KWV 印の ジン て知ってた ?

40年来通っている床屋へ散髪に行った帰り、ほぼ3か月ぶりに旧居にいたころ通っていたバーへ顔を出した。2時間半、ほかに来客なし。ギョーカイの大変な苦境ぶりを実感。定番のジントニックなんか作ってもらってるうちに、カウンターに KWV のマークがあざやかなジンがあるのに気が付いた。南アフリカのブドウでつくった逸品だそうだ。隣に並んでいたビーフイータと比べてみて(写真ではわからないが、その瓶自体が革のベルトが巻いてあったり、大層なつくりでいかにも高価)これと比べて高いの?と聞いたら、ママいわく、”そりゃあ、もう” と。すでに自分で決めている定量は飲んでいたが、ままよとこれで作ってもらった。
酒の味を語るような資格は自分にはないが、ビーフイータやらボンベイやらスミルノフなどというなじみとは全く違った味だったことは確か。うまく表現できないが、なにかとても硬い、口の中になにかが突っ張った、というような感じ。酒の通の方のお話を聞いてみたい。
KWVというのは醸造元の名前かと思っていたが、南アフリカの言ってみれば農協みたいな団体だそうだ。国分商店、とママが言っているように、35年の森田さんが同社に勤務中KWVという販売元を発見して輸入され、それ以来、KWVのワインのほうはワンダー仲間ではよく知られるようになっている。”そりゃあもう” がいくらだったか、単価は聞き忘れたが、そんじょそこらの酒店にはないことは確か、というところで引き揚げた。帰路、足もふらつかず、電車でも眠くならず、快調。KWVにこだわってるうちに肝心の名前を忘れてしまったのでママにメール。返信を添付。
写真を添付しました。
クラックスランド 国分グループ本社株式会社が輸入元です。

 

秋深まる涸沢から穂高へ  (39 堀川義夫)

最近は、何をするにも、何処に行くのもこれが最後になるかもしれないということが何時も頭の片隅にあるような気がする。今回もそうだ。10月1日の夜行バスで新宿から上高地に向かった。目的は涸沢の紅葉の最後の見納めと奥穂高の久しぶりの登頂。そしてテント泊での単独行の最後になるかもしれない・・・と思いながら・・・来年のことはわからない! 10月2日(金)朝5時過ぎにバスは上高地に着いた。3列乗車のバスはゆったりしていてしっかりと寝ることが出来、直ぐに涸沢に向けて出発できるのは、本当にありがたいことである。

10月2日 (金) 晴れ

目標は11時30分前に涸沢に着くこと。天気は雲一つ無いドピーカンで言うことなし、でもザックは重い!フル装備で55Lのザックが目いっぱいである。16kgある。これだけ背負うのもこれが最後になるかもしれないと思いながら涸沢を目指す。何度この道を歩いただろうか? 歩きながら走馬灯のように様々なシーンが思い出される。明神、徳沢、横尾と景色を楽しみながら快調に歩を進める。でも、若い人たちにどんどん追い抜かれる。悔しい!!言訳ではないが、良い景色を見て写真を撮っているから時間がかかっているんだと自分に言い聞かせながら焦らず、マイペースで、ゆっくり且つ迅速に。

横尾で少し長めの休憩を取り、本谷出会いに向け出発。懐かしい景色が次から次へと楽しませてくれる。なんと言ってもここの見所は屏風岩だ!! ここも無事に本谷へ予定時間内で到着出来た。

 

10月3日(土) 晴れ

今日は、5年ぶりに奥穂高の登頂を目指します。奇しくも5年前に船曳先輩の傘寿の記念山行に同行させて頂いた同じ傘寿を私も迎えています。晴天の中、見事に奥様とご一緒の登頂に成功されたことを当時、非常に羨ましく思い、自分も5年後に登頂することが出来るだろうかと思っていましたが、今日、それが実現しました。登り始めて、涸沢小屋を過ぎたあたりから、正に涸沢の紅葉にふさわしい見事な景色が展開し始めました。

若い人たちに抜かれながら、ゆっくり目ではあるがザイテングラードをこなし、約3時間で奥穂山荘到着。山荘に勤める、マッキンリー登頂の際の山仲間に久しぶりで再会、しばし、楽しい歓談を楽しんで頂上へ。途中振り返ると槍から、今夏縦走した薬師から立山の遠望、笠ヶ岳、乗鞍、富士山まで360°の眺望を十分にみることが出来た。頂上では記念撮影に列が出来ていて、バカくさいとは思いながらもこれが最後の奥穂高山頂かと思うとやむを得ず並んで撮ってもらった。どこでとっても良い面白くない写真である。奥穂山荘で昼飯をゴチになり、一気に頑張って1時間20分で下山できました。

下山後は、今日、登ってきた山仲間と会って、ビールを飲み、持参したジャックダニエルをしこたま飲み、涸沢最後の夜をしみじみと楽しむことが出来ました。蛇足ながら、持参した真鯛とホウボウのこぶ〆は大好評でした。

