エーガ愛好会 (175) マカロニウエスタン礼賛   (34 小泉幾多郎)

「荒野の一ドル銀貨UnDollaroBucato 1965」は「荒野の用心棒1965」に続き、1966年7月日本で公開された2番目のマカロニウエスタン。

この二本によりマカロニウエスタンはブームとなり、主演のジュリアーノ・ジェンマの名を一躍広めることとなった。公開当時は、「荒野の用心棒」の監督セルジオ・レオーネがボブ・ロバートソンと名乗っていたのと同じ理由で、ジュリア―ノ・ジェンマはモンゴメリー・ウッドだった。続になるとモンゴメリー・ウッド(ジュリアーノ・ジェンマ)と両名でタイトルクレジットされ、その後本名のジュリアーノ・ジェンマで出ている。

マカロニウエスタンを一言で言えば、ハリウッド製西部劇のヒーローである開拓民,保安官、騎兵隊とは異なり、無頼漢であり、アンチヒーローだ。往々にして守銭奴であり、賞金稼ぎの彼らにとって自分以外に信じるものは銃とカネだけ。しかしこのジェンマだけは、端正な顔ということもあるが、髭ずらの顔と異なる甘いマスクとアクロバティックなアクションで人気があった。正確かどうか不明だが、小生が調べた限りでも西部劇22本、西部劇以外で21本計43本もの映画に主演している。これだけ多くの主演作のある俳優は殆んどいないのではなかかろうか。

あらすじは、イエローストーンという町で、街の顔役マッコリ―(ピーター・クロス)に雇われたゲイリー(ジェンマ)が、顔役と敵対する男を倒すという筋だが、それが弟フィル(ニコラス・セントジョン)だった。フィルは兄と知らず抜き打ちで撃った。フィルもマッコリ―一味に撃たれ倒れる。ゲイリーは弟から貰った1ドル銀貨をお守りとして胸のポケットに入れておいたお蔭で命を取りとめる。復讐の鬼と化したゲイリーがマッコリ―一味をやつけるまでの戦いを描く。その間ゲイリーの妻ジュディ(イヴリン・スチュアート)が人質になったり、手渡したピストルが冒頭北軍から南軍であるゲイリーに手渡された銃身の短い当らないピストルとか小道具の使い方もうまい。音楽がジャンニ・フェリオだが、主題歌が、”Give me Back” & “A Man a Story” 口笛がリードし、情熱的なトランペットで盛り上げる等素晴らしい。ラストシーンに、フレッド・ポングストの歌唱で、A Man a Storyが英語詩により哀愁を帯びて歌われる。

「続荒野の一ドル銀貨 Il Ritorno di Ringo 1965」は音楽が、あのエンニオ・モ
リコーネ。タイトルバックと共に主題歌がマウリッツオ・グラーフにより英語詩で歌われ、随時あのモリコーネ調のスピード感とワイルドな迫力が表現されている。物語としては、続とはあるが、上記とは関係がなく、1ドル銀貨は出て来ないし、上記ジェンマは南軍兵士、続は北軍兵士だった。その南北戦争後故郷に帰還したリンゴ(ジェンマ)は、故郷が砂金に眼を付けたメキシコ人フェンテス兄(フェルナンド・サンチョ)弟パコ(ジョージ・マーティン)に乗っ取られ。美しい妻ハリー(ロレーラ・デ・ルーカ)はパコの愛人に収まっている。妻と街を奪還すべくリンゴが奮闘し、フェンテス兄弟その手下を次々と撃ち殺し、妻と幼い娘との幸せを取り戻すという光景で締める。久しぶりのマカロニウエスタン、他愛ないと言えばそれまでだが、ジェンマ主演ということから、それ程の残虐などぎついシーンもなく、気分の良い音楽にも乗り。気分よく観ることが出来た。

この”マカロニウエスタン”の誕生はアメリカ人の手によったらしい。当時70ミリスぺクタル全盛のハリウッド映画は費用節約のためアメリカ本土を逃れ。イタリアへ、スペインへとロケ地を求め、安い人件費でマドリッド近郊、チネチッタ撮影所をフルに使って製作していたところ、「北京の55日」「エル・シド」など70ミリスぺクタルを制作していたサミュエル・ブロンストンのプロダクションが倒産。一挙に数百人のアメリカ人スタッフが現地で失業。本国へ帰れない人が、広大なロケ地であるスペインの低い山岳地帯が、アメリカ本土の西南部やニューメキシコの地形に似ていることに気づいたスペインに残っていた豊富なスタントマンたちがメキシコ革命軍に変貌したことから始まったという。スペインでロケされた一連のスペイン製ウエスタンは最後の仕上げをローマ、チネチタで行われマカロニウエスタンが誕生したとのこと。

(編集子)米国に駐在していた間、仲良くしていた男が週末に家族を連れて出かけた先で見つけてきたからと言って、古い1ドル銀貨をくれた。ずっしりと重くてとてもうれしいプレゼントだったので、帰国後、それを古いタイピンに張り付けてネクタイピンにして愛用していたのだが、いつの間にか、まぎれて見えなくなってしまった。くれたのはもと警官をやっていたという、善きアメリカ人の典型みたいないい男だった。彼の記憶がこの小泉さんの投稿からふいに蘇った。

Jay Savy, rest in peace….

