エーガ愛好会 (225) ブラック・ライダー 

人が主体の出演者の映画。黒人俳優のシドニー・ポワチエが監督兼主演の異色映画で歌手のハリー・ベラフォンテが名演。ストリーは南北戦争後の黒人解放後のセイブの原住民も疾走もお決まりしあるモノの異色映画で人種差別と原住民のこの時代の扱いなどが描かれている。
南北戦争直後、自由を求めて米南部ルイジアナ州から西部にやって来た黒人移住者たちは、彼らを元の農園に引きずり戻そうとする無法者の白人グループによる略奪・暴行・殺害の被害を受けていた。移住者たちのガイドを務めているバック(シドニー・ポワチエ)は白人グループのリーダーであるディシェイに執拗に狙われながらも、移住者たちを守るために必死に戦っていた。そんなある日、巡回牧師を名乗るラザフォード(ハリー・ベラフォンテ)はバックと知り合い、成り行きからバックを手伝うことになる。
バックとラザフォードは協力してディシェイを倒し、さらにバックの妻ルースやインディアンたちの協力を得ながら、何とか追っ手を追い払うことに成功し、黒人移住者たちは無事に目的地に到達する。
シドニー・ポアチエとハリー・ベラフォンテという往年の二大黒人スターによる異色の西部劇。どう見てもベラフォンテの味のある存在感がポアチエを喰っている。演技の眼力が凄い。
内容は本当に興味深くて、南北戦争が終結して黒人が自由になった訳だが、差別というものがすぐに消える訳じゃなくて、南部から西部に移動しようとする黒人を取り締まる連中がいたのだった。それを邪魔したり黒人を支援する人を黒人役のシドニーポワチエが演じる。南北戦争物はいくつも描かれているが、この背景は全く知らなかった。
差別モノは「アラバマ物語」も然りだが、シドニー・ポアチエの出世作の「招かざる客」に比較すれば俳優も少ないし、監督が新味を出そうとしてムリしているところがあったり、総て荒削りで今一の映画だが、観て居てけ付こうハラハラするし、巡回牧師を名乗るラザフォード(ハリー・ベラフォンテ)が中々の名演だと思う。バックの妻ルース(ルビー・ディー)が三人が馬で疾走シーンも中々いけるものだった。

(小泉)Buck and the Preacherが原名。西部劇には、時折主人公の名前が其の侭題名になるが、Jesse Jamesや Buffalo Bill のように知られた名前なら良いが、知られていない名前となると有名人でも「地獄への道」とか「西部の王者」とか考えて邦名を付けるのだから、当然のように名前以外の邦名を考える必要になる。今回も「バックと伝道師」を「ブラック・ライダー」とは、英語乍ら適切な題名を付けたものと感心したものだ。

 南北戦争直後、南部ルイジアナから西部へと自由を求める黒人移住者が白人の偏見や暴力と戦いながらも目的を達成するまでを描く西部劇。主人公バックをシドニー・ポアチエが扮し、監督迄兼ねている。伝道師ラザフォードは、バナナ・ボートで有名な歌手ハリー・ベラフォンテが扮し、無精ひげや歯を汚したりして、とてもベラフォンテとは思えなかった。バックの妻ルースにルビー・デー、白人無法者のリーダーにキャメロン・ミッチェル等が共演する。

 当時南北戦争後のアメリカは奴隷制度が廃止されたものの働き手を失った農場主は秘密結社や賞金稼ぎ等ならず者を雇い、黒人たちを連れ戻そうとする。その黒人たちを助けるのが、元北軍騎兵隊軍曹現道案内人のバックと伝道師と称するラザフォード。本来人種差別を訴える深刻な題材なのだろうが、黒人が善、白人が悪、それにインディアンも絡んで、黒人の味方をすることになるのだが、単純に黒白対決というだけでも面白い。黒人たちが貯め込んできたお金が盗まれると銀行強盗に転じたり、岩山での銃撃戦等アクション場面も豊富で楽しめる。バックと伝道師の漫才的掛け合いも愉快。最後は目的地に辿り着くのだが、一時カナダまで行くことまで考えたバックはその妻ルースに、こんなことまで言われていた。「こんな国は嫌。戦争をしても何も変わらなかった。大地に悪が浸み込んでいて、毒されている。カナダがダメなら海の果てへ歩いてでも行くわ。」当時の黒人差別が際立ったセリフだ。

エーガ愛好会 (224) インビクタス/負けざる者たち  (普通部OB 舩津於菟彦)

舞台は1994年の南アフリカ共和国。ネルソン・マンデラは反体制活動家として27年ものあいだ投獄されていたが、1990年に釈放されこの年に同国初の黒人大統領となった。それまで政府の主要ポストを占めていた白人官僚たちは、マンデラが報復的な人事をするのではないかと恐れ、一部の者達はそれを見越して荷物をまとめ始めていた。それに対しマンデラは、初登庁の日に職員たちを集めて「辞めるのは自由だが、新しい南アフリカを作るために協力してほしい。あなたたちの協力が必要だ」と呼びかけた。安堵した職員たちはマンデラのもとで働くこととなり、ボディーガードチームも予想に反して黒人と白人の混成チームとなった。

