居酒屋昭和、のこと

たかがテレビの音楽番組にこんなに心が揺れたのははじめてだ。これが年を重ねるという事なのか、斎藤なにがしの忠告を振り切ったうえ、少しばかり定量を過ごしたジンの所為なのか、定番番組を見終えて変えたチャンネルに釘付けになった。

八代亜紀の 居酒屋昭和なる一曲。歌詞を拾い読みする。

男の背中にゃ色気があり

女の背中にゃ艶がある

そんな時代がここにある

 

令和にはぐれた路地裏に

昭和の灯が灯ります

 

情け見つけに来ませんか

居酒屋昭和の

居酒屋昭和の癒し酒

 

めったに見ないテレビ番組でまったく偶然に出会っただけなのに、なにか心にドーンと来た感じ。10年以上前になるが、中央高速を走っていて時間調整のために横道へ入り、出くわした武田一族最後の地、という薄暗い林。苔むした遺跡で全く予想もしなかった涙が出た。その時以来の心の共鳴、だった。不思議なもんだ。やはり年齢、であろうか。

俺達月一度の天狗飯店の酒も結局は居酒屋昭和のこころなのかも知れない。

 

”炭素文明論” フォロー    (HPOB 小田篤子・42 保屋野伸)

科学の為になるお話をありがとうございます。私は世界史だけでなく、科学も、寝てはいなかったのですが、ぼーっとしていたようで、全く( ゚д゚)ですが。
ずっと前に読みました、イギリス人、ロバート・フォーチュン(1812~80)の伝記「紅茶スパイ」を思い出し、googleを観ていましたら、「炭素文明論」と合わせて読むとさらに面白い…と書かれていました。
フォーチュンは、東インド会社社員で、”植民地で、植物を原料にした産業を興し、発展させること”を仕事とした植物者です。
アヘン戦争を経て弁髪にし、中国人に変装し、中国内陸部に潜入、お茶の種や苗木を盗み出し、イギリス領にしたアッサムやダージリンでの栽培を試みました。
紅茶はイギリスの発展の為、
①沸騰したお湯での殺菌
②ミルクや砂糖を加えることで、貧困層も栄養接種
③カフェインが神経を集中させ、難しい仕事も可能に。
④妊婦から乳児の健康も改善
……等の健康面からも良かったようですね。
フォーチュンは幕末(1860~62)に2度来日し、色々な植物を持ち帰り、「幕末日本探訪記」を書いて、外国人から観た日本史の資料としても使われています。
ロバート・フォーチュン

スコットランド、ベリックシャーの小村エドロム生まれ。エディンバラ植物園の庭師となり、次いでロンドン園芸協会付属植物園の温室係となった。アヘン戦争の講和条約である1842年南京条約により香港がイギリスに割譲され、また5港が開港されると中国産植物に関心を持っていた園芸協会によってフォーチュンがプラントハンターとして派遣されることとなった。フォーチュンは1843年7月6日に香港に到着[3]。緑茶と紅茶は製法が違うだけで同じチャノキから作られることを発見し、それぞれが別種とされていた定説を覆した。外国人は開港地周辺以外への立ち入りは制限されていたため植木屋や中国人が花木を植えていた墓地で植物を収集したが[5]、中国人に扮して蘇州まで行ってもいる。また、マニラも訪れ、蘭の一種Phalaenopsis amabilisを入手した。1846年5月、フォーチュンはレンギョウ属、タニウツギ属、スイカズラ属、シモツケ属、カリガネソウ属、ガマズミ属など、250種の植物とともにイギリスに戻った[8]。フォーチュンはウォードの箱を最初に本格的に用いた人物であり、この時の輸送にウォードの箱が用いられている

(齊藤)ロバート・フォーチュンと言う人がいたんですね。全く知らなかったです(…と思います)。シーボルトにも会っているとのことで、これはおもしろそうです。「紅茶スパイ」ほしい本のリスト入りです。「幕末日本探訪記」にも興味を惹かれます。

イギリス人の紅茶好きは、イギリスの歴史上で、いろいろなエピソードに絡んで
いるようですね。この辺を掘り下げると、面白い話がたくさん出て来るのかもしれないです。

(保屋野)炭素のお話興味深く拝見いたしました。地球温暖化の元凶とされている炭素の有益性は、先日NHKの科学番組で放映されていました。

炭素原子(原子番号6)は、陽子6個、中性子6個の原子核と6個の電子で構成されていますが、その起源はネットによるとビッグバンで生まれた水素(原子番号1)とヘリウム(原子番号2)のうちヘリウム3個が結合して生まれた、とありました。何時生まれたはよくわかってないようですが、125億年前の宇宙観測ではその存在が確かめられているようです。

しかし、自然界にはわずか94の元素しかなく、それぞれの原子が陽子・中性子・電子の数で性質が異なってしまう、というのは不思議です。脱炭素社会なんてとんでもない、炭素なしには我々の存在すらないのですから。

(編集子)エーガ愛好会目線で思い出したのは ”遠すぎた橋” で、決死的な白昼渡河作戦を命じられた米軍将校ロバート・レッドフォードが、その近くで悠々と紅茶を飲んでいる英国兵士を見て激怒する場面があった。この映画は同じ時期を扱ったスペクタクルものでも 地上最大の作戦 が連合軍のサクセスストーリーで仲間内のあつれきなんかは一切―扱わなかったのに、アイゼンハワーに敵愾心を燃やした英国モンゴメリ指揮の作戦の失敗を描いたものだけに、このような背後での話がいろいろとあって面白かった。

 

 

エーガ愛好会 (169)我が命つきるとも    (44 安田耕太郎)

