エーガ愛好会 (23) エデンの東 ー ジェイムズ・ディーンのこと

気が付いてみたら昔ばなしばかりする年代になってしまった。普通部から高校にかけての一番のんきで楽しかった時代、つまり ”戦後” が終わろうとしていた時代の僕らを支配していたのはやはり ”戦争を知っている親たち” の価値観やらライフスタイルが変わろうとしていた時代でもあったのだろうが、今考えてみるとこの時代の ”青春” の在り方も変わりつつあったころだったとも思う。

そのことをなんとなく感じさせたのが ジェイムズ・ディーン という俳優だったような気がしてならない。高校3年の時に エルヴィス・プレスリー が登場したとき親たちの年代のほうは敏感に時代の変化、を感じたようだったが、僕には音楽シーンの変化ぐらいにしか感じられなかった。

”エデンの東” は高校同級の悪童たちと東劇へ見に行った。そのうちの一人、広田順一がこともあろうにラブシーンの最中に持っていたアルミの弁当箱を取り落とし、大きな音を立てて周りからにらみつけられるという事件があった。そんな思い出でもある。

(44 安田)旧約聖書のアダムとイヴの双子の息子兄弟「カインとアベル」の物語に基づいた、ジョン・スタインベックの故郷・サリナスを舞台にした長編小説の映画化。映画化されたのは小説の終わり3分の1ほど。サリナスから近い海岸の町・モンテレー

モンテレイの街

も舞台となっている。ここは80年代半ばクリント・イーストウッドが市長を務めた高級人士住む観光地カーメルに隣り合う、サンフランシスコに人たちには言ってみれば東京と鎌倉みたいな関係にあるところである。第一次世界大戦前後の北加州の農村を舞台に展開される青春ドラマ

聖書ではエデンの東は、エデンの園を追放された、双子の弟アベルを殺した、アダムとイヴの息子カインがたどり着いた土地として知られている。映画では兄役のアーロンは弟(ジェームス・ディーン)を殺しはしないが、弟との確執の結果、世界大戦の戦場ヨーロッパへ出兵するところで終わる。旧約聖書では、弟を殺した兄の向かうエデンの東は、流刑地のニュアンスがある。人類の祖先であるカインが放浪者として移り住むエデンの東・・・・聖書では、これが人類の旅の始まりとして描かれている。ヨーロッパ戦線に向かった兄の運命は映画では明らかにされていないが、旧約聖書が描く流刑地の悲惨さを示唆しているのであろうか?そして厳しい人生の旅が始まったのであろうか?映画では、ディーン演じる主人公は、品行方正な兄を何かにつけて可愛がる厳格な父が気に入らず、反抗的な態度をとり続ける。反抗は愛に飢えている証ではあるが、その辺の孤独感と反動として反抗する感情を、ディーンは伏し目がちな視線や憂いを帯びた態度で繊細に”悩める青春像”を演じきって世の女性たちを虜にした。映画の撮影終了後間もなく24歳の人生に終わりを告げる自動車事故の悲劇も、一躍世界のスターになったジェームス・ディーンを絶対的なアイコンとして昇華させたようである。

印象的な場面は、観覧車の中の兄の恋人とのキスシーン、大豆の芽が大地から出てきて大地に寝そべり喜ぶシーン、兄の恋人とディーンとの長い会話を経て二人の気持ちが通いあるシーン、兄が自暴自棄に陥り恋人から離れヨーロッパの戦争に赴く駅の列車出発シーン、意識不明の床に伏した父がディーンの耳元の言葉に頷き涙を流した時、天井から光がさして二人を照らすシーン。ディーンが父親に理解してもらったと感じるエンディング場面はこの映画のハイライト。弟の人生の旅もこれからまた始まるのだと映画は示唆しているようであった。

 

兄の恋人役ジュリー・ハリスは、「波止場」「北北西に進路を取れ」「栄光への脱出」エヴァ・マリー・セイントの清楚であるが秘めた信念と情熱の炎は熱い感じに似通っていると思った。彼女は波止場でオスカー助演女優賞獲得。ジュリー・ハリスは「波止場」でもメガホンを執ったエリア・カザンのお眼鏡に適った女優だったのだろう。またジュリー・ハリスはオスカー助演女優賞に充分値する適役の演技だった。

厳格な父親役のレイモンド・マッセイオスカー助演女優賞の母親役のジョー・ヴァン・フリートの演技も素晴らしい。先日、話題となった「大いなる西部」で注目された助演男優賞獲得のバール・アイヴスも出演していて懐かしく観た

NYの俳優養成学校「アクターズ・スタジオ」創設者の一人であるエリア・カザン「波止場」でオスカー監督賞を獲得しており、その波止場で主演男優賞を獲得したマーロン・ブランドとは欲望という名の電車」でも一緒。「エデンの東」の主役はマーロン・ブランドと決めていたが、当時吹き荒れていたマッカーシー旋風(共産主義者取り締まり、いわゆる赤狩り)の際のエリア・カザンの仲間を売った裏切り行為(といわれている)が許せなくて、ブランドが辞退。アクタース・スタジオ出身の新人ジェームス・ディーンが結果として抜擢された。他に主役候補にはモンゴメリー・クリフト、ポール・ニューマンも挙がっていたという。1950年代はアメリカ映画の全盛期で名画が目白押しですが、テーマ音楽の素晴らしさも相まって、不朽の名作に値する映画であった。

 

(34 小泉) ジェームス・ディーンのこと、よくよく思えば1931年生まれで1955年24歳で亡くなっています。映画愛好会一番年上と思われる小生より4歳も年上で、亡くなった時、小生は20歳でした。当時当然ながら映画館で、「エデンの東」をはじめ全ての映画を観ているはずですが、内容をどの程度理解していたのか?その後TV等で見直していることもあり、残念ながら当時の印象がどうにも思い出せないでいます。「ジャイアンツ」では、若干西部の雰囲気も出てましたが、彼が西部劇の主役だったら?どんなことになっていたか想像してしまいます

(43 保屋野)やっと、ビデオで10年ぶりに「エデンの東」を観ました。チビ太師匠の感想通り、私も「不朽の名作」だと思います。

ちょっと余談ですが、見終わって、NHKのBS1を見たら、丁度「穂高・ジャンダルム」が再放送されていました。実は、卒業2年目のガニマタ合宿を岳沢BCで行い、14,5名で、天狗のコル→ジャンダルム→奥穂高→前穂高→岳沢と歩いたことがありました。確か、マリちゃん、克ちゃんもいて、厳しい岩場の画面を見ながら「良く歩けたもんだ」と感心しました。・・・若さ(無鉄砲?)って凄いですね。

さて、映画の方ですが、ストーリーは親子兄弟の葛藤を描いた、ありふれた題材ですが、やはり、ジェームス・ディーンの存在感は「半端ない」ですね。この映画は、チビ太の云う通り、スタインベック原作の後半1/3ぐらいの話で、前半の部分は、22年前にテレビドラマで放映されています。

