
「・・インフェルノ」に加えて、海の「ポセイドン・アドベンチャ
1973年1月サンフランシスコに駐在赴任しましたが、丁度、
シスコを舞台にした映画は数多くあり、皆さんよくご存じのS.
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
仕事を辞めて数年してから、一念発起してポケットブックを原文で読み始めた。その一つのきっかけがアマゾンの存在である。学生時代から社会人5年生くらいまでの間、年に数冊は原書を読むことにしていたが、その本はすべて丸善まで行かなければ買うことができなかったし、たまたま店にあった本を買ってくるだけだった。しかしアマゾンという仕掛けを知ってからはその便利さに完全にはまってしまって、月に一度くらいはポケットブックを届けてもらうようになり、最近は “置き配” という方法で本が届く。誠に便利であるし、配送業者にしてみれば時間と手間の削減、硬くいえば労働生産性の向上に効果があるのはよくわかる。
しかし考えてみるとこのような方法はその社会環境に左右される。言いかえれば、よく調べたわけではないが、世界広しといえども、”商品、家の前に置いておきましたよ“ で配達が済む国はわが国だけではないだろうか。届け物を玄関先においても盗難にあう心配をしないで済む国、工事現場に材料やら機械やらを置いて帰っても翌朝にはちゃんとある国、さらに最近夫婦して経験したのだが、どこへ置いてきたかも覚えていないスマホがきちんと戻ってくる国。犬を連れて散歩する人がシャベルに袋まで持って後始末をする国。欧州の先進文化圏にはほとんど行ったこともないので断言しないが、少なくとも米国には全く存在しない安心というものがこの国では至極当然のことになっている。そういう文化があるからこそ、”置き配“ による生産性の向上ができるわけだ。
”我が国の労働生産性は低すぎる“ ”先進国ではこんなことはない“ ”日本はだからダメなんだ“ 一連の識者と呼ばれる先生方は異口同音に発言される。労働生産性、とは要は付加価値、わかりやすくいえば売上金額をそれにかかわる人数で割った比率のことなのだから、その人数が減れば当然向上する。この手の議論には全く経験がないので判然としないのだが、生産性、を上げるために人手を減らす。そこまでは問題ない。しかしそこで ”減らされた“ 人の雇用はどうなるのか、その結果が引き起こす社会現象はどうなるのか、生産性とたとえば失業率とか犯罪発生率とかの関連、そのあたりについて、かの識者先生方のお考えはどうなのだろうか。
コロナ対策で始まった(と理解しているのだがどうもコロナが収まっても続くだろう)現象の一つに、レストランでのタブレット注文、というのがある。これも工数削減に確かに効果があるだろうことは素人目にも確かである。しかし、である。ま、仕事途中にかきこむランチならともかく、一息入れようかというつもりの場での一つの楽しみはやはり店の雰囲気であり、それが一番よくわかるのが店員さんの応対であり、何気ない会話であり、なじみになれば冗談の一つも交わす、というものなのではないか。それが無機質なタブレットに置き換わってしまう、この大げさに言えば喪失感(!)というか断絶というか、たまらなくつまらない。ここまでやるのなら、言ってみれば自動販売機の前にすわるのと同じではないか。
生産性の分母にあたる人数については、レストランの話はともかく、日本における雇用形態と関連があるのは当然で、アメリカ流の hire and fire が前提ではない。この日本的雇用形態についてもうんざりするほどの議論があるのは承知しているが、基本的に個人を尊重しながら社会の調和を考える日本文化は存在し続けるだろうししてほしい。”個人の自由“ を尊重するからマスクはしない、というような理屈ばかりの議論がまかり通る国では、結局, ”置き配“ は実現できないだろう。
