エーガ愛好会(214)  ガンファイターの最後  (34 小泉幾多郎)

5月27日(金)BSP放映「ガンファイターの最後 Death of Gunfighter 1969 」は、アラン・スミシー監督、リチャード・ウイドマークと歌手でもあったリナ・ホーン主演なのだが、アラン・スミシーとは、1968~1999年にかけて使われた架空の映画監督の名前というから驚いた。全米監督協会による審査認定の許に使用されたとのこと。撮影中、当初のロバート・トッテン監督とウイドマークが対立、途中からドン・シーゲル監督に代ったが、二人ともクレジットに名前を表記されることを拒否したとのこと。個人的には、無責任極まりないと思うし許されてよいものとは思えないが、これ以降、何作も続いたとのこと。

冒頭、棺を載せた荷馬車が横切ると、正面から蒸気を上げながら列車が到着する。歌手リナ・ホーンが唄う「甘いリンゴのような愛。あの頃を忘れることはない。笑みをこぼすことは二度とないだろう。愛する人が去った今となっては」。最初で最後、棺を乗せた列車はリナを乗せ何処ともなく走り去る。

物語は、あるテキサスの小さな町の昔気質の保守的な保安官ウイドマークが、旧い価値観のもと町の平和を守り抜いてきたが、鉄道が開通し産業が発展した時代になると、彼のやり方に反発する町の有力者達によって用無しとばかりに追い詰められて行く。ウイドマークの味方と言えば、慕ってくれる仲良しの青年マイケル・マグリーヴィーと恋人のリナだけで、殆んどの町民がウイドマークを嫌っているのはあまり合点がいかない。ウイドマーク自体は、年齢を重ね哀愁と渋み、その表情は何とも格好いいと思うのだが、彼が撃てば撃つ程に状況が悪化し、泥沼にはまり込んで行く様は全く居心地が悪い。切羽詰まったところで、恋人リナと結婚するのも唐突。結婚式の神父が、あのジョン・フォード映画の常連ハリイ・ケリイJrとは驚き。対抗馬の積りで連れて来られた郡保安官ジョン・サクソンとは過去の恩義を理由に数少ない和みの関係で、サクソンも格好いいところを見せる。

終幕は、不条理な運命を受け容れ、何発もの銃弾を浴び最後を迎えるが、何ともやり切れない。群集心理の恐ろしさは、先週の「牛泥棒」の比ではない。

(編集子)セーブゲキではないが、いっときもてはやされたニューシネマとやらの一つ、バニシングポイント のラスト、道路ブロックにかりたてられた巨大なブルドーザの、銀色に光る刃に微笑を含んだまま激突して果てるラスト。バリー・ニューマンの最後の、満足しきった顔が忘れられない。あれとおなじ、まさに小泉ドクのいわれる不条理の世界に共通する、一種の一体感みたいなもの、これは何だろうか?

平野・サンデル討論を聞きました    (42 河瀬斌)

懇親会に参加の敵わない平井愛子さんに代わって平野啓一郎とマイケル・サンデルの討論を聞かせていただきました。ご示唆ありがとうございます。
 大筋の趣旨をまとめますと次の通りです。現在の日本にとって経済格差が拡大していますので、大変重要なテーマだと思います。
1)平野:日本人はそれは自己責任で多くは本人の問題と捉えている。これをどう考えるか?
サンデル教授の意見:(大谷翔平の例をあげて)成功者になるか否かは主に長期的な本人の努力や才能による。しかし必ずしもそうではなく、経済的に豊かな環境にいてそのような機会が得られたか、そして社会が偶然それ(野球文化など)を望んでいたか、などの運にも左右される。
 成功者は従って社会にその一部を還元する寛容さが必要である。日本の累進課税はそれを擁護する税制で、支持できる。良い社会を保つためには成功者が寄付の文化に貢献することも重要でしょう。

2)平野:金融投機による利益をどう思うか?