大満足の写真です。

出来たら来年も再来年も同じように涸沢のような場所に来れたら良いなあ~と思っています。何時までも山には行き続けたい、でも、自分の意志に関係なく身体の不具合や体力の衰えを感じざるを得ない歳になって来ました。これからは、年齢相応の、だけどちょっぴり頑張ったら何とかなりそうな山をマイペースで楽しんでいきたいと思います。

 

コロナ対策について   (34 船曳孝彦)

首相が変わっても、やはりコロナ対策が大きく変わることはありませんでした。安倍首相がオリンピック待ちで後手後手となり、感染者が増加し、一斉休校、アベノマスクで不評を買い、PCR検査を増やすと盛んに宣伝していた(5月)ころ、厚生労働省は「検査を増やせば陽性者が増え、医療崩壊につながる」と検査抑制方針を崩さなかった内部資料が、民間団体(シンクタンク)の調査で分かりました。PCR検査で正確に判定できるのは陽性者の70%、陰性者の99%であるから、百万人都市で全例検査し、感染者が1000人いたと仮定すると、感染者300人は陰性の判定で健康だと誤解して出歩き、一方本当は未感染者であっても999,000人の1%(9,990人)が陽性と出て、病院なり指定施設なりに収容が必要となって医療崩壊につながるという理論でした。この偽陽性者を少なくするために、濃厚接触者や間違いなく感染患者と思われる人のみ検査を絞ったため、検査をしてもらえない人が多く出て社会問題化したのです。感染した人の調査では、約半数が無症状(毎度述べているが無症状というより未発症)感染者から感染したというデータもあります。

本来検査で100%などという検査はないし、健康な陰性であっても翌日に感染してしまうことだってありえます。それは再検査をどこまでやるかにかかってきます。プロ野球で感染者が出た球団では2,3日単位で再三検査をするところもでてきました。

確かにこのところ感染者が出たという話が身近になってきました。例の有効再生産数が1.0を前後し続けており、日本の数値はヨーロッパの数値より悪いのです。これが小さくならないと収束に向かいません。

死亡率は下がっているもののVirusの感染力は衰えていません。うつされない・うつさない対策をしっかり守る必要があります。そのためにも検査の重要性は大きいのです。検査の精度は上がって(90%以上)きていますし、唾液検査の成績が鼻咽頭ぬぐい液検査と全く遜色ないという論文も出てきています。まだ ‟希望” 検査が何万円という状態が続いています。抗原の簡易検査も出ていますし、PCR検査でも複数検体一括検査(プール式検査)なら、例え全国民を検査したと仮定しても、Go-To-○○に掛ける1兆3千万円の1/5で済むという提言(ノーベル賞受賞者本庶氏)もあります。

死亡率が減って来たのは、重症化予測できるマーカーを発見したり、重症管理医療が進歩したりしたためであり、弱毒化したのではないと警鐘が鳴らされています。私達高齢者は十分な注意が必要です。

常識外れのトランプ大統領が、未承認ワクチンと重症者対象薬を使って快復したと大見得を切っていますが、真相は如何なものでしょうか。政争の具にされてはかなわないと、お膝元のアメリカ製薬会社CEOから評価申請の提出は早くても11月末になると慎重論が出ています。

町中では多少緩んできているようにも見受けますが、マスク着用による感染抑制効果は、医療従事者を対象にした研究で証明されましたので、ヒト気のない場合を除いてマスクはやはり積極的に活用しましよう。三密については、世の中神経質になりすぎている場面と、密すぎるという場面が混在していると感じます。クラシック演奏会など復活して欲しいし、外野席がらがらのスタンドは虚しさを感じます。With Coronaの時代であっても、むやみに怖れることなく、適正に行動し、日本の文化、伝統を守りましょう。学校を始め、人と人とのコミュニケーションは大切です。 まだまだ先が見えて来ません。あと半年と目標を立てて踏ん張りましょう。

12月25日には世界的科学者であり我が畏友黒木登志夫氏著『コロナの科学』が中公新書から出版されます。私も期待しています。

学術会議騒動について  (普通部旧友 菅原勲)

ジャイ 大兄

貴兄のブログを拝読しました。全面的に賛成です。

付け加えるとすれば、この問題に対する対応で、ニセモノであることがはっきりした人たちが分かって来たことです。何故、6人が任用されなかったかをしつこく問い続けている人たちです。差し支えるので、名指しはしません。なかでも、我が母校の名誉教授M氏は、もともと、その言説には100%同意しかねましたが、この問題を契機に、それに加え品性下劣であることが明らかとなりました。もし、卒業生に塾の教授の任命権があるならば、真っ先にこの不名誉教授を罷免します。こう言うのが亡国の輩なんだろうな。

既得権をぶっ潰すのは並大抵のことではないが、塾に籍をおいたことのある太郎君、頑張れ!

