乱読報告ファイル (11) 斎藤幸平著 「人新生の資本論」(44 安田耕太郎)

 著者は1987年生まれの世界でも注目を浴びる俊英で、大変興味あるテーマだが、賛否半ばする内容だった。人類の経済活動が地球に与える害悪のインパクトが無視できないほど大きく、ノーベル化学賞受賞者のオランダ人大気化学学者パウル・クルッツェンは地質学的にみて、もはや地球は新たな年代に突入したと言い、それを地質学の概念で「人新世」(ひとしんせい)  Anthropocene (アントロポセン)と命名、人類の時代という意味だ。人類の活動が、かつての小惑星の衝突や火山の大噴火に匹敵するような地質学的な変化を地球にもたらしていることを表す新造語である。1億年後に地層を調べたら、人類が活動していた時代が刻まれているはずだ、と主張する。

産業革命以降の約200年間に、人類はフロンティアと言える地域を開発し尽くし、森林破壊や資源採掘、化石燃料依存などで地球環境に深刻な影響を与えた。いまやコンクリートや廃棄物で地表は覆いつくされ、海洋にはマイクロ・プラスチックが大量に浮遊している。これらの人工物の中でも飛躍的に増大しているのが、温室効果をもたらす大気中の二酸化炭素である。産業革命以前には280ppmだった二酸化炭素濃度は、2016年には400ppmを超えた。これは実に400万年ぶりのことだという。400万年前の平均気温は現在よりも2~3℃高く、北極やグリーンランドの氷床は融解しており、海面は6~20mも高かった。このままだと、映画「天気の子」で描かれた水没した東京の光景が現実になってしまう。世界人口の1割に満たない富裕層が、全世界で排出されるCO2の半分を排出してるというデータにも驚かされた。逆に世界の半数を占める貧困層は、1割のCO2しか出してないのだ。目から鱗だ。

本書は、要約すれば、「人新生」時代の世界における様々な問題から「地球温暖化」と「貧富格差拡大社会」の2つの問題を主に取り上げて、「資本主義」をその共通の犯人とみなし、資本主義経済への根本的対処を考えるのがその試みである。気候変動に代表される環境危機を阻止するためには、資本主義の際限なき利潤追求を止めなければならないが、資本主義を捨てた文明に繁栄などありうるのか。資本主義にメスを入れなければならない。でもどうやって? 気候危機をとめ、生活を豊かにし余暇を増やし、格差もなくなる、そんな社会は可能なのか?

その解を「マルクス主義」に見出そうとしているのが論点である。マルクスのコミュニズムはソ連の失敗によって一般的には否定的に捉えられ勝ちであるが、晩年のマルクスの到達点は実は資本主義も社会主義も超越した「脱成長コミュニズム」であり、それこそが「人新世」の危機を乗り越える最善の道だと言う。本書は著者がマルクスの考えを読み解きながら、気候問題を解決しながら人類が発展していく姿として「脱成長コミュニズム」と「脱成長経済」を論じている。

この2つの問題「地球温暖化」と「貧富格差拡大」が今後より顕在化してくると、庶民のほとんどはこれまでのような生活ができなくなるため、脱成長社会を選ぶべしと主張しつつ、マルクス著「資本論」の新解釈の概略を示すとともに、地球規模で環境破壊が進む中での新しい社会システムのあり方を提言している。2030年までに気候変動や貧困への対策、不平等の是正など、17の目標を各国で達成しようというSDGs(Sustainable Development Goals – 持続可能な開発目標)を掲げているのも危機意識の表れだ。著者は、SDGsの方法論では格差是正や環境保護など不可能だと主張する。有史以来、人類が消費した化石燃料の半分を、‘89年以降のわずか30年間で使い尽くした事実を前に、レジ袋削減、エコバッグ買った、ペットボトル入り飲料を買わないようにマイボトルを持ち歩いている、と続き、それでは不十分で焼け石に水と批判する。EV(電気自動車)にシフトしても、充電する電気を作るのが火力発電であればCO2は減らない。テクノロジーの進歩による効率化に希望を託すのは現実逃避だと言う。美辞麗句を並べて上っ面の対策を講じても、問題は解決しない。著者はSDGsを「現代版・大衆のアヘン」、或いはアリバイ作りのようなものであり、目下の危機から目を背けさせる効果しかなく有害でさえある。多少の温暖化対策をしていることで自己満足に陥り、「真に必要とされているもっと大胆なアクションを起こさなくなってしまうから」である。手厳しい。そもそも、資本主義を推し進めた張本人の先進諸国が、よくSDGsなどと言えたものだと、喝破する。

マルクスは勿論のこと、世界的ベストセラーの「21世紀の資本」の著者トマ・ピケティ(フランスの気鋭経済学者)も、格差拡大は必然と言っているように、資本主義は必ず勝者と敗者を産み出し、両者の格差は広がる一方だ。利潤を際限なく追及する資本主義においては、消費が喚起され続け、生産が環境悪化を増長する方向にはなれど、減らすことにはならない。経済が成長し拡大し続ければ大きくなったパイを分配することで国民の暮らしは良くなるが、30年間成長が止まった日本の例を見るまでもなく、人口減少と相まって今後小さくなっていくパイの奪い合いが激烈になっていく。今後、地球規模でも気候・経済環境は苛酷になり、パイが縮小していくので競争はより激化していく。勝者と敗者の格差或いは貧富の格差はさらに広がると予見できる。資本主義が継続する限り、地球は破滅に向かう、と著者は言う。現代人は資本主義を止めることができない。ゆえに地球は破滅へと向かう。気候危機は、資本主義が不可避に生み出す構造的格差問題(いわゆる南と北の間、国家間、個人間)を、抜本的に直していかないといけない、という警告と捉えるべきだと言う。賛否両論飛び交いそうなテーマ内容で、著者の極端な主張は興味深い。