母親(ケート)が主人公で、(よく覚えてはいませんが)、ケートの強烈なキャラが印象的なドラマでした。このドラマは映画よりも高い評価をする人も多いそうです。「理由なき反抗」「ジャイアンツ」もまた観たいものです。・・・彼は意外と小柄(173cm)だったのですね。

(36 後藤)保屋野兄、我々の青春時代の思い出の作品をご覧いただき有難うございましたちょっと親に反抗するひねたスタイルが私達も流行った記憶があります。私は母親役の娼婦の元締めをやったジョー・ヴァンフリートという女優さんがいつまでも印象に残っています。私も穂高のジャンダルムを登行するNHKの再放送を見て皆さんあんな凄いところを良く登るもんだと感心しました。最早どうにもならない話ですが本当に若い時は何でも怖くなかったのですね。

(41 久米)「エデンの東」そして主演のジェームス・ディーンについては映画愛好会の中の年齢差で感想も大分変ってくると思います。私の記憶に間違いがなければ「エデンの東」が日本公開の際には主役のジェームスディーンは既にこの世の人ではなくその悲劇性も重なり大変な前評判で映画を見たような気がしています。

主人公が列車の上でセーターを首に巻くシーンは忘れられません。この時以来セーターを首に巻くことが若者の間ではやったように思います。ジェームスデx-ンが世の中に反抗する姿勢は次の作品の「理由なき反抗」で顕著に表れていますがまだ12歳の私には当時は良く理解できなかったように思います。その点、「エデンの東」のロマンス部分の方が解り易かったように思います。後年、見直して理解したように思います。

「ジャイアンツ」のディーンは演技にあざとさが目立ってロックハドソンやエリザベステーラーの方に分があったように思います。でもディーンの出現以後、男は少なからず彼の演技を模倣しているように思えますしハリウッドもディーンの面影のある俳優を探しているように思います。アラン・ドロンやブラッド・ピットなどデx-ンの面影をチラッと見かける時があります。1955年はエルヴィス・プレスリーが華々しく出現した年でもあります。

(ウイキペディアから転載)ロサンゼルス退役軍人病院に勤める歯科技工士の父ウィントン・ディーンと母ミルドレッド・ウィルソンのもとにインディアナ州マリオンで生まれる。しかし、父母は行きずりの恋から始まった婚前妊娠だったことから、父のウィントンは息子のジェームズの誕生を喜ばなかったという。反対に、父親に無視される事となったジェームズにミルドレッドは深い愛情を注いだという。ジェームズが9歳の時ミルドレッドが卵巣がんで亡くなると、ウィントンはフェアマウントで農場を営む姉夫婦に彼を預け、そこで育てられた。

高校時代から演劇に興味をもち、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の演劇科で学んだ。舞台やコマーシャルなどに出ていたが、更に俳優としてのキャリアを追い求めるために中退、ニューヨークに移った。そこで1950年代の『Kraft Television Theater』、『Danger』や『General Electric Theater』のようなテレビ番組の何編かに出演した。この頃よりジェームズはアンドレ・ジッドの『背徳者』に心酔してハリウッドへ行き、映画スターとなることを夢見るようになる。

『底抜け艦隊』等の映画の端役をいくつかこなした後、1955年エデンの東のキャル・トラスク役で初めて主役を演じて認められた。彼はこの役でアカデミー賞の主演男優賞にノミネートされた。この後、続けざまにその年の理由なき反抗で主役を、ジャイアンツで準主役を演じ、またもやアカデミー賞にノミネートされることになる。

『ジャイアンツ』の撮影終了1週間後の9月30日、ジェームズはサリナスで行われるレースに向かうために同乗者の自動車整備士ラルフ・ウッタリックと共に、愛車であるシルバーのポルシェ・550/1500RSカリフォルニア州の州道を走行中、午後5時15分にショラム近郊にある州道46号線と41号線の東側の分岐点で、交差点を転回していたフォードに衝突した。ウッタリックは車外に投げ出されて骨折、フォードの運転手も軽傷で済んだが、ジェームズは首の骨を含む複雑骨折、内臓損傷などでほぼ即死状態であった『理由なき反抗』は、死から約1か月後の10月27日に公開された。

学術会議騒動について  (44 安田耕太郎)

学術会議の設立は昭和24年。行政、産業及び国民生活に科学を反映、浸透させることを目的として、内閣総理大臣の所轄の下、政府から独立して職務を行う「特別な機関」として設立された。職務は以下の2つ。1.科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること。
2.科学に関する研究の連絡を図り、その能率を向上させること。

非常にあいまい且つ抽象的であり、実践的・具体的な職務は一般人には理解しがたい。日本学術会議の役割は、主に以下の4つであると規定されているる。

1.政府に対する政策提言

2.国際的な活動
3.科学者間ネットワークの構築
4.科学の役割についての世論啓発第二次世界大戦後すぐに設立された理由と目的は、明らかに敗戦後の日本を立て直し、将来の発展と成長を目指し、国内の知能を総動員していわばオールキャストで目的を果たす役割を担ったのである。1990年頃バブル経済の破綻で戦後、成長拡大し続けた経済も天辺を打ち、その後は今日に至るまで30年間、沈滞と低迷の時期の真っただ中をうろついている。その責任の一端は日本学術会議にもあると認める謙虚さを望みたい。

日本学術会議が担った役割は設立から40年を経たバブル経済崩壊の頃までにほぼ終焉しているにではと推察している。いわば「大きな政府」時代の大きな組織が遺物化したのが現在の日本学術会議の姿ではないだろうか。延命と権力維持を二つの柱として存立している官僚組織の姿を見る思いがする。構成メンバーにとっての経済的利益は引退後の年金収入を含めて抗し難い面もあろう。70年経た組織が硬直化し、官僚化するのは避けられない。

国民の税金を財源として運営され、その役割・効果・責任・権限・成果の詳細は知る由もないが、それらが曖昧だとすれば、その存在はもはや許容すべきではないと考えている。優秀かつ目的意識も高い各構成メンバーなりメンバーから構成されるグループ(と、信じたいが)は、彼ら独自に(日本学術会議の枠外で)自由に意見なりを発表する機会も手段も場も与えられているはずである。自ら能動的に行動すれば可能であろう。自由の侵害などと主張するのはお門違いである。政治イデオロギーの信念を盾に研究分野を勝手に選別したり、拒否するのは税金で運営されている機関としてはもってのほかである。

矮小な問題としては菅首相は6人の任命を見合わせた理由をもっと論理的に返答をすべきであったろう。しかし、もっと重要な根本的問題は、日本学術会議の存在意義についての抜本的な検討であろう。首相はもはや積極的な存続理由は見いだせていないのではと推察します。但し、その大きな問題を論議することの政治的深刻さを考えれば、のらりくらりと昼行燈に徹するのが賢明だと政治的に判断していると推測している。