サンデル教授の意見:現在の日本では会社の経営を安定させる目的で投機に向かう理由もある。しかしAIなどの会社など巨大な資金を持つ会社や個人が有利になりがちな、投機による利益を制限すべきである。高齢者の貯金を投機に向けようとする動きにも問題がある。
3)平野:実質的に社会に貢献している労働者が利益を得られるようにするにはどうしたら良いか?(例えば保育士の給与が相対的に低く、社会貢献度に見合っていない)
サンデル教授の意見:現在就労している職種だけでなく、それ以外の潜在的能力を総合的に評価し、それに見合った給与を与えるシステムが必要である。
(河瀬の意見)
大筋でサンデルさんの意見に賛成ですが、下記の日本の独特な状況があります。
1)人に負けない才能を得るために努力を惜しまないのは「自己責任」の賜物です。日本には『銭より責任を持つ仕事が大切』と教えられた時代がありました。運も時には「先を見る千里眼」が運を運びます。しかしその成功者は「累進課税」への貢献だけでなく、社会の面倒を見る「寄付文化」にも貢献すべきでしょう。日本では松下幸之助がその先人ですので、昔の良さを取り戻しましょう。
2)日本の経済格差は土地などの不動産によるものが多いこれは一種の金融投機で、バブルの時に問題になりました。これが最近形を変えて再燃しているのです。特に東京近郊では土地の値上がりで得た近郊農家の相続者や高級タワーマンションの暴騰で得た都会周辺の「働かざる利益者」と、兎小屋の自宅を得るための重いローンに苦しむ「サラリーマン」や「コロナ下で崩壊した零細企業」の間で大きな経済格差を生じている、と思います。
 不動産の値上がりは、新しくできた公共交通によるものが大きいので、その不動産利益をもっと厳しく制限し、そのコミュニティーに住もうとする人たちにその利益を還元できる(国の税金収入ではなく、ふるさと納税のような)システムを作れば、より良い街が作れると思います。現在この方式は人口の減少している地方で行われるようになりましたが、都会周辺でも構築すべきでしょう。
3)日本人には独特の『職人気質』があり、それが昭和までの国を支えてきました。その人たちが次第にいなくならないような給与体系を今、根本的に見直す必要があります。加工職人だけでなく、国の発展に必ず必要な、学校の先生、保育士、医療介護士、研究者も割に合わない給料から至急救われるべき職業でしょう。

チャットGPTを巡って  (普通部OB 田村耕一郎)

友人から送られてきたCGPTを巡っての政府の対応についての記事、要約してご紹介する。

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4月10日、岸田文雄首相が首相官邸で対していたのは、米新興企業オープンAIのサム・アルトマンCEO(最高経営責任者)だった。一般には名前も知られていなかったベンチャー経営者と、首相が面会するのは異例といえる。   同社は、人間のように自然な回答を返す対話型AI(人工知能)「ChatGPT(チャットGPT)」を開発したことで、一躍脚光を浴びる。

しかし個人情報データの取り扱いに関する懸念から、イタリアがチャットGPTの一時利用禁止を決めるなど、欧米では慎重論も広がる。首相がその話題を振ると、アルトマン氏は「野放図にさせておくのはいけない」と返した。   質問を予想していたのか、協力的な姿勢を示しつつ、こうくぎを刺すことも忘れなかった。「イタリアのように一発で禁止にしたら進歩はない。徐々にルールをつくりながら進化させなければ」

複数の関係者によると、今回の来日は自民党の議員からオープンAI側に要請したものだった。首相との面会も、党側から官邸側に働きかけた結果だったという。    その直前の3月30日、党ではAIに関するプロジェクトチーム(PT、平将明座長)が政府への提言案をまとめたばかりだった。 チャットGPTを念頭に、最先端AIの研究・開発の環境整備や、行政での積極的な利用を求めたものだ。スタートアップや新規事業の創出を奨励することや、国会答弁の下書き作成での利用などを提言している。 もともと欧州では、厳格な個人データの保護法制があり、米国でもバイデン政権下で規制に向けた動きが出始めるなど、風向きが変わってきている。   それでもPTの親会議である自民党「デジタル社会推進本部」は、AIについて「規制だけでは何も解決しない。常にポジティブに」(平井卓也本部長)と強調する。今週末には群馬で主要7カ国(G7)デジタル・技術相会合があり、5月にはG7広島サミットが控えるが、国内で規制に関する具体的な議論は進んでいない。