映画「スティング」にマフィアのボス役で出演したロバート・ショウを久し振りに観て、彼が16世紀のイギリス国王ヘンリー8世役を演じたイギリス映画「わが命つきるまで」(1966年制作 原題:A man for all seasons)を続けて一挙に観てしまった。ヘンリー8世にまつわる史実をテーマとして描く歴史映画で、特に目新しい話の展開はないが、重厚な歴史物語を楽しんだ。この国王は、イギリスでは歴史上もっとも有名な人物の一人だ。

1528年、イングランド国王ヘンリー8世は宮廷の女官アン・ブーリンに恋をし、一向に世継ぎを生まない王妃キャサリンとの離婚を望み、ブーリンと結婚することを切望していた。王妃キャサリンはスペイン初代女王イザベラ1世とアラゴン国王フェルナンド2世の娘で、ヘンリー8世の実兄で次の国王を約束されたアーサー王太子と政略結婚した。だが結婚の翌年、兄は病で急逝する。弟の世継ぎとなったヘンリーは義姉であった未亡人と結婚する(ヘンリー18歳、キャサリン24歳)。ヘンリーはチューダー王朝の存続を切望するが、結婚後9年経っても世継ぎの息子を産まない王妃に業を煮やした。当時はカトリックが国教であり、離婚は許されずローマ法王の許しが必要であった。

映画の主人公はヘンリー8世ではなく、反逆罪でヘンリー8世から斬首の刑に処せられたトーマス・モア(Thomas More)。政治・社会を風刺した「ユートピア」の著述で今日にまで知られる、イングランドの法律家・思想家・人文学者。彼の深い教養と厚い信仰心によってイギリスはもとよりヨーロッパの人々から尊敬と信頼をかち得ていた。王の再婚を法王に弁護できるのは寵臣の中でただ一人、信仰心篤く人望のあるトーマス・モアだけだった。何とか法王に離婚の承諾をもらえるようにモアに頼み込むが、モアは、国王が離婚する理由が見出せないとしてそれを拒否。モアの度重なる法王説得依頼拒絶は、国王の取り巻き達の怒りを買ってしまう。高潔・孤高なモアは意に介さなかったが、彼の家族や友人は彼の一徹さ故に彼の政治的な立場を危惧した。宗教界の実力者ウルジー枢機卿・大法官(オーソン・ウエルズ演じる)は秘書官クロムウエルを介してモアの説得に当たるが徒労に帰す。

いかにも中世イギリスの歴史物語とあって、舞台・衣装・セリフは重厚荘重で映画というより古典舞台劇を観るかのようであった。主役モア役を演じたポール・スコフィールドは1966 年度のアカデミー主演男優賞を、映画は作品賞を、演出のフレッド・ジンネマンが監督賞をそれぞれ受賞した。それぞれが賞に相応しい出来栄えであった。出演者は他にもヘンリー8世の腹心ウルジー枢機卿を演じたオーソン・ウエルズ、モアの妻役ウェンディ・ヒラ―、娘役のスザンナ・ヨーク、アン・ブーリンを演じたバネッサ・レッドグレイヴなど名優が脇を固めていた。

ウルジー枢機卿が病で死去した後、モアは官僚の最高位である大法官(Lord Chancellor)に任命される。そんな中、ヘンリー8世自らがモアの屋敷を訪れ、直接ローマ法王に離婚を許可するよう働きかけることを依頼する。最後通牒にも等しい国王の直談判であった。モアはこれも拒絶したため、国王は激怒して帰ってしまう。離婚を認めないローマ法王に業を煮やしたヘンリー8世は、ついに新たにイングランド国教会を設立して自ら首長に就任し、強引にキャサリンとの離婚及びアン・ブーリンとの結婚を執り行う。

原題「A Man for All seasons」、トーマス・モアを当時の人が彼をそう呼んだという。「確固たる信念を持つとともに、多才で、どんな状況にも対応できる、頼りになる人」というような意味らしい。モアは自らの信念に従い大法官を辞任し、国教会やブーリンとの結婚を、国王の執拗な脅しに屈せず、認めなかった。トーマス・モアは権力に屈せず自らの信念を貫き通し、救いの手が妥協と譲歩を交換条件として差し延べられるが、それらを一切断り、ロンドン塔に投獄されたのち、断頭台の露と消えていった。ヘンリー8世がアン・ブーリンと結婚してから2年後の1535年のことであった。

(小田)この映画、観たことがあります。やはり、アン·ブーリンが登場する「ブーリン家の姉妹」と同様に、ヘンリー8世の来訪から話が始まり、最後は主人公が処刑されて終わったように思います(こういうお話は後味が良くないので映画で観るより、本で読む方が好きですが)。ヘンリー8世は、6人の王妃中、2人を処刑していますが、他の王妃達もそれぞれに大変な運命に会っています

 ヘンリー8世の1番目の王妃キャサリン オブ アラゴンはヘンリー8世の兄(アーサー)とスペインの国力をつける為、1489年にアーサー4歳、キャサリン3歳で婚約条約に調印、10年後、14歳と13才の時、代理人により結婚式が行われ、501年ロンドン、セントポール大聖堂で正式に結婚式を挙げますが、アーサーは5ヶ月もしないうちに、感冒で亡くなります。

