2019年12月 月いち高尾忘年山行  (39 堀川義夫)

 

12月の月いち高尾は、忘年登山、忘年会を兼ね、1年間無事に高尾に親しむことができたことを薬王院に御礼を兼ね参拝をここ3年してきました。恒例になりつつある忘年会はBBQを楽しむことにしていましたが、会場予定の日影沢キャンプ場が、台風19号の影響で使用できないため、今年は麓の「ごん助」で開催することにしました。ちょっと、BBQが出来なかったのが残念です。

この12月で月いち高尾は丸9年が経過しました。第1回の月いち高尾は、2011年1月17日に、ジャイさん、オヤエさん、翠さん、のりさん、川内さん、吉牟田さんの6名で1号路から高尾山頂上に行き帰路はケーブル利用で下山し、打ち上げは駅近くのお茶屋でお汁粉を食べたそうです。来年、2020年は記念すべき10年目に突入します。そして、オーナーであるナンカナイ会のサポート役をしています、堀川、岡沢、藍原がお引き受けして丸3年が経過しました。

この3年間は、高尾に固守してきましたが、2020年は少し幅を広げて何方も無理なく月いちに良き仲間たちと山行にそして時にはグルメなどを楽しむ企画をして行きたいと考えています。来年も皆様の多くの方々に参加して頂けるような、楽しい企画をしてまいりますので奮ってご参加ください。

日 時 2019年12月11日(水)

参加者 楽々コース 中司、吉牟田、後藤、岡、椎名、堀川 6名

稲荷山コース 深谷、鮫島、遠藤、菅谷、町井、三嶋、河合、武鑓、藍原、久米、久米行、伊川、岡沢 13名

ごん助のみのコース 船曳、中司八、相川、川名 4名 総計23名

 

10時に登山口駅に集合。楽々コースは、ケーブルが年末の総点検で間引き運転の為、リフトを使って登ることにしました。これが暖冬のせいで本来なら紅葉はとっくの昔にお終いのはずが、まるで紅葉最盛期の感じで、名残の紅葉を楽しませてくれました。薬王院参拝、高尾山頂上へ。ゆっくり来たつもりでしたが、11時40分ごろに頂上到着。稲荷山コースは13名で順調に頂上を目指し、12時15分ごろ頂上着。全員合流して、集合写真を撮り、再び、分かれて2時30分までには登山口駅前に再集合ということで、楽々コースの6名は4号路からケーブル駅へ。

稲荷山コースの面々は、薬王院参拝をして下山。たまたま、ケーブル駅手前で全員が再集合したため、編成替えをしてリフト下山組(8名)と琵琶滝へ下山するコース(11名)に分かれて下山。全員時間前に到着。「ごん助」だけの参加者も集まり店のマイクロで「ごん助」へ。

なかなか趣のある古民家風のたたずまいの「ごん助」は炉端焼で焼き物、飲み放題、税込みで6500円、皆さん、2時間結構飲みました。帰りは高尾駅まで送ってもらい、解散! 飲み足りなかった何人かは、てんぐ飯店へ・・・(番外編)

ごん助での大宴会は好評だった

(久米行子)今日は天気も良く、温かい12月とは思えない山に行くには大変良い日でした。そしてごん助のお料理もお酒も美味しくし幸せな一日と思っておりましたがいよいよ呆けが始まって最後に忘れ物をいたしまして皆様には大変ご心配をおかけいたしました。大変、申し訳なく思っております。

幸いあのマイクロバスにてお迎えの方たちとごん助に戻り、今度は相模湖迄お迎えに行くバスにて高尾口まで送って頂きました。なんとか貴重品が入っているバッグも戻りほっといたしました。