では、また。

エーガ愛好会 (23) エデンの東 ー ジェイムズ・ディーンのこと

気が付いてみたら昔ばなしばかりする年代になってしまった。普通部から高校にかけての一番のんきで楽しかった時代、つまり ”戦後” が終わろうとしていた時代の僕らを支配していたのはやはり ”戦争を知っている親たち” の価値観やらライフスタイルが変わろうとしていた時代でもあったのだろうが、今考えてみるとこの時代の ”青春” の在り方も変わりつつあったころだったとも思う。

そのことをなんとなく感じさせたのが ジェイムズ・ディーン という俳優だったような気がしてならない。高校3年の時に エルヴィス・プレスリー が登場したとき親たちの年代のほうは敏感に時代の変化、を感じたようだったが、僕には音楽シーンの変化ぐらいにしか感じられなかった。

”エデンの東” は高校同級の悪童たちと東劇へ見に行った。そのうちの一人、広田順一がこともあろうにラブシーンの最中に持っていたアルミの弁当箱を取り落とし、大きな音を立てて周りからにらみつけられるという事件があった。そんな思い出でもある。

(44 安田)旧約聖書のアダムとイヴの双子の息子兄弟「カインとアベル」の物語に基づいた、ジョン・スタインベックの故郷・サリナスを舞台にした長編小説の映画化。映画化されたのは小説の終わり3分の1ほど。サリナスから近い海岸の町・モンテレー

モンテレイの街

も舞台となっている。ここは80年代半ばクリント・イーストウッドが市長を務めた高級人士住む観光地カーメルに隣り合う、サンフランシスコに人たちには言ってみれば東京と鎌倉みたいな関係にあるところである。第一次世界大戦前後の北加州の農村を舞台に展開される青春ドラマ

聖書ではエデンの東は、エデンの園を追放された、双子の弟アベルを殺した、アダムとイヴの息子カインがたどり着いた土地として知られている。映画では兄役のアーロンは弟(ジェームス・ディーン)を殺しはしないが、弟との確執の結果、世界大戦の戦場ヨーロッパへ出兵するところで終わる。旧約聖書では、弟を殺した兄の向かうエデンの東は、流刑地のニュアンスがある。人類の祖先であるカインが放浪者として移り住むエデンの東・・・・聖書では、これが人類の旅の始まりとして描かれている。ヨーロッパ戦線に向かった兄の運命は映画では明らかにされていないが、旧約聖書が描く流刑地の悲惨さを示唆しているのであろうか?そして厳しい人生の旅が始まったのであろうか?映画では、ディーン演じる主人公は、品行方正な兄を何かにつけて可愛がる厳格な父が気に入らず、反抗的な態度をとり続ける。反抗は愛に飢えている証ではあるが、その辺の孤独感と反動として反抗する感情を、ディーンは伏し目がちな視線や憂いを帯びた態度で繊細に”悩める青春像”を演じきって世の女性たちを虜にした。映画の撮影終了後間もなく24歳の人生に終わりを告げる自動車事故の悲劇も、一躍世界のスターになったジェームス・ディーンを絶対的なアイコンとして昇華させたようである。

印象的な場面は、観覧車の中の兄の恋人とのキスシーン、大豆の芽が大地から出てきて大地に寝そべり喜ぶシーン、兄の恋人とディーンとの長い会話を経て二人の気持ちが通いあるシーン、兄が自暴自棄に陥り恋人から離れヨーロッパの戦争に赴く駅の列車出発シーン、意識不明の床に伏した父がディーンの耳元の言葉に頷き涙を流した時、天井から光がさして二人を照らすシーン。ディーンが父親に理解してもらったと感じるエンディング場面はこの映画のハイライト。弟の人生の旅もこれからまた始まるのだと映画は示唆しているようであった。

 

兄の恋人役ジュリー・ハリスは、「波止場」「北北西に進路を取れ」「栄光への脱出」エヴァ・マリー・セイントの清楚であるが秘めた信念と情熱の炎は熱い感じに似通っていると思った。彼女は波止場でオスカー助演女優賞獲得。ジュリー・ハリスは「波止場」でもメガホンを執ったエリア・カザンのお眼鏡に適った女優だったのだろう。またジュリー・ハリスはオスカー助演女優賞に充分値する適役の演技だった。

厳格な父親役のレイモンド・マッセイオスカー助演女優賞の母親役のジョー・ヴァン・フリートの演技も素晴らしい。先日、話題となった「大いなる西部」で注目された助演男優賞獲得のバール・アイヴスも出演していて懐かしく観た

NYの俳優養成学校「アクターズ・スタジオ」創設者の一人であるエリア・カザン「波止場」でオスカー監督賞を獲得しており、その波止場で主演男優賞を獲得したマーロン・ブランドとは欲望という名の電車」でも一緒。「エデンの東」の主役はマーロン・ブランドと決めていたが、当時吹き荒れていたマッカーシー旋風(共産主義者取り締まり、いわゆる赤狩り)の際のエリア・カザンの仲間を売った裏切り行為(といわれている)が許せなくて、ブランドが辞退。アクタース・スタジオ出身の新人ジェームス・ディーンが結果として抜擢された。他に主役候補にはモンゴメリー・クリフト、ポール・ニューマンも挙がっていたという。1950年代はアメリカ映画の全盛期で名画が目白押しですが、テーマ音楽の素晴らしさも相まって、不朽の名作に値する映画であった。