(なお、うっすらとした記憶だが、会社の仲間たちは マカロニ ではなく スパゲティウエスタン、と呼んでいたような気がする。そういえば安い食堂ではスパゲティはよく見たが、マカロニにはあまりお目にかからなった。日本とかの地ではイタリアについての感覚が違うのかな。)

 

 

 

俺達、84歳

ある食品メーカーから送られてきたパンフレットに加山雄三と堀江謙一の対談が乗っていた。タイトルは 夢をいつまでも というのだが、この二人はヨットを通じて40年来の交友があるそうだ。その一部を拝借して紹介する。

―お二人のように夢を持ち、生き生きと過ごすには何が必要でしょうか。堀江さんは日ごろからトレーニングなどをなさっているのでしょうか?

(堀江)特に何もしていません。ただ空想しているだけですね。世界地図を広げてこういう航海をしたい、それにはこういうヨットを造りたい、と頭に思い描いて毎日ワクワクし ています。

―日々ワクワクして元気に食べて。お二人がこれからの人生をどのようにお考えなのか、とても興味があります。

(堀江)これからの人生もこれまでの延長戦でしょうね。私がヨットを始めたのは高校1年の時で、ヨット部に入ったのがきっかけなんです。だから部活の延長で今まで来てるわけですね。

(加山)すごいよな、やる気を持ち、行動に移せることが。

(堀江)皆さんから その航海をよく決心したな といわれるんですけど、決心なんかしてないんですよ.確かに生死に関わることではあるけれど、航海をしたいという気持ちのほうがずっと強くてね。誰が何と言おうと自分はそうしたいという思いが内側から出てくる。だからこれまで通り、大器晩成を目指して頑張りたいと思います。

(加山)参ったね。子供のころは大型船の船長になりたいという夢があって、14歳の時に初めて船を設計して、今はどんな風にも負けない不沈船の設計に夢中です。バカバカしいと思われることでも、やりたいことを真剣にやる。そこに生きている実感があります。

加山雄三(高校の先輩なのだから、池端さんと言わなければならないのかもしれない)1937年、堀江謙一1938年生まれ、小生と同じ84歳。同感するなあ。

エーガ愛好会 (174)”美しき処刑人が見たフランス革命・・・ (HPOB 金藤泰子)

エーガ愛好会のおススメで見た作品からー内容は晴れの秋の日にはふさわしくないギロチンの話がでてきます。暗い雨の日にでもご覧ください。
映画はパリの死刑執行人を代々務めるサンソン家の4代目当主として、ルイ16世、マリー・アントワネット、ロベスピエールなど、王族貴族から庶民まで3000人余を手にかけた男、実在の死刑執行人シャルル=アンリ・サンソン(1739−1806)の苦悩を描いたものです。
権力者から道具として使われ、庶民からも蔑すまれ差別を受けた悲運の生涯。
 処刑人は世襲制で、国王から直々に任命される正義の番人。生活レベルは貴族並み、国王の代理として正義の仕事をしている事を心の支えに職務を果たしていたのに、フランス革命という歴史の転換期、国王ルイ16世までも死刑執行することになってしまいます。

言語由来辞典によりますと、

『ギロチンは、フランス革命の頃、国民議会議員で医師でもあったJ. I. Guillotin

ギョタン博士

(ジョゼフ・ギヨタン)の名に由来する。当時の斬首刑には斧や刀が使われていたが、未熟な死刑執行人の場合、一度で斬首できず、何度も斬りつけることになるため、受刑者に多大な苦痛を与えていた。そこでギヨタンは、受刑者の苦痛を軽減させられるようにと、首を切断する処刑道具の使用を提案したのである。

彼の名前から、この処刑台は「Guillotine(ギヨチーヌ)」と呼ばれ、ドイツ語読みで「ギロチン」となった。 その後もフランスでは、死刑執行にギロチンが使用され死刑制度が廃止される1981年9月まで使われていた。
とあります。
フランス革命という激動の時代、サンソン家の4代目当主アンリ・サンソンは考案されたギロチンを使うことにより多くの罪人の死刑執行をすることになりました。処刑人の家に生まれ (サンソン家は医者の家系でもある)、自分の代で死刑執行人を辞める事は許されず、時代に翻弄され、それでも法に従い厳格に仕事をこなしていったアンリ・サンソン、死刑執行人でありながら実際には死刑廃止を訴え続けていたという死刑執行を記録したアンリ・サンソンの日記が発見され、サンソン家に関する本が出版されています。
映画「大人は判ってくれない」を鑑賞後、主役の少年 アントワーヌが崇拝していたバルザック(1799ー1850)に関するWikipediaの記載を読んでいましたら、フランスの文豪バルザックはヴィクトル・ユーゴーやアレクサンドル・デュマの親友でもあったとありましたが、サンソン家とも懇意だったようです。

乱読報告ファイル (32) ”富岳” と “富嶽” の本

旧制高校の名門、一高寮歌は 芙蓉の雪の精を取り と歌い、わがKWVで愛された、かの 日大節 では 霊峰富士を仰ぐウ 神田駿河台にイ と絶叫し、地方の名峰の多くは地名を冠してご当地富士と呼ばれる。たかだか標高3000メートル余の成層火山が、これほど国民の心情のあいだに歴史を越えて存在する国はほかにあるだろうか。いろんな意見があるだろうが、僕は山歩きを始めたときから、富士山は仰ぎ見るべきものであり登るものではない、と一途に決めつけてきた。それだけにこの山の名前には特に興味をそそられる。その富士山には上記したほかにもいろいろな呼び名があるが、その中でも、富嶽(現代仮名遣いでは 富岳)という呼称には何か重みがある。美しい山 という以外に何かスピリチュアルなものが感じられる呼称だと思うのだ。