権助のお店の方には親切にして頂きまして感謝の気持ちで一杯です。2019年最後ののチョンボだといいのですけれど・・・皆様良いお年をお迎えくださいませ。

老け込むのはやめて、せめて月に1回、高尾山くらい歩かねえか?と同期の連中によびかけて、ま、5回も続くかなあ、などと思っていた勝手連の集まりがもう10年とは、まさに驚きであり、嬉しくもあり、また代を越えていろんな仲間が増えて行ってくれることには感謝の気持ちしかない。堀川君はわれわれを オーナー と呼んでくれているが、そんなことはともかく、10年を機に、さらに若い世代の諸君が参加し、この企画がOB会の公式行事のスぺ―スを埋める存在になってくれることを楽しみに待っている。ホリが主宰してくれてからは行事の幅も増え、バラエティに富んだ、素晴らしいものになってきた。

 

2019年年末日平会  (普通部OB 船津於菟彦)

後列左から河野、中司、片貝、高山、田中新弥、後藤、前列岩瀬、日高、米井、岡野、田中ゴンべ(本名思い出せず)

今回は12月12日の開催となった。11名参加の所、大森さんが急に体調を崩されドタキャンで10名参加。最後に米井明治屋会長が姿を現し、記念撮影に納まった貰う。なお、本会の存在を知って片貝さんが初参加。

マネジャーの采配でドタキャン分は当日にもかかわらず、キヤンセルOK。
皆様、吞み放題でしたがそんなにの吞まず、食欲もほどとぼ、美味しい料理でした。レイワもいよいよ終わり、元気に過ごすことが出来て何よりでした。また来春参集するのを愉しみにしています (編集子 注 レイワも終わりというのは意味不明。レイワ元年も、であろうと解釈)。

尚、我らが香山先生が逝去され、その追悼文が「三田評論12月号」に掲載され居ますので、添付致します。いよいよ、教えを得た先生方は皆様先に逝ってしまったようです。残された物が一日でも長生き致しましょう。それが恩返しだと思います。

20191213c

岡野幹事長ご苦労様でした。

編集子解説:日平(ひびら)会とは、昭和26年普通部卒業生の私的な集まりである。もともと理科好きとか、そことなく変人の多かったC組の連中が船津於菟彦の呼びかけで開設、B組のワル大将日高健郎がひいきにしていた日平亭なる居酒屋で年数回集まってきた。小生も引退後誘われて参加、以来毎回参加している。同期生であればだれでも歓迎するので、希望者は終身事務局長岡野嘉久あてご連絡ありたい。連絡先は yokano@ii.em-net.ne.jp

日平亭が休業した後、場所を帝国ホテル三田倶楽部に移してやってきたが、メンバーの植田新太郎が帰天したあと、米井元一の好意で京橋駅直結のレストラン ”モルチエ” で今回開催、以後ここがフランチャイズになるようだ。

 

 

令和元年掉尾の大ニュース! 相生経済学博士誕生!

1982年、YHP(当時)は好業績のもと、創業以来空前の大量採用に踏み切った。この年の新規採用者は時代の明るさそのものを反映して明朗、積極的かつ個性的、活動的で、誰が名付けたか ”動物園世代” と呼ばれ、90年代の業績拡大を支えた。

その世代も多くは第一線から引退する年齢になり、第二の人生展開にかかっているわけだが、その中にあって再び大学に学び、自身の企業人経験を軸についに博士号取得までやってのけた仲間があらわれた。入社時点から編集子の部下であった、その男、コ―セイこと相生公成。 小柄ながら機敏なラガー,たくまざるユーモアをもち宴席の盛り上げ役、個人的にはいろいろとチャレンジを重ねた苦労人でもあるのだが、まことに失礼ながら、経済学博士、などというイメージからこれほどかけ離れていたと言わざるを得ない人物であるということがまさに快哉を叫びたい、まさに年末を飾る嬉しいニュースとなった。以下、本人からのメールを紹介する。

