11月タウンウオーク  (36 翠川幹夫)

明治丸のガイドはもとプロの造船技師ボランティアであった

今月のタウンウォークは新旧が重なる町、東京都清澄白河から門前仲町→越中島を歩いた。参加は深谷、遠藤、吉牟田、前田、鮫島、中司夫妻、翠川夫妻と、実に久しぶり、たぶん五色スキーの時以来と思うが高木が参加、合計10名。

10:30am 地下鉄「清澄白河駅」に集合、地上に出て直ぐの清澄庭園を一周し、今も残る旧東京市営店舗住宅が並ぶ清澄通りを南下、深川名代の えんま寺(名前忘れた)を経由、正午に門前仲町の赤札堂ビル最上階の中華料理店「東天紅」で、今回、はるばる岡山から夜行バスで上京し、参加して呉れた高木圭二君を囲んでの昼食となった。彼は終了後、再びバスで帰宅、現役時代の “両夜行日帰り” という荒仕事である。

昼食後、更に清澄通りを南下すること30分程で今回の目玉、明治丸とその記念館に到着した。明治丸は明治政府がイギリスに発注し、明治7年に竣工した鉄船(現在の船は全て鋼船)で、小笠原諸島の領有権確保に貢献したと記載されていた。今は東京海洋大学の構内の陸に上がって展示されておりガイド付きで船内を見学させて貰った。

(編集注:今回写真担当をさせてもらい、なれない仕事で疲労したのか、スナップをとりためたアイフォンを紛失してしまった。目下探索中なれど回復の見込み薄。よって写真は明治丸のガイドさんに撮ってもらった一枚しかない)

久しぶりにタウンウィークを楽しむことが出来ました。
企画、写真といつもながらお世話になりました。ありがとうございます。
明治丸の知識など全くなかったのですが、きちんと保存され、明治時代の方々の思いを改めて知ることが出来ました。 鮫島

設営等色々御苦労さまでした。天気にめぐまれ楽しいひと時でした。写真ありがとう。昼食時の会計残 402円は 27日の月一高尾山の会計に寄付します。

高木さん
卒業以来だったかもしれません。小生は五色は不参加でした。
お元気そうで何よりです。
せっかく上京し参加されたのに ゆっくりお付き合い出来ず
申しわけありませんでした。また機会をみつけ参加ください。
お元気にお過ごしください。   吉牟田

昨日は、お疲れさまでした。好天に恵まれ、明治丸の見学はなかなか楽しいものでした。
カメラ持参を頼まれていながら、メールを見落としていたことと標準レンズが故障し望遠レンズしか装着していないため、カメラを持っていきませんでした。
ごめんなさい。    深谷

早速に写真お送りくださいましてありがとうございました。
お天気にも恵まれ楽しい一日でした。清澄庭園に明治丸と素晴らしい企画でした。        八恵子

大杉谷大台ケ原の旅  (39 堀川義夫)

2019年11月6日水、かねてから念願の日本三大峡谷の大杉谷から大台ヶ原へ紅葉を楽しみに出かけました。朝、6時に新横浜発のひかりで名古屋、乗り換えて三瀬谷、そこから登山口まで予約制のマイクロバスで1時間半。12時少し前に到着。上手くできておる。天気は雲一つない快晴で言うことなし。天気は良いが谷筋には太陽が届かない!ここから桃の木山の家までコースタイム約5時間。下手をすれば到着は日没後になってしまう。途中景色は言うことなし!素晴らしい滝や川の流れを楽しみながら、結構頑張った!約4時間で到着。こんな奥地に、、、桃ノ木山の家は良い小屋でした。

11月7日木、今日も晴天。ありがたい!この辺りは日本でも一番の多雨地帯で先週までほとんど雨が毎日降り続いていたとか?今日はコースタイム6時間半、でも昨日の調子で行けば5時間半位で行けるのではとタカを括っていました、、、甘かった。沢筋はきつい。20m登って10m降る。足場は悪い。神経を結構使う。残念ながら紅葉は期待していたほどでなく悔いが残ったが滝の景観は本当に素晴らしい‼️尾根に取り憑いてからの登りは厳しかった。かろうじてコースタイム+休憩時間で何とか日出ケ岳に到着。疲れた‼️頂上で360度の展望を楽しんでいると何と!4年前に7日間掛けてテントで縦走した大峰山脈(奥駆 吉野から熊野への修験者の道)の山並みが全部見えるではありませんが!暫し感激して大休止‼️ のんびりと今日の目的地大台ヶ原の旅館へ2時過ぎに到着。

