KWV36年同期の山室は大男だがその風貌に似合わない温和な男で、僕ら世代が小学校時代愛読した ”少年王者” のサブキャラクタを彷彿させるので、”ザンバロ” とあだ名されている。今は古都鎌倉で優雅に過ごしているのだが、昨日、電話があった。鎌倉の梅便りかと思いきや、開口一番、”おい、アメリカの民主主義はこわれちまったのかね?” という質問がきた。大手食品会社で要職をつとめ、そのレストラン業務進出にあたって先陣を切った男だけに、視野の広い勉強家からの議論である。電話なのが残念で、鎌倉へ行こうかと言ったら、今は観光客で混雑の上、コロナ再発の気配もあるので、来るな、とのことだった。梅が桜になるころには、という事で電話会議は終了した。
民主主義が死ぬかもしれない、という議論は ”もしトラ” 論に並行して盛んであり、民主主義の大本山であるアメリカでその危機がささやかれているのは周知のとおりである。短期間ではあったけれど、思い起こせばケネディ以来の ”よきふるきアメリカ” を味わうことの出来た自分にもよくわかる議論であるが、こと ”トランプによって民主主義が破壊された” という議論には組しない。詭弁めくけれど、小生は今現在、かの国の民主主義は前にもまして強固である、と思っている。なぜならば、民主主義の根底は要は全員が自分の意思によって為政者を選ぶ、ということにつきるのだから、単純に言って共和党支持者と民主党支持者が有権者の半分ずつを占めると仮定した場合、歴史的事実として議会の破壊とかそのほか明白な反社会的行動があるにもかかわらず、その半分の人間がトランプを選ぶ、という事が起きている以上、”もしトラ” 現象が起きたとしても、それはこの国の民主主義が立派に生きているということの証左ではないのか、と思うからである。
”民主主義” というのは、チャーチルが何と言ったかは知らないが、現在考えうる政治形態のひとつであり、それが生み出す政治の結果とは異なる。現在の議論は、要は ”もしトラ” の結果生まれると十分な確率で予想される多くの事象が現在民主主義国の常識や政策などに反するものになるだろう、という事であって、原因と結果の混同なのだ。そう考えると、問題は民主主義の手続きに従って行われた(現時点での共和党候補選挙に限れば過去形になる)選挙の結果をもたらしたのが、変な言い方だが正当性のある理屈―例えば経済問題とか移民問題などーよりも、”ディープステート” などというでっちあげや、マスコミとくにSNS文化を通じて出来上がってしまった反知性的な、いわせてもらえば知的な行為よりも一時的な感情に左右される大衆のセンチメントであることは確かだ。このこと自体は、そもそも 民主主義、というものが本質的に持っている問題であり、本稿で何度も私見を書いてきたが、”大衆の反逆” が引き起こした現象なのだと考える。
もちろん,小生自身は、老齢ではあるけれども(と言っても4歳も自分より若いのだ!)バイデンに組するものであり、トランプの主張には賛成しない。それにもかかわらず、”民主主義” を選ぶ以上、この ”大衆化” ”群集心理支配” という社会的、歴史的事実に向き合わざるを得ない。かてて加えて生成AIなどというモンスターが生み出された以上、その傾向はさらに強まるだろう。
僕は民主主義、を信奉する。しかしその結果生み出される社会が ”孤独なる群衆(リースマン)” が引き起こす ”大衆の反逆(オルテガ)” に堕落するだろうという不吉な予想は深まるばかりである。