「ホラーの帝王」の異名を持つスティーヴン・キング原作の「Misery」(悲惨の意)の、1990年制作の映画。彼の人気小説「キャリー」、「シャイニング」、「スタンド・バイ・ミー」などに続くサスペンス ホラー・ストーリー。1994年には彼の原作「Rita Hayworth and Shawshank Redemption」(邦題:刑務所のリタ・ヘイワース)による映画「ショーシャンクの空に」(The Shawshank Redemption)が人気を博した。「ミザリー」も彼ならではと唸らせる。原作小
説の方が、映画より場面を想像して膨らませられるだけ、より不気味で怖かった。それでも映画も充分に怖い。彼がこの小説を執筆したのはロンドンへと飛ぶ機内で見た夢に出てきた話を基に一挙に書き上げた由。当時、キングはアルコールと薬物中毒の治療を受けていて、看護婦の世話になっていたところから、主人公の女性を看護婦とした、と言われている。
穏やかで人の良い中年女性役の多いキャシー・ベイツの怖く不気味な怪演が光る。オタクおばちゃんの演技がうますぎる。喜びで浮かれまくっている時のはじける笑顔と、いきなりサイコパス顔に豹変する落差が凄まじい。笑顔と恐怖の顔が繰り返され、次第に恐怖が増幅していく仕掛けになっている。正気と狂気、微笑み・優しさと恐怖の対比による相乗効果は特筆もの。ヒッチコック監督のサイコパス映画「サイコ」1960年で精神病質者を演じたアンソニー・パーキンスの役名はノーマン・ベイツ。どちらの ”ベイツ“ も不気味で怖かった。キャシー・ベイツ42歳時の映画で、アカデミー主演女優賞に値する好演だ。以後、出演機会が増え確固たる位置を占める女優となる。「タイタニック」、「ミッドナイト・イン・パリ」でも好演していた。
ベイツに翻弄される作家役を、「ゴッドファーザー」や「遠すぎた橋」(A Bridge Too Far)などで豪放な役を演じた50歳のジェームズ・カーンが魅せる。彼の両映画出演写真添付。キャシー・ベイツの好演が全てのようではあるが、相手役を演じたカーンの演技も秀逸で、ベイツに対する恐怖や痛みの表現と逃れるための必死の行動があって「ミザリー」は成立している。カーン演じる作家は著作「ミザリー・シリーズ」で知られた存在。映画の題名「Misery」は“悲惨“ と ”小説内のヒロイン名“ の両方を掛けている。巧妙だ。更に、アニーが可愛がるペットの豚の名前もミザリーだ。ファン心理からくるサイコパス女性の狂気を描き、異常なまでに作家を追い込み占有したい欲求に駆られ、それが裏切られた際の恐怖に満ちたヒステリーを演じたキャシー・ベイツには脱帽だ。彼女の狂気から必死に逃れようともがく作家との間の死闘ともいうべき攻防は見応えがある。
物語は、雪に閉ざされた小さな家の中で起こる密室に近い映画舞台設定は、ヒッチコックの「裏窓」1954年、オードリー・ヘップバーン主演の「暗くなるまで待って」1967年のサスペンス映画と同じだ。いやが上にも両主役俳優の名演技と演出が際立つ舞台設定だ。 映画の最後に近く主人公が小説を執筆していたシーンで、チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番が流れていて、ホラーを和らげるかの雰囲気を醸し出すが、そのすぐ後にポールとアニーの命を懸けた血みどろの決闘が始まる。印象的な場面だった。
(保屋野)「ミザリー」、初めて観ました。ホラー&サスペンスというジャンルなのでしょうか。気違い女に監禁された作家が、いかに彼女から逃れられるか、という筋立てで、ハラハラドキドキ感もありました。
主役のキャシー・ベイツはこの気違い女の役でアカデミー主演女優賞をとったそうです。作家役のジェイムス・カーンも雰囲気のある良い俳優だとおもいます。出演はほぼこの二人だけ、という安上がり?の映画ですね。