一方、南アフリカ代表のラグビーユニオンチーム「スプリングボクス」は当時低迷期にあり、黒人選手もわずか1人という状況だった。ラグビーはアパルトヘイトの象徴として、多数を占める黒人の国民のあいだでは非常に不人気なスポーツだった。政府内では「スプリングボクス」のチーム名やユニフォームの変更を求める意見が多数を占めており、一時はその方向で決まりかけていた。しかしマンデラはこのチームが南アフリカの白人と黒人の和解と団結の象徴になると考え、チーム名とユニフォームの存続を求め周囲を説得し、一方でチームの主将フランソワ・ピナールを茶会に招いて言葉を交わし、励ました。
その後スプリングボクスのメンバーたちは、マンデラの意向で貧困地区の黒人の子どもたちにラグビーの指導に赴く。当初それを不満に感じていたメンバー達も、一連の地道な活動により、国民のあいだでチームの人気が少しずつ高まり、自分たちの存在が国内のみならず世界的に注目されていることを知るに至った。
そしてスプリングボクスは、自国開催の1995年ラグビーワールドカップにおいて予想外の快進撃を見せ、ついに決勝進出を果たす。今や新生南アフリカの象徴として見られるようになったスプリングボクスは、全南アフリカ国民が見守る中、強豪ニュージーランド代表オールブラックスとの決勝戦に臨む。

ラグビーを背景に白人支配の南アフリカが民主主義の平等主義のネルソン・マンデラ大統領のもとにアパルトヘイト撤廃へと。白人と有色人種との融合を「invictus」の言葉の実行していく。
ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ(コサ語: Nelson Rolihlahla Mandela [xolíɬaɬa mandɛ̂ːla]、1918年7月18日 – 2013年12月5日)は、南アフリカ共和国の政治家、弁護士。第8代南アフリカ共和国大統領。非同盟諸国首脳会議事務総長(第20代)、南アフリカ共和国国民議会議員(1期)、アフリカ民族会議議長(第11代)、南アフリカ共産党中央委員を歴任した。
南アフリカ大学の夜間の通信課程で学び1941年に学士号を取得した。また、その後、ウィットワーテルスランド大学で法学を学び、学士号を取得した。1944年にアフリカ民族会議(ANC)に入党。その青年同盟を創設し青年同盟執行委員に就任して反アパルトヘイト運動に取組むそしてマンデラは1964年に国家反逆罪で終身刑となり、ロベン島に収監された。26年の独房で収監中にも勉学を続け、1989年には南アフリカ大学の通信制課程を修了し、法学士号を取得した。また、アパルトヘイトの主要勢力であるアフリカーナーとの対話を予測しアフリカーンス語やラグビーの知識を身につけたのも獄中でのことだった。
1990年2月2日にデクラークは、ANCほか禁止されていた政治団体の活動許可とともにマンデラ釈放を約束し、2月11日にマンデラは釈放される。釈放後の第一声はケープタウンの市役所のバルコニーで行われ、10万人の聴衆が彼の釈放を祝った。1994年4月27日に南アフリカ史上初の全人種参加選挙が実施された。この選挙でANCは得票率62.65%、252議席を獲得して勝利し、マンデラは大統領に就任した。就任式ではヒンドゥー教、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の指導者が祈るなど全宗教の融和も図られた。
アパルトヘイト後初の自国開催の国際大会となるこの大会をマンデラは全力を挙げて支援した。ラグビー南アフリカ共和国代表(スプリングボクス)は当時ほとんどの選手が白人、特にアフリカーナーで占められており、またラグビー自体が白人のスポーツとして黒人など他人種には不人気であったが、マンデラは開幕戦を直接観戦し、またスプリングボクスを国民融和の象徴として支援し続けた。そのこともあってスプリングボクスは快進撃を続け、決勝戦で再びマンデラが観戦する中で初優勝を遂げた。
そんな歴史的な事をさらりとマンデラ大統領に扮するモーガン・フリーマン(Morgan Freeman、本名: Morgan Porterfield Freeman, Jr.、1937年6月1日 – )は、アメリカ合衆国テネシー州メンフィス出身の俳優、映画監督、ナレーター。2004年『ミリオンダラー・ベイビー』でアカデミー助演男優賞を受賞。その他にも『ドライビング Miss デイジー』、『ショーシャンクの空に』、『セブン』などのヒット作に出演歴があり、その安定感と味のある演技によってアメリカのみならず世界各国で賞賛を浴びる実力派国際俳優が好演。
(編集子)関係ないけど、おれ、フリーマンと同い年。

 

南八つ山麓から   (グリンビラ総合管理HPより転載)

5月のブログでお知らせしましたが清里丘の公園の室内プールがリニューアルしこどもパラダイス広場となりました。先々週の日曜日に私が出かけていたので主人が子供たちを連れて行ってきました。

室内には様々な遊具やブロックなどがあり、子供たちは一日飽きずに(お昼ご飯も食べずに)遊んでいた様です。入場料は子供800円、大人850円でした。

日本の英語教育について (3)

