氷河特急の旅   (HPOB 小田篤子)

80歳になった夫の氷河特急に乗りたい…でスイスを旅しています。

6/22、ドバイ経由でチューリッヒに入り、広いチューリッヒ中央駅で苦労し、サン・モリッツに着きました。サン・モリッツはシャンパン気候とかで、高級感のある綺麗な所。食べ物も高い!です。ベルニナ急行、そして氷河特急に乗り、ツェルマットに今日(6/28)は居ます。

氷河特急はツェルマットまでなのですが、少し前に降った雨により通行止めの箇所があり、車と電車の振り替えとなりました。ここは昔から電気自動車、電車以外は入れないので、マウンテンバイクが多くみられます。嬉しい事にお天気が良く、マッターホルンがくっきり見られ、ケーブルで途中のSunneggaから2時間歩き、降りて来ました。スイスの野原は私が好きな真っ白な花、レースフラワーでしょうか?がいっぱいです。

(編集子発信のメールより一部転載してコメントに代える)

……..同じ考えるならもっとコージのことなんかよりもっとましなことがあるだろうに、おめえ、大事な時間を無駄にしてねえか? そういやあ今では会えない人の妻、となったオダアツコとかカネフジヤスコなんて連中は何でああ度々外国旅行ができるんだ?テイシュは俺と同じHPOBだというのに? と思いついてさらにますます腹が立ってきた。

我が家のコロナ騒動

先々週、ドクター篠原から ”コロナはまだいるよ!” という警告があったけれど、(マー、俺にはかんけーねえや)くらいの気持ちしかならなかった。それがなんと、わがパートナーが(夏風邪だと思うんだけど)と出かけたクリニックでコロナの宣言を受けて帰宅。勤めて接触のない数日を送ったが同じ茅屋にあっては当然というべきか、小生も被弾。5日分のキットをもらって暑さの中、悶々の1週間を過ごした。

いまやかの悪病も薬局でもらった薬を飲んで自宅で治る、という事態にあって、あらためて感じたのは (あのとき、この薬ができていればあいつは今でも元気だったのにな)という衝動的な感覚だった。普通サイズの倍はあるカプセルをしかも4つ、一口に飲みながら (これがなけりゃ俺もあいつと一緒になるところか)という事に思い至った。大げさに言えば、自分の死生観というのか覚悟の具合を試されているような瞬間だった。

神田光三。

普通部時代、同じクラスの知識人だった鈴木庚三郎と陽気な大越康徳なんかの奔走でラグビー部が復活、時あたかも全国制覇を成し遂げた当時の高校から、宮島(みやきん)さんとか、木野(ぶんかい)さんとか、多くの一流プレイヤーにしごかれた。神田は左バックロー(当時フランカという言い方はしなかったと思う)、俺は左フッカー、毎回 (もっと腰を低く!)(押しが足りねえ!)なんてやられていた仲だ。社会人になって大手銀行のホープとされていたが銀行の仕組みそのものに飽き足らず退社、文字通り徒手空拳、コトバもわからないスイスに修行に出て、はるかに若い少年たちと一緒にチョコレートの作り方をきわめて帰国、白金にだした ”ショコラチエ エリカ” は今や東京名店にかぞえられようかという成功をおさめている。

(ちょっと父が具合悪くて)と長男の光教君から連絡があってからわずか数日、コロナ蔓延の絶頂期、他界した。ご家族との面会もできなかった、悲劇的な最期だった。そんなことどもがつぎつぎに思い出された5日間の闘病、そのうえ、その5日目はパリで客死した同期のエース、西脇順一の日本での葬儀にも顔が出せなかった。

慶応高校の入学式では,学内進学の代表と入試組の代表が塾旗を掲げる儀式があった。普通部の代表は西脇、”おめえは西脇が風邪ひいた時のスペア” といわれて当日、(野郎、風邪ひかねえか?)と念じながらあいつのそばに立っていたものだ。そんな(あのころ)の感傷を吹き飛ばしてしまったのもまた、このコロナだった。ま、不徳の致すところか。

エーガ愛好会 (276) アメリカ映画と人のぬくもり (普通部OB 菅原勲)

米国の映画から、ひとの温もりは、一体、どこへ消えてしまったのか?

飯田さんが指摘されたいくつかの映画、「グレン・ミラー物語」から「学生王子」まで通底して流れているのは、一言で言えば、ひとの温もりです。それは、夫婦のそれであり家族のそれであり友人のそれであり、そして、見知らぬ人同士のそれです(でも、「見知らぬ乗客」なんてオソロシイ映画もありました)。その代表監督は、全編を流れる温もりに満ちた「黄色いリボン」で代表されるJ.フォードでは無いでしょうか。一方、テレビであれば、「パパは何でも知っている」(日本テレビ 58年8月―64年3月。米国・NBCテレビ:54年10月― 60年9月)がその代表でしょう。米国の国として黄金時代であり、聖林の黄金時代でもありました。