 

(34 小泉) ジェームス・ディーンのこと、よくよく思えば1931年生まれで1955年24歳で亡くなっています。映画愛好会一番年上と思われる小生より4歳も年上で、亡くなった時、小生は20歳でした。当時当然ながら映画館で、「エデンの東」をはじめ全ての映画を観ているはずですが、内容をどの程度理解していたのか?その後TV等で見直していることもあり、残念ながら当時の印象がどうにも思い出せないでいます。「ジャイアンツ」では、若干西部の雰囲気も出てましたが、彼が西部劇の主役だったら?どんなことになっていたか想像してしまいます

(43 保屋野)やっと、ビデオで10年ぶりに「エデンの東」を観ました。チビ太師匠の感想通り、私も「不朽の名作」だと思います。

ちょっと余談ですが、見終わって、NHKのBS1を見たら、丁度「穂高・ジャンダルム」が再放送されていました。実は、卒業2年目のガニマタ合宿を岳沢BCで行い、14,5名で、天狗のコル→ジャンダルム→奥穂高→前穂高→岳沢と歩いたことがありました。確か、マリちゃん、克ちゃんもいて、厳しい岩場の画面を見ながら「良く歩けたもんだ」と感心しました。・・・若さ(無鉄砲?)って凄いですね。

さて、映画の方ですが、ストーリーは親子兄弟の葛藤を描いた、ありふれた題材ですが、やはり、ジェームス・ディーンの存在感は「半端ない」ですね。この映画は、チビ太の云う通り、スタインベック原作の後半1/3ぐらいの話で、前半の部分は、22年前にテレビドラマで放映されています。

母親(ケート)が主人公で、(よく覚えてはいませんが)、ケートの強烈なキャラが印象的なドラマでした。このドラマは映画よりも高い評価をする人も多いそうです。「理由なき反抗」「ジャイアンツ」もまた観たいものです。・・・彼は意外と小柄(173cm)だったのですね。

(36 後藤)保屋野兄、我々の青春時代の思い出の作品をご覧いただき有難うございましたちょっと親に反抗するひねたスタイルが私達も流行った記憶があります。私は母親役の娼婦の元締めをやったジョー・ヴァンフリートという女優さんがいつまでも印象に残っています。私も穂高のジャンダルムを登行するNHKの再放送を見て皆さんあんな凄いところを良く登るもんだと感心しました。最早どうにもならない話ですが本当に若い時は何でも怖くなかったのですね。

(41 久米)「エデンの東」そして主演のジェームス・ディーンについては映画愛好会の中の年齢差で感想も大分変ってくると思います。私の記憶に間違いがなければ「エデンの東」が日本公開の際には主役のジェームスディーンは既にこの世の人ではなくその悲劇性も重なり大変な前評判で映画を見たような気がしています。

主人公が列車の上でセーターを首に巻くシーンは忘れられません。この時以来セーターを首に巻くことが若者の間ではやったように思います。ジェームスデx-ンが世の中に反抗する姿勢は次の作品の「理由なき反抗」で顕著に表れていますがまだ12歳の私には当時は良く理解できなかったように思います。その点、「エデンの東」のロマンス部分の方が解り易かったように思います。後年、見直して理解したように思います。

「ジャイアンツ」のディーンは演技にあざとさが目立ってロックハドソンやエリザベステーラーの方に分があったように思います。でもディーンの出現以後、男は少なからず彼の演技を模倣しているように思えますしハリウッドもディーンの面影のある俳優を探しているように思います。アラン・ドロンやブラッド・ピットなどデx-ンの面影をチラッと見かける時があります。1955年はエルヴィス・プレスリーが華々しく出現した年でもあります。

(ウイキペディアから転載)ロサンゼルス退役軍人病院に勤める歯科技工士の父ウィントン・ディーンと母ミルドレッド・ウィルソンのもとにインディアナ州マリオンで生まれる。しかし、父母は行きずりの恋から始まった婚前妊娠だったことから、父のウィントンは息子のジェームズの誕生を喜ばなかったという。反対に、父親に無視される事となったジェームズにミルドレッドは深い愛情を注いだという。ジェームズが9歳の時ミルドレッドが卵巣がんで亡くなると、ウィントンはフェアマウントで農場を営む姉夫婦に彼を預け、そこで育てられた。

高校時代から演劇に興味をもち、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の演劇科で学んだ。舞台やコマーシャルなどに出ていたが、更に俳優としてのキャリアを追い求めるために中退、ニューヨークに移った。そこで1950年代の『Kraft Television Theater』、『Danger』や『General Electric Theater』のようなテレビ番組の何編かに出演した。この頃よりジェームズはアンドレ・ジッドの『背徳者』に心酔してハリウッドへ行き、映画スターとなることを夢見るようになる。

