四万温泉 元禄の湯  (42 河瀬斌)

家内がテレビの放映を見て、ぜひ行きたいというので、340年の歴史を記す四万温泉、積善館に泊まってきました。四万は新幹線上毛高原駅からレンタカーで中之条経由でわずか80分で着きました。
温泉は度々洪水に見舞われた歴史から、その奥に防災用の奥四万ダム湖が作られましたので、温泉に行く前にまずそれを見に行きました。周囲の山はまだ紅葉していませんでしたが、まずその水の色に感動;「青の湖」は北海道、富良野にもありますが、ここはその比ではありません。見事なトルコブルーなのです。ダムの上流にある温泉のためにこの色になったそうです。写真左の高台に展望台があります。
 そのあと積善館に行きました。玄関には川の上の赤い橋を渡ります。この旅館の発祥は1691年(元禄4年)で、1694年に湯宿として旅籠宿を開設し、15代目の当主が『積善の家に余慶あり』と旅館の名前を積善館としたのだそうです。明治に至るまで温泉客はなんと200年以上もの間馬と徒歩でやってきた、という時代を経てきたのです。その当時湯治客は2週間ー1ヶ月は滞在するつもりで、馬の背に食料、布団を積んではるばる徒歩で峠を越えて温泉に来て、ほとんどが自炊したそうです。そのうち叶屋という食材屋の注文取りもできたようで、食材の通帳まで作ったものが残っています。現在ある本館はその当時の建物で入り口付近に「馬を繋いで磨り減った柱」が今でも立っています。
写真右の川に面した一階の建物は昭和5年に玄関前に建てたコンクリートの「元禄風呂」です。その上に木造の欄干のある部屋が乗っています。元禄風呂は現在も使用可能で、私も入ってきました。湯船は5つもあるので、中に入ると個人風呂の気持ちになります。また右の壁下に1畳ほどの大きさのタイル張りの半座位の寝床がついた個室「サウナ」(温泉の高熱蒸気でサウナになる)が二箇所あるのには驚きました。しかし体が洗えないので、近年シャワーコーナーも一箇所作られています。脱衣室はなく、温泉の中に着替え所がありました。上が丸いデザインの窓はとても明るく、昭和初期にはとてもハイカラだったでしょうね。(入浴中は写真に撮れないので、下記の風呂の写真は旅館の案内に使用されたスライドです。写真の右は当時丸窓を作るときに参考にした外国の温泉のようです
本館の玄関に入ると「番頭部屋」と札があるところが旅館の受付です。その隣には「帳場」(会計)があって、昔使ったたくさんの「勘定元帳」が下がっています。右側には大きな金庫も据えてあり、中央には古い火鉢が置いてありました。
その右の部屋は「オジョウダン」と言われる「上段の間」があります。10センチほど高く作られた8畳間で、細かな格子で装飾された欄間、障子と掛け軸の下がる床の間があり、身分の高い代官やその手下が泊まった部屋のようです。
積善館本館は赤い橋を渡りますが、付近の道は狭いので車は通れません。車は少し手前の川岸の共同駐車場に無料で置くことができます。
 現在の積善館は三種類の建物に分かれています。最も古い本館はまだ宿泊もできます。また本館内には昼食処も新しく作られ、川の向こうの棟には「週末用の昼食処、「薬膳や向新」まであります。本館の裏の山の上には昭和11年にトンネルを掘って増築建設された「山荘」がエレベータでつながっています。この建物の部屋は古びたように見えますが、欄間の装飾がたくさんあり、一見の価値があります。さらに昭和61年にはその上の松林の中に新しく増築された「佳松亭」があり、大きな露天風呂のある大浴場があります。宿泊者は三つの棟のどの温泉にも自由に入れるようになっています。本館の入り口は狭いので、佳松亭に入るには道路から迂回した別の道を通ると本館とは別の駐車場があります。
 私はその8階、最上階の部屋に運良く予約が取れたので泊まってみました。巨大な赤松の幹越しに温泉を見下ろす日本間と露天風呂付きベッドルームの部屋の広さは半端ではなく、凝った和食料理は素晴らしいものでした。 しかし古い温泉の歴史が好きな方はぜひ本館に泊まってみることをお勧めします。

(保屋野)四万温泉の「積善館」、旅行好きには一度泊まりたい憧れの旅館の一つですね。見聞記ありがとうございます。四万温泉には、もう一つ、昔「美人女将」で有名だった「やまぐち館」もあり、どちらにするか迷うところです。

積善館に似た(文化財建物の)旅館が湯田中・渋温泉の「金具屋」で,一度泊まったことがありますが、やはり建物、設備等が古く、イマイチだった記憶があります。私が泊まったことがある、数少ない高級な有名温泉旅館は、和倉温泉の「加賀屋」、山田温泉の「藤井荘」、かみのやま温泉の「古窯」等ですが、最高だったのは、鹿児島・妙見温泉の「石原荘」です。機会があったらぜひ泊まってみてください。