でも、1970年代後半、マイケル・チミーノの「ディア・ハンター」(1978年)、F.フォード・コッポラの「地獄の黙示録」(1979年)などが公開されるに及んで、特に「ディア・ハンター」は、ロシアン・ルーレットの悍ましさもさることながら、夫婦、家庭、友人など人の温もりが喪われて行くさまを、極めて的確に描いていました。これを境に、最近はトント新しい映画など見ていないから大層なことは言えませんが、以後、ひとの温もりなど殆ど見当たらなくなりました。勿論、例外はあるでしょう。逆に、今、そんなことを正面切って描こうものなら、惰弱、軟弱などの非難が浴びせられるご時世です。繰り返しになりますが、今は皆目「ひとの温もり」など全く見当たりません。

「映画は時代を写す鏡」だ、と言われています。結局、その根本原因は、ヴェトナム戦争で、土人(土着人)に成すすべなく惨敗し、75年4月、サイゴン(現ホーチミン)が陥落した後遺症の成せる業ではないでしょうか。米国は、土人(土着人)を虐殺し、その土地を収奪して出来上がった国です。従って、ここで見事なしっぺ返しを食らったことになるわけです。

結局、昔は良かったの類いの話しになってしまうのですが、やっぱり、昔は良かったのだ。温もりが無くなったら、映画が映画でなくなるだろう。いや、映画どころか人生だってどうなるか分からない。

そして、これは牽強付会かも知れませんが、マルクス五兄弟に始まって、ローレル/ハーディの極楽コンビ、アボット/コステロの凸凹コンビ、ホープ/クロスビーの腰抜けコンビ、ルイス/マーティンの底抜けコンビ、が、底抜けを最後に底が抜けてバカバカシイ映画がなくなったのも、そのせいかも知れません。ひとの温もりあってこそのバカバカシサでしたから。

(安田)温もりの欠如が顕著になったのは、ベトナム戦争を描く映画の来襲によるところ大ではないでしょうか。「ディア・ハンター」「プラツーン」、「地獄の黙示録」「7月4日に生まれて」「グッドモーニング、ベトナム」、「フルメタル・ジャケット」など。カンボジア内戦(ポルポト率いるクメール・ルージュの暴挙)を描いた「キリング・フィールド」1984年などは観ていて吐き気を催すほどでした。第二次世界大戦を描いた「史上最大の作戦」「遠い橋」「砂漠の鬼将軍」「プライベート・ライアン」「ダンケルク」「戦場のピアニスト」「バルジ大作戦」「ナバロンの要塞」「眼下の敵」・・・、などは娯楽性が高く、楽しめたような気がします。

歳を重ねてきて感性が鈍ったのか、好き嫌いがはっきりして来たせいなのか、歳に見合う映画が少ないからなのか、最近は封切り映画を観なくなりました。最近、映画館で観たのは「ゴジラー1.0」です(笑)。映画の全盛時代は”30年代~’60年代、なかんずく’50年代だと思っていますが、名画をテレビをどしどし放映してもらいたいものです。

(編集子)小生が足しげくシリコンバレーへ出張していたころ、出先で家庭の夕食に招ばれることが多かった。大体が同じ中級サラリーマン家庭だから、決して豪華なものではなかったが、夫人の手造りで、中にはパンまで自家製よ、と自慢されることもあった。子供がまだ小学生くらいのことも多く、そのしつけとかテーブルマナーなんかをほほえましく見たものだった。
しかし、80年代半ばくらいころからだろうか、この機会が激減し、夕食を、と言っても夫人抜きで(つまり純日本サラリーマン風に)でかけることが増えた。なんとなく不思議だったが、或る時、これは客先での話だが、先方から真顔で ”Does your wife cook ?” と聞かれて応答に困ったことがあった。彼の曰く最近はどこでもワイフが俺たちと同じように仕事に出るようになって、自宅でもワイフの作る晩飯を食うことが少ないんだ、と寂しそうであった。当時の我々の常識では、サラリーマン家庭で夫人が勤めに出るのは極めてまれなケースだったし、多くの場合のいわゆる共稼ぎ、は経済的に問題があり、その結果として必要になる、という場合にほぼ限られていたような気がする。しかし (おめえの神さん、あんたの飯作ってくれるんか?)というこの切実な悩みを打ち明けた本人はシンシナティの高級住宅地にプール付きの家を持ち、キャディラックを乗り回す身分の人間である。夫人が経済的な理由で働く必要があるとは思えないではないか。なんとなくそれから先は冗談話に切り替えたが、なんとも不思議な体験だった。
その後、僕らが経験し、楽しみにしていた旅先での家庭訪問、夫人手作りの心こもったディナー、という定番はほぼ完全に姿を消したようだ。これって、いったい何なんだろう? ”ブロンディ” だとか ”パパは何でも知っている” とか、テレビ番組の常連だったアメリカのスイートホーム、はもうないのか?
スガチューが提起したアメリカエーガの変貌、は映画のつくりかたの問題ではなく、アメリカと言う社会の変貌の結果である、と僕は思う。そして、これは勇気のいる発言なのだが、先回、本稿で提起した、男女平等、とか、ジェンダーギャップ、とかいう一連の社会思想の変貌がもたらした、ネガティブな側面ではないのだろうか?スガチューのいうひとの温もりは、人間社会が始まって以来、人種や文化を超越して続いてきた、”家庭” の消滅の結果なんじゃなかろうか?、

 

 

 

わが谷は緑なりき     (41 齋藤孝)

わが谷は緑なりき ー How green was my valley.