その 富岳、という二語がぱっと目についた新書がある。文春文庫 “スパコン富岳の挑戦” というのだ。思いもよらずサラリーマン生活の第一歩がコンピュータとの出会いであり、結局自分の会社人生のほとんどがコンピュータと縁の切れなかった僕には見逃せないタイトルだった。実際にプログラム開発をやっていたころはもちろんIBMの天下だったのだが、そのIBMも追い付けなかったのが超大型、と言われた領域(まだスーパーコンピュータ=スパコン、という呼称はなかった)はCDCとかクレイとかアムダ―ルなどというアメリカの専門メーカーの独壇場だった。しかし一方では半導体素子の劇的な高速化とかネットワーク技術の発展などもあって、そのコンセプトも大きく変わってきたのは当然であり、それが今のスパコンを生んだ。その全部を理解することなどはわれわれの能力を超えているように思われるが、著者の語り口は明快で、もっとも簡単にそのスケールを表す値としてこの本では、”富岳の計算能力はスマホ2000万台分に相当します” というように、一般人にもすんなりと読めるものになっている。なぜスパコンが必要になるのか、国家プロジェクトになるのはどうしてか、といった疑問にも素直に答えてくれる。

今回、驚いたのはこのプロジェクトがまだ完成していなかった時点で、コロナ騒動が起き、政府からの要請もあって、ほかの国でもやっていなかったコロナウイルスの飛沫拡散についての巨大なシミュレーションをこのマシンで行い、その結果は全世界で共有され、この研究は業界での最高の栄誉とされるゴードン・ベル賞を受賞したという。著者の推論によればこの一連のシミュレーションは当時どのスパコンでやっても1年以上かかっただろうという事で “富岳” の性能の高さがどれだけ凄いのかがわかる(それまで一時は世界トップだった日本製スパコン “京” のほぼ100倍の能力)。この “富岳” はスパコンの存在の論議がややもすると計算能力の値ばかりが注目され、ごく限られた国家レベルでのユーザでの話に限られているのに対し、開発当初から スパコンもインフラでなければならない という思想に立ち、アプリケーションの専門家と共同して開発してきたことがコロナ対策という喫緊の課題に迅速に対応できた。この結果を受けてそれまでマスクの効用に疑問を抱いていたWHOそのほかの関係機関があらためてマスクの使用を全世界によびかけることになったのだそうだ。今回のこの本で、我々が慣れ親しんでいるアプリケーションも ”富岳” で使うこともでき、また、”富岳” で作られたソリューションをほかのスパコンに移植することができることを知った。著者は今回の成功の一つのベースが ”スパコンの民主化” なのだと表現している。

ただスパコンの開発にかかる開発費用は一般企業が負担するには巨大すぎて、どこの国でも国家プロジェクトにならざるを得ない。そうすると本体の開発のみならず、関連する分野での技術、投資、などもまた巨大化・複雑化せざるを得なくなり、先進的な一般企業や大学などとの共同開発といった柔軟な対応も必要となる。ここでは特に昨今話題になるいわゆるGAFA陣営の果たした成果は大きく、この点では残念ながら日本は欧米特にアメリカの後塵を拝する結果に陥る。今回のコロナ関連にしても ”富岳” の成果として日本で話題になりマスコミに報じられたのはほんの一部にすぎない、という著者の無念も語られる。例によって米国のナントカ委員会のいう事ならありがたがるのに我が日本で起きたことはそのお墨付きがなければ第二列になってしまう。マスコミの出羽守根性にはほとほと辟易してしまう。日本の国力経済力の沈下が論じられる昨今、日本という国のありようがここでもまた、暗影をなげかけるのだ。そういう意味もあって、”コンピュータ“という単語に恐れをなすことなく、一読をお勧めしたい一冊である。

さて、“富嶽” である。旧仮名遣いで書かれる通り、これは戦前の話である。第二次大戦中、アメリカが開発した大型爆撃機B29のことは若い世代の方々も耳にされているはずだが、その存在は開戦前から旧日本軍でも知られていて各種の対抗策が実行された。しかしそれはB29 という航空機に対するものであって、いわば防御策にすぎなかった。これに対し、”日本から米国本土を攻撃する“ という破天荒なアイデアで検討されたのが ”富嶽“ だったのだ。

航続距離1万7千キロ、5千馬力エンジン6基、高度1万メートルで太平洋を無着陸で飛び、米本土を爆撃、当時の同盟国ドイツ占領下の基地に着陸するという構想にたった戦略爆撃機であった。他にも多くの著がある前間孝則氏が、敗戦時にすべて廃棄されてしまいその内容もわからなかった計画を当時の開発担当者に取材した書いたのがこの本で、草思社文庫刊、上下2冊合計800頁を越える大作は、記録に忠実なあまり、我々には負担と感じられる詳細な部分(実は編集子もところどころは斜め読みだった)もあるが、アイデアも能力もあるエンジニアたちの努力が国策とか、資源小国としての現実とかによって、結局陽の目を見なかったこの “富嶽” の秘話は読んでいて歯ぎしりするような記述に満ちている。

