春の息吹をたずねて  (34 小泉幾多郎)

 コロナ禍で外出しない日が続いたので、久しぶりに外出、大倉山の梅がどの程度か散策。梅の種別により硬い蕾もあったが、平均7割程度か。梅は例年通り咲いているが、毎年20日前後の観梅会は中止とのこと。昨年は、高尾山麓の梅郷を歩いたのを思い出したが、高尾は昨年から梅まつりは中止だった。早く気兼ねなく花を愛でる日が来てほしい。

また小生、特に七福神「七難即滅、七福即生」の説を信ずるわけではないが、散策による健康増進を主眼に、毎年正月になると、どこかの七福神を巡るようになり、もう何年続けているだろう。名の知れた七福神は巡ったこともあり、最近は、川崎、鶴見、恵比寿天・大黒天・弁財天横浜(港北)、瀬谷と近場になり、今

年は寄る年波もあり、何処へ?と思案するうちコロナを理由に躊躇し機会を逸してしまった。1箇所七福神なるものを見付け、1箇所でお参りできる野毛七福神(成田山横浜別院)で、お茶を濁すことになった。

成田山横浜別院

 

 

 

エーガ愛好会 (49) 心の旅路 (41 相川正汎)

 

「心の旅路」は昨年6月頃に 既にこの会で推薦いただいていました。コールマン髯のコールマンと 魅力的なグリア・ガースンの共演、 古さを感じさせず、楽しめました。

戦争のケガによる記憶喪失という暗いイメージが 町にでるや恋にめぐまれ、 交通事故で再度記憶喪失しても、社長や国会議員を務めるという 明るい展開に、少しびっくりしました。ヒッチコック作品では謎解きの種がどこででてくるか目が離せませんが、こちらは安心して見られました。インフルエンザの場面がありますが、この頃はやったスペイン風邪。 戦場で感染拡大したため第一次大戦の終結を早めたともいわれています。 コロナ拡大の今どきとつながります。

コールマンが颯爽とトレンチコートを着ていました。バーバリー社が撥水のギャバジンのレインコートを開発し一次大戦では軍用として重宝した歴史も反映しています。 格好良かったが重かったですね。

原作のジェームス・ヒルトンは 「失われた地平線」 Lost Horizonの著作もあります。中国南西部とチベットの国境地帯に飛行機が不時着、そこがシャングリラShangri―Laという理想郷だったというお話。シャングリラは果たしてどこにあったのか。中国は雲南州の小村を2001年に「香格里拉」と改称し、観光開発しました。そこから車で1日走ると梅里雪山の麓に。商魂たくましいですね。

(44 安田)「心の旅路」のグリア・ガースンは素敵ですが、同じ年1942年制作の「ミニヴァー夫人」の彼女も魅力的です。アカデミー主演女優を獲得しました。コブキさんのお薦めで観て大満足。BSPで放映されれば良いのにと思います。

それにしても1942年といえばイギリス・ロンドンはドイツからV2ロケットの攻撃に晒されて、チャーチル以下防空壕に避難していた頃。よくもまあ〜立派な映画を創るものだと感心します。芸術は力なり!です。「カサブランカ」も1942年制作です。

(相川)シャングリラの話は一度書いたかと思いますが、一昨年秋に四川省に旅したときに そこにも雲南省とは別に同名の町がありびっくりしました。

6000m級の白い山が3つあり、かっては馬でしか行けない秘境といわれてましたが、道も整備され中国人観光客でにぎわっていました。中国は人数が多いので世界遺産とか観光地となると人が殺到してしまいます。この時はミニヤコンカも眺められました。

ところで私は1942年6月の生まれです。この時のミッドウェイ海戦から日本軍は劣勢となりました。 アメリカやイギリスは余裕があったのですね。

(編集子)満州から母と姉と3人で引き揚げてきて、半年遅れて父と兄が帰国、東京へ出てきたのが1946年。小生はまだ小学生、姉や兄が カサブランカ や 心の旅路 などと話題にしていたのをかすかに記憶している。”風と共に”が作られたのも同じころだったのではなかったか?