慶応義塾大学医学部卒業の外科医で同時にワンダーフォーゲル仲間でもあり、専門分野にあっては脳外科医として世界的に著名な存在で外国文化との接触も多い河瀬斌君からのメールをまずご紹介する。

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私の大学時代の英語の先生は読書は専門的に優れるけれど、public speakingは全く通じない先生でした。学校で教科書を読む学び方は最も非能率的です。その頃の日本人の「英語教育は教養」という観念は誤った概念でした。そのため英語が堪能な人の前では「教養のない自分を隠して」決して自分の英語を話そうとしない人が大半でした。

 私が初めて国外に出た時悟ったことは、英語は世界の人と通ずるための「道具」であって、「教養」ではない、ということでした。自国語を流暢に話す人が英語に不得手なのは当然であり、最も困るのはそれを恥じて話さないことだったのです。下手な英語で身振りおかしく自分の考えを「シナポコペン英語」で懸命に説明しようとする日本人を外国人たちは返って親近感を感じたのです。欧州でさえも英語は自国語ではない人が大多数ですから。
 最も大切なのはうまい英語でなく、話や技術の内容なのです。日本人の持つ独特な文化や専門技術に彼らは尊敬の念を感じるのです。仕事上専門英語を必要とする人はこれら専門分野の特殊な言語や話す場(会社出張、大学研究室や学会)の場に慣れる必要があります。専門分野の言語数は限られていますので、その道に進むと数年で習得できるようになります(私のいる医学分野のように)。しかし日本人はお人好しが多いので、若い頃にその発表をうっかりすると、その独創的な技術を狙っている外国人に盗まれることに注意する必要があります(経験者は語る)。
 それ以外の英語は日常のcommunication toolとしての必要性ですから、それに上達する最も良い方法は小さい頃からEnglish speakerを友達に持ち、彼らと遊びながら自然の会話をすることなのです。特にhearingは彼らから耳を通じて覚えるとが重要です。私は最初の欧州旅行前にその当時独創的であった大学の「英語聴覚ラボ」に通いました。子供にGlobalな、国際的な仕事をさせたい人は、子供の頃から外国人の友達と交わる環境作りをすることが最も大切ですので、そのような学校に入学させることでしょう。ですから私は医学部の教授時代に外国講演で知り合った数多くの外国人留学希望者を受け入れ、大学のカンファレンス、研究室、医局旅行などで医局員たちが留学生と英語交流できるシステムを作りました。それによって医局員が無料で英語を話し、聞こうとするチャンスが大幅に増え(標準英語とは限りませんが実用的)、医局員の外国留学しようとする気力が大幅に増えました。
 しかし若者に最も大切なことは、『人にできない能力を持たせる』ことであって、秀逸な英語を話す能力ではありません秀でた英語を話す能力は通訳に任せればいいのです(大谷翔平のように)。最近ではAIの進歩で同時通訳ロボットやスマホなどがありますので、今後はすべての人に英語を学ばせる必要性はますます低下してくることでしょう。
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(菅原)小生の経験(IBM)からも、貴意に100%同意。これに尽きます。

、『人にできない能力を持たせる』ことであって、秀逸な英語を話す能力ではありません。と言う教育に、日本はなっているでしょうか。

(船津)皆様 社会生活でトップに立たれて生活された方ですから「当たり前」のことが当たり前に見えるのだと思いますし「普通」の知識、教養をお持ちですから「人に出来ない能力を持たせる」と言う事は当然大事だとお考えで当たり前のお考えになっておられると思います。
河瀬斌さんも「子供にGlobalな、国際的な仕事をさせたい人は、子供の頃から外国人の友達と交わる環境作りをすることが最も大切ですので、そのような学校に入学させることでしょう。」と言われているように今や日本も日本だけでは仕事は難しくなり-簡単な仕事でも-国際的に働かざるを得ない状態に成って来ていると思います。
小中学校英語教育についてやり方が大問題なようです。英語教育のMethodを修得した方が日本に来て英語教育をしているなら良いのですが、本来日本の先生の補助で、只英語が話せると言うだけで来日しているようです。従って小中学校英語教育特にフォニックスなどを強化して教え方の問題だと思います。

(安田)英語を通常の義務教育以上に専門的に学んではいませんが、「必要は発明(上達)の母」を実感した学生時代の世界一周の旅の2年間でした。英語は世界の人と通ずるための「道具」或いは「手段」だとのご指摘はまさにその通りで、より深く通ずるためには「道具」の質の向上は必要でしょう。仕事で英語を主たるコミュニケーションの手段として使用せざるを得なかった米国籍会社勤務時代もその感を強くしました。

