5月27日(金)BSP放映「ガンファイターの最後 Death of Gunfighter 1969 」は、アラン・スミシー監督、リチャード・
ウイドマークと歌手でもあったリナ・ホーン主演なのだが、 アラン・スミシーとは、1968~1999年にかけて使われた架空の映画監督の名前というから驚いた。 全米監督協会による審査認定の許に使用されたとのこと。撮影中、 当初のロバート・トッテン監督とウイドマークが対立、途中からドン・シーゲル監督に代ったが、 二人ともクレジットに名前を表記されることを拒否したとのこと。 個人的には、無責任極まりないと思うし許されてよいものとは思えないが、これ以降、何作も続いたとのこと。 冒頭、棺を載せた荷馬車が横切ると、
正面から蒸気を上げながら列車が到着する。歌手リナ・ ホーンが唄う「甘いリンゴのような愛。あの頃を忘れることはない。笑みをこぼすことは二度とないだろう。 愛する人が去った今となっては」。最初で最後、 棺を乗せた列車はリナを乗せ何処ともなく走り去る。
物語は、
あるテキサスの小さな町の昔気質の保守的な保安官ウイドマークが、 旧い価値観のもと町の平和を守り抜いてきたが、 鉄道が開通し産業が発展した時代になると、彼のやり方に反発する町の有力者達によって用無しとばかりに追い詰められて行く。 ウイドマークの味方と言えば、 慕ってくれる仲良しの青年マイケル・ マグリーヴィーと恋人のリナだけで、 殆んどの町民がウイドマークを嫌っているのはあまり合点がいかな い。ウイドマーク自体は、年齢を重ね哀愁と渋み、 その表情は何とも格好いいと思うのだが、彼が撃てば撃つ程に状況が悪化し、 泥沼にはまり込んで行く様は全く居心地が悪い。 切羽詰まったところで、恋人リナと結婚するのも唐突。 結婚式の神父が、あのジョン・フォード映画の常連ハリイ・ケリイJrとは驚き。 対抗馬の積りで連れて来られた郡保安官ジョン・ サクソンとは過去の恩義を理由に数少ない和みの関係で、サクソンも格好いいところを見せる。 終幕は、
不条理な運命を受け容れ、何発もの銃弾を浴び最後を迎えるが、 何ともやり切れない。群集心理の恐ろしさは、先週の「牛泥棒」の比ではない。 (編集子)セーブゲキではないが、いっときもてはやされたニューシネマとやらの一つ、バニシングポイント のラスト、道路ブロックにかりたてられた巨大なブルドーザの、銀色に光る刃に微笑を含んだまま激突して果てるラスト。バリー・ニューマンの最後の、満足しきった顔が忘れられない。あれとおなじ、まさに小泉ドクのいわれる不条理の世界に共通する、一種の一体感みたいなもの、これは何だろうか?
平野・サンデル討論を聞きました (42 河瀬斌)
2)平野:金融投機による利益をどう思うか?
チャットGPTを巡って (普通部OB 田村耕一郎)
友人から送られてきたCGPTを巡っての政府の対応についての記事、要約してご紹介する。
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春の終わりに
コナラの新芽も芽吹いてきました! (グリンビラ総合管理 HPより転載)
ハリー・べラフォンテ 逝く (大学クラスメート 飯田武昭)
友人からの情報では、ハリー・べラフォンテが先程亡くなりました。死因は鬱血性心不全だそうです。享年96歳でした。火曜日の朝ということです。日本では火曜日の夜になります。ニューヨークとの時差が12時間。
カリプソという言葉を日本に伝えたのは、彼の歌ったバナナボート・ソングでした。また、1985年でした。アフリカの飢餓を救うための 「USA for AFRICA ”We are The World”」はハリー・ベラフォンテの発案で企画されたものです。一番後ろの列で歌っていましたね。テレビの中継を見ていましたが、夜明けの4時半まで見て聴いていました。凄い番組でした。
(友人の解説を転載しておきます) 1956年に「バナナボート・ソング」がリリースされた。ハリー・べラフォンテのデビューである。日本では翌1957年に発売になった。それまで誰も聞いたことがないジャマイカの労働歌が元になっている。当時、ジャマイカの「カリプソ」として売り出されたが、カリプソはトリニダードで生まれたスタイルで、本来はジャマイカ民謡の「メント」の歌なのだそうだ。アメリカでは「メント」と言っても通じないので「カリプソ」ということにして売り出したのである。べラフォンテの母親がジャマイカ出身だったことで、この歌を歌うことになったのだろう。
日本でもカリプソブーム。色んな歌手がカバーしたが、カリプソ娘、浜村美智子が一番売れた。「今月ぁ 足りない 借りねばなら~ぬ」なんて替え歌まで出来た。「ダニーボーイ」はアイルランド民謡の「ロンドンデリーの歌」に歌詞を付けた、第一次世界大戦前夜にFrederic Whetherlyが書いた歌である。べラフォンテが歌って世界中の人に知れ渡った。ビング・クロスビーもジュディ・ガーランドもレコードを出しているが、多くの人はべラフォンテの歌がラジオから流れてくるのを聴いたものだろう。あなたが一番感動的なダニーボーイだと思うのは誰の歌でしょう?
