない。見送りに来た女性、冒頭に出た銀行頭取の娘か?ウエインと一緒になるのを暗示させる。

(小田)皆様の詳しい解説にはとても助けられました。激しい撃ち合いも無く、少し安心して観ていられました。銀行強盗をしようとしている男達が、保安官の奥さんからのコーヒーを外で頂くシーン、次に会ったのが銀行の頭取、なかなか貨車に乗り降りしないロバ、面白い駅のオバチャン、赤ちゃんに一生懸命な大の男達etc.楽しく観ました。やさしい3人の名付け親達全員生きていて欲しかったです。

(安田)キリスト教徒であれば物語が聖書に則ったことはすぐ分かるのであろうが、宗教色はそれほど強くなく、むしろ穏やかに優しく物語が流れていく。マッチョでたくましい大男ジョン・ウエインが小さな乳飲み子を抱えている西部劇は見るだけでほほえましい。今まで祈ったことがないような無法者が、無垢な赤ん坊を守るうちに聖書の言葉に心が動かされていく過程が見どころのひとつだ。

脇役で光っていたののは、ジョン・フォードのファミリー一家と言っても良いほどのジョン・ウエインの盟友・名脇役 である、ワード・ボンドである。この機会に数えると、「静かなる男」「駅馬車」「拳銃の町」「ダコタ荒原」「アパッチ砦」「捜索者」「リオ・ブラボー」などでジョン・ウエインの名脇役を演じている。更に「ヨーク軍曹」「我が家の楽園」「風と共に去りぬ」「怒りの葡萄」「マルタの鷹」「素晴らしき哉、人生!」「荒野の決闘」など名画あるところに名脇役ワード・ボンドありで、大変楽しませてもらった。肥満気味であったが1960年57歳の早過ぎる鬼籍いりであった。

(小川)素敵なエーガでした。小泉兄の名解説を読んだ後で観たのでより素晴らしかったです。
“西部劇というよりは、ヒューマニズム溢れる人情ドラマで、” 実にその通りでした。これはKWV必見ですね、情景については勿論非常に美しかったですが、砂漠での砂嵐は志賀高原のホワイトアウトを思い出し、バックに映える連山は安曇野から見る北アルプス、幌馬車はテント・食当、コンデンスミルクは非常食、水場探しは南アルプスで苦労したのを思い出させます。

駅馬車を思い出すバックミュージックもよかった。
“ロバート・ウイリアムス・ペドロ・ハイタワー、あばよ” のウエインはまだ若かったね。

(金藤) Giさんの「見てよ!」のお勧めです、観ました!西部劇?でこのような展開は初めてです!三人のゴッドファーザー、 優しかったですね!

ペドロ・アルメンダリスは良い俳優さんだと思いましたが、メキシコの大スターでしたか!ハリー・ケリーJr.の歌、もう何曲か聴きたかったです。
それにしても荒野の砂嵐は激しかったですね、TVで観ているだけでも眼がシバシバです!

(編集子)ジョン・ウエインはハリウッドで下働きをしているところをラオール・ウオルシュに見いだされ、 Big Trail に主演して西部劇俳優としてスタートし、ジョン・フォードがかの 駅馬車 に抜擢、その後西部劇のキング的存在になるのだが、フォード監督による作品は アパッチ砦・黄色いリボン・リオグランデの砦 といういわゆる騎兵隊三部作、リバティバランスを射った男 捜索者 騎兵隊 それとこの 三人の名付親 だけである。ウエイン西部劇、といえば1920年代からあるのですべてあげるのは不可能だが、我々の年代では ほかにも 赤い河 エルドラド スポイラース チザム リオ・ブラボー 勇気ある追跡 エルダ―兄弟 ウエインの遺作になった ラストシューティスト などなど数多い。ただこれらの作品の監督は ハワード・ホークスとかヘンリー・ハサウエイ、それと後半には親友だったヴィクター・マクラグレンの息子、アンドリュー・マクラグレンなど、大まかに言ってしまえば大作・活劇的なフィルムを得意とする人たちで、作品そのものにもアクション、派手なガンプレイなどの、言ってみれば西部劇の代名詞、といえるファクタが前面にでてくる。それだけに上記のフォード作品(と、主演はフォンダと違ったが小生にとってのベストフィルム 荒野の決闘 を加えて)との差というか隔たりは明確である。小泉さんはヒューマンな西部劇、という表現をされたが、どれをとってもこの形容詞はフォード―ウエイン作品に共通するものだろう。