エーガ愛好会 (235) マーベリックの黄金  (34 小泉幾多郎)

「マーベリックの黄金」は1971年制作、ユル・ブリンナー主演、テキサスを舞台に、黄金をめぐって、無法者たちが強奪合戦を演じる西部劇。原名Catlow は、主演ブリンナーの役名。「マーベリック」というと米国1957年制作ジェームス・ガーナー主演で、5年間TV放映され暴力よりも口達者な西部男による軽妙なドラマ作りが受け、日本でも1961年に放映され、楽しませてもらった記憶がある。1994年には、リチャード・ドナー監督、メル・ギブソン主演で映画としてリメイクされた。つい最近の2022年には、トム・クルーズの出世作、「トップ・ガン」の続編「トップガンマーヴェリック」で史上最高の腕前を持った伝説のパイロットのマーヴェリックを演じ大ヒットした。

Marverickとは、独自路線を往く一匹狼、異端者、無所属という意味を持つらしい。焼き印のない放牧牛を示したりもするとのこと。この映画では、持ち主
不明の黄金をめぐっての無法者たちの盗り合いということから、題名としたようだ。

ストーリーは、牛泥棒キャットロー(ユル・ブリンナー)を南北戦争当時の友人でもある保安官カワン(リチャード・クレンナ)と牧場主たちが選んだガンマン、ミラー(レナード・ニモイ)が追いかける話。キャットローが焼き印のない牛を盗んでも罪でないと勝手なことをほざくことも題名に由来するのだろう。そのキャットローがメキシコで持ち主不明の200万ドルの黄金を奪取する計画をたて、奪取して砂漠へ逃げ込むが、追手やインディアンの追撃に遭ったりして、卍巴えの大混戦。カワンがメキシコ将軍の甥をインディアンから助けたり、諸々の事件があり、メキシコ軍の駐屯地に落ち着き、町を挙げての大舞踏会が開催される。その間、ローと情婦ロジータ(ダリア・ラヴィ)、カワンと将軍の娘クリスティーナ(ジョー・アンブフルーク)との関係が発展したり、黄金をめぐる争奪戦も最後は、ミラーの追撃を受けたカワンが傷つきキャットローがカワンの銃でミラーを倒し、カワンのバッジを胸に付け「囚人は俺が届けるよ」とカワンをクリスティーナに託して去って行き、終幕。主人公であるキャットロー自体が、牛泥棒を演じるブリンナーは善悪付けずらいところへ、追いかけるカワンが元友人であり、牧場主が依頼したミラーも本来は悪人ではないとなると善悪がすっきりしない。

この人は ”ランボー” のほうが馴染みがあるようだ

まああまりそんなこと気にせずに、三つ巴の争いにインディアンとの戦いを楽しめばよいのかも知れない。主人公ブリンナーも役柄を楽しみながら演じており、いつもと違うユーモラスな演技を見せていた。それにしてもマーベリックの黄金は、どうなったのだろう。カワンは黄金は南軍のものだったから米軍に返還すると言っていたが、愛人クリスティーナとメキシコに残るとするとキャットローがちゃっかり掠め取ったかも?

 

例によってグーグル解説のお出ましを願おう。今回の解説はどうもわかりにくいが、いわく:

マーベリック(maverique)は英語の「maverick(一匹狼、独自路線を行く)」とフランス語の接尾辞「-ique」を組み合わせて作られたジェンダーを表現する名称で、男性でも女性でも中性でもない「独立した性別」を指します。性自認が男性・女性どちらにも当てはまらない「ノンバイナリー」に含まれ、「マーベリック」は男性・女性と同じでそれ自体が独立した性別です。

パレスチナ問題について―追補 (44 安田耕太郎)

掲題に関する興味深い記事(講談社が2010年より配信しているWebマガジン「現代ビジネス」)を読みました。全文を引用の上、ご紹介します。著者は堀有伸。1972年東京都生まれ。精神科医。東京大学医学部卒。大学病院勤務を経て、2012年から福島県南相馬市で精神医療に携わる。現在、ほりメンタルクリニック院長。

******************

(編集子)引用されている原文はかなり長文なので、小生が特に疑問に思っている背後の宗教に関する部分だけを借用、転載する。ご容認いただきたく。

*******************

パレスチナ問題についての考えにくさは、知識の不足だけに尽きず、日本人にとって二つの水準で深層心理的な抵抗が働くことにも由来している。

一つは文化・宗教的なもので、中東情勢の抗争の中心にあるイスラエルのユダヤ教、パレスチナのイスラム教、それに濃厚にかかわる欧米諸国のキリスト教という巨大な一神教の論理と、日本人が自覚の乏しいままに従っている多神教の論理の差が大きすぎることに由来する。
もう一つは、「対米従属」と形容されるような立ち位置を、国際社会の中で日本が維持してきてことから来ている。

