エーガ愛好会 (234) 静かなる男 再度礼賛 (HPOB 飯田武昭)
劇場公開で観て以来、多分3~4回目だと思いながら「静かなる男」を先日、久しぶりに録画ビデオで観ました。この映画はジョン・フォード監督の西部劇以外のジャンルでの名作とは理解していましたが、改めて観ると矢張り名作中の名作と感心しました。
物語はアイルランド出身の主人公ショーン・ソーントン(ジュン・ウエイン)が、アメリカの鉄鋼業の街か何かで働いた後に、故郷のアイルランドに戻って来て旧家を買い戻し、その隣人の男”レッド”・ウィル・ダナハ(ヴィクター・マグラクレン)とその妹メアリー・ケイト・ダナハ(モーリン・オハラ)との縺れ話と言ってしまえば簡単ですが、ざっとそんなストーリーです。ジョン・フォード監督が出身の祖国アイルランドに溢れんばかりの郷愁を持っていることが、この映画の見どころの根底にあると思います。
第一に、情景描写が如何にもこれぞアイルランドと思わせる詩情豊かなロケーションで行われている。撮影はアイルランド西部、ゴールウェイ県とメイヨー県の境にあり、コリブ湖やアッシュフォード城も近くにあるコングの村で行われた。映画は一貫して原風景の映像で貫かれているのも気分が落ち着きます。
次に、俳優も隣人の男の妹役のアイリッシュ系のモーリン・オハラを筆頭に、ジョン・ウエイン、ヴィクター・マグラグレン、ワード・ボンド、ミルドレット・ナトウイック等、全員が好演技をしていて、それぞれの俳優の代表作の一つと呼んで間違いないと改めて思いました。
更に、画面を通して常に流れる音楽はビクター・ヤングのアイリシュ系の穏やかなメロディで、これが映像の鑑賞を自然にサポートしています。一番感心するのは、この映画の人間味溢れるコモディ・タッチの演出表現が、とかく重たくなリ勝ちなストーリーを、鑑賞後に軽やかな清涼感で満たされた気分で満足できることです。
些か褒めすぎの感はあるかも知れませんが、映画でコメディタッチの名作は殆ど思い出せないので、敢えて取り上げております。シリアスなストーリーやドキュメントの名作は枚挙に暇がないですが、コメディタッチは映像では極めて難しいのが、世の東西を問わず言えると思います。コメディタッチの秀作を強いて挙げれば「俺たちは天使じゃない」(1955年 監督マイケル・カーティス 主演ハンフリー・ボガート、ピーター・ユスチノフ、アルド・レイ)、「腰抜け二丁拳銃」(1948年、主演ボブ・ホープ、ジェーン・ラッセル)辺りかと思います。ダニー・ケイやジャック・レモンのコメディタッチ作品は面白い方ですが、それでも一本の映画を通して観ると、日本人には馴染まない演技やわざとらしさが鼻に付くことが多いのがコメディ作品です。
ジョン・フォード監督は勿論、西部劇の名作を沢山残してくれています。しかし、西部劇以外でも私は「静かなる男」の他にモノクロ時代の「怒りの葡萄」「わが谷は緑なりき」、カラー作品の3作「長い灰色の線」「ミスター・ロバーツ」「荒鷲の翼」が特に好きです。
音楽のビクター・ヤングは「シェーン」「大砂塵(ジョニー・ギター)」「愚かなり我が心」「八十日間世界一周」などの名曲を残しているポーランド系ユダヤ人ですが、アカデミー音楽賞に22回ノミネートされても1度も生前にオスカーを手にできなかった作曲家のようです。死の直後のアカデミー賞授与式で「八十日間世界一周」が漸く、受賞対象曲になった経緯です。
因みに、この映画の公開年のアカデミー賞(第25回)には「静かなる男」は7部門でノミネートされ、うち監督賞、カラー撮影賞の2部門を受賞しました。作品賞でも本命「真昼の決闘」に次ぐ対抗作と見なされましたが、有力2作の間隙をぬう形で「地上最大のショウ」が受賞する結果になったと報じられています。名作揃いのこの時代の映画界ですから仕方のないことですが。
(編集子)サラリーマン卒業から数年たち、落ち着いたところで当時アイルランドはコークにいた同期の大塚文雄を訪ね、ダブリンを出発点にレンタカーで全島ドライブをしたことがある。その時、この映画を撮影した場所が一種の記念碑のようになっていて保存されているのを知り喜んだことを思い出す。この旅はEUが共通通貨としてユーロを発行して間もなくで、アイルランドもその影響を受け始めて、政治的には動揺があったころだが、ドライブは快適で、どこへ行っても人は穏やかで和やかな国だ、という印象が深い。
ワールドカップを見てきました! (バー アンノウン 川島恭子)
(関谷)羨ましい!