またこの作品も、フォード一家、といわれた常連が顔をそろえているのが楽しい。わき役陣に騎兵隊三部作などの常連だったヴィクター・マクラグレンがいないのが寂しいが、ベン・ジョンスンもきっちり顔を出している (なおもう一人、名前が確定できない常連がいるのでご存じの方があればご教示願いたいのが、この作品ではラバの扱いで苦労し最後はウエインを護送する役の禿の老け役、赤い河 にも出たし、捜索者では先住民のとの戦いで正気をなくしてしまい、いつもゆり椅子に座っていた陽気な老人を演じた人)。ハリー・ケリー親子については上記小泉さんの文章に詳しいが、かの 赤い河 で苦労の末、アビリーンにたどり着いたモンゴメリ・クリフトと牛の取引をする親分的人物がハリー・ケリー・シニアであったことを付け加えておこう。フォードはこの先輩に敬意を表して、作品の名前を思い出せないがほかでも同じような役で出演してもらっている。このアビリーンという町は本作品ではその息子のジュニアが強盗をやって手配を受けている、という設定になっているのが面白い。西部に鉄道ができた初期は開拓の最前線だったところで、ほかにもダッジシティとかツームストーンやサンタフェ、エルパソなどと並んで西部劇ではおなじみだ。

小泉報告にあるように駅馬車が来る場面ではずばり ”駅馬車” の有名な主題歌のメロディ(原題は Bury me not on the lone prairie ということになっているが、例によってウイキってみるとさらにそのもとは Ocean Burial という水夫の歌らしい。ま、どっちにしても良いものはいいやね)) が流れるが、この作品での主題的旋律は ジョニー・キャッシュも歌っている Street of Laredo  である。この歌詞は ラレドの街で白い布に覆われた若いカウボーイの葬列に逢った ということから始まる。負傷がもとで死んでしまうハリージュニアにかぶさって響いてくる旋律だった。歌詞はこういうで出だしではじまる。

As I walked out in the street of Laredo,

as I walked out in the street of Laredo one day

I saw a young cowboy wrapped in white linen

Wrapped out in white linen as cold as the clay ……

小生が高校時代、初めて聞いたのは当然キャッシュではなく、もう少し古いものだったと思うが、すり切れた古いSPからスクラッチノイズと一緒に流れた旋律がとても印象に残っている。聴いた時の精神状態にもよるのはもちろんだが、なんともいえない哀愁が突き刺さる旋律だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

”アメリカ人の愛国心” 読みました (44 安田耕太郎)

半世紀以上前の1968~69年、21~22歳の学生時代、アメリカ大陸を2回横断し、25州を訪れ、ロサンゼルスではグリーンカードも持たず(即ち、違法で)植木屋として働いた。社会人となってアメリカ企業に勤め、数十回を超えて渡米し、滞米日数は合計すると優に1年を超える。アメリカには少なからず関心がある。

米国人の非常に強い愛国心を度々肌で感じる機会があった。出自・民族・氏・宗教が異なる多民族で構成される国民をまとめているのは、建国と発展を象徴する国旗・Stars and Stripes (星条旗)と国歌であるという印象を、愛国心の証として常に感じた。宍倉さんご指摘の様々な場面でまさに愛国心の強さが具体的に表れていた。また、建国以来の理念である自由・独立・平等・民主主義を標榜する姿勢がアメリをアメリカたらしめていた原動力でもあった。だが、近年アメリカ・ファーストの旗印の下、その理念が薄らいだかに見えるのは残念なことだ。

また、ルーツ・素性・価値感・信条などを共有する確率が低い、或いは分からない相手と対応することを求められるところから、米国では「以心伝心」「沈黙は金」は成立せず、自己主張を表現力豊かに伝える、いわゆるCommunication Literacyの優秀さが求められる。特にPresentation (自己表現)とDebate (討論・議論)の大切さは単一民族国家(homogenous)の日本にはない文化・社会現象である。

米国の市民権・永住権を求める人の波が益々顕在化しているのも今日の現実だ。古代ローマ時代のゲルマン民族の大移動ではないが、貧しい地域から肥沃で豊かな地域へ人々が移動・移住したがるのは自然な人間の性である。米国の人口は現在の3億数千万から今世紀末までには5億近くまで増大すると予想される。日本の人口が3千万であった明治維新当時、米国の人口は4500万ほどであった。アメリカとは、世界にとってそれほど魅力的な磁石なのだ。僕が滞米していた1960年代はヴェトナム戦争の真っただ中で、観光ビザ入国し滞在している外国人の僕も、ドラフトによって米国軍隊へ入隊させられる可能性があった。無事除隊すれば、容易に永住権はおろか市民権獲得の道が開けることから、ヴェトナムの戦場へ向かった米国籍以外の短期滞在者が結構いたのには驚かされた。今日の中南米諸国から国境を目指して押し寄せる人の波が途絶えないのも半世紀前とは、根本的に全く異なっていない。

