Sneak Preview (最終回)  ロンドンの思い出  (44 安田耕太郎)

このシリーズは44年安田耕太郎君が執筆中だった旅行記の紹介として掲載してもらってきた。彼の努力が結実、”アポロが月に到達したころ、僕は世界を歩いていた” がこの夏には刊行される予定が立ったとのことなので、今回をもってピリオドを打つ。僕が滞米中、彼ともう一人、39年の石谷正樹君が全米横断の途次、拙宅によってくれたし、野郎会の森永夫妻、アサ会の林田先輩、親友翠川夫妻などにも来ていただいた。日本とKWVが世界に目を向け始めた時期だったのだろう。

僕ら二人はカリフォルニアしか知らないが、その間、ケネディが築き上げた、よきアメリカがものすごいスピードで変貌してしまうのを見つめていた、それなりの感慨が蘇る。もういちど、センチメンタルジャー二―を敢行すべきか、僕らの大好きだったかの国のことはほんのりとした記憶のままにしておくのがいいのか、ぼんやりと考えることがある。

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ベルギーの港町オーステエンデから4~5時間はフェリーに乗っていたと記憶する。イギリスの陸地が見えてきたが、切り立った白い崖は何キロにも亘って続いている。

(ドーバー海岸の白い崖)

やがてドーバーには夜の帳が下りる時刻に入港。入国手続きを行い、イギリスポンドに両替する。ドーバーに一泊して翌日ロンドンへ向かうことにした。時は1969年10月であった。アメリカ以来、半年以上ぶりの英語圏だ。

入国早々何を見るまでもなく気づき驚くことがあった。物価がとてつもなく高いのだ。当時ポンドと円の交換レートは固定相場1ポンド1008円であった。今日ポンドはおおよそ140円である。単純に為替変動による貨幣価値でいうと、円貨で生活する日本人にとって物価は今より7倍以上高い勘定になる。とにかく食料などすべてが高いと感じた。

ロンドンの高級ホテルなどは一泊の部屋代が日本の大学卒初任給の一月分にも相当もしていたと記憶する。日本がまだまだ貧乏で、海外旅行など高嶺の花だった時代である。ユースホステル以外泊まれないと思ったものだ。

勿論ではあるが気がつけば車は日本と同じ左側通行だ。ヨーロッパではスウェーデンが2年前の1967年に右側通行に変更したのでイギリスだけが唯一の左側通行の国になった。日本を離れて一年半ぶりの左側通行だ。信号を渡る時まず車が来る方角、自分の右側を無意識に見るようになるまでしばらく時間を要した。

ロンドンのような大都市はヒッチハイカーにとって苦手な相手だ。その困難さはヨーロッパではロンドンとパリが双璧だ。町に入る時も出る時も共に目的場所への道筋と距離がつかめない。町が大き過ぎて迷うのだ。土地勘は全くない。市内では降ろされた地点から目的地(ユースホステルの場合が多い)までは公共の交通機関を使う。町を出る時も目的地へ通ずる道路を探し出して、ヒッチハイクできる郊外まで行かねばならない。東京の銀座から大阪までヒッチハイクする場合の困難さ、無謀さを想像すれば容易に理解できる。

ドーバーから乗った車はロンドンの市内にはいり、町の南に位置する鉄道のヴィクトリア駅前で降ろされた。地図と格闘したあと地下鉄に乗って、ユースホステル最寄りの駅まで行き、歩いてホステルへたどり着いた。場所について記憶が定かでないが、ハイドパークの近くであったのは覚えている。二段ベッドが4つある狭い部屋をあてがわれた。いびき、話し声など山小屋と同じだ。男女相部屋だ。ワンダーフォーゲル部の経験が活きる。ロンドンを出る時は地下鉄で北の郊外まで行ってから、ヒッチハイクした。

1960年代のロンドンはSwinging London(スウィンギング・ロンドン)と呼ばれファッション、音楽、映画、インテリアなどを中心にした若者文化が開花し、活気にあふれたストリート・カルチャーが一世を風靡して、このロンドン発のソフトパワーの文化大革命は津波のように世界に広がっていた。野球のバットやゴルフのクラブを振ることをスウィングするというが、ジャズ音楽の「躍動感」や「ノリ」を表現するときにも「スウィングする」という。まさにロンドンが「スウィング」躍動していた時期だった。

象徴的なアイコンはビートルズ、ミニスカート・モデルのツイッギー、007ジェームス・ボンド、ヒッピーの聖地ともいうべきカーナビーストリート(Carnaby Street)など。

(カーナビ―ストリート)

伝統の香りが色濃く残る古い街並み、山高帽子にスティック片手に歩く英国紳士と、時代を先取りしたこのサイケデリックな若者文化の新旧混在が当時のロンドンを特徴づけていて大変興味深く感心した。1966年自国開催のサッカー・ワールドカップ決勝で西ドイツを破り悲願の初優勝した余韻が、まだ残っている勢いと活気が街に充満していたロンドンの雰囲気を味わうことができたのは幸いであった。大英帝国の残照が光り輝いている感じがした。EU離脱ブレグジットで混迷を極める今日の姿とは大違いだ。

市内を走る赤い2階建バスと黒塗りの屋根の高い箱型タクシーには、やはり英国とロンドンに来た事実を感じさせられる。少しは通じるはずの英語に戸惑う。米語と違う抑揚と発音に慣れず、しかも格調高く喋っているように聞こえ気押されてしまった。地方に行けばもっと聞きづらかった。スコットランドの田舎では方言が強くこれが英語かと思うことが何度もあった。

ロンドンには一週間ほど滞在した。帰りにも再度立ち寄る予定だ。ロンドン滞在中は地下鉄と徒歩が移動手段。大英博物館、ロンドン塔、ウエストミンスター寺院、バッキンガム宮殿、ナショナルギャラリー(国立美術館)、テート美術館、ハイドパーク、コベントガーデンなどを訪れたり散策したりした。中心街をよく歩き、日帰りでウインザー城にも電車で行った。まずはお上りさん旅行者としてガイドブックが一番の友達だ。

大英博物館の最も印象に残った展示品を挙げると、ロゼッタ・ストーン(Rosetta Stone)。エジプトのロゼッタでナポレオン遠征軍が1799年に発見した紀元前2世紀の古代エジプトの石碑。ヒエログリフ(神聖文字)を含む三種類の文字で同じ内容が記述されている。ヒエログリフ解析のきっかけとなった発見であった。発見された直後、1801年、イギリス軍がエジプトに上陸してフランス軍を降伏させ、それ以降ロゼッタ・ストーンはイギリスの所有物となり、大英博物館で公開されることとなった。しかし、現在ではエジプトがその所有権を主張しているがイギリスは受け入れてない。パリのルーブル美術館でも感じたが、英仏両国の帝国主義時代における海外遺産の持ち帰り(略奪)は凄いとしか言いようがない。

ロゼッタストーン

テート美術館の絵画ジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」、光を大胆に取り入れた鮮やかな色彩のターナー絵画も印象的だ。ナショナルギャラリーのレオナルド・ダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」、カラヴァッジョの「洗礼者ヨハネの首を受け取るサロメ」、ゴッホの「ひまわり」(2020年現在、滞日中)、なども忘れがたい。

