”情報の氾濫” 記事について   (44 安田耕太郎)

アナログからデジタルへの移行、ITの革命的普及、コミュニケーションと情報伝達の手段の変革と多様性は種々な問題を惹起しています。とりあえずのフィードバックという感じで幾つか思い浮かんだ事柄を順不同に述べます。
(1)表意文字としての日本語の表現力の豊かさは再度強調するまでもありませんが、表音文字の世界の場合、表現力はそれほど豊かで、深くはないように思われますが、正直言って分かりません。単に僕自身の理解が不足しているだけかもと感じる次第です。
(2)アメリカを足繁く訪れた際、Critical Thinking!(批判的思考) Independent Thinking!(自立的思考)の重要性を口を酸っぱく強調されました。でもその意味内容が正しく理解されているか?、とりわけ現代のい世代には・・・。危うさを感じています。中途半端な理解でファッションとして、表面的に上滑りをしているだけではないのかと・・・・、思う時があります。
(3)それとの関連で、新しいメディア、ツールに関しても全面的には信用はしていません。本当かな?そう断言できるのだろうか? そうはいっても・・・、という留保や異論反と疑問が常に付きまとっています。僕自身の猜疑心や批判精神も反映しているとは思いますが。フェイクニュースの類の危うさも然りです。
(4)海外でPh. D.をとった人や留学帰り人の中にも基本的な問題意識が希薄で単なる語学使いと思わざるを得ない人も散見されます。                       
(編集子)以前に議論した 英語教育の問題 にも関係する話題である。海外の諸事情に詳しい方々のご意見をうかがえるとありがたい。

エーガ愛好会 (238) ジュディ 虹の彼方に  (34 小泉幾多郎)

ハリウッド黄金期のミュージカルスター、ジュディ・ガーランドが47歳で急逝する半年前の1968年冬に行った日々を鮮烈に描いた伝記ドラマ。大人にダメにされた子供のまま中年になった悲劇の歌姫ジュディに扮するのは、レネー・ゼルウイガー。この映画で、アカデミー賞、ゴールデングローブ賞主演女優賞を獲得している。

子供時代の描写は、晩年のジュディの回想として描かれるが、虐げられ過ぎて救ってあげたくなる。現在我が国で問題になっているようなセクハラ問題や慢性的に強制的ダイエット等覚せい剤投与により、神経症とドラッグやアルコール漬に嵌ってしまう悲劇。救いは、ジュディの歌。ジュディを演じたレネーは、ジュディの奔放で愛すべき女性像、圧倒的なカリスマ性で人々を引き付ける姿を再現させて見せただけでなく、ジュディの歌を再現させるべく、2017年映画の話が来てから、その翌年にかけて、自分の身体から、ジュディの声を出すため、声をパーツに分け歌のトレーニングに励んだという。映画完成は2019年。順番に、レネーがジュディに扮した歌唱を披露して行く。

1.      バイマイセルフ ロンドン初日の舞台から、歌えないと駄々をこねながらも「バンドがいた。使った方が良さそうね」と言いながら、自分の道を歩いて行く、これからもずっと一人で歩いて行くと唄う。
2.      トロリーソング 踊り子を従えながら、子供の頃、眠れずお付きの者から薬を常用するようになったこと等を思い出しながら唄う。
3.      ゲットハッピー 知己になった同性愛者二人と一緒に彼等の部屋のピアノで唄う。当時の同性愛への偏見に対し「自分たちと違う人間を気に入らないなんて糞食らえ」なんて言いながら。
4.      フォーワンスインマイライフ 「新しい恋人シドニーを思い、愛する人がいるから前に進める」と唄うものの、飲んだ後の出演で、観客から罵声を浴び「ろくでなしのひい爺」なんて暴言を吐いたりする。
5.      サンフランシスコ 此処はシカゴ、ロンドン、サンフランシスコ?等と言いながら、再び飲み過ぎが原因から舞台で倒れる。口だけでは、「素晴らしいショウを皆さんにお見せする」と口走るが。結局クビになる。
6.      カムレインオアカムシャイン ジュディの代りに、ロニー・ドネガンが採用される。ジュディが頼む。「ロニー、よかったら一曲だけ唄わせて呉れない?雨が降ろうが晴れようが、二度とここには出演できないし」。他の誰よりもあなたを愛するわ。栄光とと絶望様々な重圧に苦しみながらも自分の道を一人で歩いて行こう。私たちはいつも一緒。大歓声に包まれる。
7.      虹の彼方に 虹の彼方にどこか遠く空がとても青くて、そこでは、どんなに大きな夢も必ず叶うらしい。途中、ジュディが唄えなくなると観客が揃って唄う。絶望を繰り返しながらも幸せを諦めなかったジュディの伝記の終焉。

