エーガ愛好会 (239)ジュディ・ガーランド 補足  

(安田)レネー・ゼルウィガー主演映画は観ていない、ジュディ・ガーランド本人が32歳の時主演した映画「スタア誕生」1954年公開 を観たことがある。子役時代の「オズの魔法使い」も観た。
ジュディは身長151cmの小柄な女性。片やレネーはノルウェ―系アメリカ人で身長は15cm位高い、外見は好対照。ジュディを一躍有名にした16歳の時の映画「オズの魔法使い」1939年(あの風と共に去りぬが公開されたのと同じ年)も観たが、役の上では小柄でキラキラした明るいアメリカ娘で、4歳年上で1930年代名子役として名を馳せたシャーリー・テンプルをも彷彿とさせた。ただ、二人の成人後の人生の明暗は際立っていた。ジュディの短い人生(享年47)は映画で演じた役とは、私生活では真反対の暗く辛い薬物に苛まれた不幸な人生だった。
ジュディは物心つく頃から、夫婦仲の良くない舞台演劇者の父親とピアニストの母親の両親の末娘(三女)としてショービジネスをさせられていた。母親から「舞台に立たなければ折檻するぞ」と脅かされて育った。体質的に太りやすかった彼女は10歳頃よりダイエット薬として覚醒剤(アンフェタミン)を常用するようになる。これは合法の強壮剤で、舞台の上でエネルギッシュにパーフォーマンスが出来るように母親に強要されたものだった。「オズの魔法使い」の主演ドロシー子役としては歳をとり過ぎ、大人の女優としては若すぎるジュディの扱いに困り果てたMGMはダイエットをさせ子役の年齢にふさわしいより小柄に見える姿に無理やりさせたのだった。爾来、睡眠剤の過剰摂取で死を迎える47歳までの私生活では、覚醒作用のある薬物と鎮静作用のある薬物による処方薬への薬物依存と、重度のアルコール依存症に見舞われ、度重なる自殺未遂と薬物騒動を起こしながらも不死鳥のように「オズの魔法使い」、「スタア誕生」、「ニュールンベルグ裁判」といった名作で輝かしく蘇り、伝説的女優として語り継がれる彼女は薬漬けの人生を薬で終えることとなった。そこには、この天才少女を10代の頃から馬車馬のように働かせるため薬物を与え続けた毒母の存在があった。毒両親の犠牲になった天才女優の伝記映画は観るに忍びない気もする。
不幸極まりないジュディの私生活であったが、映画鑑賞者としては彼女の歌唱力・演技力に十二分に楽しませてもらった。不世出の天才女優のひとりだと思う。5回の結婚をして、二人目の夫がイタリア系アメリカ人の映画監督のヴィンセント・ミネリ、二人の娘がライザ・ミネリ。母親から歌唱力の素晴らしいDNNを受け継いだのは間違いない。両眼の間が結構広い顔立ちは母娘そっくりだ。
「虹の彼方に」でジュディ役を演じたレネー・ゼルウィガーは彼女のデビュー直後(1990年代)から気になっている女優で、「ザ・エージェント」(トム・クルーズと共演)、「ブリジット・ジョーンズの日記」シリーズ、「シカゴ」、「コールド・マウンテン」(アカデミー助演女優賞受賞)を観ています。彼女がどんなジュディ・ガーランドを演じたのか大変興味がある。チャンスがあればこの映画を観たいと思う。

(飯田)

映画「ジュディ 虹の彼方に」は観ていませんが、小泉さんの解説と鑑賞後の評論並びに安田さんのジュディ・ガーランドに纏わるエピソード&評価を読ませて頂きました。

ジュディ・ガーランド出演映画の評価については、私も安田さんの評価と略同じですが、彼女の主演映画で「イースター・パレード」(1948年)はミュージカル映画として忘れられない作品です。もう一つ、ジュディ・ガーランドについては、私は6~7年ほど前に娘家族が住んでいたセントルイス(ミズリー州)に約1カ月滞在したことがあり、そこからカンザス・シティなどへ足を延ばしていた頃、彼女がセントルイスやカンザス・シティで、特に人気があったことを知りました。その理由の一つは、彼女の主演する映画「Meet Me in St.Louis(邦題:若葉の頃)」の舞台がこの地方であったためでした。

後日に、娘からビデオを送ってもらったのですが、スーパーインポーズの無い英語版でした(添付はビデオのカバー写真)。この映画1903年から04年、セントルイス万国博覧会を控えた古き良き時代のアメリカ、セントルイスを舞台に、中流家庭のゆったりとした4つの季節の情景を、美しいカラー映像で描写したミュージカル映画。日本では知る人ぞ知る作品ですが、アメリカでは公開当時、第2次世界大戦の暗い世相に疲れた人々の心に琴線に触れ大ヒット。現在でも、ミュージカル映画の枠を超えた、不朽の名作の一つに数えられています。

(菅原)飯田 さん、懐かしの、マーガレット・オブライエン!