『底抜け艦隊』等の映画の端役をいくつかこなした後、1955年エデンの東のキャル・トラスク役で初めて主役を演じて認められた。彼はこの役でアカデミー賞の主演男優賞にノミネートされた。この後、続けざまにその年の理由なき反抗で主役を、ジャイアンツで準主役を演じ、またもやアカデミー賞にノミネートされることになる。

『ジャイアンツ』の撮影終了1週間後の9月30日、ジェームズはサリナスで行われるレースに向かうために同乗者の自動車整備士ラルフ・ウッタリックと共に、愛車であるシルバーのポルシェ・550/1500RSカリフォルニア州の州道を走行中、午後5時15分にショラム近郊にある州道46号線と41号線の東側の分岐点で、交差点を転回していたフォードに衝突した。ウッタリックは車外に投げ出されて骨折、フォードの運転手も軽傷で済んだが、ジェームズは首の骨を含む複雑骨折、内臓損傷などでほぼ即死状態であった『理由なき反抗』は、死から約1か月後の10月27日に公開された。

学術会議騒動について  (44 安田耕太郎)

学術会議の設立は昭和24年。行政、産業及び国民生活に科学を反映、浸透させることを目的として、内閣総理大臣の所轄の下、政府から独立して職務を行う「特別な機関」として設立された。職務は以下の2つ。1.科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること。
2.科学に関する研究の連絡を図り、その能率を向上させること。

非常にあいまい且つ抽象的であり、実践的・具体的な職務は一般人には理解しがたい。日本学術会議の役割は、主に以下の4つであると規定されているる。

1.政府に対する政策提言

2.国際的な活動
3.科学者間ネットワークの構築
4.科学の役割についての世論啓発第二次世界大戦後すぐに設立された理由と目的は、明らかに敗戦後の日本を立て直し、将来の発展と成長を目指し、国内の知能を総動員していわばオールキャストで目的を果たす役割を担ったのである。1990年頃バブル経済の破綻で戦後、成長拡大し続けた経済も天辺を打ち、その後は今日に至るまで30年間、沈滞と低迷の時期の真っただ中をうろついている。その責任の一端は日本学術会議にもあると認める謙虚さを望みたい。

日本学術会議が担った役割は設立から40年を経たバブル経済崩壊の頃までにほぼ終焉しているにではと推察している。いわば「大きな政府」時代の大きな組織が遺物化したのが現在の日本学術会議の姿ではないだろうか。延命と権力維持を二つの柱として存立している官僚組織の姿を見る思いがする。構成メンバーにとっての経済的利益は引退後の年金収入を含めて抗し難い面もあろう。70年経た組織が硬直化し、官僚化するのは避けられない。

国民の税金を財源として運営され、その役割・効果・責任・権限・成果の詳細は知る由もないが、それらが曖昧だとすれば、その存在はもはや許容すべきではないと考えている。優秀かつ目的意識も高い各構成メンバーなりメンバーから構成されるグループ(と、信じたいが)は、彼ら独自に(日本学術会議の枠外で)自由に意見なりを発表する機会も手段も場も与えられているはずである。自ら能動的に行動すれば可能であろう。自由の侵害などと主張するのはお門違いである。政治イデオロギーの信念を盾に研究分野を勝手に選別したり、拒否するのは税金で運営されている機関としてはもってのほかである。

矮小な問題としては菅首相は6人の任命を見合わせた理由をもっと論理的に返答をすべきであったろう。しかし、もっと重要な根本的問題は、日本学術会議の存在意義についての抜本的な検討であろう。首相はもはや積極的な存続理由は見いだせていないのではと推察します。但し、その大きな問題を論議することの政治的深刻さを考えれば、のらりくらりと昼行燈に徹するのが賢明だと政治的に判断していると推測している。

日本学術会議に設立当時期待された役割と効能は、日進月歩で変化する科学分野と複雑で流動的な世界情勢に対応する為、複数の専門的シンクタンクを利用して流動的にフットワーク軽く柔軟に対処する必要があるだろう

日本の健全な生存と発展には、今や国内の内輪同士のもめごとにかまけている余裕などなく、世界に伍していけるシステムと能力を備える必要がある。コロナ禍によって露呈したデジタル分野の後進性と脆弱性だけは科学分野では御免被りたい。真に国の総力を挙げて効率的に運用できる仕組みが早急に構築されることを強く望む。政府の正しく強いリーダーシップと、果断にして迅速な意思決定と運用がカギを握っている。優柔不断で適正能力不足の政府では国民が不幸にされるだけである。