我が国が生んだ戦闘機の最高傑作である通称ゼロ戦、あるいは傑作戦闘機とされ漫画本にも取り上げられている紫電、少し時代は古いが陸軍の隼、などについては数多くの場で語られ、映画でも知るところが多いが、爆撃機としてのこの挑戦についてはほとんど知られていない。これは作戦面のこともあろうが、結局は資源に乏しい島国の現実と、ひろい意味では能力の発掘や抜擢、などという社会風土がアメリカと掛け違っていた社会全体の能力の差、ということに帰結するのだろうか。

“富岳” では著者が成功の一つの要素としている国の域を超えた技術の交流や協力が実を結んだ。戦時にあってはやむを得なかった環境、 “富嶽” を送り出せなかった現実が、今の平和国家日本の逼塞状態をまねいているのではない、と信じたいのだが。

(42 下村)ふたつの富岳・富嶽の話を面白く拝見しました。かつて民主党の蓮舫議員がスパコンの開発について「世界一になる必要があるのですか!」と強い口調で詰問していたことを思い出しましたが、コロナ対策で富岳が大変な貢献をしたことは全く知りませんでした。富岳開発リーダの松岡聡さんが今年紫綬褒章を受章していること、また彼のCPUとは別に画像処理専用のGPUを併用するアイディアが世界の最先端をリードしていることなどをネットで知りました(ご推薦の本は読んでいませんが)。

 爆撃機富嶽の話にも興味を惹かれました。風船爆弾とは対極にある構想ですね。ゼロ戦の開発に成功したように、予算と資源に余裕があれば富嶽も開発に成功し世界を驚かせていたかもしれません。

最近はTVでドキュメンタリーものをよく視聴していますが、今でも精密・精巧な器具や部品を製作する日本企業がそれぞれの分野で頑張っており、欧米諸国をはじめ全世界に提供しているようです。超耐久性の高い鉄道用レール(ドイツへ)、軽量で堅牢な鉄道車両(英国鉄道・米国地下鉄へ)、決して緩まず必要な時は外せるネジ(車やロケットなどへ)、紙のように自由に曲げられる太陽光発電シート(普及段階でノーベル賞を受賞するかも)等々。物質的な資源の乏しい日本は科学技術や人材が唯一の資源。オリンピックなどに金を使わず科学技術や人材育成に金を回すべきだと思っています。

芙蓉の雪の精をとり・・・、濁れる海に漂える我国民を救わんと、逆巻く浪をかきわけて・・・。坂の上の雲ではないですが、明治の人は偉かった!!

(編集子)著者は蓮舫の発言を聞いて、これは大変なことになりそうだと心配したそうです。あの人は国会議員になるよりもモデルでもやったほうが国民のためになるんじゃないかなあ。

 

 

やっと秋らしくなった―ピカソ美術館を巡って  (普通部OB 舩津於菟彦)

あれはバルセロナオリンピックの前年にスペインを訪ね、町をそぞろ歩きバルセロナの場末のピカソ美術館を訪ねた。泥棒横丁と言われるぐらいやや物騒な通りだが、少年時代から青の時代頃までの初期の作品がここでしか観られないのだ。

ピカソ美術館 (カタルーニャ語: Museu Picasso) は、スペイン・バルセロナのゴシック地区にある。パブロ・ピカソの友人で秘書を務めたジャウメ・サバルテスの個人コレクションとバルセロナ市所蔵のピカソ作品を基礎に1963年に開館、のちに画家本人やその家族・友人からの寄贈を受け、さらにコレクションを拡大し、ピカソの幼少期から「青の時代」の作品群、ディエゴ・ベラスケスの名作「ラス・メニーナス」を題材とした連作などがある。

ピカソ美術館 (ピカソびじゅつかん、仏:Musée Picasso) は、フランスの首都・パリの3区にある美術館。パリ国立ピカソ美術館 (Musée National Picasso, Paris) ともいう。その名のとおり画家パブロ・ピカソの作品を収蔵・展示している国立美術館で、パリ3区の南部に位置している。その収蔵品は、ピカソの遺族が相続税として物納した作品が中心となっており、1973年に死去したピカソが最後まで手元に留めていた貴重なものが多い 。「青の時代」と呼ばれている初期の代表作『自画像』をはじめとして、『籐椅子のある静物』、『肘掛け椅子に座るオルガの肖像』、『浜辺を駆ける二人の女 (駆けっこ)』、『牧神パンの笛』、『ドラ・マールの肖像』、『接吻』などを収蔵している。

このほかにも世界には数多くのピカソ美術館がある。地名だけ上げると、
(ルツェルン) – スイス、(オルタ・デ・サン・ジョアン) – スペイン、
(ゴソル) – スペイン、ゴソル (カタルーニャ州) (バルセロナ) – スペイン、バルセロナ、 (ブイトラゴ・デ・ ロソヤ) – スペイン、ブイトラゴ・デ・ ロソヤ館 (マラガ) – スペイン、マラガ、(ミュンスター)- ドイツ、ミュンスター、(アンティーブ) – フランス、 (パリ) – フランス、 (ヴァロリス) – フランス、ヴァロリス。

そしてあの有名な「ゲルニカ」はスペイン・プラド美術館の特設館で厳重に保管されているのを厚いガラス越しで観た。今はマドリード市内、国立ソフィア王妃芸術センターに展示されている。スペインの内戦後も国内ではテロが続いたが、1975年11月20日にフランコが死去したあと、アメリカの近代美術館で保管されていたものが1981年、スペインへの返還が実現した。