1503年 それでは…と弟のヘンリーとの婚約式が行われますが、1505年に婚約破棄(この時も生活に困窮)…などを経て、1509年二人は結婚します。暫くは円満だったようですが、生まれた王子が亡くなったあたりからヘンリー8世は愛妾をつくり、ローマ教皇が離婚を認めない為、英国国教会を設立してまで離婚。そして、次の王妃、アン·ブーリン、ジェーン·シーモア、アン·オブ·クレーフェ、キャサリン·ハワード、キャサリン·パーと続きます。
キャサリン オブ アラゴンは、1986年に450年目の記念日に、新しい棺も作られ、その人柄から生花が今でも、絶えないそうです。6人の王妃のマトリョーシカの写真を紹介します。王妃の人形は3体で、裏と表に2人描かれています。  コッツウォルズで偶然通りかかった《シュードリー城》で買いもとめた物です。
(編集子)英国皇室とわが天皇家の歴史を比べてみて、双方とも長い伝統を持ち、それなりにロマンを感じるものだが、わが皇室には(少なくとも歴史の教科書が教える限り)この映画の背景になったような不行跡の話はないし、第一、その長い歴史を通じて、天皇家を権力のカバーに使った武家の記録はあるが、時の権力者の一人として天皇家を廃しようとした例はない。英国王室の歴史にカソリックの伝統といえば聞こえはいいが、要は政治に宗教がどのように影響するかの悪例のように見える。
我が国では唯一、太平洋戦争の間に軍部が天皇の神格化という手段で国民を誘導したのが恥ずべき史実として残るが、それ以外には天皇家は(現代が結局そうなっているが)国民の象徴、という位置にとどまり続けたわけだ。このあたり、アングロサクソンとヤマト民族の倫理に関する態度の違いがよく表れているように思う。これからのわが皇室、世間にうとい皇女がたがプレイボーイカレッジのスケコマシなんかに引っかかられないようにしていただきたいものだが。

乱読報告ファイル (29) 炭素文明論 その1 (会社時代友人 齋藤博)

この本(炭素文明論―「元素の王者」が歴史を動かす)は、9年も前に発売された本ですが、何度も何度も読んでいます。着想が素晴らしいだけでなく、実によくまとまっていて、化学を心がけた者にとっては、歴史を振り返り、見直すきっかけを与えてくれます。Amazonを検索すると、まだ買えるようです。2回に分けて、この本から2つのエピソードを簡単にまとめて紹介したいと思います。

1回目は、炭素がもとで、国が滅ぼされたこと
2回目は、糖の起源から、糖の利益が産業革命の原資となったこと

この本では、炭素についてのエピソードが書かれているのですが、『地球の地表および海洋の元素分布を調べると、炭素は重量比でわずか0.08%しか占めていない』と言うのです。そんなに少ない元素が、地球上の世界の歴史を動かしてきたというのです。もちろん、気候変動のことにも触れています。

参考までに蛇足ですが、地表での元素の重量比と言う観点で最も多いのは、酸素です。続いてケイ素、アルミニウム、鉄、カルシウム、ナトリウムなどが続きます。炭素はようやく17番目に出てきます。炭素の重量比0.08%の出どころはわかりません。英語版のWikipediaでは、0.02%だとしています。
著者、佐藤健太郎氏は、この炭素をめぐり、激しい争奪戦が繰り広げられ、炭素戦争が勃発してきたと記しているのです。

例としてモルヒネの歴史を簡単にまとめてみますと、5000年以上も前に、ケシの未熟な果実に傷をつけて得られる乳液に、鎮痛・催眠の効果があることが知られていました。
・未熟なケシの果実に傷をつけて得た乳液を干して固めたものがアヘンです。
・16世紀には、インドや東南アジアで巨大なケシ畑が展開されていたそうです。
・1803年、ドイツで有効成分モルヒネが単離され、目分量やさじ加減でないデー   タに基づいた医療へと大きな変革が起こります。
・1896年、モルヒネに体内への吸収を早める工夫をし、ドイツのバイエル社が鎮咳薬として販売します。
・これを、静脈注射で体内に入れると、途方も無い多幸感が生まれる。ヘロインの誕生です。もちろん、ヘロインの基本骨格は炭素からできています。

イギリスは、1800年代に入ると紅茶に砂糖を入れて飲むという大ブームが訪れていたそうです。紅茶の原産地の清への外貨流出に困ったイギリスは、アヘンを製造し、清だけに売り渡すという戦術を取ることとになります。この作戦は成功し、清の政府高官から庶民まで、アヘンの虜になってしまいます。清政府はアヘンの輸入を禁止しますが、それを待っていたイギリスとの間にアヘン戦争が勃発します。1840年のことでした。

私達は食として小麦や米を食べます。これらの主要成分はデンプンであり、ブドウ糖が複数つながりあってできています。ブドウ糖は炭素、酸素、水素の3種類の元素からできていて、私達は、人間となってからまもなく、これらの食料を奪い合う戦いをしてきたというわけで、炭素が絡んで、歴史は動いてきたのです。次回は、砂糖のことについて触れます。

ご参考までに、この本の目次です。
◉人類の生命を支えた物質たち
第1章 文明社会を作った物質――デンプン
第2章 人類が落ちた「甘い罠」――砂糖
第3章 大航海時代を生んだ香り――芳香族化合物
第4章 世界を二分した「うま味」論争――グルタミン酸

◉人類の心を動かした物質たち
第5章 世界を制した合法ドラッグ――ニコチン
第6章 歴史を興奮させた物質――カフェイン
第7章 「天才物質」は存在するか――尿酸
第8章 人類最大の友となった物質――エタノール

◉世界を動かしたエネルギー
第9章 王朝を吹き飛ばした物質――ニトロ
第10章 空気から生まれたパンと爆薬――アンモニア

第11章 史上最強のエネルギー――石油
終章:炭素が握る人類に未来
 炭素はどこへ
 炭素のサッカーボール
 カーボンナノチューブの衝撃
 炭素争奪戦の時代
 気候変動の宿命
 人工光合成をを実現せよ
 石油を作る藻
 持続可能な地球に向けて

気候変動に関する知見    (普通部OB 田村耕一郎)