学術会議騒動について

新政権にさっそくいちゃもんが付いた。学術会議メンバーの選考問題である。例によって政府側の答弁も歯切れが悪いが、なんといってもいわゆる知識人とやらの反応にはつくづくあきれてしまう。会社組織で言えば上司の部長がだれになるのか、からはじまって人事なんてものは基本的に理屈通りにはいかないし、部下から見れば英雄であっても社長の胸三寸にきちんと落ちなければその通りにはならないのはいわばジョーシキである。そうなったときに、今度の人選はわが社の命運にかかわる、社長辞めろ、なんてことは起きえない。気に入らなければやめてしまえばいいだけの話である。

まして10億円もの公費が使われているのであれば、めくら判を押してきたいままでのやり方を見直すのは、前例絶対を排するという総理の方針からすれば至極当然だろう。その理由が政府の大方針にそぐわないのであれば、それが理由だ、と言えばいいのではないか。なぜって、彼らは公務員なんでしょ。小生、別に菅ファンでもないし自民党絶対論者でもないが、公約をきっちり実施する、という姿勢はその結果はともかく、支持に値すると思っている。

何より馬鹿げているのは今回の措置が学問の自由を侵害する、という議論である。大学で個人が行う研究活動やその成果の発表や社会への働きかけについて、今回の措置はそれこそ憲法でも改悪しないかぎり、なんらの影響も持ちえない。学術会議のメンバーでなくても政府への意見具申をする方法はいくらでもある。テレビ報道で多くの人が指摘したように、他国ではこの種の団体は民間団体であり、政府から経済的支援を受けない。だからこそ自由に発言し行動できる。行政への諮問、ということからすればこのほうが正しい。曲がりなりにも(100%そうだなどというほど当方もうぶではない)国民の支持によって成り立っている行政機関から金をもらっている立場であればそうはいくまい。例によって偏った見方しかできない連中が自由の侵害だなんだとデモで騒ぎ立てるのはコロナウイルスを拡大するくらいの意味しか持ちえない、と思うのだが。いかが。

 

五色温泉 宗川旅館の近況  (44 浅野三郎)

 

栗子山直下の発電所

3年ぶりに訪れた五色温泉・宗川旅館についてご報告します。

宗川旅館はこの10月一杯で正式な営業は終了するとの事です。ですが、今後も
宗川家は五色温泉の建物で生活を継続するので、KWVの方達は特別に宿泊
可能だそうです。ただし、浴衣や洗面道具等のサービスは無くなります。また、館主の宗川好一さんは鉢森山(栗子国際スキー場のあった)南尾根に建設中の風力発電設備(添付写真)の管理者として勤務することもあり、板谷駅や米沢駅, 福島駅への車での出迎えは出来ないとの事でした。

旧ゲレンデ前にも小さめの風力発電設備(滑川温泉所有?)が立っています。
また、数年後には鉢森山北尾根に十数か所の風力発電機が建設予定だそうです。
美人の大奥様も御御足が悪いそうですが、お元気そうでした。
板谷から五色に上る道は昨年の台風19号(?)で土砂崩れが数か所あり現在修復中ですが、通行可能です。

五色前の風力発電

詳細は下記へお問い合わせください。
五色温泉・宗川旅館 0238-34-2511

トランプ騒動に関する情報

HP時代の同僚から、下記のホームページを紹介された。数件、記事があり、おのおのに広告が入っていたりするが、わかりやすい文面でもあるので一読をおすすめする。アメリカ版週刊文春かもしれないのでどこまで信用できるかはご判断にお任せする。ただアメリカよ、どこへ行く? という気持ちは深まりこそすれなくならないのだが。

https://theweek.com/speedreads/941345/conspiracy-theorizing-about-trumps-diagnosis-already-begun

エーガ愛好会 (22) The Big Country

予想もしなかっためぐりあわせから米国企業で働くことになった僕は、シリコンバレーには相当回数足を運んだが、東部や中部を訪れる機会は少なかった。その少ない旅の途上、ジェット機の上からその国土の果てしないうねりを見て、”でっけえ国だなあ” という印象はもちろん持っていたが、実感としてそれをあらためて実感させたのちょっとしたドライブだった。

コロラド・スプリングスは米国空軍士官学校の所在地として、陸軍士官学校のウエストポイント、海軍兵学校のアナポリスとともに知られているし、NORAD(北アメリカ航空宇宙防衛司令部)の所在地でもある、いわば軍都、とでもいうべき街で、幾度か訪れることがあった。1970年2月の訪問のとき、デンバーから通常のルートを避け、地図を頼りに回り道をしてみたことがある。つたない詩もどきを書き留めている とりこにい にその時の感情が書いてある。

 

 アクセルをぐうんと踏んで フォードLTDは小さな峠を越えた

 視野の果てまで きつね色のコロラド溶岩台地の遠く

 早春の平野の第三象限を限るロッキーの稜線があった

 インターステートハイウエイが越えるこの峠

 百年の昔 人は馬で越えた      

 この峠に立って 幾人の旅人が      

 かぐわしい夏の夕風 暮れていくロッキーに問いかけたか

 幾人の騎兵隊兵士が 幾人のファー・トレイダーが 吹きすさぶ雪に吠えたか

 ・・・・おれはなぜ、ここにいるのか、と。

 彼らが帰り着いた土 この峠に立って

 ひとりの異邦人はつぶやくのだ

 この広い天と この ただ果てしなくひろい地のはざまに

・・・・ おれは いま 生きている! と。

 