この偉大な絵描き「ピカソ」の未だ日本に未公開の絵が何と独逸からやって来ている。多分混雑しているだろうと午後3時頃訪ねたら空いていて、独り占めで暫く絵を観て居られる境地を得られた。そしてピカソ以外に大好きな「パウル・クレー」がそして「アンリー・マティス」今にも折れそうな「アルベルト・ジャコメッティ」の彫刻なども堪能できる。ピカソだけかと思い出掛けたら、パウル・クレーの作品が沢山展示されていてこれだけでも一つの展示会が出来るぐらいである。ベルリン国立美術館群のひとつであるベルクグリューン美術館の改修に伴い、比類のないコレクションにより、20世紀美術の精髄を初めて主要作品がまとまった形で国外に貸し出される本展は、貴重な展示の機会。まだ見たことのないピカソ、35点が日本初公開。コレクションから精選した97点の作品に、日本の国立美術館の所蔵・寄託作品11点を加えた合計108点で構成、97点のうち76点が日本初公開である。

 

 

 

奥日光のアサギマダラ (55 宮城裕之)

 

ジャイさんのブログにアサギマダラの話が出ていましたので、連絡しました。今年の山の日(8月11日)に、日光にある燕巣山と四郎岳に登りましたが、その際にアサギマダラに遭遇しました。地元のカメラマンの方に教えていただいたのですが、登山口から10分ほど歩いた四郎沢にフジバカマの群生地があり、そこにアサギマダラが繁殖して、9月初旬に東南アジアに向けて飛翔するとのことでした。

                   2022 年 8 月 11 日(木)燕巣山~四郎岳山行報告

山の日なので、奥日光にある燕巣山(2222m-栃木 100 名山)と四郎岳(2156m/群馬 100 名山)を目指しました。天気は比較的良かったですが、太平洋に台風が発生したせいか、北側尾瀬方面は雲が多く展望はありませんでした。日光白根山・丸沼スキー場などは良く見えました。丸沼駐車場から四郎沢に向かう途中で、大きなカメラを持った人に出会い、話を聞くと、この先堰堤 3 つ目を超えたあたりにフジバカマの大群生地があり、そこにアサギマダラという蝶が産卵に集まり、9 月初旬に東南アジア方面に向けて飛んでいく(1400~2000km)という、ロマンあふれた話を聞きました。

実際に行ってみると、早朝のせいか数は少ないですが、フジバカマの大群落があり、アサギマダラが飛び交っていました。帰るころには 14:00 過ぎでしたが、数は増えていたようです。
燕巣山・四郎岳は円錐形をした見た目の良い山ですが、その登山道は直線的でかなりの斜度があり,登りも下りもかなり苦労しました。四郎沢のルートは、赤布があり、気を付ければルートを失うことはないと思われますが、ところどころで、赤いビニールテープを目印につけてきたので、次回に役に立つと思われます。また燕巣山の下りで転倒し、左手首につけていた鈴を落としたことに気づかず、登っていく登山者に捜索を依頼、見つけたら白のレボーグに届けてくださいとお願いしたところ、下山したら、車に届いていて感激でした。

日程:2022 年8月 11 日(木)
1. 山域:日光
2. 目的:県境の道を歩く
3. 登山ルート;丸沼温泉駐車場~四郎峠~燕巣山~四郎峠~四郎岳~四郎峠~丸沼温泉駐車場
4. 天候:薄曇り、晴
5. 参加メンバー:手塚(宮城友人)、宮城
6. 行動記録;(距離:13km, 時間:7.5 時間(休憩含む)
AM5:20 手塚さん自宅(鹿沼) 出発。
6:45 丸沼温泉駐車場着。トイレは丸沼湖畔亭の建物隣にあ
る。広い駐車場には車少なく 10 台程度。
7:00 出発。 四郎沢を渡渉。ここで大きなカメラを提げた人から、この先堰堤を 3 つ超えたところに、フジマダキの花が群生しており、その花の蜜を求めて、アサギマダラという蝶が大量発生しているとのこと。アサギマダラはここで産卵、孵化した後に東南アジアに向け 1400~2000km 飛んで移動していくとのロマンあふれる話をきいた。

(中略)

今回も燕巣山・四郎岳の登山者は少なく 10 人程度で、静かな山行となりました。四郎沢入り口付近で出会った人の助言により、アカギマダラという蝶の存在を知り、400匹くらいの集団で東南アジアまで飛行するという貴重な話を聞けて、また落としたはずの鈴が届けられたりして、登山者の優しい人情にも触れることができて、とても楽しい山行となりました。参考までに今回の花と蝶を調べてみました。

フジバカマの仲間 ~ アサギマダラを呼ぶ植物
日本人ならフジバカマ(Eupatorium japonicum)という植物の名前を一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。山上憶良が万葉集で歌を詠んで以来、秋の七草の一つとして知られていますが、実際に野原で見かけたことがある方は少ないかと思います。本種は日当たりのよい河原の湿った草地などに自生する多年草(宿根草)で、近年河川の護岸工事により自生地が消失し、環境省のレッドリストで準絶滅危惧に指定されています。分類学的にはヒヨドリバナ属で日本には他にヒヨドリバナ、サワヒヨドリなど8種が知られています。和名の由来は花が藤色で花びらが袴(はかま)の形をしているからですが、その他諸説あるようです。属名の Eupatorium(ユーパトリューム)は紀元前1世紀頃、小アジアのユーパトール王がフジバカマの仲間を薬用植物として好んで用いたことに因みます。現在も蘭草(らんそう)と呼び漢方薬に利用されます。乾燥すると桜餅の葉のような芳香を放つため、昔は匂い袋などにも利用されたようです。フジバカマの名で販売されているほとんどは雑種で、本種よりも丈夫で大きくなります。分類にもよりますがフジバカマの仲間は北米を中心に 500 種以上あり、ユーパトリュームとして販売されています。
2m以上にもなる大型強健種のアトロパープレウムや、斑入り葉の美しいピンクフロスト、銅葉のチョコラータ、箒のような葉をもつグリーンフェザー、中国に自生するムラサキフジバカマ(濃色フジバカマ)、花が玉咲きのものや葉の切れ込みが深く美しい羽衣という品種などがあります

