エーガ愛好会 (257) 次郎物語   (HPOB  小田篤子)

昭和初期、次郎は士族の家の3兄弟の真ん中に生まれましたが、母親が弱かったため里子に出されました。家風を学ばせるために6歳の頃本家に戻されますが、厳しい祖母やいじめに会い、馴染めず反抗していました。
ある時、屋根に登り、皆で怒ったり説得しますが、降りようとしません。
そんな時、帰って来た父親は怒ることなく、自分も屋根に登り、「男は大きな河になれ」(スメタナ モルダウから)を歌います。このシーンの加藤剛のお父さん、いいですね!
その後、祖父が亡くなり、保証人になったことから破産し、母親も寝たきりとなります。父親は次郎に母親と過ごす最後の機会と、看病を命じます。
次郎は遊びも断り、水を飲ませたり、氷を割ったり、鏡で庭を見せてあげたりします。
お祭りの日、母は支えられながら、次郎の鼻の頭にゆっくりと白粉ですじを書いてあげ、祭りに送り出しそのまま亡くなってしまいます(鼻の頭の白いすじは神様の代理人に祭りの間一時的になる、という儀式のようです)。又、祖父は亡くなる直前に、「家の中を見たい」と言い、布団のまま戸板に乗せられ、皆と共に家の中をまわったりします。このような、穏やかで感動的な最期を迎えられるとよいのですが…涙のよく出る映画でした。
昔話題になった作品で、映画は1955年版もあるようですが、こちらは19日放送された1987年の方で、芦田伸介、加藤剛、高橋惠子等が出演していました。
(下村) 子供のころ見たことがあります。戦前の日本、まだ多くの日本人が貧しいころのお話ですね。

大変印象に残った映画です。でも今はもう悲しい映画はとても切なくて見ることができません。もとより涙腺は緩い方ですが、歳とともにストレスに耐えられなくなっています。 小学校時代、クラスで見に行った映画鑑賞会を思い出し懐かしい気持ちになりました。

(安田)映画館内で声をあげず(我慢して耐えて)嗚咽し周りの仲間の耳目が気になり少し恥ずかしい気持ちになった記憶があります。周りの仲間に気づかれないよう必死でした。すると、皆そうだったと白状し合いました。

映画のストーリーは覚えていませんでしたが、ミッキーさんの大変分かりやすい解説、とても役立ちました。ありがとうございます。ほぼ同時期と記憶しますが、「しいのみ学園」にも泣かされました。宇野重吉と香川京子を鮮明に覚えています。両映画、調べると同じ1955年公開でした。加藤剛の最新版(1987年公開)は観ていません。最近は涙腺の感度も鈍ったせいか、なかなか泣かされる映画にお目にかかりません。涙腺が緩めば泣けるはずなのに!

(編集子)われわれが少年期から青年期にかかろうかというタイミングで、”坊ちゃん” や ”猫” を卒業したあたりで教養書として出てくるのが ”路傍の石” などと並んで この映画の原作である下村湖人の ”次郎物語” であった。このころから妙にませていたというか天邪鬼的発育をした小生ははやばやと吉川英治の 三国志 に嚙みつかれ(五木寛之がどっかで使っていた表現だが)、さっさと ”教養書” ルートから外れた。高校時代に改心していれば当時のエリートルートだった ジャンクリストフ だとか 魅せられたる魂 だとかすねているやつなら 狭き門 なんてハードルを越えていたかもしれないが、スガチューに誘惑されてアウトロー文化にはまり、次郎とは程遠いフィリップ・マーロウ の世界に入り込んでしまった。有り余る時間を持て余す時期になっても、”あのころ読んでおくべきだった本” を再訪する気分にはならない。このあたりが人生航路、なんであろうか。今日はそのスガチューから宿題にもらっている ドン・ウインズロウ ののこり250頁にとりくむとするか。

エーガ愛好会 (256) コルドラへの道   (34 小泉幾多郎)

