006年アカデミー外国語映画賞を受賞したドイツ映画。東ドイツの反政府勢力を取り締まる監視体制の犠牲になりかけた市民を、体制側の監視員が自由と人間の愛・芸術の崇高さに目覚め、最終的には救うという映画。冷戦下の冷徹な体制側の取り締まりとそれを潜り抜けようとする自由を求める反体制側の緊迫感溢れるストーリー展開は、残虐な殺戮シーンなどはないが、見応え充分だ。舞台は1984年、東西の壁が崩壊する5年前の東ベルリン。戦後の東西冷戦下、東ドイツでは国民を統制するため、国家保安省(シュタージ・Stasi、ソ連時代のKGBと同等)が徹底して国民を監視していた。10万人の協力者と20万人の密告者が、全てを知ろうとするホーネッカー独裁政権を支えたという。共産主義体制の下、個人の自由な政治思想は許されず、反体制的であるとされた者は逮捕され禁固刑が課される……。東ドイツは、そんな暗く歪んだ独裁国家だった。
シュタージの秘密捜査員ヴィースラー大尉は、国家に忠誠を誓い、反体制的な思想を持つ市民の捜査と、後輩の育成に力を入れている。監視と尋問を得意とするヴィースラーは、次の任務として反体制派と目される劇作家ドライマンの監視を命じられる。手際よく彼のアパートに盗聴器を仕掛け、そのアパートの屋根裏部屋を拠点に、徹底した監視を始める。無感情に盗聴するヴィースラーの顔からは、人間味は見られない。
この指令には、ドライマンの恋人である舞台女優のクリスタを自分のものにしたいという、ヴィースラーの上司ヘンプフ大臣の私的な欲望が潜んでいた。そんなことは知らず、「国の裏切り者の正体をあばいてやる」との使命感を持ち盗聴に専念するヴィースラー。しかし、劇作家ドライマンと、その恋人クリスタの会話から紡ぎだされる自由で豊かな心に、次第に共鳴していく。毎日盗聴を続けていくうちに、ドライマンとクリスタの人間らしい自由な思想、芸術、愛に溢れた生活に影響を受け、冷徹なはずのヴィースラーの内面に変化が生じ始める。そして、ドライマンが友人の独裁体制に悲観した自死を悼み、友人から「この曲を本気で聴いた者は、悪人になれない」という言葉と共に贈られた、“善き人のためのソナタ”という曲を弾いたのだ。この美しいピアノソナタを盗聴器を通して耳にしたとき、ヴィースラーは心を奪われてしまう……。愛し合っているはずの恋人同士、信じ合っているはずの家族や友人をも相互不信に陥れ、絆を引き裂いてしまう監視国家の理不尽さ、非情さ。それらに気づき始めるヴィースラーの心に、美しいソナタの音色が深く響く。そして彼は、人間らしい人間へと少しずつ変化していく。
ドライマンと西ドイツのシュピーゲル誌の記者は東ドイツの知られたくない情報(ヨーロッパで一番多い自殺者数であったが、1977年に公表を辞めた)を誌面に載せることに成功する。当局側はドライマンを情報漏洩の犯人と睨み、漏洩した情報の活字をタイプライターの種類で特定して、秘匿しているに違いないタイプライターをドライマン宅に押し入り、隈なく家宅捜索する。だが、見つからない。恋人クリスタはドライマン宅のタイプラーター隠し場所を知っており、尋問を受ける。当局側は彼女が何か知っていると睨んだのだ。彼女は舞台女優剥奪や諸々の脅しに抗しきれず遂にヴィースラーに隠し場所を白状してしまう。ヴィースラーの上司も隣の部屋で白状の始終を聞いていて、直ちに監視捜索団をアパート部屋に派遣して白状された隠し場所(床下)を捜す。しかし、そこにはタイプライターはなかった。この2回目の家宅捜索にも現場に立ち会った、タイプライターをそこに隠した張本人のドライマン自身も驚愕する。白状した恋人のクリスタは罪の意識にさいなまれパニック状態でアパートに向かうが、アパート前の路上でトラックにはねられて死去する。ドライマンは一部始終を目のあたりにして唖然として放心状態で彼女の遺体を抱き上げる。