 

思わせぶりな前説が長くなった。ウイリアム・ワイラー、大いなる西部。

(写真提供 安田耕太郎君)

(小泉) 監督ウイリアム・ワイラーで「西部の男1940」以来18年ぶりの西部劇、主演グレゴリー・ペックとは「ローマの休日1953」以来5年ぶり。最近BSPで放映されたペックの西部劇「続ガンヒルの決闘」「拳銃王」とは異なり、その人柄が醸し出されるような東部の紳士で、インテリ風でありながらも船乗りから船長に登り詰めた強靭な肉体も持ち合わせる主人公を颯爽と演じている。

開巻から東部と西部の対立の様相を見せつける。婚約者のキャロル・ベイカーとその父チャールズ・ビックフォード経営の牧場へ向かう途次、対立するチャック・コナーズの仲間に、手荒い西部的歓迎を受ける。父ビックフォードは、そのことを娘から聞き、やられた仕返しに、コナーズの父パール・アイヴィスの牧場を襲う… 両牧場対立の根源でもある水源地を所有するジーン・シモンズに会ったりしているうちに、ファザコンであまりにも古い西部的な女性ベイカーとの気持がズレて行くことから、シモンズへ心が移っていく。最後は、ビックフォード家とアイヴィス家との峡谷での戦いで幕を閉じることになる。脇役とは言え、アイヴィスとビックフォード二人の爺様の演技が光る。アイヴィスは歌手出身ながら、貫禄ある振舞の中に進歩的考え方の持ち主でもあり、筋の通った男ぶりから、卑劣な息子を射殺し抱き締めざるを得ない父親を演じ、アカデミー助演賞に輝いた。

 駅馬車の遠景で始まった大いなる西部、構図が古い西部から新しい西部へ移り変わり、広大な平原を見渡す展望が、すべての場面で、ロングショットが活用され、大いなる西部の景観が浮かび上がってくるのだった。広大な大自然に、ぴったりした優雅でダイナミックなジェローム・モロスの音楽も懐かしく聴かれた。各場面夫々に、登場人物夫々に、適切に合致した音楽、昔はサウンドトラックのレコードで、画面を振り返りながら、音だけで聴いたものだった。終演は重なった二人の古き西部の鳥瞰のロングショットから谷間へ去るペックとシモンズの若者の後ろ姿に大西部の景観が浮かび上がる。新しい西部の幕開けか。

(菅原)映画館で見ているから、これが、二度目です。それにしても、覚えていないもんですね。ペックは、終始、あまりにも恰好良すぎました。ヘストンと殴り合いをやり互角に見えましたが、最後に、ヘストンの「別れの挨拶が長すぎる」でヘストンの判定勝ち。チャールトン・ヘストンは、眼光鋭く、苦み走った良い男。全米ライフル協会の会長だった時は、その眼光の鋭さで、銃規制派もすくみ上ったんじゃないかな。

小生のお気に入りのC.コナーズ、ちょっとどころが、だいぶ可哀そう。せめて一度ぐらい見せ場を作ってから、B.アイヴスに殺されても良かったんじゃないか。それだけの値打ちもなかったか!ジーン・シモンズは、イギリス人で、東部の女であり、西部の女ではありませんが、キャロル・ベイカーは、正にピッタンコ。1931年生まれで存命中だから89歳か。どんなお婆さんになっているのか。

C.ビックフォードは、あれだけ豪華なお屋敷があり、しかも、ごまんといる牛を飼っているところを見ると、アイヴスが言っていたように、相当な悪さをして来て、ここまで伸し上がって来ている筈です。ですから、最後は、勧善懲悪で、ビックフォードがアイヴスに殺されると思いきや、相撃ちでチョン。余りにも長いので、生理現象がおきましたが、最後まで見たので面白かった。

(安田) 「アラビアのロレンス」 の冒頭に近い場面で、ピーター・オトゥ―ルのロレンスがエジプトカイロのイギリス司令部からアラビアの砂漠の地に赴任して迎えた最初の日の朝、荘重な輝ける 日の出 が悠久な砂漠を黄金色に染めて、その後の波乱含みの映画の流れを予感させるかのような見事なシーンで強烈に印象に残っています。似通ったシーンが 「大いになる西部」 にもありました。グレゴリー・ペックが東部からテキサスの地に着いて、宿泊する家のベランダから眺める光景は、地平線の彼方まで広がる荒野の雄大な景色。正に The Big Country そのもので、映画のスケール感を期待させるに充分な冒頭シーンでした。

