“ハードボイルド”文学について(その2)

さきにふれた大藪の”野獣死すべし”の中に、主人公の伊達邦彦が書いた大学の卒業論文は”ハメット―チャンドラーーマクドナルド派に於けるストイシズムの研究”だったということになっていて、大藪の作家としての原点はやはりこのあたりにあったのかと思っていたのだが、”冒険小説論”で知られる評論家の北上次郎は大藪の作品ををハードボイルドとして紹介したのが間違いで、彼の作品は冒険小説とよばれるべきだ、と論じていることを知った。このあたりの論議は専門家の間でもいろいろあるようだ。ともかく、伊達がどういう論文を書いたのか知る由もないが、僕の考える”ハードボイルド文学”とはどんなものか、自分自身の整理のために今まで書いたことからまとめてみると、結局二つの点に要約できると思う。

第一に、話を紡ぐ主人公が(その意味では一人称で書かれたもののほうがわかりやすい)自身で確立した人生観・価値観を持ち、すべての行動をその基準(昨今のビジネス用語でいうコード・オブ・コンダクトと言ってもいい)に則って自分のやり方にあくまで固執しつつ、目的を完遂することが主題であり、その実現のためには社会通念とか伝統とかそのほかのしがらみを切り捨てて顧みない、ローンウルフであること、そしてそのことに誇りを持っていることが要求される。

第二に、文体というかスタイルは簡潔であり直截的でありながら、その中に一匹狼でありつづけなければならない主人公がそのことゆえに感じる孤独とロマンチシズムがはさまれていなければならない。つまり自分が孤独であるがゆえに、他人に対して、敵味方とか正義とか愛情とかの、いわば本質的値観や感情ではなく、一個の人間として(最近習い覚えた言葉を使えば)実存的な共感を覚えさせるものがあることだ。

この二つの点に焦点を当てれば、”ハードボイルド”という分野の題材というかストーリーは別にミステリである必要はなく、冒険小説というジャンルに入るものや、一般の読みものであってもかまわないことになる。ただ、ものの順序としてミステリの”御三家”についていえば、僕の好みはやはり全体(この場合清水俊二の翻訳)に流れる雰囲気から”長いお別れ”がどうしても第一に来るのだが、そのほかの作品となるとマクドナルドのものに共感する部分が多い。それは彼の中期以降の作品がまさに僕らの知っているアメリカの病巣ともいうべき部分に的を絞っているからで、そこには絵空事ではない現実感があるからだろう。多くの長編のなかでは、”縞馬模様の霊柩車(The Zebra-striped Hearse)”,”寒気(The Chill)”,”ウイチヤリー家の女(The Wycherly Womon)”の三篇が特に気に入っている。

さて、この”御三家”の跡を継ぐのは誰か、ということについては専門の文学者をはじめ多くの議論があるようだ。一時はジェイムズ・クラムリ―(”酔いどれの誇り”など)やジョージ・ペレケーノスなどという名前がよく出てきたが、一般に知られたという意味ではロバート・パーカーではないだろうか。翻訳は長編はほぼ全編がそろい、”スペンサー(主人公の名前)シリーズ”と銘打って素敵な装丁でまとまって刊行されている。この”スペンサー”シリーズが”御三家”と違う第一の点は主戦場がボストンであり、全編、かなり知的な会話がちりばめられ、しかもサブキャラクターとして”ホーク”という黒人を配して人種問題にも言及があったり、しかも主人公のロマンチシズム志向を失っていない、といった点で多くの読者を獲得したのだと思う。パーカー自身もチャンドラーに私淑していて、チャンドラーが未完でのこした原稿を書き継いで”プードルスプリングス物語”という長編にまとめ上げている。この中では、マーロウが長年のロマンスにピリオドを打つ、というおまけまで添えられているのも彼のチャンドラーに対する敬意とでも言えるかもしれない。

僕が自分で探した、というと自慢めくが、最も気に入っているのがスティーブ・ハミルトン(Steve Hamilton)という作家である。デビュー作 ”A Cold Day in Paradise”は”氷の闇を越えて”というタイトルで翻訳されているが、これがまた見事な出来栄えですっかり気に入ってしまい、同じ翻訳者(越前敏弥)のシリーズを読了した後、アマゾンで手に入る原本をすべて読み直した。彼の文体は平易で読みやすいが、そのほかにも物語の舞台が今度はミシガン州パラダイスという街(架空ではなく実際にあることは地図で確認した。とにかく冬は猛烈に厳しいところのようだ。パラダイス、といっても天国ではないのだがこの辺がアメリカ人のユーモア感覚だろうか)。”御三家”シリーズで慣れてしまったカリフォルニアとは全く違う社会環境であることや、パーカーの場合の黒人に対して地元の先住民族との交流や協力がたびたび登場するのも面白いところだろうか。ハミルトンの出発は元警官のアレックス・マクナイトのシリーズで、これは僕の定義するハードボイルドの範疇にはいる佳作ばかりだが、最近は別のニック・メイスンシリーズというのが始まった。だがこちらのほうはむしろクライム・ノベルというべきではないかと思っていて、ストーリーは面白いがマクナイトものには及ばない。

文体、と言ってもまずは翻訳書の話だが、その雰囲気で気に入ったのがサム・リーブス(Sam Reaves)である。彼の場合は翻訳者(小林宏明)の案なのか早川書房の案なのか、原題とは全く関係のない、一見すると女性向ロマンではないかと錯覚するようなタイトルがついている。いわく、”雨のやまない夜”だとか”過ぎゆく夏の別れ”などといった具合である。ネットにファンの書き込みがあるが、主人公のマクリーシュは今にいうハケンである、という意見もあるように私立探偵とか警官とかではなく、一人のロマンチストの運転手が活躍する。本国ではさほどヒットしなかったようで、アマゾンで原書を探しても初期のものはぼろぼろの中古しか入手はできていないが、僕の好みに合ったシリーズである。