私はホラー映画が苦手でほとんど観ませんが、この映画や「サイコ」はサスペンスの要素が強く、まあまあ面白かったです。さて、私がこれまで観た映画(少ないですが)の中で、最もハラハラドキドキしたものは「逃亡者」でしょうか。~テレビの方が面白かったですが。あとは「ポセイドン・アドベンチャー」や「恐怖の報酬」あたりかな。
(船津)安上がりの映画。気持ち悪さで引っ張っていく。何となくホラーで
1900年のニューメキシコのシノーラという所を舞台に、土地所
ロ・シフ
権力と結びついた名目だけの保安官(グレゴリー・ウオルコット)の気まぐれによって流れ者
雄大なロケーションとガンアクション、高性能ライフルでの遠距離
(編集子)ロバート・デュバル はやはり ゴッドファーザー での初見参の印象が強く、どうもこの映画ではミスキャストではなかったかという気がする。ジャック・ヒギンズの名作 鷲は舞い降りた で準主役のラードル大佐を演じたところまでは記憶にあるが、往年のテレビシリーズ コンバット に出ていたとは知らなかった。ローンパインはカリフォルニア中部のサンジョアキンバレーに位置し、デスヴァレーとかマウントホイットニーなどへの入り口にある街で、パイン(松)は見かけなかった気がするし、むしろ ローン、という形容詞のほうが印象に残った、編集子の印象としては冴えない印象が残っている。
第5波の波が収まってきたころ新聞コロナ川柳欄に投稿し、10月9日に掲載された、“第6波今でしょ対策立てるのは” と警告を発していたのですが、前回情報(31)で危惧していた通り、第6波対策は有効打を打っておらず、爆発的に感染者が増えています。
新変異株オミクロン株が出現し、世界的に猛威を振るったデルタ株に入れ替わって拡散しています。感染力は数倍とも10数倍ともいわれ、幸いにして重症化率は低いようですが、政府や東京都が唯一の対策としたコロナ病棟では収拾がつかず、しかも非コロナ救急・重症患者の診療に支障が出始めています➊。
首相を始め厚労省、東京都、果ては基本的対策専門分科会長までもが、支離滅裂な発言を繰り返し、日本の医療は無茶苦茶になっています。
第5波までにあれ程指摘されてきた検査体制の拡充がなされておらず❷、PCR検査、抗原検査をやらずに臨床症状だけで感染者と見做してよい(政府)➌、濃厚接触者は本人が届け出をする(都) ❹感染者本人が濃厚接触者に直接連絡する(都)❺、濃厚接触者の特定や入院調整の司令塔であるべき保健所が、予想を上回る対象者数に人員を4,5倍の最大限に増員しても追いつかずパンク状態となり❻、保健所の検査は高齢者施設か同居家族に絞るとか❼ 濃厚接触者のリストアップを患者所属会社に一任する➑など自らの業務を放り投げようとしています。感染が疑われる素人が自分で検査をしようとしても検査キットが品不足で入手できず(検査難民)しかも先進国では信じられない野放図な料金が請求される➒、抗原検査の精度にも問題があり、専門家でさえ陽性、陰性の判断から次のPCR検査か入院かの判断が難しいといわれるのを素人が判断せよという❿、患者側からは発熱外来の予約は一杯で受け付けてくれず医療機関受診も出来ないとなったらどうしたらいいのでしょうか(受診難民)⓫。本来体調が悪い時に診察、治療を受けるのは患者の権利でもあります。これを検査も受診もせずに素人が判断せよといっている。もはや医療と言えず、文明国の生活とは言えません。
➊~⓫どれ一つとっても医療崩壊と言えます。患者数が減っていた数か月を無駄に過ごしたのが原因と思います。
新聞では『開業医を含めて総動員体制でオンラインや電話で問診し診断せよ』という意見がありました。感染症専門医でさえ、「検査なしで臨床症状だけから
診断するのは危険だ➊」といっているのに、「医者ならそれくらいできるだろう」というのは、あまりにも無謀というか、何十年と眼科医や皮膚科医として診療してきた医師にとっては無理な要求です。