本稿で過去にもいろいろな話題について、小生の友人からの情報を紹介してきたが、今回は気候変動に関する欧米での反応と科学界の知見についての記事である。原稿はかなりの長文なので、かいつまんでご紹介しておこう。

**********************************

2014年に、32人の科学者からなる国際グループが、農家、教会、他に保持された記録を含む 300以上の文献から証拠をまとめ、確定させた。以下は、そのことを説明していた 2014年7月のアメリカの記事からの抜粋である。

**********************************

南アルプスで災害が始まったのは 1539年だった。10月までに、スペインでは神に雨を乞う行進が行われ、イタリアの年代記では、冬なのに7月と同じように乾燥して暑かったと説明されている。干ばつは 1540年の初めに北に広がった。     気温が 30°Cを超える日数は、通常の少なくとも 3倍だった。これまでにないほどの井戸と泉が枯渇した。スイスの年代記者は、多くの川床の床から 1.5メートル下にさえ水滴が見つからなかったと報告した。   いくつかの主要な川でさえ、徒歩で渡れるほど小さくなった。研究者は、エルベ川の水量は 1540年には通常の量の10分の 1にすぎなかったと推定している。

人的被害はひどかった。汚染された水を飲んだことによる赤痢で数多くが死亡した。多くの動物が喉の渇きや熱射病で死亡した。農業従事者たちは畑で倒れた。  人々の気性が荒くなり、暴力が急増した。もちろん、農業の収穫量は非常に少なく、穀物とパンの価格は異常な高値となった。森林火災と山火事が各
地で発生し、煙が大陸を覆った。

1540年のこの大惨事の原因は不明だ。しかし、明らかに現代の気候変動が原因ではない。明らかなことは、このような極度の熱波が、今、人類の歴史の中でかつてないほど起こりやすいということだ。  この干ばつに伴い、50万人が犠牲になったと推測されているが、そのほとんどが下痢によるものだったと考えられている。 ヨーロッパの当時の人口は、現在の 10分の 1の 7000万人程度だったと推測されて いるので(現在は 7億人)、かなり大きな人的被害だったのは事実だろう。。

ちなみに、この時の日本を見てみると、日本でも 天文の飢饉 があり、前年の天文8年(1539年)に発生した大雨・洪水と蝗害によって年明け以後、各地で飢饉が発生、春には再び大雨・洪水が発生したことに加えて疫病も流行して、死者が続出、京都では、天文9年(1540年)の正月に東寺にあった弘法大師像が発汗したことから凶事が噂されていたが、飢饉と疫病によって噂が現実化した。

醍醐寺理性院にいた僧侶厳助の日記『厳助往年記』によれば、京都では上京下京合わせて毎日60人ほどの遺体が遺棄されていたことや誓願寺にて非人施行が行われたことなどが記され、「七百年来の飢饉」「都鄙で数千万人の死者」と評している。数千万の死者は過大であるとしても、当時の社会に与えた影響の大きさを物語っている。

現在と同じようなラニーニャなどのいくつかの気象の変動要因が結びついていたものだとすれば、北半球の広範囲が同じような状態となっていたのかもしれない。サイクルとは言えないにしても、条件が合致すれば、このような猛暑と干ばつが比較的、長期間にわたり地球に訪れる。
この 1540年の猛暑と干ばつに、太陽活動が関係していたかどうかは、太陽黒点観測が始まったのが、1755年からなので確実にはわからないが、ただ、先ほどの記事に、人々の気性が荒くなり、暴力が急増した、という記述あることから、おそらく太陽活動が高い時だったと考えられる。今も、社会的に結構荒い事件は多いのだが、最近の太陽は頻繁に磁気の塊を地球に放出し続けている。「気性が荒くなる」ということに関して、これは「気温」とも関係していることようでもある。それによると  気温が 31℃ 前後が最も暴力が増加するようで、それ以上に気温が高くなると、「むしろ暴力は減少」することがグラフで示されている。だから毎日40度がいいと兵得ないのだが。

以下にこの問題について報告されているいくつかの情報のまとめを挙げてご参考に供する。

気候危機は存在しない : 歴史は、地球がときに過度に悪化することを示す
There Is No Climate Crisis: History Shows Us That The Earth Has Seen
Far Worse という意見があって、 気候科学はイデオロギーの熱狂によって窒息しすぎており、最近では通常の客観的な分析を見つけることが難しくなっている、と主張する。 人為的な気候変動の物語と矛盾するデータの断片は、情報が却下されるか、地球温暖化のプロパガンダの大洪水でそれを覆い隠す状況に囲まれている。

気候変動だけがすべてではない。  米国やヨーロッパで高温が報告されるときはいつでも、ニュースはメディアによって気候黙示録のワイルドな理論に鼓舞されるが、気象の歴史は、ここ数年に見られる暑い気候の事象が、「人為的な問題」が持ち出されることになる数十年前または数世紀前に起きたはるかに悪い出来事の影に隠れている可能性がある。

たとえば、メディアは現在の干ばつと今年の夏にヨーロッパで発生した「記録的な気温」に熱狂しており、過去 500年で「最悪の干ばつ」になる可能性があると警告している。 しかし、この主張は、気候科学者や喧伝者たちが答えたくない質問への扉を開く。では、その 500年前に何が起こったのか?」  という質問だ。