むしろ、AIの訓練に使われるデータの著作権は、18年の法改正により、権利者の許諾なしにAIに著作物を読み込ませることができるようになった。産業競争力を強化する目的からだ。個人情報保護法も欧州などに比べて保護される範囲が狭く、罰金も少ない。 しかし、先端のAIには膨大な個人データの収集によるプライバシーへの懸念や、高度な技術を誇る巨大IT企業へのデータと権限の集中などが指摘される。

松野博一官房長官は20日の記者会見で、「急速なデジタル化の進展により、AIのような既存の法制度の適用があいまいな領域が発生し、ルールのアップデートに関する課題が生じている」と述べた。そのうえで、開発の振興、利活用の推進、適切な規制という三つの要素が重要だとの認識を示した。

G7の場では、「責任あるAI」の実現に向け、技術や制度を評価するための共通基準づくりが議題となる見通しだ。国際機関などを通じ、AIの技術やガバナンス(統治)について基準づくりを促す案が検討されている。   積極活用を重視する日本だが、議長国として「推進と規制」のバランスをとった議論を主導していくことが求められている。

春の終わりに

  

    桜餅 ”ほな” ”ほな” 言うた あれっきり

読売新聞朝刊で紹介された一句である。全国的番組になった、かのプレバトブームに関わらず、俳句の奥義などとはおよそ縁遠い小生であるが、なんとなくほのぼのとした中に込められた哀切さがずんと心に届いた。

春は冬の終わり、新しい芽が吹きだすとき、という自然の流れの中、人の世も何かと表は華やいでいる翳で、別れの季節でもある。

我が家の近く, 地元で古顔、なじみの和菓子屋はすでに柏餅の季節だった。すでに春が終わっていることを改めて感じたことだった。

 

ハリー・べラフォンテ 逝く    (大学クラスメート 飯田武昭)

 

友人からの情報では、ハリー・べラフォンテが先程亡くなりました。死因は鬱血性心不全だそうです。享年96歳でした。火曜日の朝ということです。日本では火曜日の夜になります。ニューヨークとの時差が12時間。

カリプソという言葉を日本に伝えたのは、彼の歌ったバナナボート・ソングでした。また、1985年でした。アフリカの飢餓を救うための 「USA for AFRICA ”We are The World”」はハリー・ベラフォンテの発案で企画されたものです。一番後ろの列で歌っていましたね。テレビの中継を見ていましたが、夜明けの4時半まで見て聴いていました。凄い番組でした。

(友人の解説を転載しておきます)                   1956年に「バナナボート・ソング」がリリースされた。ハリー・べラフォンテのデビューである。日本では翌1957年に発売になった。それまで誰も聞いたことがないジャマイカの労働歌が元になっている。当時、ジャマイカの「カリプソ」として売り出されたが、カリプソはトリニダードで生まれたスタイルで、本来はジャマイカ民謡の「メント」の歌なのだそうだ。アメリカでは「メント」と言っても通じないので「カリプソ」ということにして売り出したのである。べラフォンテの母親がジャマイカ出身だったことで、この歌を歌うことになったのだろう。

日本でもカリプソブーム。色んな歌手がカバーしたが、カリプソ娘、浜村美智子が一番売れた。「今月ぁ 足りない 借りねばなら~ぬ」なんて替え歌まで出来た。「ダニーボーイ」はアイルランド民謡の「ロンドンデリーの歌」に歌詞を付けた、第一次世界大戦前夜にFrederic Whetherlyが書いた歌である。べラフォンテが歌って世界中の人に知れ渡った。ビング・クロスビーもジュディ・ガーランドもレコードを出しているが、多くの人はべラフォンテの歌がラジオから流れてくるのを聴いたものだろう。あなたが一番感動的なダニーボーイだと思うのは誰の歌でしょう?

(編集子)べラフォンテ本人よりも浜村美智子のハーフヌードのほうが日吉の丘では話題になったもんだ。ダニー―ボーイ、あの哀切を帯びた歌唱は確かに心に染みた思い出がある。ただ、小生の趣味からすると フランク・シナトラ版かなあ。