脱成長コミュニズムという思想を基礎とした社会の形成が必要で、それは可能だと説く。資本主義は絶えずいろいろな形で欠乏感をつくり出す。例えば、絶えず新しいスマホを持ちたいというような欲望だ。希少性が絶えず組み込まれている資本主義のもとでは、我々は非常に競争的で、消費主義的で絶えず何かに駆り立てられている。これに対して、著者の考えるマルクスの目指した真のコミュニズムは「コモンズ Commons」ではなかったかと示す。「コモンズ」とは社会的に人々に共有され、管理されるべき富或いは共有材・公共財のこと、であり、ソ連型国有化でもない、アメリカ型新自由主義でもない、第三の道である。「水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として、自分たちで民主主義的に管理することを目指す」。「貨幣や私有財産を増やすことを目指す個人主義的な生産」から「協同的富を共同で管理する生産」に代わることを目指す。

「地球をコモンズとして管理する」のが、マルクスが書ききれなかったコミュニズムの真髄ではないか。このコモンズこそが、「脱コミュニズム」を実現する道であり、マルクスの到達点である。持続可能な未来に向けた人と社会の新たな価値基準“New Common“ をひとくちにつくるといってもそう簡単にできるわけではない。環境問題への対策には決まった正解がないように、とりわけ地球環境を基盤にコモンズをつくることは難しい。本書に「石油メジャー、大銀行、そしてGAFAのようなデジタル・インフラの社会所有こそが必要」とある。確かに、デジタル・インフラもコモンズとして皆が使いたいときに平等に使うことができれば、それは理想的な社会だろう。 だが、そのデジタル・インフラの運用は誰が行うのだろうか。このような一例が示すように、「脱コミュニズム」を実現するため、コモンズを作りスムーズ且つ効率的に民主主義的に運用管理するのは不可能に近い難事業のように思える。無限の経済成長という妄想との決別、持続可能で公正な社会に向けた跳躍というのは、理想論としては素晴らしいが、どうやって実現していくか?

本書の論点が一石を投じた意義は貴重であり、今の社会の問題点を考察する重要性を充分に認識させられた。しかし、違和感を持つとすれば、次の諸点ではないかと思った。

1.「地球温暖化」の主因が本当に炭素排出だという科学的疑問には触れず、それが地球温暖化の犯人との前提で論を進めている。検証が必要ではないか?

2.「資本主義」を地球温暖化と富の偏在の「犯人」と断定している。無数にある恩恵物に目をつぶって、疑問を持たなくて良いのだろうか?

3.ソ連や中国における「共産主義」の実験的結果を通じて、「コミュニズム」自体の中に、人類の願いである「自由・私権の尊重」の実現を妨げる何らかの要素が内在してはいないか?

4.資本主義の「正」の枠組みにはあまり触れず、「負」の側面だけに焦点を当てているが、それを修正する方向で問題に対処することは可能ではないのか、またその方向がより実際的で具現化が、比較的容易ではないのか、という視点の考察はないのか?

5.主張は大変示唆に富み、無限の経済成長という妄想との決別、持続可能で公正な社会に向けた跳躍というのは、総論の理想論としては素晴らしいが、どうやって実現していくか?具体的に実現させる方法論、手段の各論になると説得力ある言及はまだ殆どなく、議論は道半ばの印象を強く持つ。

経済力(資本主義)が振るう無慈悲な暴力に勇気をもって立ち向かい未来を逞しく生きる知恵と活力を養いたい人にはもってこいの一冊ではあるが、日本の実質賃金は25年間下がりっぱなし。国民一人当たりGDPは1997年をピークに減少、今や世界で30位近くにまで落ち込んだ。大卒初任給はトルコより低いという。今後の明るい展望も見えない状況を踏まえ、オールジャパンでの今後の議論の進展に期待したい。

(船津)中々の慧眼。
経済力(資本主義)が振るう無慈悲な暴力に勇気をもって立ち向かい未来を逞しく生きる知恵と活力を養いたい人にはもってこいの一冊ではあるが、日本の実質賃金は25年間下がりっぱなし。国民一人当たりGDPは1997年をピークに減少、今や世界で30位近くにまで落ち込んだ。大卒初任給はトルコより低いという。今後の明るい展望も見えない状況を踏まえ、オールジャパンでの今後の議論の進展に期待したい。

日本は何処へ行ったのか。アベノミックスは何だったのか?原発は全廃できるのか。マル経の専門の方に問いたい。この投げかけた問いは安田さんの黒字で書かれたことなのか。それともこの節が正しいのか。
何れにしても氷はどんどん溶けている。待ったなし。

(菅原)小生、この本も知らないし、この人のことも全く知りません。そこで、ネットで色々調べました。以下は、その感想です。
この人の略歴は、小生から見ると誠に豪華絢爛です。実人生は、資本主義にドップリ漬かって来ていますし、今もそうです。有体に言っちゃえば、資本主義のお陰でここまで来れたわけで、資本主義の申し子です。であるにもかかわらず、ここまで育ててくれた資本主義を否定するってのは自己矛盾であり、現在の自己を否定することになるんじゃないでしょうか。胡散臭ささを感じます。小生、こういう人の言うことは信じません。

ちょっと出かけてきました   (42 保屋野伸)

昨日、今日と、ワンゲルの同期4人で尾瀬に行ってきました。

至仏山に登る予定でしたが、季節外れの大雪で断念、誰もいない静かな尾瀬ヶ原を堪能しました。(草紅葉と白銀の山、そして美肌の湯(尾瀬戸倉温泉)を楽しみました。)添付写真は至仏と尾瀬ヶ原です。赤い帽子が私です。

亀井義行、幸運を祈る

ここのところ松坂に始まりプロ野球ベテラン引退のニュースが続いている。松坂はかのハンカチ王子との対決をテレビで見て感服したが、プロ転向以降はパシフィックの試合をほとんど見ていないので、その後もあまり関心を持っていなかった。しかし”松坂世代“という新語を誘発した彼の功績というかインパクトは絶大だったろう。