しかし、ある程度道具が使えるようになれば、もっと重要なのは、その道具を使う本人の「魅力度」「能力」「人柄」とでも呼ぶべき、「道具」の質とは全く異なる、個性の育成と深化或いは熟成です。少年時代からの教育は、まさに「道具」の習得と、併せ人としての魅力度・能力向上を目指す個性の育成の両方がバランスよく達成されることが理想でしょう。少年時代に受ける英語教育の質と内容は、その子供の家庭環境、家計の経済状況、両親の意識などに大きな影響を受けます。経済格差が教育格差に直結する現実が存在します。幼少時代に個性の育成と道具(英語)の習得のどちらに重きを置くべきかと問われれば、「金太郎飴的な教育」から脱皮して『人にできない能力を持たせる』個性の育成教育だと答えます。大谷翔平の例を挙げられましたが、まさに至言です。

AIの進歩、同時通訳ロボットやスマホの普及に伴い、国民全員に等しく小学生時代から義務教育の必須科目として英語を学ばせるかどうかについては、絶対必要だと積極的に賛成する理由が見つけにくい。更に、英語教育に割く相当な時間がバランスのとれた子供の教育には弊害とはならないかなど慎重に検討する必要はあると思う。ただし、英語を喋る質と書く内容でその人の鼎の軽重が問われる仕事に従事する(する積もりの)人は、質の向上が必要不可欠なのは言うまでもない。

(編集子)
河瀬君の意見に全面的に賛同するが、自分が英語をどうやって学んだかを外資系企業で働いた立場から参考までに書いてみて、今後の議論の材料としたい。
自分が大学を卒業した1960年初頭はいわゆる高度成長期のはじまりにあたったが、いわゆる ”外資系” の評価は決して高くなかった。同期の(お世辞抜きに抜群の秀才だった)故後藤三郎が日本IBMに就職したことは異例中の異例と受け止められた。小生は就職2年目に勤務先の横河電機がヒューレット・パッカードとの合弁を開始し、新会社(YHP)に移籍することになり、予想もしなかった ”外資系” でのサラリーマン生活に直面した。
高校時代から英語はまあ得意な学科だったが、”外資系” に就職したからと言ってすぐさま英語での会話が必要になるとは想像していなかったし、この時点での会話能力は前回までの話で言えば ツーリストレベルとビジネスレベル1 の間くらいだったろう。しかし、いろいろな事情があって新会社にHPからの役員が常駐するようになったとき、たまたま ”労働組合の現状を説明せよ” という社長命令があった。死に物狂いで書き上げた説明(当時はワープロなんてものは存在せず悪筆で書き上げた原稿を社長秘書を拝み倒してタイプしてもらったもの)を手にして、着任間もなかった副社長が社長室からタイプ原稿を持って出てきて、(いけねえ、わかっちゃもらえなかったんだろうな)と思っていた自分の耳に ”Hay, this is outstanding !”  と言う感想が聞こえたときの安堵は忘れられない。読む、書く、しかできなかったがそれでも自分の英語が通じたんだ、という感激だったのかもしれない。ほぼ1年後、工場現場でたまたま期末の棚卸作業の真っ最中、汗だらけで部品を数えていた倉庫に課長が顔を出して、社長室へ行け、と言う。なんだかわからずに顔を出して、(おめえ、HPに行ってこい)と有名なべらんめえ調で横河社長から言われた時、すぐ気がついたのはあのレポートを読んだジョージが進言してくれたんだな、ということだった。
それからそれこそ嵐のような2月ほどが経過し、生まれて初めて異国の土を踏み、その後数時間たってモテルに落ち着き、疲れて寝込んでしまった娘を置いて表に出て、とにかく初めて買ったのがアイスクリームだった。この時の感動もまた記憶に新しい。しかしこの (俺の英語もなんとか通じる)という妙な自信を持たせてくれたのはまた違う経験からだった。当時、HPには国際事業を統括する部門があり、そこに小生と机を並べてHPドイツからの駐在員がいた。1960年代と言えば、第二次大戦を戦った経験者がまだたくさんいて、(俺はゼロファイターを知ってる)なんて言う男がいたころで、日本やナチドイツについての反感もまだあった時期だが、そういう中で、ある日、この、いわば敵性外国人2人が、内容は覚えていないが大勢の前で話をしなければならないことになった。小生の前はドイツから来た男で当然だが完全な英語をしゃべる。ここでどうしようか、考えた末、自分の話を、
I don’t want to give you an impression that Germany and Japan are together hand in hand again to fight with you America”
と始めたところ、どっという歓声と笑い声が起こり、中には立ち上がって拍手するものも出る始末。自分でも何だかわからなかったが、(会話技術と同じくらい、ユーモアが大切なんだ)ということを知った。このことが結構有名になったと見え、その後は名前も知らない連中が Hi, Kio (さすがに Gi とは名乗らなかった)と声をかけてくれるようになった。この事件はその後、どれだけ自分を助けてくれたかわからない。コミュニケーションは河瀬君がいうように技術、ツールだけの問題ではない、ということを身をもって知ったと言える。
このカリフォルニアでの10ケ月の生活の間、あらゆる機会をとらえていろんな人(仕事以外での場面、たとえばガソリンスタンド、マーケット、隣の小母さんなどなど)と、半分もわからないことも多かったが、話をする機会を持ち、”会話” より ”コミュニケート” をと心掛けた。自分の英語能力を勝手ながら Business Level 2 と評価させてもらった自信みたいなものはやはり現場の経験だったのだと思う。小生の滞米期間は10ケ月にすぎなかったが、その間、日本語を話す機会は妻と現地で知り合ったご夫婦しかなく、1日の大半はエーゴ社会にあった。このことは重要だったと思う。
この時期、大手企業では海外への進出が目覚ましく、外地での勤務を経験している人も急増した。しかし失礼ながらニューヨークに5年いた、とか、ロンドン勤務何年、というような人たちでも、英語のレベルとなるとそれほどの違いはない、というケースに度々遭遇した。彼らの場合は、あくまで日本企業の出先であり、毎日の会話や就業スタイルも日本と変わらず、日本からくる上司や客先の接待に追われる毎日だった、というのが多くの実態で、折角外地にいながら現地の人や文化に触れる機会はおそらく小生の10ケ月に満たなかったのではないか、と思うことがあった。このあたりには本人というより企業側の問題なのだが。
そこで出てくるのが下村君の疑問から発した、(日本の小学校で英語教育が必要か?)ということになるが、この話はいい実例もみつかったので、次回以降の議論としたい。