“チャットGPT” についての実験

中司恭さんは、日本の経営者であり、IT企業の創業者の一人として知られています。以下に中司恭さんの経歴と業績をまとめました。

1957年に東京都で生まれる。
早稲田大学を卒業後、1981年に日本IBMに入社。
IBM時代には、プロジェクトマネージャーやマーケティングマネージャーとして、多くのプロジェクトを手掛けた。
1987年にIBMを退社し、ベンチャー企業のシステムエキスパート株式会社を設立。同社は、コンピュータネットワークの構築やシステムの開発・保守などを手掛けた。
1991年には、インターネットサービスプロバイダーのIvyNetを設立。日本で初めての商用インターネット接続事業者として、インターネットの普及に貢献した。
1996年には、ITコンサルティング会社の日本システム技研を設立。同社は、政府機関や大手企業などのITシステム構築に関わっている。
2000年には、デジタルメディアの分野に進出し、アイビーシーという子会社を設立。同社は、音楽配信や映像配信サービスなどを展開している。
2005年には、IvyNetを楽天に売却。
現在は、日本システム技研の代表取締役社長として、企業向けのITソリューションの提供に取り組んでいる。

中司恭さんは、日本のIT業界に多大な貢献をしてきました。特に、インターネットの普及に大きな役割を果たしたことは注目されます。また、中司恭さんは、ITと音楽の融合にも取り組んでおり、その分野でも新しいビジネスモデルの開発に貢献しています。

ある友人が今を時めくチャットGPTに ”中司恭さんについて教えてください” と問い合わせてみたところ、CGPTの回答がこれである。

検索能力についてこのシステムの能力の程度には(あまり期待できないと予想はしていたものの)唖然とjするとともにふきだしてしまった。もちろん、世間にもよく知られ、経歴や業績などが容易にわかる、いわば知名人の場合はともかく、独裁主義国家制度の下で国民全員の背景がわかっているというのなら話は別だが、我々一般市民についてその背景を調べてくれというほうが無理な注文なのは理解できる。ただ、たまたま、小生の場合は著書の紹介を発行元が登録したため、一応グーグルに記載はあり、検索すると本の題名の次に、1937年生まれ、慶應義塾大学卒業、というところまではデータがすぐわかる。それにもかかわらず生まれも卒業校も違うのか、がまず第一の疑問であるが、当然、同姓同名の人はいるかもしれないと思い、早稲田大学に問い合わせたがプライバシー保護のため回答を得られず、IBMのほうも知人を通じて調べたが該当者はなかった。これ以上、個人の能力では調査できないが、苗字もどちらかと言えば珍しいほうなので同姓同名同生年月日同窓、の方がおられる可能性はまずないだろうと思われる。

さらに内容だが、まず就職先は当時の株式会社横河電機製作所、であり、なぜIBM入社になったのかも不思議だし、グーグルでしらべたかぎりでは IvyNet という会社は(少なくとも現時点では)存在しない。アイビーシー社の創立は2002年、日本システム技研は小生現役のころから業界では知られた存在、現在同社の社長というに至っては呆然とするばかり(ちなみにグーグルの記載では、同社の創立は1976年、現在の社長は三井昇氏という方である)。はたまた、たかだか裕次郎に小林旭のフアンどまりの小生がITと音楽の融合に携わっている、などという神話がどこからでてきたのかはただ想像を絶する創作としか言いようがない。

つまり現時点でこのソフトの持つ検索結果には正解は1個もない。此処までは検索対象の選択のアルゴリズムにもよるだろうから、必要とあれば再調査することもできないわけではない。ただ、より恐ろしいのは、後段にある ”IT業界に多大の貢献、うんぬん” というくだりである。此処には資料の列挙とは違った、明らかな判断という要素が働いている。”人工知能” というものを盲信する人はそのことが真実だと信じるはずだ。この ”人工知能様” の判断解釈がそのまま流通してしまえばどんな結果が持たされるのか、想像するだけでぞっとするではないか?このソフトの目指す能力のうち、作文については、実用上の問題はない(自分の主張を他人に書かせるという行為自体、小生には納得できないけれども)としても、その検索能力については、ごく限られた分野を除いてとてもではないが信頼するレベルではないように見える。せめて、”検索には条件が不足です” とか 検索をするにあたっての前提とかが明瞭に示されればまだいいのだが、その結果が明示されてしまうと一般の人は書かれたものを(当然だが)真実ととらえ、それをもとにした行動が起きてしまうことが恐ろしい。この最後の点は最近の読売新聞も重大な関心事であるべきと主張しているが、まさに同感である。

この実験をした友人はさらにチャットとの(これがほんとの意味か)チャットの結果を知らせてくれた。

私:情報を勝手に捏造しているのでは?