 

 

”麒麟は来なかったか” 拝読しました (33 小川義視)

「麒麟は来なかったか」興味深く拝読しました。
今回の大河ドラマは明智光秀という事で中部に在する小生にとっては関心深く、どのようなドラマの展開になっていくのか全編を見ました。特にエンディングの本能寺の変をどう締め括るのか興味深く、ジャイさんの感想と同様に今まで見てきた通俗的なシーンにならなくてある意味ホッとしております。ジャイさん曰く「麒麟を連れてくることができなかったという悔恨の情が信長の最後を遠巻きに見ていたシーンによく表れている」。同感です。あらためて最後のシーンを見直した次第ですが、三年後まだ存命していた噂があったという事は全く知らなかったです。光秀生誕の「明智の庄」は塾創立150年リレー踏破の第6ブロック中仙道の道中にあり、今は亡き妹尾リーダー率いる「アサ会」が歩いた第1・2班の道中近辺にあります。この東農地区では昔から光秀は名君として評判高く、世間で通説となっている悲劇的、ネガティブな人物とは捉えておりません。
また今回のこのドラマで「麒麟」が中国神話に由来し、キリンビールのラベルも此処から来たことを始めて知りました。
ところで麒麟が来たかどうかはジャイ・オジイさん同様の感想です。家康が築いた3世紀にわたる江戸時代はまさに麒麟を連れてきた安定した世の中だったと思います。大陸覇権を夢見た秀吉の失政から鎖国政策を貫き、この時代に育まれた江戸文化の数々は「麒麟」のお蔭だと思います。

 

時は移り現代は平和ボケといわれるほど落ち着いた75年となっておりますが、これも敗戦によって憲法が改正され戦争を放棄したお蔭に過ぎません。ジャイさんの最後「それが麒麟のせいだというかどうかは別だが・・・」。この僅か75年は麒麟のお蔭ではないと思います。しかしジャイさん・菅チューさんの云われる通り「我らの生涯は最良の年だった」ってことになるんじゃないかな。…」まさに同感です。しかしスペイン風邪から100年近く過ぎた今日の世界的なコロナ禍、何かを示唆しているような気がしてなりません。人類の横暴が招いた災禍というか、コロナ終息後「麒麟」は来るでしょうか?米中の覇権争いのなか我が国は何処に向かっていくのでしょうか?

“麒麟は来なかったか” 読んだよ  (普通部OB 菅原勲)

貴兄のブログ、「麒麟は来なかったか」を拝読。

小生、大河ドラマの熱心な視聴者ではありません。ですから、「麒麟がくる」も見ておりませんし、麒麟が何を意味するのかも知りません。大河ドラマを最後に見たのは、「花の生涯」です(ハッハッハ)。

最も気に入ったのは、最後の段落、「1945年の敗戦以後今日まで、・・・」です。全く異論はなく、諸手を挙げて賛成です。ですから、映画「我らの生涯の最良の年」をもじれば、「我らの生涯は最良の年だった」ってことになるんじゃないかな。でも、これからの日本はどうなって行くのかね。少なくとも、中共に飲み込まれる前に、この世からおさらばしたいな。

”麒麟は来なかったか” 読みました  (37 菅谷國雄)

9日のブログを拝見しました。「大河ドラマ」は今まで見たり見なかったりでしたが、「麒麟が来る」は従来の単なる軍記物ではなく、登場人物の心理描写など巧みで見応えがありました。

「江戸時代は最良の時代、麒麟が来ていたのではないか」のお考えに賛成です。3世紀に及ぶ安定した平和の時代は、「パクス・トクガワ―ナ」と言われるほど戦乱の時代に終止符を打ち、物質的・精神的な豊かさをもたらしてくれました。日本の文化の素晴らしさ、繊細な美への眼差し、自制のある生活習慣など、江戸の遺伝子は、今なお我々の心底に流れる「日本らしさ」であります。

実は小生、地元の三田会から「蕎麦今昔・江戸の食文化」と言うテーマで講演を依頼され安請け合いしてしまい、慌てて積んでおいた本を読み直しています。最近は、若手歴史学者の磯田道史氏などが持て囃されていますが慶應義塾大学名誉教授で文化勲章を受章された、速水融氏の「歴史の中の江戸時代」徳川宗家18代当主で日本郵船副社長を歴任された、徳川恒孝氏の「江戸の遺伝子」この2冊はお薦めで、江戸時代の豊かさと奥行きを改めて教えて貰いました。

又偶然ながら速水融先生は、私の畏友で早世した川島亮三君のゼミの先生で彼がKWVを辞める時に「ゼミに集中して大学に残るため」と言ったことを60数年ぶりに思い出しながら、感慨一入でした。

麒麟は来なかったか

大河ドラマ 麒麟が来る 放映終了。始まった時から、どういうエンディングになるのかがずうっと気になっていた。予想外のラストは良く決まっていた。なんというか、筋立てとか技術論よりも、この番組で作られた光秀像にぴったりな感じだったと思う。

