Fair か Equal か

ここ数日、新聞は新型ヴィルス関連の記事で一杯だが、経済面では経団連発の賃金体系改造論が目を引く。これに対しては当然労働側からの発言もあり、どのような形になるかは別として、先回も別のテーマで書いたが、いわゆるグローバリズム (と私見によれば大衆社会化)の浸透によって日本の在り方の変革が否応なしの問題となっているのはあきらかである。

同一労働同一賃金か、安定雇用重視かという論議はそんなに新しいものではない。僕たちはいわゆる”外資系”の環境に放り込まれ、”アメリカ型経営法”の現実にぶつかった1970年代ころからまちがいなく意識していた。

人権重視、法治国家、民主主義、といった原則について異論を唱えるものはなかったにせよ、現実問題として賃金体系、その根幹にあった家族主義的経営となるとこれは観念や主義の問題ではなく文化の問題になってくる。かのキプリングは結局、東は東、西は西 という有名な文句を残して歴史から退場したが、その後の世界大戦やらそれに引き続く現代にあってもその壁は依然としてある。その根幹にある差異は、つまるところ、”公平”という概念を ”fair” を基準として判断するか、”equal” なのかに尽きるのではないか、というのが僕の感想である。同一労働同一賃金、というのは当然、fair を基準とした論議であり、終身雇用は家族主義=運命共同体的な、日本古来の文化を尊重した体系、さらにいえば、弱肉強食の論理にもとづく狩猟民族の倫理と、集団運営が基本の農耕民族の倫理の対決になってくるのだろう。

前者の倫理に基づいた社会には当然、階級制度が生まれる。この 階級 という単語にも解釈によってはいろんな議論があるのだが、昨今の議論は 格差 という用語に置き換えられているように思える。その根源は正にものごとを判断する基準が fair なのか equal なのかということになるだろう。

勃興期というか拡大期というか、部員数が飛躍的に増え、女性部員が急増した僕らの時代の慶応大学ワンダーフォーゲル部にあって、体力差とかいろんな問題に直面した女性部員の立場を明確に定義したのは、33年卒の小林(現松下)千恵子先輩の有名な ”私たちは区別してほしいが差別してほしくない” 宣言だった。このような基本倫理が何なのかが、今の社会には求められるのではないか。賃金体系にしても、何回か議論した英語教育論議にしても、ある種の 区別 を前提に議論する、ということが必要であろう。

僕はアタマの体操として週一度、英会話のレッスンを受けている。個人教授ではなく自分の都合にあわせてインストラクタを選べるシステムなのだが、結果としてロンドン生まれの(自称)アクセサリデザイナで日本女性を妻に持つ男との接触が一番多い。毎回、いろんな議論を双方から持ち出すのだが、一度、イギリスが基本的に階級社会であることをどう思うか、と聞いたことがある。この青年の解答は明確だった。ああ、確かに階級はあるよ。俺は労働者階級だと思ってるし、それを疑問に思ったこともないね。やつら貴族階級がいることも別に不満に思ったことはない。それぞれが一番やりたいようにやってるからね。ずっとそれでやってきたんだから、それでいいじゃん、というのである。言っておくが、僕の見方で行くとオリバー・ワトソン君は日本的に言えばばりばりの知識階級の一員であり、日本でいえば自分を労働階級、という単語で定義するには逡巡するグループに属する有能な人物である。彼のような考え方が、どうも僕の知る限りでは英国でも、アメリカでも主導的なようだ。

日本の賃金体系や労働環境がどうあるべきか、それを論じるのは、幸か不幸か、僕らの年代の任務ではなくなった。課題はこれからの世代が fair を基準とするのか equal を社会運営の基本原理とするのか、ということになるような気がする。

 

 

 

 

外国語を学ぶということ (7)   (YHP OB 上南健次)

こういう時代もあったのだと懐かしく読ませて頂きました。

アメリカ生まれ(1935年)の日本育ち(5歳から22歳)のケンは兄、姉(すでにアメリカでの通学経験あり)と違い英語との対面は中学での I am Tom Brown で始まる“Let’s learn English” で周りの人となんら変わりはなかったです。

大きな変化が訪れたのは1958年に徴兵され、日本語は一切無い、完全な英語社会に放り込まれ、半年を過ぎたころに “俺は日本人だ、間違って当たり前だ“ の境地に至って・・、からどんどん前向きに対処し、どんどん会話力が付きました。

日本人は中学から10年近く何らかの形で英語とのお付き合いがあり学んだ単語の数は充分ですので、後は四の五の言わず、単語の羅列で可能な限り早く“日本人だから間違って当たり前”、“お前は日本語は話せないだろう”の境地に入り込めれればしめたものです。