一神教的なものと多神教的なものの違い

一神教的なものと多神教的なものの違いは、軸となる時間感覚に明確に現れている。

一神教の信徒は、日常的な感覚を超越した存在があることを信じているし、その神の意志によって世界が成立したと考えている。そしてその意志を知り、それと一致した人生を送ることを理想としている。一つの意志が存在しているのだから、始まりがあり、目的である終わりが存在する。そこから、目的を目指して一方向的に進む直線的な時間感覚が生じる。

1日が24時間であるというような客観的に計測可能な近代的な時間は、一神教的な時間感覚の影響を受けた、始まりと終わりの区切りがある不自然な時間なのである。これは人間の経験としては、この次に述べる循環型の時間と比べて、どちらかと言えば無理をした経験の構造である。

一神教徒の時間感覚は、神の意志が目的に向かって展開していくことに本質がある。停滞や逆戻りがあったとしてもそれは人智を超えた神の計画によるものだから、信じる人にとっての反証とはならない。
近代化された一神教徒が露骨に主張することはないが、しかし根底にあるその時間意識が目指しているのは、他宗教を滅ぼして自らが奉じる神の意志が全世界であまねく実現することである。

そして、それぞれの宗教が歴史的な経緯から尊重するのが、エルサレムを中心としたイスラエルの地なのである。一神教徒たちが、この問題について簡単に妥協できないことを私たちは漠然と想像できるが、それを追体験して実感することは難しい。

直線的な進歩を想定する一神教的な時間と異なる、多神教的な時間の特徴を一言で表現するならば、それは「循環」である。朝が来て夜が来る。四季がくり返される。世代が変わっても、どの人も同じような人生を送る。ラディカルな変化は、進歩とみなされるものでも警戒される。多くの日本人の時間感覚は、こちらに近いのではないだろうか。

特定の意志の実現よりも、調和の中で時間が反復されることが優先される。一方でこの循環が停滞につながることも当然のようにありえる。世界中で各国が経済成長を続けた中で、日本は長く停滞にとらわれている。「そこそこの豊かさと幸せ」が続く限り、この循環型の時間の中に生きることの方を、日本人は深層心理の水準で強く望んでいるのかもしれない。

(編集子)引用された本論文のなかで、この最後のフレーズについては小生は異論を持っているので一言しておきたい。たしかに我が国が長期の停滞状況にあることは事実だし、それに対しての方策が急ぎ実施されなければならない、という点については完全に同意する。しかし、”そこそこの豊かさと幸せ” ということそれこそが実は一国の政治の要諦ではないのか。前にも別のところで述べたが、対米従属であろうと何であろうと、我が国は80年間、ただ一人の若者も戦場では失わずに済んでいる。我が国の政治家たちのありようを西欧諸国のリーダーたち、たとえばチャーチル、ケネディ、はたまた日本と同じ環境におかれたドイツを復興させたリーダーたちと比較すると、残念ながら見劣りがする、という感覚はある。しかしそれにもかかわらず、ほぼ1世紀におよぼうかという時間、この平和をたもってきたのはこのような ”どうも頼りない政治家” たちと ”対米従属” がもたらしたものだという事実は誰も否定できないだろう。その意味で、原文にいう日本人の深層心理は一神教のゆえに生じてきた(ウクライナーロシアのような露骨な国威争いは別として)現実を前にした人たちが実はそれとなく望んでいるものではないのか、と思ってしまうのだが。

イスラエルの状況分析 (普通部OB 田村耕一郎)

ウクライナ戦争が長引いくなかで勃発したイスラエル―ハマスの紛争について、問題に詳しい友人ジャーナリストからの情報を参考までに転載します。

*****************

イスラエル軍とハマスが「戦争」状態に入ってから1週間が経ちました。これまでに ガザで少なくとも2,300人、イスラエル側では1,300人が死亡し、双方の死者は3,600 人を超えています。
イスラエルはガザに報復の空爆や限定的な地上作戦を実施し、ハマス幹部を数名殺害 していますが、同時に、ガザを「完全包囲する」として、水、食料、電気、燃料など> の供給を遮断しました。これには国際法違反との批判が浴びせられています。
>
ネタニヤフはテレビ演説を行い、これまでのハマスへの攻撃は始まりに過ぎない、ハ> マスを破壊して勝利する、時間はかかるがイスラエルはかつてなく強くなってこの戦> 争を終わらせると宣言。イスラエル軍は10月13日にガザ北部の110万人の住民に向け> て24時間以内に南部に退避するよう呼びかけ、14日には2つの退避ルートを発表し、 安全を確保するので10〜16時の間に退避するよう要請しました。 そして住民退避の期限は過ぎました。近いうちにイスラエル軍はハマスに対する大規 模な攻撃を開始するとみられます。