小生は赤バット川上に無邪気にあこがれた小学生時代からプロ野球といえばジャイアンツ、という単純明快、巨人大鵬卵焼きの典型だが、ONをはじめとするトップスターよりも、その1枚下にあったプレイヤーに共感を覚えてきた感じがする。古いところで言えば坂崎、加倉井、淡口といったところだが、ここへきて中井、そして亀井、の引退をみてまた感慨が新たである。

幸い亀井と中井の最終試合は観戦することができたが、その後のインタビューで亀井が”17年の間”とを語っているのを聞いて、また違った感想を持った。大学を出て17年、年齢にして40歳、その間のプロとしての生活の厳しさがどんなものであったか、もちろん体験できるわけはないにしても大変なものであったろうことは想像に難くない。しかし17年という時点をサラリーマンで送ってきた自分からすれば、ちょうど中間管理職の一員になり、気分的な高揚感を味わっていたころである。それからはお定まりのサラリーマン双六を走り続けてゴールに達するまでに過ごした時間は、仲間よりも若干早く引退したとはいえ、1961年から99年まで、38年間かかっている。亀井君のほぼ倍という勘定である。

松坂が今引退したところでカネに困る、ということはあり得ないだろうが、多くのプロ野球選手の引退後はどうなるのだろうか。余計な心配なことはわかっているが、テレビ解説の職を得たり、才能を生かしてタレントになる、なんてのはごくごく少数にすぎぬ。ファンの前から黙って退場していく選手たちの、これからのいわば人生第三幕への新しい挑戦の子運を祈る気持ちになる。

いつの、どのゲームだったか、覚えていないのだが、未だ一軍に出てきてまだ間もなかったころ、亀井が当時連敗を重ねていたジャイアンツの試合で抜擢され、その試合の勝利に貢献した場面があり、そのときのインタビューで、“ぼくら若いもんがしっかりしなくちゃと思っていました” と答えたことがあった。この時の ”若いもんが“ という彼の言葉の響きが素晴らしく印象的で、それ以来、ファンになってしまった。不振続きで亀井の前がこれ見よがしに連続敬遠され、4回だったか5回だったか、失敗の後、ホームランを打った試合があった。ホームに帰ってきたとき、男泣きに涙を流していたのをみて、またまた気に入ってしまった。

野次馬的に言えば、わがジャイアンツの時期監督はまず阿部だろうし、そうなったら中大コンビで亀井コーチ、なんてこともあるだろうか。 いずれにせよ、第三の人生場面にはまた ”若いもん“ の立場に立ち戻る好漢、幸多かれ、と祈りたい。

 

MCI について―認知症についての正しい理解 (1)  (普通部OB 篠原幸人)

 

東京や日本全国のコロナ発症数が急激に減少しました。余りの減少にお隣の韓国からは新政権誕生のためにPCRの検査数を減らしているのではないかという、訳の分からないイチャモンまでつく始末。

それにしても専門家も首をひねるような急激な発症数の低下は、決してワクチン接種率の高騰だけでは説明がつかないと思っています。前回の本稿で指摘した様に、日本にいるウイルスそのものが、生き残りのために感染力を低下させているのか、それとも過ってのSARSのようにこのウイルスに対しては日本人だけは抵抗力を持ち始めたのか、いずれ理由は分かるでしょうが、今後の第6波を出来るだけ抑えるためにも早期の解明が必要です。

さて今日のタイトルはMCIでしたね。MCIとはMild Cognitive Impairment(軽度認知障害)の略です。だれでも加齢とともに物忘れは起こります。皆さんも「眼鏡を頭にかけたまま大騒ぎをして探したり」、「いつも鍵や財布を探していたり」、「孫たちの名前を取り違えたり」、「テレビでみる顔をよく知っていた人物の名前がでてこなかったり」はあるでしょう。しかし、この程度のことは60から65歳以上になれば、誰にでも起こり得ることです。これだけでは認知症(昔の言葉で言えば痴呆)とは言いません。皆さん、安心してください。またご主人や奥様、ご両親などを「認知症だ」とあまり責めないでください。

まず、認知機能って何でしょう? 「物忘れ」だけが認知機能低下と思っている方――ブー―、間違いです。認知機能とは、記憶力・注意力・理解力・思考力・言語能力・計算力・視空間認知機能その他を含みます。そうです。 「うっかり反対側から来る車に気づかなかった」、「お釣りの額をいつも取り違える」、「普段通る道をまた間違えた」なども、全て認知機能に問題がある可能性があります。

次に認知症とはどんな状態でしょうか? 一口で言えば「脳に起こった障害により、以前は正常だった認知能力が持続的に障害され、今まで行ってきた仕事をするあるいは生活をすることが困難になった状態」を言います。難しい表現でしょうか?

MCIとは正常の老化と明らかな認知症の間の状況を指すのですが、当然ながらその線引きは専門家でもかなり難しいものとなります。

今日は一寸面倒な話が長くなりそうです。文章が長くなると集中力も低下しますよね。この続きは次号にしましょう。その間、「お前は認知症だ」とか、「あなたこそMCIのひどいのではないの?」とか、ケンカ?しながらお待ちください。

米国の若者たちはどうしているだろうか  (37 宍倉勝)

菅井さんの ”近頃の若者” を拝読。そのフォローとしてご参考まで。

アメリカの新たに社会人となる大学生の憂鬱は、卒業と同時に学生ローンの返済が始まる事です。日本以上に学歴社会といわれ、アイビーリーグを筆頭に名門大学卒、大学院卒などの学歴により同じ会社、同じ職種に就職しても給与等待遇が大きく変わります。

よく言われていた事ですが、“日本の大学は入りにくく、出やすい”。“アメリカの大学は入りやすいが、出にくい”が一般的な認識でした。しかし“アメリカの大学は入りにくく、そして出にくい”が実情です。アメリカの学生はより良い就職先をめざし在学中の成績アップに努力をしています。ひきんな例ですが、スポーツで活躍していても、一定水準の成績を取らねば強制的退部も余儀なくされます。