Ken

(編集子注)

上南さん、というのも多少照れるのだが、愛称 ”けんさん” はYHP (現日本HP) 創立時の入社第一号、小生会社時代の親友のひとりである。創立2年目から日本駐在の米人スタッフが増えたため、担当領域にとどまらずバイリンガルの能力を発揮して日米間のコミュニケーションに欠かせない存在になった。専門領域ならともかく、当時まだ力のあった労働組合との交渉など、日本人でさえ苦労する ”腹芸” の場で、労使の橋渡しをする場面など小生も陪席することがあり、その見事な通訳にただ感嘆したものであった。

本稿 ”外国語を学ぶということ” の初めに紹介し、”そこをなんとか” は翻訳できないよ、と教えてくれた人物とは彼のことである。外国 (もっとも本人がその時米国籍をすでに持っていたのかどうかは知らない)の軍隊という特殊社会を経験し、なまじっかな留学生やら企業の駐在員などとは次元の違う環境で体得した、だれだったか語学の権威が言っていた “斬れる英語” とはこういうものだろうな、とあこがれたものだった。

僕らの時代、YHPには単なるゼニカネや成績を越えて、合弁会社という場を得て、なんらかのかたちで日米の懸け橋になろう、という暗黙の了解が全社員の間にあったような気がするし、そういう意味からも英語を学ぼう、というモチベーションがあったのだろう。YHPから日本HPへと変身した時点でできた社史のタイトルがその意気をあらわしているようだ。

“大衆社会” の到来

1月6日付けの読売新聞は2面を割いてポピュリズムの過熱、ということを論じた。ポピュリズムについては昨年、いくつかの投稿をもらって論じたこともあるが、この記事を読んで、現在の世界を蹂躙しているのがグローバリズムを信奉する大企業の行動であり、その結果生まれた多極化と格差の拡大である、ということを改めて認識した。硬くて面白みのない議論だが、この記事を読んで感じたことを書かせてもらう。

昭和33年、経済学部に進学はしたものの、経済学そのものには僕は魅力を感じなかった。いまでは死語になってしまったのかもしれないが,”近経”(近代経済学派)と”マㇽ経”(マルクス経済学派)との論争が華やかだったころで、塾にも福岡さんとか大熊さんといった売れっ子的教授のゼミに人気があったし、数理経済学なども登場したころだ。僕はこの風潮には魅力を感じず、社会思想史、という経済学部としてはやや傍流のゼミナールを選択。ワンダーでは翠川(4年次には彼のオクガタたる運命を背負って紀子君も参加)と一緒だった。

社会思想史、とは、基本的には人間社会をより良くするための社会改革に、歴史上どのような論理・学説が説かれてきたかを学ぶことである。僕がこの分野に興味を持ったのは高校3年の時の選択科目で,エリヒ・フロムの ”自由からの逃走” を読んだことがあり、民主主義という思想が実は危機に瀕しているのだ、ということを知ったのがきっかけだった。卒業論文は”エーリヒ・フロム研究” という怪しげなものだったがなんとか及第できた。その論題は、現在の民主主義社会は早晩崩壊し、”大衆社会” に移行するだろう、ということにあった。

民主主義とは、社会を構成する人間が理知的な判断に基づいて情報を得、判断し、その結果に基づいて社会を運営する、ということを基本にする。問題はその判断をするための、偏りのない客観的な情報なり知識なりがどうやって得られるか、という点にある。フロムの論点は、現代社会においては、人々が判断の基本とすべき情報が、偏りのない形で得られることはなく、民主主義の結果だと信じられている人々の行動がすでに何らかの形で、意図的に誘導されてしまっているのだ、ということにある。独裁国家であれば、その主張は独裁者が作り出すものであるから、すなわちその社会の権威は誰か、がわかっている。これに対して現代の民主主義体制では、そういう明確な権威者は存在しえないことになっている。それでも何らかの方向に人々を誘導するものが確かに存在する。それをフロムは ”匿名の権威” と呼ぶ。そしてそれは結局、マスコミニュケーションであり、人々は明確な理由がない限り、それが誘導する方向に進んでしまう。とすれば、社会を動かすのはすでにエリートや有徳者ではなく、自分自身では意思を持たない、大衆になってしまう。この形態が大衆社会とよばれるものなのだ。このことについて、フロムは Are we sane ? (われわれは正気だろうか?) と問いかけ、彼の主著とされる The Sane Society という本を書いた。