若かりし日、ラグビーをちょことかじった者にとり、準々決勝の2試合(他の2試合も含め)かってない最高の試合でした。ニッポンが出ていれば、ひやひやドキドキでまともに観れなかったでしょうが、ラグビーの面白さを堪能しました。
それにしても、それを直に観戦されたとは羨ましい限り。次回、一杯奢ってください!!
(安田)ジャイさんからメール及び興奮を伝える写真を転送して頂き拝見い
(佐藤)うらやましいを通り越して行動力に脱帽です。安田さん、関谷さんと同様私も高校ラグビー、大学ラグビー、リーグワンをウオッチしもちろんWRCを興奮して見ているファンの一人です。南ア-フランス、アイルランド-ニュージーランドのスピード感には圧倒されました。現場では映像をはるかに凌ぐ迫力だったでしょう。次回の集まりの際にはぜひ興奮を分けてください。
乱読報告ファイル(45) 高橋杉雄 日本で軍事を語るということ
最近ウクライナ問題などの関連テレビ番組で常連になっている著者は、この本を ステートクラフト という用語を定義することから始める。
この言葉は国家が存在するうえで、国として持たなければならない絶対的な指導原理、すなわち政策を立案し、展開していく、技巧(クラフト)であり、外交力、経済力、軍事力という三つの形で現れるという。長い間日本において軍事はある種のタブーであって、政策論として幅広く議論されることはほとんどなかったが、それは第二次大戦後の日本が安全保障を米国に依存しきっていたために、この問題を考えなくて済む時代が長くつづいてきたからだ。しかしグローバルなパワーバランスは変化し、米国の軍事力ももはや絶対的なものではなくなってきた。しかも日本周辺に安全保障上の対立が事実として存在する。すなわち日本が当事者意識を持たなくてはならなくなった。日本人は善とか悪とか言ったことではなく、否が応でも ”ステートクラフトとしての防衛力(軍事力)” を価値中立的に考えなければならなくなったのだ、と述べる。その意味で、国民がこの問題を考える上で必要となるであろう事柄を解説したのがこの本である。
そういう意識で書かれた本書は米ソ対立の冷戦状態が凍結されていた平成の時代はそれなりに世界平和が曲がりなりにも維持されていたが、今回のロシア・ウクライナ戦争でそのグローバルなバランスは崩壊しつつあるし、米中の対立は冷戦を再度もたらすかもしれない、という危機意識の中で、”戦争”というもののいわば方法論がかつての米ソ対立時代のものとは様変わりしている、という事実を明快に解説している。なんとなくわかっている気でいたが、戦闘そのものがすでにエレクトロニクスの闘いであるという現実や、一つびっくりしたのだが、米国と協調しているいわゆる西欧諸国群の中で、人工衛星を打ち上げる技術があるのは米国、フランス、それと日本だけだというのだ。
このような状況の中で、日本が備えるべき防衛力とはどれくらいの規模であるのか、外交と防衛とはどういう関係にあるべきなのか、そして最後に核抑止はどうあるべきなのか、と言った点について、本書は明快な解説をしてくれる。テレビで一種のショウのように(怒られるかもしれない発言だが)なってきているウクライナ(これからはプラス、イスラエルか)問題解説番組もこの本で得た知識で見ていくともうすこし事情がわかってくるような気がしている。
(36 大塚文雄)高橋氏は視点で語るのではなく、視野で語り、
田沢湖とク二マスの話 (44 安田耕太郎)
KWVの同期S44年卒の仲間総勢17名で先週、
(保屋野) 田沢湖の「クニマス」の歴史、ありがとうございます。当時、さかな君の発見で大きな話題になりました。
さて、田沢湖ですが、2回ほど訪れてますが、展望台から、コバルトブルーの美しい湖面が印象的でした。
かって30mを超えていた透明度が一時4,5mまで悪化したということですが、現在かなり回復しているのではないでしょうか。