僕は吉川英治の太閤記を小学校6年の時に読んだ。父も兄も大の読書家だったが、戦後まもなくでかなりの数、中古の本が多く、日本史に関連する本を拾い読みしても、旧かな使いで、天皇尊重第一のものがほとんどで、そういう風潮の中でどちらかとえいばネガティブな光秀像が僕の中に定着していた。

中学高校と読書の中身に横文字文学ものが多くなったのはやはり当時の若者文化がそうだったからだろうが、社会に出て司馬遼太郎を知り、テレビの新撰組血風碌にはまり、彼の中期くらいまでの本はあらかた読んだ。高校で日本史を真面目に聞いていなかったため、小生の近世日本の歴史に関する知識というか理解はまずすべてが司馬の小説によっている(歴史学者は司馬の歴史観、というものをよく思わないそうだが、彼はあくまで小説家にすぎない、ということはよく承知しているつもりだが)。

司馬の描いている光秀像は今回のように理想の実現を人生のテーマにした人物ではない。むしろ権力のはざまで抜き差しならぬ状況に追い込まれた悲劇的人物、という書かれ方をしている。現実だどうだったか、もちろん知る由もないが、麒麟を連れてくることができなかったという悔恨の情が信長の最後を遠巻きに見ていたシーンによく表れている。このシーン前後の長谷川博己の表情の描写は僕の心に突き刺さった想いで見た。

秀吉が朝鮮征伐なぞという愚挙を起こさなければ、そして最晩年の狼狽がなければ(これが例えば家康などに比べたときのインテリジェンスというか秀吉の人生観の限界をしめしているのだと思うのだが)麒麟になり得たかもしれない。”戦がなく、人々が安心して暮らせる世の中“ は、結局、3世紀続いた徳川時代であったのだろうか。悪しき封建主義だとか身分制度だとか、男尊女卑だとか、はたまた時代劇に必ず登場する悪代官だとか、ネガティブな話はいろいろあるが、世界に誇る江戸文化や京の静寂や人々の間に定着して明治への見事な転換をささえた倫理観とか、そういう現代への遺産を当時戦乱と後進国の収奪に明け暮れていた西欧の歴史と比べてみて、”日本に 麒麟は来ていたのではないか とおもったことだった。

1945年の敗戦以来今日まで、そのプロセスにありとあらゆる議論があるのを承知でなおいえは、この75年間のあいだ、戦争で死んだ日本の若者はひとりもいない。何が何と言おうとこれは事実である。チャーチルやメルケルみたいに国民に訴えた政治家がいなかったとか、拝米主義だとか、偶然だとか、いろんな議論は当然あるだろう。しかし僕は確信しているのだが、数世紀あとの歴史家はこの時代を日本史上最良の時間だった、と解釈すると思う。それが麒麟のせいだというかどうかは別だが。

エーガ愛好会(48) 昼下がりの決闘ー老いた英雄のプライド (34 小泉幾多郎)

サム・ペキンパー監督の「荒野のガンマン1961」に次ぐ2作目。1作目で、西部劇のヒーローたる拳銃での戦いを拒否してきた西部劇不信の男を主人公としたペキンパーは、2作目では、ジョエル・マクリーとランドルフ・スコットという典型的な西部劇ヒーローを演じてきた二人にかっての名保安官であり、名助手を演じさせる。小生若いころから親しみ、今回男優ベストテンにも入れた二人は、残念ながら拳銃或いはライフルによる積極的挑戦姿勢は剥ぎ取られ、役の上でも老いた西部人であり、更に老いた西部劇映画人だった。それでもこの二人が男と男の義理人情、心意気、西部男のプライドといったものを描いてみせてくれた。

マクリーは25万ドルの金を鉱山から運ぶ仕事を銀行から請け負いやって来たのだが、契約書を読むのにトイレに隠れ老眼鏡をかける始末だし、スコットの方は、射的場でのインチキ射的で賭けをして食いつないで暮らしており、馬に乗り降りするにもリュウマチや腰痛でままならぬ風情。

この二人に、スコットの知人の若者ドナルド・スターと鉱山にいるフィアンセと結婚するという娘マリエット・ハートレーの4人で目的地の鉱山へ向かう。鉱山でのフィアンセの兄弟5人の若者の醜悪さ。売春宿でのインチキ結婚式やら、寝室になだれ込む兄弟たちは悪党というよりは非行少年に過ぎない。おまけに一時は、スコットも若者スターも25万ドルの略奪をたくらむ気持ちでいたのだ。