ハミルトンがミシガンの田舎を舞台にしているといったが、一転してワイオミングの自然の中で展開するシリーズがある。作家の名前はC.J.ボックス、主人公は野生動物の保護官ということになっていて、大自然の中で素朴に生きているアメリカ人の社会がパーカーなどとは全く違ったものであることがよくわかる。僕がひそかにあこがれている米国中西部の、まっとうなアメリカ人が描かれていることも、もちろんストーリーの見事さもあるけれども愛読する理由でもある。

ここまで紹介した作品や作家は、”ハードボイルドミステリ”の定義に当てはまる要素をしっかりもっているのだが、その要素の中で特に”現場を歩き足で解決する”という部分に特化すれば、何といっても、かつてテレビ普及の初期に人気番組だった”87分署”シリーズのエド・マクベインにとどめを刺すようだ。テレビで主人公キャレラ刑事を演じたロバート・ランシングの特異な顔つきを覚えているむきもあるのではないか。ニューヨーク市警をモデルにしたという架空の町での話だが、人種問題や階級意識の問題など、マクドナルドのところでもふれたが現在のアメリカ社会の暗黒部の話が毎回出てくる。だが主人公にはローンウルフ的なイメージがなく、分署の組織が動く、という点と結果的にはいかにもアメリカ的な解決が多いのが物足りない。

アメリカの話ばかりになったが、日本の作家ではどうだろうか。先駆者ということになっている大藪についてはすでに述べた。出版業界では大藪の売り出しで味を占めたのか、以後、”ハードボイルド小説””ハードボイルドタッチ”などという宣伝文句がしょっちゅう目に留まるようになった。この分野に目される人も大沢在昌とか逢坂剛とか沢山いるわけだが、僕の好みは北方謙三にとどめをさす。どこかで北方が書いていたことだが、本人は純文学志向であったのだが或る時友人からハードボイルド、という分野を聞き、”読んでみたら、なんだこれなら俺にも書けると思って書き始めた”、のだそうだ。最近は”三国志”をはじめとして中国古典のリライトなどが多く(というか多すぎて)流行作家的な存在になってしまっているが、”弔鐘はるかなり”とか”二人だけの勲章”とか、暗いトーンでまとまった中編もいろいろ読んだ。70年代の学生運動とその熱狂から醒めた人物像が主人公のものが多く(本人もそのひとり)、同時代を生きたものとしてある種の郷愁を感じるものが多いが、僕には”さらば荒野”で始まり”再びの荒野”で終わる、という”ブラディドールシリーズ”が一番いい。全10冊がすべて独立した主人公で完結する物語になっていて、彼らの背負っている人生の負の遺産の重みを感じる佳作ぞろいである。純文学から転身した北方は明らかにハードボイルド作品で”文体の持つ意味を意識しているようで、独特の短い文節を矢継ぎ早に並べる書き方もそのひとつの試みなのだろう。

この”ハードボイルドタッチの文体”を日本語で表す、というのはプロであっても苦労するようだ。すこし軽妙過ぎて僕の好みではないのだが、”リンゴオ・キッドの休日”とか〝サムライノングラータ”などを書いた矢作俊彦・司城志朗にはその試みがあきらかにある。北方が文体そのものに挑戦しているのに対し、彼らは特にチャンドラーものに多い,大げさな形容詞句を発明することで味を出そうとしているようだ。

”犯罪現場での話”の拡張をしていくと、最近では大掛かりな組織、つまりCIAとか軍とかFBIなどといったものをバックにした話が多くなってきた。この辺になると、本題の”ハードボイルド”と”冒険小説”との境目がよくわからなくなってくる。冒険小説とは何か。このあとに僕の冒険小説遍歴について書いてみたい。

がにまた会乾杯!  (42 松本好弘)

恒例のガニマタゴルフも今回で何回目になるのでしようかね?
良く続けていると思います。

ベビーが初めて四国から参加し彼らしい努力の結果を残しているの は流石です。マコも腰の手術から完全回復したようで何よりですね!又トミがヤブタマこと河瀬君のバックアップもあって不死身のごと く元気になりゴルフ会に参加したのは嬉しい限りです。14名の参加者が写っている写真を見る限り全員が元気で楽しいゴ ルフ会だった事がよーく判ります。 健康で元気なことが一番大事ですからね…

私は4日から23日迄大山の小屋に滞在して秋冬野菜の植え付けや 種蒔きで大変ですが9日から11日に木川前会長と長年影の実力者 ?オスタ二人のご苦労さん会を関西支部の奥本会長、幹事( 安部君、金森君、笹岡君)、岡山のヒデ、石井君、小池君(木川、 オスタと同期)達10名でやりました。

関西支部としても二人には何かとお世話になったのでささやかな御 礼の気持ちをお伝えした次第です。
初日は午後集合して夜の焼肉会食、 翌日は大山登山組と出雲大社や松江の観光組に別れて行動し夜は地 ビールレストランでの夕食会、 最終日には大山寺周辺の観光後に御来屋漁港での美味しい海鮮丼を 食べて解散。

何時ものように夜は酒を酌み交わし学生時代の話や馬鹿話で大いに 盛り上がり、楽しい三日間でした。

それでは10月の熊ノ湯合宿で会いましよう!

