1月6日、KWV44年同期で毎年恒例となっている七福神巡りは今年は2回
川崎桜本九福神 (34 小泉幾多郎)
恒例の七福神めぐりを長年続けてきましたが、寄る年波には勝てず、一
今年も一箇所で、と思っていたら、偶々川崎大師の近くに桜本
川崎駅から大師行きの
にすべく上を向いてい
疲れも感じず、さくらもと九
伊豆九島を臨む旅をしてきました (42 保屋野伸)
4日、5日と家内、娘、孫の4人で-伊豆旅行をしてきました。(といっても、踊り子号+下田東急ホテル宿泊というJRのプランです)
昨日は、伊豆下田駅前からロープウエイで寝姿山へ、そこから見えたのが、大島、利島、新島、三宅島、御蔵島、式根島、神津島でした。これって「伊豆7島」? 私の記憶では確か八丈島が入っていたはずなのに、とネットで調べたら、式根島は新島と行政が一緒ということで外されていました。実は伊豆諸島にはもう一つ青ヶ島も有人島で、正確には「伊豆9島」が正しいようです。
今日はタクシー観光で石廊崎と爪木崎に行きましたが、思わぬ発見がありました。私は石廊崎には行ったことがありますが、タクシーの運ちゃんが少し先の「奥石廊崎」に案内してくれました。いやー、まさに「絶景かな」・・皆さん南伊豆にご旅行の際はぜひ。奥石廊崎まで足をのばしてください。
(安田)あけましておめでとうございます。さすが、
多肉植物のアロエはメキシコの有名な蒸留酒テキーラの原材料・同じ多肉植物のアカベによく似ています。テキーラ酒を産出することからその場所をテキーラ村と呼んだのか、テキーラ村で産出するからその蒸留酒をテキーラと名付けたのかは分かりませんが、首都メキシコシティから北西へ500km離れた砂漠に近い場所をたまたま通りかかった村がテキーラで、一泊して初めてテキーラ酒を飲みました、1968年のことです。アロエの写真を見て思い起こしました。
(編集子)高校時代の恩師、片倉先生は生物学の専攻で、ダンゴムシの研究をライフワークとしておられた。その一環として、八丈島に研究対象があるのだが、というお話があり、当時のクラスメート(KWVの同期3人を含む)で初めてこの島へ行く機会があった。先生は古き良き時代のアルピニストで、1年の夏、僕らを白馬へ連れて行ってくれ、それが縁で大学で片倉学級から4人、KWVに入ったいきさつがあり、皆、恩返しのつもりもあって同行した。年も重ねて時として足元も定かではなく、少しばかり不安はあったが、田んぼや沼地を熱心に探索されて、その結果、みごと新種を発見、その後学会に報告して学名が登録された。当然ラテン語で中にたしか katakura という文字が入っていたはずなのだが、恩知らずのわれわれの中で一人だけ、その資料をもっていた田中新弥がそれをなくしてしまい、その名前をご紹介できないのが何とも残念である。
この旅行では見物を兼ねて八丈富士へ登って(たぶんKWVでは俺たちが最初だ)と喜んだものだ。KWVで登頂(というほどでもないが)経験お持ちの方があれば知りたいものだ。また島では車のナンバーが中央区だったのになるほど、と思った。保屋野君がいうようにこれは青ヶ島でもそうなのだろうな。(興味がないので知らないが、この山は日本百名山には入っていないのか?)
なお、片倉先生は慶応高校ワンダーフォーゲル部の創設者で、残念の極みだが早逝した田中トンべをはじめとしてKWVにもお世話になった仲間が多くいる。東京のこの南国へ行く機会はもうないだろうが、温厚な片倉さんとの思い出とあの海の蒼さが、俺達の高校生活、大げさに言えばパクスアメリカーナに包まれた、いい時代の甘酸っぱい記憶を思い出させてくれるようだ。
新年の青空です (普通部OB 舩津於菟彦)
東京は晴天続
「お雑煮」という名前は、さまざまな具材をまぜて煮合わせたこと
年神様へのお供え物には霊力が宿るとされ、そのお供え物を食べる
「祝い箸」は、箸の両端が細くなっており「両口箸」とも呼ばれ、
錦糸公園・朝の散歩 ポチポチ紅梅白梅が咲き初めました。春を呼ぶストックとか水仙・
ホリカワのたわごとー22年の山行回顧 (39 堀川義夫)
(編集子)誠に申し訳ない。堀川君からの投稿、大部なので編集に苦労していて、順番を間違えました。昨日のアップと前後してしまいましたが、あしからす。それにしてもあいつ、いったいいくつ?