今日、11月8日は大台ヶ原を満喫しました。大台ヶ原は大きく東と西に分かれていて一般観光客は東大台を散策したり日出ケ岳を楽しみますが、西大台は利用調整地区と言って1日に30人しか入境できません。事前申請し予約して1000円送金し、事前に講習を受けなければなりません。実際には15分程度のビデオを見るだけですが、結構面倒です。
今日申し込んだ人は10人ほどだったそうですが、山中では3人しか会いませんでした。ゆっくり歩くと5時間から6時間位掛かります。静寂で落ち葉を踏む音しか何も音がしません。素晴らしい環境です。ゆっくり自然を楽しむには最適のプランでした。3時30分のバスで近鉄の大和上市駅まで2時間、近鉄の特急で京都へ行って新幹線で帰りましたが、家にたどり着いたのは11時を過ぎていました。疲れたけど実りある3日間でした。

 

”とりこにい” 抄 (3)  1年、夏

高校3年の暮れ、それまでの人生観をがらりと変えてしまった出来事に遭遇した僕は極めて不安定な心理状況のまま大学に進んだ。新しい環境への期待はそれなりに持ってはいたけれども、心の中の不安を拭い去ってしまうなにかが欲しい、という欲求があって、それを期待してKWVに入部した。新しい環境があり、新しい友人もできかけていた。それでも心の奥底にあるもやもやしたものが時として頭をもたげる。そんな心境だった1年の秋ごろだと思うが何となく書き綴ったものを 部誌として ふみあと というのがあることを知って投稿してみたところ、編集をやっておられた丸橋さんの目に留まり、なんと ふみあと10号 の巻頭に載るという光栄に浴した。振り返ってみてなんとも気恥ずかしい独りよがりの文章だが、あのころはこんなにもがいていたんだなあ、と改めて思う。

最後の夏合宿第八班でSLに美佐子を頼んだ

その ふみあと の78ページに小山田(横山)美佐子はこう書いている:

・・・・私の学生時代にはまだ真白いページが沢山残されています。その純白のページを ”やま” という文字で一杯にしようと思ってます。

ミサとは高校3年次に文化祭の委員を通じて知り合って以来の付き合いだが、入部のころの心情がこんなにちがっていたのかなあ、と改めて感じる。ご主人の横山さんは慶応高校からの先輩で家族ぐるみの親友づきあいを御願いしている。

 

急傾斜30度

 

“想い出”とは何だ

ふみしめたビヴラムの間からにじみ出る疑問を

俺はまた考えてみる

急傾斜30度

遠いコルへつづくトレイル

踏みしめても ずりあがっても まだつづくザレ道

にらみつけても けとばしても トリコニイに食い込む石コロ

俺はまた考えてみる 

”人間に記憶は必要だろうか”

澄んだ空には空虚 微風には虚無

カメラ―トの声の聞こえない孤独

泣こうと わめこうと もだえようと こびりついてはなれない ”想い出”

ー 逃避ではない山歩きがしてみたい

なにかの文章を思い浮かべながら

俺はまた 考えてみる

けとばしても ふみつけても トリコニイに食い込む石コロ

そいつに ”お前” と呼びかけたくなって

そっと草かげへ転がした俺

急傾斜30度

トレイルはまだ つづいている -

華麗なる転身 - IT屋から伝統芸術へ

蛹が虫になり、オタマジャクシがアマガエルになるのは大自然の営みであるが、俺たちと同じ世界で売れるの売れないの、ハードよりソフトだのとわめいていたはずの仲間が見事に変身をとげ、今や妙齢のお嬢様や妖気あふれるやんごとなき奥様がたから先生とよばれ、生け花は日本伝統芸術の師範となった。瞠目すべきかはたまたコンチクショーとうなるかは別として、とにかくその個展の会場へ年取った悪童が集まった。曰く 堀星峰個展 (案内にはもう少し違ってより悪童をくやしがらせるタイトルがあったが)、場所は銀座コリドー街とこれまたカッコつけた場所ではござんせんか、星峰の旦那。

旧名 堀義一と申しやす

話をききつけて先回ご紹介した HPのガダルカナル を戦い抜いた仲間たちが集結したがいま思い出してみると師匠からプロらしい解説もなかったし(ま、話しても無駄だと思ったのに違いないけど)、お弟子さんの美形がたとの談笑もなく、ま、個展を出汁にした飲み会の前哨戦だったようだ。何はともあれ、GOOD OLD DAYS と GOOD BUDDIES に栄光あれ !