2006年に社会人枠で中央大の経済学大学院に入れて頂きました。それから、紆余曲折がありながら、中央大学の山﨑朗教授に指導を頂き、12年かかって2018年3月に授与することができました。12年もかかっているので何度も挫折しかかりましたが、恩師である山﨑先生に動機づけられ、おだてられて何とかゴールまで辿りつくことができたという感じです。論文そのものは、提出期限時間切れで、先生の支援も及ばず100ページ超の誤字脱字満載のものです。中央大学の権威を落とすことも心配するような内容です。なので多言はせず、少数の仲間にしか話をしていないです。
私の論文は、勤務させて頂いた企業での経験をまとめたものといって良いです。主張は、IT産業エコシステムにおいて各IT企業のポジショニング戦略が重要だということです。当たり前の話なので、マーケティングの専門家の方からは、何言ってんのといういうような話だと思いますが、富士通やNECといった、製品からサービスまでを幅広く提供するビジネスモデルを批判したものです。特にクラウドサービスがプラットフォーム化した現在、各社の優位な特徴を活かす分野に集中することが重要だと主張しました。
論文の構成は、始めにということで、クラウド時代の到来とITビジネスの変化をまとめました。その後、1、大手IT企業のサービスビジネスシフト、2、モバイル時代の到来とIT産業エコシステムの変化、3、総合商社が取り組むITビジネスとIT子会社の変化、 4、クラウドの台頭を受けたDELLとHPに見られた製品企業への回帰、5、まとめとして、日本の大手IT企業の成長戦略を例にしたエコシスエムでのポジショニング(製品を辞めてSIを中心としたサービスに特化した方が良い)といった内容です。
何れも所属した会社での仕事を通じて感じた気づきを先生のアドバイスを頂きながら、過去の研究を参考にしてまとめたものです。その意味では、HPでの経験、CSKがSCSに買収された経験、DELLのEMC買収事案などが生きました。次回、もし書くチャンスがあれば、最後の会社となったTCSを材料にします。TCSは衝撃的でした。このように、論文というよりは、雑誌記事的なものかもしれません。内容が陳腐なだけでなく根っからの照れ屋でもあるため、ブログへの掲載はちょっと遠慮させてください。

 

論文の表紙。すばらしい。

自分は9月末でタタ・コンサルタンシー・サービシズを最後に会社員は退職し、私も若い企業や地方支援や創生をしてみたいと考えています。最後に山﨑朗先生 https://researchmap.jp/read0162740/ を紹介させてください。

山﨑先生は、地域経済の専門家です。しかし、専門外である、私のIT産業に対する研究活動だけでなく誤字脱字といった文章の書き方までも熱心にサポート頂いて感謝しかありません。先生は、地域経済の専門家として、地方創生に積極的に取り組まれ、『 地域創生のプレミアム(付加価値)戦略』や、『地域創成のデザイン』といった著書があり、縮小する日本経済の将来に向けて提言を行っています。もし、宜しければ、本も読んでみてください。
本人は謙遜しているが、論文は下記を参照の上ご一読ありたい。本人はメールの中で白状しているが、天下に名高い悪筆家であり、上司である小生にも彼の営業報告を判読するのは実に大変なことであった。論文が (多分)MSワードで書かれていなければ山崎先生もお手上げであったろうことは想像に難くない。

 

(木内和夫)生ちゃんのdoctoral dissertation、みつけました! 

「クラウド時代における総合型 IT メーカの戦略転換 ―― DELL Technology  HPE における製品回帰戦略の分析―― 

https://chuo-u.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_action_common_download&item_id=9228&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=21

 なお 相生さんのメールアドレスは  koaichu@gmail.com です。

(菅井康二)昭和に生まれ育ち平成をなんとか凌ぎ令和迄生き延びてみると「あの相生ちゃんが経済学のドクター!」なんて驚天動地のニュースに接することになるとは…(爆!)いづれ「Giさんの会」に相生先生を招聘して御高説を賜りたいものです。

(麻生洋) 私が3000時代に彼の日報で指導した事も今回の博士号取得に役立っている?としたら嬉しい事です。

(坂東正康)「男子、三日会わざれば刮目して見よ」(三国志演義)

末筆ながら、再度、コ―セイの快挙に乾杯!