今日は、2022年の12月30日(金)です。明日は大晦日、そして明後日は2023年の新年を迎えます。今年は、私にとっては結構健康面で問題があり思うように活動できませんでした。その中で、9月に出かけたアラスカの15日間の旅は、生涯忘れることのない旅となりました。
この一連のたわごとは、2020年4月にコロナが本格的に蔓延し始めたころに、中司先輩(ジャイさん)から家に籠りがちになる「月いち高尾」のメンバーに何でもいいから情報発信をしよう、と言うことで始めたものです。4月12日に最初のたわごとを発信し、4月だけで7回も発信しています。その後、コロナの波の具合を考慮しながら、また、たわごとの内容も変化し、2020年6月頃からは「月いち高尾 メンバー、家に籠る」から「メンバー、活動開始」と変化しています。以後、段々と私の活動報告みたいに変化していき、当初は月いち高尾のメンバー50人弱に送信していましたが、現在は160名ほどに私が勝手にBCCで送信させて頂いています。発信回数も 2020年23回、2021年25回そして本年2022年は、今日のこのたわごとで20回となり、通算で68回となりました。
今年の私の主なアクティビティ
1月 北海道 山スキー(十勝山麓、旭岳)
2月/3月 冬山、スキーに行く予定がコロナの為、家内のショートステイ先、デイサービスなどの施設が閉鎖になる事態が複数回発生して、私のアクティビティは日帰りのゴルフなど以外は全滅!
4月 100名山の伊吹山と4回目の京都トレイル行で完歩しました。
5月 100名山の恵那山と荒島岳
6月 2回目の国東半島ロングトレイル
KWV三田会夏合宿 船窪山から針ノ木峠縦走。
8月 夏山は想定外のコロナ第7波が来襲、その為、9月予定のアラスカ行に万全を期して夏山は全て中止。
9月 2年半ぶりに海外旅行でアラスカへ。大自然、野生動物、紅葉・黄葉そしてオーロラに大満足の旅を楽しみました。
10月 体調が悪く、山行等アクティビティ中止
11月 体調に自信なく、山は無理と判断して普通の観光旅行で伊那谷へ。
12月 体調が復調の兆しが見えつつある。ここが辛抱のしどころと自重を重ね、今年のアクティビティは終了。
私の体調こと
5月の連休に近所の寺家ふるさと村周辺でトレーニングをして帰宅、風呂には入って出てきたときに貧血(だと思う)で転倒し意識を失い、気が付いたときは全裸で床に倒れていました。その時に、左顔面を強打したようで腫れていました。この時点から体調が悪くなった気がします。バランス感覚が悪しくなり、耳鼻科で色々と検査をして貰いましたが、特に異常は認められませんでした。そこで、かかりつけ医とも相談して、脳のMRI検査をいましたが、これも異常なしでした。何処かおかしい? でも、検査は異常なしです。7月になりました。日頃通っている整骨院のマッサージ師が、足にむくみがあるので心臓の精密検査を念の為にした方が良いとのアドバイスがあり、かかりつけ医のところでマーカー検査をしたところBNPの数値が180もあり、心不全の疑いありと言う結果が出ました。これは大変だと思い、直ぐに昭和医大の藤が丘病院で精密監査を実施いましたが、これまた、異常は認められず、以後の検査で正常に戻って来ていました。9月には15日間のアラスカ旅行を無事に終えることが出来ました。10月に入り何年かぶりに風邪をひきました。くしゃみ、咳、鼻水、喉の腫れ等通常の風邪の症状でしたが、時節柄、コロナが心配なので自分で抗体検査をしましたが陰性でした。しかし、この症状は11月下旬まで続き、その後、完全に治ったと思えたのは12月に入ってからでした。
8カ月に渡り健康面の不安が結構精神的に疲れました。願わくば来年は、健やかに過ごしたいと心からがっています。こう言う症状を「歳を取った」と言うのでしょうか・・・??
