富士山が見える朝です   (小学校クラスメ―ト 板橋喜佐子)

こんな小さな姿でも富士山には元気が貰えます、電車から見えるとその日は良いことが有るような。

(編集子)大田区立赤松小学校昭和26年卒6年2組。戦後の混乱はようやく一段落したものの、朝鮮動乱が始まり、新たな世界が始まったころ、遊び場はまだ焼け跡で(ここでよく 匂いガラス なんてものを探したもんだ。B29の窓ガラスの破片だ、なんていう説があって見つけると宝物みたいにしたりしたのを思い出す)、今は見かけることもないが ”コッペパン” に甘いだけの安ジャムがのっている、それだけで大ご馳走になり、北千束と大岡山の子供料金が50銭だった、そういう時代だった。GHQ(占領軍司令部)の押しつけ改革にあおられて教育現場にも混乱が絶えなかったあのころ、戦線から帰国し、新時代には新しい教育が必要と信じて教員免許を取ったひとりの熱血青年が僕らのクラスの仲間を育てた。旧態依然の古手教師とは子供たちとの向き合い方をめぐって真っ向から張り合い、噂では殴り合いも辞さなかったという ”会津っぽ” そのものの人、今の世の中にこそ求められる、まさに僕らの 恩師 と呼ぶにふさわしい人だった。その教え子たる僕ら2組はいまだに ”クラス仲間” と誇れる友情を保ち続けている。

そのクラス仲間の一人の筆者は小柄で、すばしこくて、ほがらかで、男の子だったらさしずめ 弾丸小僧なんて呼ばれていたかもしれない少女だった。彼女をはじめとして、お互い米寿をうかがう年齢になっても続いている小学校クラス会、というのは調べたことはないが慶応幼稚舎みたいな特例は別として、あまりないのではないか。春になったらまた誰かが言い出して集まることになるだろう。