がにまた会コンペ報告 (42 下村祥介)

ブログを拝読。 ハードボイルドを中心に米国文学についての広範な知識、 見識の深さに圧倒され、 浅学な小生は到底ついて行けず早々にギブアップしました。これを契機に少し勉強しておきたいと思いますが、 どこまで続くやら…。

さて、今週初めに同期15名が石和温泉に一泊、 翌日境川カントリー倶楽部でコンペを開催しました。 ぺリア方式でやったお陰で図らずも小生が優勝、 またも幹事になりそうです。べスグロは遠く愛媛から馳せ参じたベービー(宮脇君)が獲得。 一方、トミも驚異的に回復し、酒もゴルフも完走です。

前夜の宴会では我々も彼が持参した獺祭のおすそ分けに預かり、 皆で青春を謳歌しました。 次の集まりは10月中旬の志賀高原でのがにまた秋合宿です。 松本君やムスケ君も参加するようです。

 ゴルフはスコアよりも温泉付きで、飲みながらワイワイガヤガヤするのが楽しい年齢になっていますが、参加メンバー各位の名誉も若干尊重したいと思いますので、上位入賞者のみのネットスコアをご紹介させて頂きます。

①   下村(72.6)②村田トミ(76.0)③丸忠(76.6)④宮脇(77.0)⑤高橋(77.2)、杉浦真利子(77.2)でした。グロスでの上位は、①宮脇(95)、②丸忠(97)、③下村(98)です。

 

”ハードボイルド”文学について (その1)

僕は小学校の頃から本を読むのが好きだった。小学校時代は少年向けの名作シリーズがほとんどだったし、中学ではラグビーの練習が結構きつかったので、本格的に本を読みだしたのは高校へはいってからだった。シュトルムとかヘッセとかいう定番の名著を何冊か読み、次は”魅せられたる魂”か”ジャン・クリストフ”か、と考え出したころ、クラスのある仲間から、ミステリー小説、というのを吹き込まれた。明治風に厳格だった父親も旧制高校育ちの兄も”推理小説”などというのは悪書の一歩手前だ、くらいに思っていて、僕にも多少の躊躇はあったものの、彼(菅原勲)の勧めで、当時売れ始めた早川書房のポケットミステリで”矢の家”という作品を読んだ。1930年代、イギリスで高名な文学者たちがいわば手すさびに推理小説を書くのが流行だったころ、メイスンという高名な(僕はその本領を読んだことはないが)作家の書いた、典型的な本格推理ものだった。この本では、僕は話の筋よりも本の持つ雰囲気(とうことはいかに翻訳がよかったかということなのだが)にすっかり参ってしまって、そうか、ミステリも面白い、となり、次に手に取ったのがクリスティの”アクロイド殺人事件”だった。この本では、結末の意外さにただ呆然として、一瞬,本当に本を放り出したものだった。

この”アクロイド”が僕をミステリの世界に連れ込んだきっかけなのだが、それからはクイーンだ、カーだ、ヴァン・ダインだと名作をただ読み続けて、”ジャンクリ”も”魂”も”チボー家”も、当時のインテリ志向の人間には必読とされていた本は結局今日まで読まずにきてしまった。しかしある日、全く知らなかった”ハードボイルドミステリ”という存在に出会わなかったら、本格推理小説熱もいずれ冷め、純文学志向に戻って、今頃はひょっとすると斜に構えてドストエフスキーでも語るようなことになっていたもしれない。

さて、その”ハードボイルド”との出会い、である。

どういうものか、僕の人生で何かの転機、という不思議にたびたび登場するのが、慶應高校1年で同じクラスにはいった田中新弥なのだが(極め付きは義兄弟になってしまったことか)、ある日、(おい、これ、すごいぞ)と声を潜めるようにして教えてくれたのがミッキー・スピレーンの”裁くのは俺だ”だった。にくいことに彼はこの本の〝アイ・ザ・ジュリー”という原題をひけらかして、あたかもどうだ、わかんねえだろいうように僕の敵愾心?を誘ったものだ。何が”すごい”のか。何ということはない、ラスト数ページに展開される、犯人の悪女が探偵を誘惑して自分を見逃させようと一枚一枚服を脱いでいく、その描写の事だったのだ。今では中学生だって驚かない程度のシーンだが、当時としては、声を潜めていうくらいの衝撃だったのである。だがそれ以上に、この誘惑があっても動ぜず、冷然として自らこの悪女に銃弾をぶち込むラストはやはり強烈だった。今考えると、スピレーンの作品がミステリー小説というジャンルに入るのかどうか、疑問があるのだが、それはともかく、本の解説にあった、”ハードボイルド”という文学のカテゴリがあるのを知るきっかけを作ったのは間違いなく”裁くのは俺だ”だった。

これに続いてスピレーンの一連の作品が流行りだしたころ、また新弥が今度は”野獣死すべし、こいつはほんとにすごいぞ”と言い出した。一部によく知られている大藪晴彦の出世作である。読んでみると、たしかにそれまでに読んだ”推理小説”とは全く違った文体のものだった。しかしストーリーとして優れているとは思えなかったし、新弥が”すごいぞ”といった描写もたくさんあったが、読み終わってしまえばそれまで、というのが感想であった。大藪にはそのほか多数の作品があるが、いずれも暴力と銃器に関するマニアックな書き込み以外の印象はない。ただ、この本のようなスタイルの小説が”アメリカン・ハードボイルド”と言われるものだ、という事を知ったという意味ではひとつの転機ではあったようだ。しかし、まだ当時〝銃と酒と裸の女を書けばハードボイルド”、というような風刺もあって、この段階ではまだ巷間でも認知は低かったし、僕の読書性向を決めるものではなかった。