2月(金)のBS1西部劇は、「クイック&デッド」「誇り高き男」「たくましき男たち」と相変わらず再放映ばかりだが、珍しく20日早朝の1:50amに、ゲーリー・クーパーが亡くなる2年前に主演した最後の西部劇「コルドラへの道」が放映された。

「ハスラー」等の名匠ロバート・ロッセン監督唯一の西部劇。1916年メキシコのパンチョ・ビリャの反乱に対する米国軍の討伐遠征を背景に、ゲーリー・クーパー扮するソーン少佐が戦場での活躍で叙勲に値すると見做した騎兵隊員をコルドラの基地まで連れて行く旅を描いている。ということは、開拓者魂と壮烈なアクションを展開する本来の西部劇とは異なる。

主人公クーパー扮するソーン少佐が、戦線での銃弾を避けるため橋の蔭に身を隠した行為が罪に問われ、後方勤務に左遷された人物なのだ。開幕早々のメキシコ反乱軍と米軍騎馬隊との戦闘シーンは迫力満点なのだが、そのあとのソーン大佐が評価した5人の兵士をコルドラの基地までの経緯が最後まで続くのだ。その間、戦闘シーンは殆んどなく、どちらかと言うとこの勇猛果敢な活躍で評価されたのだが、普段は人間として立派ではなく、むしろならず者に近いのだった。メキシコ反乱軍が立て籠もっていた農場の女主人リタ・ヘイワース扮するアデレードも反乱軍への協力者として同行させたことも事態を複雑化したのだった。

主人公ソーン少佐に反発しながらも、その人間性を理解していく農場主をセックスアピールなしで好演。他に叙勲対象者ファウラー少尉(タブ・ハンター)、トルビー伍長(リチャード・コンテ)、チョーク軍曹(ヴァン・へフリン)、レシジー・ハウゼン二等兵(ディック・ヨーク)・ヘザーリンドン二等兵(マイケル・カラン)。 全般的に、軍人としての使命感と過去を背負う一人の将校を描く人間ドラマと言える。正義とは何か。勇気とは何か、集団の中の心理劇の要素が強く、ソーン少佐は自分の罪を背負うように、最後は、一人で手漕ぎトロッコをロープで引っ張る羽目に陥る。まさにキリストが十字架を背負って歩く様子。叙勲に値する男たちは反対の方向に歩いて行く。少佐は坂道のトロッコに線路上を引きずられて行く。兵士たちは、少佐が自分の手帳に中に、如何に戦場での活躍が叙勲に値するか の理由を記載したものを見て一応納得し、最終的には揃ってコルドラの基地へむかうのだった。これではとても西部劇ではなく、心理劇だった。

(編集子)助演のメンバーがなつかしい。リタ・ヘイワースとはねえ! ラナ・ターナー とか ローレン・バコール とか。 水泳選手から転向した、足に100万ドルの保険かけてる、ってのは誰だっけ? 全然タイプは違うけど、ジューン・アリスン だの パイパー・ロ―リー とか?

 

(飯田)助演のリタ・ヘイワースに絡んで、懐かしい女優の名前があったので思い出しました。

ラナ・ターナー、ローレン・バコール、ジューン・アリスン辺りまでは当時の映画ファンなら出る名前でしょうが、パイパー・ローリーはなかなか直ぐに出て来ない女優。私も彼女の映画を数本見ていますが、直ぐにタイトルが思い出せません。トニー・カーティスとスポーツカーに同乗して、猛スピードで髪を靡かせて疾走するロングカットのシーンが特に印象に残っていますが、トニー・カーティスと後に大統領になったロナルド・レーガンとの共演が多かったようです。

ウイッキペディアで調べると、パイパー・ローリーは父親がポーランド系、母親がロシア系で、昨年亡くなっています。(1932年~2023年10月(91歳没)トニー・カーティス等の相手役に飽き足らず、ニューヨークへ渡り、アクターズ・スタジオで演技を学び直し、「ハスラー」(ポール・ニューマン主演)の演技でアカデミー主演賞候補にノミネートされています。