気がついたら20年!

滅多にないことなのだが、夜半、目が覚めた。

ミステリ小説にはときどき、something that keeps you awake at midnight などと言う表現が出てくる。主人公(つまり、多くの場合、いいやつ)はここで何か、解決のヒントを得たりするんだが、寝る直前、風邪対策に飲んだ高清水が多すぎたかな、などと思っているうちに、ふと気がついた。退職して丁度20年が経過した、という事実である。20年。十年一昔が2回。これは事件ではないか。

1999年10月31日、が僕のサラリーマン生活終了の日である。あと3年、勤務を続けることは可能だったが、そんな気は全くなくなっていた。親会社ヒューレット・パッカードの5代目新社長フィオリナが初めての海外視察で日本に来る、というので滞在中のアテンドをと請われてほぼ1月、出社はしていた。その来日が実に退職の翌日だった、ということが僕にとってはとても暗示的である。

HPと横河電機との合弁会社に勤務してから、創立者ヒューレットとパッカードの経営哲学と、直接話をしたのは数回に過ぎなかったがその人間味とがそのまま僕の会社人としての基盤になっていた。その経営手法は HP Way と呼ばれてその存在と堅実な業績がHP社を常に America’s Best Companies という優秀会社リストのベスト10入りを約束していた。しかし皮肉なもので、HP社の拡大そのものが足かせになり、HPWayはグローバリゼーションなる魔物の前に形骸化して行く。経営数字だけが我が物顔に徘徊する俗称エクセルマネジメントという現実の前には実践は困難となり、言ってみれば歴史教科書の初めに登場する聖徳太子の詔のようなものに棚上げされていった。

歴史の前に一個人の存在は無力であり、現実は受け入れなければならないのだが、こういう自分が信じていたものの崩壊にあたってみて、気障にいえば、滅びの美学みたいのものが心の中にわだかまるようになった。愛読していた司馬遼太郎の創造した土方歳三の生き方が自分の道だ、と思えて来た。仕事を辞める、信じたものに殉じる、という決心に導いたのが、この5代目社長の登場だった。多くを語るつもりはないが、彼女が目指していた数字と効率と配当の大きさだけが支配する世界、そのなかで毎日を消化する、という選択肢は僕にはなかったのだ。

しかし美学なんぞと言ってみても退職後の現実は避けられない。年金生活でもなんとかなる、という見通しがなければ贅沢は言えなかったはずだが、幸い、当面の心配はなかった。とすれば、あとは残された時間をどう過ごすか、という課題だけであった。やめて2,3年の間は外資系企業といういわば日本経済の鬼っ子的存在で得た経験を何とか世に伝えたい、という欲望があった。その一つとして同じ境遇にいた後藤三郎と二人で本を書いた。それとは別に、僕が見つけた、アメリカ社会の現実をつぶさに書いたある本の翻訳を出そうとひそかに計画し、中学時代の親友で慶応高校の新聞 ハイスクールニュース の仲間、当時は出版界でベテラン編集者として名を挙げていた藤本恭に仲介を頼んだ。どうやら何とかなりそうになった時、何と藤本が病を得て急逝してしまいこの話はなくなった。天の配剤、というのはこういうこと言うのだろうか。なぜなら、この挫折が結果的にはその後の僕の生き方を決定したからである。