同様のレベルの地球温暖化ヒステリーは、2003年と 2018年にヨーロッパで発生した熱波の際にも見られた。少数の気候科学者たちは、これらの干ばつは、西暦 1540年の「生き地獄の干ばつ」とは比較にならないものであると指摘しなければならなかった。    西暦 1540年の干ばつでは、この地域は、1年間、ほぼ雨が降らず、歴史的に猛暑に見舞われたことから、「メガ干ばつ」と呼ばれることがよくある。 1540年の平均気温は、20世紀のヨーロッパの平均気温よりも 5°C から 7°C 高かった。米国で言えば、これは夏の毎日の気温が約40℃であることを意味する。 1540年のヨーロッパの炭素レベルは現在より30%低かったが、記録された歴史の中で最悪の温暖化に見舞われた。 今日の気候データは NOAA やその他の機関が保持する記録に基づいており、これらの記録は、 1880年までさかのぼることしかできない。たった一世紀あまりだ。 1540年の危機を引き起こしたのは、自動車、農業、産業による炭素汚染でなかったことは明らかだ。

つまり現代の 科学は、1540年の危機を含む過去の温暖化事象の多くを引き起こした原因をまだ理解していない。  実際、NOAA やその他の気候研究機関は、炭素排出量と気温上昇との関係を示す具体的な証拠をまだ提供していない。彼らの主張は、他のすべての考えられる原因を排除し、残りは炭素のみを残したというものだ。これは科学とはいえない。  幸いなことに、現在の気温はそれほど高くはない。   NOAA 自身のデータによると、地球の平均気温は過去 100年間で 1℃ 未満しか上昇していない。

ここで  炭素管理は、人口を細かく管理し、「より大きな善」の名の下に権威主義を正当化するための強力なツールであるとは言っておきたい。 人々が間違った気候変動の物語を受け入れると確信すれば、政府は、私たちが使用する電力から、私たちが食べる食べ物、私たちが経営できるビジネス、農業生産量と人口に至るまで、日常生活のあらゆる側面を管理する能力を持つことになる。  これはフィクションではなく現実であり、存在しない脅威から地球を救うという名目で、多くの人々が認識するよりもはるかに速く、起こっているのだ。

エーガ愛好会 (168) スティング

(安田)題名のスティング(Sting)は(蜂が、或いは針などで)刺すこと。文字通り、悪者をイカサマで騙し、刺す痛快な犯罪コメディー映画。

筋書きごとにイラストを使い短い言葉でストーリー展開を示唆したのはとても洒落ていた。その言葉は順番に、The Set-Up(計略)、The Hook (引っ掛け)、The Tale (筋書き)、The Wire(電信)、The Shut-Out (締め出し)、The Sting(信用詐欺)。それらの言葉を表す歯切れのよい陰謀含みのストーリー展開は2時間10分の映画を通して飽きさせない面白さがあった。

まず、驚いたのは主役の一人ロバート・レッドフォードの役名がジョニー・フッカー(Hooker)だったこと。Hookerは米:英国では誰でも知っている俗語で売春婦の意味。コメディー映画らしいユーモアに溢れている演出だと思った。実社会でも映画でもHookerの名前も持つ人を他には知らない。アメリカン・ニューシネマの代表作「明日に向かって撃て」で共演した主演のポール・ニューマンロバート・レッドフォードは、年齢的にもキャリア的にも脂が乗り切った男振りでアカデミー作品賞受賞に相応しい役どころを貫禄充分に演じた。11歳年上のニューマンが兄貴役、レッドフォードがやんちゃな弟役をこれ以上のコンビはいないと思わせるほどに好演したと思う。世界恐慌後のすさんだアメリカ社会の底辺を舞台に、マフィアのボスを相手に、二人が知恵を絞ってplotを駆使していく様子は痛快。騙される・刺される悪役はイギリス人俳ロバート・ショウが演じた。「007 ロシアより愛をこめて」のボンドを脅かす怖い刺客役、更には「バルジ大作戦」の敵方ドイツ軍の戦車部隊長役に続いて、馴染みのある風格ある憎まれ役を主役二人に位負けせず堂々と演じたのが印象的だった。

笑いを誘う計略・陰謀・詐欺まがいの愉快なシーンの連続であった。大がかりな偽馬券売り場を造ったり、仲良くなった料理店の女給仕が実は敵方の殺し屋だったり、想定を超える演出が散りばめられていて楽しめた。だが、流石に映画エンディングの結末には驚かされた。まさか、FBIまでもが騙しストーリーの片棒を担いでいたとは魂消た。テーマ曲「エンターテイナー」も禁酒法時代の雰囲気にピッタリで、痛快な映画を軽やかに盛り上げていた感を強くした。

(船津)「騙す」騙されはイャってほどあじわいましたが、まぁこのぐらい軽快に騙せば良いなぁ!!!!

(相川)「スティング」は 私のお気に入りです。 「楽しくなる映画」です。ピアノ演奏で始まる「エンターテイナー」もよかった。最近この手の映画は見かけなくなりました。

(保屋野)掲題、初めて観ました。愛好会の「映画ベストテン+5」でも3票入っていましたね。チビ太の感想に、ほぼ同感です。ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードという名優の競演とテーマ曲、傑作の一つだと思います。 ただ、ストーリーは、(用心深い)ギャングの親分が、殺し屋を差し向けた詐欺師に、簡単に騙されたり、とちょっと無理筋もありましたが、まあ、総じて、現代でも通用するコメディータッチの「犯罪サスペンス映画」でした。最後に、もちろん、FBIの連中も「分け前」をゲットしたのでしょうね。禁酒法時代ならではのエーガでした。

(児井)貴君発案の映画「スティング」談議。小生も初演を懐かしく思い出しながら、今回も楽しく観ました。皆さんの感想文も興味深く拝読。随所に共感を覚えました。脚本と云い俳優陣の熱演と云い今でも色褪せぬ流石アカデミー賞受賞の傑作ですね。小生一押しの愛好映画の一作です。