そこで、この”ハードボイルド”とは何ぞや、という議論になる。これは文学愛好者やその道の専門家にいろいろな説があるようだが、主に二つの面が指摘されている。

第一は、それまでのいわゆる”本格推理小説”、というものに対する一種のアンチテーゼとしての”推理小説”の書き方、という点である。”アクロイド殺人事件”に代表されるように、”推理小説”の主題は何よりもまず、フーダニット(WHO DONE IT)すなわち殺人の犯人は誰か、であり、それと表裏一体になるのだがハウダニット (HOW DONE IT)),例えば完全な密室でどうやって人が殺せたのか、その仕掛けは何か、ということにある。特に1930年代を中心に書かれたものはこの”ハウ”に重きを置くために、およそ現実性に欠ける環境やメカニズムを背景にするようになって、たしかに論理を追及していくというインテリ好みの面白味はあっても現実の世界では起きえないようなことが描かれ、物語の終わりになって、名探偵が関係者を集めてとうとうと論理を述べ、真犯人を名指しする、というのが定番になっていく。これに対して、もっと現実の社会に立ち戻って、平凡な警察官なり探偵が足を棒にして現場や社会の裏側を歩き、物証を集めて犯人にたどり着く。多くの場合、犯人もまた、平凡な社会の一員であることが多い、という流れができたのはある意味で当然であろう。このいわば推理小説の変化のひとつのかたちとして、主人公(多くの場合探偵あるいは警官)をより現実的なものにしていくと、今度はその主人公にどういう性格を持たせるか、にも視点がいく。それまでの名探偵はいわば一種の天才か或る種の変人であり、その私生活やら性格描写に力点が置かれることは少なかったし、読者の報も超能力者を自分の周りにいる人間とは期待しなかった。この”探偵の人間化”ということ、すなわち安楽椅子に座った推理機械と生身の人間との違いを考えていく過程で、より現実的な、ビジネスライクな、行動的な人物像が作られていくことになる。その中で、より”行動”と”自己主張”と”個性”とを強調した小説作法が作られていき、それにアメリカ的な個人第一の倫理とが加味されて”ハードボイルド・ミステリ”が生まれたのだというのが第一の点である。”ハードボイルド”という形容詞は今や推理小説の分野に限らず、社会通念の一つとなっているが、当初は必ず”アメリカン”という限定詞がついていたことも記憶されるべきだろう。

第二の点は、これは我々素人が云々できる範囲を超えているのだが、その文体、スタイル、にかかわることである。”アメリカン・ハードボイルド”を論じている文章にまず必ず引き合いに出されるのがヘミングウエイだ。それはハードボイルド作家の書き方の手本になったのがヘミングウエイの文体だということなのだが、このような議論はまず英語を母国語として多くの著書を読み、かつまたアメリカ文化を経験した人か、あるいはこの分野を専攻している文学者にして初めていえることであり、われわれ門外漢はそれを受け入れるしかない(所詮、蟷螂の斧とは知りながら、僕もヘミングウェイの文章を読んでみようと思い立ち、”Farewell to Arms”とか“The Sun Also Rises”など数冊に挑戦したことがある。第一次大戦後の世界意識の変革期、その時代の若者の不安や絶望や社会のありようはそれなりに心を打つものがあったが、さてその文体なりスタイルなりがどうだ、といわれてもこればかりは無理な話だった)。

この分野の専門家といえば、現代アメリカ文学者のひとり小鷹信光には”私のハードボイルド” ”ハードボイルドアメリカ”という文字通りこの問題に特化した2冊と、ほかにも関連として”アメリカ語を愛した男たち” ”ハードボイルド以前”などという著作があるし、ほかにも僕が目を通したものでいえば青木透”ハードボイルド”とか郷原宏の編さんになる”ギムレットには早すぎる”などは軽いタッチで”さわり”を解説してくれたものがある。もちろん、ほかにも参考文献はいろいろあるようだ。

しかし、”誰が為に鐘は鳴る”のヘミングウエイをハードボイルド作家だという人はいない。文体だけでなく、もっと違う文学としての価値があるからだ。そうすると、”ハードボイルド”といわれる作品には、文体以外にもなにか共通するものがあるはずだ。それは今、話をとりあえずミステリに限るとすると、これらの作品に登場する人物、主人公の人物の描き方にあるのではないか。アメリカン・ハードボイルドの作家と言えば、御三家ともいわれるダシール・ハメット、レイモンド・チャンドラー、そしてロス・マクドナルドがまず登場するのだが、そのチャンドラーの”長いお別れ(The Long Goodbye)”の中に、主人公探偵のフィリップ・マーロウが親友の警部に、なぜおまえはそんなにこの事件にこだわるのか、と言われてこう答える部分がある。

私はロマンティックな人間なんだよ、バー二―。夜中に誰かが泣く声が聞こえるといったらなんだろうと思って足を運んでみる。そんなことをしたって一文にもならない。常識を備えた人間なら……..他人のトラブルには関わり合わないようにつとめる……テリー・レノックスが死んだことを知った時、私はキッチンにいってコーヒーを作り、彼のためにカップに注いでやった……..そんなことをやっても一文にもならない。君ならそんなことはしないだろう。だから君は優秀な警官であり、私はしがない私立探偵なんだ…(村上春樹訳 ”ロング・グッドバイ”)