6月18日からスコットランドとウェールズに行き,北ウェールズはコンウェイで、あの ”我が谷” の場所に行ってきた。

名女優「モーリン・オハラ」は大家族の娘役だった。勝ち気な女性役は彼女に適役なのだ。その映画は、ウェールズの炭鉱町を舞台にしていた。

“Should auld acquaintance be forgot,
and never brought to mind ?
Should auld acquaintance be forgot,
and days of auld lang syne ?”

“旧友を忘れ 思い起こすことがなくても良いのか?昔懐かしい日々を忘れても良いのか?”亡き友のためにもう一杯、モルトの杯を酌み交わした。

(編集子)モーリン・オハラ。俺達の青春時代の一つのあこがれでもあった。ジョン・ウエインが癌で命旦夕に迫ったとき、そのオハラが、”あの人を救う手立てはないのでしょうか!” と議会に訴えた、という話は胸に響いたものだ。いろんな作品で彼女にお目にかかっているが、彼女が最も美しい、と感じたのは別居を余儀なくされた妻の役で彼女が騎兵隊の砦をおとずれる、”リオグランデの砦” 、あの作品のあるシーンで、オハラの横顔がアップされたカットだった。

 

 

エーガ愛好会 (275)恋愛ものを巡る後期高齢者の蘊蓄

人間グーグルの異名をもつKWV44年卒安田耕太郎君が仲間内に披露した、彼の若き日に書いたという、カサブランカ の感想文を巡って賑やかな論戦になった。ま、いくつになっても男はロマンを追う夢を捨てきれないようだ。

(大学クラスメート 飯田)「カサブランカ」の感想文を拝読しました。ところで、「カサブランカ」に匹敵する恋愛映画の名作として挙げられている、「哀愁」と「ローマの休日」にも全く異議はありませんが、3本共にモノクロ映画なので、彩を添える意味でもカラーの恋愛映画の名作にも時には、思いを馳せたいと思います。思い付きですが「めぐり逢い」(1957年、デボラ・カー、ケイリー・グラント)、「愛情物語」(1956年、タイロン・パワー、キム・ノヴァック)辺りを是非入れたいと思います。

「めぐり逢い」は分別の備わった大人の男女のストーリーで、デボラ・カー、ケイリー・グランドの美男美女が主役ですし、「愛情物語」はピアニスト・エディ・デューティンの半生を描いた映画ですが、大根役者と言われていたタイロン・パワーと一世を風靡したキム・ノヴァクなのと2本ともに音楽も良いと思います。私はタイロン・パワーは「壮烈カイバー銃隊」「長い灰色の線」「陽はまた昇る」で存在感があって、決して大根役者だとは思っていないのですが・・・。

(普通部OB 船津)どれも確かに悲恋・恋愛エーガですね。ローマリ休日はローマ観光映画。「巡り会い」はニューヨークエンパイヤーステートビル宣伝映画ですが、デボラ・カー大ファン。良いなぁ。「愛情物語」はピアノが良いなぁ。「哀愁」も悲恋は悲しい結末でジエンドですね。大人の恋の物語ですね。光輝高齢者になっちやっとその俳優の渋さが分かる。

(安田)確かに、「めぐり逢い」「愛情物語」「慕情」を加えないといけませんね。「愛情物語」はショパン「ノクターン第2番」が、「慕情」は言わずもがな。「めぐり逢い」の音楽は印象に残っていません。

。そこで出演時のヒロイン女優の年齢を調べてみました。

・カサブランカ「イングリッド・バーグマン27歳。
・哀愁「ヴィヴィアン・リー」26歳。
・ローマの休日「オードリー・ヘップバーン」23歳。
・愛情物語「キム・ノヴァック」23歳。
・慕情「ジェ二ファー・ジョーンズ」36歳。
・めぐり逢い「デボラ・カー」36歳。彼女の「王様と私」は忘れ難いですが、バート・ランカスターとの波打ち浜辺でのラブ・シーンが印象的な「地上より永遠に」(当時31歳)も忘れ難い。
ヒロインの匂い立つ若さと、成熟した女性の魅力が際立つ6本の映画です。
ラヴ・ストーリーとなれば、もっと最近では、「ある愛の詩」のフランシス・レイ作曲の主題歌「Love Story」アンディ・ウイリアムス歌唱でも有名。
(HPOB 菅井)リストを拝見していて、個人的に何か足りないなぁと感じていました。それは、旅情「キャサリン・ヘップバーン」48歳(役の想定年齢は38歳!)