変な野心や夜郎自大の驕りを捨て、のんびり過ごすさ、という帰結であり、それはよきKWVの仲間との時間を生きる、ということだった。世の中の多くの場合、旧交を温めるということはただ単に good old days への回顧だけに終わるのだろうが、僕らが恵まれているのは、同期や先輩のみならず、現役時代には知り合うこともできなかった後輩たちとの交流、すなわち現OB会を通じて常に何か新しい知識や刺激を得ることができることだ。最近の新しい仲間はすでに孫世代、それより若い世代になる。彼らにとってはうるさい、時代遅れの老人とのつきあいとしか思えないだろうが、いずれ、彼らも同じ境遇になるということで勘弁してもらって、ここではただ、日々、新たに生まれる友情に感謝をするだけだ。改めてこの組織を作られた妹尾さんの決断とそれを支えられた森田さんをはじめとする創業時の方々に深甚なる敬意と感謝をささげたいと思う。

・・・・などと思っているうちにも一度寝込んでしまった。目が覚めたら7時、なんだかいつもよりさわやかな朝だった。

2019 忘年ゴルフの会

当日、府中カントリは紅葉の盛りだった

37年菅谷国雄君主宰の恒例のゴルフ会が12月6日、府中カントリクラブで開催された。今回の参加は34年(アサ会)組をトップに31名。若手の間ではゴルフ自体が下火なのかもしれないが、参加数があまり増えないのが残念だが、いつも通り、和やかな1日だった。年齢を考慮して80歳以上はゴールデンティからのティオフとなったのもやはり時の流れであろうか。今回は常連の奥様方がそろって都合がわるく、女性参加なし、世にいうスタッグパーティであった。

優勝は予想通り37年の矢部精一、アウト44イン43、グロス87でBGもかっさらったのは見事というかコンチクショーというべきか。2位はグロス95で50年家徳洋一、3位は同じく88で36年浅海昭。80台がふたり、90台が6名で後は推して知るべし、編集子はなんとOBを4発という惨状、かろうじてライバル37年の斎藤達の不調に救われBBメーカーは救われたものの、消化不良の1日。

この会はカメラマンを特に設けていないため、プレー中の写真は皆無。主催者の写真をもって報告に代える。次回は専門カメラマンを指名しておきたいところである。

代わりにクラブ自慢の紅葉の一端として練習場わきの1本を紹介しておく。今回の台風の影響もほとんどなく、来春の桜が楽しみである。

なんせ寒い1日だったので、次回はもう少し早い時期にしようかと主宰者は考慮中のようである。来年の再会を待とう。

後藤三郎君が集合写真を送ってくれたので追加する。寒さがうかがえる1枚だ。

“とりこにい”抄 (4) 鹿島槍 初冬 

1年の初冬11月。田中新弥とふたりで鹿島槍―針ノ木を歩いた。

この年、浦松佐美太郎が ”たったひとりの山” という深みのある本を書いた。タイトルはもちろん、この本から借用したものだ。

 

”たったふたりの山”

 

俺と貴様はそれをもとめていた

それを求めて俺たちは嵐の長ザクをかけあがったのだ

黒部には白いガスが詰まり 夜 星は蒼く凍てついていた

”ふたりっきりの山!”

 

”ふたりっきりの山”で

俺はなお ”なにか” をもとめた

素手でステンドグラスをぶち割ったときのような

なにかを俺は吸い込みたかった

そのために俺は貴様と急坂をよじ登って来た

だがハイマツを吹き上げる黒部のガスの晴れるたびに

俺は眼を凝らした - あれは人じゃないか……

 

しかし あるのは岩尾根

ただつづく岩の尾根

ただつづく岩の堆積

人間という奴はただ俺と貴様が立っていただけ

選ばれたふたりがいるだけだった

その空気を吸うたびに 貴様はそっと微笑した

 

しかし それなのに

霧に包まれた樹林の間からはるかに渡ってきたあの呼び声を

アラインゲンガーのうつろなコールを

俺は なぜ 懐かしく聞いたのだ

なぜ 貴様を制して耳を傾けたのだ

ビヴラムをきしらせて小屋に駆け込み

(おい いないぞ)

すでに去った人をいとおしんだ俺

 