 

 ジュディ・ガーランドは、アメリカ合衆国の女優、歌手。 子役として出演した『オズの魔法使』で大人気を博し、以後も『若草の頃』、『イースター・パレード』、『スタア誕生』などで抜群の歌唱力を披露してハリウッド黄金時代を代表する大スターの一人となった。娘は女優のライザ・ミネリ。

(編集子)Over the rainbow  という曲は親しみがあるが、エーガとして意識したことはなかった。この人のことも名前だけであまり記憶がない。小泉さん、すみません。

 

台湾総統選と米国不法移民の話

11月3日付読売新聞に台湾の総統選について興味ある報道があった。今まで、全く興味はなかったのだがこの話は非常に面白いと思った。既存の政党間でのせめぎあいの中で、突然登場した柯文哲という人の話である。

同氏は今や台湾を混乱させつつある中国との関係について、中国との統一論も台湾独立の議論も、議論するだけ無駄だ、という。いわく、米国は中国と台湾の統一を許さず、中国は台湾の独立を許さないという現実は、解決の方法もない議論だ。解決のできない問題に30年も議論している方がおかしい。いまの台湾、という現状をそのまま認めればいいではないか、と主張するのである。詳しいことはわからないが、現在の台湾は平和だし、経済も順調、半導体の分野にあっては一方の雄として君臨している。この現状で何が悪いのか、という極めて単純な理屈である。このことは小生にすんなり納得できる。

同じ日、違う紙面に 変容する米国 というシリーズの3回目があって、ここでは不法移民の激増で混乱している米国の現状の報告があった。見出しが 揺らぐ寛容 とあるのがその深刻さを物語っている。トランプの有名な メキシコとの壁 でこの問題の異常さがクローズアップされたが、その後バイデン政権になって見直しがあり、またぞろ膨大な数の不法入国が後を絶たない。国境沿いのテキサスやアリゾナは彼らをまとめてバスに乗せ、内陸部の大都市へ放り出す、という乱暴な対策に出ている。この結果、ニューヨークやシカゴではシェルターが足りず、対策に巨額な費用が掛かり、犯罪が急増し、職を奪われる人が増加する、という結果となって 街が壊れる という危機意識が醸成されつつあるようだ。いうまでもなく米国は移民によってつくられた国であり、欧州各国にくらべればこういう事態にもいわば国是として寛容さを保ってきたわけだが、このままで推移すれば、米国の人口の最大のパイはヒスパニック系になると予想されるとなれば、もうその寛容も限界に近付きつつあるというのが実態なようだ。

かたや欧州ではアフリカや中近東からの移民、とくにアラブ人の入国が増え続けているが、この内陸部の国々が抱える問題を考えてみると、米国も欧州も他国と地続きであり、人間の移動を阻むことが困難な一方、ひとたび入国し定着すればことなる一神教のせめぎあいという問題を避けられない。これに対し、台湾は大陸と海によって隔てられ、温和な国民性と単一文化をはぐくんできたといういわば地政学的な差がある。そしてそのことはそっくり日本にも当てはまる。同じ漢字文化の国とは言え、韓国は大陸と地続きの半島国家であり、事情は異なってくるだろう。