考えてみたら作品の写真は一枚もない。ひだりから麻生、中司、藤田、堀、浅原、楠

 

 

 

外国語を学ぶということ 2

仕事を辞めてから何度か夫婦で海外旅行をする機会があった。アメリカには仕事の関係上行くことが数多くあったが、ほかの地域にはそれがほんの数回しかなかったので、やめてまもなく、まず、まだ半分現役で現地にいた大塚文雄をたずねてアイルランド全島をドライブした。アイルランドがEUに加盟する前のことだったが、これまでに経験したことのないほど、現地の人情に触れることの多い旅だった。ごひいき、ジョン・ウエインの西部劇には必ず善人役でアイルランド出身のわき役がいたが、まさにそんな雰囲気の、楽しい国だった。ダブリンで飛び込んだパブではアルコールのまわったアイルランド訛りに苦労したけれど、言葉について気を遣うことはなかった。

そのほかにもメキシコ、スイス、イタリア、スコットランドなどと、できるだけパック旅行を避けて気ままにいくことにしてきたが、一度大手の旅行会社が所有する船でライン河を下る、という旅にでかけたことがある。希望する日程では船が下りの旅を終えて上りになる順番だったので、ライン河遡上、ということになった。ただメインはあくまでドイツ。慶応高校は3年次に第二外国語の授業が必修で、一応ドイツ語を取ったし、多少の心得はあったものの、例によって即席のレッスンを何回かとって、船ならばクルーと知り合う機会もあるだろうし、多少は会話も試せるか、という希望を持って出かけた(旅客はすべて日本人)。

企画自体はよくできていて満足のいくものだったが,船上でドイツ語を試す、という機会は全くなかった。ドイツを旅行する旅なのに、ドイツ人は船長だけだったからである。コック、ウエイター、事務スタッフなど、会うクルーのほとんどが東欧諸国から来た人で、ルーマニアかとおもえばハンガリー、スロバキアなどなどで、共通語はブロークンな英語であった。

この旅で当たり前のことだが、ヨーロッパ、という人間の集合がここに確かにある、ということを改めて感じた。国境を越えて旅をし、仕事をし、生活することが至極日常な世界なのだということだ。ローマ帝国が建設されたころ、わが日本という国はまだ存在していない。そのころから絶えず離合集散と悲惨な戦争を繰り返してきた国々が今なお、自分たちの生存圏を守り、陸続きの国境がありながらなお母国語を守り続けている。そういう前提の中で異国に旅し、異国で生き、働くことが当然という環境がある。その中で共通の言語として英語が選択されている、というのはある意味不思議なことに思える。英国は欧州本土にはない。欧州本土の覇者は例えばフランスであり、ドイツであり、さかのぼればスカンディナヴィアの国々だったのに、なぜ、英語なのだろうか。

19世紀、陽の沈まない帝国、として英国があった。しかし同時に地球規模の帝国としてスペインがありポルトガルがありオランダがあった。その結果、世界の国々は英語圏、スペイン語圏、ポルトガル圏、というように色分けされているが、それらを越えて英語が世界語になった。これにはもちろん、第二次大戦後のアメリカが英語圏の国であり、そのプレゼンスがもたらした結果なのだということも大きな理由であるのは疑いがないけれども、それにしても、である。

世界で通用する ”ハム”語 による交流.交信後に交換するカードの一例

僕は中学のころからアマチュア無線に興味を持ち、細々ながら現在まで続けてきた。 ”King of hobby” と呼ばれるようにアマチュア無線の範囲は実に広いが、短波を使う部門では、電波の伝達の特性から、当然世界中の同好の士(ハム)との交信がメインとなる。戦前は通信機器自体の性能もあり、外国との交信はモールス符号によるものがほとんどだった。モールス符号、は文字通り符号であり言語ではない。しかしその基本さえ覚えてしまえば、世界中の相手と母国語には関係なく交信ができた。この世界ではモールス符号が世界語だったのだ(たとえば 数字の ”73” は、”またお会いしましょう、よろしく” を意味する)。