世界的な価値は低いが大英博物館にて、明治11年(1878年)5月14日、明治の元勲内務卿(現在の首相に当たる)大久保利通が東京の紀尾井町(現在のホテル・ニューオータニの裏手辺り)で暗殺されたニュースが、記事となって載ったイギリス現地の英字新聞が展示されていたのにはびっくりした。流石イギリスと感心しきりであった。

1863年(文久3年)開通の世界最古の地下鉄(Underground、あるいはTubeという)の古めかしさにはびっくりしたが市内くまなく網羅していて、東京山の手線のような環状線と併せると市内であればほぼどこへでも行けた。地下鉄は筒状の形状をしたトンネル内を走ることからTube(管、筒)といわれるのだ。地下鉄の車両は、丸い天井は両端になるに従い低くなるので長身ぞろいのイギリス人には窮屈そうだ。

ロンドンで気づくのはやはり多国籍人種。世界の覇権を握っていた大英帝国時代の旧植民地からの移民が目立つ。アフリカの黒人諸国、インド、インドシナのマレーシア・ビルマ、香港出身中国人、カリブ海の西インド諸島諸国と多士済々だ。北アフリカのアラブ系とアフリカ黒人諸国、インドシナのベトナムとカンボジアのフランスに比べると人種の多様性の幅が大きい。アメリカのニューヨークよりさらに国際色が豊かだ。

 

エーガ愛好会 (11) 眼下の敵

ここのところ、BS3劇場 常連のわがパートナーには、どうせ、戦争映画でしょ、と一蹴されてしまったが、第二次大戦欧州戦線の史実に興味がある編集子にとっては見逃せない一作。先週の シェナンドー河 に引き続き、”悪いやつの出てこない映画” でもある。”潜水艦映画にはずれはない” というギョーカイのジンクスもあるようだが、かの レッドオクトーバーを追え は米ソ冷戦時期の話で政治的背景やらやり取りも伏線になっていた。このジャンルでかかせないドイツ映画 Uボート はナチ政権下での話で潜水艦という極限の密室での人間ドラマとして重苦しい映画だった。最近売り出し中のジェラルド・バトラー主演の ハンターキラー は今度は現在のロシアの混とん状態が背景になっているが、ハイテク筋の作品として別の意味で面白かった。ただ潜水艦内部の描写はあまりにもテクニカルで2作に比べて人間味に欠ける。しかし素人目にも、そのテクニカㇽぶりが レッドオクトーバーに比べてずいぶん違ってしまっていることは明らかだし、まして 眼下の敵 のものとは隔世の感があるのは当然だろう。

今回はとりあえずわが愛好会では人間グーグルと呼ばれ(命名者不明)事実確証には定評のある安田耕太郎の解説から始めるとしよう。

(安田)南大西洋で行動中の米駆逐艦 ヘインズ の新任艦長ロバート・ミッチャムはFeather Merchant (羽毛商人- 兵役忌避者)と乗組員に陰口をたたかれるほど戦意が無いようにみえた。ところが、終わってみれば恰好良すぎるくらいの艦長振りであった。その辺の変わりゆく艦長振りがまず見どころ大であった。

駆逐艦はソナー(asdic)から電波を発して海中の物体があれば跳ね返っくる時間によって潜水艦の存在と位置を把握できる。それに対して、潜水艦は気泡発生装置から海中に気泡を放出してソナーからの電波を気泡に当てさせ、潜水艦の位置を攪乱させる。潜水艦の位置が全く分からなくなるのは、駆逐艦の真下に潜り込みソナーからの電波を無効にするか、海底にへばりつき、ソナーの電波が海底に当たったように思わせることである。「眼下の敵」では潜水艦は海底にへばりつき、駆逐艦側は位置を見失う。ところが、海底深く潜航すると、当然水圧が高くなり、潜水艦内のバルブなどが水圧で吹っ飛んだりして海水が艦内に入ってきて、乗組員はパニック状態に陥る。また、艦内の温度が上昇して暑くて汗みどろで不快極まりない。さらに、駆逐艦には聴音機なる装置で、潜水艦艦内の微音でも把握して位置を特定することが出来る。水中では音はより鮮明に聴こえるのだ。それで、潜水艦内では乗組員は話せない、物音を出せない。足音も立てられないという極度の緊張を強いられる状態に陥る。ストレスが溜まり戦意を喪失していくのである。

この様なパニックに近い乗組員の緊張状態を和らげるクルト・ユルゲンス潜水艦艦長の行動が振るっていた。ドイツの有名な行進曲をかけ、皆に声をだして歌わせ、「俺が皆を助けるのが仕事だ、皆。俺を信じるか」とリーダー振りを発揮する。乗組員は皆勇気づけられる。当然、ローバート・ミッチャム側の駆逐艦では音楽を感知して潜水艦の位置を特定する。「敵は随分余裕があるではないか」と錯覚させられる。

この様な虚々実々の秘術を尽くした心理戦を含んだ戦闘のなかで、お互い見えない敵の両艦長の間に敵ながら相手に敬意を払うある種の同志意識みたいな気持ちが芽生え始める。ラストシーンに繋がる演出ぶりが心憎いほどだ。
ユルゲンス艦長はナチス嫌いの戦争反対派。乗組員がヒトラーの「我が闘争」を読んでいるのをみていやな顔をする。また、艦内に掲げられた「ヒトラー総統の命令に我々は従う」の独語の標識には不機嫌に布をかぶせる。一方のミッチャム艦長も、Feather Merchantと思われたほどだから、戦争反対派。

しかし、両艦長ともいざ艦と艦の一騎打ちとなると、スポーツゲームの勝負に徹底的にこだわるが如く、戦闘には勝ちに行く。戦争に勝つ、祖国の為に・・・などとは全く無関係なように。映画の最後は、両艦双方損傷を負い痛み分けの引き分けで終わる。亡くなった潜水艦の副艦長の死に敬意を表して駆逐艦上で米・独の敵味方乗組員が同席してドイツ式の水葬を行う。

戦争映画でありながら、戦闘場面の悲惨さは全くなく、戦闘シーンの描き方は技術的に観ていて面白いし、潜水艦の特徴も理解できた。死と隣り合わせの極限状態に置かれた艦長と乗組員の人間模様の描き方も、温かさに溢れていて気分がスカッとする面白い映画であった。お知らせいただいたコブキ姉様に感謝。

(保谷野)眼下」というのは少し変だと思って調べたら、やはり原作は「水中の敵」でした(編集子注: 原題 Enemy Below)。(知らない人は戦闘機と軍艦の戦いだと勘違いしそう?)ただ、「水中の敵」では迫力ないか?日本語の妙ですね。

私は2回目でしたが、駆逐艦VS潜水艦そして、魅力的な2人の艦長・・・結構楽しめました。しかし・・・(疑問) あれだけ優秀なUボート艦長が、何故、簡単なトリック(駆逐艦の偽火災)に引っかかったのか。(そのため、致命的な5分の猶予を与えてしまった。)