今日の米国は分断と格差拡大により混迷を極め、バイデン大統領の使命と責任はとてつもなく重い。歴史上、米国は最も深刻な分断を、Civil Warといわれた南北戦争で引き裂かれた1860年代に経験した。分断が和らぎ解決された(少なくとも表面的には)のは戦争によってであった。戦争では対外的な敵に向かうことで、国民の強い愛国心に訴えかけ、国と国民が一枚岩になりやすい。南北戦争で表面化した米国社会の分断も第一次と二次世界大戦を経験することで、ほぼ消滅したと云える。ルーズベルト大統領が、躊躇していた第二次世界大戦への参戦を、米国民の情熱的な賛同を得るため、敢えて日本に真珠湾攻撃をやらせるように仕向けたとする分析結果もある。愛国心を刺激し国民と社会の分断を一挙に解決させ国民を一枚岩化させる戦略的頭脳作戦を遂行したともいえるのである。戦争になると大統領の支持率が一挙に上がる例は枚挙に暇がない。穏健的なオバマ政権による、国民の9割以上が喝采したアルカイダ首領オサマ・ビンラディン暗殺作戦も記憶に新しい。米国が独立以来関与した対外的戦争は、ブッシュ親子大統領の湾岸戦争を除くとすべてが民主党大統領治世下である。即ち、20世紀では、第一次・第二次世界大戦・朝鮮戦争・ヴェトナム戦争、すべてそうである。民主党は共和党に比べると、より理念重視傾向が強く理念が実現しない場合は戦争へと向かう確率が明らかに高い。

現在の米国の混迷は、グロバリゼーションとIT革命という二つの大きな制御できない、世界を覆う津波に飲み込まれた結果と観ることもできる。翻って、独裁専制体制の下、覇権獲得の意志を隠そうともせず米国に挑戦しているかに見える中国の強大化・軍国化に対して、民主主義国家の盟主として、困難な国内問題を抱える米国がこれにいかに対峙して平和裡に世界の安定と成長をもたらすのか大いに期待したい。バイデンは民主党大統領である。米国の戦争のほとんど全てが民主党大統領時代に勃発している歴史的事実を知る時、内外の困難を乾坤一擲解決する手段の一つとして戦争への誘惑がバイデンの脳裏にちらつかないだろうか?愛国心に訴えかけ求心力を高め、経済浮揚をも目論む選択肢は抗しがたく魅力的に映るだろう。中国のウイグル・香港における住民に対する蹂躙ぶりや軍拡の趨勢を観ると、台湾を軍事的に強奪する選択肢が中国のロードマップに描かれているとしても不思議ではない。尖閣諸島領土問題も然りである。微妙なバランスに上に成り立っている今日の複雑な国際関係と対中国抑止政策におけるバイデンの不倶戴天の指導力に期待したい。

バイデンで憂慮されるのは、彼の高齢である。現在78歳。任期満了時は82歳。超激務を冷静・沈着且つ卓越した頭脳で、絶えることなく情熱と責任感の炎を燃やし続け、リーダーシップを発揮し効果的対応をすることが出来るのであろうか?建国以来バイデンまで45人が米国大統領に就任し、8人が在任中に死去している。4人が暗殺、4人が自然死だ。比較的最近では民主党大統領ルーズベルトとケネディが任期半ばで死去し、副大統領が大統領になっている。トルーマンとジョンソンである。不謹慎ながら、まさか、米国初の女性大統領カマラ・ハリスが誕生するというような晴天の霹靂が起こるとことはないだろうか?政界一瞬先は闇の世界でもある。米国の動向からは一瞬たりとも目が離せない。

 

ミス冒愛好会 (12)   ”レベッカへの鍵” を思い出した

”レベッカ“ という懐かしい映画をBSの放送で見ることがあった。映画そのもののことは別として、思い出したのが ”レベッカへの鍵“ という小説である。著者は日本では ”針の眼“ という作品で有名になった、イギリスの冒険小説作家、ケン・フォレット。最近は冒険小説、というジャンルには整理しきれない多くの作品を発表している。小生は最近のものは全く読んでいないので多くを語ることはできないが、初期の ”トリプル“ ”獅子とともに横たわれ“ ”ペテルブルグから来た男“ ”コード トウ ゼロ“ あたりは一応読んだ。ここでは”レベッカへの鍵“ という一作品を思い出したことについて書く。

