”AI” の拡大について

AI、というコトバがあっという間に広がってきた。コンピュータ、というものが一般人のものになった60年代、コンピュータ、すなわち 計算機械にすぎないものの過大評価の一つでこれを 人工頭脳 などと言いはやすことがマスコミの報道に著しかった。しかし現実が理解されるにつき、(やはりコンピュータは与えられた資源を使うものの意思に従って高速かつ忠実に処理する機械なのだ)という正解に落ちついた。その延長線の上に、早晩、現実化するだろうと言われていたのが Artificial Inteligence  だった。当時、米国でエレクトロニクス関連技術センター的な位置づけになっていたシリコンヴァレーはいち早くその出現に反応し、小生が勤務していたHPなどはその代表的存在で、(これからはAI)ムードに支配され、”AI担当部署”がおかれ、トップマネジメントを巻き込んだ一大啓蒙運動が起きた。

しかしその熱狂はいつの間にか冷めてしまった。これはPCの高度化とインタネットの出現で、データ処理の質と量が飛躍的に改善されたこと、かつては専門家のものだった環境が一般家庭でもいとも簡単に実現できるようになったことと、そもそもInteligence とは何だろうか、という基本的な問いかけが起きたからだと小生は考える。データ処理はあくまで作業であり、それ自身が価値を創造することはあり得ない。Inteligence, とは人間が下す価値判断そのものであるからだ。

最近、NHKのニュース番組の これから後はAIによる自動音声でお伝えします というアナウンスメントに疑問を持った。目下、ここで言っているのはニューズの原稿を自動的に音声に代えてアナウンサーの負荷を軽減する、という一連の動作なのだろう、というのが友人仲間での合意である。もし、その原稿になるニューズそのものを選択するのがいまいう AI と呼ぶ(どこまで行ってもこれは高度化されたソフトウエアにすぎないのだが)仕掛けであるならば、(人に変わって価値判断を行う)という小生なりの定義に合致するし、天下のNHKのアナウンスメントにケチをつける気持ちはさらさら、ない。

最近、同じメル友グループの一人、菅井康二が仲間のひとり、平井愛子のフランスの政治に関する投稿を多とし、その良き理解に、ということでGPTを使って欧州の現状のサマリを作成してくれた(7月13日付本稿)。結果は見事なサマリであり、菅井の目論見通りの結果がうまれつつある。今回のような使い方が現状でのGPTの有効利用としては理想的なものだと思う。結論を急ぐつもりではないのだが、このような使い方が、現状の AI, というメカニズムの限界を示すものでもある、とも感じる。逆説的に言えば、これでいいのだ、という気もする。

もし、本当の意味での Inteligence, すなわち人間の持ちえる知性の集約,であるならば、今度の菅井リポートはその結論として(現状はこのとおりだが、こうあるべきではないか)というところまでいくはずのものであるがそこまでは行っていない。それでいいのだ。つまり、どれだけ高度化が進み、事実の正確な記述が出来たところで、その最終判断まで、Artificial  な知性にゆだねる、という事は人間そのものの放棄だ、と思うのだ。

ところが昨日、読売新聞に出た記事はそういう意味で僕の楽観論、というか希望論、に冷水をかけるものだった。友人のいない(その理由そのものが問題なのだが)少年が心のよりどころ、として選んだのがAIとの対話だった、というくだりである。人との交わりによって世界を作っていくのが人間、という生物がほかの生き物との違いなのに、それを ”AI” という仕掛けが代用する。そういうことか。

記事によればこういう例はすくなくなく、なかには結果に満足を得られず自殺した例まであるというのだ。”人生相談” とか、あるいは ”XX相談室” という善意の組織は古くからあって、それなりに人助けをしてくれていることはありがたいことだ。その助言や忠告は回答者の人生で得られた、絶対に正しいという保証はないかわりにその人の人生観に基づいたもののはずであり、”人間” の知性がこたえたものだ。しかしこの少年の場合、その対応を ”Artificial” な仕掛けがしていてくれる、というのか。

この記事のきっかけになった少年がなぜ人との付き合いがないのか、それはわからない。生まれつきの性格なのか、家庭状況なのか、病気なのか。最終的には其の少年の人生が決めることなのだが、人との交わり、友人がない、という事がどれだけ恐ろしいことなのか。そう考えて見ると、数多くの友人があり、この年齢になって尚、若い人たちから世の中を学ぶことが出来る、そういう環境のなかにいる自分が途方もなく幸運であると改めて感じた。ありがたいことだ。