先日、イスラエルの事情についての議論の中で、現在起きている戦争状態のなかで日本はどうするか、という課題について触れたが、その中で我が国の地政学・物理的な位置、単一民族単一文化、実質的に無宗教、などという、この意味では現在苦悩している大陸国家に比べて有利にはたらく天与の優位性を生かして、現実を素直に受け入れた、現実に即した国策ということを考えるべきだと書いた。硬派(?)の船津於菟彦なんかからは おめえ、何言ってんだ、と怒られたが、どんなものだろうか。

神無月ふたつの旅     (普通部OB 船津於菟彦)

神無月は二つの撮影旅行をして通り過ぎのエトランゼとしての秋を感じる写真を撮ってみました。
先ずは海野宿塾から姥婆捨山棚田から松本城、そして月末には日光杉並木公園〜日光田母澤御用邸〜竜王峡、そして町田の薬師池公園、それぞれの秋です。
姨捨の芭蕉の句  「おもかげや姥ひとりなく月の友」  「更級や姨捨山の月ぞこれ  虚子」
松本城でスワンが一人秋を待つ
昔こんなデートもしましたねぇ 静かに二人でゆったりとした行く秋を愛でる-町田薬師公園
我が家からの秋の夕陽 燃えるような夕景。時は巡り今年も霜月と師走になりました。元気一杯愉しく人生100歳時代を謳歌して参りましょう

パレスチナ―イスラエル問題に思うこと

(平井)この問題は本当に根が深く、一番の問題はイスラエルの建国にあたって、携わった主要国がパレスチナのことを忘れたことが大きな間違いだったのだと思います。二つの国を認めるべきです。一神教の原理主義者たちは、他の宗教を認めませんから、恐ろしい事になりますね。人間にとって宗教はとても大事ですが、人間の英知がそれを超えてコモンセンスに立ち返らないと「共生」は無理です。他の民族を根絶やしにするなんて本当に恐ろしいです。ネタナヤウはそれをし兼ねない人物と思います。即時停戦を願うばかりです。

(中司)この問題、我々には到底理解できない感情問題、民族性、宗教などが絡み合っていて、傍観するしかすべはありませんが、それにしても腹が立つのは、中東をはじめこの辺の問題の種をまいたのは英国であるということです。バルフォア宣言しかり、サイクスピコ協定しかり、当時の帝国主義の結末ですからね。最近読み直した逢坂剛のイベリアシリーズという小説群にも出てきますが、英仏などが国の権益、と何食わぬ顔でいいつのるのはすべてこの種の勝手な理屈の産物だ、といわれても仕方がないのだと思います。その点、わが日本はアジア諸国を簒奪しようとしたと言われて引っ込んでいますが、その結果、英仏の植民地が独立できたわけですから、インド、フィリピン、インドネシア、タイ、これら諸国が引いたくじと、パレスチナが引かされたくじの違いは大きかったわけですよね。

しかし聖書の記述にさかのぼって悪者扱いされ、世界を放浪せざるを得なかったユダヤ人(同じアラブ人なのに!)がようやく作り上げたイスラエルという安住の地に強烈な意識を持つのも理解できます。どうしたらこの悲劇は終わるんでしょうかね。これに比べればロシア―ウクライナ戦争などは単純な領土争いで、いわば自業自得の結末に見えてきます。グローバリゼーションに乗り遅れたとか、何とか、例によって西欧礼拝主義者がいろいろいいつのりますけど、海に囲まれた島国であり、言ってみれば無宗教であり、引っ込み思案で自己主張がなくて、アメリカのポチで、でも80年間の平和が保たれる日本、それで結構じゃん、といいたくなるんですが、だめかなあ。

