別報菅原さんの問題提起についての私見です。
エーガ愛好会 (245)24年初見の報告です (大学クラスメート 飯田武昭)
年末から正月三が日にかけてテレビ放送で観た初見の映画の感想を記します。
・映画「ブルース・ブラザース」(1980年)監督ジョン・ランディス、主演はコメディアンのジョン・ベルーシとダン・エイクロイド。
概略はNBC放送の人気番組「サタデー・ナイト・ライブ」にストーリーを付けて映画化したもの。ブルースやR&B、ソウルミュージックなどの黒人音楽に対するオマージュと言う側面がある由。印象はスラップスティック、アクション、ミュージカルをごちゃ混ぜにした作品で、その積りで観るとバンドやダンスシーンに大物アーティストが続々と生出演している不思議な魅力がある。
レイ・チャールス、ジェームス・ブラウン、ツイツギー、スティーヴン・スピルバーク等で、彼らの演奏シーンやラスト20分ほどのカーチェイスとアクション・シーンは確かに見応えあるが、ミュージカル仕立てに統一したら、もっと良い映画になっていたかも、と勝手に思った次第。
ところで、スラップスティック(Slapstick)という日本語英語、意味は 《道化師が相手役を打つ棒の意》どたばた喜劇。無声映画の時代に米国のマック=セネットが作りあげた喜劇のスタイル。スラップスティックコメディーだそうだが、洋画を映画館で良く観た若い頃の映画雑誌「映画の友」「スクリーン」の映画評論家の評論によく出て来た言葉なので、どたばたコメディの映画のコメントに自身も適当に使ってはきたが、あまり日本人には馴染みがない言葉であり、感覚だと今でも時々感じる。
・映画「新・喜びも悲しみも幾歳月」(1986年)監督 木下恵介。主演 加藤剛、大原麗子、紺野美沙子、中井貴一、植木等など。旧作は「喜びも悲しみも幾歳月」(1957年)監督 木下恵介、主演 高峰秀子、佐田啓二、中村賀津雄、田村高広など。
転勤族である灯台守の夫婦の物語で、全国の沢山の灯台が出てくる今では貴重な風景が沢山観られ、木下監督独特の家族の絆の感覚が全編を貫く爽快さが見終わっても残る。植木等が夫妻の父親役で、ある意味で主役を演じるいい味を出しているのは、スーダラ節の植木等を俳優としても見直す良い映画だった。
きな臭い話だが (普通部OB 菅原勲)
多少きな臭い話しで申し訳ありませんが、ご存知の通り、1月13日(土)、台湾で総統選、立法院選(議員選)が行われます。総統選は民進党の頼が勝ち、立法院選は民進党が多数派を維持すれば、当面は、さしたる問題はないと思います。しかし、中共の干渉が余りにも凄まじいので、総統選は国民党の侯、立法院選は国民党が多数派となることも強ち否定できないようです。その国民党は、中共と仲良くなりたがっています。
ここからは、誠に悲観的な見方になりますが、そうなると、習近平は濡れ手に粟、戦わずして台湾を手に入れることになります。こうして中共の掌中に収められた台湾を、果たして米国は取り戻しに来るでしょうか。また、台湾有事は日本の有事だそうですが、米国が手を引いた台湾に、軍隊を持たない日本がチョッカイを出すことが出来るでしょうか。
勿論、総統選と立法選の結果、ねじれ現象が起こるかもしれません。ただし、そうなった場合の事を云々する能力は小生にはありません。皆さんは、どうお考えでしょうか?
グーグルによる ”台湾有事” の背景の解説ー
――台湾海峡の中間線とはどのような線ですか。
海峡のほぼ中央に引かれた折れ線です。中間線を明示した公的な地図は意外と少なく、2004年に台湾の国防部長が立法院で中間線が通る緯度と経度を明らかにしたのが数少ない資料です。最近、よくニュースになりますが、実は国際法上は何の意味もない線なんです。
――何の意味もないのですか。なぜそんな線があるのでしょうか。
1949年に蔣介石の国民党政府が大陸から台湾に逃れた際に、共産党側がそこを越えてきたら色んな対応をとるということを示すために海峡の真ん中に作戦用の線を引いたからです。当時は米軍も台湾を支援していましたから、米軍の航空部隊の戦術上もそのような線が必要でした。
――米軍が関わっているのですね。
はい、当時はまだ米軍の支援を受ける国民党の軍の方が共産党の軍より強かったんです。国民党は「大陸反攻」と言って、また大陸に戻る気構えで爆撃や偵察、工作員潜入などを仕掛けていました。中国の大陸沿岸は台湾海軍がおさえていて、中国の船を妨害することもありました。米国としては国民党軍にあまり手を出してほしくないという気持ちがあり、中間線を引いて台湾海峡をどちら側からも渡らせない、という意味がありました。
――その線が今まで続いているのですか。
はい。台湾側が勝手に引いた線ではありますが、これを越えたら敵対的な意図があるとか、挑発をしているだとか、政治的な意味を持ってきたことは間違いありません。
(編集子)先に中国経済についての識者の著述を紹介したばかりだが、大規模戦争が国内の不満をそらすために外敵をでっちあげ、国民の不安をあおった結果勃発した例はいくつもある。まして中国は共産党独裁によって国民の思想まで制御しているわけだから、その気になれば戦争に訴えるのは簡単だろう。もしそのとばっちりを日本が受けたとき、国民が一致してそれに対応できるのかどうか、誠に心もとないと思うのだが。
初日の出 東と西で
(小泉)珍しき、マルセイユ近くのエスタックの初日の出 と比較すれば、我が家から東の空からの初日の出(6:50)、西の初富士(6:55)は珍しく
(平井)明けましておめでとうございます!
