4千メートルの神風アタック  (42  河瀬斌)

小田さんのユングフラウヨッホ旅行の写真を見て、昔そのヨッホからメンヒへ登ったのを思い出しました(メンヒはアイガーとユングフラウの間の山)。
時は医学生5年の56年前(1968)8月初旬です。宿泊はグリンデルワルトのユースホステルでした。
アイガー直下のクライネシャイデックのホテルベルビュー、デスアルペス(今でも健在でしょうか?)。この頃日本人クライマーがここからアイガー北壁に何度もチャレンジし、「カミカゼ」という日本語が通用していました。
ホテルベルビュー隣のWyss-Conzettスポーツ店(名ガイドシュトイリの甥にあたる夫妻経営ー写真)で杉浦(工学部:シンスケ)と河瀬(医学生:やぶたま)は記念のピッケルを買った。ガイドを雇ったりロープを買う金はなかった。
岩と氷の急斜面、標高差600mををロープなし、ピッケルとアイゼンだけで登った。転ぶと遥か下にクレバスが待っているのだ。
頂上までは両側が切れ落ちた雪庇となり、滑らないようそれを跨ぐようにして頂上に達するまでは二人とも死ぬ思い!
メンヒ山頂からは後方の雲の切れ間にあのアイガー(3970m)が何とすぐ下に!見下ろせた。
鋭く黒い岩壁を持つSchreckhorn(4078m)、グリンデルワルトからあれほど高く見上げたWetterhorn(3701m)が左下に黒く小さく見下ろせた。
この登山は二人とも生まれて初めての4千メートルで、その翌週に計画したツエルマットからモンテローザ(モンブランに次ぐ高峰4618m)へ登る準備登山のつもりでした。「標高差600mならいける!」と思ったが、しかしそれは肝試しを通り越し、下山後ピッケルを買ったスポーツ店に行くと我々も「カミカゼ」と言われました。
(編集子)ドクター河瀬がピッケルなしで雪稜を這い上っていた1968年、安田耕太郎は世界一周旅行の始まりで船の上だったというが、この年は小生の滞米2年目でようやく落ち着いたころ、出社途中だったと思うのだが(記憶は確かではなく、昼食によったダイナ―であったかもしれないが)ロバート・ケネディの暗殺が報じられた。ベトナム戦が膠着した後、米国そのものが大きく揺れ始めた年だったように思える。アルプスが温暖化の結果、消滅しようかという今、目下の大統領選に出馬がうわさされるのはRFKジュニア。歴史、というもの、時の流れというものを肌に感じる気がするのはコロナの後遺症か?
(飯田)私は登山や山岳散策体験でなく、単に山岳風景が好きでベルナーオーバーラント地方(アイガー、メンヒ、ユングフラウ3山と麓のグリンデルワルト)には3回か4回行ったことがあります。最初は昭和39年(1964年)に、海外研修制度で1年間ドイツに生活した時で、帰国前に10日間程フリータイムを貰ったので先ず行った先です。独身時代に一人旅でのモノクロ写真ですが、ご笑覧ください。