ところが第二次大戦後、電子技術の進歩のお陰でハムの通信機器も戦前とは比較にならないほど進歩し、通信の大半をモールス符号ではなく、通常の言語によるようになった。となると当然だがそれを何語でやるのか?という疑問が起きる。事実、10数年前くらいまでは、専門誌には フランス語やスペイン語での交信についての解説があり、簡単な情報交換はいくつかの主要言語でやろうではないか、という暗黙の了解があった。しかし現在ではこの種の記事はあまり目にしたことがない。ハムの交信は英語でやるのが常識になってしまったからだ。ここでまたアマノジャクが首をもたげてきた。英語でなく、相手の言葉でQSO(ハムの世界では交信のことをこう言う) をやってやろう! ということである。

こちらMSS会も健在 !

昨日の同期入社グループに引き続き、今日は ”YHP マネジメントサービス課” 通称MSSの同窓会として2日連続の昼酒となった。以下、報告と回顧。

YHPは創業直後、各種の問題に直面し、徹底したコスト削減という目的のため、それまでに使用していたIBM製会計機と横河電機のコンピュータによる生産管理システムは廃棄され、その責任者であった小生は職を失う羽目になった。その後いろいろな過程を経て、もう一度、自前のEDP (Electronic Data Processing 当時はITという用語は存在していない)を持とうということになり、再度、その任に就いた。自分では二度とやりたくないと思っていたのだが、当時の事情で断ることもかなわず、数人のいわば “同志” と準備作業に入った。

ただ、前回あまりにもハードウエア面に集中してしまった反省もあり、EDP という職場名には断固として反対し、MSSが誕生した。古いファイルでみつけた ”辞令” を掲げておこう。以下にも時代を感じさせるドキュメントである。

”同志” として糾合した安藤滋とか田中新一などとかなりまじめなフィージビリティスタディをやった。その表紙だけかかげておこう。

現状分析。HP本社への報告であるので英文になっている。 すべてマニュアルタイプライターで作成、トレーシングペーパを張り合わせてつくったもの。
こっちは日本側トップの説得用なので日本語。ワープロなどと言うものがなかった時代、3人の中で最も達筆の(故)田中新一が書いたもの。

それでも当初から自前のマシンを持つことは許されず、当時八王子市商工会議所が持っていたシステムセンタへ通ってプログラムテストをやり、本番の運用までまで同社に依頼する状況だった。その後MSSの技術面での実質的リーダーになった藤田、沢田、堀などと言う連中はこの縁からYHPに参加した。考えてみると、中途入社、職種別採用、という当時はかなり禁じ手に近かった入社である。

その後、彼らの活躍、HP本社からの支援もあり、当時IBMが最先端機としていたシステム370の最小規模モデル、370/115を何とか導入してもらった。今の若い人には信じられないだろうが、この最小モデルについていたディスク(当時すでにDASD=Direct Access System Device,なんていう、プロまがいの呼称があった)が75Mバイトある!といって興奮したものである。このシステムはHP自体が汎用(という区分がまだあった時代だ)コンピュータビジネスをはじめたため、そのモデル3000に移行するが、小生は後事を安藤に託してMSSははなれていて、その後のHPスタンダードによるグローバリゼーションには直接かかわっていない。この野心的なプログラム推進のため、社内外から人材が集まり、活気に満ちた、面白い職場として 俺たちのMSS が出来上がった。

前振りが大変長くなった。本日参加できたメンバーの写真を掲げておく。残念の極みであるが草創期の主力だった堀重敏が最近急逝。皆で冥福を祈って黙祷をささげた。

2019MSS会 八王子マロウドインにて

 

 

 

 

 

 

ハッキリ会 健在なり

1961年4月、横河電機は創立以来となる大量採用に踏み切った。高度成長の初期、日本の石油化学・製鐵など重工業の急速な発展を支えたのがいわゆるオートメーション技術であり、そのトップを切ってきた会社は創立以来技術最優先の社是に従って堅実な人的投資をしてきて優秀な技術系学生の確保には熱心であったが、合計18人という事務系学生の採用には当然議論があったと聞いている。この会社に事務系の学生などは不要だ、と広言する役員がいる、などという話もあり、採用された18人の間には、技術屋なにするものぞ、という対抗心が生まれたのは無理もなく、その故とは言わないが堅い、いわば体育会的結束を誇って団結していた。その会をなづけて ハッキリ会という。