(船津)國の無いユダヤ-イスラエル-も大変かと思いますが元々アラブの國ですよね。無理矢理独逸など世界から追われた民がやっとしがみついた土地でもありますが、分捕ったことには違いありません。パレスなのガザ地区へ押し込められた民は苦渋の日々だと思いますね。平和を願います。

(菅原)触らぬ神に祟りなし。でも、何かあるだろう、と言われれば、一神教から多神教への改宗だ。誤解を畏れずに言えば、例えば、英国の二枚舌、三枚舌を非難したところで、「覆水盆に返らず」であって何の意味もないし、何の解決にもならない。一神教の人から見ると、多神教の日本人をどう評価しているのだろうか。

ファイサル1世と写真に写るロレンス(右から2人目):

(安田)映画でお馴染みの「アラビアのロレンス」ことイギリスの軍人トーマス・エドワード・ロレンスは政府の命令を受け、彼の地の支配者オスマン帝国に対してアラブ人の反乱を支援・主導し、遂にはオスマン帝国を駆逐することに一役買った。アラブ人たちはオスマン帝国が去った空白地帯にはイスラムの国、パレスチナ国家の建国を旗印にしていた。ロレンスもそのつもりで尽力した。ところが、イギリス政府の頭にはオスマン帝国を駆逐した暁にはイスラム国家、パレスチナ国家の建国など毛頭なく、バルフォア宣言に沿ったユダヤ人国家イスラエル建国が意図されていたのだ。ロレンスは知らされておらず自国政府に謀られていた、利用されていたことに後年気づき、落胆し、不幸にもオートバイ事故で早逝した。この第一次世界大戦以降の中東国際政治の場でイギリスはそれほど老獪に立ち振る舞ったという具体的事例で、覆水盆に返らず。人間のやることの理不尽さは他にも「国連常任理事国の選定と拒否権」に見て取れる。不公平極まりない国連の規定である。これも第二次世界大戦後のPower Politicsの遺物だ。

日本人には理解しがたい宗教観、更に人間の業、煩悩に起因する如何ともしがたい人命の犠牲を強いる民族間の闘争の現場がパレスチナ・イスラエルだ。この問題の解は、当事者が皆等しく満足し、円満に着地点に到達出来るかどうかという観点では、無いと断言できる。この点、ウクライナ戦争は単純明快で分かり易い。人間の限界を見せられていると感じる。

日本にとって危惧されるのは、アラブ全体に火種が延焼し、オイルの供給とシーレーンの安全が担保され続けるかどうかという点、更にアメリカ国内のユダヤ社会の政治的影響力の大きさからイスラエルへ軍事的肩入れをする羽目に陥れば、対ロシア、対イスラム諸国の二正面に力をそがれ、極東の一番の仮想敵国中国への対応が手薄になる可能性があるという危惧がある。ロシアと中国はイスラエル・パレスチナ問題におけるアメリカの介入は勿論大歓迎に違いない。バルカン半島のサラエボでオーストリア皇太子が暗殺されて第一次世界大戦が勃発したように、小さな火種が世界大戦へと飛び火しかねない。現在のウクライナ戦争、パレスチナ紛争はすでに第三次世界大戦が始まりつつある端緒と指摘する識者もいる。本当に憂慮される事態だ。

信玄祭りです  (グリンヴィラ総合管理HPより転載)

今日も秋晴れ!過ごしやすい良い天気でした。さて、今日から甲府で信玄公まつりが始まっています。今年の信玄公役はモデルの冨永愛さん!見たいけれど・・・ものすごい人出なのでテレビで見ることにしました。

今年はグルメフェスなども開催していますので出陣を見ずとも楽しめると思います!