男3人が娘ハートレーを救い、娘の家へ近づくと5人兄弟のうち2人は途中の銃
撃戦で死亡、3人が娘の父親を殺し家の中で待っていた。射ち合いが始まり、マクリーとスターが傷つくが、スコットも駆け付け、マクリーとスコット両者は昔のやり方でカタを付けようと直立不動の姿勢、二人対三人向かい合って歩を進め、弾丸を食らいながらも見事に3人の兄弟を倒す。

瀕死のマクリーの頼みを聞き金塊の護送を引き受けたスコットは若い二人と共に去り、地に伏すマクリーの俯瞰で終る。二人は老醜をさらけ出しても、理想のヒーローたることを実証した。それに反し、若者たちの自己の欲望にのみに走る無目的な若さ、老いたジョン・ウエインなら若者に開拓者の理想を伝授して消えて行く筈だが、この二人の老いたるヒーローはその心意気を誰に伝えるまでもなく振舞っていた。ただ若干の救いは、最後の決闘シーン、老人二人の決闘の呼びかけに対し、若者3人も2対3の決闘に応じた。これがなければ、無謀な動きで撃たれ傷を負い、決闘に参加できなかったスターも含めこれからの若者に、何の期待も持てないことになってしまうだけに、ホッとしたのも事実だった。

エーガ愛好会 (47)ライフ イズ ビューティフル -20年の歳月

(安田)子供に対する親の無償の愛を描いた映画。イタリアのチャップリンといわれるユダヤ人コメディアン俳優ロベルト・ベリーニが脚本、監督と主演を務めた。妻が映画でも妻役を演じている。原題はLa vita è bella (人生は美しい)。

前半の笑いを誘うコメディー調から後半は一変して、ナチスドイツのホロコーストに巻き込まれたユダヤ人家族・夫婦と息子三人の物語と化す。死が待つ収容所で父親は嘘が希望と未来に繋がると信じ、遊び心のゲーム感覚で息子を騙しながらも励まし、遂には息子は、父親の計画通り双六の上がりのように連合軍によって解放された収容所から生還する。父親が次から次に繰り出す「嘘」と「遊び」の術には感心させられる。映画の根幹をなしている。同じように収容所から解放された母親と会う悦びのシーンで映画は終わる。父親は銃殺される。成人した息子が「父親からの贈り物」と父親の生き様を回想する形で映画が描かれている。

第二次世界大戦中のユダヤ人に対するホロコーストの悲劇を、不条理を正面から描いた「シンドラーのリスト」などと異なり、コメディータッチで描くことの賛否は当然あったと予想されるが、笑いの中に人生にとって大切なことを描き切ったベリーニの真骨頂があった。

オッフェンバックの音楽「ホフマンの舟歌」は映画にピッタリで大変良かった。舞台はイタリア・トスカーナ州のアレッツオ、中世の香りがする街並みと美しい田園風景も見もの。19世紀後半イタリアを統一したガリバルディ、ルネッサンス初期の詩人ペトラルカの名前が登場するなど嫌が上にもイタリア色も醸し出されていた。主人公がアレッツオのホテルで知り合った旧知のドイツ人医師に収容所でも会い、家族3人に救いの手でも差し出してくれるかと期待していたところ謎々を問いかけられる。黄色くてうるさい〜のはいったい何?主人公は答えられない。映画でも回答は分からず仕舞い。調べると、ユダヤ人を揶揄する侮蔑の言葉であった。日本人などアジア人は黄色人種として区分けされるが、実際の肌の色は黄色ではなく、黄土色・赤褐色に近い。ヨーロッパ・アーリア人から観て、ユダヤ人も黄色の範疇に入っていることをドイツ人医師は言いたかったのだ。即ち、彼らより劣等だという優越意識を表した謎解きであったのだ。この辺にもユダヤ人であるベリーニの反骨精神が表れている

(菅原)「ライフ・・・」見ました。ただし、期待が大きかっただけに、失望も、また大きかったのは甚だ残念です。一言で言えば、「ライフ・・・」<<<「ニュー・シネマ・・・」ぐらいの差があったんじゃないでしょうか。
ひとつ、ギャグが余りにも古めかしい。例えば、しつこい帽子の取り換え、玉子の入った帽子を被らせることなど。ふたつ、ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」を読むと(イタリアのユダヤ人強制収容所はドイツのそれと違うのかもしれませんが)、余りにも違い過ぎて、全く感情移入出来ませんでした。最後に、R.ベニーニの地とも芝居ともわからぬ演技に、男優主演賞が贈られるなんて、今更ですが、アカデミー賞って理解し難い。