古い資料になりますが、2011年のアメリカの私立53大学の平均学費は約4万ドル、有名私立大学では約5~6万ドルを超えています。多くの若者は高い学費の負担は将来への投資と考え、多額な学生がローンを組みます。アメリカの大学生一人当たりローン総額は平均で2万ドルを超えているとの調査報告もあります。

卒業後でも家賃、生活費を負担しながらのローン返済は頭痛の種です。その結果新たにクレジットカードローンを抱え込む新社会人も多くいます。子供は18歳になったら大人とみなし、親から独立するのが当たり前という考え方が伝統的だったアメリカ社会に大きな変化が起こっています。

卒業後ローン返済が負担となり、又新たにカードローンを抱えたりして、親元に戻る若者が急増しています。親と同居する若者がここ数年30%の割合で増え続けています。子供が独立して、ゆったりした老後を考えていた矢先に思わぬ同居となり、親の負担は増え続けています。一方大学卒の若者を採用する企業にとっても優秀な人材確保の為在学中の学生に学士援助をおこなう、いわゆる青田買いも盛んになってきています。

(編集子)コロナの打撃が大きかった米国での若者たち、その現状はどうなんだろうか。日本の学生たちが直面するこれからの問題とどう違ってくるんだろうか。

エーガ愛好会 (92) 黄色いリボン  (34 小泉幾多郎)

先日ちょっとした整理をしていたら昔観た映画のプログラム(写真下左)が見付かり、裏に昭和25年11月3日と記録あり、1950年なら中学3年生だった。 横浜に住んでいながら、ロードショウ劇場である東劇まで行っている。 それだけ前評判も良く期待した筈。 表紙がジョン・ウエインでも騎兵隊でもなく、女優ジョーン・ドルーとは、と不満だったことも思い出した。 騎兵隊3部作のうち、「アパッチ砦1948」も「リオグランデの砦1950」も末封切。 先に作られた「アパッチ砦」はアメリカ占領軍が、偏執狂の騎兵隊指揮官とマッカーサーの連想を危惧したか? 公開を躊躇したともいわれている(1952公開)。

物語りは、カスター将軍の部隊が全滅した直後のスターク砦、ジョンウエインの老大尉は、あと6日で退職になるが、部隊長ジョージ・オブライエン少佐の妻ミルドレッド・ナトウイックと姪ジョーン・ドルーを東部行きの駅馬車の終点へ護送することを命じられる。 ドルーは中尉ジョン・エイガーと少尉ハリー・ケリーJrと恋仲。 斥候の軍曹ベン・ジョンスンの活躍のうちに前進するも、一行はインディアンに行手を阻まれ、砦に引き返す。 その後退役の記念に銀時計をもらった大尉が、在任期間の残りを利用して部下の許へ駆けつける。 その間大尉と大尉を慕う老軍曹ヴィクター・マクラグレンとのやり取りは一種のコメディリリーフとなって面白い。 老大尉は部下と共に、戦闘準備中のインディアン宿営地を襲い、馬の大群を追っ払い戦闘能力を奪うのだった。 最後カリフォルニアに向かう老大尉に、軍曹ベン・ジョンスンが追って来て、中佐待遇で斥候隊長に任命する政府の命令を伝達する。 フォート・スタークでは一同歓迎会を・・・が骨子の筋書きだが、この映画の本質は物語ではなく場面と雰囲気の映画なのだ。
先ずは音楽、「彼女は黄色いリボンをつけていた」はタイトルをはじめとし全編に亘り。 ある時は速く、ある時は遅いテンポで流れ、ドラマティックな効果をあげた。 又センティメンタルソング「忘れえぬ乙女」が、老大尉が銀時計を貰うシーンに聴こえてくる。 音楽の効果は絶大で、全員が、黄色いリボンの歌と共に営門を出たり入ったり伴奏が非常な効果を発揮している。 当時まだSPの時代だが、小遣いで買った初めてのレコードだった。 表、黄色いリボン、裏、淋しい草原に埋めないで。 日本人の合唱団が歌っていたが名称は忘れてしまった。 サウンドトラックというレコードなんかも、LPが出るまでない時代で、映画そのものの音楽を聴くということは出来ない時代だった。
広漠たる荒野の行軍、色彩を得たことでのモニュメントバレーの景観は初めてだったか。 部隊の出発に当たり、ドルーは黄色いリボンをつけて現れる。 これは愛情の印であり、カラーでこそ目立ち恋敵の二人とも自分のためだと思っている。 この雄大な風景の中に、色彩の華やかなインディアンの移動やバッファローの大群がとらえられた。 斥候に走るベン・ジョンスンの見事な手綱捌きや跳躍等々。 雷鳴下の行軍はは実写とのとだが、当時の技術でよくぞあの稲光ㇼが撮れたと思う。 赤く夕陽が画面を染める場面、ウエインが長い軍隊生活のうちに失った妻と子の墓に詣でる哀愁と最後赤く太陽の没する方向に、老い行く者の旅路の果てに吸い込まれて行く方向へベン・ジョンスンが追って行く。 撮影監督ウイントン・ホックはアカデミー色彩撮影賞を受理しているが、この映画こそが、「アパッチ砦」ででも述べたが、ジョン・フォードが愛した西部を描いた先輩画家フレデリック・レミントンの絵のような映画にしたいそのものだったのだろう。
ジョン・フォードは、この後何本もの西部劇を作ったが、この映画でこそ老成したゆとりのままを表しているのではないか。 雄大な風景、鮮やかな色彩の中に枯淡の域に達した名人芸を観ているのだ。 雄大なる風物詩であり、騎兵隊の行動も大きな山もなく、インディアンに追われた他部隊や開拓一家や悪徳武器商人といった殺される場面もあるが、主要人物は一人も戦死したり傷ついたりしない。 当面の敵インディアンも殺すことがない、飽く迄奇襲戦法で、最後の強襲では馬を追い払うだけで、銃を空に向けて発砲している。 雄大な風景を主人公にすることで西部に対する愛着を純粋に示したのではなかろうか。
老大尉を演じたウエイン、「アパッチ砦」の1年後、あの若々しさとは打って変わった髪もヒゲも既に白い、インディアンとの戦闘に愛する妻子の墓標にも僚友に別れ、ただ一人この住み慣れた砦を去 らねばならない孤独と悲愴をしみじみとその演技で表現していたのではなかろうか。 この老け役を堂々とやりこなしたウエインの演技は老人となった今、見直してやりたい。 「捜索者1956」「勇気ある追跡1969」の演技より上?