百万ドルの脚線美の方は、多分シド・チャリシーでしょう。でも、もしかしたら水泳選手で世界記録保持者だった前歴の≪水着の女王≫と称されたエスター・ウイリアムズかも。私はシド・チャリシーの大ファンです。

(船津)パイパー・ローリーは「かわぃぃ」の元祖かなぁ
17歳で映画デビュー。ロナルド・レーガンやトニー・カーティスの相手役で人気を博したが、本人は決まりきった役柄にうんざりしてニューヨークにわたり、アクターズ・スタジオで演技を学び直した。1961年の『ハスラー』でアカデミー主演女優賞にノミネート、その後、一度引退したが1976年の『キャリー』でカムバックし、アカデミー助演女優賞にノミネート。1986年の『愛は静けさの中に』で再び助演女優賞にノミネートされた。

シド・チャリシー(Cyd Charisse、1922年3月8日 – 2008年6月17日)はアメリカ合衆国の女優、ダンサーである。1950年代のハリウッド黄金期にミュージカル映画で活躍し、フレッド・アステアとジーン・ケリーの相手役として知られる。ミュウジカル大好きなときにこの美脚で踊りが上手いのでファン。
MGMの二枚看板はフレッド・アステアとジーン・ケリーだったが、チャリシーはその二人の相手役をつとめる幸運に恵まれた。ミュージカル大好きで全部見ました。

 

 

 

 

OB会 スキー合宿 (50 実方義宣)


スキー合宿参加のみなさまお疲れさまでした。お陰様でケガもなく無事終了することができました。天候に恵まれ妙高から北アルプスの眺望を楽しむことができ、齢を顧みず良く滑り、ガハハの大騒ぎをし、カブリものの再登場に驚き笑い、大変楽しい合宿になりました。

ワンダーの集まりは楽しいの一言に尽きます。シンプルな運営ということで至らぬ点もあったかと思いますが、寛容な対応をいただきありがとうございました。

エーガ愛好会 (255) サイコ    (44 安田耕太郎)

これは60年以上前のティーンエイジャーの時、初めて観た1960年作のヒッチコック監督サイコスリラー映画だ。この映画を観た2〜3年前にアガサ・クリスティ原作、名匠ビリー・ワイルダー監督の法廷ミステリー作品である「情婦」(Witness for the Prosecution)を映画館に中学生の時足を運んで観たが、サッパリ理解できなかった。多感な少年時代、邦訳の題名に騙された。成人になって再度観た時には腑に落ちた。

「情婦」の苦い経験から約3年後、高校生になって封切りの「サイコ」を観た。当時の鑑賞後の感想は、一言で言うと「度肝を抜かれた」だった。今回観たのは3度目であったが、ストーリー展開を熟知していたので度肝を抜かれることはなく、場面展開と監督の演出を、ヒッチコックのカメオ出演場面を含め、じっくり鑑賞できた。

精神異常者のアンソニー・パーキンスが10年前に亡くなった母親と会話を交わすシーンなどは今観ると有り得ない場面設定で現実味に欠け、やや陳腐な演出だと思った。そんな想像を逞しくするシナリオも「在り」の時代だったのだろう。

「捜索者」「間違われた男」「リバティー・バランスを射った男」で好演していたお気に入りのヴェラ・マイルズが殺害される主役ジャネット・リーの妹役で出演。今観ると引き立ての華の役であったのかと思う。

ジャネット・リー、33歳の時の出演、11年前の「若草物語」から女性は成熟するものだと変に感心した。同じ姓Leigh(リー)でもヴィヴィアンにはとても敵わないが(笑)。因みにヴェラ・マイルスは出演当時、ジャネットより2歳下の31歳。全盛期ではあったろう。

事件が起こるクライマックスのモーテル場面に至る前に、警察官の執こいジャネット・リーに対する質問追跡など嫌が上にも映画をクライマックスに向けて盛り上げんとするヒッチコック演出が健気で可愛い。