(船津)パリは今新年に代わった真夜中ですが、素晴らしい年越しのマルセ
今年も愉しく健康で過ごせる年でありますように宜しくお願い申し
Glorious dawn 2024
エーガ愛好会 (244) ある愛の詩 (HPOB 小田篤子)
『ある愛の詩』は,雪のセントラルパークの風景、大ヒットしたフランシス·(飯田)レイ・ミランド考、興味を持って読みました。
彼の主演映画では勿論、「ダイヤルMを廻せ」ですが、「失われた週末」(1945年)も印象に残る作品でした。アル中のサラリーマンがアル中から脱却しようと努力するも、結局は元の木阿弥で人生を破滅で終えるような救いの無いストーリーですが・・・。
1970年3月にLove Storyという本がアメリカで出版されました。この本は、アメリカ国内だけで1200万部を売り切るという大ベストセラーとなりました。小説と映画が同時進行で制作され、小説が出版されて数週間後に映画が公開されました。この映画は、日本では『ある愛の詩(うた)』というタイトルで上映され、「愛とは決して後悔しないこと(Love means never having to say you’re sorry)」という名台詞が公開当時流行語になりました。
”ウクライナ戦争と中国経済について” 追論 (44 安田耕太郎)
ブログ中、「我々は本当に正しい歴史を作り出していけるのだろうか。どうも
有名なウィンストン・チャーチルの逆説的発言「民主主義は最悪の
独裁専制国家が民主的な政治形態(或いは“的“)の国家を蹂躙し
遂行する目的が理や正義に適っているか否かは別にして、より効果
独裁者は、基本的に権威主義的、野心的、利己的、猜疑心が強い、
歴史上、“高潔な指導者による独裁” の例は寡聞にして知らない。大昔の古代アテネのペリクレスあたり
いずれにしても、民主主義と独裁専制体制2つのせめぎ合いは拮抗
(菅原)「高潔な指導者による独裁」って言うことは、権力に通じる。そこで、小生のバカの一つ覚えで、英国のジョン・アクトンの以下の格言を思い出す。
「権力は腐敗の傾向がある。絶対的権力は絶対的に腐敗する。偉人は殆ど常に悪人である」。って言うことらしい。現在、「くじ引き民主主義」に興味あり。
(編集子)独裁は必ず腐敗する、ということはたしかフランクリン・ルーズヴェルトも言っていたような気がするね。
きっぱりと冬が来ました (グリンビラ総合管理 HPより転載)
自律神経と健康維持 (普通部OB 篠原幸人)
皆さん、自律神経ってご存じですね。人間の身体には沢山の種類の神経がありますが、身体を動かす運動神経、痛いと感じる感覚神経はよくご存じですね。その他に、我々の身体には自律神経と呼ばれる神経が存在しています。
学校で習った「交感神経と副交感神経」です。これらの神経は皆さん自身の意思ではコントロールできず(だから自律神経と呼ばれます)、一生の間、昼も夜も勤勉に皆さんの意向とは関係なく、自動的に勤勉に働いている神経です。皆さんのお知らない間に、皆さんの心臓や腸を含めた内臓や血管など、生命に維持に必要な機能を調節してくれています。
大体、交感神経と副交感神経は同じ臓器や血管に対しては正反対に働くことが多く、上手くバランスを取りあっているのです。このアンバランスが「自律神経失調症」ですね。例えば、脈拍数・呼吸数・胃や腸の動き・発汗や睡眠・血圧の一部もこの自律神経がコントロールしているのです。
このように自分自身では上手くコントロールできない自律神経ですが、この働きで唯一、皆さんがご自分でコントロールできるのが、呼吸です。皆さんが寝ている間も食事中も呼吸は勝手にしていますが、あなた方が意識的に深呼吸をすれば、大きな呼吸になりますね。一時、呼吸を止めることも可能ですね。一方、同じことを心臓の拍動や腸の動きでやろうとしても無理ですよね。このギャップを我々が上手く使わない手はないのです。
そうです。毎朝、血圧を測り、「高い、高い」と大騒ぎしている貴方。血圧測定時には、気分をゆったりさせて、大きく息を吸い、一度、8-10秒ほど止めて、それから10秒ほどゆっくり吐く(秒数は適当で可)。こんな動作を2-3回繰り返し、ゆったりした気分でもう一度血圧を測りましょう。考え事をして、頭がさえて眠れない時も、このような自律神経のコントロールが有効なことがありますよ。
乱読報告ファイル (50) ウクライナ戦争と中国経済について
今全世界で議論が沸騰しているトピックについての論文を2冊、読んでみた。”ウクライナ戦争”の著者は小泉悠氏、最近のテレビでおなじみの顔である。