イスラエル軍の作戦の目的は、ハマスを完全に排除することは無理としても、その主> 要メンバー、インフラ、軍事施設や兵器に壊滅的な打撃を与え、その軍事力を恒久的 に無力化(ないし著しく弱体化)させることです。そのために、空爆と地上侵攻を含 む8週間の初期作戦が立案されていると伝えられていますが、以下に述べるとおり、 この作戦にはいくつものリスクが予想されます。

ガザには、幅10キロ、長さ40キロという狭いスペースに220万人もの民間人が住んで おり、そのような密集地域での地上戦には大きな困難が伴います。当然ながらハマス は、イスラエルからの大規模な地上侵攻を予想しており、長い時間をかけて十分な準 備をしてきたはずです。トンネルを活用し、民間人を「人間の盾」としながら、イス ラエル軍に執拗な攻撃を加えつつ、民間人が「虐殺」されるイメージを世界中に発信 することを狙っているのでしょう。

イスラエル軍は民間人の退避を呼びかけていますが、わずかな時間で110万人を移動 させることには無理があり、国連のグテーレス事務総長やEUのボレル上級代表も「現 実的ではない」としてイスラエルの対応を批判しています。 またガザの封鎖によって生活インフラが機能しなくなることもあり、南部からエジプ トの国境(ラファ)を超えて出国を認めることも求められ、エジプトにその対応に向 けた圧力がかかっていますが、エジプトが数十万人もの難民を受け入れることは考え られません。おそらく数千人程度に限定しながら厳重な管理の下、一時的な滞在だ けを認め、国際社会に財政支援を求めると予想されます。
>
イスラエ ルは人質の奪還には伝統的に大きな情熱を注ぐ傾向があり、過去には1人の兵士を解 放させるために1,000人ものパレスチナの政治犯を釈放させた例があります。今回 も、人質の奪還に向けた国民からの圧力は高まるでしょう。
一方、ネタニヤフ政権としては、軍事的にも政治的にも、できるだけ早くハマスに強 力な攻撃を行う必要があります。スモトリッチ財務相など政権内の強硬右派は、人質 に重点を置かずに作戦を推進すべきであるとも主張しています。
なお人質の救出については、米国市民も人質に含まれていることが判明し、米国に とっても重要な課題になります。米国が単独で特殊部隊を派遣し、直接に関与するこ とは考えにくいですが、イスラエル軍が地上作戦を開始すれば、これと共同して作戦 を行うことは十分に予想されます。これは米国のコミットメントを示すものとして、 米国内でもイスラエルでも評価されるでしょうが、同時に作戦上の調整も必要になり ます。

地上戦によって民間人に被害が出ることについては米国も懸念しています。イスラエ ルの正当性が損なわれることのみならず、後述するように、イスラエルとパレスチナ の紛争を超えて中東地域全体を巻き込む事態に発展しかねないからです。ブリンケン 国務長官がいち早くイスラエル(それにカタール、UAE、サウジ)を訪問したのは、 イスラエル支持を強調する(それによってイランやヒズボラらの行動を抑止する)の みならず、イスラエルに過剰な行動に出ることのないよう釘を刺すことが主な目的 だったと考えられます。

こういった点にかんがみると、イスラエル側にはまだ準備が必要であり、大規模な地 上戦が始まるまでにはまだ時間がかかる可能性があります。そして作戦が始まって も、これまでのガザ侵攻とは異なり、数日間で終わることはありません。数週間から 数か月かかるでしょう。

(ウイキペディア解説をかき集めてみたのが以下)

パレスチナ人は、パレスチナ地方に居住するアラブ人を独立した民族として捉えた場合の呼称(語源はペリシテ人)。民族的に「アラブ人」と同一であっても、ユダヤ教徒なら宗教的には「ユダヤ人」と呼ばれる。中東でパレスチナと呼ばれる地域は長年、オスマン帝国が支配していた。 第1次世界大戦でこのオスマン帝国が敗れると、パレスチナはイギリスが支配するようになった。 この土地には当時、ユダヤ人が少数派として、アラブ人が多数派として暮らしていたが、1948年にイスラエルというユダヤ人の国ができた。その後は、この土地の中で〝将来、パレスチナ人の国家になりたいと望んでいる東エルサレム・ヨルダン川西岸・ガザ地区を総じて、パレスチナと呼んでいる。