(保屋野)掲題、初めて観ました。ジョン・ウエインが中々登場しないのでヤキモキして観ていたら、何と、最初から出ていたあの「ヒゲ太尉」がそうだったのですね。・・・もう観る気がしなくなりました。ウエインは「あの顔」でなくては価値無し。そうそう、以前観た、ヒゲ面のグレゴリー・ペックも(何という映画でしたか~拳銃王?)最悪でしたが。

そして、駅馬車、アパッチ砦に続いてまたまた「モニュメントバレー」少ししつこかったけど、あの風景は大好きなので、ま・いいか。 ストーリーは、「つまらなくはなかったけど、傑作というほどではない」・・・西部劇ファンの皆さん、如何でしょう。

「あの娘の黄色いリボン 誰に見しょかの髪飾り」大昔、よく歌いましたね。

(小田)古い映画ですが、カラー画面がとてもクリアで綺麗だと思いました。モニュメント バレーや、妻のお墓での真っ赤な夕焼けの風景は素晴らしいですね。

ただ、所々理解できない箇所が有ります。この騎兵隊駐屯地の全体、建物、人々が分からないので、何故第7隊の200人以上の全滅が伝えられている時に、駐屯地でピクニックに行こうとする二人がいるのか? 妻はよいとしても、姪もこの場所にいて、危険な時に馬に不安定な横乗りをしながら、帰らないとならないのでしょうか?    どうして退役するもう1人の兵と他の兵隊達は喧嘩を始めたのでしょうか等です。又よく見直してみようと思います。
追いやられた原住民に対して、楽しそうな騎兵隊駐屯地の華やかなお祝いのパーティー風景も気になりました。退役近くであっても勇敢な大尉と、その周りのあたたかな思いやりは感じました。
(編集子)小田さん、酒場での喧嘩は訳があったわけではなく、退役直前の旧友軍曹(マクラグレン)が飲み介なのであと2日の間に酒の上での喧嘩でもすれば年金がもらえなくなる。自分はいなくなるのでそれをやめさせられない。それなら今から当日まで、営倉(軍隊での規律違反に対する収容所)にほうりこんでおけば大丈夫だと思った措置だ、ということを、最後の出発前に砦の指揮官(オブライエン)に打ち明けています。ただこの三部作もそうですが、フォードの西部劇にはアイルランド人気質をコミカルに描く場面がちょくちょく出てきます。この作品では、マクラグレンがその対象で、このほかにも、閲兵のシーンで、どこからか野良犬が出てくる場面があります。これは全く脚本になく、実際に犬が紛れ込んでマクラグレンが即興的に対処したということです。おっしゃるように理屈の合わない展開もありますが、小泉さんが喝破されたようにこの作品は物語ではなく場面と雰囲気の映画なのだ、という結論に100%賛成します(その意味でも、またまたいいますが、荒野の決闘、はその最高峰だと思っています)。

 

 

神無月徒然-向島墨堤をそぞろ歩く  (普通部OB 船津於菟彦)


10月6日陽気に誘われ、墨堤を歩いてみました。しかし、
10月というのに真夏日の陽気です。矢張り地球温暖化が進んでいるんでしょうね。でも大川-隅田川-の川風が魂べきの空ととも清々しい散歩でした。