さて、現代ならどうでしょう。原子力潜水艦にはどんな軍艦でも勝てないのでは?深海から水中ミサイルを発射されたらお終いでしょう。いや、迎撃水中ミサイルという手はあるか。まあ、そういう時代が来ないことを祈ります。

(安田)保屋野さんのご尤もな疑問は、当時の海戦の戦闘(battle)における了解ごとに関係していると思います。

敵の艦が大きな損傷を受けた場合、その乗組員を艦から退避させて救命するのが、いわば戦闘(battle)の紳士的ルールでした。ですから駆逐艦側は大火災(致命的損傷)と見せかけて、乗組員を退避させるに必要な時間(5分間)を敵方に与えさせるように謀ったのです。ルールに従って、その間には敵の潜水艦は更なる攻撃を仕掛けてこないことを見越して、時間を稼いで反撃に出る。少し狡い頭脳作戦ではありましたが、潜水艦に損傷を与え痛み分けに持っていくことが出来ました。映画Directorはその辺も計算ずくで勝負の行方を二転三転させて、最後は引き分けのノーサイドで終わらせたました。

(編集子)安田記事にもあるが、この映画のエンディングが素晴らしい。救助にきた米艦の船尾で、ミッチャムとユルゲンスが煙草を吸いながら航跡を見つめている。ミッチャムは(想像だが)ドイツ軍潜水艦のために失った妻のことを、ユルゲンスは親友ハイ二のことを考えていたのではないか。ユルゲンスが冗談めかしてミッチャムが投げたロープに感謝し、この次はもう投げないぞ、という返答に、いや、君はまた投げるよ と暖かい視線でいうのだ。もし、配役がミッチャムでなく、例えばジェームズ・スチュアートとか、ジョン・ウエインだったら、同じセリフを言ったとしても感じは違っただろう。この映画の時のミッチャムはまだまだ若いが、後年の男の渋さを感じさせる演技を約束するような、人間味のあふれるシーンだった.

エーガ愛好会 (10)懐かしきオールド西部劇  (34 小泉幾多郎)

ミネソタ大強盗団” を観た。史上名高いジェシー・ジェームズ強盗団が、1876年ミネソタ州ノースフィールドの銀行を襲撃した経緯をリアルなタッチで描いた西部劇。監督は、これが3作目だった「ライトスタッフ」「ライジングサン」のフィリップ・カウフマン、撮影が「荒野のストレンジャー」等クリント・イーストウッドの西部劇を撮ってきたブルース・サーティース、音楽がモダンジャズの大家ディヴ・グルーシンという一流スタッフ。主演はジェシージェームズにロバート・デュヴァル、コールヤンガーにクリフ・ロバートソン等どちらかと言えば準主役級で主役を食ってきた芸達者達が活躍する。

 巻頭、フランク、ジェシーのジェームズ兄弟、コール、ジム、ボブのヤンガー兄弟の他3名計8名の名前と特徴の紹介から始まり、テロップで、当時鉄道会社の西部開拓により、狙われた家族は何の術もなく土地を追われることが多く、この鉄道会社の連中を痛めつけ追い払ったアウトローに恩義を感ずる人が多かったと説明があり、一時ミズーリ州議会は、ジェシーの一団に対する恩赦を与えるという驚きの決議するまでになった。ジェシーの独白にも「俺たちが奪った連中に正直者はいない。鉄道会社、銀行、山高帽をかぶった野郎どもという泥棒から奪ったんだ」というセリフがある。これからすると義賊としての西部のロビンフッド的な描きを期待したが、1970年代のニューシネマの流れは、従来のジェームス兄弟の陰にあったコール・ヤンガーにスポットを当て、強盗団の首班争いから、結果的に、銀行襲撃事件は、コールの苦策もジェシー達のミスも重なり、失敗に終わる。特にジェシーが従来の義賊としてではなく、コールの統率を嫌い。自分本位で市民を平気で撃ち殺す冷酷な面を強調し、逆に市民を味方から敵に回す、時代に取り残された刹那的な男の象徴として描いているのだった。主人公を如何に正当化するかに全力を注いだ「地獄への道1939」のタイロン・パワー扮するジェシー・ジェームスが懐かしく思い出される。

(編集子) ここの所、ドクトル・ジバゴ をめぐる上質(と思いたい)かつやや難解かつやや長めの議論が続いている。映画芸術論も素晴らしいが、今回はこれまた、わが中学時代に胸躍らせた一連の話について、ひとつちがいのお兄様の名調子、ばんざい。

タイロン・パワーねえ。あのころの美男子で女たらしでと言えばこの人か,エロール・フリンかはたまたケーリー・グラントか。“キング”とまで呼ばれたクラーク・ゲーブルはワンテンポあとだったかな。風と共に去りぬ では圧倒的だったけど、ほかのいくつかの有名作はなんとなく気が乗らなくて見ないで来てしまった。保谷野くんあたりはあまり気乗りがしないようだが、もうひとりのキング、ジョン・ウエインものは日本未公開ものを米国駐在中にみつけたビデオテープ(!)を含めて大分見ている。生涯に撮ったフィルムは長編153本というが、そのうち西部劇と思われる(古いものは内容までわからない)ものは100本以上あるから、まさに西部劇のキングであったことは間違いないだろうが、演技が評価されることはなかった。しかし彼が二度目の癌を患い、再起不能とわかったとき、モーリン・オハラが全米に涙のメッセージを送ったことはまだ記憶にある。

 

 

”メルケル演説” その後

少し前にドイツ、メルケル首相のコロナ対策に関する演説の紹介があった。格調も高く、いかにも優れた政治家の資質がよくわかる文章だったと思う。その後、田村耕一郎など旧友たちから海外諸国の対策とか政治家の動向などについて、貴重な資料が紹介されてきたし、一部は本稿にも紹介してきた。これらを読んで、その内容もさることながら、引用されている政治家各氏の文章の練られかたとか、背後にある教養の高さなどにも感心することが多かった。

 

数日前、テレビで007シリーズ スカイフォール を観た。長らく M をやってきた名女優ディンチが殉職するやつだ。007の元祖コネリーはともかく、ロジャー・ムーアといいピエール・ブロスナンと言い、近来の007はおふざけが強すぎて多少へきえきしていたのだが、今のダニエル・クレイグとその前のティモシー・ダルトンになって、人間味というか現実味が増し、面白いと思うようになっていたので今回の作品も興味をもって見た。007を擁するMI6の部門が取り潰しの危機に直面する。その公聴会が議会であり、Mが主張を述べるのだが、このくだりのディンチが素晴らしい。なるほど、これが欧米の政治家の教養か、と思わせる数分の演説だ。詳しくは延べないが、こんな演説は残念ながらわが霞が関の議事堂では(維新直後の時代はわからないが)まず聞くことはないのではあるまいか。メルケルのリーダーシップあふれる演説にふれて、それにひきかえてなあ、という感じを持ったのは小生も同じで、この映画のシーンに垣間見るような、政治家、といえるべき人物を支えている文化的教養の違いをあらためて感じる(田中新弥は以前から、国会議員に立候補する人間には資格試験をすべきだ、と主張している)。

 