CGPT:いいえ、私は情報を勝手に捏造したり改竄したりすることはありません。私は与えられた情報に基づいて回答を提供し、可能な限り正確性を保つように努めています。ただし、私も人間が開発したプログラムであり、時には間違いを犯すことがあります。その場合には訂正し、正確な情報を提供するように努めています。

 

PS:この ”実験” は小生とは違ってIT技術に関するエキスパートである友人が行ったもので、本人の意思により名前は明かさないが、十分な技術的ノウハウをもとに行われた(つまり小生の創作ではない)ものだということを付記しておく。

春の日平会開催

日平(ひびら)会とは、昭和29年(1954年)慶応義塾普通部出身の仲間の間でいわば自然発生的にできた、同期生の集まりである。我々が入学したときはまだ戦災で焼失した校舎再建ができておらず、普通部の授業は天現寺の幼稚舎(小学校)校舎に間借りして再開されていた。2年次に日吉に現在の校舎が完成、同時にそれまでの4クラスが5クラスに編成され、現在の形になった。いわば我々は新時代第一期生というわけだ。月去り星は移るとも、というのは塾の応援歌の一節だが、そのころの雰囲気そのまま、この会も幹事のご苦労によって変わらず続いている。

会のきっかけとなった日平亭が休業した後は伝手を頼りに現在の帝国ホテルB1にある三田倶楽部での会同を続けてきたが近々改装の予定もあるとか、場所は変わるかもしれないがまだまだ継続したいものだ。

今回の出席は船津 於菟彦,河野裕策、 佐藤光男、田中新弥 、田村耕一郎 
中司恭 、日高 健郎 、岡田武郎 岡野嘉久、高山津図武、田中宏幸 ,水木敏弘   飯泉隆三、片貝康磨、宮坂大陸 であった。同期で関心のある方は A組 岡野までご連絡ありたし。

城南五山めぐり     (44 安田耕太郎)

城南五山は、東京の城南地区にある高台5ヶ所の総称で、品川駅から目黒駅にかけての地域で、八つ山 ・御殿山・島津山・池田山・花房山、の総称で、江戸時代からそれぞれ由緒ある大名屋敷や大名出身の邸宅があったことが命名の由来です。古くから高級住宅街として知られ、城南五山はブランドエリアとなっております。同期8人(渋谷 北村 河手 坪内 赤荻 岡田 浅野三郎、安田)でのんびり散歩してきました。
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上皇后美智子さんが成婚まで過ごされた旧正田邸の跡地に作られた200坪の「ねむの木の庭」。2004年開園。
慶應義塾創始者・福沢諭吉翁の墓があった常光寺。1977年、港区の善福寺へ移す。

新緑の北信州、同期三夫妻、競う  その2    (42  河瀬斌)

 千曲川河原の菜の花、綺麗ですね。小布施はいいところです。右の写真は高山村にある「黒部のエドヒガンザクラ」でしょうか。私も1昨年高山村の桜を楽しみました。
 私も保屋野さんと偶然同じ頃、17−19日に家内と信州に行きました。初日は茅野からレンタカーで伊那谷へ行き、駒ヶ根からケーブルで標高2690m(ケーブル日本最高所)に登ると、ここはまだ雪の世界で宝剣岳の岩峰が雄大でした。反対側には南アルプスの全山岳が俯瞰できます。下界には新緑に加えて桜がまだ残っていて、田んぼの土手には水仙が咲き乱れていました。光前寺の庭園の枝垂桜はまだ散り始めで、早朝に誰もいない寺の桜吹雪の中で一人写真を撮っているとなんとも言えぬ幸せを感じます。泊まった東向きの温泉からは南アルプスの日の出が見えました。
 二日目は安曇野に泊まりました。夜雨で翌日は曇りの予報でしたが、運よく朝から快晴になったので、大好きな大町までドライブして「鷹狩山展望台」に行きました。ここはアルプスと反対側の丘陵なので真正面に真っ白な北アルプスが見えます。大天井岳から蓮華岳、鹿島槍、五竜に連なる雪の連山を思う存分楽しんできました。
 二日間で「春の3大アルプス連山」を全て見てこれたのです。やはり日本の山岳と山里は世界一美しい!