暑い中、墨田区役所からスタートしました。正月には七福神巡りで回るコーズですが、素晴らしい天候に誘われ先ずは枕橋。橋のたもとに小さな祠。
浅草側から見て、隅田川の向こう側にある島が「向島」で、四季折々の風物が美しい行楽地、江戸・明治期を通じて人々に愛されます。向島では、料理屋で浅酌低唱、日が暮れるのを待って、竹屋の渡しから大川(隅田川)を渡り、山谷掘で降りて、土手八丁を進んで吉原へ繰り出したとか。絵葉書にある「向島枕橋」とは、源森川が隅田川に注ぐ河口に架かる源森橋ですが、水戸藩邸の掘割に架かる橋「新小橋」と男女の枕を並べた様に見えたことから、江戸っ子は、「源さん」と「新さん」が枕を並べて枕橋、と粋に小唄に謡ったそうです。
隅田公園は1923年の関東大震災により、壊滅的な被害を受けた東京の復興事業の一環として、後藤新平の主導により浜町公園(中央区)、錦糸公園(墨田区)と並んで計画・整備されたものです。そこを通り抜けると牛嶋神社で貞観年間(859年 – 879年)の創建。慈覚大師円仁が当地に来た際に、須佐之男命の化身の老翁から託宣を受けて創建した。明治以前は「牛御前社」と呼ばれて本所の総鎮守、鳥居は三ツ鳥居と呼ばれる比較的珍しい形態の鳥居です。
鎌倉に進軍する源頼朝の軍勢が隅田川を渡河する際に、千葉常胤が当社で祈願したため、無事に渡ることができたという。以降、千葉氏の崇敬を集めるようになった。
境内には「撫牛」と呼ばれる牛の像がある。自分の体の悪い所と同じ部分を撫でると病気が治ると言い伝えられている。
なお、神社には1845年(弘化2年)に奉納された葛飾北斎の大絵馬「須佐之男命厄神退治之図」があったが、関東大震災で現物は焼失し、現在は原寸大の白黒写真が本殿内に掲げられている。なお、同作は2016年(平成28年)に色彩の推定復元が行われ、すみだ北斎美術館にて展示しています。
07.画像1
境内を出ると見番通りと言う如何にも粋な通りがあり、華やかなりしころは向島芸者が沢山歩いていたのでしょう。松阪の豪商・三井氏が江戸に進出すると、守護神として崇め、今では三井家と三越の守り神社があります。
 倉稲魂命(宇迦之御魂神)を祀る旧村三囲神社社は創立年代は不詳。伝によれば、近江国三井寺の僧源慶が当地に遍歴して来た時、小さな祠のいわれを聞き、社壇の改築をしようと掘ったところ、壺が出土した。その中に、右手に宝珠を、左手にイネを持ち、白狐に跨った老爺の神像があった。このとき、白狐がどこからともなく現れ、その神像の回りを三回回って死んだ。三囲-めぐり-の名称はここに由来するという。神社の屋根の上に小さな白ギツネの瓦が鎮座している。三越池袋店にあったライオンも鎮座している!八重の芙蓉が満開。
三井家では、享保年間に三囲神社を江戸における守護社と定めた。理由は、三囲神社のある向島が、三井の本拠である江戸本町から見て東北の方角にあり、鬼門だったことと、三囲神社の“囲”の文字に三井の“井”が入っているため、「三井を守る」と考えられたため。
本来は牛嶋神社の隣にあったが、洪水で一度流され、河岸に堤が築かれることになった際に南へ少し移動した。その堤のために、対岸から見ると、鳥居が堤から奇妙に頭だけ出しているように見え、浮世絵などに好んで描かれた。
三囲神社の三つ穴灯籠
神社の境内には、隅田川七福神のうち「恵比寿」・「大国神」が祀られている。
この石灯籠は宝永3年-1707-の銘がありかなり古い。伊賀上野の藤堂高睦が寄進れたと書かれている。見番通りを更に進むと一番大きい伽藍がある、弘福寺(こうふくじ)は、黄檗宗の寺院。山号は牛頭山。本尊は釈迦如来。隅田川七福神のうち布袋像を祀る。
江戸時代前期の1673年(延宝元年)、黄檗宗の僧鉄牛道機の開山、稲葉正則の開基により香積山弘福寺を現在地に移して建てられた寺院である。江戸時代には鳥取藩池田氏の菩提寺であった。関東大震災で罹災したが、1933年(昭和8年)に再建された。
そしてお目当て長命寺(ちょうめいじ)は、東京都墨田区にある天台宗の寺院。山号は宝寿山。院号は遍照院。本尊は阿弥陀如来。隅田川七福神のうち弁財天を安置している。「長命寺桜もち」で知られるが、今や幼稚園の方が大きくなり開園中は正門からは入れない。
平安時代円仁の開山により創建されたとも、慶長年間(1596年 – 1615年)に創建されたともいう。もとは宝樹山常泉寺と号していたが、江戸幕府3代将軍徳川家光の命により現名に改められたという。それは、家光の放鷹の途中で、軽い病気(微恙)になってここで休憩したので、僧孝海が加持のうえ境内の般若水で薬をすすめると、効験あって治癒した。家光は喜んでその井戸水を長命水と名付けて家康の画像を付して毎年供養料を給したという。

1888年(明治21年)の夏、境内にあった桜もち屋月香楼の二階に、正岡子規が仮寓していたことがある。子規は三か月あまり滞在して、『七草集』を書いたが、その「蕣(あさがお)の巻」に含まれる子規唯一の能作品に登場するシテの女のモデルが、月香楼の一人娘山本陸(やまもとろく)である。陸は当時15,6歳で、子規の思慕の対象として噂の種となったとさ。
関東風桜餅は、塩漬けの桜の葉を用いた、江戸に発祥した桜餅。伝統で典型的なものの一つ。東京隅田川の向島にある長命寺という寺院の門前にこの桜餅を作り始めた店舗がある。したがって、関東以外の地域では、関東風桜餅のことを長命寺と呼ぶこともある。
「長命寺の桜もち」は享保二年(1717年)に、元々は寺の門番であった山本新六が門前で山本屋を創業して売り出したのが始まりとされる。隅田川の桜の落ち葉を醤油樽で塩漬けにし、餅に巻いたとされる。もとは墓参の人をもてなした手製の菓子であったといわれ、桜餅の葉は落ち葉掃除で出た桜の葉を用いることを思い至ったからだという。はじめは桜の葉のしょうゆ漬けだったともいわれる。山本新六は下総国銚子の人で元禄四年(1691年)から長命寺の門番をしていた。将軍吉宗の台命により享保二年(1717年)同じ年に側傍の隅田川沿いに北から南へ桜木の植栽が行われ、これを機に花見時に賑わい発展した。記録に、文政のころ(1818-1830年)の桜餅屋のことが上がっている。曲亭馬琴他編の『兎園小説』の中で屋代弘賢が書いている内容から、盛況ぶりがうかがえる。
桜餅一つの売値四文は現在の価値に直すと、推定で米の価格から換算した場合は約63円、大工の賃金から換算した場合は約322円。只今はお茶付きで350円 お土産は260円になりました。
スーパードライホールは、東京都墨田区吾妻橋一丁目にあるリバーピア吾妻橋敷地内のアサヒビールの吾妻橋本部ビル(アサヒビールタワー)に隣接するホールである。1989年竣工。隅田川の吾妻橋のたもとにあった旧吾妻橋工場跡地の再開発で建造されました。
ビルとオブジェは、フランスのデザイナー、フィリップ・スタルクによる設計でホールの1階から3階にはレストランが入っており、4階にはイベントホール「アサヒ・アートスクエア」があります。屋上には特徴的な巨大モニュメント、燃え盛る炎を形象した「フラムドール(フランス語 flamme d’or、金の炎)」と呼ばれるもので、アサヒビールの燃える心を象徴するとされる。オブジェが炎を表すのに対して、その下のスーパードライホールそのものは聖火台をイメージしたものだということですが、巷ではウ○コビルとか呼ばれている!何とも奇妙なオブジェですね。