フジバカマと渡りの蝶
フジバカマの仲間にはアサギマダラという蝶のオスが好んで訪れます。まだよく解明されていないようですが、フジバカマに含まれる物質〝ピロリジジンアルカロイド〟の摂取が性フェロモンの分泌に必要だからと言われています。アサギマダラは旅をする蝶としても知られ、台湾や東南アジアなどから日本へやってきます。中には 2500km もの長旅をして日本に飛来したものもいるようです。
特に近年、この蝶の飛来ルートを全国的に調査研究する活動が盛んになり、フジバカマ類が日本各地で植栽され注目を浴びています。中でも日本各地に多く自生するヒヨドリバナは、丈夫で花期も8~10 月と長いためよく植栽されるようです。

(編集子)宮城兄の原文がやや大きいので要点のみを転載させていただく。この画面に拾ったスナップはほんの一部で、かなりの数の写真が Googlo Photo に収容されている。ご興味のある向きは小生あてメールいただければ宮城兄に連絡、直送していただくことができる。

 

 

エンディングマーク 

エーガ(英語映画になってしまうが)のおわりに出る END  の文字。これでこのエーガは終わり。これ以上はなし。はっきりしたひとつの終わり。エンド、というコトバはほぼ日本語にもなりかけている、意味明瞭な単語である。

しかし面白いことに同じように準日本語といっていい ハッピーエンド という英語は和製の誤用で、HAPPY ENDING といわなければならないのだそうだ。END と ENDING はどう違うのか。このあたりのニュアンスは小生ごときに分かるはずもないのだが、しいて類推すれば、ENDといった時には文字通りすべてが、自分の意志とは無関係に終わった、という客観的事実の確認であり、それ以上ではないのだが、ENDINGは言ってみれば終わりの始まり、というか、終わった、という事に対して、言い方は変だが何か主体的な感じ、つまり、自分が終わらせたのだ、というような感覚があるのではないだろうか。

今月末で、長いもので十数年、自分なりに楽しんできた府中カントリクラブをやめることにした。もともとはアンチゴルフ党だったのだが、四十を超えて数年した時点で、それまで全く自分とは関係のないと思い込んでいた営業部門への転身を命ぜられ、それと同時に上司から、これからは客先との付き合いで必ず必要になるからゴルフをやれ、という圧力がかかった。サラリーマンの悲しさ、あえて嫌ですとも言えず始めたゴルフだったが、始めてみればそれなりに面白くだいぶ熱を上げた時期もあった.。しかしもともと運動神経に優れていたわけでもなし、典型的なダッファで今日まで来た。今、別に辞めなければならない事情があるわけではないし、小生が初めてクラブを握った時からの師匠である会社の後輩A君やワンダーの友人からも、もったいないし、のんびりやればまだまだできるのに、という忠告が相次いだ。

忠告はありがたい。しかし、もし、このまま、一ダッファとして過ごしていても、いずれ、体は言うことを聞かなくなる日が来る。いつかわからないが、それは自分にとってのひとつの END だ。ENDING ではない。それがいやだった。

実は4年前、スキーをやめた。これもいろんな筋からまだやめるな、と言われたものだ。運動不得手の自分としても、都会の人間としてはまあまあのレベルだというひそやかな自負もあったのだが(一応、SAJ一級はもっていたのですぞ)、なによりもここ数年、雪、それも輝く新雪、それまで自分を高揚させてきた場面に、感動しなくなった自分に気がついた。ゲレンデで安全第一に、仲間との交流の場として、というスキーはもちろんあるし、その方がまともな考え方だという事はわかっていた。しかし、雪を見ても感動しなくなった、という事実がいやだった。つまり END ではなく自分の ENDING にしたかったのではないか、と、今になって理屈をつけているわけだ。

今の時点で、自分のライフワーク(ワークというのが適切かどうかわからないが、ま、目をつぶるまでにやり遂げたいこと)は三つ、ある。これを ENDでなく ENDING で終わらせたい。それがこれからの生きがい(この単語はきらいなのだが、ほかにいいコトバがみつからない)になるのだろうか。

アサギマダラの話      (会社時代友人 齋藤博)

10月16日付「八ヶ岳南麓の秋」とタイトルしたブログに、アサギマダラの事が書いてありました。今日のヨミウリ・オンラインに下記のような記事が出ていました。(https://www.yomiuri.co.jp/national/20221020-OYT1T50020/(無料記事)。