”たったふたりの山” そいつをもとめた俺が

もとめたのは ひったくりたかったのは 

”山” ではなく

”人間” ではなかったのか

フオッサマグナをふきぬける初冬の風

立ち尽くす俺

貴様のコールに応えたのは

篭川のガスと遠い剣の照り返しだった

 

今日、小生は82歳の誕生日を迎えた。もう剣を見ることはできないが、60 年前の日の、あの嵐の向こうに聳えていた雄姿は今なお忘れられない。

鹿島槍南峰でのふたり

 

 

 

懐かしい写真みつけました! (42 田中ひろみ)

常日頃 Circle be unbroken 楽しく拝見しております。

たまたま 三田評論のデジタル版を見ていましたら以下の記事を見つけました。1月号で実際の記事を見ていたのですが、アナログなのでお送りしにくくそのままになっていましたがデジタル版で見つけましたのでお送りします。

39年卒の方々の卒業式の日だと思われます。懐かしい、若いお顔が見られます。

蔦谷さん、竹チョンさん、近藤さん、西澤さん、長谷川大二さん などのお顔が見えます(私のわからない方も)。景色も60年近く前で懐かしいと思いました。

師走に入り何かとあわただしいころ、どうぞご自愛くださいませ。

https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/post-war-pictures/201901-1.html

2019年11月 月いち高尾 (39 堀川義夫)

11月の月いち高尾は、10月が台風の影響で天気は良かったにも関わらず、生藤山のリベンジがかなわず中止になった為、久しぶりと言った感じで開催されました。4,5日前から開催日の天候が心配され、実施するのか? との問い合わせもありましたが、私の判断で決行することにしました。それでも、当日はお出かけ時間に雨が降っていたためか、3人が中止にする旨連絡があり、実際に橋本駅に私が付いた時点では結構降っていました。

長老ご夫妻、相変わらずの健脚ぶり!

当初は25名の参加予定でしたが、19名の参加者になりました。予定通りのバスに乗り草戸山に向かいましたが、そのころからラッキーなことに雨も降らずに終日過ごすことが出来ました。

登山口近くの紅葉

草戸山は町田市の最高峰の山で標高364m、麓にはキャンプ場など併設した青少年センターがあります。頂上の手前には境川の源頭もあり自然豊かな静かな山です。予定通りに頂上に着き、昼食後下山開始。いわゆる東高尾山稜コースを下っていきます。高尾までのコースタイムは約2時間半ですが、意外に地図には表れない大小の起伏があり、また、前夜の雨の為登山路が滑りやすく大分時間がかかりました。途中の四辻で6名が高尾登山口駅へショートカット、残りは元気に高尾の何時ものてんぐ飯店に直行、16名で楽しく打ち上げすることが出来ました。結局、雨具を付けることなくわずかにカップルの2人とすれ違うだけの我々だけの静かな登山を楽しむことが出来ました。

日 時 2019年11月27日(水)

参加者 中司、吉牟田、深谷、鮫島、後藤、遠藤、平松、小泉、船曳、船曳愛子、町井、三嶋、蔦谷、武鑓、藍原、柏木、相川、岡沢、堀川   以上19名

スー・グラフトン 全巻読了

大分前の本稿で、アメリカの女性ハードボイルドライター、グラフトンのことに触れた。

以前からオヤエがこの分野での女性作家、例えばサラ・パレッキーとかルース・レンデルなんかの翻訳と一緒に収集していたので、僕も散発的にグラフトンものを拾い読みはしていた。それがどういうわけか翻訳の出版が途絶えてしまい、二人してどうしたんだろうと思って出版社に問い合わせたが、明快な理由は教えてもらえなかった。翻訳についての何か事務的あるいは法的な問題ではないかと想像はしたが、またまたアマノジャクが頭をもたげ、それなら原書で読めばいいんだろうとアマゾン頼りに A から始めたところ、まるで申し合わせたように彼女の早すぎる訃報に接した。