エーガ愛好会 (237)地下室のメロディ を巡って

(金藤)10月は 未鑑賞の「地下室のメロディー」を観ました。

テーマ曲はCMにも使われていてよく耳にした曲でした。
刑期を終えて出所した歳をとったギャングのジャン・ギャバンがカンヌのカジノの地下金庫から巨額の売上金を盗む計画を立て、実効役に以前刑務所で出会っていた若くてハンサムで身のこなしが軽いアラン・ドロンを誘い、計画を実行に移します。 アラン・ドロンがダクトを這っているシーンを観ていて、昔、このシーンだけTVで見た!記憶が甦りました。他のシーンは観ていませんでしたから、ハラハラする部分もあり、最後は? あらあら まー 。
ところで「地下室のメロディー」という題名はどこからつけたのでしょう?
地下室の というより、ストーリーの進行中、場面の切り替え毎に効果的な曲の使い方をしていると思いました。
さて、それより、先月この欄で書きました、愛好会の皆さまの間で話題になっていた映画というのは、この「地下室のメロディー」ではなくて、「死刑台のエレベーター」だったのではないかと思います。 勘違いしていたのに今、気が付きました 。

(安田)味のある何とも男振りの素晴らしいジャン・ギャバンの引き立て役だったような少し薄っぺらく見えたハンサムボーイのアラン・ドロンでした。59歳と28歳では貫禄の違いは如何ともし難いか

(船津)題名もおかしいし。二人の有名俳優の割にはつまんねーエーガ。

(編集子)これほど落差のある感想も珍しい。ご両人の年齢が逆なような。

(金藤)この映画ではジャン・ギャバンの落ち着いた風格とアラン・ドロンの軽い若者の役柄が対比していて私は面白く思えました。 最後のプールサイドでただ座って見ているばかりのジャン・ギャバンの様子は可笑しく思え、この二人の名俳優が主演で軽い映画もちょっと洒落たユーモアのある映画に思えました。 私が軽いからでしょうか?

(安田) 「死刑台の・・」の音楽を担当したマイルス・デイビスのトランペットは極上でした。彼のトランペットを聴くだけでも価値あり。闇に落ちた不安を気怠いトランペットが雄弁に奏で恋人二人の運命を語っている。この映画でデイビスとジャンヌ・モローは恋仲になったそうです。

(編集子)小生もやっこと同じ、”死刑台のエレベータ” とごっちゃになったまま見て、気がついたお粗末。フィルム・ノワールについてはいろいろと感想が違うようだが、小生はなんといっても同じギャバンものの 現金に手を出すな がよかったなあ。音楽も下っ端のすむパリのやるせない毎日という、このテーマの雰囲気にフィットしていた気がするけど。これがモダンジャズじゃあだめだったよな。マイルス君、ごめん(あんたのCDはよく聞いてるけどね)。
ちょっと話がずれるけど、”悪魔の”
と同じころでた、”サイコ”。新聞の広告合戦がすごくて、よし、午後はさぼって日比谷へ行こう、と張り切って教室へ行ったら、その階全部の教室の黒板に サイコの犯人はアンソニー・パーキンス です! と殴り書きがされていたことを思い出した。やはり、若者みんなエーガ、の時代であったのだな。高あく、あらあたに、生きんかなあ!なんて言ってた頃だ。ところで早慶戦はどうなったんだっけ?

 

情報の氾濫について―赤阪氏の論評を読んで

安田君経由で赤阪清隆氏の論評を拝見する機会があった。同氏の幅広い御見識には膝を叩いて同調することも多くあった。特に日本という国、というか日本人、が西欧文化の基本にある自己主張という事が苦手であること、は外資系会社を全うしてみて身に染みたことであったし、同氏のご意見には100%同意するものだ。そのために、英語で考えなおかつ日本人の心情を理解し発信する能力を持つ人の少なさを憂慮されることもその通りだと感服する。

同氏はこの点から論点を現代の情報発信のありように転じ、新聞というツール(メディアという用語が正しいのかもしれないが、論点がボケないように道具、という意味でこの語を使うことにする)の衰退、新しいインタネットやSNSの興隆にとってかわられつつある現状について述べておられる。若くして新聞記者を志したものとしてかなり複雑な心情であるけれども、この点についても同氏のご指摘は認めざるを得ない。このことは新聞ということに限らず、若者の活字離れというか本離れという別の要因から起きている現象と共鳴して起きている問題だと思う。