日本学術会議に設立当時期待された役割と効能は、日進月歩で変化する科学分野と複雑で流動的な世界情勢に対応する為、複数の専門的シンクタンクを利用して流動的にフットワーク軽く柔軟に対処する必要があるだろう

日本の健全な生存と発展には、今や国内の内輪同士のもめごとにかまけている余裕などなく、世界に伍していけるシステムと能力を備える必要がある。コロナ禍によって露呈したデジタル分野の後進性と脆弱性だけは科学分野では御免被りたい。真に国の総力を挙げて効率的に運用できる仕組みが早急に構築されることを強く望む。政府の正しく強いリーダーシップと、果断にして迅速な意思決定と運用がカギを握っている。優柔不断で適正能力不足の政府では国民が不幸にされるだけである。

学術会議騒動について

新政権にさっそくいちゃもんが付いた。学術会議メンバーの選考問題である。例によって政府側の答弁も歯切れが悪いが、なんといってもいわゆる知識人とやらの反応にはつくづくあきれてしまう。会社組織で言えば上司の部長がだれになるのか、からはじまって人事なんてものは基本的に理屈通りにはいかないし、部下から見れば英雄であっても社長の胸三寸にきちんと落ちなければその通りにはならないのはいわばジョーシキである。そうなったときに、今度の人選はわが社の命運にかかわる、社長辞めろ、なんてことは起きえない。気に入らなければやめてしまえばいいだけの話である。

まして10億円もの公費が使われているのであれば、めくら判を押してきたいままでのやり方を見直すのは、前例絶対を排するという総理の方針からすれば至極当然だろう。その理由が政府の大方針にそぐわないのであれば、それが理由だ、と言えばいいのではないか。なぜって、彼らは公務員なんでしょ。小生、別に菅ファンでもないし自民党絶対論者でもないが、公約をきっちり実施する、という姿勢はその結果はともかく、支持に値すると思っている。

何より馬鹿げているのは今回の措置が学問の自由を侵害する、という議論である。大学で個人が行う研究活動やその成果の発表や社会への働きかけについて、今回の措置はそれこそ憲法でも改悪しないかぎり、なんらの影響も持ちえない。学術会議のメンバーでなくても政府への意見具申をする方法はいくらでもある。テレビ報道で多くの人が指摘したように、他国ではこの種の団体は民間団体であり、政府から経済的支援を受けない。だからこそ自由に発言し行動できる。行政への諮問、ということからすればこのほうが正しい。曲がりなりにも(100%そうだなどというほど当方もうぶではない)国民の支持によって成り立っている行政機関から金をもらっている立場であればそうはいくまい。例によって偏った見方しかできない連中が自由の侵害だなんだとデモで騒ぎ立てるのはコロナウイルスを拡大するくらいの意味しか持ちえない、と思うのだが。いかが。

 

五色温泉 宗川旅館の近況  (44 浅野三郎)

 

栗子山直下の発電所

3年ぶりに訪れた五色温泉・宗川旅館についてご報告します。

宗川旅館はこの10月一杯で正式な営業は終了するとの事です。ですが、今後も
宗川家は五色温泉の建物で生活を継続するので、KWVの方達は特別に宿泊
可能だそうです。ただし、浴衣や洗面道具等のサービスは無くなります。また、館主の宗川好一さんは鉢森山(栗子国際スキー場のあった)南尾根に建設中の風力発電設備(添付写真)の管理者として勤務することもあり、板谷駅や米沢駅, 福島駅への車での出迎えは出来ないとの事でした。

旧ゲレンデ前にも小さめの風力発電設備(滑川温泉所有?)が立っています。
また、数年後には鉢森山北尾根に十数か所の風力発電機が建設予定だそうです。
美人の大奥様も御御足が悪いそうですが、お元気そうでした。
板谷から五色に上る道は昨年の台風19号(?)で土砂崩れが数か所あり現在修復中ですが、通行可能です。

五色前の風力発電

詳細は下記へお問い合わせください。
五色温泉・宗川旅館 0238-34-2511

トランプ騒動に関する情報

HP時代の同僚から、下記のホームページを紹介された。数件、記事があり、おのおのに広告が入っていたりするが、わかりやすい文面でもあるので一読をおすすめする。アメリカ版週刊文春かもしれないのでどこまで信用できるかはご判断にお任せする。ただアメリカよ、どこへ行く? という気持ちは深まりこそすれなくならないのだが。

https://theweek.com/speedreads/941345/conspiracy-theorizing-about-trumps-diagnosis-already-begun

エーガ愛好会 (22) The Big Country

予想もしなかっためぐりあわせから米国企業で働くことになった僕は、シリコンバレーには相当回数足を運んだが、東部や中部を訪れる機会は少なかった。その少ない旅の途上、ジェット機の上からその国土の果てしないうねりを見て、”でっけえ国だなあ” という印象はもちろん持っていたが、実感としてそれをあらためて実感させたのちょっとしたドライブだった。

コロラド・スプリングスは米国空軍士官学校の所在地として、陸軍士官学校のウエストポイント、海軍兵学校のアナポリスとともに知られているし、NORAD(北アメリカ航空宇宙防衛司令部)の所在地でもある、いわば軍都、とでもいうべき街で、幾度か訪れることがあった。1970年2月の訪問のとき、デンバーから通常のルートを避け、地図を頼りに回り道をしてみたことがある。つたない詩もどきを書き留めている とりこにい にその時の感情が書いてある。

 

 アクセルをぐうんと踏んで フォードLTDは小さな峠を越えた

 視野の果てまで きつね色のコロラド溶岩台地の遠く

 早春の平野の第三象限を限るロッキーの稜線があった

 インターステートハイウエイが越えるこの峠

 百年の昔 人は馬で越えた      

 この峠に立って 幾人の旅人が      

 かぐわしい夏の夕風 暮れていくロッキーに問いかけたか

 幾人の騎兵隊兵士が 幾人のファー・トレイダーが 吹きすさぶ雪に吠えたか

 ・・・・おれはなぜ、ここにいるのか、と。

 彼らが帰り着いた土 この峠に立って

 ひとりの異邦人はつぶやくのだ

 この広い天と この ただ果てしなくひろい地のはざまに

・・・・ おれは いま 生きている! と。

 

 

思わせぶりな前説が長くなった。ウイリアム・ワイラー、大いなる西部。

(写真提供 安田耕太郎君)

(小泉) 監督ウイリアム・ワイラーで「西部の男1940」以来18年ぶりの西部劇、主演グレゴリー・ペックとは「ローマの休日1953」以来5年ぶり。最近BSPで放映されたペックの西部劇「続ガンヒルの決闘」「拳銃王」とは異なり、その人柄が醸し出されるような東部の紳士で、インテリ風でありながらも船乗りから船長に登り詰めた強靭な肉体も持ち合わせる主人公を颯爽と演じている。