(保屋野)この映画が2月放映の一押しだっただけに、菅原さんの「勇気ある感想」に拍手します。前半は(つまらない)コメディーで、どこが名作なのか・・と我慢して観てたら、いきなり、イタリア駐屯のドイツ軍「ユダヤ人陣強制収容所」での深刻な場面に移り、やがて終戦を迎え、主人公は銃殺されるものの、子供と妻は生き延びる、という(感動的あるいは陳腐な)エンディング・・・ネットでは、「ホロコースト下での親子愛を描いた感動的名作」という評価もありましたが、私の感性が劣化してるのか、私にはあまり伝わりませんでした。

他方、「ボロクソ」の評価も有り、各自の感性によって評価が分かれる作品なのかもしれませんね。ベニーニ監督は「イタリアのチャップリン」だそうですが、(他の映画は知りませんが)、「ライムライト」や「街の灯」等と比較できるレベルではないでしょう。

(久米)「ライフ・イズ・ビューティフル」が封切られてからもう22年も経っているんですね。私も封切り直後に映画館で見た覚えがあります。この時、評価が絶賛されていた割には私は、感動を覚えませんでした。なんとなくあの喜劇タッチがピンとこなかったのです。それで今回TVはパスしてしまいました

チビ太殿いわく、

”22年前封切り直後に映画館で観た時に受けた強い印象と昨日テレビで観た印象は違っていました。疑いもなく僕の感受性と、刺激なり感動を受ける対象が22年という長い年月の間に変化しています。明らかに鈍くなっている気がします。歳も食ってきてもいますし”

本当に同じ思いが多々あります。あの当時はあんなに感動したのに今見てみると何という詰らない作品なのだろうかと思い、私の感受性が鈍ってしまったのだろうかとさえ感じる時があります。又、繰り返し見ても何年も昔の作品でも新たな感動があり新たな発見があることも有ります。
映画鑑賞はそれで良いのだと思います。それと人の感受性の違いもあるのである人には感動を呼んでもある人の心には響かない場合もあると思います。そこが映画の面白さではないでしょうか。

(小川)コブキさん、まさに同感ですね。

(編集子)思いがいろいろある……..か。この年、小生はサラリーマンにおさらばしたのだが。

 

上高地・焼岳  (39 堀川義夫)

知人の山岳カメラマンが厳冬期の上高地撮影の為、2週間小梨平でテント生活をすると聞き、図々しくお邪魔することにしました。

1月21日、早朝、誘った後輩の車に厚木から乗せてもらい一路、中の湯温泉へ。宿に車を置かせてもらい、2泊3日のスノーキャンプに行くには多すぎるくらいのご馳走と酒とスキーを持ち、久しぶりに超20kgの荷物を担いで釜トンネルを歩き始めました。重い!!

釜トンネル、上高地トンネルを抜け200m程行きコーナーを曲がると、見えた!!真っ青の空に真っ白な穂高が大歓迎で迎えてくれました。この景色を見るだけで来たかいがあると言うものです。上高地までのバス道は河岸工事などの為に除雪されていて歩き易い。大正池で出迎えを受け、河童橋まで快適に歩けました。シーズン中は人でごった返す河童橋周辺ですが、大自然の中、静寂そのものです。小梨平到着。他に人はいません。

下の写真は左から奥穂高岳、焼岳。そして一番下に載せたのが夜9時頃にスマホで撮った釣尾根。拡大すると星も綺麗に撮れています。本当に最近のスマホのカメラは素晴らしいですね。

 

1月22日 あいにくの雨模様。午後に小雨になったので岳沢の登山口辺りまで、スキーでお散歩。今シーズン初めてのスキー(歩行)でした。することがないので早めの夕食。今夜はへしこサバと大根で日本酒を一杯。メインはキムチ鍋、最高! 昨夜はアヒージョとサバなどの自家製燻製と高級和牛のしゃぶしゃぶでした。

1月23日 天気は曇り時々雪と言ったところ。野生の猿が食料を狙ってやって来た(?)のか、結構の数に囲まれました。子ザルが可愛い!朝食後、下山開始だがテント撤収もなく、本当に楽をさせてもらい良い時間を過ごすことが出来たことに感謝、感謝です。下りは梓川沿いに田代池、大正池と山スキーでクロスカントリーです。そして、釜トンネルを一気に下り、中の湯の出迎えで宿へ。早速に温泉に浸かりのんびりできました。

1月24日 朝食後焼岳へ山スキーツアーです。私は、今シーズン初めてで心配でした。案の定、登りもスキー滑降も他の3人に迷惑をかけっぱなしで、ほうほうの体で降りてきましたが、正直もう山スキーは無理なのではないかなと自信を無くす、私にとっては厳しいものでした。

 

登りは休み休みで迷惑のかけっぱなし。下りも全然滑れてない! 何この恰好は! お恥ずかしい!!