文字離れ、という現象は日本だけでなく世界規模で起きているわけだが、漢字文化圏すなわち日本、韓国、中国においては、”文字離れ” が引き起こす混乱はアルファベットしかない西欧圏の場合より、はるかに大きな問題であろう。漢字という記号が持つ、それ自体が表意文字であるがゆえに果たす機能が、“読まない” という行動によって破壊されてしまうと考えるからだ。”あおい” というコトバがアルファベットというか表音文字としての機能だけでとらえられ、”読む” という動作がなくなれば、それを漢字で書いた場合に ”青い” のか ”蒼い” のか ”碧い” のかはたまた ”藍い” のか、その単語そのものがもつニュアンスが伝わらなくなる。その意味で、”文字離れ” という現象が持つ意味は西欧社会の場合よりも深刻なもののはずだ。このことを単に 最近の若者は文字を読まない、困ったもんだ、という程度の関心ですませてよいものなのだろうか。また、情報が本や新聞というツールによって広まった時期から、ラジオというメカニズムを通じて耳から拾われる時期を、さらにテレビの普及によって、イメージがそのまま解釈される時代になった。そして今やインタネットによって個人が発信する情報のツールもまた、文字でなくイメージで送れるようになり、情報伝達のツール の変革については今やだれも否定できない現実になった。

此処までは赤阪氏のご指摘、問題意識に大いに納得する。しかし、同氏が結論的に指摘される、このような変革によって、個人がいろいろなツールを使って情報発信すること、それがこれからの情報社会を形作る、としておられることに小生は違和感を覚える。

赤阪氏がいわれるのが、”ツールが変わり、個人の情報発信が変化していく“ という事実の確認であればその通りだと思うのだが、この社会現象が ”文字を読まない、新聞を読まない“ という現実を(やむを得ずであろうとは推察するが)肯定というか黙認しようとしておられるのではないか、という不安を持つ。

新聞、ラジオというメカニズムを通すことによって、雑多な情報はある方向性を持った形で伝播する。ここでは新聞なりラジオ局なりの意見が反映されるから、個人の発信する個々の情報とは同一ではなく、その機関の意向が常に正しいという事はあり得ない。しかし個人個人が自分の解釈だけにもとづき、また悪意がある場合には捏造を含めて、情報を散布するということの恐ろしさを我々はもっと真剣に考慮すべきではないか。以前、本稿で大衆社会という、かつては社会学者の間で現代社会に混乱をもたらすであろう帰着として危惧されていたことがすでに現実化しているのではないか、という不安について述べた。政治形態として民主主義を基盤とする国家は、その基本思想のゆえに衆愚政治となりえる危険を避けられない。この冷酷な事実に重ねて、”文字を読まない“ 現象が高まってゆけば、社会は方向性や倫理性を欠いた情報の氾濫に支配されてしまう衆愚世界に堕落するであろう。

赤阪氏のご指摘は今起きている社会現象の説明として誠に正しいと思うのだが、その結果をいわばただ楽観的に、というか直線的に、個人の情報発信のもつポジティヴな面のみを強調されているのではないか、という印象を持ってしまった。すでにいろいろな局面で起きているフェイクニューズの氾濫をはじめとする諸問題にどう対処していくのか、ということについてのご見解を期待したいのだが。

日光杉並木    (普通部OB 船津於菟彦)

全日本クラッシックカメラクラブという無くなりつつ有る写真フィルム-絶滅危惧種救済団体-が1900年頃からのクラッシックカメラで酔狂に撮影してる「老人クラブの年に一度一泊旅行。新宿を八時に出てバスは今市ICで下りて日光杉並木公園へ。

