ここ数日、新聞は新型ヴィルス関連の記事で一杯だが、経済面では経団連発の賃金体系改造論が目を引く。これに対しては当然労働側からの発言もあり、どのような形になるかは別として、先回も別のテーマで書いたが、いわゆるグローバリズム (と私見によれば大衆社会化)の浸透によって日本の在り方の変革が否応なしの問題となっているのはあきらかである。
同一労働同一賃金か、安定雇用重視かという論議はそんなに新しいものではない。僕たちはいわゆる”外資系”の環境に放り込まれ、”アメリカ型経営法”の現実にぶつかった1970年代ころからまちがいなく意識していた。
人権重視、法治国家、民主主義、といった原則について異論を唱えるものはなかったにせよ、現実問題として賃金体系、その根幹にあった家族主義的経営となるとこれは観念や主義の問題ではなく文化の問題になってくる。かのキプリングは結局、東は東、西は西 という有名な文句を残して歴史から退場したが、その後の世界大戦やらそれに引き続く現代にあってもその壁は依然としてある。その根幹にある差異は、つまるところ、”公平”という概念を ”fair” を基準として判断するか、”equal” なのかに尽きるのではないか、というのが僕の感想である。同一労働同一賃金、というのは当然、fair を基準とした論議であり、終身雇用は家族主義=運命共同体的な、日本古来の文化を尊重した体系、さらにいえば、弱肉強食の論理にもとづく狩猟民族の倫理と、集団運営が基本の農耕民族の倫理の対決になってくるのだろう。
前者の倫理に基づいた社会には当然、階級制度が生まれる。この 階級 という単語にも解釈によってはいろんな議論があるのだが、昨今の議論は 格差 という用語に置き換えられているように思える。その根源は正にものごとを判断する基準が fair なのか equal なのかということになるだろう。
勃興期というか拡大期というか、部員数が飛躍的に増え、女性部員が急増した僕らの時代の慶応大学ワンダーフォーゲル部にあって、体力差とかいろんな問題に直面した女性部員の立場を明確に定義したのは、33年卒の小林(現松下)千恵子先輩の有名な ”私たちは区別してほしいが差別してほしくない” 宣言だった。このような基本倫理が何なのかが、今の社会には求められるのではないか。賃金体系にしても、何回か議論した英語教育論議にしても、ある種の 区別 を前提に議論する、ということが必要であろう。
僕はアタマの体操として週一度、英会話のレッスンを受けている。個人教授ではなく自分の都合にあわせてインストラクタを選べるシステムなのだが、結果としてロンドン生まれの(自称)アクセサリデザイナで日本女性を妻に持つ男との接触が一番多い。毎回、いろんな議論を双方から持ち出すのだが、一度、イギリスが基本的に階級社会であることをどう思うか、と聞いたことがある。この青年の解答は明確だった。ああ、確かに階級はあるよ。俺は労働者階級だと思ってるし、それを疑問に思ったこともないね。やつら貴族階級がいることも別に不満に思ったことはない。それぞれが一番やりたいようにやってるからね。ずっとそれでやってきたんだから、それでいいじゃん、というのである。言っておくが、僕の見方で行くとオリバー・ワトソン君は日本的に言えばばりばりの知識階級の一員であり、日本でいえば自分を労働階級、という単語で定義するには逡巡するグループに属する有能な人物である。彼のような考え方が、どうも僕の知る限りでは英国でも、アメリカでも主導的なようだ。
日本の賃金体系や労働環境がどうあるべきか、それを論じるのは、幸か不幸か、僕らの年代の任務ではなくなった。課題はこれからの世代が fair を基準とするのか equal を社会運営の基本原理とするのか、ということになるような気がする。