グラフトンはアルファベットシリーズとして ”アリバイのA (A is for Alibi)” から始まる Z まで26冊を書くことを約束していたのに、何という運命の皮肉か、25冊目の ”Y is for Yesterday” が最後になってしまった。あと一冊でライフワークが完了するという時点でのエンドマーク、本人もさぞ悔しかっただろうと、暗澹とした気持ちになった。

ともかく、問題の ”Y” はこの夏には入手してあったのだが、そのタイトルに The final Kinsey Millhone Mystery  と書かれているのを見て、しばらく頁を開く気分にならなかった。それでも年を越すのはいやだったので、10月末から10日ほどかけて読み終えた。勿論会った事などあろうはずはないが、(スー、読み終えたよ、ありがとう)と言ってやりたい気持である。

25冊読み終えて、当然ながらオヤエから、”それで、どれが一番よかった?” と聞かれたが、返答に困ってしまった。同じ作家を読んでいれば、中には強烈な印象をのこしたものや、トリックの巧みさに驚愕したりするものが当然ある。僕の場合、それはクリスティでいえば ”アクロイド殺し”、アイリッシュなら ”幻の女”、マクドナルドなら ”さむけ” というふうにすぐでてくるのだが、このグラフトンシリーズにはそういうものが全く、ない。それでも、単なる意地や、英語の勉強、と言った動機を越えて、どうしても最後まで付き合おう、というものがあった。それはなんだったんだろうか。

ミステリ作品の基本はもちろん ”Who’s donit ? (誰がやったのか)” だが、話には ”How’s donit ? (どうやって殺したのか)”、それと ”Why donit ? (なぜやったのか)” が書き込まれる。クラシックの絶頂期にはこのなかでも ”How ?”  つまり奇想天外なトリックをしめすこと、現代の警察ものなどででてくる用語でいえば MO (modus operandi) を主人公が神のごとき推理によって解決するところが作家の腕の見せ所だった。この推理の在り方がより現実的な行動に置き換えられたのがハードボイルド作品であり、その過程に引き込まれ、興奮し、同期化することが読者であることの醍醐味なのだ。だが、この25冊を読む間に、こういう知的興奮を覚えた記憶がないのである。

それではグラフトンは読むに値しなかったのか、と言えばもちろん、そんなことがあるはずはない。考えてみると、僕がこのシリーズにいれこんだのは、トリックのわざとか、ストーリーテリングの巧拙とか、文体とか、そんなことではない。それは80年代のカリフォルニア、まだ電子メールも携帯電話もなく、確かに人種問題なんかがありはしたものの現在の混迷とは全く違った、good old days とは言えなくてもあの陽光、微風、それといかにもとあっけらかんとした ”アメリカ人” が醸し出す、”これがカリフォルニアさ” といえたころ、短い時間ではあったがそれを満喫できた自分の過去をたどることを可能にしてくれたのがこの25冊の、ミステリという形をとってはいるが、言ってみれば ”あのころの良きアメリカ” へのオマージュであったからではないか、と思えるのだ。

25冊すべて、難しい謎解きや奇想天外なトリックや暴力描写があるわけはなし、MOと言ったってそこは銃社会のこと、拳銃以外にはほとんど見るべきものもない。それでも、独立心そのものと言ってもいい、中年に差し掛かりかけているカリフォルニア・ウーマンの生活パターン、女性ライターらしく登場人物のファッションのことこまかな描写、シリーズもの特有の常連バイプレーヤへの親近感、さらに言えば僕と同じにワインといえばシャルドネしか飲まないキンジー。そんなものが混然一体となったおとぎばなし、というのがこのシリーズのような気がしている。翻訳が R までしかないのが残念だが、ブックオフあたりで探せば文庫本はまだまだ手に入る。ぜひともご一読をおすすめしたいものである。