エーガ愛好会 (223) 小さな巨人     (34 小泉幾多郎)

BS12では民放としては珍しく「西部劇特盛祭り」と称し、6月9・10・11日に「小さな巨人」「100万ドルの決斗」「ウエスタン」「馬と呼ばれた男」「勇気ある追跡」が放映された。そのうち「小さな巨人」と「馬と呼ばれた男」の2作品は、1970年製作。何れも先住民の中での生活を強いられた白人が、その先住民との精神的交流を描くヒューマンドラマ。特に「小さな巨人」は、時期的には、1964年にアメリカが参戦したベトナムでのアジア人虐殺に異を唱える反省期にも当たり、西部開拓が騎兵隊のインディアンに対する大量虐殺という巨大な罪の上に成り立ったものであることを明らかにし、逆にむしろ白人と交流するインディアンの高潔さを賛美するする先例となった西部劇の転換点とも言える作品だけに感想を述べておきたい

開巻すると、「名前はジャック・クラブ、リトル・ビッグホーンの戦い(カスター将軍の第7騎兵隊がインディアンとの戦いで全滅)で、生き残った唯一の白人だ」とインタビューに応え、回想形式で歴史が語られる。そのジャック・クラブにダスティ・ホフマンが扮するが、その老人たる特殊メイクが凄い。

物語は、その111年前のジャック10歳の時に始まり、インディアンに襲われシャイアン族に育てられることになる。老酋長(チーフ・ダン・ジョージ)から小柄だが勇敢な点を認められ、小さな巨人という名誉ある名をあたえられ息子とまで呼ばれる。酋長は「私の心は馬のように空を飛ぶこと」が口癖で、二人の絆は最初から最後まで一貫している。
絆は一貫していても、その後の経緯はインディアンと白人の間を往き来し、その相違を記す余裕がない程めまぐるしい。白人としてのエピソードは、牧師の家へ引き取られ、ペテン師(マーティン・バルサム)と旅したり、ガンマンになって、ワイルド・ビル・ヒコック(ジェフ・コーリー)と知り合うも、スウエーデンの人妻を娶り雑貨商へ。それも失敗し、カスター将軍(リチャード・マリガン)の偵察員になるが、再びシャイアンの村へ戻る。神秘的、原始的生き方の中に、シャイアンの妻を得て、小康を得るが、白人によるワンタ川の虐殺により、妻と産まれたばかりの子供すべてを失う。投身自殺を考え、崖の上に立ったジャックの眼に、カスター将軍率いる第7騎兵隊が映る。

再び偵察員に雇われたジャックはカスター将軍以下がリトル・ビッグホーンで全滅するのを目のあたりにする中、傷ついたジャックはシャイアンに助けられる。その後死期が近ずいた老酋長とジャックは山の頂に登るが、雨にうたれて二人共々山を下りる。

以上が概要だが、本当にジャックは、122歳以上迄生きていたのか。戦闘の中心、ワンタ川の虐殺とリトル・ビッグホーンの戦いは、まぎれもなき史実だが、白人社会、先住民社会の往き来に於けるホラ話的武勇伝が、本当の話か如何かは疑問な点もある。しかし必死に生きて行くサマが、真面目一点張りでなく、行き当りばったりで、コメディ仕立てでの話になっている点、逆に本当らしく見えるから不思議だ。

(ウイキペディア解説)

小さな巨人(ちいさなきょじん、原題: Little Big Man)は、1970年製作のアメリカ映画。同時代の『ソルジャー・ブルー』とともに、西部劇の転換点に位置する作品として映画史に残る作品である[要出典]。 トーマス・バーガー英語版原作。121歳の老人のホラ話のような人生の中に、ネイティブアメリカン当時のベトナム戦争の問題[要出典]をエンターテイメントに包んで表現している。

帯状疱疹(ヘルペス)を知ってますか? (普通部OB 篠原幸人)