それぞれの職場で ”事務系” の存在感発揮に奮闘した仲間も、いままでに鬼籍に入ったもの3名、病床にあるもの5名、などであるが、舟橋利信という絶対的世話役を得て年2回、旧交を温めてきた。今回は出席7名、昔に帰っての歓談を楽しんだ。

 

2019年 秋の日帰りW

不順というか異常というべきか、近年まれにみる悪天続きの秋だったが、恒例の日帰りW当日は晴れ、本部への申し込み時点では合計132人(実際には10名前後のキャンセルはあったようだ)、今回の最年長は32年の先輩各位であった。小生は第六班、弘法山コースに参加。リーダーが目下大活躍の伊川君とあって47年の猛者が勢ぞろい。かつて(質はともかく)こういう場には絶対的多数を誇ったわが36年卒・ナンカナイ会も時間の魔物には勝てず、その上今回は常連の翠川・岡・高橋がいずれも直前に都合ができて不参ということで、やや寂しい状況だった。大人数世代の掉尾を飾ったのが関谷君以下のメンバーで、まだまだ現役裸足の活動をしている連中がいるのは立派なものだ。

浅間山の急登 (フォト関谷)

コースは秦野市民に愛されているだけあって整備もよく、楽しい半日を過ごせた。集中地はこれだけの人数を収容するとなると候補地選定も大変だろうと世話役各位には改めて感謝。

弘法山あたり (フォト関谷)

台風の余波もあって、丹沢主脈縦走のパーティだけはコース変更を余儀なくされたということだが、ハードコースを元気に踏破したOB1年生2年生の諸君がそろいのライトブルーのユニフォームで一番最後に到着、KWV伝統の老 (俺たちか!)、壮・青の交歓の場となった。小生も顔なじみになった川上君たちと杯を重ねることができ、社会人第一段階での感想などを聞いて自分の入社直後のありようを思い出した。横河電機(当時はまだ 製作所 だった)創立以来空前絶後といわれた大量採用の年、同期入社の結束は固く来週はまた昼酒の会がある。

世話役の翠川がいなかったせいもあり、解散後のプランもなかったので第一便のバスに乗り、帰宅。実に9時に就寝、6時まで熟睡、結構な一日であった。

 

昨日はお風さまでした(編集注:原文のまま、意味不明。筆者酩酊か?)。お疲れが残っていらっしゃいませんか?皆様のご協力で素晴らしいワンデルングを楽しませて頂きました。またご一緒できる機会を楽しみにしております。    47 伊川

昨日は、快晴に恵まれ楽しい一日を過ごすことができ有難うございました。荒川先輩、岩田先輩の健脚ぶりに自分も2.3年後は同様に歩けるか、心を引き締めてトレーニングやらなければいけないと痛感いたしました。関谷殿、早速写たくさんの写真を有難うございました。 36 深谷

リーダーメールのタイトルのように春のような秋ワンでした。屈強な介護メンバーに守られながら丹沢の一角を歩くという贅沢な一日でした。有難うございました。   36 遠藤

前日の大雨がスッカリ好天に変わり 素晴らしい山行でした。 私も一抹の不安を抱えての参加でしたがやや復活の自信を得た山行で感謝してます。またお元気な大先輩からも まだまだ頑張らねばとパワーを頂きました。
伊川さん 小野田さん 関谷さん 他 幹事の皆様には準備会  何度もの調査行  本当に有難う御座いました。またご一緒させて頂くのをたのしみにしています。
関谷さん 何時もながら 早速の写真 有難う御座いました。 41 下井

秋晴れの中、楽しいハイキングになりました。 なんとか歩けてよかったです。
冠雪した富士山 間近で見れました。
関谷様 富士山はじめ、たくさんの写真ありがとうございます。皆様 ありがとうございました。     42 菅谷

大変お世話になりました。ガイドブックでは初心者向きとありましたが思っていたより楽な山ではありませんでした。

今年の夏の行事の案内では最近高齢化が問題とのことで迷惑をかけないように努力したつもりです。 年々同期の参加者が減りさびしい限りです。来年どうするか今回欠席の友達とも相談の上決めようと思っています。 33 荒川

 

 

”こんな日もありけり” 予録

(10月2日アップの記事について楽しい反応があった.少し前に小泉さんのご投稿がきっかけで高校同窓の関谷君、横河電機時代の親友との3人の楽しい邂逅があったりして、このブログとやらを始めてよかったと思えてくる。今後もこのようなセレンディピティ(?)を期待したいものだ)

(39 堀川義夫)

10月2日付のブログ見ました。びっくりの写真ですね。

①一番左端の彼は名前は忘れましたが、志賀から山田峠に行くときに「のぞき」右の谷へ滑落! 私にとっては強烈に印象に残る場面でした。そのあと、彼の持っていたテントのメインを持たされました。ジャイさんの陰謀だったのでは?