このような社会情勢では、陽性者数、濃厚接触者数ともにあやふやで、オミクロン感染の統計自体への信頼も失墜することになり、欧米から冷たくあしらわれるでしょう。
人数制限はするが人流制限はしないなど、政府は突き放し、東京都は軽症・無症状患者は自宅待機せよと放棄しています。『ほとんどの人は自宅療養で治る病気というイメージに変えようという意図の確信犯的迷走なのではないか』という意見も見られました。例えば他の株と比し、重症化率が4分の1としても感染力が4倍なら重症患者数は同じです。従って未だ科学的に立証されていない段階での軽視可能イメージは危険です。
ともかく大変な事態になってきました。ワクチンの第3次接種は、英、韓、仏、豪、米などの54~25%(これらの国では発生率のピークを越えつつあります)と比較し本邦では僅か2.5%と、大きく遅れています。2次接種率では78.7%と優れた数値でデルタ株脱出にも先行できたのに、予め計画して行うことの不得意な国なのでしょう。2次との間隔を9か月と決定したころの縛りがまだ効いているのでしょう。ワクチンの第3次ブースター接種はオミクロン株に対しても有効です。
皆さんなるべく早く第3次ワクチン接種を受けてください。 今、感染ないし濃厚接触者となると大変です。ステイホームせざるを得ないかもしれません。
(コロナとは関係ありませんが、今年正月のー筆者のー写真です)
いにしえの賢哲は 人生とは川の流れだと言った。
流されず川床に残る石を想い出というのだ、とも。
遠からず河口にたどり着く俺の流れにも 数多くの石が並んでいる。
ど真ん中に顔を出して未だに川浪をけたてているのもあるし
底深く黙って砂をかぶっているのもある。
お前の石は そう、右岸にちょっと寄ったあたりのへこみ
岸辺から垂れている草に触れようかと 例のように はにかんで沈んでいる。
成人式前年の師走
(好きなのかな?)と思っていたひとりの少女を見送ってこのかた
俺は一切の宗教というものを信じなくなった。
流れの右岸 草に触れるようにはにかんで座っているその石は
燕 赤倉 五色 焼額
俺のクリスチャニアを追いかけてきては繰り返していたときのように、
(前傾しすぎじゃねえか?)と問いかけてくる気がする。
いままでどうしても出来なかったが
ゆうべ
俺はお前のメアドを delete した。
母親二人が娘を深く愛しているところは同じなのですが二組の親子が送る、全く異なる半生が描かれていました。1940年代のニューヨーク コニーアイランドが舞台。
海岸で知り合った二組の母と娘が同居することになりました。
一方は白人ラナ・ターナー(エマ)の母と娘サンドラ・ディー (スージー)、母親は女優志願者ですが、なかなか役が取れず毎日オーディションに出かけ、家では宛名書きの内職をする毎日。 優しい恋人ジョン・ギャヴィン(スティーブ)が求婚するのですが、エマは夢を諦められないと言う。
やがてエマは女優として成功し華やかな生活を送るようになります。
娘は母親が留守がちで寂しい思いもする日々でしたが、同居しているアニーに面倒をみてもらえます。 娘の卒業プレゼントに母親は馬を贈り、自分が留守の間、久しぶりに現れたスティーブに娘の面倒を見て欲しいと頼みます。娘スージーはスティーブと乗馬をしたり食事ダンスをして楽しい夏を過ごします。 名声を得、女優人生に満足したエマは、10年記念の恋人スティーブと結婚する事になったのですが、思春期に成長した娘は、優しい母親の恋人に恋心を持つようになっていました。 娘は遠く離れたデンバーの大学へ行く決心をします。
もう一組の母親は黒人アニー、捨てられた元夫が白人で、娘スーザン・コナー(サラジョーン)の肌の色は父親と同じ白色でした。
黒人の母親アニーが家政婦の役割をしてエマの家で共同生活をする事になりました。