新型コロナは日本人の生活を刷新する神の使者? (42 河瀬斌)

新型コロナの世界的流行は経済を麻痺させ、オリンピックをはじめ、色々な集会に甚大な影響を与え,世界では大戦並みの死者を出しています。日本の経済は立ち直る事が困難かもしれません。しかし日本人にとって、これは悪い影響だけではありません。コロナが今までなかなか改革できなかった日本人の生活習慣を見事に改善してくれているのです。その例を挙げてみましょう。

  • 自宅の地位向上とテレワーク

日本では一世代前の働き蜂より家庭が重んじられるようになりましたが、共稼ぎが多く、夫婦とも不在はよい家庭とは言えません。しかしコロナ禍では残業の帰りにちょっと一杯、という生活は不可能になり、また東京では62.3%の企業がテレ(リモート)ワークを実施したため通勤が減り(注1)、その分家庭にいる時間が増えました。それに伴い自宅で飲みながら家族と話し、家庭の大切さを実感するようになった人が多いことでしょう。これはアメリカ、ドイツでは実現しているテレワークを日本人がやっと手に入れ始めた事にほかなりません。共稼ぎ家庭では親と話す時間が少なかった子供へのスキンシップも改善される事でしょう。現在テレワークが可能な職種は限られていますが、今後はどんどん増加する事でしょう。今後の課題はどう会社が環境整備をするか、テレワーク下でどう連帯感をつくるか、どう仕事の適正な評価をするか、にかかっています(表1)。

  • インドアよりアウトドア志向へ、都内より郊外へ

日本人の好む室内での遊びやインドアスポーツは換気の点で敬遠され、自然の中でのキャンプ,釣りやゴルフなどのアウトドア派が今増加しています。最近の都会の戸建住宅は敷地が狭いため一本の木も植えていません。共稼ぎでは植木の世話も重荷なのでしょう。しかし緑の無い環境から時に脱出したくなるのが人間の生理です。私も都心のマンションに住んでいた時は緑を求めて毎週末ドライブに行きましたが、帰路いつも車の渋滞に悩まされた覚えがあります。そのため自宅を身動きのとれない都会から郊外に買い替えようとする人も増えているようです。これはテレワーク可能な人が通勤という都会囚人の足かせから開放され、ワーケーション(働きながらバケーション)の世界に魅力を感じているからでしょう。自然が近い環境では週末に郊外へ行く必要がないので,テレワークが進めば必然的に郊外へ移住する人が増えるでしょう。都心の企業もオフィスをより賃料の安い郊外へ移すことも増えているようです。

  • 衛生習慣の飛躍的向上

日本人は握手、ハグなどの習慣が無く、マスクも抵抗ありませんでしたので、それで西洋人より圧倒的に少ない感染数で済んでいました。コロナ以前は車内やデイスコでの三蜜や手を洗う事には無関心でしたが、最近はレストランも席の間隔を空けてパリのように屋外に席を出しはじめ,アルコール消毒も完備して欧州並みになりました。今後は過密で不衛生なレストランやパブがなくなるのは目に見えています。コロナ下二年に及ぶ現在の衛生習慣はきっと日本人に根をおろすことでしょう。そのためか、インフルエンザなどの他の感染症の流行が今全く陰を潜めているのです。

  • AIの普及によるお役所参りの減少

お役所でのAIの普及は菅総理の政約です。世界に遅れていたお役所仕事、「印鑑は?」「あそこの部署、役所に行って下さい」も次第に少なくなり、簡単なことは自宅からオンラインで済むようになるでしょう。それに合わせて役所の台帳をAIに変えるまで3年位かかるかもしれませんが、色々な契約書もオンラインでハンコ無しとなれば、テレワークもやり易くなるでしょう。今後病院も再診、投薬など単純な業務はオンラインで出来るようになるでしょう。それにしてもマイカードをAIT改革やワクチンパスポートにもっと役立つようにしてもらいたいものです。

  • 無駄な外交支出の節約と日本文化の危機

日本ではおつきあいの為の無駄な会合や冠婚葬祭が多く、その為の支出や贈答品がばかになりませんでした。家計を削ってまでそちらに回す必要もあったでしょう。コロナはそれらの無駄な会合を削減する良い機会になりました。その分を家庭や子供の教育の支出に回せば、豊かな家庭生活が送れる事でしょう。一方中止を余儀なくされた日本の世界に誇るべき文化、地方の祭りや日本画,日本舞踊などの芸術を保存することは最も重要です。日本各地の祭り、花火などは外国にない素晴らしい文化です。今、これらの文化が存亡の危機に直面しています。文化芸術は廃れた場合は回復するのに30年はかかるのです。ワクチンが行き渡りましたら、その分をこちらの方にまわして楽しむと同時に、日本の大切な文化芸術を保存しましょう。

 

(提言)コロナウイルスは変異を繰り返していますが、幸い今のmRNAワクチンは多少の変異にも効果があるようです。しかしいずれはワクチンも効果が薄れ、変更する必要が来るでしょう。それに応じて新しいワクチンを繰り返し接種する必要があるので、ウイルスと人間は5年間は共存(競存)することになるでしょう。その長期戦の中でウイルスを悪者と見る事に終始せず、「自己の生活を刷新するため神が送った使者」と考え、自らを前向きに変えてゆく事が、コロナ禍を乗り切る秘訣ではないでしょうか。いじめや引きこもりなどの子供の問題,親の運動不足による肥満、そして離婚の増加や子供の虐待などはそのほとんどが都会病です。日本は世界一緑豊かな国ですので、この機会に今の生活を見直し健全な家庭を築きましょう。社会も変革するであろう、その5年後はあっという間に来るものです。