ヴィースラーは首尾良く事件を解決させえなかった責任を取らされシュタージを解雇され, 単純な郵便物開封の仕事に就く。ほどなくして翌年1985年、“ゴルバチョフがソ連共産党の書記長に選出” の新聞記事を目にする。それから4年後の1989年にはベルリンの壁崩壊を経験する。更に2年後、仕事の帰り、町の本屋の窓にドライマンの著書「善き人のためのソナタ」の広告をたまたま見かけ、中に入ってその本を買い求める。
絶体絶命の2回目のタイプライター家宅捜索時に、クリスタの自白で隠し場所を知ったヴィースラーは先回りしてアパートに忍び込み、タイプラーターを持って引き上げていたのだ。そのことをドライマンは確信して、著書の中に特筆したのだった。ヴィスラーの本屋の店員に「いや 私のための本だ」と言う時のヴィースラーの表情がはればれとして清々しい。
映画はフィクションであり、シュタージの冷酷さはこんなものではなかった、この映画で描かれていることは歴史的事実異なっているとの指摘もあったという。それは大した問題ではないと僕は思う。この作品が伝える当時の東ドイツを支配していた空気感は本物であったに違いない。当時の監視組織が振りかざしていた権力と、内部の倫理的な葛藤が好対照に描かれている。人間の中に存在する善と悪が、途方もなく複雑に交じり合い、そしてもつれ合うものであるかということを、描き上げた映画だった。見終わった後、哀しさと人間の温かさと歴史の重みが心に深く残る素晴らしい作品だ。ドイツ映画には馴染みがないので知らなかったが、ヴィースラーを演じたウルリッヒ・ミューエを始め、多くの一流俳優が出演しているということだ。
(平井)私も見ましたこの映画。フランスでは「もう一つの人生」というタイトルでした。とても心に残った映画でした。このような世界と時代があったのだなと、感慨深くも考えさせられた映画でした。
随分前にお友達とベルリンに行ったのですが、ベルリンの壁の崩壊から数年は立っていましたが、東ベルリンに入ると走っている車のスタイルも旧式で建物は古く、貧富の差は明らかでした。昼間からカフェにたむろする酔っ払いのおじさんたちがいて、更に友人とはぐれてしまい、西ベルリン側に帰って来る時に、小学生ぐらいの不良の女の子二人に絡まれそうになって、傍にいた紳士が追い払ってくれたので無事でしたが、とても怖い思いをしました。自由がない世界は荒むのですよね。20世紀にあんなに苦しい体験をしながら、21世紀に入っても尚且つ争いを止めない人類は何か度し難いですね。
(編集子)この映画自体は見ていないが、本稿は五木寛之が直木賞を受賞し世に出た作品、”蒼ざめた馬を見よ” を思い出させる。妙に正義感を振りかざすのでなく、国家観に振り回される個人の在り方を追求したこの作品に影響されて五木作品はだいぶ読んだ。”青年は荒野を目指す” とか ”デラシネの旗” “凍河” ”内灘夫人” などというタイトルが浮かんでくる(なぜだったかわからないが、代表作とされる ”青春の門” には惹かれることがなくて未読である)。映画ではニューシネマ、なんていう時期だったろうか。
“蒼ざめた” では、 圧制下にあり、強固な反体制で知られる作家が、自分の名前を偽って作られた贋作を理由に当局に逮捕される。しかし彼の良心は、”書くべき人が書くことができなかったーそれが私の罪なのだ。この本は私が書くべき本だったのだ"と言わせて、冤罪を逃れようとはしない。安田君の解説からの推論なのだが、この映画のテーマも同じなのではないかと思うのだ。
(そうすると―認知症予防に始めたドイツ語がようやく ”中級″ にたどり着いたレベルの人間のいう事ではないのだろうとは承知の上で言うとー VOM という前置詞を ”のために” とするのは誤訳ではないのか、と思うのだがいかがだろうか。VON が持つ本来のニュアンスからすれば、善き人 ”による” であって、特定の読者のためではなく、圧制に苦しむ同胞の中で、なお、”善き人” 足らんとする勇気のある人 ”による” 音楽なのだ、というのではないか、と思うのだが)。
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