長距離を移動する蝶として知られる「アサギマダラ」が広島県福山市沼隈町の「平家谷花しょうぶ園」に飛来している。28日頃まで見られるという。
PRの一環として、アサギマダラの休憩所にしようと、餌となるフジバカマを昨年から園内の一角約500平方メートルに数万本植栽して多くのアサギマダラを呼び込んだ。
10月初旬にフジバカマの開花が始まると多くのアサギマダラが飛来するようになった。園を管理する担当者は「群れではなく、単独で長距離を移動する蝶。どうやって餌となる花を見つけているのかは謎とされるなど、ロマンあふれる蝶を多くの人に知ってもらいたい」と話す。

 アサギマダラは、羽の模様が鮮やかな大型の蝶で、広げた羽の幅は約10センチ。羽化後4~5か月の生涯に春から夏にかけて日本列島を北上し、秋から冬にかけて南下する。数千キロもの距離を移動した個体もいるという。

(飯田)

「八ヶ岳南麓の秋」のアサギマダラの記事に興味があり拝読しました。私の住む兵庫県でも六甲山にアサビマダラが飛来して、それを見に行くグループがおります。

ところで私はアサギマダラではないですが、ひよんなことから一昨年に(国蝶)オオムラサキのNHK1分間のニュースを追って、兵庫県丹波の森のオオムラサキの会に所属しました。関連のことを「エーガ愛好会」にGIさんにUPして貰いました(2021年7月)ので、もし時間があったらご笑覧下さい。

その後、今年の5月に丹波の森オオムラサキの会の会長と会食をしてもらった会員証のオオムラサキ・バッチ(添付)です。私は蝶々などの昆虫類を収集捕獲する趣味は、これからの社会で最小限に制限して一方で、それらの生存環境を整える活動に共感して及ばずながら支援して行く積りです。小さい頃は長野県安曇野市で6年間過ぎしていたので昆虫類、鳥類などに対する関心は人一倍強く、当時は捕獲して標本作りをしていましたが、今では出来るだけ自然の中で観察することが大事だという気持ちです。

 

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(斎藤)オオムラサキとアサギマダラとは、なんとなく似てるなと思って調べてみると、系統樹上では、わりと近い種なんですね。ともにタテハチョウ科に属しています。写真で見るオオムラサキにしろ、アサギマダラは、とまった姿ですので、羽を下げています。オオムラサキ会の会員証は、今まさに飛び立たんといった姿でしょうか。

私の住む近くに「しながわ花街道」という勝島運河沿いの散策路がありまして、そこには、「ジャコウアゲハ」という珍しい黒い蝶が沢山います。
近所の人たちが「ウマノスズクサ」という、ジャコウアゲハの幼虫が食べる草を育てています。また、幼虫を踏まないようにと看板を出したり、監視をしたり、ボランティアで保護活動をしています。区は全く興味が無いようで、あくまでも個人の活動です。人通りの多い散策路なんですが、皆さんあまりこのことを知りません。ウマノスズクサの臭い匂いに顔をしかめて通る人がほとんどです。アゲハは、結構素早いので、写真もなかなか撮れません。

コロナ第八波に備えよう   (普通部OB 篠原幸人)

今日は仕事の帰りに六本木を少し歩きました。人の多いことにビックリ。外人さんの、特に少しお年を召した方のカップルがいやに目立ちました。皆さんお元気にマスクもほとんどしないで歩いておられ、それが不自然に見えなくなったのは何故なのでしょうか?

一方で、もう第8波のことを心配する報告もあります。多分11月末ぐらいから来年2月ぐらいの間かな~。ひと昔前のオミクロンBA1型なのか、今のオミクロンBA.4・5型か、それとも次の更なる新しい変異株なのかも気になります。特にその病原性(罹患した時の重症度)が、現在のBA.4・5型よりも強い株だと厄介ですね。それに今年はインフルエンザも同時流行するかもね。そうなったら今の政府の考えている各人が自分で診断して自宅療養しなさいという甘い見通しは根本的にひっくり返るかもしれない。 皆さんはワクチンを何回打ちましたか? まだ一回もなんて人も、私の周囲にもわずかにおられますが、大体3-4回はお済みでしょうね。

政府は前回の接種から5か月という当初の案を撤回し、前回接種から3か月後なら次のワクチンを打っていいと規則を変更しましたが、朝令暮改内閣としては良い決断だったかもしれません。 しかし、逆に勘繰ると、一時代前のBA1型対応ワクチンがまだ余っているから、早く在庫を失くしたいという腹かと勘繰りたくなったりして。 今、出回っているワクチンはもう従来型のワクチンではなく、BA1型あるいはBA4・5型と、従来型の両方に効果が期待できる2価ワクチンと呼ばれるものです。それなりに効果は期待できます。しかし、次の第8波として何が来るか分からない点が非常に気になります。

もう一つ、皆さんが知らなければならないのは、ファイザー社製のワクチンにはBA1対応とBA4・5対応の2種類がありますが、現在日本にあるモデルナ製ワクチンはまだBA1対応しかない筈です。それも知らないで、接種会場に行くなんて、最低ですね。無論、第8波にどんな型のコロナが来るか不明ですから、今回は何を打つかは大げさに言えばロシアンルーレットみたいなものかも知れません。

私は前回の接種は2022年7月7日でした。もう3か月経過しましたが、今後の第8波の様子を見て接種5か月後の12月ごろに考えたいと思っています。その頃には若し8波が始まっていればどのタイプのコロナ株か分かっているでしょうから。打たなくても大丈夫なんてことにあれば万々歳ですが、今の状況がかわらなければ、ファイザーのBA4・5型+従来型のワクチンにするでしょう。