事件が起こったモーテルに近接して建つ不気味な2階建屋敷はNorth Hollywoodに位置するユニヴァーサル・スタジオ敷地内に撮影当時の状態で現存していて、スタジオ巡りツアーの目玉の一つになっている。他では「ジョーズ」の大きな鮫、「バックドラフト」の火災現場が目玉になっていた。30年前に息子を連れてスタジオを見学。白黒映画で観た迫力満点の不気味な屋敷(下記写真貼付)が、小さくて貧相な造りだったのには魂消た記憶がある。見学したのが昼間だったせいもあったろう。

(編集子)”この映画の結末は誰にも話さないでください” という煽情的な新聞広告が出た翌日、学校へ出てみたら、並んだ教室のすべての黒板に ”サイコの犯人はアンソニー・パ―キンズです” とでかでかと書かれていた。チクショー、なんて言いながらそれでも見に行った。クライマックスで椅子ががらりと回転して母親があらわれるシーンはさすがに戦慄した記憶がある。安田君と違って2度見る気は起きなかった。

俺の第二の青春ーその終着駅

青春とは、と議論があれば必ず引用されるのが、米国の詩人サミュエル・ウルマンの “Youth is not a time of life; it is a state of mind”青春とは人生のある期間を指すのでなく、心の持ち方を指すものである) というくだりだろうか。編集子は幸い経済的にも恵まれて中学からの一貫教育で育ち、受験地獄も経験することがなかった。特に大学4年間をワンダーフォーゲル部という理想郷に過ごすことが出来た。この時期を自分の青春時代、というのは当然であろう。しかしウルマンの言うように、それが人生のある期間を指すのではない、とすれば、人によっては第二、第三の青春を謳歌する幸運に恵まれることもある。それはまさに自分に起きたことだった。

1960年代、高度成長前夜の日本で、まだ数の多くなかった大学卒業者、特にいわゆる文科系の学生は多くは金融、あるいは商社を選ぶものが多く、メーカー、それもビッグビジネスでない会社を選択するものはあまりいなかった。自分は天性の天邪鬼的性格ゆえ、”あんまりでかくなくて確かな会社” と考えていた時、縁あって当時はまだ横河電機製作所、とよばれていた横河電機に就職ができた。この会社は当初から技術と職人芸を目指していたから、すぐれたエンジニアは数多くいたが、文化系の人間はあまりいなかったので、企業規模が拡大すれば、それなりの展望は大いにある会社だった。入社2年目、米国の計測機器メーカーの雄、ヒューレット・パッカードとの合弁会社(略称YHP)が設立され300人近い従業員がこの会社に “移籍” されることになり自分もその中に選んでもらえたた。しかし立ち上がりの3年ほどは苦境が続き、新会社から従業員を親会社にひきとってもらう ”帰籍” という屈辱の事件があった。しかしこのことによって、残されたYHP社員の間には強固な一体感が生まれ、文字通り社長から新人まで、”赤字解消”というゴールを目指して、”働き方改革” などは糞くらえ、の奮闘を重ねた。この時期を振り返って、後日創立以来初めての専務に抜擢された浅井修之は ”この会社には俺達の青春がいっぱいつまってるんだ” と言ったことがある。まさに自分にとって、文字通り 第二の青春、だった。数年して赤字は解消、その後は米国親会社の発展もあって順調に拡大し、現在の日本HP(合弁解消)が生まれる。

この過程で、”法文系大卒” がすくなかったことが幸いして、編集子は数多くの職場を経験することが出来たが、退職するまでのちょうど時間的に中点にあたる時期、営業部門にできた ”東京支社”という組織の長を経験した。その後、会社としてのYHPは順調に成長を重ね、編集子もその過程で幸い役員にも推薦され、いわばサラリーマン双六を上がっていく結果になったのだが、この ”のぼり階段” での自分には、浅井が言ったころの、”俺達の青春” という高揚感は全くなかった。自分で言うのもおこがましいが、この時期にいくつか手掛けたプロジェクト(人の恨みを買う結果になったものもふくめて)の成果はそれまでに闇雲にやってきたことよりはるかに会社の業績には寄与した、と言い切る自信はあるのだが、である。