二重の虹が出ました (グリンヴィラ総合管理HPより転載)
エーガ愛好会 (233)クライ・マッチョ (34 小泉幾多郎)
当時91歳のクリント・イーストウッドが監督デビュー50年40
ストーリーは若き時代ロデオ界のスターだったマイク(クリント・
ド)は落馬事故以来、数々の試練を乗り切りながら孤独な一人暮ら
冒頭のスタートは、カントリーで、マイクが村の中を走ってい
Home、唄はWill Banister。全般的に年の離れた男二人のロードムービーだ
(グーグルの解説転載)
タイトルの『クライ・マッチョ』とは、「マッチョ、鳴け!」という意味と「男らしく泣け」のダブルミーニングだと思われる。 年代も環境も違う、出会うはずのなかった2人が旅を通して絆を深め、生きることの意味や明日への希望を見出してゆく、人生への問いかけを秘めた感動のストーリー。
スナック・ジジ
昨晩、月一高尾の常連数人で飲む機会があった。以前、府中カントリでのゴルフ会の帰り、何人かを案内した、編集子の旧居近くにあって馴染みだったバーが気に入った、という連中がわざわざ都心を通り越してやってきてくれる、という会合になったのだ。この会の発案並びに運営は42年卒の下村君がやってくれている誠に楽しい時間なのだが、席上、スナック・ジジ の話が出た。僕らの年代のKWV仲間では有名だったが、なるほど、すでにいわば歴史上のことなんだな、という感慨があった。KWVのみならず、横町の旦那として昔を語り伝える年だなという事を、今週2度目に納得した(1度目は ”そのうちお前と酒が飲みたいな” とからかっていた孫が実は大学生になり(このさい法律論はなし)、その日がもうやってきてしまった、という衝撃)事実だった。
スナック・ジジ のことは同期文集に書いておいたが、ご参考までに全文をコピーしておく。キザに言えば、本稿のタイトルどおり、Circle be unbroken であろうか。
(注)文中、キチン スイス は場所を変えて京橋近くで営業している。メニューもあの頃と同じ、まさに昭和の雰囲気は変わらない。
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スナック・ジジ
銀座の灯が青春の象徴だったという人間は沢山いるだろう。街並みは変わり、“いちこし” も ”ジュリアン・ソレル“ も ”スイス“ もなくなってしまったとはいえ、今なお古き良き時代の思い出は我々とともにある。
その銀座に住吉康子が店を持ったのは1983年6月9日、名前はスナック・ジジ。女子高時代演劇部にいた彼女が演じた役の名前がそのままニックネームとなり、友人たちの間では本名をとっさに思い出せないのがいるほど、親しまれた名前であった。
この店の誕生には、1年上の ”マックス“ こと畠山先輩の強い勧めがあった。彼女はこれに先立って、友人に誘われ横浜、都橋の近くで ”こけし“ というスナックをマネージしていたことがある。ヨコハマ、というきらびやかなイメージとはかけはなれた、どちらかと言えばうら寂しい一角だったが、六郷沿いに住んでいた小林章悟が私設応援団長的にひろくワンダー仲間に呼びかけ、仲間が集うこともたびたびで、荒木ショッペイ夫妻もよく訪れていた.ここへ来た畠山が、”ジジ、おまえ、銀座に出ろ“ と強く勧めたのだという。
住吉はいろいろな友人を通じて、塾体育会のOBたちに知己が多く、そのひとりだった野球部OBの増田先輩(1957年卒)から紹介で、ホテル日航に近いあの店の権利を得て、スナックとして開業した。バーテンも置かないから、当然カクテルなぞというものとは無縁、カウンター1本しかないせせこましい造り、住吉本人だって世にいう ”銀座マダム“ とはかけはなれて不愛想。それでも、ここは開業以来、”慶応“ それもどちらかといえば ”体育会(この場合はKWVも含めてだが)OB“、の何とも居心地抜群の、理想の止まり木でありつづけた。