フロムはこの民主主義の破滅を ”自由からの逃走” と呼んだのであり、その実例として、欧州人が理想と考えたワイマール政府がヒトラーによって壊滅したことを挙げる。そしてこの“逃走”が、民主主義の権化と信じられているアメリカや西欧諸国において進行しているのだ、と警告し、そのきっかけとなり得るものはマスコミの拡大と個人の組織への従属にあるとした。フロムがこの本を書いたときには、マスコミとは新聞でありラジオであり、せいぜいテレビだった。現在はSNSという怪物が存在し、個人の考えや宣伝が直接、個人に届く時代、米国大統領がツイッターで発信する時代である。マスコミ、という組織的媒体はその可否はともかく、一定の客観性を保ち得たのだが、その存在意義はすでに二次的なものになりつつある。その結果、読売の記事が嘆くように、世界中がいまや過多の情報とそれに対する個人の情緒的反応とに左右されるポピュリズムそのものに動かされている。まさに大衆社会がついに到来したのだ、と思わざるを得ない。

全くの偶然から、いまや、代表的グローバル企業と目される外資系会社でサラリーマン生活を終えた人間としては、どうしても ”グローバリズム” なるもののダークサイドのことを考えざるを得ない。読売の記事が書いたように、格差の問題は日本はまだ救いがあるようだ。日本発、日本製のグローバリゼーションも数多いなかで、この日本的解決が何とか生き延びていくにはどうすればいいのか。いままで 外国語を学ぶ という論題で、日本でのありかたを多少論じてきた。欧州かぶれ、鹿鳴館的行動を排し、倫理と民度の高さにもとづいた行動を通じて大衆社会時代に毅然として対していきたいものだ。

 

外国語を学ぶということ (6)  (36 大塚文雄)

日本語に限らず、寸分たがわず外国語に訳せない言語は世界中にも結構ある。 欧米は多民族・多言語国家だから、 わざわざ5W2Hで話さない 日常茶飯事 では適訳がないのは普通。補足として最後に”OK?”か”Please”をつける。 仲間内であれば「そこをなんとか。ネ、いいでしょう」、目上であれば 「そこをなんとか。お願いします。」 になる。

ネット検索をすると、 「そこをなんとか」 は ”Somehow there” とあります。 thereが「そこ」で、 Somehow が「なんとか」だから 「そこをなんとか」と思います。Thinkを頭につけて、”Think somehow there”なら 「そこをなんとか考えて」 で  「そこをなんとか」にピッタリ合う。  ”Think someidea there” となると具体性がでるけれど、「そこをなんとか」自体は変わらない。
私の経験では、アイルランドの陶器屋さんの経営会議でテーマは決まったけれど、実行する方法を描き出せないで困っていると、社長がにやりとしながら、”Think somehow there, Fumio”と言って担当が決まったことを思い出します。「なあフミオ。なんとかしてよ」ということです。
Fumioにpleaseをつければ、「そこをなんとかしていただけますか、フミオさん」になる。
  “Think somehow there”は「そこをなんとか」の90%適訳とおもうけれど、いかがでしょう。ただし、忖度ではなく、「明案とか法の抜け道をみつける」 ニュアンスと理解しています。

ナンカナイ会 2020年新年会

例年通り、四谷東京ガス クラブハウスにて2020年新年会を1月10日、開催。参加者は25名(当初予定の栗田ビーバー不参。昨年に引き続き日にちを間違えたのではといううわさが支配的、翌日現在、事情不詳)。

同期以外には?と思われる人もいるかもしれないので、登場人物紹介。

後列左から 岡、翠川、深谷、飯田、山室、阪田、江沢、遠藤、妹尾、田中、大塚、堀野、前田、吉牟田、中司、浅海。前列 後藤、高橋(佐藤)、飯田(岡田)、田中(足立)、鶴岡(今井)、安東、横山(小山田)、中司(水原)、横田(佐藤)。

今回は世話役の安東静雄が入院・手術後のことで心配したが以前より元気で復活。常連では上記ビーバーのほか、他の案件があっての不参2人、自宅療養中5名。卒業時の名簿記載63人、これまでの物故者17人、地方在住者などを考えると実働は40名に届かないくらいと思われるので、年齢的に考えれば誠に結構な参加率と言える。ただ参加者の食欲の減退ぶりは目を覆うばかりで、食べ残しがとても気になる。会場側の都合ももちろんあって、勝手なことは言えないのだが。

夏の集まりは例年なら8月3週くらいだが、オリンピックの混雑が避けられないと思われるので、たぶん9月半ばくらいになる見込み。4月に開催予定の野郎会(35年)卒業60年会合から頂戴している招待の件を確認、ほかは例年のとおりとりたてて議事もなく、談論風発というか、春風駘蕩といおうかはたたま会の性格通り、おい、ナンカナイかい、とやるだけのわやわやと楽しい2時間であった。毎回のことながら、安東・翠川幹事団には感謝の一字。