開巻から東部と西部の対立の様相を見せつける。婚約者のキャロル・ベイカーとその父チャールズ・ビックフォード経営の牧場へ向かう途次、対立するチャック・コナーズの仲間に、手荒い西部的歓迎を受ける。父ビックフォードは、そのことを娘から聞き、やられた仕返しに、コナーズの父パール・アイヴィスの牧場を襲う… 両牧場対立の根源でもある水源地を所有するジーン・シモンズに会ったりしているうちに、ファザコンであまりにも古い西部的な女性ベイカーとの気持がズレて行くことから、シモンズへ心が移っていく。最後は、ビックフォード家とアイヴィス家との峡谷での戦いで幕を閉じることになる。脇役とは言え、アイヴィスとビックフォード二人の爺様の演技が光る。アイヴィスは歌手出身ながら、貫禄ある振舞の中に進歩的考え方の持ち主でもあり、筋の通った男ぶりから、卑劣な息子を射殺し抱き締めざるを得ない父親を演じ、アカデミー助演賞に輝いた。

 駅馬車の遠景で始まった大いなる西部、構図が古い西部から新しい西部へ移り変わり、広大な平原を見渡す展望が、すべての場面で、ロングショットが活用され、大いなる西部の景観が浮かび上がってくるのだった。広大な大自然に、ぴったりした優雅でダイナミックなジェローム・モロスの音楽も懐かしく聴かれた。各場面夫々に、登場人物夫々に、適切に合致した音楽、昔はサウンドトラックのレコードで、画面を振り返りながら、音だけで聴いたものだった。終演は重なった二人の古き西部の鳥瞰のロングショットから谷間へ去るペックとシモンズの若者の後ろ姿に大西部の景観が浮かび上がる。新しい西部の幕開けか。

(菅原)映画館で見ているから、これが、二度目です。それにしても、覚えていないもんですね。ペックは、終始、あまりにも恰好良すぎました。ヘストンと殴り合いをやり互角に見えましたが、最後に、ヘストンの「別れの挨拶が長すぎる」でヘストンの判定勝ち。チャールトン・ヘストンは、眼光鋭く、苦み走った良い男。全米ライフル協会の会長だった時は、その眼光の鋭さで、銃規制派もすくみ上ったんじゃないかな。

小生のお気に入りのC.コナーズ、ちょっとどころが、だいぶ可哀そう。せめて一度ぐらい見せ場を作ってから、B.アイヴスに殺されても良かったんじゃないか。それだけの値打ちもなかったか!ジーン・シモンズは、イギリス人で、東部の女であり、西部の女ではありませんが、キャロル・ベイカーは、正にピッタンコ。1931年生まれで存命中だから89歳か。どんなお婆さんになっているのか。

C.ビックフォードは、あれだけ豪華なお屋敷があり、しかも、ごまんといる牛を飼っているところを見ると、アイヴスが言っていたように、相当な悪さをして来て、ここまで伸し上がって来ている筈です。ですから、最後は、勧善懲悪で、ビックフォードがアイヴスに殺されると思いきや、相撃ちでチョン。余りにも長いので、生理現象がおきましたが、最後まで見たので面白かった。

(安田) 「アラビアのロレンス」 の冒頭に近い場面で、ピーター・オトゥ―ルのロレンスがエジプトカイロのイギリス司令部からアラビアの砂漠の地に赴任して迎えた最初の日の朝、荘重な輝ける 日の出 が悠久な砂漠を黄金色に染めて、その後の波乱含みの映画の流れを予感させるかのような見事なシーンで強烈に印象に残っています。似通ったシーンが 「大いになる西部」 にもありました。グレゴリー・ペックが東部からテキサスの地に着いて、宿泊する家のベランダから眺める光景は、地平線の彼方まで広がる荒野の雄大な景色。正に The Big Country そのもので、映画のスケール感を期待させるに充分な冒頭シーンでした。

 イギリス女優 ジーン・シモンズ 。同じイギリス人の ヴィヴィアン・リー、エリザベス・テーラー にやや似ていて、彼女の黒髪 (或いは濃いブルーネットだったか ) は, 金髪のキャロル・ベイカーとの容姿の対比のみならず、役柄の人物像対比をもより際立たせていて映画の筋に沿っていてとても良かった。最後には、グレゴリー・ペックは許嫁の未熟でわがままなキャロル・ベイカーから離れてシモンズへと気持ちが移って、二人で未来を共に歩むことを示唆して映画は終わります。ペックとシモンズの間では直接的なラブ・シーンは一切なく、それでも気持ちを通わせお互いが敬意と愛情を抱いていることを分からせる演出は、流石ウイリアム・ワイラーです。 

グレゴリー・ペック が荒馬を乗りこなすのに悪戦苦闘するシーンはとても印象的。東部の都会男が西部男になっていく忍耐と勇気の決意が描かれていて、映画のテーマと彼の人となりを側面から見事に描いたシーンだと思います。それにしても、あの荒馬も見事に演技(?)したものです。それだけプロの調教師によって手名付けられたのでしょう。あの場面以外、ペックの乗り物用の馬としては登場しませんでしたから、あの調教のシーンだけの為に準備されたのだと思います。これとて見事な映画作りの一端を垣間見る思いがします。

また、ペックが船乗りの経験を活かして荒野を探訪するのに磁石と地図を駆使して、荒野を迷わず歩くことが信じられない陸の荒くれ男達を驚かすシーンなども斬新で、それまでの西部劇にはなかった面白い発想を網羅した演出になっていました。さらに、腕力に物を言わせて争いの決着を血を見ることでつける旧来のやり方に代わり、近代的な和と平等な仲裁方法を導入しようとするなど従来の西部劇にはない一歩前進したストーリー展開と演出になっていました。190cmの大男 二人、ペックとチャールトン・ヘストンの決闘場面は、語り尽くされているとは思いますがやはり見応えがありました。 

グレゴリー・ペック は ゲーリー・クーパー、ジェ-ムス・ステュアート などと並びアメリカの良心を代表する俳優だと評されていますが「小鹿物語」、「ローマの休日」、「アラバマ物語」 などでもそうでしたが、この映画でも彼の持ち味と特徴が如何なく発揮される役柄を演じています。ラッキーな俳優だと思います。特筆すべきは、アカデミー助演男優賞獲得 は当然だと思わしめた、 争う両陣営の片方の親分、相撲取りのような体躯の バール・アイヴス の迫真の演技でした。ウィキで調べると元々はアメリカで数多くのヒット曲をもつ歌手とのこと。彼が息子役の チャック・コナーズ   (テレビ「ライフルマン」で馴染み) に対しても公正さを貫き、背いた息子を自らの手にかけて殺し、腕の中で息絶えていく息子への父性愛を示す場面での彼の演技は、この映画の白眉のひとつだと思います 最後に、何回聴いても映画のスケール感に相応しい雄大なーマ音楽は素晴らしい。