ところが昨日の読売新聞のコラム(”ワールドビュー“)に、ドイツの成功は本物か、という一文が載った。西欧諸国の中でドイツは人口当たりコロナ感染症の人数の抑え込みには成功しているのだが、10万人当たりの死者数は10.93人、対する日本は0.78人で、もしドイツの成果具合を日本に当てはめると我が国ならば15,000人を超える死者が出ている計算だというのだ。この数字の意味することをうんぬんする知識は持っていないし、 ”ファクターエックス“ がもし、コーカソイド対モンゴロイドという人種の差からくるものだ、としたら、さらに比較や評価は難しいだろう。だからこの記事が言うように、”ドイツが成功なら日本は大成功だ“ という結論もそうならいいけどなあ、という程度で読み飛ばすつもりだった。

 

しかしこのなかで、”ドイツの成功を可能にしたのはメルケル氏の指導力で、あの演説がきっかけだった“ という定説に筆者が疑問を呈したところに興味をひかれた。この記事によれば、あの演説が出るまでにドイツ政府の対策は後手後手に回っていて、国境封鎖に強力に反対していたのはメルケル首相その人だったのだ、というのだ。国境封鎖、ということはEUの基本理念のひとつである域内自由交流の否定であり、反対することにも正当性はある。このあたりの事情を異国の素人がうんぬんするのは控えたいが、小生がはて?と感じたのは、はじめにのべた国家指導者の素質、特にその文化的教養から生まれるはずの世界観とか歴史観、と言ったものがいったいなんなのか、ということである。

 

もう一度、かのメルケル演説とわがシンゾー君をはじめとする昨今の首相各位の演説を比べてみるまでもなく、その内容、格調、影響力の差は残念ながら明らかである。もし、首相の演説(ナチの猛攻を劣勢な空軍で防いだ、かの バトルオブブリテン を支えたというチャーチルの防空壕からの放送のような)が国民を鼓舞し成功に導くのが歴史の原理であるならば、わが国の未来にあまり大した期待は持てない。しかし一方、厳然たる事実として、現在の経済大国を作り上げた基本的な構造が、当時は批判の的でもあった日本列島改造論であることは事実である。この画期的な構想を組み立てたかの首相がメルケルを凌駕する文化的素養の持ち主であり、聞くものをして感動させる人間力を持っていたとは思えない。日本の飛躍的な変革を現実のものにしたのは、ひとりひとりの日本人の勤勉さと公徳心とまじめさ、それと現実には(問題は多々あるのは承知しているが)やはり優秀な官僚制度であって、首相の演説が感動を呼び起こしたので俺たちがやる気を起こしたからだ、などという記憶はない。このことは高度成長の歯車として、時には100時間を超すことも多かった残業地獄をこなし続けてきたわれわれが一番よく知っているはずだ。

 

思うに、どっちが成功なのか大成功なのか知らないが、欧州の指導的立場にあるとはいえ過去の歴史負荷を引きずるドイツ、日本人と共通点の多いドイツ人、メルケルさんがどうあろうと自分たちの努力をひたすら続けて結果を出した彼らとわれわれの現在にはそういう意味での共通点があるのではないだろうか、という気がするのである。

だがそれはそれとして、多難な国を守り続けるメルケルさんのご活躍を祈念することには変わりはない。わが同期の仲間、横山美佐子は愛嬢によればご家庭では メルケルさん と呼ばれていると聞く。併せてふたりのメルケル、ご健康を祈る。

 

”とりこにい” 抄 (9) 真教寺尾根

結婚して長女ができるまでの2年ほど、夫婦ふたりで気ままに歩きまわった。ある6月、野辺山の民宿に前泊、真教時尾根をラッシュした時の、平和な時間の感想である。時季は少し違うけれど、今年もあのアルプは穏やかに息づいているだろうか。

 

赤岳の午後

 

みおろせば。

六月の積雲にわずかな起伏をしめす

あれは美し森、清里、野辺山、念場が原。

コンターをたどる愚かはやめて

歯にしみとおる胡瓜の涼しさに声を上げれば

東壁にへばりついた季節外れの雪は

昼下がりを退屈そうに落ちていった。

見上げれば赤岳 2899メートル

なんの すでに貧相な岩くれにすぎぬ。

なれば。

今一度 水筒を傾け

去ってゆく雪のバラードを聴こうか。

 

 

20年6月 月いち高尾報告 (39 堀川義夫)

 

完全にコロナ過が治まったわけではないが、自粛が解除されたので恐る恐る月いち高尾の募集をしたところ、あっという間に30人からの参加申し込みがありました。皆さん、山に飢えていたのでしょうか?

ところが、コロナの感染者数が増加傾向になり、それを理由に参加取りやめる方、2日前になると天気を心配して取りやめる方等々、そして当日も2名の取りやめがあり結果13名の参加となりました。梅雨のこの時期、雨模様はやむを得ず、小雨程度は想定内でしたが…リーダーとしては慎重に我流ですが雨模様でも小雨は降っても山歩きに支障なしの判断で中止にはしませんでした。

琵琶滝を下り一休み

当日、参加者13名は定刻10時前に全員集合して相談の結果、人数激減の為2班に再編成して、とりあえず薬王院までケーブル利用で行き、安全祈願をしに行こう。その先は天気の様子を見ながら決めよう、ということで出発しました。

有難ことに、山の神が素敵なプレゼントをくれました。雨雲を遠ざけてくれました!! ケーブルで山頂駅に着いた頃から雨は止み、薬王院に着いて参拝した後、誰が言うこともなしに当然のごとく、久しぶりの高尾山頂上を目指して歩行開始し11時40分頃には全員登頂して、集合写真を撮ることが出来ました。下山は4

おなじみ4号路釣り橋

名が4号路でつり橋経由山頂駅に行き、ケーブルで下山。9名が稲荷山コースを下山して、悪路の為、途中からビワ滝方面へ下山しました。途中、ビワ滝で休憩後快調に下山して、駅舎にあるイタリアン「Fumotoya 」で12名で打ち上げ。今回は狭いテング飯店は避けました。結構、広くソーシアルディスタンスを取った店内でしたが、他のお客からうるさいと言われながらワインを数本空けて久しぶりにそれはそれは楽しい時間を過ごしました。

 

参加者(順不同) 遠藤 後藤 菅谷 矢部 岡沢 保屋野 安田 関谷 伊川 中司 吉牟田 藍原 堀川

(関谷)久々の団体での野外行動を満喫させていただき
ありがとうございました。
人との交流が如何に素晴らしいものかと実感しました。
打ち上げのイタリアンでの約半年ぶりの外飲みでの生は
格別でした(これまで家飲みで缶の発泡酒で耐えていました!)
自粛警察気味の白い眼がありましたが、ワイワイガヤガヤ
出来るのは良いですね!ありがとうございました。

(保谷野)あれから、温泉に入って、高幡不動のドトールで軽食後2時に帰宅しました。16000歩でした。
今日は悪天予報にもかかわらず、13人もの老人?が登山とは・・・やはり「ワンダーですね。それにしても雨・風予報を好天?に変えてしまう堀川さんの念力は何時もながら凄い。