(安田)確かにアカデミー主演女優賞最多(4回)受賞者の大御所キャサリーン・ヘップバーンの「旅情}を外すわけにはいきませんね。

強面の人気映画「第三の男」もアリタ・ヴァリを巡って、恋仲だったオーソン・ウェルズ、次に友人のジョセフ・コットンもウェルズの行方不明そして死去後からアリタ・ヴァリに好意以上の感情を持ちアプローチ。エンディングのウィーンの墓地のシーンで、埋葬後コットンはヴァリを待ったが、彼女は表情をかたくしたまま一瞥もくれず、彼の前を歩み去って行った。グレアム・グリーン小説と映画の結末は違い興味深いですが、僕は映画の結末が好きです。ぶれない生き様を見せつけるヴァリには、やはり最後もぶれて欲しくはない。コットンさん、ごめんなさい!

(菅井)アリダ・ヴァリの本名はAlida Maria Laura, Freiin Altenburger von Marckenstein-Frauenbergという長い立派な名前でドイツ人貴族を表す”von”が付いており、男爵夫人という意味のFreiinが冠されている神聖ローマ帝国の男爵家の末裔で、オーストリア人、スロヴェニア人、イタリア人の血筋を引いていました(彼女自身はイタリア人であることを強く意識していたそうです)。

「第三の男」は彼女の代表作でジョセフ・コットンたちに一瞥もくれずに歩き去って行くウィーン中央墓地のラスト・シーンは強烈に記憶に残っています(これを映画史上最高のラスト・シーンと評価した評論家もいるようです)。個人的にはカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した「かくも長き不在」(Une aussi longue absence,1961)でのゲシュタポに強制連行されて行方不明になった夫を待つ(探す)パリのカフェのマダムの演技も素晴らしかったです。大きな瞳を持った目力の強い女優でした。
彼女は1964年にフランス芸術文化勲章、1990年にローマ第三大学から名誉博士号、1990年にはヴェネツィア国際映画祭金獅子賞、2001年にはイタリア大統領からヴィットリオ・デシーカ賞を授与されています。
主題歌である「三つの小さな音符」(Trois petites notes de musique)を歌っているコラ・ヴォーケール(私が最も好きなシャンソニエールの一人)の歌唱も素敵です!

(編集子)小生にとっての 第三の男 のラストシーンは歩き去るヴァリでなくて、それを見送るコットンが煙草をまさぐるカットと、その少し前にジープでコットンを待っていたトレヴァ・ハワードが黙然と去っていくカットのほうが印象に残る。美女と恋愛も結構だが、このカットに漂う男の諦観というか、そういう描写のほうがいい。コージに反論するとすれば、最高のラストシーンはやはりヘンリー・フォンダとキャシイ・ダウンズの 荒野の決闘 の、あれだな。

甑島(こしき島)ってご存知ですか  (42 保屋野伸)

甑島(こしき島)ってご存知ですか。鹿児島の西30kmにある(国定公園)甑島列島です。4年前に下甑島と中甑島が「全長1500mの甑大橋」で結ばれ、上甑島含め3島が繋がったことで、人気が高まった隠れた超穴場観光地です。同期の(島ハンター)大場君に誘われて夫婦4人で(線状降水帯のかかる)21日から2泊で行って来ました(クラブツーリズム~12名)。

川内港から高速船で下甑島に上陸、2日目に下甑島観光・・・高さ120mのナポレオン岩→高さ55mの観音滝→高さ200mの鹿島断崖(添付)等、素晴らしい景観と「鹿の子ゆり」(添付)や「カンゾウ」、「合歓」、「浜木綿」、「紫陽花」等の花も奇麗で、充実した1日を楽しみました。

ただ、3日目は海が荒れ高速船が運休となってしまい、急遽、上甑島の観光をあきらめ、朝のフェリーで串木野に向かい、幕末の薩摩藩英国留学生(五代友厚、森有礼等)記念館や大谷の兜で有名になった「甲冑工房丸武」等の見学をして夜の便で帰りました。天気は(予想外に)まあまあで、3日間一度も傘をささずに済みました。

(42 河瀬)思い立ったらすぐ行けるのは元気なワンゲルご夫婦の典型。この梅雨時に行けただけ幸運!

甑島、面白そうですね。グーグルマップで見ると結構大きな島で入江と断崖が多く、日本の秘境らしい。島には民宿はないのですね。
私たちも今後は秘境の島巡りをしよう、と思っているので、行ってみたくなりました。鹿児島県には硫黄島という別の秘境もありますがまだ行けそうもない。
この7月下旬に伊豆七島の神津島に中等部の古い友人と60年ぶりに再訪しますので、そのうちメールで報告します。
*****************************

(薩摩川内市案内文)

鹿児島県薩摩半島から西へ約30キロ。東シナ海に浮かぶ上甑島・中甑島・下甑島と縦に3島を連ねる甑島は、国定公園にも指定された風光明媚な離島です。 東京から鹿児島空港へ飛行機で約2時間。その後、甑島へは本土の港(川内港ターミナル・串木野新港)から船で向かいます。高速船甑島(川内港ターミナル発着)で約50分、フェリー(串木野新港発着)で約75分の船旅も、これから始まる大自然あふれる甑島への旅路を彩ります。 青い海、緑の山々、新鮮な海の幸、そして素朴で人懐っこい島人が皆さんをあたたかくお出迎えします。上甑島・中甑島・下甑島と縦に3島を連ねる甑島列島。 地形などの違いから各島で違った表情を楽しむことができます。 古くは8000万年前(白亜紀)の地層から形成された断崖や巨岩は圧巻です。