新しい年に新しい夢を持とうぜ! (39 堀川義夫)
Challenge 2023 日頃、元気なうちにチャレンジしたいと思っていることを列挙してみました。
達成できそうなアイテム
- 国東半島ロングトレイル完歩(残り半分)
- 久し振りの南アルプス。特に赤石岳、聖岳周辺(もう、10年近くに南アルプスにご無沙汰している)
- 100名山完登 絶対にとは言わないが長年の蓄積であと4座まで来ているので、一応、完登を目指す。
- 奥秩父全山縦走 テント行で全山を一気に縦走したい。
- 北アルプス 伊藤新道と読売新道を行きたい。
- 信越トレイルの一気縦走
条件が整えばチャレンジしたい! こんな夢を見ながら元気に1年を過ごしたいと思っています。
- 台湾 玉山登頂。何度も計画して実施寸前まで行きながら諸般の事情で中止になったので、何とかしたい、
- ヨーロッパアルプス花紀行。観光で、スキーで何度も行っているが、最盛期の山の花畑を見たことがない。
- 最後のネパール 登山でなくて良い。もう一度、世界の屋根を見ながらトレッキングがしたい。
- アフリカのサファリに行きたい。
- アラスカに1ヶ月くらいキャンピングカーで放浪したい。
- シベリア鉄道でヨーロッパに行きたい。これが一番難しくなってしまった。
私の一番の夢
★JOHN MUIR TRAILに行きたい!!
ヨセミテ公園からマウント・ホイットニーまで340kmの山岳ロングトレイルに挑戦したい。何とか、一部分でも良いので・・・挑戦するには歳を取り過ぎてしまったか・・・若返りたい!! 夢でも行ってみたい!
(編集子)JOHN MUIR TRAIL の存在を知ったのは初めてのカリフォルニア駐在時(1967年)だった。ヨセミテは何回か行ったし、当時横河電機にいた同期生山川陽一(塾山岳部)とふたりでほんの少し、一般トレイルをはずしてそのとっかかりまでは行ったことがある。現役の海外遠征の話を聞くたびに、OB会で支援してここを歩かせてやりたい、と思ったものだ。やるなら、現地本部は俺の家にして、などと夢想しているうちに帰国命令が出てしまった。今のOB会の実力なら、実行できないものかなあ。
俺たちのころ、スキーはこうだった
スキーは昨シーズンは120日滑りました(2時間滑って帰る)。今シーズンは何かと忙しかった事もあり未だ20日程度;天気と体調、やる気の3拍子がそろった時のみ出かけています。プリンスのスキー場まで7,8分ですがブーツを履いてトイレを済ませてリフトに乗るまでに30分くらいかかります。人工雪ですが整備が良いので結構固い良いバーンで快適です。競技志向なので前傾、外向傾、外足100%加重の3つしかかんがえないで7割パワーですべっています。今季最初のレースは来月22日志賀高原ジャイアントのマスターズ長野県大会です。高齢者のクラス分けがある大会を選んで参加しますがコロナ騒ぎで中止となるのが多く参加は減少、シーズン15回くらいになっています。板は小賀坂の競技タイプで長さとRが違う3本を車に積んで変えながらつかっています。トイレは1時間毎に常に早めに行くように心がけいますが行きたくなった時に我慢が効かなくなってますので時々立小便です。年は取りたくないものですね。
このメールは35年卒、”級長” こと森永さんからの来信である。まだ12月半ばというのにすでに20日、滑っておられることになる(写真は先回ご投稿いただいた時のもので、詳しくは20年5月13日付本稿参照)。最近スキーの話題が多いが、シニア連中のなか、そのご活躍はまさに群を抜いている。はやばやと降りてしまった編集子などはただ感服するばかりだ(森永さんは小生とは同い年)。