(編集子)べラフォンテ本人よりも浜村美智子のハーフヌードのほうが日吉の丘では話題になったもんだ。ダニー―ボーイ、あの哀切を帯びた歌唱は確かに心に染みた思い出がある。ただ、小生の趣味からすると フランク・シナトラ版かなあ。
“チャットGPT” についての実験
中司恭さんは、日本の経営者であり、
1957年に東京都で生まれる。
早稲田大学を卒業後、1981年に日本IBMに入社。
IBM時代には、
1987年にIBMを退社し、
1991年には、
1996年には、
2000年には、デジタルメディアの分野に進出し、
2005年には、IvyNetを楽天に売却。
現在は、日本システム技研の代表取締役社長として、
中司恭さんは、日本のIT業界に多大な貢献をしてきました。
ある友人が今を時めくチャットGPTに ”中司恭さんについて教えてください” と問い合わせてみたところ、CGPTの回答がこれである。
検索能力についてこのシステムの能力の程度には(あまり期待できないと予想はしていたものの)唖然とjするとともにふきだしてしまった。もちろん、世間にもよく知られ、経歴や業績などが容易にわかる、いわば知名人の場合はともかく、独裁主義国家制度の下で国民全員の背景がわかっているというのなら話は別だが、我々一般市民についてその背景を調べてくれというほうが無理な注文なのは理解できる。ただ、たまたま、小生の場合は著書の紹介を発行元が登録したため、一応グーグルに記載はあり、検索すると本の題名の次に、1937年生まれ、慶應義塾大学卒業、というところまではデータがすぐわかる。それにもかかわらず生まれも卒業校も違うのか、がまず第一の疑問であるが、当然、同姓同名の人はいるかもしれないと思い、早稲田大学に問い合わせたがプライバシー保護のため回答を得られず、IBMのほうも知人を通じて調べたが該当者はなかった。これ以上、個人の能力では調査できないが、苗字もどちらかと言えば珍しいほうなので同姓同名同生年月日同窓、の方がおられる可能性はまずないだろうと思われる。
さらに内容だが、まず就職先は当時の株式会社横河電機製作所、であり、なぜIBM入社になったのかも不思議だし、グーグルでしらべたかぎりでは IvyNet という会社は(少なくとも現時点では)存在しない。アイビーシー社の創立は2002年、日本システム技研は小生現役のころから業界では知られた存在、現在同社の社長というに至っては呆然とするばかり(ちなみにグーグルの記載では、同社の創立は1976年、現在の社長は三井昇氏という方である)。はたまた、たかだか裕次郎に小林旭のフアンどまりの小生がITと音楽の融合に携わっている、などという神話がどこからでてきたのかはただ想像を絶する創作としか言いようがない。
つまり現時点でこのソフトの持つ検索結果には正解は1個もない。此処までは検索対象の選択のアルゴリズムにもよるだろうから、必要とあれば再調査することもできないわけではない。ただ、より恐ろしいのは、後段にある ”IT業界に多大の貢献、うんぬん” というくだりである。此処には資料の列挙とは違った、明らかな判断という要素が働いている。”人工知能” というものを盲信する人はそのことが真実だと信じるはずだ。この ”人工知能様” の判断解釈がそのまま流通してしまえばどんな結果が持たされるのか、想像するだけでぞっとするではないか?このソフトの目指す能力のうち、作文については、実用上の問題はない(自分の主張を他人に書かせるという行為自体、小生には納得できないけれども)としても、その検索能力については、ごく限られた分野を除いてとてもではないが信頼するレベルではないように見える。せめて、”検索には条件が不足です” とか 検索をするにあたっての前提とかが明瞭に示されればまだいいのだが、その結果が明示されてしまうと一般の人は書かれたものを(当然だが)真実ととらえ、それをもとにした行動が起きてしまうことが恐ろしい。この最後の点は最近の読売新聞も重大な関心事であるべきと主張しているが、まさに同感である。
この実験をした友人はさらにチャットとの(これがほんとの意味か)チャットの結果を知らせてくれた。
私:情報を勝手に捏造しているのでは?
CGPT:いいえ、
PS:この ”実験” は小生とは違ってIT技術に関するエキスパートである友人が行ったもので、本人の意思により名前は明かさないが、十分な技術的ノウハウをもとに行われた(つまり小生の創作ではない)ものだということを付記しておく。
春の日平会開催
日平(ひびら)会とは、昭和29年(1954年)慶応義塾普通部出身の仲間の間でいわば自然発生的にできた、同期生の集まりである。我々が入学したときはまだ戦災で焼失した校舎再建ができておらず、普通部の授業は天現寺の幼稚舎(小学校)校舎に間借りして再開されていた。2年次に日吉に現在の校舎が完成、同時にそれまでの4クラスが5クラスに編成され、現在の形になった。いわば我々は新時代第一期生というわけだ。月去り星は移るとも、というのは塾の応援歌の一節だが、そのころの雰囲気そのまま、この会も幹事のご苦労によって変わらず続いている。
会のきっかけとなった日平亭が休業した後は伝手を頼りに現在の帝国ホテルB1にある三田倶楽部での会同を続けてきたが近々改装の予定もあるとか、場所は変わるかもしれないがまだまだ継続したいものだ。
今回の出席は船津 於菟彦,河野裕策、 佐藤光男、田中新弥 、田村耕一郎
中司恭 、日高 健郎 、岡田武郎 岡野嘉久、高山津図武、田中宏幸 ,水木敏弘 飯泉隆三、片貝康磨、宮坂大陸 であった。同期で関心のある方は A組 岡野までご連絡ありたし。
城南五山めぐり (44 安田耕太郎)
新緑の北信州、同期三夫妻、競う その2 (42 河瀬斌)