(それにしてもなんで正藤山のときはあたらないの? 編集子)。

高尾山は自粛期間も何回か登っていましたが、やはり一人よりもワンダーの皆様と登るのは数倍楽しいです。また皆様とご一緒出来るのを楽しみにしております。ありがとうございました。

季節は間違いなく来ている―アジサイが見事だった。ここに名前を書かせるのにいくらかかるんだろうか?北島サブちゃんと並ぶのは大変だろうけど。

エーガ愛好会  (9)  シェナンドー河

コブキお姉さまの情報によって、またまたBS3劇場の半日。この映画のタイトル ”シェナンドー“ という地名は小生にはなつかしく、快い思い入れがある。

ひとつにはワンダー時代の僕のいわば ”持ち歌“ に関連しての思い出がたくさんあるからである。いまの現役や平成時代のOB連はあまり山で歌を歌う、ということがないようだが、僕らの時代、テントサイトでたき火をし(まだ北アルプスの稜線でもはい松を切って火をおこし、飯盒で飯を作っていた時代なのだ)、歌を歌った。だからどんな自称音痴でも、なにかひとつ、”持ち歌“ を持っているのが当然だったし、新人がどこかのプランでいいのどを聞かせて大拍手が起きる、”デビュー”現象が尾ひれをつけて語られたりしたものである。

僕が ”デビュー”したのがどこでいつだったかは確かではないが、不破さんのプランで指名され、当時はやっていたマリリン・モンローの”帰らざる河“ をうたった時がそうだったような記憶がある。そのころは ”あいつが持ち込んだ歌“ というようなのが沢山あり、今はOB会の定番歌 “海女の子供” は女子合ワンに参加したチンタお姉さまとかわがビーバーこと栗田なんかがならってきたもののはずだ。そういう意味で、”ジャイが持ち込んだ歌“ は Red River Valley だと自負しているのだが、高校時代にクラスメート、KWVはナンカナイ会でと付き合いの長い関根達郎が、父上がもっておられたというレコード(もちろん、78RPM,セラック製でだいぶ溝が傷んでいたが)をくれたことに端を発する。唄っていたのは REDRIVER DAVE という無名の歌手で、かなりマウンテンミュージックスタイルにアレンジされたものだった。僕らの1級上で人気のあった森永さんがウクレレを言うものを持ち込んだことから(本来のワンダラーならギターだろうが、ちと大きすぎたので)、KWVにもカントリーが流行りだした。僕が次に仕込んだのが ACROSS THE WIDE MISSOURI という、エディ・アーノルドだったかスリム・ホイットマンだったかが歌ったもので、これの原曲が SHENANDOH という古い民謡で、現在、バージニア州の州歌である、OUR GREAT VIRGINIA はこの曲の譜によっているという。

アメリカの人たちの心の中になんとなく郷愁をもって語られる地域がいくつかあると思うのだが、そのひとつが西部開拓前夜までの辺境であった、テネシー、ケンタッキー、バージニアあたりのようだ。その中のひとつがこのシェナンドー渓谷からブルーリッジ山域にかけてのあたりなのではないか。小生も家族旅行でどうしてもこのあたりが見てみたく、アトランタで 風と共に去りぬ の雰囲気を味わった後、このアパラチア山系を越えてケンタッキーへ、返す刀でナッシュビルまで行き、プリンターズアレイのライブ店に入ったところ、まだ日本人がめずらしかったのかどうか、なんと指名されてステージへあがらされ、それなら最もジャパンらしいのを、と炭坑節をうたったことがある。ホステス役だった女性シンガーがくれたサインん入り写真がまだどこかにあるはずだ(今思えば RED RIVER VALLEY にすればよかったと思うんだが)。毎日好天、太陽を見飽きてしまうような、あっけらかんとしたカリフォルニアしか知らなかった自分には何とも言えず暖かな、人恋しくさせる1日だった記憶がある。ジョン・デンバーのヒット曲、Country Roadにも Blueridge mountains Schenandoh river という一節があるのをご記憶の方も多かろう。

さて映画のほうだが、スチュアートの西部劇、というポジショニングはちとまとはずれな気がする、いわば一種のホームドラマみたいなものだ。後半に突然現れて長男と嫁を惨殺する(このあたり、風と共に去りぬ の一場面を思い出させた)悪漢3人を除けば、基本的に悪人は出てこない。皆与えられた任務の中で苦悩する人々の話である。最後の教会の場面で、後ろの入り口のドアに、そこまでの筋からはなれてカメラがとまる。あ、そうかな、と思っているとドアをゆっくり開けて、行方不明だった末っ子が杖にすがりながら入ってくる。これでアンハピイエンドが少し救われる、というのがやはりフォードをついだV.マクラグレンの味付けだろうか。それと挿入場所を忘れたけれども、これも古い民謡から来たはずのYELLOW ROSE OF TEXAS のメロディが一瞬、流れていたのに気が付かれただろうか。ミッチ・ミラーの合唱曲で一時はヒットパレードの常連だった曲だが。また、ヒチコックの出番を見過ごしてしまった。残念。

なお、”スチュアート西部劇” なら、”ウインチェスター銃73” がベストだと僕は思うのだが,諸賢のご意見やいかに。“笑う悪漢” ダン・デュリエがよかったし、トニー・カーチスが端役も端役のインディアン(ごめん)役で出ていたと記憶がある。

(34 小泉)

 今週はBSPで珍しく西部劇が、月曜(6/29)「ダンス・ウイズ・ウルヴス(1990)」、金曜(7/3)「シェナンドー河(1965)」の2作が放映された。「シェナンドー河」は西部劇というよりは、南北戦争を時代背景とした家族の物語。主演のジェームス・スチュアートが当時57歳、時代に翻弄されながらも、妻亡きあと息子6人娘1人次男の嫁の大家族の頑固親父を渋く演じる。父権制的な大家族に自由と自立性を重んじる個人主義的精神など、この古典的アメリカンスピリットが、南北戦争の渦中にありながらも反戦のスタンスに立つ原動力であると一貫して訴えているように思われる。頑なに中立を守りながらも、末っ子が誤って北軍の捕虜になってから戦争にに巻き込まれる形で、次男夫妻、長男を失うことになる。全編に流れるオーシェナンドーのメロディと最後スチュアートが呟く「戦争とは・・・葬儀屋の一人勝ち、政治家は戦争の栄光を説き、老人は戦争の必要性を説き、兵士たちは家に帰りたいと願う」が印象的。監督は先週放映の「ビッグケーヒル」のアンドリュー・V・マクラグレン。