前に述べたように、”ハードボイルドとは何ぞや”については多くの専門家の意見があるのだが、一愛好者としての僕にはこの一節が”ハードボイルド”の真髄を語っているように思われる。ハメットは30年代のサンフランシスコを、マクドナルドは第二次大戦から現代までの、北部カリフォルニアを主な背景とした作品で知られる。チャンドラーの舞台は主にロスアンゼルスだが、時代背景はその中間にあたる。この三人が描こうとしたアメリカ、それも東部エスタブリッシュメントの社会とは違う西部の社会と人間模様はそれぞれに違っているのだが、ハメットがどちらかと言えば主人公の”ハードボイルド的”行動を中心に据えた、きわめてストレートな書き方なのに対し、チャンドラーは上記の一節に明らかなように、行動的ではあるがより人間的でありかつ性善説的な視点で優れた小説を書いた。マクドナルドになると戦後のアメリカ中級社会に起きて来た麻薬の問題とか家族崩壊と言った深刻なテーマが増える。それぞれにメインテーマは変わっているが、このマーロウの独白にこめられた思い入れは共通しているように思える。この3人についてはよく知られているし、特に”長いお別れ”はミステリの分野を超えて、現代英語文学の最高峰という評もあるくらいだから、これ以上云々することはやめよう。翻訳も清水俊二に名訳があり、ほかにも双葉十三郎、小鷹信光、などあり、最近、村上春樹が新訳を書き続けている。僕の好みとしては清水訳が一番好きだが。

蛇足だが、この3人の大家の作品はいくつかが映画化されている。僕らの時代に公開されたものとしては、チャンドラーのマスターピースのひとつ”大いなる眠り (TheBig Sleep)”が”三つ数えろ”というタイトルで、かのハンフリー・ボガートとローレン・バコールの主演で、またもうひとつ、”さらば愛しき女よ(Farewell my lovely)”がロバート・ミツチヤムの主演で作られている。ローレン・バコールについては今更言うまでもないが、この”さらば”の悪女で出たシャーロット・ランプリングの妖しい美貌は忘れられない。”長いお別れ”もエドワード・グールドで出たが、原作に忠実でないし、何しろミスキャストで期待外れだった。ハメットの代表作”マルタの鷹”もボガート、マクドナルドの”動く標的(The Moving Target)”はポール・ニューマンが主演している。この中では、何といっても”さらば”がロマンチックな雰囲気と音楽がミツチヤムの茫洋とした演技とあいまって、素晴らしかった。いずれもまだDVDで版があるはずだ。

長くなったがここまでが書きたいことの前段というか前提である。僕も大学時代はこれでもかなりまじめに専攻した社会思想史の文献を(山とスキーの合間を縫って、である、もちろん)読んでいたし、会社勤めが意外なことに外資系になったためにそれなりの負荷もあって、余暇に読んだのは、その乾いた文体が好きだった五木寛之とか、歴史の知識を広めるための手っ取り早い手段として司馬遼太郎をよみあさったくらいであった。本来の趣味としての読書にのめりこんだのはむしろ退職後のことであり、その退職後のいわば生きがいのひとつとして、”ハードボイルド文学”とのかかわりあいをこれから書いてみたい。

 

 

8月度月いち高尾報告 (39堀川)

8月29日火曜、残暑厳しい中11名参加で8月度Wを実施。いつもと違いJR高尾駅北口集合、バスで小仏までいき、その後2コースに分散。

景信山/小仏峠へ行ったのは36年翠川、遠藤、鮫島の3名と堀川。私(堀川)はワイフの病後のケアで8,9月は泊りがけで行く山行は控えており、フラストレーションが溜まっていて「今日は歩くぞ!」と気合十分。出だし好調、爽やかな風も味方してくれている。ほぼ、コースタイム通りに景信山登頂、でも、暑い、暑い!!先輩方に保冷剤で冷やして持ってきた西瓜を振舞って、おおきに感謝された。

小仏峠に直接登る楽々コースの7名は吉牟田、蔦谷のもとで、コースのイメージ通り、ゆっくりと登る。途中で椎名さんが俺、もう帰る!と喚かれたとの噂もあるが、城山までなんとか頑張ったところ、その頂上春美茶屋(ご主人が鮫島さんの森林ボランティアの指導者)には、なんとなんと!! カキ氷があるではないか。ほとんど全員がこのボリュウム(写真は3分の1ほど食べた状態)を満喫。シロップは掛け放題で500円。この暑さには何よりのご馳走で何十年ぶりに、子供が小さかった時以来と、感激ひとしおの方も。・・でも、こんなところにカキ氷、本当にびっくりだった(もちろん、なめこ汁もあった)。

大休止のあと、全員で高尾山方面へ。下りは快調に進むも、もみじ台手前の鞍部から距離にして600㎡弱、標高差約150㎡の登りはきつい! まだまだ夏草が生い茂りむせかえるような草の匂い。正に夏山だ!結構ふらふらになりながら細田小屋に到着。しばし休憩。此処からは無理せず、出来るだけ水平に行けるように巻き道を利用して薬王院からケーブル山頂駅へ向かい、ケーブルで下山する8名と高尾山口駅まで歩き通すという3名に分かれて行動。

そしてもちろん、最後は久しぶりの「天狗」が待っている。4時40分無事に全員集合。乾杯!!!

今回の参加者は下記のとおり。ご苦労様でした!