娘達は幼ない頃は何の違和感もなく仲良く生活していましたが
成長するに従い、娘のサラジョーンは、家の外では自分の母親が黒人である事を隠すようになります。
母親が娘に雨具を届けに行っても、小学校の教師はクラスに有色人種の子はいないという。 白人の素振りをしていた娘は、母親にどうして学校まで来たのかと怒ります。
母親は、知られて何が悪い、自分を恥じる事は何もないと娘に言うのですが、
娘は、どうしてあなたが私のママなのかと泣きながら母親を振り切ります。
母親は信じています。神のみ業には意味があると知るべき 肌の色が違うことにも
自分を恥じるのは罪、自分を偽るのはもっと悪いと。
でも、どう説明しても娘は傷つくだけと、自分の胸の中におさめます。
恋をする年頃になった娘サラジョーンは、恋人(トロイ・ドナヒューだったのです)に母親が黒人である事を知られ酷い暴力を振るわれ、惨めな姿で家に戻ります。 娘の姿を見て、母親アニーは愛する娘に、誰がこんな酷いことを!と聞き出そうとするのですが、
娘サラは、あなたのせいよ!あなたが自分の娘だと言い回るから、あなたがぶち壊したのよと母親に言い放つのでした。
母親の愛がどんなに深くても、どんなに愛していると言われても、娘は自分では変えられない運命を嘆きます。 娘は図書館に勤めていると言っていましたが、実はクラブでダンサーをしていました。 母親の血が流れているのを隠しながら・・・母親エマが娘に会いに行くたびに母親の肌の色のため、娘は職を失います。 やがて体調を崩した母親アニーが最後に娘に会いに行き、もう二度と来ないからと娘を抱き締め、涙する娘。
時が経ち、アニーは自分の葬儀を立派な葬儀にして欲しいとエマに頼みます。最後の審判の日に善き市民として裁かれたい 栄光の旅立ちへと。 この辺りからは、彼女が信じているの宗教の話になります。 遺言通り立派な葬儀が行われます。 教会で ︎この世の苦しみから神のもとへ ︎ゴスペルが切々と歌い上げられます。 参列者の数の多いこと。
家にいて家事をしていただけのように思われたエマは、熱心に教会や集会に通い、信じ深いたくさんの仲間たちがいたのでした。 棺を乗せた車が出発する間際に娘が戻って来てママ、許してずっと愛していたと泣きじゃくるのでした。
たくさんの人々に見送られ立派な葬列になりました。
(ALLCINEMA より転載)
34年にC・コルベール主演、ジョン・スタール監督で映画化された当時のベストセラーのリメイク。その際の題はズバリ「模倣の人生」。正にそんなソープオペラ的できすぎの題材を、メロドラマの巨匠サークがてらうことなく真摯に映像化し感動を誘う。L・ターナーとJ・ムーアの二人の母親がそれぞれの娘を共同生活の中で紆余曲折ありながら育て上げる話だが、ムーアは白人の夫に捨てられた黒人女性であり、白人と見分けのつかない混血の娘がいる。未亡人のターナーは初め売れない女優だが、やがて人気が出て荒んだ生活を送るようになり、S・ディー扮する娘ともしっくりいかなくなる。最初の映画化を見ていないので比較は出来ないが、より黒人のムーアとその娘を大きく扱っていると思え、それゆえ感動も深い。空虚に生きるターナーの支えになり娘との橋渡し役になる恋人を演じるJ・ギャビンも好演。
(安田)ヤッコさんから送って頂いたDVDを遅ればせながら観ました。
(編集子)映画とは関係ない提案だが、この愛好会もすっかり我々の日常に定着したようで、きっかけを作った当人としてはうれしい限り。顔合わせ(声だけしか知らない友人と顔を合わせる機会をアマチュア無線の世界では Eyball QSO と言い、大変うれしいこととされる)はまだできていないがもう百年の知己、といった間柄だ。そろそろ XX様 というのはやめませんか。Imitation of friends とでもいうのでは?