(ウイキペディア解説)甑は、古代中国を発祥とする米などを蒸すための土器。需とも。竹や木などで作られた蒸籠と同じく蒸す調理のために用いる。

 

エーガ愛好会 (274) アメリカ交響楽  (学生時代クラスメート 飯田武昭)

漸く、以前から気になっていた「アメリカ交響楽(1945年製作)」を観ました。
小泉さんが、そもそも≪ラプソディ・イン・ブルー≫及びガーシュインが尤も好きな音楽!?と思われたきっかけの映画と言われる理由が充分に理解出来ました。

この映画「アメリカ交響楽」に出て来る音楽演奏シーンは、ざっと次のような順番で、この種の音楽家の半生を描く伝記映画としてはそれぞれのシーンが長いのと会話シーンでもガーシュウインの曲がBGMので流れているので、音楽好きには大いに楽しめる作品です。しかも、ガーシュウインの音楽は所謂、ホットジャズ(即興演奏を主体に熱狂的に演奏する音楽)なので、益々、その効果は高まると思いました。

・アル・ジョルスンがステージで歌う “Swanee”
・ステージショウの “S.Wonderful”
・男女のボードビリアンが歌いタップダンスする “Somebody loves Me”
・ステージショウ “Blue Monday Blues”

(ブロードウエイでヤッシャ・ハアイフェツ、ジェローム・カーン、ラフマニノフ等が車から降りて来るシーン)

・エオリアン・ホールでフルバンド演奏(約14分) “Rapsodie in Blue”
・パリのクラブで女性歌手(ヘイゼル・スコット)の弾き語り “The Man
I Love  “&”“グランド・カリフォルニア・ヤンキー・ドウドルドウウ”(ラヴェルとカフェで談笑&ピアノ演奏)
・オスカー・レヴァント&ガーシュインの掛け合い “Somebody  Loves Me” “Someone to Watch over Me“
・巴里の雑踏の映像&N.Y.カーネギーホール演奏 “An American in Paris”
・父親の死の直前に “キューバ序曲”
・ガーシュインとレヴァントとの弾き語りで “??“
・ブロードウエイで歌劇 “ポーギーとベス”公演
・ロスアンゼルス・フィルと “ピアノ協奏曲ヘ長調 ”
・ニューヨーク演奏会場でオーケストラとオスカー・レヴァント演奏中にガーシュウインの訃報

“ピアノ協奏曲”&“Rapsodie in Blue(約5分)”

ジャズ系の音楽家の半生を描いた映画若しくはジャズ音楽そのものを描いた映画は私も大変好きですが、他には、グレンミラー物語、ジョルスン物語、歌え!ロレッタ 愛のために、ニューオルリンズ、エディット・ピアフ、ヒットパレード、五つの銅貨、我が心に歌えば、ベニーグッドマン物語、ハロー・ドーリー、わが心に君深く、学生王子、などの名作を思い出します。

******************************

(余計なことだが例によってウイキペディア解説いわく)

アメリカ交響楽ロバート・アルダジョーン・レスリーアメリカ合衆国が生んだ偉大な作曲家ジョージ・ガーシュウィンの生涯を描いた傑作伝記映画。ニューヨークのレミック楽譜出版社にある日ジ ョージ・ガーシュインという若者がピアノ弾きとして雇われてきた。彼の仕 事は朝から晩までこの店の楽譜をお客に弾いてきかせることだった。まもなく彼の作曲した「 スワニイ」はブロードウェイの人気者アル・ジョルソンに認められ、ジョルソ ンの「シンバッド」で唄われたこの曲は作曲家ガーシュインの名とともにたちまち全 米を風靡した。 レミックの店で知り合った歌手ジュリイも彼の「本当に素晴らしい」を唄 って人気をたかめ二人の間は急速に親しさを増していった。やがて彼に注目したボ ール・ホワイトマンは、ジャズ交響楽の作曲を依頼した。彼は3週間を費やしてひとつの曲を作り上げた。 ついにアメリカ音楽史に1頁を画する記念すべき日が訪れた。1924年2月12 日、不朽の傑作「ラプソディ・イン・ブルー」の演奏が終わったときエオ リアン・ホールを埋めつくした聴衆の拍手と歓呼は場内をゆるがせた。音楽 を愛し、命の限り情熱を注いだジョージ・ガーシュインの生涯を描いた傑作。

男女平等、日本118位    (普通部OB 菅原勲)