(保屋野)大作、「大いなる西部」は、劇場で1回、テレビで5回ぐらい観た、ジャイさん同様私のNo1西部劇です。感想等はプロの皆さんのおっしゃる通りで、アマの私が付け加えることはありません。

ちなみに、西部劇に「大作」は少ないと思いますが、昔見た「西部開拓史」ジャイアンツ」も面白かった記憶があります。ただ、誰かが云っていた、少々「グレゴリー・ペックに都合が良すぎる」という安易な点はありましたが、気になるほどではありません。

①   決闘シーンで弾がそれたこと。②   水利権付牧場が簡単に手に入り、しかも買う金があったこと。③   対立する2人が相打ちで死んでしまうこと。④   キャロルベーカーより魅力的な?ジーン・シモンズに上手く乗り代えられたこと。

大西部の雄大な風景、特に水争いの河の風景が圧巻。テーマ曲も絶品。ただ最後に、キャロル・ベーカーとチャック・コナーズがちょっと可哀相。

(編集子)エーガ館、テレビ、DVDなどあわせてたぶん5度目くらいだと思いますが、結局最後までまたみてしまいました。やはり小生の西部劇ベストワン、です。この作品の背景になっている牧場主の間の水の取り合いはよくテーマになりますね。ウエインものでいえば、“チザム” もそうだったし、“”エルドラド もそうでした。

今回改めて思ったのは、”間(ま)” の取り方、せりふのないシークエンスとロングショットが効果的だなあということでした。菅原兄も触れているペックとヘストンの殴り合いですが、ロングショットにひいて、殴り合いの音だけが聞こえるシーンなんか、まさに Big Country の中でわめいている人間の矮小さを表現しているのだと思います。之がこの映画のテーマなんだと改めて感じました。
バール・アイヴスのレコード(!)があったはずですがどっかへ行ってしまいました。正統的な ”ウエスタン” の歌い手だったという記憶があります。またか、と保屋野君なんかに怒られそうですけど、セーブゲキ、万歳(ついでに ジャイアンツ をセーブゲキというのはちょっとジェームズ・ディーンにそれこそ可哀そうかもしれませんね)。

 

 

アメリカの若者の都市離れーシリコンバレーの再形成 (HPOB 五十嵐恵美)

カリフォルニア州でCOVID-19による自宅待機命令が3月中旬に出てから約半年が経過した.米国各州がそれぞれに各種ビジネスを段階的にオープンし始めた結果、経済に活気が徐々に戻ってきているように見える.その状況下でシリコンバレー、マウンテンビュー市に本社を置くグーグル社(グーグルの親会社はアルファベット社でアップルと共にシリコンバレーではよく知られたオフィス志向企業)はCOVID-19の長期化に備えて従業員の在宅勤務(リモート ワークあるいはテレワーク)を少なくとも2021年6月末まで継続する方針を7月末に発表した.COVID-19パンデミック以前からリモート ワークがグーグル、フェイスブック、アップル、等のシリコンバレーのIT産業の巨人たちによって徐々に一般化されていった中で、今回のCOVID-19の影響による長期にわたる在宅勤務が若者の働く環境、および彼らの居住地の選択の見直しを加速している.

世論調査機関のハリス・ポール社は、平均して米国の4割の都市部居住者が、コロナ禍を契機に郊外への引っ越しを検討していると答えており、この傾向は18歳から34歳までの若者世代になるとさらに高くなると伝えている.最近購入または賃貸のために不動産のサイトを訪れた人は、郊外の住民では21%であるのに比べ、都市部の住民ではその倍の43%にのぼっている.通勤渋滞を嫌う若者世代は、ここ20年程、一貫して都心、それもダウンタウンでの便利な賃貸生活を好む傾向にあった.しかしながらCOVID-19収束後もテレワークが続くのであれば、なにも狭くて、高くて、環境、治安が悪い都市部に住む必要性はなく、個人のライフ スタイルにあった、より安価な土地、より広いスペースを選ぶという若者の割り切りが目立つという. 

シリコンバレーで働くことの短所、長所

よく言われているシリコンバレーで働くことの「短所」は、

  • まず、住居を筆頭に生活費が高い
  • 長時間労働が一般的であり、期待もされている
  • 仕事の質、スピードに対する要求が高い、にもかかわらず
  • 雇用保障はないに等しい(競争が激しいと同時に景気、業績に応じてレイオフも頻繁)

シリコンバレー一帯、ベイエリアの一年を通して温暖な気候は世界にも例がない.それに加えて、シリコンバレーで働く「長所」としてあげられる点は、

  • 世界中から集まった非常に優秀な人材と仕事ができる
  • トップ レベルの会社で仕事ができる
  • 給与、ボーナス、その他のベネフィットが良い
  • 無料の食事サービス、ジム、等の多数の特典がある

シリコンバレーの1ベッドルーム アパート家賃の中央値

ライフ スタイル 

Zoomで会議をし、Zoomでヨガのクラスに出て、各種稽古ごとにもZoomで参加する.Zoomの使用は2020年3月に急増し、翌月、全世界での使用者は3億人に上昇した.ちなみに2019年12月のZoom 使用者は1000万人.グーグルも、いままでは法人ユーザー専用だったZoomと同種の会議アプリをGoogle Meetと改称して、一般ユーザー向けにも無料サービスを開始し、SkypeやLINEを含め、ビデオ会議の普及はテレワークの必要性に迫られ大躍進をとげた.

恒久的テレワーク体制に入った企業の中には、従業員の都市部からのUターンのトレンドを若者のライフ スタイルとして捉え、COVID-19以前から テレワークに対応.この若者の都会離れは、米国の古いライフ スタイルを好むという特にミレニアル世代 (1990年半ばから2000年初期に生まれた世代) の価値観でもある.国勢調査によれば、100万人以上の都市は成長率が鈍化、もしくはマイナスに転じている.

実際、共働きが一般的なアメリカでは、テレワークによって(限られたスペースの中で家族全員が家にいる事によって生じる「弊害」も多々あることながら)子供と過ごす時間が増えたことを喜ぶ声は無視できない.一般的に、子供の学校や稽古事への送り迎えなどの負担の分担はいつも夫婦間の問題であり、多くの世帯が、テレワークへの望みを持ちながら、それを公式に上司に打診することは、なにかと憚られていたのが現実だった.

企業の再形成

COVID-19はイノベーションのシリコンバレーを今後どれだけ変えていくのか.アルファベット(グーグル)、フェイスブック、ツイッター、を含むシリコンバレーの巨人達はオフィスが再開した後も、従業員のかなりの数がリモート ワークに留まる計画を発表した.実際、サンフランシスコとサンノゼの家賃は3月の初めから7%以上下がり、サクラメント、リノ、ボイジー、その他の「サテライト コミュニティ」では家賃、不動産価格が着実に上昇している.