(小泉)何回か観たので、敬遠するつもりだったが、gisan の一言で、また観てしまった。何回観ても面白いものは面白い。アカデミー賞に10部門ノミネートされ、作品賞、監督賞等7部門で受賞している。特に歌曲編曲賞受賞のマービン・ハムリッシュが、ラグタイムの父スコット・ジョブリンの曲エンターテイナー等
をピアノ演奏と編曲で蘇らせ、30年代のシカゴの雰囲気を再現させた。監督のジョージ・ロイ・ヒルは、「明日に向って撃て1969」では、同じポール・ニューマンとロバート・レッドフォード主演で、従来の西部劇には見られなかったモダンな感覚で描かれたアウトローの逃避行は、新しさと回顧という本来正反対の感覚を同時に与えたものだが、この映画でも、旧き良き時代を再現させながら、悪事を犯しはするが、実際は極度に善良な人物を描き続けることでモダン感覚とノスタルジーに溢れた人物に魅せられながら、爽快なコンゲーム(信用詐欺)を展開させるのだった。レッドフォードが床屋、服屋を経て田舎者者から一挙に都会人風に変身し、ニューマンに会いに行くと娼館に身を寄せながら、メリーゴーランドの修理屋で泥酔者が翌日には、バリッとした紳士に早変わりするところから始まり、騙し合いの連続。ニューヨークの大ボスあの「007ロシアより愛をこめて」の悪役ロバート・ショウをかもるがための大作戦。悪役ぶりが画面に出ていないこともあり、あまりにもコテンパンのやられ方に、逆に同情してしまった。

(編集子)各位それぞれに楽しまれた様子、何より。 このように洒落のめした大傑作にケチをつける気は毛頭ないのだがどうしてもわからない点がある。正解をお持ちの方に教えていただければ小生もこの作品の称賛グループにいれていただく。

始めの方で、部下の失敗に激怒したショウが、側近の部下にその男を ”セレーノに殺させろ” と命令する。ストーリーはこのシーンはすっかり忘れられたように進行するのだが、後半、フッカーをつけまわすチンピラが裏通りで射殺される。その最後にその男が相手を ”セレーノ!” と呼んだまま絶命するのだが、このシーンでセレーノの姿は画面に出ない。此処で見るほうは最初の話を思い出すのだが、最後近く、フッカーが一夜を共にした娼婦の家から出てくると、先に出ていたはずの女が後ろからやってくる。その方へフッカーが戻りかけると背後から銃声一発、この女の眉間に赤い穴が開き、FBIらしき男が登場して女の右手に握られていた拳銃を示しこの男がショウの言っていたセレーナ、の正体だと明かす。此処で観衆ははじめてセレーナが女だったことを知る、という事になる。

ディミトラ・アーリス

見事な筋書きに文句など言う気は毛頭ないのだが、ここで疑問が二つ。セレーナがピストルを装填するシーンは(腕だけだが)直前に示されるので、殺意を持っていたのは明らかだが、はて、だれを撃つつもりだったのか。フッカーならば前夜にいくらでも機会はあったし、第一彼を助ける手助けをして、しっぽり一夜を過ごしている。もう一人の殺し屋もフッカーをつけねらっていたのだから、そうではないのだろう。では誰か。もう一つ、彼女を撃ったFBIは本物のはずだが、この大芝居に参加しているFBI の連中はホンモノだったのかそうではなかったのか。もしホンモノだったとしたらその中の一人だったことになるのだが、見るほうでは区別のしようもない。どうやら小生だけではないようで、グーグルの彼女についての解説記事にも ”フッカーの逃亡に手を貸す” というのもあるし、”フッカーを殺そうとして撃たれる” という解説もある。また、彼女を射殺した後、声だけだが彼女が恐るべき殺し屋だった、と撃った男が解説するのだが、それがFBIなら彼もフッカーを追い続けていたはずだから、それならなぜその場で、フッカーを逮捕しなかったのか。

稀代の傑作の余韻を惑わすようで申し訳ないが、ミステリの合間にしか生活空間がないコロナごもりのせいとご寛容ありたし。 またこの役のアーリス、たしかにどこかで見た覚えがあるのだが、グーグルにのっている出演作品はどれも見た記憶がない。どこまでも小生にはよくわからん女性である。もし、彼女出演の映画なりTVドラマなり、ご存じの方がおられればご教示をいただきたい。

八ヶ岳山麓会ゴルフ報告   (42 下村祥介)

北の杜カントリークラブ

(42下村)お陰様で昨日は皆さん元気でケガもなく、無事にコンペを終えることができました。5人となったためゴルフ場を北の杜カントリー倶楽部に変更、拙宅の隣りに山荘を構え日ごろから行き来をしている上智大ワンゲルOBの方に加わってもらい6名でプレー。あえてスコアには触れませんが澄みわたった青空にくっきりそびえ立つ甲斐駒、鳳凰三山、八ヶ岳を仰ぎ見ながらのプレーは最高でした。ジャイさんおっしゃる通り高原はもう秋の気配、1ホールで9も叩く悲惨なできごともありましたが、爽やかに吹きわたる涼風が慰めてくれました。また是非ここでリベンジしたいとの皆さんの声。次回はぜひジャイさんも交えてプレーできたらと楽しみにしております。

(50家徳)白内障の手術後初めてのラウンド。若返った視力で素晴らしい景色を満喫しました。ゴルフのスコアの方は散々でしたが、前夜祭、往復の車中を含めてとても楽しい時間を過ごすことが出来大満足です。

(42菅谷)真っ青な空のもと、甲斐駒ケ岳を見ながらプレーできて最高でした。愛しき日々練習しておきます。また日帰りワンデルングでお会いしましょう。

(43猪俣)絶好のお天気のなか、楽しくプレイができました。設定に感謝しています。また、下村邸での前夜の懇談、会食でも大変お世話になりました。ありがとうございました。
お開き後、草津温泉に向かい、17時半過ぎに到着しました。早速、島君と合流
し一杯やりました。

