学生のビッグバンドを代表する早稲田大学「ハイソサイティー」
「永久に続くと思うな、命とベイシー・菅原正二」、と言われるく
野口久光から譲り受けた分を含めて、彼は2万枚ものLPレコード
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
学生のビッグバンドを代表する早稲田大学「ハイソサイティー」
がっかりした、というのが正直な読書感である。
新聞広告の、この本のある章に簡単に触れてあるだけのトピックをとりあげて誇張した出版社の戦略、というより目くらましに引っかかって、ウクライナ戦役についての、なにかの示唆がある本だと期待したのだが、全く違った内容だったので腹が立ったのがひとつだ。広告のトップにあるロシアの戦術なるものについては確かに言及はしているがほんの数行の記述にすぎない。現在、世界中で注目を集めている現象に悪乗りした、一種の誇大広告であろう。しかも出版は9月26日、まさにキワモノにひっかかった自分が口惜しい。
本の内容は日露戦争の過程を述べたもので、歴史学者の記述であるから、それなりの評価はされるものなのだろう。しかしこの本はそれを利用して、司馬遼太郎の個人攻撃になっているのである。たしかにそのことは表紙に堂々と 日本を呪縛する 坂の上の雲 という過ち と書かれているのだから、最初からそのつもりで買ったのなら文句はないのだが。
その司馬批判は基本的には著者のいう史実が誤って記述されている、という事に尽きる。このような批判は数多くあるし、それが歴史学というアカデミズムの範囲での議論ならば、この本で書かれている事実関係が正しいのだろうと納得は出来る。しかしどう見てもそういうつもりの記述ではないのだ。その点が気にくわない。
第一に司馬の書いたものはあくまでも小説であり、小説の範囲であるならば極言すれば史実と相反する記述があってもそれはある意味当然のことである。このことは著者も認めたうえで、(坂の上の雲 は陸軍の旅団長渡海軍参謀の兄弟の物語、すなわち少佐と中将の手柄話である。しかし日ロ戦争に従軍した日本人の多くは無名な一介の兵士たちである)と書く。そして(…….厳寒の満州の荒野に屍をさらした八万八千余の将兵一人一人の戦死の様子を、彼らの視点から記録紙ておきたいと、私はねがった)という。此処までは同書の愛読者としての小生も異論はない。そうですか、ぜひ書いてみてください、という事で終わる。しかしそうなっていないから 坂の上の雲 が日本を呪縛する本なのだ、という発想はどこから出てくるのか。司馬はこの本のでだしに、明治維新後の激動をある兄弟の運命をたどることによって書いてみたい、と明記しているのだから、話がこの二人の周りに集まるのは当然であろうし、その結果、焦点が兵士たちの運命にあわわされていないことも起きるだろう。この本の司馬批判は、この出だしからわかるように、たとえば乃木将軍は司馬のいうような愚将ではなかったとか、メッケルは実はどうだったかとか、感情的ないちゃもんにしか思えないものばかりで、いろいろな機会に歴史に携わる人たちの間でわだかまっている、いわゆる 司馬史観への批判というものに興味を持って読んだのにその期待も裏切られてしまったとしかいいようがない。
小生、だいぶ前になるがある席で母校で歴史の講座を持っておられた教授とお会いしたことがあり、”司馬遼太郎の史観” を声を大にして批判されるのを伺ったことがある。しかしこの場でも、その ”史観” とはなにか、という明確な定義は語られなかった。このこととつなぎ合わせてみると、どうもこの論議は言ってしまえば一小説家の書いた明治維新本が俺達専門家の本よりも国民に影響を与えている、という事実に嫉妬している、というくらいにしか思えていなかった。この本もまたその一つだったとしか思えない。とにかく、意気込んで読み始めた秋の一日を無駄にしてしまった、という自嘲しか残らなかった。