フェイスブックのCEOザッカーバーグは(SFGATE)「フェイスブック社の約半分の従業員を今後5-10年の間に永久にテレワークに切り替えていく可能性は大きく、より分散した労働力への移行は会社、従業員両者にとって有益な移行であると思う.フェイスブックの仕事を全米中のより多くの応募者に開放すれば、多くのフェイスブック従業員がメンロパーク本社への長い通勤から解放されるし、それは環境にプラスの影響を与える可能性も高いのではないか」と述べた.

リモート ワーカーが個人のライフ スタイルに合った環境を選び、安価な郊外に移動するに伴い、一部のシリコンバレー企業はリモート ワーカーの給与を既に地元の生活費に合わせて調整している.ブルーンバーグ紙によるとパロアルトのVMWare(デルが親会社)は、テレワークを選択した人のために新たにローカリゼーション ポリシーを作成したと報じている.

例えば、デンバーに移ると、18%の賃金カット、ロサンゼルスとサンディエゴでは8%の賃金カット.ただし、ホームオフィスのアップグレードの資金として$400支給し、2週間の追加休暇を与えるという内容だ.

リモート ワークにより事務所のスペースが以前ほど必要なくなり事務所を統合し始めた企業も少なくない.事務所の統合により、リース料、諸々の経費も軽減でき、今後、本社にいなくてはならない人材のみ本社勤務にする検討も既に進んでいる.

COVID-19以前、シリコンバレーは産業クラスタリングの主要なモデルであり、同様の知識セットを持つ人材が集まって創造性、革新、生産を繁栄させるというパラダイムであった.ベイエリアは、優秀なエンジニア、デザイナー、科学者、投資家の宝庫で、2015年には米国の全特許のほぼ20%を生み出した(ちなみに1970年は全米の4%). 2017年のGDPは$8,380億に達し(世界で18位)、テクノロジー業界の極端なクラスタリングは、生産性の向上にも貢献している.グーグル、フェイスブック、アップル、を含む主要なプレーヤーが、従業員をできるだけ長く会社に留めておくために(あるいは従業員を就業中、社外に出さないために)、キャンパス内での朝食、昼食、夕食、スナック、運動場の提供の他、種々のアメニティが豊富なキャンパスを設計したのも不思議ではない.

(米国労働統計局)

COVID-19後たった半年で、全国平均で10%上がった失業率は、2020年8月時点で8.4%まで下がり、景気も少しずつ平常に戻る道を踏み出したアメリカではあるが、コロナ禍が短期間で経済、国民生活に残した影響は大きい.今後COVID-19収束へはまだ時間がかかるであろうという予想と現実の中で、人々、特に若者は、これまでとは違う価値観を持ち、仕事や住居の取捨選択をしている.アフターコロナに向けて、都会離れとテレワークは、今後増々定着していくようにみえる.

 

コロナ第三波の危険性について   (34 船曳孝彦)

ご質問がありましたので、ウィルス学の専門医ではありませんが、今回はVirusの遺伝子変異と第3波流行の危険性を中心に私見を述べます。

日本をリードしている感染症専門臨床医、感染症疫学の専門家が、最近そろって新感染者増加、爆発的増加の危惧を訴えています。

実際、スペイン、フランス、イギリス、イタリーなどヨーロッパでは可成りの再上昇が報じられ、悪性度もやや高い可能性もあります。早くからCOVID-19のVirusは変異しやすい(RNAが変異しやすい)ことは指摘されてきましたが、現在では細かく見ればおそらく数千に及ぶような多種多様な亜系に分かれているものと思われます。ヨーロッパの新しい感染の波が、どのような種類なのか。それが問題です。各国別々のVirusかもしれません。

今の流行を第3波と呼ぶのか、2波か4波か、スペイン風邪のようにはっきりと命名出来ないのではないかと考えます。コロナ型Virusなので、短期間で次々と変異しすぎし過ぎるので、今や世界中に別々のVirusが蔓延しており、Virusが変異して第何波と名付けることは無理なのではないかと考えます。日本でも世界各地でも、流行し、いったん収まりかけ(あるいは収束した)た後に再流行する傾向が見えますので、これが第2波。次に再流行すれば第3波として扱わざるを得ません。

そうすると、日本にとっては、どのようなVirus株が第3波を起こすのかで、大袈裟に言えば運命が分かれます。伝播力は強いが病原性はそれほど強くない今の日本での流行株ならまだよいのですが、病原性の強い(悪性な)株が大流行となれば大ごとです。武漢のVirus、日本の5月のVirus、9月のVirus、フランスの3月のVirus、9月のVirus、ニューヨークの8月のVirus、韓国のVirus、 それぞれがどう違うのか、ウィルス学的研究が追い付いていません。

全世界がワクチンに期待をかけています。感染症学会ではこの過剰期待に懸念を示しています。ワクチン投与による抗体依存性感染増強という恐ろしい副作用の可能性はともかく、もともとワクチンには一生涯有効なVirusから数か月の有効期間しか得られないVirusまで、さまざまなものがあり、新型コロナVirusはどれなのか、まだ分かっていません。

ワクチンの有効幅を超えるほどの変異は起きていないだろうとは思いますが、Virus株が異なれば、ワクチンは有効か?通用しないという場合も考えられないではありません。とくにこれから海外との人の往来が本格的となります。日本の患者からのVirusをもとに開発せねばならないということもありうることです。杞憂に過ぎなければ結構です。

新首相は検査体制を整備すると明言しました。しかし、おそらく鼻咽頭ぬぐい検体で数時間かけてのPCR検査を行うことに固執するような気がします。そして無症状者への対応は相変わらず厳しいでしょう。Go-To-政策で1兆円を上回る巨額の国費をつぎ込むより、検査体制(無症状者への検査料減免等)にお金をかけるべきではないでしょうか。高級ホテルに1万円で泊まれ、ビジネスホテルに予約が入らないというのはおかしくないですか。保健所に任せられている多種の仕事の分散も未だはっきり出てきません。

第3波の大流行は明日にも始まりかねないのです。罹らない、罹らさない対策を自分で強化、護ってゆくよりほかありません。

エーガ愛好会 (21) ホギー・カーマイケルのこと  (HPOB 金藤泰子)