パレスチナ問題の根源は「2つの悲劇」にあるとも言われる。1つは、ユダヤ人が2000年の長い歴史の中で世界に離散し、迫害を受けてきた悲劇で、やっとの思いで悲願の国(=イスラエル)をつくり、それを死守していきたい、二度と自分たちが迫害されるような歴史に戻りたくない、という強烈な意識になっている。
もう1つは、パレスチナの地に根を下ろしていた70万人が、イスラエルの建国で故郷を追われたという、パレスチナ人の悲劇である。いまパレスチナ人が住んでいるのはヨルダン川西岸とガザ地区という場所で、国にはなれないまま、イスラエルの占領下におかれていて、周辺の国にも多くが難民として暮らしている。

ハマスとは、パレスチナ・ガザ地区を実効支配する武装組織で、イスラエルの破壊と、その後のイスラム国家の樹立を目標に掲げている。2007年にガザ地区を掌握して以来、イスラエルと何度か交戦してきた。

棟方志功展開催中   (普通部OB 船津於菟彦)

今、竹橋の東京国立近代美術館で「棟方志功生誕120年」展を開催しています。
掌サイズの絵葉書から、公共の建築空間の⼤壁画まで、「板画」の可能性を広げ、様々なメディアを通じて「世界のムナカタ」が社会現象になるまでの道程─「メイキング・オブ・ムナカタ」を辿る⼤回顧展です。
一心不乱に版木に向かう棟方の姿は多くの人々の記憶に刻み込まれています。棟方が居住し、あるいは創作の拠点とした青森、東京、富山の三つの地域は、棟方の芸術の形成に大きな影響を与えました。棟方の生誕120年を記念し、棟方と富山、青森、東京の各地域の関わりを軸に、板画はんが(自作木版画の呼称)、倭画やまとが(自作肉筆画の呼称)、油画あぶらがといった様々な領域を横断しながら、本の装幀や挿絵、包装紙などの商業デザイン、映画・テレビ・ラジオ出演にいたるまで、時代特有の「メディア」を縦横無尽に駆け抜けた棟方の多岐にわたる活動を紹介し、棟方志功とはいかなる芸術家であったのかを再考します。

****************************************

ヴェネチア・ビエンナーレでの受賞をはじめ、「世界のムナカタ」として国際的な評価を得た版画家・棟⽅志功(1903-1975)。1903年(明治36年)9月5日 – 1975年(昭和50年)9月13日)は、日本の板画家。従三位。最晩年には約半年間、棟方志昂と改名した。青森県青森市出身。川上澄生の版画「初夏の風」を見た感激で、版画家になることを決意。1942年(昭和17年)以降、棟方は版画を「板画」と称し、一貫して木版の特性を生かした作品を作り続け、その偉業から板画家として世界的に知られる。墨書や「倭画」(やまとえ)と名付けた肉筆画も残している。

青森時代の肉筆画はゴッボに憧れ、沢山の肉筆画を描いたが帝展にどれも落選。ムナカタは日本は版画-浮世絵だ。と感じて版画-板画-を製作開始。国画展に出品した『大和し美し』(やまとしうるわし)が出世作となり、これを機に柳宗悦や河井寛次郎などの民藝運動関係者や、保田與重郎や蔵原伸二郎などの文学者たちとの知遇を得、棟方の芸術も彼らから多大な影響を受ける。

第二次世界大戦中、富山県に疎開した折に触れた浄土真宗の影響で。「阿弥陀如来像」「蓮如上人の柵」「御二河白道之柵」(おんにがびゃくどうのさく)「我建超世願」(がごんちょうせがん)「必至無上道」(ひっしむじょうどう)などの仏教を題材とした作品が有名である。後世に遺るあの「二菩薩釈迦十大弟子」を一気に下絵も無く作ったという。一部戦火で板画を消失して1948年に改彫しているので摺り方とかで二菩薩の図像が異なる.今回の展示は改彫前の東京国立近代美術館蔵のものが展示されている

1974年(昭和49年)1月、平凡社『別冊太陽』のために、倭画『禰舞多運行連々絵巻』を描く。3月から8月にかけて、毎日映画社にて記録映画『彫る 棟方志功の世界』を撮影。5月には1972年から始めた松尾芭蕉の「おくのほそ道」紀行が完結。6月には『棟方志功油画展』(油彩)を開催した。7月には名前を志功から志昂に改名するが、半年ほどで元の名前に戻した。同じ頃、八戸市公会堂のための緞帳をデザインする。この夏に日本で制作した最後の板画作品となる『不盡の柵』(むじんのさく)を制作。8月5日、青森市の三内霊園に自身と千哉子夫人の生前墓を建立するため、墓碑の版下スケッチを描き、『静眠碑』(せいみんひ)と名付けた。これは崇敬していたゴッホの墓を模した夫婦連名の墓となっている。9月17日から10月15日まで、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載。10月18日に渡米し、約一か月間ダラス、セントルイス、ニューヨークなどで板画展を開催、グッドマン夫妻とも再会を果たした。棟方は各大学で「日本の禅と美」というテーマで講義を行ない、ニューヨークではリトグラフを制作した。