ウルマンを再度引くならば、やはり青春とは人生の一時期、ではなくて、心の持ちよう、なのだという事を改めて感じる。自分の第二の青春はYHP八王子工場の片隅にはじまり東京支社の4年間で終わったのだ、と。

その4年間、数多くの人たちの支援をいただいた。その中での一つのグループが昨日、集まった。この席にいるべき何人かがすでに境を異にしてしまったのが何とも悔しい。曽山光明、坪内和彦、近野俊郎。彼らの御霊安らかにと皆で偲んだことだった。

後列左から田辺賢治、編集子、浅原弥生、木内和夫、前列左から天堀兵衛、菅野節子、田中一夫

野見山暁治展に行ってきました  (普通部OB 舩津於菟彦)

アーチゾン美術館へマリー・ローランサン展を拝見に参りましたが特別展として「野見山暁治展」も開催されていました。


野見山 暁治(のみやま ぎょうじ、1920年〈大正9年〉12月17日 – 2023年〈令和5年〉6月22日)は、日本の洋画家。位階は従三位。勲等は文化勲章。東京芸術大学名誉教授、文化功労者.

福岡県穂波村(現飯塚市)にて、炭鉱経営者の子として生まれる。東京美術学校(現東京芸術大学)入学当時は故郷の炭鉱を制作の原風景とし、その後12年間のパリ生活を経て、抽象画へと変化。帰国後は東京芸術大学で教え、美術学部助教授、教授などを歴任し、同大名誉教授となる。
2023年6月22日、心不全のため死去。102歳没。日本政府より没日付を以て従三位に叙された。ついこの間まで活動されていましたのに102歳で御逝去。
因みに最初の妻、内藤陽子さんはフランスに呼び寄せてわずか1年でがんを発症。闘病の末に早世した。陽子は内藤武宣(京都放送元常務、竹下登の娘婿)の姉であるため、武宣の子である影木栄貴(漫画家)とDAIGO(歌手)姉弟は野見山からみて義理の姪甥に当たる。

小生は慶応高校の新聞を造つて居たときか大学時代でも写真も撮っていたことから思わぬ事で新進気鋭時代の野見山暁治さんにお会いしています。そんなことで懐かしさも在りややわかりにくい抽象画ではありますが、今回堪能して参りました。

未来を占う空でした     (42 河瀬斌 )

先週訪れた山中湖で美しくも近未来の世界を暗示させるような富士の姿がありました:前夜燃えるような夕やけ、朝焼けに飛ぶ笠雲、二重の笠雲、などです。そのあとに霙まじりの大風が吹きました。
あちこちで民主主義が後退し、戦火と殺戮が拡大している世界に日本が巻き込まれないように祈ります。

 

(飯田)
傘雲が掛かる素晴らしい富士の写真に癒されました。
ダイヤモンド富士の写真は良く見ることがありますが、雲が掛かった富士山の写真は撮る人の気持ちが表れる気がします。

エーガ愛好会 (254) 誇り高き男

最近再放送の懐かしいエーガを改めてみた。先日の映画音楽ランキングでも出てきたこの曲のテーマは、僕らの年代の人なら必ず聞いたことがあるはずだ。当時はまだ、米国のヒット曲の日本語版を歌うシンガーも多かったが、雪村いづみはその代表格で、”シェーン” の Call of the far-way hills  は 遥かなる山の呼び声 というタイルで歌い、日本に紹介された時にはインストルメント曲だけだったこの映画のテーマも歌ったが、違和感のある歌詞だった。例によってグーグルは下記の通り簡潔に紹介している。