(35年)平松、椎名 (36年)翠川、吉牟田、遠藤、高橋、鮫島、(38年)町井、(39年)多田、蔦谷、堀川

 

(堀川あとがき)

昨年までは8月はお休みでしたが・・・敢えて、開催することにしました。暑さのことも考え8月後半にし負担を少なくしたつもりですが想定外の暑さ(蒸し暑い)に参りました。熱中対策は各自工夫をされていましたがコースも少し長かったかもしれません。幹事役としてはエスケープルートの研究、バスの時刻表等の資料を整備しておくことを痛感しました。携帯電話が繋がりにくいことも肝に命じました。なお、9月の月例は9月20日(水)です。未定ですが、薬王院で精進料理を食べようかと思っています。

ナンカナイ会 夏の集まり (36翠川幹夫)

卒業時60数名居たワンゲル同期生仲間も事故や病魔に襲われて、50名を割っている(正しくは48名)。我々の年次は偶々だが90%以上が首都圏在住で、新年とお盆時期に年2回の「例会」を持ち、30人前後が集まって同じような話を繰り返しながら語り合っている。野外では、昭和40年代初めから始めたゴルフも数名から十数名で今でも延々と継続し、高尾山など近郊の野山にも月1回程度集まって出かけている。登山や スキーはワンゲル全学OB会で合宿形式で運営されているが、流石に我々年次の参加 人数は減って来た。

そんな中で昨日(8月24日)、都内、四谷で「夏の集まり」と称する例会を開催、28名が集まったが他に一人、日程を間違って(翌日と勘違いして)no-show。特に話題が ある訳ではない。3~4卓の丸テーブルを回りながら、最近やったこと、見たこと聞いたことなど語り合い、聞いた話は後で全て忘れてしまうような時間を過ごしている。次は来年早々の「新年会」である。

八ヶ岳山麓だより その2

全国的な天候不順の今年は八ヶ岳山麓でも同じで、僕らが滞在したほぼ1ケ月の間、快晴の日は一日もなく、毎日が曇天と小雨模様の連続、何しろ甲斐駒が満足に見られたのはほんの2,3回にすぎず、やる気の出てこない夏があっという間に終わってしまった。一方で張り切って持ち込んだ本もあまり読まず”中級”をめざすはずのドイツ語の勉強もしなかった。天気のせいにしてはいけないのだが。

しかし今回は前から思っていたのだが、近くに拠点を持っているOB仲間との交流の機会があったのは嬉しかった。47年の吉田学夫妻とは3年ほど前、全くの偶然からハイキング中に出会い、昨年、拙宅に来てもらい今年は彼らの素晴らしいヒュッテにご招待を受け、同じワンダー夫婦の会話を大いに楽しむことができた。また42年の下村祥介君とは一昨年の夏合宿で同じパーティになってお互いが近隣であることを知ったので、これまた再会を企画していたのだが、今年、彼の音頭取りで”八ヶ岳山麓会”というのが企画された。第一回のことなので、蓼科にいる41年の久米夫妻、それとゴルフにやってきた40年の藍原、武鑓両君とが集まる手はずになっていたのだが、何と当日朝、僕の持病の食道炎が突如発病して誠に残念だが我々はドタキャンをさせてもらう羽目に陥ってしまった。誠にお恥ずかしく申し訳なかったが、大変楽しい時間だったと連絡をもらった。ぜひ、この輪が広がればいいと思う。

(下村君から)

昨日は藍原さん、武鑓さん、久米ご夫妻と梅蔵で昼食、 その後小生の原村山荘でワインなどで歓談。 楽しいひと時を過ごすことができました。 ジャイさんご夫妻のいらっしゃらないのが画竜点睛を欠くきらいが ありましたが、先輩・後輩、 同じ釜の飯を食った仲間で昔ばなしに盛り上がり朱夏を謳歌した次 第です。

(武鑓君から)

お会いできるのを楽しみにしておりましたのに残念でしたが、 残りの仲間で美味しいイタリアンと下村邸での楽しい一時を過ごさせてもらいました。
また、機会ありましたらよろしくお願いします。
逆流性食道炎は小生も胃手術の後遺症で時々なりますが、 辛い症状です。
お大事にして下さい。

(藍原君から)

「頑健」のイメージしかジャイさんにはありませんでしたが、神様の風がどんなふうに吹いたのでしょうか?

兎に角残念でした。私は後輩たちに囲まれてご機嫌で酒を飲ましていただきました。又の機会を期待しながら、早急のご快復を祈っております。

勝手に”八ヶ岳山麓”などと言っているが、ここでは北の蓼科山から南の権現岳までの連峰のいわば信州側に広がる地域を意味していて、佐久側はおおむね清里あたりまでが我々のゲビートにあたる。一番北にある蓼科温泉を中心とする歴史のある別荘地域には、32年の荻原先輩をはじめ、35年の徳生さん、46年の石渡(つまりオスタである)夫妻、それと同じ”蓼科”という文句を謳っているももの実はだいぶ離れたところになるのだが、三井の森、と呼ばれる高級別荘地に前記の下村君と久米君夫妻が、甲斐大泉、小泉につながるいわば新顔の地域に同じく前記吉田君、41年の佐川君夫妻とわれわれの家が点在する。ほかにもこの地域に拠点を持たれているOBがおられればぜひコンタクトができればうれしい。

”平成の大合併”までは高根(清里もその一部)、長坂、小淵沢、明野、などと言われていたこの地域は今や北杜市、とよばれるようになった。僕らの家はその西端、長野県との県境といっていい場所にある。先月書いたようにこのあたりは武田信玄(37年初田君によれば、この地では”信玄公”と言わなければならないそうだが)の信濃攻略の足場だった地域で、大河ドラマ”風林火山”の山本勘助を思い出すし、また”真田丸”のバックでもあるというわけで、ほぼ15年通ったおかげですっかり甲州の地びいきになってしまった。それと言わずもがなだが、山梨は日本におけるワインの産地であり、さらに塩尻あたりにかけては新しい感覚を持ったワイナリーがたくさんある。あまりむずかしいことはわからないのだが(田中新弥や浅海昭あたりは僕が酒を語ることすら笑い飛ばしてしまうのだ)、それでも最近名前の売れて来た地元の ”高級” ホテル”、”小淵沢リゾナーレ”の地元ワインの専門店でもっともらしい顔をするの楽しみも増えた。