1975年(昭和50年)3月、大縣神社に絵馬を奉納する。4月26日に退院し、5月には安川電機製作所のカレンダーとして、富山県南砺市の瞞着川の河童を描いた1943年(昭和23年)作の板画『瞞着川板画巻』(だましがわはんがかん)全三十四柵より十三柵を選んで彩色を施すが、これが最後のまとまった仕事となった。同じ月に棟方は絶筆となった倭画『白木観音 四万六千日のための観音像』を描き、6月5日に瞞着川の彩色板画についての口述を残したあと、9月13日に肝臓がんのため東京の自宅で死去。72歳没。同日付けで従三位に叙された。戒名は華厳院慈航真𣴴志功居士。

棟方の亡骸は生前の希望通り、青森市の三内霊園にある「静眠碑」に埋葬された。静眠碑の背後にある久栗坂石の石碑には、以下のように『不盡の柵』を刻んだブロンズ・レリーフの銘板が嵌め込まれている。

志功 盡シ得ス マシテ悲愛ヲ 歡喜モ 驚異モ

棟方がこの碑文について語った言葉が残っている。

驚いても オドロキきれない
喜んでも ヨロコビきれない
悲しんでも カナシミきれない
愛しても アイシきれない
結局、無限なんですよ。未来永永ですよ。

乱読報告ファイル (46)飯山陽(アカリ) 中東問題再考 普通部OB 菅原勲

この本のミソは題名の「再考」にあり、それは、以下の誠に刺激的な目次を見れば一目瞭然だ。

1.アフガニスタン報道が隠すタリバンの本性

2.「イランは親日」言説が覆い隠すイランの現実

3.「トルコは親日」言説が覆い隠すトルコの現実

4.なぜイスラム諸国は中国のウィグル人迫害に声を上げないのか

5.「パレスチナ=善、イスラエル=悪」の先入観が隠す事実

6.中東問題をわかりにくくしてきた七つの原因

結論として、時代遅れの中東像からの脱却を、と述べているが、総じて言えることは、亡国の輩である左巻きの連中から見れば、飯山の論は右巻きに見えるのだろうが、彼女の拠って立つ根拠は、極めて冷厳な現実主義(リアリズム)にある。

ただし、この全ての「再考」を網羅すると極めて冗長になることから、ここでは、2.のイラン、5のパレスチナ、イスラエルの項目に絞ることとする。

イランについては、イスラム法学者が最高指導者として全権を掌握する神権国家であり、そのイデオロギーにおいて、米国は世界中のあらゆる悪と腐敗の根源である「大悪魔」とされ、宗教イデオロギーによって駆動された全体主義国家にしてテロ支援国家であると定義づけられている。従って、日本が、1951年、英国の制裁を押し切って、イランから原油を直接輸入した出光の日章丸事件(ただし、イランは、当時と違って、1979年にイラン・イスラム革命が起こり、現在の体制となっており、当時とは事情が大きく異なっている。なお、この感動秘話を小説にしたのが、百田尚樹の「海賊と呼ばれた男」だ)、或いは、テレビ・ドラマの「おしん」の最高視聴率が90%であったことなどから、イランは親日国家であるとの勘違いが日本には蔓延している。しかし、イランが公言しているわけではないが、日本は、大悪魔である米国のポチと見做されており、その証拠に、2019年6月、日本企業のタンカーがホルムズ海峡で何者かによって攻撃された事件があり、これを、米国はイランの仕業と断定している。

また、パレスチナ、イスラエルについては、ガザ地区のパレスチナはテロリストのハマスが強権を発動して支配しており、パレスチナ自治政府のアッバス議長が本音を漏らしたように、ハマスの行動はパレスチナ人を代表するものではない。そして、ハマスの憲章の冒頭には、イランのそれと同様にイスラエル殲滅が掲げられており、パレスチナ人の民生向上を無視し、その幹部の腐敗が蔓延している(日本は、ガザ地区のパレスチナに1000万ドル人道支援するようだが、果たしてこれが本当に困っているパレスチナ人に渡るのか。テロリストのハマスに渡るならば本末転倒ここに極まれりだ)。

ただし、ここで一言述べておきたい。それは、パレスチナが統治しているヨルダン川西岸地区へのユダヤ人(イスラエル)の違法な入植について全く触れていないのは、片手落ちではないかと言うことだ。いくらイスラエルをご贔屓にしていても、その過ちについては厳しく指弾すべきだ。さもなくば、飯山の言っていることの全てが信用できないものとなって来る。