考えてみると ”俺達” がKWV生活を謳歌した昭和30年代というのはスキーというスポーツが日本で一気に花開いた時期だったのだろう。KWVの記録を見ても32年くらいまでのスキーは登山の一部、というような位置付けで、当時はまだひたすら歩いて登るしかなかった八方尾根へのワンデルングがいわばスキーの極めつけだったのが読み取れる。KWVでは32年卒の三枝先輩が国体出場の経験をお持ちだった(編集子とは入れ違いで卒業されたので,雄姿を拝見したことはない)が、このすぐあとごろに例のトニーザイラー 黒い稲妻 によって一気にスキーが一般化、つまりそれまでは ゲレンデスキー、という半分揶揄をこめて扱われてきた、登山ではなくすべりそれ自体を楽しむものに変わっていった。そのころ、われわれの一学年上つまり35年卒の代は、顔と名前が一致するまで1年かかった超大人数の我々とは対照的に人数も少なく男子のみ(野郎会、の由来)でそのなかにはこのスキーブームにあわせたように名手が数多かった。森永さんとならんでスマートな都会的な滑りが自慢だった川鍋さん、山スキーなら酒井さんに森田さん、”外車” といわれたアッテンホーファのスキーを履き、あだ名までアッテン、になった田前さん、それと誰が何と言おうと及ばなかったスキーの帝王、尾崎さんがおられた(過去何年か、後輩諸君の華麗なスキーは楽しませてもらったが、僕の見るところ、尾崎さんに比べられる技量の持ち主には失礼だがまだお目にかかっていない)。
僕らが2年の時、浅貝に小屋が建設され、スキーにも利用されるようになったが、何しろそれまでは林業専一の寒村だったのだから、スキーゲレンデなどというものはなかった。現在、小屋裏の別荘地になっているスロープを毎朝踏みならしてゲレンデにしてから滑る、という今では考えられない環境だったが、この不便さを楽しむグループもたくさんいた。現在, ”月いち高尾” の常連でユカイな話題にことかかない鮫島弘吉郎とおなじ工学部にいた高木圭二が設計、製作したロープトウが小屋裏に設置されたのもころの時期の話だ(鮫島はいろいろ言うが、確か3人くらいつかまると動かなかったはずだ)。一方,西武グループがこの地のスキー場適性を認め、大規模なスキー場つまり現在の苗場スキーエリアの開発が同じころから始まった。そのいわば苗場の創業に先立って、今はホテル前のメインゲレンデになっているタケノコ山からの滑降に挑んだのが34年卒、ドクタードテこと船曳先輩である。船曳さんからとどいたメールを紹介しておく。米寿祝いも視界に入る人とは信じがたい。
残念ながら筍山からの史上初の滑降の写真はありません。その時ミノが8ミリを撮ってくれたのですが、もう失われてしまいました。 今年1月2日の札幌国際出の写真を貼付します。85歳10か月です。遠藤さんがでモンストレイターとして通用する写真と絶賛してくれました(お世辞も含まれているのは承知していますが)。それに気をよくして3月に万座温泉に出かけ、心・肺機能が適応できず、間質性肺炎急性増悪となってしまいました。今シーズンは無理のようです。となると、来年はもう無理でしょうか。
最後に自慢を一つ書かせてもらう。田中新弥がCLを勤めた浅貝BHで、小生は意地を張ってスキーを担ぎ上げ、吹雪模様だったが平標山頂から三角尾根を経由して上記の小屋裏ゲレンデまで下りた。今とは違って重い2メートル05の小賀坂を履き、春山用具一式のキスリング(”片桐の特大” というやつ)を背負って、だ。とても快適などというべくもなかったが。とにかく、降りたのだけは確かだ。細かいことはわすれて、”平標-小屋間スキー滑走” というのは、その後は知らないが、KWV最初の記録ではなかったか、と思うのだがどうだろうか。
もう一つ。33年卒には 松田道明さん、松田嶺さんという名手がおられた。フレンチメソード対オーストリアメソード、と議論が盛んで、道明さんがフレンチならば、嶺(たかね)さんがオーストリア派、という色分けがあって、ともかくも活気があった。その道明さんが卒業に際して、道明カップ争奪戦、というレースを残していかれた。卒業直前の春合宿の終わりに4年生だけで行われる、格式の高いイベントだった。僕らの代での優勝は浅海昭。その後、数代は続いたはずだが、どこかで途切れてしまい、この栄光あるカップも行方不明になったままである。どなたか、情報をお持ちではないだろうか。”自分たちもやりました” というだけでいいのだが、お待ちしている。
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(船曳)平標のスキーツアーは、1964年にアサ会の足立(彼がリーダー?)と、+若干名で行っています。彼は晩年全く滑れませんでしたから、信じられないことですが、記録はあります。
コロナ対策の現状 (34 船曳孝彦)
日本がコロナ感染世界ワーストワンになりました。