下山後、最後の温泉を楽しみ、帰宅の途に就きました。身体はヘロヘロ、でも、4日間。頑張りました!!持つべきは親切な後輩たち。彼らのサポート無しでは何も出来ない年寄りになってしまったような気がします。

伊藤若冲が観られます  (普通部OB 船津於菟彦)

日経新聞で「私の履歴書」を美術史家・辻惟雄氏が書いているが、伊藤若冲と言う奇想の画家は彼と米国人のジョー・プライスによって発掘され今日の人気作家になったという。辻氏は「奇想の系譜」と言う江戸美術の奇想画家達の火付け役の本を半世紀も前の1970年に書いている。

今回、何とその伊藤若冲などの江戸絵画のエツコ & ジョー・プライス夫妻コレクションの内190点が出光美術館に売却された。彼が江戸絵画を初めて手にしたのは1953年、父親の会社の社屋設計を手がけていた建築家のフランク・ロイド・ライトに会うために、ニューヨークを訪れたときのことだ。
ジョー氏が人生の師の一人と仰ぐライトは、浮世絵のコレクターとしても知られる。ライトがマンハッタンにあるなじみの古美術商を訪れるのに同行したジョー氏は、一枚の絵画に出会う。「漫然と見ているうちに、掛け軸の一つに目がとまり、そうなると気になって仕方なかった。

”それが若冲の《葡萄図》だったわけですが、そのときは絵師の名前も、《葡萄図》という作品名も頭に入っていませんでしたね。絵そのものに惹かれたのです『若冲になったアメリカ人ジョー・D・プライス物語』小学館”

それ以来コレクションを始めた。そして自宅に飾り、障子越しの光で観るのが一番と、それに適した自宅まで作られた。その後コレクションを一般公開と学術的研究の為と、プライス夫妻が拠点とするロサンゼルスでも成し遂げようとした。
夫妻は自己資金と寄付をもとにロサンゼルス・カウンティ美術館に日本館を新設し、約600点のコレクションを寄贈、日本美術の教育・研究のための施設も備えるという壮大なプロジェクトを進めていた。しかし、日本館自体は1988年に完成したものの、美術館側のコレクションに対するぞんざいな扱いやプライス夫妻の関与を排除する動き、そして夫人への人種偏見的な振る舞いがみられたことから、夫妻は1980年以前に購入した190点の寄贈のみにとどめた。

エツコ & ジョー・プライス夫妻の在るべき所にこの絵はあるべきと考え、プライベートセールという形で今回の運びになった。仲介役を担ったクリスティーズジャパンの山口桂社長は、当時のことを振り返る。「最初にプライスさんから話があったのは2015年のことでした。プライベートセールとは、オークションにかけず、相対で作品を取引するものです。夫妻の希望は、“190点の作品をまとめて購入する日本の公的な機関”というものでした。一般の人が作品を鑑賞で きること、そして研究者が自由に見られることも条件でした」。

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江戸から東京に移り変わる時代に、多くの日本の絵画の名品が海外に流出して行った。日本にあっても当時の混乱などで破棄されたり破損されたりしたかも知れないので、海外で浮世絵などが大量に保存されているのはある意味では良かったことかも知れない。以前ボストン美術館を訪ねたときに壮大な浮世絵展を特別展として開催していたが、ボストンに預かって貰って「有難う」かも。

それが今回返還され、自由に観られる機会が出来たことは素晴らしい。この新型コロナウィルス蔓延旋風が収束して、出光美術館で拝見できる日が愉しみだ。

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エツコ & ジョー・プライス夫妻(ETSUKO & JOE PRICE)
ジョー・D・プライスは1929年アメリカ・オクラホマ州生まれ。石油パイプライ ンの会社を経営する父を手伝うために、大学では機械工学を専攻。エツコ・プライスは鳥取県生まれ。’66年にジョーと結婚。’80年、二人は若冲の画号から名をとった財団「心遠館」を設立した。