イスラム教にせよユダヤ教にせよ、はたまたキリスト教にせよ、いずれにしても、一神教は途轍もなくオソロシイ。果たして世の中に幸福を齎したのだろうか。むしろ、禍を、齎したのではないか。その意味で、我々は、多神教、八百万の神の国に生まれたことに感謝すべきだろう。いや、もしかしたら世界中が日本のように多神教になったなら、争いが極端に減少するのではないだろうか。その意味では、中東問題の抜本的な解決は、正にここにあり、か。

蓼科湖の花火 (HPOB 小田篤子)

14日に蓼科湖で花火大会があり、少し寒い中久しぶりの花火を楽しんできました。本当に花火は感激しますね。

近くのトヨタの保養所(蓼科テラス)やその付属の車の安全祈願の聖光寺、東急他の提供による小規模ですが、のんびり見られる良い花火大会でした。

ただ、木が多いので、仕掛け花火が座った横側にある大きなもみの木の間に上がり、まるでクリスマスツリーのようでした!

エーガ愛好会 (234) 静かなる男  再度礼賛  (HPOB 飯田武昭)

劇場公開で観て以来、多分3~4回目だと思いながら「静かなる男」を先日、久しぶりに録画ビデオで観ました。この映画はジョン・フォード監督の西部劇以外のジャンルでの名作とは理解していましたが、改めて観ると矢張り名作中の名作と感心しました。

物語はアイルランド出身の主人公ショーン・ソーントン(ジュン・ウエイン)が、アメリカの鉄鋼業の街か何かで働いた後に、故郷のアイルランドに戻って来て旧家を買い戻し、その隣人の男”レッド”・ウィル・ダナハ(ヴィクター・マグラクレン)とその妹メアリー・ケイト・ダナハ(モーリン・オハラ)との縺れ話と言ってしまえば簡単ですが、ざっとそんなストーリーです。ジョン・フォード監督が出身の祖国アイルランドに溢れんばかりの郷愁を持っていることが、この映画の見どころの根底にあると思います。

第一に、情景描写が如何にもこれぞアイルランドと思わせる詩情豊かなロケーションで行われている。撮影はアイルランド西部、ゴールウェイ県とメイヨー県の境にあり、コリブ湖やアッシュフォード城も近くにあるコングの村で行われた。映画は一貫して原風景の映像で貫かれているのも気分が落ち着きます。

次に、俳優も隣人の男の妹役のアイリッシュ系のモーリン・オハラを筆頭に、ジョン・ウエイン、ヴィクター・マグラグレン、ワード・ボンド、ミルドレット・ナトウイック等、全員が好演技をしていて、それぞれの俳優の代表作の一つと呼んで間違いないと改めて思いました。

更に、画面を通して常に流れる音楽はビクター・ヤングのアイリシュ系の穏やかなメロディで、これが映像の鑑賞を自然にサポートしています。一番感心するのは、この映画の人間味溢れるコモディ・タッチの演出表現が、とかく重たくなリ勝ちなストーリーを、鑑賞後に軽やかな清涼感で満たされた気分で満足できることです。

些か褒めすぎの感はあるかも知れませんが、映画でコメディタッチの名作は殆ど思い出せないので、敢えて取り上げております。シリアスなストーリーやドキュメントの名作は枚挙に暇がないですが、コメディタッチは映像では極めて難しいのが、世の東西を問わず言えると思います。コメディタッチの秀作を強いて挙げれば「俺たちは天使じゃない」(1955年 監督マイケル・カーティス 主演ハンフリー・ボガート、ピーター・ユスチノフ、アルド・レイ)、「腰抜け二丁拳銃」(1948年、主演ボブ・ホープ、ジェーン・ラッセル)辺りかと思います。ダニー・ケイやジャック・レモンのコメディタッチ作品は面白い方ですが、それでも一本の映画を通して観ると、日本人には馴染まない演技やわざとらしさが鼻に付くことが多いのがコメディ作品です。

ジョン・フォード監督は勿論、西部劇の名作を沢山残してくれています。しかし、西部劇以外でも私は「静かなる男」の他にモノクロ時代の「怒りの葡萄」「わが谷は緑なりき」、カラー作品の3作「長い灰色の線」「ミスター・ロバーツ」「荒鷲の翼」が特に好きです。

音楽のビクター・ヤングは「シェーン」「大砂塵(ジョニー・ギター)」「愚かなり我が心」「八十日間世界一周」などの名曲を残しているポーランド系ユダヤ人ですが、アカデミー音楽賞に22回ノミネートされても1度も生前にオスカーを手にできなかった作曲家のようです。死の直後のアカデミー賞授与式で「八十日間世界一周」が漸く、受賞対象曲になった経緯です。

因みに、この映画の公開年のアカデミー賞(第25回)には「静かなる男」は7部門でノミネートされ、うち監督賞、カラー撮影賞の2部門を受賞しました。作品賞でも本命「真昼の決闘」に次ぐ対抗作と見なされましたが、有力2作の間隙をぬう形で「地上最大のショウ」が受賞する結果になったと報じられています。名作揃いのこの時代の映画界ですから仕方のないことですが。