この土日、JRのツアーで「湖東三山」の紅葉狩りを楽しんできました。
11/25新幹線で名古屋→美濃三山(西国33ヵ所、華厳寺他)→長浜泊 11/26 永源寺→湖東三山(百済寺、金剛輪寺、西明寺)→米原から新幹線
今夏の猛暑であまり期待してなかった紅葉ですが、永源寺や金剛輪寺の真っ赤な紅葉は丁度見頃で、(もちろん、京都・永観堂には及ばないものの)十分満足できる色付きでした。西明寺も苔寺に匹敵するほど、境内一面がが苔で覆われ、紅葉とのコラボが素晴らしかった。
なお、上記湖東三山の寺院は天台宗で、信長の焼き討を免れた、金剛輪寺の本堂や西明寺の本堂・三重塔は「国宝」に指定されています。更に、伊吹山等琵琶湖周辺の山々の紅葉も美しく、晩秋の近江路を満喫した旅となりました。皆さんも機会があればぜひ訪れてください。
ヤッコさん、今日、高尾墓参の帰り、甲州街道を通りましたが銀杏の黄葉が最高でした。
紅葉の時期の大原 三千院・寂光院と二条城・北野天満宮を散策した。
作詞 永六輔(歌 デューク・エイセス)の“京都 大原 三千院 恋に疲れた女がひとり“ の歌がヒットした大原は京都駅から市営バスで約1時間の距離にあり、先ずここまでの道程がゆっくり安心して行けることを計画段階で考え京都駅前に宿を取り、前日は凛とした二条城と北野天満宮の境内の散策に充てた。
三千院は言わずと知れた天台宗開祖の最澄が創建した比叡山延暦寺の門跡の一つで春は紫陽花・山吹、秋は紅葉が特に美しい庭園が名高い。境内の宸殿の縁側で羊羹と抹茶を頂きながら朝陽の紅葉が映える有清園の庭園を楽しみ、往生極楽院の裏から、芝生の上のわらべ地蔵や見事な紅葉を観ながら、なだらかな勾配を登って観音堂までの曲がった小径と、そこから反対側に降りる小径では、おきな六地蔵や津川に架かる赤い欄干が紅葉と相まって美しく感じられる。
三千院から“響きの道“、“花の道“を歩いて平清盛の娘の建礼門院徳子の閑居御所であった寂光院には “諸行無常の鐘” と称される梵鐘があるが、ここの紅葉もまた見事である。更に“風の道“を少し行くと農地へ抜ける近道の役場橋と言う欄干も無い橋を渡るが、そこから臨む里山の風景と大原を囲む山々を一望できる田甫の中の畦道は晩秋なのに紋黄蝶(もんきちょう)も飛んでいてのどかだ。
名店“わらじや”で翌日には結婚53周年を迎える私たち老夫婦の前祝いの積りで鰻鍋(うなべ)と鰻雑炊(うぞうすい)を美味しく味わった。
(編集子)三千院へ行ったのがいつだったか、記憶にないのだが、飯田君のいうように 恋に破れた女が一人……..の雰囲気を期待していたことは事実。だがその場は人、人、人。恋には破れなかったが現実に敗れて帰宅した。その後、また行こうかという気が起きてこないのだが。俺はどっか間違えてほかのところへ行ったんだろうか。
朝井まかてさんの応為(本名おえい=お栄)が主人公の「眩」(
読売新聞朝刊のコラムに載った記事に心が動いた。和歌や俳句の世界には溶け込めない自分にも、後鳥羽院の心情は痛いほどわかる気がする。
これを見てすぐ思い出したのが愛読書のひとつ、”北八つ彷徨” の一節である。著者の山口耀久氏は日本を代表するクライマーであるが、この本に書かれているように苔むした北八の森のさすらいを愛するひとでもある。塾山岳部OBで小生とは高校から始めの勤務先(横河電機)まで、長い付き合いの親友、山川陽一の紹介で同氏と一夕、席を共にしたことがあり、その時に直接話を伺う機会があったが、この本の中で、落葉松峠、というテーマで書かれた一文が小生の琴線に触れたエッセイなのだ。グーグルで調べていたら、この一節について書かれた投稿があった。日本の中に同じ感慨を持たれた方がおられる、というのは心温まる出来事だ。たまたま原本が手元にないので、ここに引用された部分を借用する。