件名は、ちょっと前ですが、12日(水)の日経夕刊の第一面にデカデカと載っていた見出しです。

ところが良く考えてみると、小生が会社に入った当時(1961年)。営業(要するにセールスマン)を仰せつかって営業所に配属されましたが、営業もSEもCE(修繕屋)も全部男性。女性は秘書、事務などに散見されるだけ。この状態が暫く続き、日本は、E.ヴォーゲルに「Japan As No.1」と煽てられる程の成長を遂げました。確かに、人口が増えると言うボーナスがあったにせよ、この高度成長は、それこそ、ジェンダー・ギャップ(男女平等)云々とは縁も所縁もない男尊女卑のなせる業だったのではないかと愚考します。しかし、西洋から輸入した「ジェンダー・ギャップ」が云々されればされるほど(例えば、役員の何割を女性にせよ!)、日本は低成長路線を悼走りに走っている。

この調査では、アイスランドが一位(男女平等が最も進んだ国)だそうですが、アイスランドは、一体、世の中の為に何か役立つことをしたんでしょうか。こりゃー、単なる自己満足に過ぎないのではないかとの疑問を抱かざるを得ません。

一事が万事、西洋発のロクデモナイ横文字(ここで言えば、ジェンダー・ギャップ)は非常に胡散臭い。ところが、これに素早く飛びつくやつがいて、これが日本の良さを滅ぼす亡国の輩。こんな横文字に一々付き合っていたら、日本が日本では亡くなってしまう。と言う危機感は、ジャイ兄が6月12日のブロッグで指摘していた通り。

(44 安田)菅原さん、同感です。

男女平等なる順位付けがNo.1から順に国・社会の発展、国民の幸福感・満足感或いは魅力度が比例して実現され、可視化されているかと言うと無関係である。社会の運営が順位付に従って上手く行っているかというと、これも関係無いようである。順位付けに何か優れて生産的な価値があるとはとても思えない。政界・官界・経済界・教育界などあらゆる分野に於ける男女別の進出度合いの現実を単純に数値順位付しているだけで、そのことが男女間の作為的な平等・不平等或いは差別とは関係ないだろう。「男女平等順位」の表現自体は著しく誤解を招く(misleadingだ)。下位の国には、事実と異なる男女間の不平等や理不尽な差別が在るやに捉えられる危惧があるからだ。
育児、哺乳動物としての女性の本質的役割、社会保障、福祉、労働・職場環境などの面で、国の歴史・伝統・慣習の影響も受け、国によって女性の進出は国によって様々であろう。一元化して「男女平等順位」が男女間の平等度を測る物差しと捉えるのは無意味で危険ですらある。順位によって善と悪、功と拙、進と遅、好と嫌の線引きをして国々を誤った無意味な固定観念で捉える愚を犯すからだ。

下位(100位以下)に位置する日本は、世界でも5本、否、3本の指に入るほど魅力ある安全で清潔な国と目されていて、世界の中で訪れたい国の人気筆頭の一つだ。男女平等順では下位に位置する日本に於いて、そのことで女性が声高に不平等を訴えて抗議している現実も無い。下位に位置するからと言って、国や社会・経済の発展・運営が、そのことで妨げられていることもない。「男女平等順位付」に積極的な意義と価値を見出せない。

(普通部OB 船津)菅原・安田さん
ご意見ごもっとも。でも何となく観点が違う感じがします。福澤先生は
「抑(そもそも)世に生れたる者は、男も人なり女も人なり」(『学問のすゝめ』第八編)。と言っています。『学問のすゝめ』で福澤諭吉は男性も女性も「人」であることを繰り返し強調している。というのも、いまだ儒学思想が根強かった当時の読者は『学問のすゝめ』冒頭の「天は人の上に人を造らず」の「人」を成人男性と考えたに違いないからです。しかし福澤は近代日本社会形成において男女の協力が必要不可欠だと考えていた。近代日本の「一国独立」は人々の「一身独立」が基盤となる。福澤にとって近代化とは女性もまた男性と同等に社会の担い手となることであった。「一身独立」のためには学問による精神的自立と適した職業による経済的自立を果たす必要がある。1873(明治6)年の福澤の書簡には、義塾内の「女学所」で女子教育に着手したとあり、早くから女子教育の実践を試みていたということがわかる。大体、ジェンダーだがなんだかシランが順位付けなんかが可笑しいが、マァこういうのは紅白歌合戦でも順位があるようにマスコミなどは好きなんですよね。また、高度成長たしかし、菅等さん等優秀な男性人材が夜を徹して死に物狂いで働いたから焦土化した日本が再建しバブルの時代が来たことは間違いない。

(小田)私はGiさんやヤッコさんと同じ会社、YHPに55年以上前に入社。Giさんの書かれた本にもありますように、それまで男性たちがしていた仕事を引き継ぐことになりました。入社直後、上司の第一声、「お茶酌みとして雇ったのでは無い、皆、飲みたい時に飲む」にほっとしました。週5日制で、早い時期にフレックス制も導入され、とても女性にも優しく、過ごしやすい環境の下で仕事ができたと感謝しています。ドアを開けたり、コートを着る時はGiさんほかgentlemenが多く、新入社員にはびっくりでした。在職中、結婚退職が殆どから、私のように出産を期に退職も増えましたが、子育てをしながら定年までいる人は、当時は見当たりませんでした。
我が家の次女は横浜で、1歳児を育てながら共働きをしています。一緒に働く同期も、間もなく二児のママ。保育園に預け、大手町まで通っています。試験を受け総合職にはなりましたが、今は在宅と4時までの勤務、お給料も減っています。最近は男性の協力もとても増えていますが、家事や小さな子に対する根本的な事はやはり女性が担っていますねあのHP CEOのフィオリーナさんの所は御主人が主夫だったようですが。