(40藍原)冷涼なな所で二日間過ごし、体も・心もしっかりと持ち直しました。下村山荘は標高1400m、気13℃、酒盛りも進み、楽しませてもらいました。北の杜カントリーは南アルプス・八つ岳・奥秩父の山々に囲まれて風光明媚 抜群でした。又企画していただくことを期待しています。有難うございました。

(編集子)南八山麓にセカンドハウスを持つ42年下村君と小生と二人が企画、卒業年度を越えたOB仲間で一夜の楽しい酒盛りと小淵沢カントリでのラウンドを毎夏やることになって今年で3回目。当初8人の予定だったが諸事情で二人が不参加、そしてあろうことか幹事の小生もトラブルがあって最後の最後で参加できなくなり、結局KWVOB 5人と下村君ご友人にピンチヒッタでご参加いただき、場所もゲン直しに(?)南麓の大展望で有名な北の杜CCに場所替えしてのプレーだった。来夏、果たして小生がまだラウンドできるかどうか怪しいのだが、少なくとも前夜の酒盛りだけは盛大に拙宅で、と思っている。 各位、幹事どたキャンのご迷惑、ご寛容いただきたく。

乱読報告ファイル (28) ”歴史の終わり” の後で

米国の政治経済学者フランシス・フクヤマは1989年、ベルリンの壁崩壊という事件の後、旧ソ連が崩壊した世界を考察し、自由民主資本主義がそれまでのイデオロギーの闘いに終止符を打った、と考えて 歴史の終わり を書いた。しかし現実はその後も彼の予想通りには進展しなかった。そして今、ロシアによるウクライナ侵攻という事件に遭遇しているし、地球規模のコロナ・パンデミックという予想もしなかった事実に直面している。”歴史の終わり”という表現そのものの持っていた意味はなんだったのか、という疑問を持つ人もたくさんいるに違いない。良くわからないながらもこの本を読み、それなりに納得していた小生もその一人だが、タイトルもズバリとその疑問に答えようとしている本書を非常に興味を持って読んだ。

本書はノルウエイの経済学者マチルデ・ファスティングとフクヤマとの対談という形式で書かれていて、結果的にはフクヤマの持論の総まとめという形になっている。本書が展開する議論を完全に理解することは小生ごときの及ぶ範囲ではないが、それなりに消化し得たと思う点をまとめてみようと思う。

”歴史の終わり“ で主題となった自由民主主義国とは何か。フクヤマはそれを構成する要素が三つある、と定義する。すなわち、国民に必要なサービスを提供し、体内的にも対外的にも国を守れること、法の支配すなわち国の権力を制限して合意されたルールに従って国家が合法的に振る舞うこと、第三が国家の行動が国民の関心を反映しているかどうかを明らかにする説明責任(アカウンタビリティ)の存在である。権力を制限して市民を公平に扱う自由主義的な制度と国民の意志が反映される仕組みともいえる。それらが確立し長期にわたって機能してきたのが米国だった。ニクソンがそれに挑んでウオーターゲート事件を引き起こしたけれども、彼は自分の国の司法制度を攻撃するようなことはしなかった。嘘もついたけれども大統領としての説明責任を逃れようとはしなかった。この米国が培ってきた立憲制度を公然と破ったのがトランプであり、法律と憲法の制度を軽視する同様の風潮が世界的に拡大しているとフクヤマは指摘し、その傾向をアイデンティティによる政治、と表現する。ある特定の観点から自己主張を強行するグループによる政治、といってもいいのだろうか。米国でいま起きている分断現象はトランプの アメリカファースト なるものが結局は米国が移民や外国人から攻撃されている、という論旨にすり替わって狭隘なナショナリズムに変わっていった結果だろうが、同じことが英国のEU離脱であり、ヨーロッパではあちこちの国で起きているトランプ流のポピュリズム政治だ、と結論する。これはまさに 歴史の終わり で示唆した自由民主義の敗退にほかならない。

フクヤマは民主主義というしくみは自由主義のもとでだけ起き得る制度ではなく、権威主義の下でも実現される、という。ベルリンの壁 の崩壊が歴史の転換点になった、という事からすると理解しにくい論理なのだが、この50年近くの時間経過によって、権威主義国家での生活を体験した人々の数がすくなくなってきて、壁の向こう側、東ドイツの人々が体験した問題そのものが理解されにくくなっていることをフクヤマは指摘する。また、彼の思想体系そのものの変化があったことを認めていて、その根源にあるのが、資本主義経済学がその理論展開の基本としてきた人間の合理性のほかに、人間の情緒性とか特有の文化とかの、従来の理論では非合理的とされ、排除されてきたファクターが表面化してきたこと、人種や宗教やジェンダーなどといった事象を無視し得なくなった現在、彼が前提としていた自由民主主義、なるものもまた変化せざるを得ない。さらにディジタル技術とかバイオメディカル技術などが現時点では想像もできないような社会的変貌をもたらすだろうことも予見しなければならない。

実際にこの半世紀に自由主義陣営に起きた二つの事件、イラク戦争と世界金融危機はいずれも特定の保守的な思想から生まれたものであり、現在世界が直面している格差問題(その延長に来る発展途上国と先進国間の種々のギャップ)の遠因でもある、とフクヤマは指摘する。最後の課題は主義主張のいかんを問わず人類全体が直面する環境問題にもつながっていくわけだが、この課題解決のために国ぐにの仕組みはどうなっていくのか、その処方箋はフクヤマにもまだ見えていないようだ。