(編集子)サラリーマン卒業から数年たち、落ち着いたところで当時アイルランドはコークにいた同期の大塚文雄を訪ね、ダブリンを出発点にレンタカーで全島ドライブをしたことがある。その時、この映画を撮影した場所が一種の記念碑のようになっていて保存されているのを知り喜んだことを思い出す。この旅はEUが共通通貨としてユーロを発行して間もなくで、アイルランドもその影響を受け始めて、政治的には動揺があったころだが、ドライブは快適で、どこへ行っても人は穏やかで和やかな国だ、という印象が深い。

 

ワールドカップを見てきました!  (バー アンノウン 川島恭子)

休みをいただきました。
パリのサンドニ スタットドゥフランスで行われたラグビーワールドカップ 白熱した準々決勝2試合を観戦し、今晩の飛行機で帰途につきます。
各国のサポーターとの出会いは、国籍を超えた大切な思い出になりました!

(関谷)羨ましい!

若かりし日、ラグビーをちょことかじった者にとり、準々決勝の2試合(他の2試合も含め)かってない最高の試合でした。ニッポンが出ていれば、ひやひやドキドキでまともに観れなかったでしょうが、ラグビーの面白さを堪能しました。

それにしても、それを直に観戦されたとは羨ましい限り。次回、一杯奢ってください!!

(安田)ジャイさんからメール及び興奮を伝える写真を転送して頂き拝見いたしました。ありがとうございました。パリへ弾丸往復の旅、お疲れでしょう。ごゆっくり静養して下さい。金曜日からお店オープンではそうは行きませんか?

(佐藤)うらやましいを通り越して行動力に脱帽です。安田さん、関谷さんと同様私も高校ラグビー、大学ラグビー、リーグワンをウオッチしもちろんWRCを興奮して見ているファンの一人です。南ア-フランス、アイルランド-ニュージーランドのスピード感には圧倒されました。現場では映像をはるかに凌ぐ迫力だったでしょう。次回の集まりの際にはぜひ興奮を分けてください。

 

乱読報告ファイル(45) 高橋杉雄 日本で軍事を語るということ

最近ウクライナ問題などの関連テレビ番組で常連になっている著者は、この本を ステートクラフト という用語を定義することから始める。

この言葉は国家が存在するうえで、国として持たなければならない絶対的な指導原理、すなわち政策を立案し、展開していく、技巧(クラフト)であり、外交力、経済力、軍事力という三つの形で現れるという。長い間日本において軍事はある種のタブーであって、政策論として幅広く議論されることはほとんどなかったが、それは第二次大戦後の日本が安全保障を米国に依存しきっていたために、この問題を考えなくて済む時代が長くつづいてきたからだ。しかしグローバルなパワーバランスは変化し、米国の軍事力ももはや絶対的なものではなくなってきた。しかも日本周辺に安全保障上の対立が事実として存在する。すなわち日本が当事者意識を持たなくてはならなくなった。日本人は善とか悪とか言ったことではなく、否が応でも ”ステートクラフトとしての防衛力(軍事力)” を価値中立的に考えなければならなくなったのだ、と述べる。その意味で、国民がこの問題を考える上で必要となるであろう事柄を解説したのがこの本である。

そういう意識で書かれた本書は米ソ対立の冷戦状態が凍結されていた平成の時代はそれなりに世界平和が曲がりなりにも維持されていたが、今回のロシア・ウクライナ戦争でそのグローバルなバランスは崩壊しつつあるし、米中の対立は冷戦を再度もたらすかもしれない、という危機意識の中で、”戦争”というもののいわば方法論がかつての米ソ対立時代のものとは様変わりしている、という事実を明快に解説している。なんとなくわかっている気でいたが、戦闘そのものがすでにエレクトロニクスの闘いであるという現実や、一つびっくりしたのだが、米国と協調しているいわゆる西欧諸国群の中で、人工衛星を打ち上げる技術があるのは米国、フランス、それと日本だけだというのだ。

このような状況の中で、日本が備えるべき防衛力とはどれくらいの規模であるのか、外交と防衛とはどういう関係にあるべきなのか、そして最後に核抑止はどうあるべきなのか、と言った点について、本書は明快な解説をしてくれる。テレビで一種のショウのように(怒られるかもしれない発言だが)なってきているウクライナ(これからはプラス、イスラエルか)問題解説番組もこの本で得た知識で見ていくともうすこし事情がわかってくるような気がしている。

 

(36 大塚文雄)高橋氏は視点で語るのではなく、視野で語り、視聴者が考える事を促してくれる。ロシアのウクライナ侵攻が発見してくれた貴重な人材と思います。