この作品は第二次大戦の裏側でのスパイ活動をテーマにしたもので、ストーリーや出来栄えについてはあまり言うことはないが、スパイが用いる暗号の解読のキーが ”レベッカ“ という小説の中に隠されている、というのが面白かった。この小説の存在が出版元のイギリスだけでなく、ドイツでも有名になっていなければこのストーリーが成り立たないからである。デュ・モ―リェのこの本の出版は1938年であり、英独の間はすでに戦争状態にあったから、この前提は正しい。しかし敵国である英国の民間人の書いた本がドイツ人の間で愛好されていた、というのは、太平洋戦争中敵国文化はけしからんとして英語教育すら抑制されていた我が国の状況とはあまりにもかけ離れている。

また、ご存じの方も多いと思うが、ナチドイツから亡命したマレーネ・ディートリッヒが歌った “リリー マルレーン” という歌が、英独両国でともに有名になり、ドイツ軍兵士も好んで聞いていたといわれている。ドイツ軍上層部は兵士の士気に影響があるとしてのちのこの歌を歌うことを禁じたというのだが、実効性はどうだったのか。スマホなどなかった時代、大げさに言えば短波受信機を持っていなければ聞けなかったはずだが。

もうひとつ、本の題名が思い出せないが、たしかアリステア・マクリーン(あるいはジャック・ヒギンズだったかも知れない)の作品の中で、ドイツ領内に潜入した主人公のスパイがドイツ兵に追いかけられ、必死の思いで公園にあった女子用便所に身を隠す場面がある。ここまで追いかけてきたドイツ兵は当然ここを調べようとするがもう一人の仲間が、よせ、ここは婦人用だぞ、と言ってそれを押しとどめ、言ったほうもそういえばそうだ、と納得して調べるのをやめ、主人公は逃走に成功する、というのである。

この三つの挿話は、たとえ戦争状態にあっても、二国の国民には共通する確固たる文化的な共通点がゆるぎなく存在する、ということを示している。しかも三番目の例では、それが将校などの知識階級出身者にとどまらず、一兵士までが当然と信じていることを示している。

欧州に滞在しておられた(る)方には釈迦に説法だと思うが、”その角を曲がっていけば別の国“ というような感覚で他国と接している中で、数世紀、いやそれ以上の間、違う人種、違う文化が共存してきたのが欧州だろう。しかもその国々には、アルファベットという共通のコミュニケーションツールが存在し,宗派は違ってもキリスト教が共有され、かつてはローマ帝国の仲間であった歴史がある。そういう国家群が、いまなお、異なった言語、異なった文化をそれぞれに保有している。日本で言えば青森語と函館語が存在するようなものだ。物理的に近いとはいえ、大陸とは海を隔てて隔絶した文化圏を育ててきた日本では理解しにくい環境である。

他方、南北アメリカは近世になって欧州人が先住民族を制圧して作った国であり、基本的には支配異民族と先住民族の間に人種的、文化的なギャップが厳然として存在している。欧州にも人種の違いは当然あるわけだが、それは戦争や統合や分裂があったとしても、当初から存在していた、いわば原住民同士のあいだであり、先住民と侵略者という図式とは違っている。中南米では当初から白人優先の経済的支配に疑問を抱かなかった欧州の支配が確立されている(しまった、というべきか)のに対し、アメリカという国はその出発点から、宗教的動機とはいえ、崇高な理想を掲げて立国をしてきた(その理想の中に先住民族やアフリカからの奴隷に疑問を持たなかった、という絶対的な矛盾はあるのだが)。その中心にあるのが多様性、という理想であり、(彼らの定義による)民主主義であって、その分かりやすい看板がいわゆるアメリカンドリームだった。

しかしその経済第一の国是が行き詰まり、なお企業の利益拡大(もっとありていに言えば株主利益の最大化)を追い続けた結果、現在のグローバリズム、という一見、結構な、突き詰めれば人類の未達の夢である世界市民、というようなゴールを掲げた動きが始まった。しかし結末は結局、経済的ギャップを拡大するにとどまって今やその影響が各所にほころびを見せ始めた、というのが現状のように思える。今なお、異なった人種、異なった文化が存在し続ける欧州社会では、すでに何世紀にもわたって存続してきた形はこの グローバリズム というものの掲げる理想をある意味では実現してきたのではないか(移民問題でそれが揺るぎ始め、究極的には現代アメリカ化へ突進してしまうのかもしれないが)。