Giさん

スターダストを作曲したホーギー・カーマイケルは俳優としてピアニスト役、脇役として色々な作品に出演していたのですね。半世紀以上前のTV番組「シャボン玉ホリデー」でザ・ピーナッツが毎週エンディングでスターダストを歌っていたのを思い出しました。 久しぶりでネットを検索しましたら、本当の話かどうかは分かりませんが下記のような文章が出てきました。
“ホーギー” カーマイケルが来日した時 滞在先ホテルの部屋のTVで、ザ・ピーナッツが自分の曲を歌っているのを聴き、嬉しくなって録画スタジオを訪れ、自らピアノ伴奏をした。日本でホーギー・カーマイケルの伴奏でスターダストを歌ったのはシャンソン歌手石井好子とザ・ピーナッツくらい”  だそうです。
また、「ララミー牧場 1959〜」のウイリーおじさんが、ホーギー・カーマイケルだったという記載もありました!
映画「脱出」は観ていませんので、こちらもネット検索しました。
脱出』(だっしゅつ、To Have and Have Not)は、アーネスト・ヘミングウェイの小説『持つと持たぬと』(1937年、原題:To Have and Have Not)を映画化した1944年ハワード・ホークス監督によるアメリカ映画
ヘミングウェイにホークスが、文学に対する映画の優位性を説いていて、「君の作品で最も駄作と思われる小説を原作にしても傑作映画にしてみせる」と挑発した。そうして出来上がったのが本作である、とWikipediaにありました。
Giさんが一番好ましいと仰るハンフリー・ボガートとローレン・バコール出演の「脱出」をYouTubeで見てみました。ローレン・バコールの低い声は、見た目と違い意外でした。以下 ネットからです。
  ”ホーギー・カーマイケルの俳優として(クリケットはスリムに恋をしている)も魅力的だし、作曲家として見たとき、1939年の歌「香港ブルース」はとても30年代のものに聞こえないぐらい、ぶっ飛んで既にロックである。この映画を魅力的なものにしているのは、カーマイケルとバコールの歌声だろう。発声がアルトであるバコールを当時16歳のアンディ・ウィリアムスの吹替と置き換えるか録音を聞いて議論されたが、結局バコールの低い地声を使うことになった。“ ホーギー・カーマイケルの歌とピアノ演奏もYouTubeにありました。

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我がボギーの映画はいろいろ見ました。勿論、若き日は何といっても カサブランカ がいいと思い込んでいましたが、多少長じてからは

裸足の伯爵夫人 の控えめの演技がいいと思うようになりました。今では(つまり見る方も変わってくるんですな、人生観とともに)あまり評判にはならなかったようですが 脱出 のボギーとローレン・バコールが一番好もしいと思っています。ヘミングウエイの To Have and Have Not の映画化ですが、わき役としてかの ホギー・カーマイケル が実名で登場、聞かせるのも素敵です。ケイン号の反乱 のクイ―グ艦長もはまり役だったと思います。”脱出” はビデオテープ(!)でよければお貸しできます。
                                

(安田)

脱出を観たくともビデオテープを再生する機器がないのでお借り出来ず、アマゾン・プライムでテレビ画面で観ました。

仰る通り、ボギー+バコールは、僕は「三つ数えろより好ましいと思いました。バコール、とても20歳とは思えません。独特のハスキーな声と妖艶な容姿には驚きました。有名なジャズのスタンダード人気曲「スターダスト」、「我が心のジョージア(Georgia on My Mind)」の作曲家ホギー・カーマイケルが実名で出演していてビックリしました。彼のピアノ演奏も聴けて儲け物の感じでした。バコールも彼のピアノ演奏で歌いますが、実際彼女が歌っていたのでしょうか?歌っていたとすれば彼女の多才振りには魂消てしまいます。
映画制作は第二次世界大戦中の1944年。舞台はドイツの影響下にあったカリブ海のフランス領マルティニク島。親ドイツのフランス・ヴィシー政権下にある島では自由フランスの反政府運動(ドゴール擁立派)が盛ん。第二次世界大戦の影響の影が色濃く見える映画。そういえば、1942年制作の映画「カサブランカ」も舞台は親独のヴィシー政府の管理下にあるフランス領モロッコ・カサブランカ。両映画とも主役のボガートは、反独の立場から自由フランスのレジスタンスを手助けするという役柄。テーマの芯の部分では似通っていると思います。
(保谷野)

「黄金」、ボガードが主演というので観ました。ただ、あの「カサブランカ」や「サブリナ」の(カッコ良い)ボガード期待したのですが・・・もちろん、新境地として悪役も良いと思うけど、ダブスのような「救いようの無いチンピラ悪役」は勘弁してほしい。

せめて、「赤い河」のジョン・ウエイン程度の(魅力ある)悪役に設定してほしかった。ジャイさんが好きだという「裸足の伯爵夫人」を何時か観たい。

(シャボン玉ホリデーのこととは、やっこ、よく思い出してくれました。同じころの番組でラストが夜の公園になって、植木等がギターでエンディングだすの、あったよね? 光子の窓 だっけ? ああ、白黒テレビの,まったりした時間よ、帰れ!)

 

朝日新聞記事 参考資料

OB会から案内があったはずだが、今月19日、朝日新聞 bee版に ぐんま県稜線トレイル のことが紹介された。このトレイルには、OB会の有志と当時の現役諸君の努力でつけられた、仲間内の通称 “新道” が県の施設事業の一部として組み込まれている。57年卒、朝日新聞記者の畑川君の名文は誠に見事なものであり、さすが、プロの仕事、という感じがするが、この記事をよりよく理解していただくため、特に若手OBや現役諸君にその背景を紹介しておこうと思い立った。36年同期の文集 ナンカナイ会そのふみあと から、該当部分のファイルを発行にご尽力いただいたH7 田所君から送ってもらったので紹介しておく(今考えるに、畑川君の取材前に提供しておけばもっと良かったのか、と、いまさらの後知恵である。畑川君、ご容赦ありたし)。以下、一部修正、抜粋。

 

  *** 20 避難小屋から新道建設まで ***

三国山荘はその建設から、われわれのKWV生活の基本コンポーネントであった。それは卒業後も心の中にとどまり続けているが、それを強固なものにした一つの要素が、児玉博の悲劇的な事故のあとにご遺族の意思を汲んで建設された避難小屋であったことは間違いないだろう。

その位置から”越路避難小屋”と呼ばれた、コルゲートパイプ製の構造物がどうやって建設されたか、については、ご遺族が刊行された追悼書 ”深く愛でにし彼の山” に、松本行弘が書いているので詳細は繰り返さないが、1962年7月、ナンカナイ会の集まりで児玉家からのご意思が示され、遭難地点に避難小屋をつくることが全員一致で決定された。その後、法師温泉岡村氏のアドバイスや、群馬県、湯沢町などとの話し合いから、縦走路の半ばに位置する毛渡乗越への設置が決定され、建築手段についても群馬県庁の紹介で日本鋼管製のコルゲートパイプを使用することになり、9月16日に第一回の現地調査を実施。23日から現地の整備にかかった。その後、週末を利用しては一片32キロに及ぶ資材を土樽から万太郎乗越まで、現役、OB有志の方々の絶大な協力を得て運び上げるという作業を繰り返し、10月15日にようやく資材を集積。雪の降り始めた10月20日、さらに現役の応援やら、現地宿泊した松本、妹尾ら8人が徹夜に近い作業を行ってめどをつける。11月9日、松本、岩沢、酒井、猪股(清郎、S37卒)のチームがすでに霧氷の張った現地で最後の仕上げを行った。”内部を見ると早慶戦の日には早くも未完成の小屋で難を避けた人が居るらしい。とにかく利用者が既に居た事は喜ばしいことである。”と松本は記している。