先日、ゴルフに行く前夜のことです。ま夜中2時頃に急に右肋骨の下の方に痛みを感じて目が覚めました。「今晩は寝なくてはいけないのに困ったな、夕食に何を食べたかな? 食あたりかな? かなりキリキリする強い痛みなのでアニサキスかな?」 頭の中を悪い想像ばかりが駆け巡り、眠れません。慌てて通常の腹痛でのむ〝ブスコパン“という薬を2錠服用。しかし痛みは軽減せず、まだ寝付けません。翌朝早く知人にキャンセルの電話を入れました。8時になっても痛みは取れず、ハッと気づいて、通常の痛み止めの〝ロキソニン”を服用したところ、20分ぐらいで痛みはスーツと無くなりました。

私の誤診でした。胃や胆のうの痛みではなく、もっと表面の肋間神経痛だったのです。そう言えば痛みはお腹の中というより、右最下部肋骨の裏側だったようです。そのまま軽快しましたし、発疹などは背中にも全くでなかったのですが、私の下した診断は「ヘルペスによる肋間神経痛」。無論その後、症状は全く消えてしまいました。

誰でも非常に疲れたり、仕事で数日余り寝られなかったりするとこの帯状疱疹に関連した神経痛が数年に一回ぐらい起こります。50-60歳以降の話ですが、今日はこの俗にヘルペスとよばれる帯状疱疹ないし、発疹が無くても(ここが重要です)、出現する神経痛についてお話ししましょう。

小さい時に〝水ぶくれを伴う発疹、水ぼうそう“に罹ったことはありませんか? 記憶になくてもだいたい90%の方は罹っています。これは水痘・帯状疱疹ウイルスが原因ですが、それが身体のどこか(特に脊髄の周囲)に何十年も潜んでいて、50歳を過ぎると、加齢や疲労・ストレスなどが原因でまた悪さをし始めるのです。主な症状は肋間神経痛や腹痛、あるいは上肢の強い痛みです。発疹が全く出ないことも、逆に痛みを伴う発疹で気づくこともあります。免疫機能が落ちているときに出やすいと言われます。発疹が出れば、どこの医者にも分かるのですが、発疹が出る前に、神経痛だけだとよく分からないと言われてしまう可能性もあります。最近、開業医さんでも、このヘルペスに対しワクチンを予防的に投与することが可能です。

ワクチンには生ワクチン(接種は1回、効果は70%ぐらい、5年有効)と、不活化ワクチン(2回接種が必要、効果は100%近い、10年ぐらい有効)の2種類があります。費用は前者が1万円ぐらい、後者は2回で4万円ぐらいですが、お住まいの地域から補助金が出るはずです。お知り合いの医師か、各市町村に相談してください。まあ、お金持ちで、2回接種に行く時間的な余裕もあり、今後10年以上長生きする自信がある方は、不活化ワクチンをど~ぞ。

但し、私はまだ打っていません (医者の不養生?)。

エーガ愛好会 (222) シェルブールの雨傘  (42 河瀬斌)

放映されたころ家内は大学でフランス語専攻でしたから、みてよく覚えているようです。しかし私は曲は知っていましたが映画を見たのは初めてです。本日は家内と一緒にこの映画を観せていただきました。以下は初めての視聴者としてのDr.河瀬の感想です。
 あらすじ:若きシェルブールの傘屋の娘、16歳のジル(カトリーヌ.ドヌーブ)が自動車修理工の相手ギイと熱烈な恋に落ちてしまう。母親は若い娘の結婚に反対するが、翌年徴兵でギイが2年不在となる直前にその子を身ごもってしまう。母親は店の借金のため、宝石を売りにゆくが、その宝石商の一人、カサールは紳士で母親の信頼を得て母娘に好意を寄せ、娘の妊娠を知らずジルとの結婚を申し込む。妊娠中のジルは苦悩するが、それを受け入れたカサールと結婚式をあげて移住してしまう。
 ギイが徴兵期間を終えた2年後、シェルブールに戻ると傘屋がすでに売り出され、転居した母子の所在は不明となっていることが判明する。ギイは荒れた生活を送り、勤めていた勤務先もやめる。厄介になり慕っていた老齢の叔母さんも逝去し、その娘マドレーヌもアパートを去ろうとしていると、ギイが引き留め二人は付き合って結婚する。そして叔母さんが残した遺産でガソリンスタンドを経営し、幸せな家庭と子をもうける。それから4年後、雪のシェルブールに立ち寄り、そのガソリンスタンドで給油したジルは昔のギイと偶然会うことになる。しかしギイの子を産み育てたジルは、すでに結婚して幸せな家庭と子を持つギイをみてそのまま別れる。
 感想:まず全編にわたってミュージカルを思わせるセリフと上品で柔らかなタッチの映画の流れと(ジャックドウミ監督)俳優たちに感激です。恋のシーンでは例の曲を二人が歌っていましたね。さすがカンヌ映画祭グランプリのフランス映画ですね。雪が降りしきる最後のシーンは感動的でもあり、若い時代に徴兵に翻弄された運命を消し去ろうとしているようにも見える。唯一気になったのは、種違いで育った子がその後大丈夫だったか、ということです。この時代のフランスはフランス人にとっても、移住した日本人にとっても最高でしたでしょう。最近は世界一平和な国でとんでもない事件が起こってかわいそうです。