(菅原)「歴史の終わり」も「“歴史の終わり”の後で」も読んでいません。また、読む気力もありません。ですから、以下、皮相的になるのを覚悟で一席。

実際には、「歴史の終わり」の見立て通りにはならなかった。これを、現実が間違っていたと言う人もいるかもしれませんが(こう言う輩もいるんだよね)、フクヤマはどうもそこまでは言っていないようだ。しかし、物事が、学者の見立て通りにならなかったら、それに対する、その人の身の処し方はどうあるべきなんでしょうか。ボンクラな小生には、この辺が良く分かりません。

 

ル・コルビジェ展が開かれています  (普通部OB 舩津於菟彦)

ル・コルビジェ展-調和に向かって  20世紀建築の巨匠ル・コルビュジエ(1887-1965)が設計した国立西洋美術館本館は、2016年にユネスコ世界文化遺産に登録されました。開館60周年を記念して開催される本展は、若きシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(ル・コルビュジエの本名)が故郷のスイスを離れ、芸術の中心地パリで「ピュリスム(20世紀建築の巨匠ル・コルビュジエ(1887-1965)が設計した本館は、2016年にユネスコ世界文化遺産に登録されました。

開館60周年を記念して開催される本展は、若きシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(ル・コルビュジエの本名)が故郷のスイスを離れ、芸術の中心地パリで「ピュリスム(純粋主義)」の運動を推進した時代に焦点をあて、絵画、建築、都市計画、出版、インテリア・デザインなど多方面にわたった約10年間の活動を振り返ることで、初期から最近の作品までが展示されています。初期は画家である「ジャンヌレ」-ル・コルビジェ-が「ピュリスム(純粋主義)」のモダニストとしての絵画からピカソなどのキュビズム運動の影響を受けて変化していきます。彼の設計した国立西洋美術館はコルビジェの他の建築とともに世界遺産に登録された処で彼の回顧展が開かれたわけです。
国立西洋美術館は上野駅公園口からずくですので酷暑の避暑場所にはもってこいです。常設展とともにゆったりと「真夏の夜の夢」を如何でしょうか。

小生が渋谷から学校に通っていたころ渋谷駅前にコルビジェ門下生の設計の東急文化か会館が作られ華々しく披露されました。当時の館内も豪華で夢のような建物で、映画芝居を上演するための「パンテオン」の舞台の緞帳は見事な川島織物の緞帳でした。

建物は、日本を代表する建築家・坂倉準三(坂倉建築研究所)が設計を行い、舞台機構の設計については森平舞台機構株式会社(通称・モリヘイ)、施工は清水建設が担当し、鉄骨鉄筋コンクリート造、地下1階・地上8階・塔屋3階建でした。4つの映画館、美容室、レストラン、書店などの店舗が入り、特に屋上にはプラネタリウム「天文博物館五島プラネタリウム」が設置されたこともあり、東京の名所として修学旅行のコースに組み込まれるほどの人気を博したものです。当時の国鉄渋谷駅東口は、東京都電のターミナルであったことから、交通の混乱を避けるために、開業と同時に歩道橋が作られ、東急東横線の改札口から段差なしで文化会館にいくことができました。

坂倉準三とコルビュジェ

緞帳作りはル・コルビジェと坂倉順三は師弟関係にあって、坂倉はその願いを師に託したのでした。コルビジェは、避暑地の南仏にてこの大作の創作に掛かり、昭和31年11月お披露目されました。ピカソのゲルニカのように観る人が太陽と月をイメージしたり如何様にも解釈できるモノでした!惜しくも現存せず、レプリカがヒカリエにあります。

内海哲也引退 ー 巨人の星がまたひとつ去った

今朝の新聞は西武に移籍していた内海哲也の引退を報じた。小生がジャイアンツ戦のテレビ放映を見始めたのはまだ ”実況放送は越智正典、解説中沢不二夫” のころ、小生は高校2年。当然白黒テレビで画面構成もシンプルなもので、浅海昭なんかと一緒に観ていたりした記憶がある。当時の若者のスポーツは野球がほとんどだったが、自分自身で積極的にやったわけではなかったし、実際にジャイアンツを当時の後楽園に見に行ったのは一度だけ、仲の良かった平光清が主審をつとめた対カープ戦を見に行った経験しかない。当日はごひいきの淡口憲治がホームランを撃ち、試合終了で引き揚げる平光と座席から挨拶をしあって満足して帰宅したものだった。

その後もテレビ専門での一ファンにはすぎないが、2000年度最終日、同率で迎えた対中日戦、土壇場の9回裏に 4-0から満塁とし、江藤がドラマチックに満塁ホーマーで同点、興奮がまだ渦巻いている間に二岡が右翼席に決勝弾を撃ち込んだゲームとか、坂本の初ホームランとか斎藤の初登板(リリーフ)などというようなファンにとっては意味のある場面も見ている。その中で内海を初めて見たのがどういう場面だったかは覚えていないのだが、アナウンサーが(このピッチャーはどんなもんでしょうか)と聞き、解説が(まあまあじゃないですか)と無難

山口引退のときのシーン

に答えたのだけはどういうものか覚えている。その後ごひいきにしたのは山口鉄也で、この ”ふたりテツヤ” が活躍したころは見るほうでも納得することが多かった。

プレーヤーとしての技量をうんぬんする能力は小生にはないので意見は差し控えるが、テレビ画面からも伝わって来る人柄の良さ、温厚な中に秘めた闘志、というようなものがとても好きだった。そういう意味ではいくら勝とうが好きになれなかったのが沢村であり上原だった。

スポーツ観戦、というのはもっとゲームとかプレーとかに集中すべきだと思うので、人柄、などをうんぬんするのは邪道だとは承知の上の回想である。好漢、今後の健闘をいのるや切。