この小屋は1963年5月、湯沢町に寄贈されたが、やはり老朽化には勝てず、1996年2月、当時湯沢町観光課施設係長だった高橋貞良氏から、田中透(41年卒)に、一般登山客から再三の要望があり、同町として再建を考えているが予算上難航している。KWVとして支援する意向はないかとの問い合わせがあった。田中は当時OB会理事長だった関谷誠(前出)にはかったが、OB会にはその余裕がなく、妹尾(昌次)らと相談して、広くOBに浄財の寄付を募ることになった。趣意書は各代理事を通じて配布され、その結果、270万を超える資金が集まり1996年6月、妹尾(清次)三田会会長らが湯沢町を訪れて再建資金200万円を贈呈することができた。

湯沢町はこの資金の到着を待って撤去および再建作業を開始、資材をヘリコプタで輸送するなどの手段により9月10日11日の両日にかけて撤去、21日に現在の避難小屋が新潟県によって竣工の運びになった。この小屋には ”この小屋は昭和三十七年五月五日仙の倉山にて遭難した当部OB児玉博の追悼のために同年建設され、更に平成八年湯沢町のご厚意により再建された。山を愛する人々にこの小屋のすべてをおまかせする”  というレリーフがKWVの名前で掲げられた。始めの小屋に掲げた文言にに再建の事実を書き加えたもので、オリジナルのレリーフは三国山荘に保管されている。

さて、浅貝の”小屋”すなわち三国山荘に我々が何回行ったのか、到底把握はできないが、勤め人になり、家族を持つようになっても何かといえば”小屋へ行こう”というのが当たり前になっていた。後述する山行記録に詳しく述べるが、家族も含めて主に夏休みに集まる”合宿”形式だけでも合計で8回実施されている。

その後も不幸にして焼失してしまった初代から現在のものに至るまで、山荘は我々のよりどころとしてあり続けたが、サラリーマン卒業者が増え、そろそろ訪問頻度もさすがに落ちかけた1998年、妹尾(昌次)が音頭取りになって、小屋裏の通称三角尾根の道を整備し、同時に案内板を兼ねたプレートをつけよう、というプログラムが始まった。ムラキとよばれるコブから上はほとんど道らしいものがなく、根気よく藪を切り開いてしっかりした道になった。この作業には若手OBの熱血的な協力があり、道が一応完成した時には、その主力でやってくれた関谷誠の名を冠して 関谷新道 と呼んだものだった。その後、さらにひろくOB各位に呼びかけ、個人名の入ったプレートを1枚4000円で寄贈してもらい、何回かの作業で三国峠ー平標縦走路と尾根の交点から西武ゲレンデの裏まで、三色のプレートを設置した。プレート番号1番は、故児玉博の遭難現場を遠望できる通称三角山ピーク直下につけられた。この作業には、後輩たちの多くが加わり、これをきっかけとして、さらに下記”新道”プランなどを通じて、彼らとの濃密な友情関係ができた。これも、OB会という強固な組織のおかげであることは言うまでもなかろう。

この一連の作業ののち、再び妹尾を中心に田中(新弥)、後藤、翠川、中島、山室ら小屋生活を愛する仲間が集まって始めたのが、通称 ”新道” プランである。これは当初の思惑通り、ナンカナイ会メンバーを中核として、田中透、山中泰彦(1969卒)、関谷誠らを中心とした60年代、70年代からはじまる若手との連携を深め、さらに一部現役諸君との交流を深めることにも役立った。

われわれの”浅貝の山”の中で最もよく登られたのが平標であることはまず間違いないが、もう一つの雄が平標と浅貝部落を挟んで屹立(と言っても小屋からは見えないが)稲包山である。戦前の愛好者には割と知られた存在であるようだが、奥深い藪山であり、特に夏季にはあまり人気がない。三国峠からこの秘峰を経て湯の沢をくだり浅貝に出るルートを作ろう、というのが基本計画であった。当初は浅貝部落の青年会組織も乗り気であったがはやばやと脱落、というか意気込みもしぼんでしまい、結局はKWV有志の単独企画になったものである。2000年5月、ルート調査を開始、11月にとりあえず稲包までのルートが完成。翌年からいよいよ難物の三国峠からの稜線開拓にかかり、10月に三国峠―稲包間が開き、県の承認を得て17本の指導標が建てられた。さらにH15年夏、三国スキー場(現在は閉鎖)を経て湯の沢林道との接続が終わった。OB,現役諸君を糾合して延べ229人を動員、総作業日数は延べ37日に及び、その後もメンテナンスのための通称”新道合宿”などが継続的に実施されてきた。この間に費やされた情熱と執念を中心メンバーのひとり田中透は”われわれの第二の青春だった”と振り返っている。ただ、いずれにせよ、初代山荘工事に加わって、”キジ場の穴の深さを知った” あの時から今日まで、半世紀を超える時間の経過の中で、三国山荘生活への郷愁、感慨、甘酸っぱい記憶はわれわれの個人史の中核にの一つになったようだ。

なお、本件に関しては朗報が伝えられた。2016年6月15日付読売新聞は、”県境登山道100キロ直結へ 18年度までの開通目指す”として、新潟県が長野県との県境の尾根に”ぐんま県境稜線トレイル”の整備を進める、と報じた。詳細は添付資料に詳しいが、この一部にわれわれの”新道”が含まれることは明白であり、その完成が待たれる。長期にわたって地域の山稜を紹介しつづけてきたKWV,OB会にとって、その努力が広く報われる日が近い、というべきであろう。.

この企画が進行中、湯ノ沢へ入るルートにあじさいの群生があるのに注目したグループは、”ここをあじさいの名所にする”意気込みで整地を行い、あじさいの移植に狂奔した。このサブプログラムは”アジサイ班”と呼ばれ、トリビアにこだわるメンバーの性格もあって、人気を博した。常連の一人だった翠川は次のように書いている。

2001年9月に「稲包山周回コース完成」をトンベが高らかにうたい上げ、以降はその整備作業が始まりました。しかし、実は一年経つとあれ程(殆ど刈る前と同じ位の高さまで)熊笹が成長するとは誰も想像していなかったと思います。そして開通以降、毎年の刈り込みが始まったわけです。(開通直後に体調不良で休んでいたチビが数年後に復帰し、新道を歩いて見て、余りに熊笹の成長が早いので「トンベ!お前本当に刈ったのか?」と質した由です。