何しろ、店の場所がよかった。都心オフィス勤めの人間にしてみれば、”帰りがけに銀座でちょっと飲む“ プライドをもつことができたし、古びたドアを開けて入れば、先ず5割の確率でワンダー仲間がいた。あれ、今日は誰もいないか、と思って奥を見れば、何年何十年ぶりかで見る高校、中学時代の仲間が、これまた5割くらいのヒットレートでにやにやしているという、まさに ”おれたちケイオー“ の場所だったのだ。
KWVで同期以外の常連、といっても枚挙にいとまがないが、なんといっても2年上の三ツ本和彦がダントツだったのは、先ず誰もが納得する事実だろうし、後輩連では41年の田中透、佐川久義、44年の浅野三郎、45年の島哲郎などの名が浮かぶ。同期の仲間は当然としても、後輩年代でも“じゃ、ジジで” というのが決まりだったのだ。
われわれの ”部室“ であった ”スナック・ジジ”は、2009年3月31日、その ”銀座の灯“ を落とした。
(住吉康子 2019年10月9日没)
強風下の栗駒山 (42 保屋野伸)
昨日、仙台発地元の日帰りツアー「紅葉の栗駒山ハイク」に一人で参加しました(仙台前泊)。北東北の冬型配置による暴風警報にもかかわらず、キャンセルもなく336名もの参加者がありました。(大半が女性)
標高1100mの「いわかがみ平」から強風の中1時間ほど登って1400mの稜線に出ると、そこは風速25mの世界、吹き飛ばされそう。さすがに、初心者もいるツアーでは1620mの山頂までは行けず、ここから引き返しました。山頂は風速30m。
紅葉も、猛暑の影響でナナカマドが枯れ、赤系統が全滅でしたが、まあまあ、黄葉の絨毯は(少し)楽しめました。その後麓の温泉に入って帰京、紅葉は「イマ2」でしたが、(めったにない強風登山という)良い経験をしました。
紅葉の絶景写真をお見せしたかったのですが、こんな状況で残念。
(下村)残念でしたね。今年は紅葉の美しさは諦めですかね。
(河瀬)私も実はナナカマドの紅葉で有名な栗駒山に10月4日に登る計画
(編集子)したがって本稿の写真は (こうなるはずだったのに)の光景である。同期の連中4名ほどで、鳥海山の帰り東北ドライブとしゃれこんで、その途次、栗駒の麓を走った記憶がある。その記憶に間違いがなければ、確か泊まった小屋が台風で流出してしまったのではないか、と思うのだが。記憶のいい遠藤兄だったら覚えているかもしれない。
玉山は遠くなりにけり (39 堀川義夫)
9月19日にフィリピン沖で発生した台風14号(コイヌ)は台湾直撃の大型台風となり、10月3日(火)には、玉山に登山禁止令が発布されました。
私の今年の大きな目標は、100名山の完登と玉山の登頂でした。玉山は何回も登頂の企画し、その都度いろいろな理由で行けなくなった私には相性の悪い玉山でした。今年はラストチャンスと思い、早々に4カ月前の6月には幸運にも仲間5人分の拝雲山荘の抽選での予約を確保し、以来楽しみにこの日をくるのを待っていました。9月29日には100名山完登を達成し、余韻治まらない内の10月4日(水)に日本を出発して、5日(木)に拝雲山荘泊まり、6日(金)早朝に登頂予定でしたが・・・
台風の発生以来、毎日、何回も天気図を見ながら、仲間と連絡を取りながらあーだこうだと話し合いながらも全員行く気満々でした。結論はとにかく行こう! あとは状況判断で出来るだけ登頂を目指そう、という決心をしていましたが・・・なんと、日本出発予定の前日、10月3日に登山禁止になってしまいました。
私としてはショックでした。残念でした。台湾のグルメは所謂観光でも良いかなと思いましたが、山が目的で行く台湾の予定です。多分、台北にしろ温泉地巡りをするにしろ天気は悪いことでしょう。結局のところ話し合って催行中止と言う結論になりました。残念無念! 玉山は遠くなりにけりです。