(河瀬)福沢さんが良い社会を作るには男女の差別を正すべきと述べて100年以上、でも「男女が上手くやる」のもその条件とあります。しかし現在男女が「どうすれば上手くいくか」が忘れられて議論されていますね。また少子化も現在社会の重要な問題です。 それらを医学的に分析しますと、
1)子供への愛情は男子より女子がもともとホルモン的に強い。しかしその強さは若い時に強いので、今の30代を過ぎた晩期結婚は子供を育てる際にホルモン上「馬力がなく」、ストレスを感じやすく少子化の原因になっている。子育てに負担を感じるのは経済問題よりも、医学的な問題でしょう。
2)日本では女子が「子供を作る」代わりに「社会活動から疎遠」にされた長い歴史があり、それは「一族と家族を守るために必要」なこととして男女共遺伝子に刻み込まれている。そこで戦後社会がすぐに男女平等と言っても、女子はどう活躍したらいいかわからない、という現状がある。その遺伝子をとり戻すには少なくとも3−4世代(100年)以上の年月が必要。
私の結論:少子化を改善するには昭和時代のような20歳代の結婚に戻す必要があり、それでも女子の就職活動が妨げられない社会構造が必要。

「男女平等」の評価については日本はまだ時期早尚で、女子が社会構造に順応するまでさらに30ー50年見た上で評価すれば、本当の「男女平等」順位が得られるでしょう。

(小川)成程、一考させられました。

(高橋)日本における男女間格差が世界のなかで118というのはいささか驚きである。アイスランドが一位というのは経済的規模が小さく社会改革がやりやすいという点があるにせよ、現在の大統領は女性というのも見上げたものである。

我が国ではやっと男女間格差の是正の方向に風が吹き出したところだ。働く女性、家庭における妻等々の存在は経済的にどのように評価されていくのか女性問題にやっと目が向けられるようになった。これからも注視していきたい。

(中司洋子)個人的な経験としては、雇用機会均等法が施行されたのが社会人2年目のことで、それ以前との比較はできないものの、正規/不正規を含めOL時代の職場環境と待遇に今となっては不平等感と違和感を感じる場面が多々あったと振り返って思い出します。声を上げるほどのレベルではなく、どうにか気持ちを処理するボンヤリとしたものでしたが。

その後北欧系組織で働くこととなり、異なる職環境を経験しました。背負う文化・社会の違いは越えられずそのまま真似することはできないし、日本の良さを再認識することになりました。そのなかで感じたのは、「平等」「民主主義」を国是にどんな差別も許さないという信念が、あまりにもナイーブと感じるほどに、一般に支持されて広く共有されているようだということです。老若男女、相手が誰であろうと対等な関係を作れる風通しの良い社会と感心する場面が多いです。ジェンダーギャップ指数上位の理由はこの辺りにあるのかなと。
WFFジェンダーギャップ指数で146ヵ国中118位は、さすがに危機感をもって受け止めるべきと思います。国際化がこれだけ進み、世界における立ち位置を客観的に突き付けられることは避けられないことです。結果を我がこととして受け止めて建設的な議論に落とし込めることができるかどうかが肝心なのに、残念ながらそうならないのが毎度ランキング下位低迷に甘んじる理由と思います。

出羽守現象歓迎の立場です。伝統と慣習に自信と誇りを抱いてアイデンティの拠り所とできれば理想ですが、ジェンダーダイバーシティ要因も投資判断に組み込まれるとき。「他所は他所、ウチはウチ」と切り捨てられないことを願います。可愛い孫子の未来ためにも、どうぞ。

(編集子)多数の投稿をいただき感謝。スガチューは ”アイスランドはなにをしてくれたのか” という素朴?な問いかけをしたが、北欧の社会は ”西欧” という中でも一味違うように思っていた。グリーンランドの開拓の歴史をちょっとかじったことがあるが、想像を絶する自然の暴力のまえには男女の区別なく働き続けなければならないという現実が男女差別がない、という文化をつくりあげたのだろう。温和な国に住む日本人とは全く違った結果が出来上がって、というのは理解できる気がする。上記末尾に記載した記事は編集子の姪のものだが、長くノルウエイ大使館に勤務し、北欧文化に触れる機会の多い立場にあった。参考になると嬉しい。

最後にずっと不思議に思っていることをひとつ。”レディファースト” とか、”女性専用車” などと言う事象はどのように解釈すべきであろうか? 明快な解答を期待する。

6月月いち高尾報告  (47 関谷誠)