②その隣(片手をあげている)は岡田正大君で、彼とは都立青山の同期でクラスメイトでもありました。別に、打ち合わせて入部したわけでなく、当時の新人の多さからFCで一緒になるまで、彼が同じワンダーに居たとは知らなかったくらいです。彼は卒後、NHKに入りその後、結構長くイギリスのBBCに出向になり、帰国後は自然界のドキュメンタリー制作に敏腕を発揮し有名プロデューサーになりました。 残念ながら、業者間との交渉事が問題視され、責任を取り退職、その後はわかりません。良い男でした!

③私の右隣は伊藤さんと言いました。直ぐにやめていますので、印象にもあまり残っていなかったのですが、ある日、家内が福井に里帰りし、高校の同窓会に出席したときに、主人が慶應のワンダー出身で、山が大好きなんです。と言う話をしたところ、この伊藤さんが堀川なら知っているということで盛り上がったそうです。家内とは福井の藤島高校でクラスメイトだったわけです。

④2日目のテン場で(少し雪が降っていたと思いますが)ジャイさんが、しきりに杉本さんに明日の天気を聞いていました。杉本さんはしきりにテントの窓を開け、難しい顔をして天気図とにらめっこをしていました。天気図をかける先輩を見てびっくりです。そして杉本さんの予報が翌日、ぴったしだったのにびっくりしました。

このプランは、草津でなく万座に下山したと思いますが・・・?? 一枚の写真からいろいろ思い出せるものですね。楽しみました!!

(37 杉本光祥)

志賀高原越えのFCの写真懐かしく拝見しました。こんな時代もあったのですね。

天気図は手塚さんと気象協会へ通って習得したものです。その後、銀行の山岳会で活躍した時も役立ちましたが、今は携帯のインターネットで見れる時代、進歩したものです。

気象は65才の定年後、予報士の資格を取ろうと勉強しましたが、目が悪くなり、細かい資料が虫眼鏡を使わないと見えなくなり、周りで講習を受講している人を見ても目のいい、ぴちぴちの若い人(特に女性)で、とても老人が取れる資格ではないと断念しました。

先月も老骨に鞭うってマダガスカルへ行ってきましたが、緑内障の進行で、下りの段差が見えず家内に先導してもらう始末で難儀しました。でももうしばらくは山旅を続けたいと思っています。

(37 加藤清治)

10年以上前だと思いますが岡田正大君が突然訪ねてきました。小生がリーダーのプランに彼が参加していたのでで懐かしくなり会いに来たとの事でした。しかし残念ながら彼のことはまったく思い出せませんでした。精神的にかなり参っているようだったので一度メシでも食べながらゆっくり話しをしようと言って別れました。その後何度か連絡をしましたが取ることは出来ませんでした。その件をオカマには話しましたが、貴兄と同じく高校とは知りませんでした。出来たら会いたいですね。   (編集子注: オカマとは39年卒小祝君の愛称)
(39 堀川義夫)
加藤さん
私は高1、2年と同じクラスで、仲良くしていました。
彼の華々しいNHKプロデューサー時代は、はた目から見ても羨ましく、
もともと、ペンギンの生態のドキュメントなど自然派だった彼には最適の
仕事場だったと思います。しかしながら、週刊誌に傲慢プロデュサーなどと
書かれ、彼の人生は一変したのではないでしょうか?
オヤカタに会いに行ったなんてちょっとびっくりです。
私が彼との年賀状のやり取りをしていたのも何時までだったか?
多分、もう、20年以上前のことだったと思います。
従って、彼との連絡のつけようもありません。
彼が元気にしているのを祈るばかりです。

 

秋の苗場単独行 (39 堀川義夫)