乱読報告ファイル (42)  血の収穫    (普通部OB 菅原勲)

どう言う切っ掛けがあったのか判然としないのだが、かれこれ60年振りにD.ハメットの処女作「血の収穫」(1929年。翻訳:田口俊樹)を再読した。

「血の収穫」を初めて読んだのは学生時代だったと思うのだが(蛇足だが、A.クリスティーの「アクロイド殺し」(1926年)にまんまと騙されたのもその頃だ)、探偵小説は、今でもそうだが、先ず殺人があって(それもたったの一人)、その犯人を見つけて大団円となるまでのお話しだ。

「血の収穫」では20人前後の人が殺し殺される。これが何よりも新鮮で極めて衝撃的だった。血で血を争う抗争で決着が付く、これこそが血の収穫と言うことなのだろう。その衝撃が余りにも大きく、今の今までその印象だけが続いて来た。ところが、今回、再読してみて「血の収穫」のなんと長閑で牧歌的なことか。確かに、ほぼ20人ほどが殺され、ギャングども(正確には、賭博場経営者、故買屋、密造酒屋など)の抗争で大量殺戮が行われて決着が付く。しかし、その殆どが、だれそれが殺されたと言う伝聞であって、殺しの直接描写は殆どない。気の抜けたビールとまでは行かないが、いささか拍子抜けで少々がっかり。その理由は、これが、遍在することの出来る三人称の物語ではなく、この物語の語り手が、一人称のコンチネンタル・オプ(コンチネンタル探偵社調査員)であるからに他ならない。これでは、いくら行動の人と言っても、同時に別の場所にいるわけには行かず、情報は専ら伝聞に頼らざるを得ない。そして、良く考えてみれば、この間に、例えば、ドン・ウィンズローの「犬の力」(2005年)を読んでしまっては、「血の収穫」がいかにも生ぬるい感が否めなくなるのも致し方あるまい。何故なら、「犬の力」は血みどろの麻薬戦争の話しだが、殺人の直接描写があり、それが酷くて誠に陰惨なのだ。この描写が余り頻繁に出て来ると、確かに心地よいものではい。勿論、その人数の多さも「血の収穫」の比ではなかったが。

ただ色々調べて見ると、「血の収穫」の影響にはただならぬものがある。それは、作家の筒井康隆が、いみじくも言っているように、「「血の収穫」のプロット(筋立て)は、あらゆる小説、映画、劇画に利用されており、その数は、おそらく百を下るまい」。例えば、黒沢明の「用心棒」(1961年)はご覧になった方も多いと思うが、黒沢が、「血の収穫」は「ほんとは断らなければいけないぐらい使ってるよね」と語ったのは有名な話しだ。また、クリント・イーストウッドの「荒野の用心棒」もその黒沢の「用心棒」、つまるところは「血の収穫」が原点であるようだ。つまり、荒廃した街に巣くう悪党たちの間を主人公が行き来し、互いに争わせて破滅に導くと言う筋書きは「血の収穫」が原点であり続けて来たことになる。最早、古典になったと言っても差し支えないだろう。

「血の収穫」読了後、直ちにハメットの2作目 デインの呪い」(1929年。翻訳:小鷹信光)を読み始めた。この小鷹がハメットの専門家であることも手伝って、その翻訳の良さは田口の比ではない。翻訳の良し悪しも読後の感想に大きな影響を与えている。もっとも、「血の収穫」は処女作、「デインの呪い」は第二作目と言う大きな違いがあるのかも知れない。

さて、ハードボイルドの始祖はハメット(1894年~1961年)だとばかり思っていたが、それは小生が知らなかっただけのことであって、どうやら然に非ず。解説者の吉野仁によれば、それは、私立探偵、レイス・ウィリアムズを主人公としたキャロル・ジョン・デイリー(1889年~1958年)だとのことだ。その短編こそ翻訳されているが、長編は未だに訳されていない。しかし、この件に深入りすると話しが長くなるので、それは別の機会に譲る。

それにしても、確かに、私立探偵が主人公なのだが、殺し合いが際立っている「血の収穫」が、果たして本来のハードボイルドなのかとなると、大きな疑問を抱かざるを得ない。それとも、ハメットと言えども、本格的なハードボイルドは、私立探偵サム・スペイドが初めて登場する「マルタの鷹」(1930年)を以って初めて言えることなのだろうか。

(編集子)

アクロイド殺人事件 でアッと思い、幻の女 でプロットに驚嘆し、Yの悲劇で 舌を巻き、それからHB, という同じコースをたどったものとして、スガチューの感覚というか意外性を感じたような書きぶりは納得できる。HBの創始者うんぬんについては小鷹だったか田中小実昌がデイリーにふれていたのを小生も思い出す。いわゆるブラックマスク派の本はまだ手に入るだろうか。この投稿に刺激されてアマゾンを探し、”犬の力” の中古を探し当てたので、それをすませてからスガチューに応えることにする。