これからは小生の我田引水になってしまうのだが、現在の世界の状況がSNSという魔物を野放しにした結果、だれも真実がわからないままの情報が独り歩きする (小生がちと詳しいエリッヒ・フロムという学者はこの現象を 匿名の権威 という用語で説明している)。イデオロギーや哲学や論理などを超えた、だれが言い出したかもわからない事が多い、そういうなにかが民衆を支配する、そういう歴史的な時点(大衆社会)に到達してしまったのだ、というのが今、自分が感じていることである(1月26日付 読売新聞28面に参考になる記事が掲載されている)し、今回のアメリカ大統領選に引き続いた混乱はまさにそれだ、という気がする。

レベッカ、からはじまって大げさなことになってしまった。しかしなお、小生は ”俺が愛したアメリカ“ の復権を願う一人ではあるのだが。

アメリカ人の愛国心について  (37 宍倉勝)

この一年、米国大統領選選挙関連の報道がマスコミ界を席巻し、いわゆる”電波芸者・寄生虫“と称される、種々のバックグランドを持った評論家の飯のタネも終わりました。今は新大統領の政策・方針が報道の世界を賑わいはじめました。

大所高所の議論・判断もさることながら、小生が思うに、今米国民の大きな関心・懸念は、米国民の73%が嫌悪する、中国に対する方針ではないのでしょうか。世界戦略を展開している中国が、米国を凌駕し、世界の覇権の地位を奪うのではないかとの懸念です。

大統領選挙で国論が二分され、米国内での分裂が盛んに報道されています。私はこの様な米国の事態は表面的&一時的現象だと考えています。米国民の強い愛国心を考えると納得します。米国民は自己主張が強く、議論好きです。これは多民族国家で、自己を強く表現しなければ生きられず、社会に埋没してしまうからです。その点自己主張をほとんどしない日本の国民性とは大きく異なります。

数年前のある調査機関(機関の名称わ忘れました)の調査では、世界で愛国心の一番強いのは米国民であるとの調査結果がありました。強い愛国心を持つためには、自分が住んでいる国に誇りを持ち、自国を好きでなければなりません。

米国に住んでみると、いわゆる“Comfortable”&“Reasonable”な社会であることを強く身近に感じます。米国生活を経験した人はほぼ100%同感してくれると思います。ジャイさんのブログに滞米中の経験談がありましたが、米国籍(市民権、永住権)の取得を熱望し、感激する人々の様子を私も滞米中に体験をしました。

  • 国家的なスポーツ等の行事では勿論ですが、ローカルな行事でも、競技開始前には観衆一同起立、国歌斉唱、終了と同時に、ジェット機の編隊が爆音を発し上空を飛び、いやがうえにも盛り上がり、愛国心が高まります。
  • 移民局に行けば永住権を取るために、早朝から長い行列ができ、その日のうちに書類が受理されず窓口が時間切れとなると、整理券を受け取り翌日再度並びなおさねばなりません。同じことを2,3回繰り返しやっと書類が受理され審査がスタートします。移民局の外で、永住権の資格取得に成功した人たちが涙を流し、抱き合い喜んでいる光景を何度も目のあたりにしました。小生も永住権取得の過程で同じ経験をしました。シカゴの友人に最近の様子を聞きましたが、相変わらず移民局の行列は続いているとのことです。

時にはヤンチャ的でしたが、発言力があり有言実行のトランプが好きでした。バイデンが強い指導力を発揮し米国をリードすることを期待します。

(37 菅谷)オシシ兄、貴意を拝聴、私の感想を書きます。

①貴兄が愛する米国のために、過っての米国の良識を取り戻すために弾劾裁判を粛々と進め、トランプは政治の世界から退出して貰う。
②彼の4年間は米国の抱えている病を癒すことよりも傷口を拡げる結果となり、特に大統領選挙戦・前後の言動は呆れるばかりであった。
③トランプが荒らした土壌を耕し、再び緑を取り戻すバイデンの役割は生易しいものでない。辛抱強さと時間が必要だ。
④コロナ・パンデミックの様な、全て不確かなカオスの時代には独裁や強権を振りかざす為政者が、国のリーダーとして持て囃されがちだ。
⑤バイデンが使命を全う出来るか、今こそ民主主義を標榜する国々の結束が肝要だ。だが秋にはメルケルも去り、夫々の政権基盤にも不安が付き纏う。
⑥ましてや、番頭さんが分限の政治家を首相に選んでしまった我が国の国際社会における存在感はどうなるのか、不安を通り越してそら恐ろしい。