小泉氏はロシアの軍事・安全保障の専門家であるので、発生以来のロシア側の動きを追った著書で、発生以来の各ステージでのロシア側要人の動きや戦闘について、日本での報道だけでは理解できない角度からの解説が豊富であるが、この書物の狙いは、ソ連の解体と冷戦の終結によって、国家間の大規模の戦争はもはや起き得ず、戦争があるとすればそれは国家対非国家主体(例えばテロ組織)との間の ”非対称戦争”か、非軍事手段を駆使する”戦争に見えない戦争”になるし、原子力空母や高性能戦闘機などよりも対テロ戦争のための特殊部隊に重点が置かれるだろう、というのが軍事専門家や軍の指導層の認識であった、という認識から始まる。しかし22年に始まったロシアのウクライナ侵略はこうした予測からは大きく逸脱した、第二次大戦後にはあまり起きていない, ”従来型” の大規模戦争であって、プーチンが動員した第一次だけでも30万人という、第二次大戦以来の規模だというのだ。本書があげている専門機関の調査研究によると、22年2月から9月に世界で発生した戦闘は1万8千回余りだが、その約6分の1がウクライナで発生したのだという。正直言えば、日本から離れた地域での紛争でもあり、この戦争がそんな規模のものだという事は考えたことがなかった。
著者は専門の軍事知識を駆使して、開戦以来本書上梓までの間の戦闘について解説しているのだが、我々にとってもっとも興味があるのは、(なぜこのような戦争が起きたのか)ということだろう。この点について小泉はEU加盟国のいわば東進によってロシアの安全が脅かされているとか、ウクライナがネオ・ナチ思想に毒されているとか、あるいは核兵器を生産しているとかいったプーチンの主張には客観的な根拠もなく、最後には民族主義的な、”プーチンの野望” とでもいうものでないと説明できないという。この点について、筆者はもしロシアがEUの侵略を恐れるなら、ウクライナよりも長い国境線で接しているフィンランドや北欧諸国との関係のほうがウクライナよりも脅威になるはずなのに、なぜウクライナなのか、という点から、プーチンが21年に”ロシア人ウクライナ人の歴史的一体性について” という論文を発表したことについて述べ、歴史的事実としてとしてロシア、ウクライナ、ベラルーシが民族的・言語的に共通点をもつことをその背景として述べている。
これからこの戦争がどう展開するのかは我々には分からないが、その性質について、この戦争が先に述べた、いわば ”新しい戦争” ではなく、火力によって領土を奪いあう、従来型の戦争であって、ただ使用される武器が大きく変わったにすぎない、という筆者の見解に従えば、まだまだ両国間の消耗戦は続くのだろう、という暗い予想しか思い浮かばない。
かたや中国経済の現況について、ある意味ではマスコミの散発的な報道をまとめて解説してくれるのが石平(せき へい)氏の やっぱり中国経済大崩壊! という一冊である。先回本稿で同じような煽情的なタイトルに引っかかって読んだ ロシア敗れたり という駄作について書いたばかりで、今回も同じようなことになるか、という不安もあったが、本国で民主化運動にくわわり、かの天安門事件をきっかけに来日、日本に帰化したという背景を持つ人だけに、中国が現在陥っている経済の負のスパイラルについて軽妙に解説してくれている。大筋は日本のマスコミが報道している事柄を裏書きするものなので詳述はしないが、ここでも我々が持つ素朴な疑問、すなわち共産主義をとなえる国の実情はどんなものなのかと、スターリン―毛沢東路線を引き継いだ習近平の政治の結果についての評価は一読に値する、入門的な解説である。
ここでも、今日に至る中国経済の激動についての解説はわかりやすいが敢えて言えば目新しいものではない。それよりも同氏が喝破した(習近平は経済問題に不干渉である)という点は新しい視点だった。ウクライナと違って目と鼻の先で起きていることだが、この2冊を読んで改めて感じるのは独裁制国家のもたらす怖さである。この二つの大国の国民は、ロシアと中国という地政学的に異なる環境にありながら、情報をありのまま受け取ることが出来ないでいる。僕ら世代まではその現実の一部を知っているわけだが第二次大戦下の日本も同じだったのだ。
此処までは、いい。しかし、”だから民主主義が正しい” という結論に至ることにならないのが現実だろう。その最大のキーが情報・報道の問題だというのがまさに皮肉な事実だ。現在話題になっている政治の腐敗、なんてものはどっちになってもあり得ることだとあきらめることはできる。しかし統制なく拡大する情報の氾濫、とくに昨今、ますます精緻なものになりつつあるハッキングとか生成AIとかいう技術面での反社会行動が可能な、”報道の自由” がそもそもの発端である現在、我々は本当に正しい歴史を作り出していけるのだろうか。どうも小生の持論の、”高潔な指導者による独裁” のほうが好ましく思えるようになってきたのだが。