 「ダンス・ウイズ・ウルブス」は、1931年「シマロン」のアカデミー作品賞以来、1990年に西部劇でははじめて作品賞をはじめ監督賞等12部門にノミネートされ7部門でアカデミー賞を獲得した。この年は、1972と1974年に作品賞受賞した「ゴッドファーザー」「同PARTⅡ」に次ぐ「同PARTⅢ」と争うことにもなったのだった。ケビン・コスナーが監督主演し、南北戦争のさなかに、自ら選んで西部の辺境の地に赴いた騎兵隊の中尉が先住民のスー族と出会い、大地に根差した自然賛歌を織り込みながら新しい生き方を見出していくという映画。ネイティヴ・アメリカンが独自の文化を持ち自然を敬い、自然と共生する姿といった高潔さを賛美する。バファロー狩りの描写も素晴らしいが、毛皮と舌の肉を取り他は捨て去る白人に対し、祈りを捧げ感謝しつつ全てを消費するネイティヴ。騎兵隊に捕まった中尉の貴重な日記帳を奪い、キジを打つ同僚に単なるカミとして切り裂いて与える。中尉になついた題名通りの狼を射的同様に、面白半分に撃ち殺すシーン等々。しかし突然変異的に、ネイティヴ・アメリカンの立場の映画が作られた訳ではないが、本格的にネイティヴ・アメリカンの言語、此処ではスー語が使われていたことは画期的なことだろう。それらネイティヴ・アメリカン寄りの映画で、小生が観たものを列挙すれば、「折れた矢1950デルマー・デイビス監督、ジェームス・スチュアート主演」「アパッチ1954ロバート・アルドリッチ監督バート・ランカスター主演」「シャイアン1964ジョン・フォード監督リチャード・ウイドマーク主演」「ソルジャー・ブルー1970ラルフ・ネルソン監督、ピーター・ストラウス主演」「小さな巨人1970アーサー・ベン監督、ダスティ・ホフマン主演」「ジェロニモ1994ウオルター・ヒル監督、ウエス・ステュディ主演」がある。

Sneak Preview (6) (44 安田耕太郎)

巡礼路とレコンキスタ (Reconquista)

バスク地方を満喫したあと、スペイン中央部を対角線に横切りマドリッドに立ち寄ったあと、ラ・マンチャ、アンダルシア地方を通りジブラルタル海峡に向かう旅程だ。バスクの首都ビトリア・ガスティスの南西100キロに位置するブルゴス(Burgos)が最初の目的地だ。

スペイン中央北部の内陸に位置するブルゴスは、次に向かうマドリッドのほぼ真北200キロに位置している。市内の真ん中に澄んだ川が流れ、目玉ともいうべきゴシック様式の、聖母マリアに捧げられた、巨大なカトリック教大聖堂(Catedral de Santa Maria de Burgos)の荘厳な美しさには感銘した。構造、ファサードのデザイン、内部の装飾などユニークで決して忘れることはない。13世紀に造られはじめ完成したのは16世紀であったという。

ブルゴスには聖地サンティアゴ・デ・コンポステラ(Santiago de Compostela)へ向かう巡礼路が通り、イスラム勢力に占領されたイベリア半島を、キリスト教徒の手に奪回することを目的とするレコンキスタ(再征服運動)初期における軍事上の根拠地ともなった。その大聖堂に入るサンタマリア門には11世紀後半の対イスラム勢力との戦いレコンキスタで活躍したカスティーリャ王国の貴族エル・シド(El Cid)の像が飾られ、彼の遺体は大聖堂に埋葬されている。アメリカ俳優チャールストン・ヘストンが主役を演じた映画「エル・シド」を中学生であった1961年に観ていて、救国の英雄の出身地を訪れ感慨もひとしおであったのを覚えている。

スペイン北西部ガリシア州(Galicia)の首都サンティアゴ・デ・コンポステラには、聖ヤコブ(ヘブライ語Jacobの和訳、スペイン語でSantiagoサンティアゴ、フランス語でSaint Jacquesサン・ジャック、英語でSaint Jamesセイント・ジェームス)の遺骸があるとされ、ローマ、エルサレムと並んでキリスト教の三大巡礼地に数えられている。

 

フランスの項で、訪れてすでに述べた通り、リヨンの南西150キロに位置するオーヴェルニュ地方のル・ピュイ・アン・ヴレ(Le Puy-en-Velay)に端を発する「フランスの道」はスペインへ向かう主要な巡礼路のひとつであり、全長1500キロにも及ぶ。ピレネー山脈の東山麓のフランス側バスクの起点サン・ジャン・ピエ・ド・ポル(Saint Jean Pied de Port、バスク語でドニバネ・ガラシ)からピレネー山脈を越えてスペインバスク地方の, 牛追い祭り(サン・フェルミン祭)で有名なパンプローナを通って、カスティーリャ・イ・レオン州(Castilla y León)の北部を西に横切り、ガリシア州(Galicia)の聖地コンポステラへ向かう。

伝説によれば、イエス・キリストの十二使徒の一人聖ヤコブがエルサレムで殉教したあと、その遺骸はガリシアまで運ばれ埋葬されたという。813年コンポステラでヤコブの墓が発見され、これを記念して墓の上に大聖堂が建てられた。サンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼の記録は951年のものが最古であるという。町の名前について、コンポステラ(Compostela)のコンポは野原、ステラは星のこと。野原に輝く星の聖ヤコブ、といった意味であろうか。2014年に巡礼路を実際歩いたが、僕の独断と偏見によれば、巡礼路はレコンキスタ運動と密接に関係しているのは間違いない。

すでに述べたように、イスラム勢力は8世紀にはイベリア半島を支配してフランス領内にも深く侵入した。キリスト教勢力側はイスラム支配にくさびを打ち込む目的もあってキリスト教信者の巡礼による人と物の移動を活発にさせ、その結果政治的、経済的、社会的、軍事的にキリスト教勢力を伸長かつ増強させ、相対的にイスラム支配の弱体化を狙っていたとしても不思議ではない。むしろ自然な発想で神学も虚構の上に成り立っている可能性を否定できない。

エルサレムで2000年前の古代ローマ帝国時代に殉教した聖人の遺骸が数千キロも離れたイベリア半島西部の田舎町で埋葬されたとは現実的には考えにくい。ローマ帝国が当時エルサレムもイベリア半島もその支配下に置いていたとはいえ、遺骸の移動・輸送・保存などの困難さ、なぜスペイン北西部の辺鄙な場所で発見されたのか、なぜ発見されたのが殉教から800年後なのか、など疑問は多い。

巡礼路の創設は結果としてレコンキスタ運動を活性化かつ増強させ、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐することに多大な貢献をしたのは疑いのない事実である。そのことこそがサンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼路の創設意義と動機のひとつであろう。私見である。

ブルゴスの南西100キロほどのところに位置するカスティーリャ・イ・レオン州の小さな町で生まれ、スペインを統一したイザベル女王は、イベリア半島におけるイスラム勢力最後の拠点であったグラナダ王国のアルハンブラ宮殿を陥落させ約800年にわたったレコンキスタを成功裡に完成させた。1492年のことである。コロンブスのアメリカ航路発見の年だ。彼女の遺骸は遺言によりアルハンブラ宮殿の聖フランシスコ修道院に埋葬された(1504年)。

なにせイスラム勢力は711年のイベリア半島侵入からグラナダ王国陥落まで781年間の長きにわたって存続していたのだ。イベリア半島にキリスト教勢力が完全に戻った1492年から今日(2020年)まで528年間経っている。しかし、それ以前、イスラム勢力はそれより250年以上長い実に800年近い長期間にわたり居座っていたのだ。現在の視点で観ると驚愕せざるを得ない。ピレネー山脈から北のヨーロッパ人が「ピレネーから南はアフリカだ」というのもうなずける気がする。