ときは晩秋、雨のため下山日を一日繰り延ばした著者を含む一行は蓼科山に登ろうという朝の覇気はどこへやら、雪のちらつく中をただ何となく幕営場所の北横岳から双子池へと下ってきた。両側に落葉松の木々が立ち並ぶこの峠にさしかかったところ、それまでの安穏とした山中の光景は一変し、風が吹き荒れ、降り注ぐ粉雪とともに黄葉した落葉松の落ち葉が激しく渦を巻いて舞い散る狂乱の世界となる。乱れ飛ぶ色彩と木々の咆哮。激烈なまでの季節の移り変わりは見るものを打ちのめした。秋は終わった。何といういさぎよい凄まじい訣れ。私はひとり取り残されたような気がした。帰るべき日に帰らなかった自分たちの旅のおわりがひどくぶざまなものに思われた。
原文のこの部分の描写は実に心に響く。山口氏はこの最後の文節の前に、去るべきものは去らねばならぬ! という表現を使っておられる。今を去る何年の彼方かわからないが、後鳥羽院が感じられたこの無常、というべき感覚も同じだったのだろう。
日本の文化、という事がよく論じられるのだが、小生はその根底にあるのはこの無常、という感覚なのだと思っている。米国人の友人との議論で、この感覚を sense of resignation と表現してみた事がある。真意が伝わっていたのかどうか、今もってわからないのだが。
”北八つ彷徨”、これもまた、小生は山歩きを愛する人たちの必読の書だと思う。 おなじ信濃から甲州にかけての風土文化について、みずみずしいエッセイを書いた尾崎喜八の文集とならんで僕の愛読リストに欠かせない存在である。
「フルトヴェングラーが岩倉具視を連れて来た」と言う極めて刺激的な題名の本を読んだ(著者:ノンフィクション作家、シュミット村木眞寿美、発行:音楽之友、2023年11月)。
その主題は、幕末から明治にかけて奸物とも言われた岩倉具視とその一族の話しだ。そこに何故かドイツの指揮者、フルトヴェングラー(以下、フルヴェンと省略)が絡んで来る。しかし、小生は、何故、フルヴェンが岩倉を連れて来たことになったのか、その部分を何度読み返してみても、ボンクラなのだろう、その意味が最後まで分からずじまいで終わってしまった。
例えば、岩倉は1883年、鬼籍に入っているし、フルヴェンが生まれたのは1886年のことだから、物理的にこの二人が相まみえることは絶対に有り得ない。フルヴェンの、特にナチスに対する生き様が、岩倉のそれを彷彿とさせるかとなると、これは全く別物で、牽強付会としか言いようがない。また比喩的な意味で、フルヴェンが岩倉を連れて来たかとなると、これも牽強付会の謗りは免れない。つまり、読了後の感想は、どう考えてみても、羊頭を掲げて狗肉を売る類いの話しとしか断定せざるを得ないのだ。言ってみれば、「フルヴェンが岩倉を連れて来た」なんてのは、ちょっと、どころか、だいぶ大袈裟すぎはしないだろうか。
確かに、巻末の参考文献は極めて膨大で、博捜を極め、著者によるとこの本の完成に7年も掛かったと言うから、その努力を高く評価するに吝かではない。しかし、読者は、その結果が面白いか否かで評価するのであって、その努力を一顧だにしないのは言うまでもなかろう。加えて、調べたことをこれまでかこれまでかと書き込み、詰め込んでいるから、話しの焦点がぼやけ、物語としての流れが滞ってしまうのも甚だ残念としか言いようがない。