さて、この”北杜市”のことだ。地元山梨の天気予報では、”大泉”という地名がつかわれている地域、JRでいえば小淵沢駅から小海線甲斐大泉駅のあたりは、はっきり言えば、見かけ、蓼科や諏訪、さらには富士見あたりに比べてもだいぶ ”ローカル” という感じをまぬかれない。僕らのいるのは”白樺平”という名前の一応 ”別荘” 地域だが、全域を見渡しても白樺はほとんど生えていない。むしろ”ミズナラ平”とすべきだ、と思っているのだが、バブル期に一攫千金を夢見た業者の誇大広告の典型だろうか。地図を見ると一応200戸近い名前があるのだが、その半分以上は売れたまま、中には持ち主と連絡が取れない、というものがあるようで、いわば買ったほうも転売目的の投資だったのだろう。そんなわけで、当然のことだが、蓼科などの大規模別荘地にあるセンター的な施設は全くないから、日常の買い物も当然として、外食するとなるとあちこちに点在する小さな店を探して歩くことになる。前記の”山麓会”は下村君の企画で、だいぶ蓼科に近い一角にある、かなり名の売れたイタリア料理店でやったのだが、長坂から小淵沢にかけては、何元かのそばやを除くと、安心して(というのは妙な言い方だが)食べられる場所はまずイタリアンが多い。和食の店もいくつかあるが、正直、甲州名物のほうとう料理をのぞくと鮮魚には恵まれない地域でもあり、15年通ってもほんの数回しか食べた記憶がない。中華も同じである。一昨年まで、日比谷発祥の中華料理の老舗があって、愛用していたのだが、去年から(どうも経営者が変わったらしい)すっかりその面影がなくなってしまったのは悲しい。

なぜイタリアンか。フレンチにくらべて日本人に相性のいいということもあるだろうが、多くの店が非常に若い人がやっていて、脱サラ組も相当いるところを見ると開業にあたってのバリアが低いのではないか。それだけに、結構出入りも激しい。数年前、近くにオープンした若い夫婦の店もいつの間にかなくなったし、やはり現実は厳しいのだろう。しかし例外もある。中央高速のインターに近いピザハウスは典型的な脱サラで、主人は必死の覚悟でイタリアへ勉強に行き、この地で開業したということだ。僕らも以前、この地を徘徊していたらしい横山美佐子のお墨付きがあったので、当初から愛用している。ドロシー・マローン(知らねえだろうなあ)によく似た、感じのいい奥さんとふたり、いつもキチンにいたものだが、大繁盛で数年前に増築し、いまではコックも3人ほどいるし、主人夫婦は一線を引いて悠遊の生活だ。大手の進出はないし、今では地元の大立者、という感じである。

こういう厳しい現実もあるが、このあたりにはこの15年間、全く同じたたずまいで、しかも我々が前を通ってもまず客らしきものをまずみたこともない、という店もある。また、飲食店ではなく、美術工芸関係の小さな店が多いのもこの辺の特色だろうが、そのような店、あるいはギャラリーという名を冠しているところも、およそどうやって商売になるんだろうかと他人事ながら心配させながら、いつ行っても堂々とオープンしているところも多い。このようなあり方と、一方では脱サラ大成功例を見るにつけ、一応は大企業と呼ばれた社会しか知らない僕には日本人のしたたかさを改めて教わる気持ちがする。

このあたりはあと3週間もすれば、すっかり秋になる。10月には紅葉も見事だが、メインの通りを外れて南側、釜無川近くの野良に出ると、”実りの秋”と日本の原点を実感させてくれる農村部のたたずまいが僕を呆然とさせる。その向こうに、甲斐駒、アサヨ、鳳凰、間に北岳、振り返れば編笠、権現。早ければ新雪もみられるかもしれない。夏が期待外れに終わっただけに、秋の日が待ち遠しい。

私のC&W

(伊川望 47年)

私たちの年代(?)ではカントリー&ウエスタン(C&W)( 俗称鼻にかかった歌声が特徴?)と称し、銀座5丁目の「ナッシュビル」に時々通い、 ハットとブーツに憧れておりました。

背負子と交換でネスケから入手した5弦バンジョー( 最後までチューニングが上手くできませんでしたが…)を抱え、浮かれていたバブル期を懐かしく思い出しました。

ジャイさんが西海岸で活躍されていた時代に、 私はバブルの恩恵を全身に浴び、疲れ知らずの日々( 連日連夜のお付き合い)を過ごしておりました。

次のブログを楽しみにしております。

伊川拝

追伸①長い間「ウィリアムハンク(?)のユアーチキンハート(? ?)」と思い込んでおりました。

追伸② ナッシュビルで最後に見たステージは高木ブーのバンドでした。

追伸③写真の掲載も如何でしょうか( 例えばグレンキャンベルのジャケットの写真があれば…)

追伸④「アカズの山歩き」も中々面白いブログです。クマ、 アカズ夫妻の“馬鹿が付くほど”の体力には呆れますが…

 

グレン・キャンベルのこと                 

(菅井康二)

グレン・キャンベル追悼をご自身の米国(カリフォルニア) 滞在経験に照らして書かれた記事を非常に興味深く拝読しました。 Giさんとは15年という年齢差もあり当時の米国の事情というか 空気感は知る由もないのですが、アメリカが変わった( 古き良きアメリカが喪失)ことをボブ・ ケネディー暗殺事件が象徴しているというのは納得できます。