エーガ愛好会 (8)  7月必見エーガの数々   (40 久米行子)

チンタさん早速映画館にお出かけのようですね。さすが「出歩き弓子」と以前アドレスにしていらした先輩とその行動の素早さに感心しております。

ところで今日2018年制作のドキュメンタリー「MIFUNE The Last Samurai」を観ました。インタビューにはマーティン・スコセッシやピルバーグ香川京子、司葉子などが出てきて三船敏郎について語っていました。素晴らしく恰好良い写真なども数多く、あーあーやはり三船は素晴らしいとの感を深くしました。皆様の「岸恵子礼賛」にも負けません。

ところで前回はBS放映の予告でミスが多かったので日時はお知らせいたしませんが7月は6月の放映作品に負けず劣らずの名作が放映予定で楽しみです。

先ず早々に7月1日ヒッチコック監督の「ハリーの災難」が登場致します。1955年の制作で「裏窓」や「知り過ぎていた男」などの評判作品にはさまれて隠れた名画と私は思っているのですが可愛らしい頃のシャーリーンマックレーンが出演している映画です。是非皆様にご覧いただきたいと思います。そして翌日にはロバート・テイラー、デボラ・カー共演の「クオヴァディス」ローマ観光の折にはわざわざこの教会を訪ねて糸杉街道を主人と歩きました。

続いてジェームススチュワート主演の「シェナンドー河」、「西部開拓史」に続くスチュアート西部物です。そのほかにも7月は「雨に唄えば」「アラビアのロレンス」「E・T」「シャレード」「「荒野の7人」「グラン・トリノ」「最高の人生の見つけ方」「ニノチカ」「炎ランナー」「眼下の敵」等々・他にも007シリーズなど見逃せない作品が揃っております。

この中でも先ず推薦したいのは「ニノチカ」1939年制作の古い名画です。

あの冷たい美女のグレタ・ガルボが演じるロマンチックコメディです。なんとも言えず笑ってしまうのですが私の大ごひいきのビリーワイルダーの脚本と解れば納得いたします。次に「眼下の敵」さほど好きではなかったロバート・ミッチャムの男くささに参った作品で以後ミッチャムの作品を次々と見た歴史があります。「帰らざる河」を見直したり、「さらば愛しき女よ」はハンフリーボガードのフィリップマーロウより感じが出ている気がしますがチャンドラーにお詳しいGiさんのご意見を伺わねばなりませんね。それに引き続き「ライアンの娘」もミッチャムは大熱演。そしてとうとうリチャードロートンが一作しかメガホンを取っていない恐怖映画「狩人の夜」まで、見まくってしまいました。

「眼下の敵」はあのドイツの名優のクルト・ユルゲンスを向こうに廻して一歩も譲らないミッチャムがいます。最後に船の上での敬礼が何とも言えず胸に来るものがあります。無論、皆様ご覧になったことがおありでしょうが今一度ご覧くださいませ。「炎のランナー」もきっとオリンピック開催を意識したと思いますが今一度見直したい作品です。

(中司)相変わらず元気なご様子、なによりです。昨日はチンタお姉さまに続いてオヤエが出かけて上機嫌で返ってきました。滅多になかったことですけど真昼間にテレビをつけると予期しない映画にぶち当たるもんですね。一昨日は何回か見落としてきた 大砂塵 をやっと見ました。それなのに昨日は日曜だとばっかり思い込んで、何と全巻見る覚悟だった 新選組血風録、その最後つまり土方歳三最後の回を見落としてしまった。しゃんめえ、高いけどDVDを買おう。

 

今日のBS1300、レッドフォードの スパイゲーム。おすすめでっせ。

あ、それと さらば愛しき女よボガートのカサブランカよりもはるかに趣のあるミッチャムです。なんか、最近の俺って男の哀愁がただよい、こんなかなあと思ってます。。絶対見てよ。それとここではシャーロット・ランプリングの妖艶さがよかったねえ。ローレン・バコールの知性は感じられなかったけど。

米国の対中国政策について (4)

(つづき)

3.力による平和の維持 Preserve Peace through Strength

2018年制定の国家防衛戦略(訳注 National Defense Strategy, NDS)では、長期にわたる中国との競合を最優先とし、中国人民解放軍の技術的向上、戦力展開及び国外でのプレゼンスと発言力の増強に対抗する近代化と他国とのパートナーシップが強調されている。核戦略レビュー(訳注 Nuclear Posture Review)に挙げたように、本政権は三元戦略核戦力(注 地上、潜水艦、長距離爆撃機という3種の核発射能力をいう)を主眼とし、中国の大量破壊兵器やそのほかの戦略的攻撃を抑止するため、これに伴う各種の能力の近代化を推進している。あわせて、われわれは中国指導部と一堂に会し、核兵器の近代化と拡大、また世界最大の中距離ミサイル群の削減について協議していくことを要求している。すべての国々にとって北京政策の透明度の向上、誤解による偶発の防止、膨大なコストのかかる武器増強を避けるために望ましいと考えるからである。

一方、国防当局は超音速の機体整備、サイバーおよび宇宙空間に関する投資、さらに強力で順応性に富みかつコストのかからない運搬手段の開発を続け、北京の拡大を続ける野心的行動をいましめ、中国軍の技術レベルの向上拡大を抑止しようとしている。

世界での航行の自由を確保するため、我々は中国の覇権主義と過剰な要求を断固として退け続ける。米国海軍は、国際法が認める限りにおいて、南シナ海を含む海域での航行の自由を主張し続け,この地域にある友好諸国とパートナーが、北京政府の軍、準軍事組織および警察組織による強制的問題解決と対抗する能力を保有することを支援していく。これに関連して、米国は2018年度は中国軍を隔年ごとに実施してきたパシフィックリム演習への招待をしなかった。中国が高性能のミサイルシステムを南シナ海の人工島に設置したことへの対応である。

NDSの中核の一つが同盟国やパートナー国との強力な提携関係である。米国は提携関係の強化とあわせて、武器などの共通化(訳注 interoperability)を深化させることで戦闘現場での確実性(訳注 combat-credible forward operating presence)を高め、これら同盟諸国との高度の融合によって、北京のいかなる攻撃も排除できる能力を構築している。通常兵器移転政策 (Conventional Arms Transfer policy)では、米国製兵器の各国への整備を促進して提携各国の戦闘能力が戦略的かつ補完的に機能するように変革されることを期待する。

また、2019年の国防省による初めてのインド太平洋報告(Indo-Pacific Report)には、NDS戦略をこの地域にも展開することが明記されている。

長い間にわたり、米国は台湾と非公式ではあるが強固な盟友関係にある。これは台湾関係法(訳注 Taiwan Relations Act)および米中間に交わされている共同宣言に基づいた”中国一国主義であり、米国は台湾海峡に関する論議はすべて平和裡に両国人民の意志により、いかなる脅威も強制にも依らずに解決すべきとする姿勢を堅持してきた。しかしながら北京政府はこのコミュニケの精神に違反し巨大な戦力の増強を行ってきており、その結果としてわれわれに台湾にしかるべき自衛を可能にし、地域の安定のためにする援助を継続せざるを得なくなっている実情である。1982年、当時のレーガン大統領は台湾支援の軍事援助の量、および質は中国の対応によってのみ決定される“と述べており、2019年度における台湾への武器援助の規模は100億ドルを超える額に上っている。