インフルエンザは毎年1月から2月いっぱいがピークです。従ってインフルエンザの予防接種はあまり早くやっても意味がありません。ピークのころに効果が薄れている可能性があるからです。コロナとインフルエンザの予防接種の間隔は、余り根拠はありませんが、一週間も空いていれば十分かと思います。従って、インフルエンザの予防接種も11月末か12月初めでコロナ予防接種と重ならない週を選ぼうと思っています。

これらの日程や接種するワクチンの種類は、なかなか自分の都合で決めるのも難しいでしょうが、何らかの参考にしてください。あくまでも今後のコロナ感染の推移によっては流動的であることは当然です。しかし、まだ毎日コロナによる死亡例は報告されています。特に持病のある方はまだまだ安心しないでください。

 

しっくりこない新聞記事について・続編

先日、気になっていた新聞記事のことを書いたら、話があれよあれよという間に拡大してしまい、メル友グループの中で言葉遣いとかアクセントとか、面白い話題を提供してもらった。その中で、HPOBの菅井君が言っているようにコトバ自体は時ともに変わっていくものだし、現在のように科学技術が人間を置き去りにして変化していくあいだに、感覚もそれを表現する手段としての言語も変わっていくのは間違いないと思う。しかし一方では、やはり自分の時代、という感覚はあるものだし、時代の変化に伴うコトバについていけない、あるいは行きたくない、というような思いもどこかにあるのではないか。有名な 明治は遠くなりにけり、という一句を昭和に置き換えてみることもしばしばある。人間はふたつの時代には生きられない、という龍之介だったか寛だったかのコトバを僕は真理だと思っている一人なので、余計そのような変化に敏感なのかもしれないのだが(もうひとつ、えらそーに言ってしまうと、僕は 二つの時代に生きられる人間 というのはどちらの時代にも真剣に生きられない人間、だと思うのだ)。

いくつかのメールの中で、KWV42下村君が指摘された、国会中継などでよく耳にする、 “……となってございます” という妙な言い回しには小生も困惑するし、いかにも役人コトバらしくて好意が持てない。また同じように違和感が深いのは “いただきます” という文句がめったやたらに使われることである。 そもそもこのフレーズは相手の立場を尊重した丁寧語だったり、食事などの時に使う場合は誰であれ食事を食べさせてくれる人や環境に、単純に感謝を表したりするものだと思うのだが、どうもあの見掛け倒しのいんちき総理大臣が トラストミー とか 少なくとも本土並み、なんて誰が考えても無理な論理をふりまわしながらせめて大向うの歓心を買おうとでもおもったのか、妙な丁寧語を連発しはじめてからではないか。ただ “します” といえばいいだけの場所に本人は丁寧語のつもりらしいが、結果としては慇懃無礼、かえって馬鹿にされたような気持ちになってしまうことが多い。

日常生活の場でも、この “いただきます” が妙な使い方だと思うのが料理番組だ。料理が完成したとき、たとえば、ソースをかけて、….食べます“ といえばいいのに ”……いただきます“ というのはおかしくないか。料理が出来上がったら食べるのは自分であって、他人から頂戴するものでもない。こういう言い回しを重ねている間に本来の意味がかわってくるのか、自分がいただく、のだから、と考えたのか、”あなた、どうぞ、“いただかれてください” と、中年すぎの婦人から言われた時には目をむいてしまった。”召し上がってください“ というゆかしい日本語をご存じないのか。親の顔が見たいものだと思ったことだった。

“いただく” の延長なのかもしれないが “…….あげる” という動詞も妙な使い方をされているひとつではないか、と思うことがある。自分の子供に面と向かって ”バナナをあげるよ“ というのは当たり前だが、第三者と話をしているときに ”娘にバナナを上げる”、とか、さらに愛犬家が例えば友人に向かって、自分の犬に “フランスパンをあげるの” というのはおかしくないか。決してワン君を蔑視するのではないが、この場合は ”パンをやる“ のではないだろうか、と思うのだが。

話はちと変わるが、先回この話題は ”新聞記事で“ という限定詞をつけて書いた。高校時代、新聞会という部活動をしていたときの感覚があったからだ。その意味での付けたりなのだが、記事の内容ではなく、新聞紙面の作り方について、最近 ”!“ と思うことがあった。

新聞記事は特殊な業界紙などを除けば、縦書きの文章が、紙面に10段ないし11段くらいに右から左へと配置される。そして写真とか見出しなどが多くの場合、数段の場所をとって縦書きの文章の間、各所に置かれるから、紙面全体を左右を通してある一つの段が貫通することはない。

船津君と小生が所属していた高校新聞では、記事を書くほか、実際の紙面の割り付けを考え印刷所に指示する作業もあったが、この段階で厳しく言われたのは、右から左へ、縦書きの見出しや写真で遮られない、つまり左右貫通してしまう段がある紙面は ハラキリ と称してあってはならない、ということだった。この常識は今はもうないのか、先日、購読している読売の紙面で、忌むべき(といまだに思っているのだが)ハラキリを発見してしまった。編集作業まで高度に機械化されてしまった時代、よき時代の慣習は顧みられないのだろうか。

世の中、コトバが代わるように人々の美意識や伝統とか慣行に対するある種の敬意、などというものもまた、変わってしまうのだろうか。スマホにテレビ全盛の世の中だが、小生にとって新聞というのはある種の魔術的(?)魅力を発揮しつづけているので、こういうことが気になるのだろうか。