探偵小説、中でも本格探偵小説とは、殺人が起こり、その犯人を見つけ出すまでを描いた物語だ。作家は、あらゆる手練手管を使って読者を最後まで騙して犯人を隠蔽し、意外な犯人を持ち出して読者を呆気に取らせることに腕を振るう。それが成功すれば、万々歳と言うことになる。そして、そこに犯人探しの探偵役が絡んで来るのは言うまでもない。
如何に読者を騙すか、如何に魅力的な探偵を創り出すか、と言う基本的な点で優れているのが英国のA.クリスティーであることに異論はあるまい。しかし、だからと言って、それらの点でクリスティーが並み居る探偵小説作家(以降、作家)より抜きん出ているかと言えば、そうとは言い難い。例えば、S.S.ヴァン・ダイン(「僧正殺人事件」1939年)、ジョン・ディクソン・カー(「ユダの窓」1938年)、エラリー・クイーン(「Xの悲劇」1932年)、フリーマン・ウィルズ・クロフツ(「樽」1920年)などなど、この二点に限って言えば、多士済々で、枚挙に暇がなく、クリスティーはその中のほんの一人に過ぎない。しかし、逆にクリスティーほど広範囲に亘って読者を獲得している作家はどこを探しても見当たらない。それは何故なのだろうか。それは、クリスティーが、ただ単に、吃驚仰天の「アクロイド殺し」、極めて魅力溢れるエルキュール・ポワロなど以上のものを身に着けているからに他ならない。
それは何だろう。結論を言ってしまえば、それはクリスティーの探偵小説が、極端に言えば、実は、世の中の人間模様を濃厚に描いた風俗小説であって(断るまでもなく、ここで言う風俗とは、風俗営業などで使われる意味ではない)、そこに、探偵小説が塗されているからではないだろうか。その傾向は晩年になるに従って益々強くなって来る。また、クリスティーは、メアリー・ウェストマコット名義で「愛の小説シリーズ」を6冊書いている。小生、読んだことはないが、さぞかし面白いに違いない。つまり、意外な犯人、魅力的な探偵、それ以上のものが描かれ、万人に親しまれる内容になっていると言うことだ。ここにクリスティーだけが持っている独特の存在感がある。そう言う意味での最高傑作は、異論があるのは百も承知だが、ポワロではなく、ジェイン・マープルの「バートラム・ホテルにて」(1965年)ではないだろうか。いや、おっ魂消た「アクロイド殺し」(1926年)と言う人もいるだろうし、いや「ABC殺人事件」(1936年)だと言う人もいるだろう、「そして誰もいなくなった」(1939年)、「オリエント急行の殺人」(1934年)などなど、千差万別、百花繚乱、大いに結構。それだけクリスティーの作品が、極めて広範囲に亘って読者に受け入れられていると言う証拠でもある。上記のヴァン・ダインはどうか、カーはどうか、クイーンはどうか、クロフツはどうかと言えば、かれらは極めて限られた、それこそ本格探偵小説マニアに受け入れられているに過ぎない。小生もその末席を汚しているが、「ユダの窓」こそ理解の範囲を超えているが、「僧正殺人事件」、「Xの悲劇」、「樽」などは、確かに非常に面白かった。
ここで、小生のクリスティー読書歴に若干触れてみる。実は、「アクロイド殺し」を読んで、相反する二つの読後感を持った。一つは、こんな犯人、冗談じゃないと言うクリスティーに対する激しい怒り、もう一つは、そうであることで、まんまと騙され、完全にしてやられてしまったと言う自分自身に対する情けなさ。両方がない交ぜになって、以後、暫くの間、クリスティーから遠ざかっていたことがある。しかし、何が切っ掛けだったかは覚えていないが、久し振りに手に取ったクリスティーの正体が実は風俗小説作家であることに気付かされ、そこから再び熱心に読むようになった。ここでも極端を言えば、そこが、大変、面白くて、誰が犯人でどうやってやったかは、もうどうでもよくなってしまった。繰り返しになるが、クリスティーの最大の特徴は、単なる謎解き以上の魅力に満ち溢れていると言う一言に尽きるし、それこそが極めて広範囲な読者を獲得している最大の理由でもある。
最後に、本格探偵小説を読んで失望するのは、犯人、即ち、作家が無理に無理を重ねてでっち上げた犯行方法が、本当に実現できるものなのかどうかと言う疑問、そして、そのことに極度にかまけるあまり、物語りが疎かになって極めて平板なものになってしまうことなど、不満や失望を抱かせる例もあることだ。これでは、正に単なる作り物となる。ここにこそ、本格探偵小説が、クリスティー程の人気を勝ち得ることの出来ない最大の理由があるのかも知れず、一方、クリスティー好きの人にとって、世にいう本格探偵小説の史上最高傑作と言えども、いささかの興味をも抱かせない最大の理由があるとも言えるだろう。