1956年だったか、と改めて驚くが編集子は高校2年生。フィルムをいつ、だれと観たのか記憶はない。トップシーンは牛追いの長い旅を終えてカンサス州のある街の外にたむろする,角の長い肉牛群のあいだを主人公のキャス(ロバート・ライアン)がゆっくりと馬を乗り入れてくるところから始まる。Long-horned Cow というのはテキサスで飼育されていたはずで(このことをうたったCW曲があったのだが曲名を知らない)この一団がテキサスから来たことが知れる。ジョン・ウエイン老成期の名作 赤い河 はやはりテキサスからカンサス州までのロングドライブの物語で、西部開拓時代、旺盛な開拓民たちの食欲を支えた肉牛の移動はハイリスクハイリターンのビジネスだったことがわかる。余談だが、やはりウエインの チザム はこの投機的ビジネスで成功したジョン・チザムを扱った話で、この時チザムが開拓したルートはのちのちまでチザムトレイルという名で呼ばれる、これも西部劇の定番的存在になる。

が、ともかく、この一団が街に入り、カウボーイたちによる一時的な景気を当て込んで、町ではカネ目当ての騒動が始まる。これを苦々しく見ている保安官のキャスは、その遠因が最近開業した店の派手なやり口であり、そのオーナー(ロバート・ミドルトン)が彼の過去とつながりのある男だと知る。その過去がどんなものだったか、はまだわからない。

一方、カウボーイの一人サッド(ジェフリー・ハンター、トップシーンで現れる一人だが、最初から因縁の在りそうな登場をする)が、キャスに、お前に丸腰で殺されたアンダースンの息子だ、と名乗って近づく。キャスはそれは全くの誤解だ、自分は丸腰の人間を撃ったことは一回もない、とこたえる。サッドはこの街に滞在すると決めて職を探すが口がなく、いろいろあったすえにキャスはサッドを保安官助手として採用する。サッドは依然、キャスを仇と考えていて、ふたりで射撃練習をしているときに彼を撃とうとするが失敗して逆に説教されてしまう。この間で、前の街でサッドの父親は銃を隠し持っていてキャスを闇討ちにしようとしたのだが、キャスが見破って射殺し、それが丸腰を撃ったと誤解されて前の街を出たこと、その背後に今度店を開業したバレット(ロバード・ミドルトン)と関係があったこと、がわかってくる。

キャスは保安官として店の暴利を食い止めるための手を打っていくが、それが邪魔になるバレットは殺し屋を雇ってキャスを付け狙う。キャスはその過程で受けた傷が元になって、緊張すると目がかすんでくるという保安官としては最悪の病気になる。バレットとのいさかいの間で、キャスを信用するようになったサッドがいくつかの乱闘の後、悪行を認めようとしないバレットが隠し持っていた銃で自分を撃とうとしたところを撃つ。周りの人間が、サッドが丸腰のバレットを撃ったと誤解する中で、サッドは死んだバレットの手に隠されていた拳銃を抜き出して見せ、納得させる。サッドの父親が実はバレットと同じように卑劣なやり方で自分を撃とうとしたのだ、という事実をサッドが納得したことを見届けて、キャスは恋人(実に懐かしや、ヴァージニア・メイヨなのだ)と町を去っていく。

この映画の題名である The Proud Ones を誇り高き男、と訳したのは納得できるが、かのクーパーの名作(同時にグレイス・ケリーの初西部劇でも有名)真昼の決闘 原題 High Noon の現地での宣伝文句はクーパーの役柄を the man too proud to run, すなわち誇りを守るために逃げなかった男、と書いている。サッドの誤解を解くために、無用な弁解ではなく結果的には自分を危険にさらすことで真実を教えたキャスの、それが彼の 誇り であったからだ(英語の題名が  ones  と複数になっているのは、ライアンとハンター双方を指しているからだろう)。ロバート・ライアンの略歴を見てみると、俳優として成功するまでに大変な苦労をしていることがわかる。ほかの役どころも考えてみると単なるヒーロー役ではなく、渋い役が多いことがわかる。人生の年輪、とでもいうのか、好きな俳優のひとりである。それと、ジェフリー・ハンター。捜索者 でもいい雰囲気の俳優だったが、惜しいことに42歳という働き盛りで脳梗塞のため亡くなった。どこかでも書いたが、ロバート・フランシス(ケイン号の反乱)とともに、惜しい男だった。