 イギリス女優 ジーン・シモンズ 。同じイギリス人の ヴィヴィアン・リー、エリザベス・テーラー にやや似ていて、彼女の黒髪 (或いは濃いブルーネットだったか ) は, 金髪のキャロル・ベイカーとの容姿の対比のみならず、役柄の人物像対比をもより際立たせていて映画の筋に沿っていてとても良かった。最後には、グレゴリー・ペックは許嫁の未熟でわがままなキャロル・ベイカーから離れてシモンズへと気持ちが移って、二人で未来を共に歩むことを示唆して映画は終わります。ペックとシモンズの間では直接的なラブ・シーンは一切なく、それでも気持ちを通わせお互いが敬意と愛情を抱いていることを分からせる演出は、流石ウイリアム・ワイラーです。 

グレゴリー・ペック が荒馬を乗りこなすのに悪戦苦闘するシーンはとても印象的。東部の都会男が西部男になっていく忍耐と勇気の決意が描かれていて、映画のテーマと彼の人となりを側面から見事に描いたシーンだと思います。それにしても、あの荒馬も見事に演技(?)したものです。それだけプロの調教師によって手名付けられたのでしょう。あの場面以外、ペックの乗り物用の馬としては登場しませんでしたから、あの調教のシーンだけの為に準備されたのだと思います。これとて見事な映画作りの一端を垣間見る思いがします。

また、ペックが船乗りの経験を活かして荒野を探訪するのに磁石と地図を駆使して、荒野を迷わず歩くことが信じられない陸の荒くれ男達を驚かすシーンなども斬新で、それまでの西部劇にはなかった面白い発想を網羅した演出になっていました。さらに、腕力に物を言わせて争いの決着を血を見ることでつける旧来のやり方に代わり、近代的な和と平等な仲裁方法を導入しようとするなど従来の西部劇にはない一歩前進したストーリー展開と演出になっていました。190cmの大男 二人、ペックとチャールトン・ヘストンの決闘場面は、語り尽くされているとは思いますがやはり見応えがありました。 

グレゴリー・ペック は ゲーリー・クーパー、ジェ-ムス・ステュアート などと並びアメリカの良心を代表する俳優だと評されていますが「小鹿物語」、「ローマの休日」、「アラバマ物語」 などでもそうでしたが、この映画でも彼の持ち味と特徴が如何なく発揮される役柄を演じています。ラッキーな俳優だと思います。特筆すべきは、アカデミー助演男優賞獲得 は当然だと思わしめた、 争う両陣営の片方の親分、相撲取りのような体躯の バール・アイヴス の迫真の演技でした。ウィキで調べると元々はアメリカで数多くのヒット曲をもつ歌手とのこと。彼が息子役の チャック・コナーズ   (テレビ「ライフルマン」で馴染み) に対しても公正さを貫き、背いた息子を自らの手にかけて殺し、腕の中で息絶えていく息子への父性愛を示す場面での彼の演技は、この映画の白眉のひとつだと思います 最後に、何回聴いても映画のスケール感に相応しい雄大なーマ音楽は素晴らしい。

(保屋野)大作、「大いなる西部」は、劇場で1回、テレビで5回ぐらい観た、ジャイさん同様私のNo1西部劇です。感想等はプロの皆さんのおっしゃる通りで、アマの私が付け加えることはありません。

ちなみに、西部劇に「大作」は少ないと思いますが、昔見た「西部開拓史」ジャイアンツ」も面白かった記憶があります。ただ、誰かが云っていた、少々「グレゴリー・ペックに都合が良すぎる」という安易な点はありましたが、気になるほどではありません。

①   決闘シーンで弾がそれたこと。②   水利権付牧場が簡単に手に入り、しかも買う金があったこと。③   対立する2人が相打ちで死んでしまうこと。④   キャロルベーカーより魅力的な?ジーン・シモンズに上手く乗り代えられたこと。

大西部の雄大な風景、特に水争いの河の風景が圧巻。テーマ曲も絶品。ただ最後に、キャロル・ベーカーとチャック・コナーズがちょっと可哀相。

(編集子)エーガ館、テレビ、DVDなどあわせてたぶん5度目くらいだと思いますが、結局最後までまたみてしまいました。やはり小生の西部劇ベストワン、です。この作品の背景になっている牧場主の間の水の取り合いはよくテーマになりますね。ウエインものでいえば、“チザム” もそうだったし、“”エルドラド もそうでした。

今回改めて思ったのは、”間(ま)” の取り方、せりふのないシークエンスとロングショットが効果的だなあということでした。菅原兄も触れているペックとヘストンの殴り合いですが、ロングショットにひいて、殴り合いの音だけが聞こえるシーンなんか、まさに Big Country の中でわめいている人間の矮小さを表現しているのだと思います。之がこの映画のテーマなんだと改めて感じました。
バール・アイヴスのレコード(!)があったはずですがどっかへ行ってしまいました。正統的な ”ウエスタン” の歌い手だったという記憶があります。またか、と保屋野君なんかに怒られそうですけど、セーブゲキ、万歳(ついでに ジャイアンツ をセーブゲキというのはちょっとジェームズ・ディーンにそれこそ可哀そうかもしれませんね)。