(小田)はい、お好きです。
(児井)小生もアガサは大好きです。彼女に限らず「推理小説」(映画化も含め)は数多く読み(観)捲くって来ました。
お尋ねのロンドン、メイフェアのホテルの件ですが、小生メイフェアの馬小屋を改装した小さな単身用アパート(?)Houseと称していましたが)に一年半ほど住んでいました。そこでブラウン/フレミング両ホテルについては名前だけは聞き覚えがあるような気おもいたしますが、前を通り過ぎるだけで、利用することも無く、何せ50年ほど前の事ですので、ほとんど記憶にありません。残念ですが、悪しからず。
余談ですが、一つだけ小生の自己紹介を兼ねてお話したいと思います。小生の遠縁に「兒井 英雄」(我が親父の又従兄弟に当たる)なる人物がおりました。当人は日活映画の大物制作者(producer)の一人で(後年映画界に多大な貢献をしたとして叙勲されております)、古くは「恋愛三羽烏」、近年は小林 旭の「渡り鳥シリーズ」等を手掛けていました。当人とは2,3度ほどしか会っておりませんが。一つだけ印象に残っていることは制作者は一種のギャンブラーではないかということです。と言うのは、作品が当たると家具を始め住居が宝の山となり、不作の場合にはそれらが一掃されてしまうからです。何とも因果な商売だなと思っていました。それはさて置きこの縁で当時の青春、活劇路線を奉ずる日活映画を数多く観て来ました。特に石原裕次郎の大フアンで彼の出演映画はほぼ全巻観ました。
(編集子)さすがわが師匠、スガチューの解説。何回も言うが、彼にそそのかされて小生がミステリに窓を開いたのは高校1年で同じクラスになって以来のこと。中学時代にはホームズ、ルパンは卒業していたが、これはむしろ世界名作文庫的な位置づけ(?)で読んだので、本格物第一号はクリスティと同時代の(本業は推理ものでは無い人だが)A.E.W メイソンの 矢の家 で、その次に読んだのがアクロイド殺人事件 だったと思う。それぞれ主張はいろいろだろうが、小生が 犯人の意外性という推理小説の第一義に感心した、という意味ではアクロイドについではウイリアム・アイリッシュの 幻の女 だった。このジャンルがアメリカで盛んになり、代表と言われるのがエラリー・クイーンとヴァン・ダインだと思うのだがこのあたりになると本家を意識してか、あまりにも込み入ったストーリーが多すぎると思う。その反動がこれも何度も書いたが、ハードボイルドミステリというわけだ。こっちなら小生も多少、話ができる気がするのだが。いずれにせよ、皆さん、ミステリを読みましょうよ!
(34 小泉) ジェームス・ディーンの「理由なき反抗1955」フィルムノワー
ォードが何とも素晴らしい。
荒野の片隅にある酒場が舞台。辺境の風情を醸し出す中、ランプがが三つ巴の構図で渡り合う。何故エマが。これほどにヴィエンナを憎むのか。鉄道への反発もあるが、色男ダン
女の憎悪を下敷きにした女性ふたりの演技に対し、団体の動きとなると意思の弱いアウトロ
最後は、キッドの隠れ家での戦いとなり、キッド一味の若者タ
り首にされ、ヴィエンナも危なかったところジョニーに救われキッ
(編集子発信のメール)僕らが高校時代には今のように多彩なメディアがありませんでしたから、映画の主題歌やテーマソングがそのままヒットチャートを飾るのはごく普通でした。器楽曲ならば、かの 第三の男 や 禁じられた遊び 現金に手を出すな、避暑地の出来事 に 史上最大の作戦 のマーチなどが代表的だったでしょうが、主題歌そのものが歌われたというケースはあまり数がなかったように思います。
その中では シェーン の Call of the faraway hills や 真昼の決闘 Do not forsake me とならんで 大砂塵 の主題歌 Johnny Guitar は ペギー・リー が歌って、哀調を帯びたけだるいトーンが好評でした。実は今日は張り切ってゴルフの練習に行くつもりをしてましたが朝刊でこの放映を知り、予定変更してこれで三度めだと思いますがエーガにしました。これが終わると17時には大岡越前第15部(!)、22時にはごひいき(スガチューは嫌いらしいが)山本耕史の居眠り磐音と、小生にはめずらしくテレビの日になりそうです。映画の筋そのものは言ってみればB級西部劇ですが、しいて言えば女二人が最後に対決する、というのが売りで、放浪のガンマンスターリング・ヘイドンはギターを担いだ引き立て役です。そういえば最近、小林旭の ギターを持った渡り鳥、なんて思い出しましたが、ひょっとしてこれ、大砂塵 の焼き直しかなあ?