2024年4回目の「月いち高尾」を6月21日(金)に実施。
梅雨入り寸前でもあり天気が気掛かりであった。予報では曇りのち雨なるも、高尾方面の日中の降雨は 1mm 程度との事にて決行を決断した。
早朝、千葉・柏の家を出た頃、曇り空なるも、何とか持ちそうな雲行きだった。ところが、JR高尾駅に近づくにつれ、車窓から雨傘をさす歩行者が目立ち始め、参加予定者数人からドタキャンの連絡もあった。京王線「高尾山口」に到着した頃には、かなり大粒の本格的な降雨だった。

これでは楽しい山行は無理と判断。集合時間に集まる参加者を待っていたら、一般ルート「石老山」を目指していたグループも中止を余儀なくされ、斎藤 L.以下の有志数名が、来る夏合宿のトレーニング山行とのことで、急遽、シニア・コースに回ってきた。安田、吉田(44)、徳尾(45)、後藤(59)、斎藤(63)の面々は、雨具の完全装備で稲荷山コースに向かった。

その後、10時の集合時間に遠藤(36)、矢部(37)、岡沢、蔦谷、多田(39)、藍原(40)、相川(41)、伊川、平井、関谷(47)、佐藤(48)、それに一般コースから回ってきた斎藤(51)、大場(BWV)が集結。止む無く中止する旨の賛同をいただき、矢部/岡沢のご両名はケーブル経由で薬王院までの散策プランに切り替え、又、折角、遠路駆け付けた皆さんとの懇親を図るべく、10時から営業している「天狗飯店」での懇親会を提案し、多くの方の
賛同を得て、なだれ込んだ。中止となった一般ルート参加者で、既に家路に付いていた丸満/実方(50)のご両名も、懇親会に加わるべく立川から U ターン、雨中での登山組も駆け付け、この先、 「月いち高尾」は、7月のKWV 三田会主催の「夏合宿」、又、8月は猛暑の中での安全対策から一時中断することから総勢17名の参加で、2024年前半の「月いち高尾」を、真昼間からの
懇親会 で ワ イ ワ イ ガ ヤ ガ ヤ と 締 め る こ と が 出 来 た 。

コロナは本当に去ったのか?  (普通部OB 篠原幸人)

週1回、水曜午後は青山四丁目にある新赤坂クリニックで患者さんを拝見していますが、このあたりではなかなか駐車場が見つからないので、バスで通勤しています。自宅から片道約15分です。そこで気が付くのは、マスクをしてバスに乗っているのは高齢者ばかり。一時期のコロナ騒ぎは何処に行ってしまったのでしょう?

 確かにコロナは今や軽症化し、重症になる人や後遺症のひどい方は少なくなりました。しかし、4-6週おきに経過観察に来られる私の患者さんの中でも、毎回1-2名は前回受診時以降、コロナに罹ったと訴える方が居られます。政府が公費節約のためにコロナを話題から極力はずし、マスコミも迎合して、コロナはもう過去の病気のように取り扱われていますが、まだまだコロナは健在です。特に高齢者は人混みや交通機関利用の際にはまだマスクは必須でしょうね。今でもどこの病院内でもマスク着用が義務づけられているのはご存じでしょう?

  私は青山に行く際には、麻布四ノ橋から新宿西口行きのバスを利用するのですが、外来は午後2時からなので、途中の天現寺駅で授業を終えた何人かの慶応幼稚舎生が乗ってきます。まあ多少やかましいのはしょうがないとして、降りる際に全員がひとりひとり「有難うございました」と運転手さんに感謝の言葉を大声で叫んでいきます。私の時代にはそのような教育は受けていなかったので、非常に新鮮で、清々しく感じます。幼稚舎生ばかりではありません。途中で乗ってくる笄小学校の子たちも同様です。でも中学生以上の少し大きい子どもたちからは何の挨拶もありません。12歳以下限定の風習でしょうか?

もっと大人になると(いわゆる10代後半から40歳ぐらいの成人の多くは)、バスの中でもスマホに夢中です。高齢者や赤十字マークを付けた病気の方、あるいは妊婦が乗ってきても気づかぬふりで、高齢者専用シートを平気で占領して、ほぼ全員がスマホを見ているまたは見ているフリをしています。「あたしはスマホ使用中なので気が付かないのです」と背中にでも書いてあればかわいらしいのですが。そのうち、日本人の大半は眼鏡をかけ、スマホ首で姿勢は悪くなるという状態になるのでしょうか?

一方、込み合う時間帯なのに堂々とベビーカートをもってバスに乗り込んできて、「私は特権階級だから席を空けて頂戴」という気、満々な若い主婦も時に見かけます。何とかならないものでしょうか? それでもわざとらしく軽く咳をしてあげるとビックリしたようにこちらを見る人が多いですね。実際には私はそんなこと、しないけどね。昔、「いじわる婆さん」ってマンガあったなぁ。

以前は、病院が遠方で帰宅時間の真夜中になることから、自動車通勤を強いられていた私には、いろいろ新鮮な経験が出来る楽しい日々を過ごしています。