その容貌からも歌声からも明らかな善人を感じさせるグレンが歌う 失恋歌であるBy the time I get to Phoenixに漂う哀感は単に個人的なハートブレイクだけでは なく当時のアメリカの世情も反映されたものであることがGiさん の文章で良く分りました。この曲は元々はジョニー・ リヴァースが創唱しましたが、作詞・作曲したジミー・ウェッブ( ”Wichita Lineman”も彼の作品)の才能も大したものだと感じます。

フランク・シナトラはこの曲を “the greatest torch song ever written.”と絶賛しカバーした録音を残していますが、 グレンの若々しい歌に比べるとジャズ・ フレーヴァーのある落ち着いた大人のバラードになっています。 グレンの歌はついこの間のほろ苦い失恋という雰囲気ですが、 シナトラのそれはかなり昔の追憶という感があり比較して聞いてみ るとなかなか面白いです。

(菅井君は塾工学部計測科卒、HP時代の仲間でPCに関してのプロです。今回の小生の暴挙?の面倒をみてくれています)

By the time I get to Phoenix

8月10日、朝の読売新聞がグレン・キャンベルの訃報を伝えた。1937年生まれ、ということだから僕と同い年である。新聞記事では”カントリーソングの大御所”、と書かれていたが、僕にはそういうありきたりの形容詞には収まり切れない、特別の感情がある。

1967年、生まれて初めてアメリカの土を踏み、2週間モーテルでの仮住まいのあと、新聞広告で探し当てたデュープレックス、日本でいう二軒長屋に落ち着き、船便で送った家財道具が何とか届いて、どうやら生活が始まったちょうどそのころ、あの, By the time I get to Phoenix を聞いた。初めて聞いたのがラジオだったのかテレビだったのか、今では記憶がないが、とにかく心にしみるメロディーだった。この曲があっという間に大ヒットし、一躍有名になって、ラジオの定番になっていた大きなシリーズ番組(エド・サリバンショウだったか?)でキャスタが夏休みのあいだ、その代理に彼が抜擢されたことを覚えている。

実はカントリーソング、という用語が何を指すのか、僕にはよくわかっていない。昔からカウボーイソングとかウエスタンミュージックと呼ばれていたものと、ヒルビリーとかブルーグラスとよばれるアパラチアの鉱山地帯からグレートスモ―キー山脈のあたりの人々の歌、その代表がいうまでもなくハンク・ウイリアムズなのだろうが、そういういわばアメリカ人の演歌、といえばいいのだろうか。それはもちろんカリフォルニアでも人々の愛好するものだが、ジャズでもウエストコーストジャズ、というのが独立したジャンルで扱われるように、この”カントリー”にもそのような、いわばシティ感覚でとらえたものがあって、キャンベルはその文脈のなかにあらわれるもののように思える。

アメリカ到着早々に月賦で買った車はとにかく金がなかったからエアコンもつけなかったが、さすがにラジオはあったので、まもなくKEEN,というラジオ局があるのを知った。アナウンサがKEEN,というコールサインを ”キーン”と発音して”Radio KEEN, 24 hours country music station”とアナウンスしていたから、車に乗ればまずこのチャネルがつけっぱなしになった。この局では当時、バック・オウエンスの曲をよく流していた。今考えるといわゆるベイカーズフィールドサウンド、という奴だったのだろうが、やはり素人の耳にも伝統的なカントリーとはどこか違う、都会的なセンスが感じられた。だが、キャンベルの”フェニックス”には、そのほかのいろんな曲にはない、うまい形容詞がみつからないのだが、ほんのりとしたぬくみ、カントリソング定番の失恋話をテーマとしながら、それを超えた人々の間の共感というようなものがあるように僕には感じられた。

住み始めた長屋にはちいさな裏庭があったが、右隣が学校の敷地でプラタナスの樹とクリンプ塀で仕切られていた。その塀の上をつたってリスがよく現れた。東京では考えられない環境であったが、異国で初めて迎える深い秋の日差しの下に醸し出される平和な時間に、憂愁を帯びたあの”フェニックス”のメロディがピッタリ調和していた。あの歌詞には、常に何かを追い求めて動き続けるアメリカ人の、いわば業とでもいえる人生観と、一方ではその中にしみこんでいかざるを得ない一種の諦観と、最後にそれを自分の事だけでなく、(おお、お前もそうだったのかい、こっちへ来なよ)というような仲間意識、つまり、良き、懐かしきアメリカ人の、というのが、いい過ぎならばカリフォルニア人の、感覚がにじんでいるのだと思われる。

当時はアメリカ自体がベトナム戦争で疲弊し、特に僕の住んでいたサンフランシスコ周辺は反戦運動の聖地であったわけだから、そういうメランコリックな雰囲気もいつの日か失われるのでは、という予感があった。果たしてある朝、ロバート・ケネディ暗殺の報が飛び込んできて、会社でも異様な緊張感が感じられた事を覚えている。この事件を境に、アメリカの変質が始まった。その後、仕事を辞めるまで、カリフォルニアは常に僕のそばに意識されていたが、”フェニックス”を聞きながらに感じていた、あの秋の日の、よきアメリカは戻ってこなかった。いま自分が人生の黄昏にかかろうとするときに、ほんのりと思い出されるものが僕らが垣間見ることができた、good old Americaの中での時間であり、グレン・キャンベルなのである。だから、僕は”恋のフェニックス”などというまったく馬鹿げた、おざなりの日本語タイトルは気に入らない。というより憎悪を感じる。僕にとって、グレン・キャンベルのこの曲は、あくまで、By the time I get to Phoenix でなければならない。

さよなら、そしてありがとう、グレン。