(42 保屋野)大砂塵観ました。俳優陣はパットしない映画でしたが、ストーリーはまあまあ面白かった(少々変わった)西部劇でした。さて、映画より有名になった主題歌「ジャニー・ギター」ですが、昨年実施した「映画音楽ランキング」で使った映画音楽リストを見て大砂塵のように、映画とは独立して大ヒットした「主題歌」を探してみました(ミュージカルやディズニーは除きます)。
① ジャニー・ギター(大砂塵)②モア(世界残酷物語)③ケ・セラ・セラ(知りすぎていた男)④死ぬほど愛して~アモーレ・ミオ(刑事)⑤ サウンド・オブ・サイレンス(卒業)⑥ムーン・リヴァー(ティファニーで朝食を)⑦マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン(タイタニック)~歌ではないのですが・・・⑧魅惑のワルツ(昼下りの情事)⑨禁じられた遊び(同名)⑩追憶(同名)
(飯田)映画「いそしぎ」のテーマ曲:The Shadow of Your Smile(アンディ・ウイリアムスが歌う)「ヘッドライト」のテーマ曲なんかも流行ったと思いますがリストにありますか?
(編集子)この 大砂塵の主題歌は当時のジャリタレ歌手が歌いましたが、みんな ジャニーギター、と発音してあたかも英語通みたいにしていました。これはペギーの発音に影響されたのだと思います。当時、僕らには高根の花だったウイスキーの最高峰(勝手に思ってただけで要はほかのブランドを輸入する業者があまりいなかったのだと思いますが)とされていた Johnny Walker は ジョニ赤やジョニ黒であった、ジャニーウオーカー と呼ぶ人はいませんでしたな。
(ウイキペディアから)小林旭主演でヒットした『渡り鳥シリーズ』で、主人公のトレードマークがギターなのは『大砂塵』の影響だといわれている(キャラクターは『シェーン』の影響)。なお、1960年に封切られシリーズ中最も西部劇のムードが濃い『大草原の渡り鳥』において、小林旭は『大砂塵』のスターリング・ヘイドンとほぼ同じデザインのフリンジ・ウェスタンジャケットを着て登場している。
意気込んで行った ”半日高尾” だが、予想外のユカイな出来事をもたらした。その報告である。
(中司ー児井)憂さ晴らしに高尾山へ散歩に行ってきました。行ったことがおありかどうかわからないが、
(児井-中司)貴信拝承。小生にとっては貴重な情報を貰い、有難う。
(中司ー児井)まさか、と思っていましたがいや、びっくりです!そうですか、
(児井ー中司)貴信確と拝受。兒井家の発祥は金沢前田家の家臣だった様です。当時当地では「濃い」・「薄い」の「薄井」姓が本命で、そこから転じて「兒井」姓が生まれた様です。現在では兒の字が当用漢字から外され「児」の字を使っております。(戸籍上では旧漢字の兒井で登記されています) 余談ですが昔役所に登録の際、筆の誤りで臼の下に足が生えてしまったのではないかと親父から冗談交じりに聞いています(笑い)。何れにせよ極めて稀な姓で、貴ブログ仲間の保屋野さんの調べでは、「児井」姓は全国で20人(市川に10人、他関東に10人)の由。これまた余談ですが、小生出生の折、当時陸軍士官であった親父(英義)が「皇軍堂々正義の士」と謳って、「正義/まさよし」と命名した旨アルバムに記載されていました。当時の世相を振り返るとともに正義には聊か未熟な自分に恥じらいを否めません。