何年ぶりかで中央アルプスの縦走をしようかと思い、宝剣小屋に予約し、空木の駒峰ヒュッテを予約しようとしたらもう小屋締めで、小屋泊まりでの縦走は無理になってしまいました。避難小屋利用、またはテント行も考えましたが、今夏の合宿以来体力に今一つ自信が持てないので諦めました。そうこうしている内に、台風の影響で中央本線、中央高速ともに不通で南、中央、北アルプス方面に行くのは面倒になり急遽、新幹線が動いている上越、苗場に行くことにしました。苗場の頂上は、10年ほど前に和田小屋から日帰りピストンで行ったきりで頂上に泊まるのは、何年前だったか記憶にないことです。何時もテントでしたが、最後の時は今はない遊仙閣に泊まり赤湯に下山しました。

10月16日(水)晴れ

朝の新幹線で越後湯沢⇒バスで二居へ⇒始発の田代ロープウエイで山頂へ。9時10分着。本当に便利になったものと感心です。素晴らしい。山頂付近はドラゴンドラで来た観光客で大賑わい。そういえば去年の同時期に我々絆会の古希の記念旅行で来ましたっけ。天気は良いのですが、この付近紅葉は未だで観光客は少しかわいそう! 更に観光リフトを利用して標高1500m辺りまで一気に行けます。9時45分歩行開始、しばらく、スキーゲレンデの中を歩き、標高1600付近から山道に入ります。何度も来ていますが、この道は初めて、和田小屋からのルートに比べ、解放感はないものの人が少なくちょっとクマが怖いけど、快適な登りで紅葉も段々良くなりゆっくりと3時間弱で神楽ケ峰到着。そのまま雷清水に下り昼飯です。

雷清水を後に頂上への急登です。悲しいかな結構てごわくコースタイム50分のところ写真を撮っていたせいもありますが、1時間以上掛ってしまいました。平成24年に木道が整備され歩き易くなっては居るのですが、悲しいかな歳をとるにつれ急登は応えます。でもまあ何とか頂上にたどり着きました。昨夜の星空を期待しましたが、どちらかと言うと雨模様で見ることは出来ませんでしたが、今朝は素晴らしい日の出を見ることが出来ました。池塘も綺麗です。

 

10月17日 (木)晴

今日は初めて秋山郷へ下ることにしました。苗場山頂の広さを感じながら、池塘の景色を楽しみながら、一人ゆっくり旅です。

 

幾つかある秋山郷への下山ルートの小赤沢ルートを下りました。これは栄村の観光協会の台風後の登山道の確認が出来ていないのでと言うアドバイスです。池塘地帯を過ぎると下降も急になりしかも石がごろごろしていて歩きにくいし、昨夜の雨の影響で滑る。でも何とかコースタイム通りに3合目の林道の終点にたどり着きましたが、ここから小赤沢集落まで登山道で1時間10分ですが、これも未確認のため林道を歩くように言われ、コンクリートの林道を1時間30分歩かされました。少しハードな縦走用山靴でしたので、これはきつかった!タクシーを呼べばよかったと後悔しましたが・・・後の祭りです。やっとの思いで小赤沢の楽養館と言う日帰り温泉に到着。鉄分の多い自噴の温泉で、疲れを癒してくれました。珍しい温泉です。機会があれば行かれることをお勧めします。

翌日永年登りたいと思っていた鳥甲山を目指していましたが、これも観光協会から登らないでくださいとのことで、やむなく諦め切明温泉の雄川閣と言う旅館に投宿です。川原を掘って温泉に入ることができるところです。これも台風の影響で水かさが多く、実行不能で野天風呂で我慢。内湯もなかなかでした。夕食は自慢のジビエということで鹿、イノシシ、クマの肉のしゃぶしゃぶ、そしてイワナの骨酒と言うメニューで旨かった! 特にクマのしゃぶしゃぶは初めてでしたが、適度に歯ごたえがあり。肉のコクもあり旨かったですね。ぜひお試しあれ!

この秋山郷、栄村は誘客のため色々と工夫しています。オンデマンド交通と称して、村内の送迎タクシーは格安、小赤沢から切明温泉まで20分ほどタクシーに乗って足った300円。極め付きは翌日の越後湯沢まで私一人を無料で送ってくれました。旅館のサービスでなく村のサービスだそうでありがたいことです。

10月18日(金)

朝10時にオンデマンド交通で越後湯沢まで送ってもらい「しんばし」で旨い酒とそばを食べて帰宅の途に。4時には自宅到着。ちょっと、鳥甲に行けなかったのは残念でしたが、良い山旅でした。