現在の感染者数が世界の感染者数のうち15%を占めこれがトップなのです。尤もゼロコロナを放棄した中国では感染爆発が起きており、感染者数など全く把握されておらず4億ともいわれますが、この国のことは分かりません(注)。
日本で今起こりつつある第8波は、増加傾向が最近頭打ちのようにも見られます。しかし重症者はともかく、軽症状者、無症状者が発熱外来にたどり着けず、自分でキットを買い、検査して保健所に届け出るという方式は、公衆衛生的には機能していません。自分で検査をするのも抵抗がありますし、検査で陽性となっても届け出ずそのまま放置という人が沢山います。従って発表数をはるかに超える感染者がいても、グラフの上では頭打ち傾向となっているのであり、日本の第8波は衰えどころか、今盛りです。実際皆さんの身近の方がどんどん感染していると思います。ワーストワンです。中国の対策と基本的に同じです。
では日本のコロナが特殊かと言えば、確かに流行している変異株が違います。日本ではBA5派生の3変異種が60%を占め、BQ 1系統が10%と少ないのに対し、欧米特にアメリカではすっかりBQ 1系統に移行したという違いがあります。国によって流行株が異なり、第5波、6波のように衰退の道を辿ってくれる幸運の兆しは見られません。むしろ現在政府が “経済” “経済”と海外からの呼び込みに必死になっていますと、BA系の1.3^1.5倍の感染力があるというBQ 1、BF系が増加する恐れがあります。
従ってこれをゲノム分析で分別し、対策を立てねばなりませんのに、厚労省は今もって壁を閉ざし、一般に情報を流さず、大学や民間研究所のデータ、ノウハウに背を向けています。ゲノム分析は、費用がコロナ発生当時の2%となり、アフリカ諸国でも行われるようになっているご時世ですが、日本では十分なノウハウを持ちながら、未だにタテ割りという官僚体制に拘り、諸悪を招いています。
欧米では、インフルエンザとの同時パンデミック、あるいは別のウィルス性呼吸器疾患(RSV)を加えてトリプルデミックが懸念されていますが、日本では今のところインフルエンザ流行は来ていません。マスク着用者が多いからという説もあります いずれにしても、もし罹ったら治療の流れに入り込めず、苦労することになります。感染しないよう十二分にお気を付けください。
(注)WHOによると日本の1週間の感染者は世界の15%を占め、世界一だとのことです。累積ではありません。
あの向こうに新年が待ってますね (34 小泉幾多郎)
本年も早くもあとわずか、エーガの四方山話から音楽、絵画からW
エーガ愛好会 (184) ホワイトナイツ (34小泉幾多郎)
80年代東西冷戦時代に亡命したダンサーの話。当時の共産党全盛
亡命がバレエダンサーニコライ・ロドチェンコ(ミハイル・バリシ
バレーダンサーとして活躍しているミハイルが「若者の死」という
二人がトレーニングを兼ねて踊る場面の何曲かの音源は日本製らし
監督のテイラー・ハックフォードは、2009~2013年全米監
(平井)私はDVDで見ましたが、面白い映画でしたね。
(安田)封切り当時、映画館で観ました。冷戦時代の米ソの対立を背景にして物語は進みますが、ストーリーそのものに加えて、二人の踊り場面、特にバリシニコフの、が忘れがたい。バリシニコフは実際ソ連からアメリカへ亡命したバレー界の至宝でした。ライオネル・リッチーの「Say You Say Me」は映画のみならず、当時よく聴きました。
フィル・コリンズ & マリリン・マーティンの「Separate Lives」も良かった。
https://youtu.be/vmMinSOWKQk?t=5
ついでですが、ライオネル・リッチー以下当時のアメリカを代表する歌手たちによって歌われた「We Are the World」が好きでよく聴きました。今聴いても素晴らしい。冒頭、リッチーが一番手で歌い出します。アフリカの飢餓と貧困を解消する目的で「USA for Africa」というプロジェクトを立ち上げ、作られたキャンペーンソングで、作詞・作曲はマイケル・ジャクソンとライオネル・リッチーが共同で行い、プロデュ―スはクインシー・ジョーンズが担当。クインシーは映像動画では指揮を担当しています。