日光杉並木は、日光街道、日光例幣使街道、会津西街道のうち、旧日光神領内にあたる大沢 – 日光間16.52キロメートル、小倉 – 今市間13.17キロメートル、大桑 – 今市間5.72キロメートルの3区間の両側にスギが植栽された並木道の総称である。総延長は35.41キロメートルに渡り、世界最長の並木道としてギネス世界記録に登録されている。江戸時代の徳川幕府が五街道をはじめとする主要な街道に松や杉などの並木を整備したが、そのなかでも現存する旧街道の並木として特に有名である。向こうからお侍様が来そうな感動の道だった。

エーガ愛好会 (236) クイック・アンド・デッド  (34 小泉幾多郎)

 表題The Quick & the Dead 早い奴と死人、早撃ちだけが生き残るとなれば、寂れた西部の田舎町リデンプションの目抜き通りで、年に1回開かれる早撃ち勝負が繰り広げられるという映画。その主要メンバーが豪華キャスト。個性派、性格俳優の異色スターを集め、癖のあるキャラクターが続々登場する。

その一番手が「氷の微笑」でセクシー女優No.1の地位を確保したシャロン・ストーンで、制作にも携わったことから、どうやら彼女の意向もあり、当時オーストラリアの名優ラッセル・クロウを相手役に、更に当時若手のホープだったレオナルド・ディカプリオを交渉して出演させたらしい。また当時悪役ならこの人と言われたジーン・ハックマンも登場。監督も彼女の意向もあったらしいが、ハイテンションな演出ホラー映画等で名を挙げたサム・ライミ監督が、マカロニウエスタン調も取り入れたりしながらも西部劇で再びその枠の収まらないような新境地を名優たちを使い楽しませて呉れた。

ストーリーは、幼少期に、この田舎町の権力者として支配しているジョン・へロッド(ジーン・ハックマン)に父を殺され、復讐を目論む女ガンマンのエレン(シャロン・ストーン)が、年に一度の早撃ち大会で、ガンマンとしても高い実力を持つへロッドに勝利するまでを描く。町の酒場兼宿屋のマスターであるホレイス(パット・ヒンクル)が早撃ちの進行役を仰せつかるが、大会の参加者は16人ぐらいだったのか。それぞれの決闘場面が続く。2回戦ぐらいから描写するとエレンは幼女に悪さをしたトレドという男、泣いて命乞いをされ見逃すも酒場に戻って再襲撃され射殺。ヘロッドは賞金稼ぎの17人を殺したと豪語した殺し屋クレイを射殺。息子キッドは先住民ホースと対決、体中に弾痕があるような男だが、必死の抵抗も及ばず射殺。コートは脱獄囚の男を射殺。という具合にしてエレン、ヘロッド、コート、キッドのスター4人が残り、いよいよヘロッド対キッド、エレン対コートの準決勝。ヘロッド対キッドの父子対決、常識では考えられない。父親に一人前と認められたいの気持ちと言うが、それだけでない何かがあるのだろう。結果は父親が息子の腹を撃ち勝利。
「息子が自分の子供だという証拠はない」とのセリフには驚く。エレンとコートの戦い、倒れたのはエレンだった。しかしこれは赤インクを使っての偽装だった。最後の決戦は翌日。翌早朝決戦はコートでなくエレン対ヘロッド。ヘレンはヘロッドに正体を明かし、決闘へ。遂に父親の仇をやつけることに成功。ヘロッドが万一やられたときは、ヘレンを殺すよう隠れていた二人の部下もコートの手によって射殺。父親の保安官バッチをコートに預け、この町の治安を頼んだヘレンは町を去って行った。

以上ストーリーは他愛ないマンガと言えばそれ迄乍ら、シャロン・ストーンのセクシーな服装、行動は魅力的、共演者3人の男優陣も夫々魅力的で楽しめた。

(編集子)俺、こっちのほうがいい。