今日も梅雨空、こういう日がHB耽読に向くのだが(薫風快晴、なんて日はやっぱりセーブゲキむきだな)。

 

 

”あのころの歌”

しばらく前にエーガ愛好会の保屋野君が、かれの推す歌手番付?を送ってくれた。これについてはいろいろな感想があったが、今朝の読売新聞に添付の広告がのった。この手のものはしょっちゅう見ているが、保屋野説を思い出して全曲名について、自分でメロディがすぐ思い浮かぶものをチェックしたら89曲あった。ほかにも、ア、この曲名は知ってるな、というのが10曲くらい。つまりこの広告の200曲のうち知っているのは50%という事だ。これが多いのか少ないのか、よくわからないが、この広告の選曲でいくつか気がついた。

僕らの中学高校時代のラジオからはアメリカでのヒットソングの直訳ものが多かった。江利チエミの テネシーワルツ とかそのほか沢山あった。そのころの ”御三家” は江利、美空ひばり、雪村いづみだったが、この200曲にはまず雪村が入っていないし、江利はあまりヒットしなかったように思える1曲、美空は 真っ赤な太陽 しかない。このころ絶頂期にあった美空ひばりが1曲しかない、ということはこのセレクションが演歌や英語直訳ソング群を前提にしていないことを示すのだろう。演歌歌手、と言えばまず出てくるビッグネームは全く入っていないが、これがこのピックアップのいう ”ヒット歌謡曲” の定義のようだ。またいつごろがピークだったか、”フォークソング” というジャンルが出てきて、片方では ブラザースフォア だとかPPMなんかのイメージに対抗して和製フォーク、なるものが流行った。このころの 日本人のイメージした ”フォーク” は何だったかわからないが、これも重視されていないようだ。このころの人々の琴線に触れた歌が、現在の若い人達の愛好する、ビートとかリズムを重視したり、ラジオよりもテレビ映えが話題となる構成とはだいぶ違い、いうなればメロディアスなものだったのだと改めて感じる。

僕の大好きな 真夜中のギター と 虹と雪のバラード に 小さなスナック。この三曲が入っているから、ま、選曲もよしとするか。買うか? それはまた別の問題だ.

 

 

乱読報告ファイル (41)  世界史で学べ! 地政学

最近よくお目にかかる地政学、という分野。わかっているようでわかっていない用語の一つなので、なんか手っ取り早い本はないか、と気軽に買った1冊だが、著者が予備校の先生だけに手慣れた編集であり、要点がわかりやすく、いい入門書だった。

第一に、地政学そのものの論議よりも、近代史、とくに日韓関係やロシア、中国との関連などの解説が貴重だ。韓国という国は地政学的用語でいえば半島国家であって、半島の付け根の先にある大国の影響を避けられない、という説明はなるほど、と納得するが、さらに、この分野では高名な学者だそうだが,マッキンダーは現在のヨーロッパ地域が巨大な半島とみなして、この、半島国家と同じ運命にあると論じたという。この場合、”欧州半島” の付け根がバルト三国・ベラルーシ・ウクライナであり、古代にあってはマジャールやモンゴルの、くだってオスマン帝国の、現代ではロシアの影響を受けてそのたびに内部の混乱を招いてきた。このありようは朝鮮半島のそれと同じだというのだ。

そのために内部的に混乱し、片方では先端技術に優れた英国やフランスはこの付け根内部、すなわち現在で言う中東やアジアに侵入し、自国の論理だけに従って地域の分割占有を断行した。有名なサイクス・ピコ協定によるアラブの分断(映画 アラビアのロレンスの背景)、インド亜大陸の占領、さらには単なる資源獲得だけを目的としてしゃぶりつくしたアフリカ大陸の混乱など、おのおのの地域の民族や文化を無視した、地政学的に見て筋の通らない実情無視の国家分断が現代のこの地域に絶えない戦乱の原因である、とする。イデオロギーや経済政策の問題ではなく、まさに地政学的な観点で理解できるというのだ。

現代は米国対ロシア(多分中国)の構図で考えられるが、それはその前にあった英露の対抗を引きずったもの(米国が表舞台に出る結果になったのは第二次大戦への参加)であることが明快に説明されており、現在なぜウクライナがロシアにとってそんなに重要なのか、と言ったことも解説されている。さらに日本人として納得するのは、一部の日本人が例によって ”第二次大戦の結果の総括と謝罪をドイツはやったが日本はやってない” と自嘲するのがいかに現実を知らないか、ドイツは今までになにをしたか、という事実の解説でもある。

地政学、というものそのものを理解する前に、近代史の総括という意味で小生には非常に参考になった。それと同時に、われわれがいかにお人好しでわきが甘い民族であるかということを改めて認識させられた。結論的に小生が納得したのはわが国が島国であることが地政学的にみて絶対的有利な位置にあることだった。

それほどの大部でもなく、文庫版820円は安すぎるくらいの価値があった。一読をお勧めする次第。