米国の基本方針は従来通り、中国との間に建設的かつ目に見える関係を維持することである。すなわち、我が国と中国間の防衛に関する接触の範囲は戦略目標を伝達し、それによって事故の発生を制御して、危機を招くに至るような誤解や偶発を予防して双方に関係のある地域の不安定化をはかることにある。このため、軍事当局は中国軍部との間に、万一の危機発生時に実行のあるコミュニケーションメカニズム、想定以外の問題が発生した時その不拡大に役立つ即効手段の維持に努めている。 

4.米国の影響の維持拡大 Advance American Influence

過去70年にわたって、自由で開かれた国際秩序は独立した主権国家の繁栄とかつてない経済成長をもたらしてきた。広大かつ先進国のひとつであり、この秩序の大きな受益者である中国は、地球上の各国がこの恩恵を受けられるように積極的にかかわるべき立場にある。しかしながらもし北京政府が権威主義、自己検閲、腐敗、重商主義経済、倫理や宗教の多様性の否定などを押し通すならば、米国はこのような悪意ある活動に抵抗し、それに対抗するよう、国際的活動を先導するであろう。

2018年と2019年、米国ははじめて宗教の自由に関する聖職者会議(訳注 Ministerial to Advance Religious Freedom)を主宰した。2019年9月に開かれた国連総会(UNGA)において大統領は宗教の自由の保護に関する地球運動(訳注 Global Call to Protect Religious Freedom)という異例のよびかけをおこなった。これらの会合によって、各国の宗教指導者が世界中で起きている宗教迫害行為に対する非難の声をあげることになったのである。2回の会合において米国と同志国は共同声明を発表し、北京政府に対してウイグル人およびトルコ系イスラム教、チベットの仏教徒及びキリスト教徒そのほかの宗教信徒への抑圧と迫害を撤廃するよう呼びかけを行い、2020年2月には米国国務省は同様の考え方に立つ25ケ国と史上初の国際自由宗教連盟(訳注 International Religious Freedom Alliance) を結成し、個人の信教の保護を訴えた。大統領は2019年の聖職者会議の時間を利用して中国からの脱出者や生存者と面会し、総会においては中国の宗教迫害の犠牲者とともに登壇もした。このほか米国政府は人権保護活動者や中国内外で活動する市民団体への支援を継続して推進する。

2019年10月、米国は同志的な国々と共同で中国がチワン自治区で継続している人権侵害そのほかの抑制行為が国際平和と安全保障を脅かすものと非難声明を出した。これに続き、米国政府は特定の中国政府機関と監視技術会社がチワン自治区の人権侵害行為に共謀してかかわっていたとして米国からの輸出を禁止、中国関係者とその家族が北京政府の国際人権という公約違反に責任があるとしてビザの発行を停止し、同自治区で強制労働によって製造された製品の輸入の禁止を開始している。

米国は中国の軍事および技術を駆使した権威主義にわれわれの技術が使用されることに対して、毅然とした原理に基づく反対行動をとる立場であり、同盟諸国やパートナー諸国の賛同を得ている。この方向に沿って、急速な技術変化に合わせ、中国が民間製品の軍用目的への転用をはかって、企業に安全保障や情報サービスの提供を強制していることに対応する政策を用意しているのが現状である。

これまでに述べたいろいろな方策は、第二次大戦後の国際的制度の基礎となる価値体系や規範を遵守するという米国の公約を明確にしたものである。米国は中国の内政問題にかかわるいかなる欲求も持たないが、中国がその国際的公約や責任ある行動から逸脱したとき、、特に米国の国益にかかわる場合には率直にこれを糾弾してゆくであろう。例えば、わが国は香港の将来は米国の国益に重大な関心を持つ。およそ8万5千人の米国市民、および1300を超える企業が香港に居住しているからである。大統領、副大統領、国務長官はたびたび北京政府に対して1984年の英中共同宣言と香港における高度の自治、法治の原則、民主的自由の順守を呼びかけてきた。これらの事項は香港が国際的商業及び金融のハブとして存在し続けるために必要だからである。

米国はインド太平洋地域においても、企業活動の自由と民主主義の統治の推進役の任務を果たす覚悟である。2019年11月、米国、日本、オーストラリアはブルードットネットワーク(訳注 Blue Dot Network)を創立した。このねらいは透明な財政基盤と高度に品質の高いインフラストラクチュアを世界各国の私企業の主導によって確立していくことにあり、インド太平洋地域だけでほぼ1兆ドルにのぼるアメリカ企業の投資を実現する。同時に国務省はインド太平洋地域戦略、自由インド太平洋:共有目的の推進報告(訳注 A Free and Open Indo-Pacific: Advancing a Shard Vision)を刊行し、我々の同地域での統一戦略の詳細な結果報告を行っている。 

結論  Conclusion

本政権の中国に対するアプローチの根幹は、米国の、世界最大の人口稠密国であり世界第二位の経済を有する国家の指導者に対処する方策を、最も基本的な立場から再評価した、ということに尽きる。米国は長期にわたる戦略的競合が二国間に生じていることを認識する。

全政府一貫体制のもと、NSSに明示されたように基本的な原点に回帰し、米国政府は国益と米国の影響力を守り続ける。しかし同時に、両国の国益が共有できる限り、建設的でひらかれた、成果重視(訳注 results-oriented)の協力体制には門戸を閉ざすことはない。我々は中国指導者に敬意を払い、冷静な方法を通じて、中国がその公約を果たすよう説得してゆくであろう。

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われわれが脅威と感じている軍事面での対決はどのようなことになるのだろうか。6月20日づけ週間東洋経済誌に笹川財団の主席研究員 小原凡司氏が書かれている記事の一部を抜粋しておく。

”価値観の対立が引き金 現実になった米中 “新冷戦”  より抜粋

(前略)米国のギアチェンジを示すのは言葉だけではない。米国は、軍事的にも本気で新冷戦を戦うモードに入ったようだ。米国が次々と米ソ冷戦後の信頼醸成の枠組みから撤退しているのである。

5月21日,ポンペオ国務長官は米国がオープンスカイ条約から撤退する方針を表明した。同条約は欧米の旧東西陣営が相互に査察飛行を認めるものである。中国を抑え込みたい米国にとって、中国が加盟しない同条約に意味はない。そもそも戦略情報を相互に提供する枠組み自体が、米国にとっては過去のものなのだ。軍事的にも中国と対立する米国は、戦術情報の収集にシフトしている。

また、トランプ政権は18年10月にINF(中距離核戦力)全廃棄条約離脱を表明し、翌年8月には同条約は失効した。米国が地上発射型中距離ミサイルを開発・整備すれば、戦術核兵器における中国の優位は失われる。そのため、中国は核戦略の見直しを迫られている。米国にとって米ソ冷戦後の信頼醸成の枠組みは現状に適さない。米ソ冷戦後の世界は終わり新たな米中の冷戦が始まっているのだ。