とは言え、そんな中にあって、以下の如き取り柄はあった。村木は、岩倉について、幕末にしろ、明治時代にしろ、奸物どころか、その功績を高く評価している。この点について、小生も全く同感だし、それに付け加えれば、お公家さんとしては奸物だったかもしれないが、例えば、薩摩、長州、土佐などの志士として見れば、ごく当たり前のことをやったに過ぎないのではないか。一方、例えば、坂本龍馬の言動については過大に評価されているのではないかとの疑問が散見される。しかし、例えば、人口に膾炙している司馬竜太郎の「竜馬が行く」は、司馬がこれは創作であると断って、「龍馬が行く」としなかったのは有名な話しだ。
従って、村木は、話しを、岩倉具視一族に絞るべきではなかったのか。ここに、何故、フルヴェンが飛び出して来るのか。いささか釈然としない。発行が音楽之友だったから、無理矢理、音楽のフルヴェンを捻じ込んだのか。または、著者が、偶々、フルヴェンの未亡人、エリーザベトと知り合いだったからの話しなのか。
ただし、ナチス政権下のフルヴェンが、他の指揮者とは全く違って米国などに亡命せず、ドイツに止まって、演奏会を行ったことにつき、数多の非難を浴びせられたが、彼がナチスに賛同していたわけではなく、彼はこれしか生きる術を見出せなかったと論じている点については全面的に賛同する。H.カラヤンだってナチスに二回も入っているしA.トスカニーニだってファシスト党員になっている(ただし、党歌の演奏を断って若い党員に殴られてから、徹底的なファシスト嫌いになった)。何故、フルヴェンだけが同調者として敵視されたのか。それは、嫉みによるものなのか。
ここに、フルヴェンと岩倉に対する、ささやかな、しかし、極めて重要な同じような中傷を見ることが出来る。ちょっと長いが以下に引用する。「世界は何故、フルヴェンほどナチスと闘った人をここまで攻撃してきたのだろう。彼の子供までナチにされ・・・・。
天皇毒殺犯嫌疑(明治天皇の父親、考明天皇のこと)でいじめられ、歴史の授業から消える岩倉家の子供達を思い出だす」。(注:これが岩倉に対する全くの中傷であることは、天皇毒殺の嫌疑がある人を、態々、日本政府が500円札に使うなんて有り得ないことで証明されている)。
最後に、全くの蛇足だが、この本では全く触れていないが、加山雄三が岩倉の玄孫(ヒシャゴ)にあたっていることを付記しておく。と言っても、加山雄三は、あくまでも加山雄三なのだが。
(編集子)スガチューらしい真剣な読書報告には素直に感心する。明治維新あたりの史実創作いりみだれての話は理屈抜きに面白いのだが、フルトヴェングラーが出てくるとは驚いた。一人二役、というか二人の人物を同一目線でとらえることのイロハは、わが愛読書である 成吉思汗の秘密 で高木彬光が教えてくれていて、スガチューの論理過程は正しい。ナチの時代の話は先に本稿で書いた逢坂剛のイベリアシリーズものの一冊、暗黒者の森 で現在読みかけである。“フルヴェン” はまだ登場してこない。マジメにこの時代の悲劇をとらえるならば、アンネの日記 とか読まなければならないのだろうが、凡人はえてして安きにつくのだ、と自戒はしているのだが。許せ、スガチュー。
三田キャンパスの中央に位置する本校舎は、
「マーヴェリック」で有名になり、アクショ
1857年、未だ奴隷制廃止以前、白クインシー・ドルー(ジェー
にすることにしたが、話をしていて、全財産1万ドルの預金通帳が
主演者ジェームス・ガーナーの出演の「TVマーヴェリック」の第
(安田)1982年制作の「愛と青春の旅だち」(An Officer and a Gentleman)は40年前、