 

注1:2020年度ニッセイ景況アンケート調査結果による

 

表1:テレワーク体験者の評価(GPTW ジャパン報道発表から)

リモートワークを肯定的に感じた人の理由(上位5項目)

会社が働き易い環境整備をしている                    57.0%                                 コミュニケ ーションが活発で人間関係が良好   29.7%                               テレワーク下でも連帯感を感じる        24.1%                                会社の将来性を感じる             22.8%                                  必要以上の監視,管理がない          18.4%

テレワークを否定的に感じた人の理由(上位5項目)

組織の連帯感が感じられない          41.9%                                   会社の将来性を感じられなくなった       25.8%                                    公正に扱われていない             17.2%                                      適切に評価されていない            17.2%                                     仕事で自分の成長を感じられない        15.1%

 

横尾忠則展へ行ってきました  (44 安田耕太郎)

芸術の秋!錦繍の秋、味覚の秋 の中から今日は「横尾忠則展」@東京現代美術館に行ってきました。都心を東西に横切り地下鉄で1時間乗り継いで、江東区の清澄白河まで。船津さんのお宅から近いのでしょうか?帰りには清澄庭園に立ち寄り、散策。江戸時代の豪商・紀伊国屋門左衛門の屋敷だと伝えられ、明治初めの岩崎家(土佐出身の三菱創業者)が買い取り、現在に続く庭園にしたとのこと。松尾芭蕉の住居からも近く、「古池や蛙飛びこむ水の音」の石碑が庭園内にありました。

写真撮影はNG。600点を超える膨大な作品群に

最も感嘆した5歳の時に描いた絵

度肝を抜かれ圧倒されました。S11年生まれの今年85歳。いまだ現役で制作中。数年前、六本木の国立新美術館で開催された草間彌生(当時87歳)の展覧会2017年にも魂消ました。横尾忠則は40年前にNY近代美術館(MOMA)でピカソ展に触発され画家への転身を決意。今月3日にNHK日曜美術館で彼の特集番組を見て、こりゃあ、展覧会に行かねば~と、思った次第。アンリ・ルソー、ダリ、アンディ・ウォーホル荒木経惟、ジャクソン・ポロック、ピカソなどからの影響があるように感じられました。三島由紀夫と親しくなり、彼を題材として描いた絵画が幾枚かありました。

 

花と虫    (大学クラスメート 廣明幹雄)

ヒマに飽かせて、季節の花とか、花に立ち寄る虫たちを撮っています。
今回は、初秋の花に立ち寄る虫たちのスナップです。

1.キバナコスモスとシマアブ

キバナコスモスは夏から秋まで多くの花を付けてくれます。
キバナコスモスは普通のコスモスが盛んに咲くやや少し前に、種を沢山つけて、花期を終えます。シマアブは9月~10月ごろキバナコスモスを訪れます。

2.キバナコスモスとキアゲハ

キバナコスモスは前述したとおり、夏から秋まで咲いています。
キアゲハはシマアブとほとんど同じ時期にキバナコスモスに寄ってきます。丁度ヒガンバナが咲く時期と一致します。
キアゲハはキバナコスモスがとまると重量で花が下を向いてしまうので、羽根をばたつかせながら(花びらが上を向いている状態で)蜜を吸います。羽根の羽ばたくサイクルが少ないのでホバリングとは云えませんが、花が大きく揺れるので撮りにくい場面が続きます。

3.センニチコウ(千日紅)とウラナミシジミ

センニチコウは花期が長い花ですが、花の取材に行ってたまたまウラナミシジミの写真が撮れました。自宅には無い花なので観察不足ですが、ご近所さんの庭を覗いて見ると、かなり長い間しおれずに咲いているようです。

4。ハギ(萩)とウラナミシジミ

ハギは近くの禅寺の参道にあるハギで、例年花の写真を撮るのが年中行事です。
ウラナミシジミも多分他の花から花へと移ってきてハギにたどり着いたに違いありません。アクロバチックな形で風に揺れるハギにしがみついています。
小さな虫たちが懸命に生きているのに勇気づけられます。

5.ユリオプスデージーとヒメヒラタアブ

ユリオプスデージーは花期の長い木で、真冬と真夏以外は花を付けています。重宝な菊の灌木ですが、小さく仕立てることは可能です。
一方、ヒメヒラタアブは1センチに満たないアブで、ホバリングしながら蜜のある花を探します。

6.ホトトギスとホウジャク(蜂雀)

ホトトギスは関東地方では9月~10月に咲く花です。
けばけばしい花で、蜜は花の奥の場所にあるので、口先が長い虫しか蜜を吸いにやって来ません。
ホウジャクは涼しい時期になると飛来します。、気温が20℃を下回らないと活発に活動しません。我が家に廻ってくるホウジャクは、朝もしくは夕方の薄暗い時間帯に飛来します。ホウジャクは花に止まると花が重く垂れ下がるので、ホバリングしながら蜜を吸います。ブーンという音がします。
朝だと日の出寸前とか、夕刻だと薄暗くなってからです。

(編集子)61年度卒業の小生のクラスは、博士級大秀才から尺八の名人に俳人にレスラーにピアニストにと枚挙にいとまがない才人秀才の集まりだった。毎日、部室には必ず行くが教室には必要最低限しか顔を出さなかった小生には多少居心地のよくないところもあったが、その中で名をはせた硬骨漢(論客であった飯田武昭ともいい勝負だった)が、当時の印象とはかけ離れて花鳥風月の日々を送っているらしい。かれの主宰するブログもご覧いただければうれしい。以下、関連情報。

 私は自分のホームページとブログは共にハンドルネーム(ペンネーム)を使っ
 ています。ホームページは「ひろさん」、ブログは「善人閑居」という名前
 です。

 ブログの URL は https://blog.goo.ne.jp/micky333

 ひろさんの旅枕 の URL は
 http://www5.airnet.ne.jp/hiromi/index.html
  です。