乱読報告ファイル (37)画集「富嶽三十六景」  普通OB 菅原勲

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画集「富嶽三十六景」(編:日野原健司。岩波文庫、2019年)。

北斎の「富嶽三十六景」については、散々言い尽くされているが、ここに、その画集を見たド素人である小生の感想を綴ることとする。ただし、題名は富嶽三十六景となっているが、実際の版画の数は四十六景もあることから、その一々の版画についての話しは省略する。その「富嶽三十六景」だが、これを描き始めたのが、北斎、70歳過ぎからだったと言うから、さすが画狂老人卍の名に相応しい。

その前に、先ず、この本の説明を簡単にしておこう。見開きの2頁を使って、図版を掲載し、その後ろの見開き2頁を使ってその絵の解説をする構成となっている。従って、先ず図版をジックリと眺め、解説を読み、それから、再び図版に戻ることを繰り返して行った。

題名は、富嶽とはなっているが、その富士山だけを描いたものは、たったの三点に過ぎない(「凱風快晴」、「山下白雨」、「諸人登山」)。残りの四十三景は、富士山は単なる点景に過ぎず、言ってみれば刺身のつまにも等しい。北斎が描きたかったのは、富士山にかこつけて、その前景にある情景だろう。人の営み、日常風景。その後景に、ちょこんと富士山を、申し訳程度に配す。だから、富士山自体は皆似たり寄ったりとなっている。また、その殆どの富士山は、太平洋側から見た表富士であり、日本海側から見た、所謂、裏富士は数が極めて限られている(「身延川裏不二」)。

小生が大変気に入っているのは、北斎が描いている様々な人の営みだ。例えば、「神奈川沖裏浪」では、押送船に乗っている者たち、「深川萬年橋下」では、橋を行きかう大勢の人々、「尾州不二見原」では、桶の内側を削っている桶職人、「甲州犬目峠」では、峠道を行く旅人、馬子たち、「武州千住」では、馬を曳く農夫、などなどだ。これらがあって初めて「富嶽三十六景」が成立する。

肉筆浮世絵ではなく、版画だから同じものが複数枚あるわけだが、ここで紹介されている四十六の版画がどの美術館に所属しているかを見ると、米国のメトロポリタン美術館所蔵のものが30点と圧倒的に多く、続いて、太田記念美術館が8点、島根県美術館が5点、すみだ北斎美術館が3点となっている。これだけを見ても、北斎が如何に西洋から極めて高く評価されているかが良くわかる。

小生、実物を上野の展覧会会場で見たが、意外だったのは、その大きさだ。これは版画であるから致し方なかろうが、その絵の大きさは、縦が26.5cm、横が39cm。従って、有名な「神奈川沖浪裏」の波乗り(サーフィン)に絶好の大波(英語のBig Wave)の迫力が余り感じられなかった。意外と小さいなと言うのが第一印象だった。それに加えて、会場の見物人が余りにも多く、全部を観て回るのはほぼ不可能だったので、「富嶽三十六景」だけを見ることにした。それでも、大勢の見物人の頭越しであったことから、ゆったりと見たることは出来なかった。従って、家に帰って、画集を見ながらユックリで我慢してしまうのだが、それでは本当に見たことにはならないだろう。

北斎と来れば、その娘、葛飾応以を忘れるわけには行かない。その展覧会会場のドンジリに葛飾応以の「夜桜美人図」が飾ってあったが、画狂人の娘だけあって、いや、若しかすると、明暗陰影の見事さは、親父を凌いでいるのではないかとの印象すら受けた。その見事さは、仮にレンブラントの絵から影響を受けていたとしても、これは全く応以独自のものであることは言うまでもない。傑作と言われる「吉原格子先之図」の実物は見ていないが、画集によってでも、その見事さは良くわかる。

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(普通部OB 船津)富嶽三十六景は今話題の蔦重が版元では無く柳亭種彦『正本製(しょうほんじたて)』(1831年(天保2年)、永寿堂)の巻末広告によれば、当初は「三十六景」の揃物の予定であったが、売れ行き好調のためさらに十点の追加になった。 追加された十点は「裏不二」と呼ばれる。『正本製』から、版行時期は、1831年(天保2年)から、『富嶽百景』の版行が始まる1834年(同5年)頃と思われる。「永寿堂」は西村屋 与八(にしむらや よはち、生没年不詳)は、江戸時代の浮世絵の版元。蔦重、鶴喜とともに天明寛政期における錦絵の代表的な版元であった。3代目まで続いた。蔦重の敵役で登場している。

菅原さんご指摘のように北斎は海外で認められ日本は反故紙扱いだった。。「ベロ藍」こと輸入化学染料プルシアン・ブルーを用いている点が特徴で、それも濃淡色色々使い分けている。確かに貴兄のの言われるように富士山にかこつけて「小生が大変気に入っているのは、北斎が描いている様々な人の営みだ。」だろう。。

北斎は83歳から89歳の間に4回、現在の長野県上高井郡小布施町に逗留した。また逗留したかと言われている林檎農家の家に家の床に弟子の物のような落書きがあった。この小布施の絵は圧巻で何度も小布施まで見に行った。岩松院の「八方睨み鳳凰図」の天井画は畳に寝転がってみると迫力があるし、葛飾応以の肉筆画《吉原格子先之図》は傑作だ。すみだ北斎美術館には二人の家がありますが元々江戸東京博物館にあった物で、応以は画才が在って北斎の支援をしていたようだが、北斎が「おーぃ」とよく呼んだから「応以」の画号とかは ???

(44 安田)北斎は生涯で雅(画)号を30回ほど改名したという。「神奈川沖浪裏」を72歳で書いた後は42歳ことから「画狂人」という画号を使い始める。この頃には「画狂老人」や「画狂老人北斎画」とも名乗っていた由。64歳になった頃、川柳を詠む会にはまり、「卍」は川柳の彼の号だった。「卍」以外にも、「万字」「百姓」の号も使っていた。引っ越しも90回を数えたというのも有名な話。部屋の片付けをせず、散らかると整理整頓・掃除するかわりに引っ越したという説と、有名になり訪ねてくる人か多くなり煩わしいので引っ越したという説があり、どっちだろう?

アメリカの雑誌「タイム」が「この1000年で最も偉大な業績を残した世界の100人」という特集記事を組んだ際、北斎は日本人として唯一選出された。ヨーロッパでは19世紀のジャポニズムにも多大な影響を与え、19世紀最大のアーティストと言われ続けている孤高の天才絵師だ
アメリカの雑誌「タイム」が「この1000年で最も偉大な業績を残した世界の100人」という特集記事を組んだ際、北斎は日本人として唯一選出された。ヨーロッパでは19世紀のジャポニズムにも多大な影響を与え、19世紀最大のアーティストと言われ続けている孤高の天才絵師だ