日曜日はOB会主宰の新年会。例年、同期の方の予定は早くから決まってしまうので調整が難しいことは承知だが、昼酒の連荘は結構きついものであります。

(後藤-翠川)
今日はご苦労様でした。貴兄の丁寧な連絡のお蔭で25名の集まりとなり良かっ
たですね。写真もほとんど私のと変わらないのですがGIさんが少し隠れているよ
うなので私の写真も送ります。明日から恐らく人生最後になるであろうスキーに
遠藤・浅海と一緒に名寄に行きます。

(編集子注:まだ行くのか?と思っていたら、遠藤は2月にはドロミテへ行くんだそうだ。無言。)

 

 

外国語を学ぶということ (5)  (47 関谷誠)

1/6付けの「外国語を学ぶということ(4)」を拝読させていただきました。「そこをなんとか」は英訳できないとのご指摘を読んで皆さんに馴染みのないポルトガル語の表現・言い方を思い出してしまいました。外国語を学ぶということ、の面白さ、楽しさの例としてお読みいただければと思います。

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ブラジルで使われているポルトガル語に”jeitinho brasileiro”<ジェイチンニョ・ブラジレイロ> と云う表現がある。単語”jeito”は辞書に「方法、手段、様子、性質、巧みさ、振る舞い等々」とあり、また名詞に”inho”を付けると「愛情、親密さ、軽蔑等々」の意味合いが込められる(”Makotinho”は「マコトちゃん」とでも云える表現になる)。また”brasileiro”とは、ブラジルの、とかブラジル流、を表している。

この”jeitinho brasileiro”<「ブラジル流jeitinho」>は謂わば「そこをなんとか」のニュアンスで良く使われ、英語では”Brazilian way ”とかに訳される。とあるブラジルの蘊蓄集は(以下”jeitinho brasileiro”を(JB)と記す)次のように解説している。

(JB)は咄嗟の課題対処方法を意味し、ほとんどは形式ばらない、ブラジル人が問題を解決する術である。この(JB)はおかれた状況によってマイナス側面要素がある一方でプラス面もある。

1946年、ある外国人がブラジル領事館にビサの申請を行った時に「そこをなんとか」とお願いしたのが(JB)の代表例としてあげられている。当時、ビザ取得の手続きをスムーズに進めるには職業を「農業従事者」とするのが一般的だった。ところがある申請者は実際には医者だったにも関わらず「百姓」で通してもらったとの事。これがブラジル流やり方、生活スタイルのプラス的な代名詞になった。

マイナス面としては腐敗・汚職、教養のなさ、公徳心のなさ、狡猾、悪趣味等と関連する。 ここで(JB)とは、自己利益のために第三者をだます行為である。多くのブラジル人は、「なんとかなるさ」の概念を、難しい問題、局面を正しくない方法、規則や法令さえも違反して実行する。

問合せの為に銀行に行くが、長蛇の列に遭遇してしまう。自分の要件は「簡単」「単に問い合わせをするだけ」でもあり、列に並ぶことはないだろうと考える。こうして、長蛇の列で待つ者の目を無視して、直接窓口に赴き、非難ごうごうの中、何食わぬ顔で要件を済ませてしまう。正しくは、要件が簡単か否かに関わらず、他の顧客と同様に列に並ぶべきであろう。自己の問題解決の為に、(JB)で間違ったやり方で、他の顧客をないがしろにする自己中。

(JB)はこの例のように不愉快なことをもたらす要因となる一方で、ブラジル人のもっとも優れた気質を表す。ブラジル人は陽気で開放的な性格が特徴であるが、確かに、他国の人々に比べ、ストレスを感じるような局面においてさえも、形式ばらず、平静を保てると云える。プラス面の要因として、(JB)は人生を軽く、創造的、柔軟にそして楽観的に導く考えであり、あらゆる社会的規範を尊重しながら問題解決することである。

家族が週末を避暑地で過ごす楽しみとしてビーチでの日光浴、トレイルランニング、その他の野外活動等々を前から計画していた。旅行の前日、天候が急変し、太陽の下での計画を取り止めなければならなくなってしまったが、この家族にとって、これは問題ではなかった。即刻、週末の計画を見直し、室内での楽しみ(ボーリング、ゴーカート、等々)に切り替えた。言い換えれば、計画の突然の変更に腹立つたり、残念がったりせず、それでは、可能な範囲、方法で「そこをなんとか」と別の楽しみ方を考えるのがブラジル流だ。

いろいろな議論はあるにせよ、(JB)はブラジル人が特定な課題、任務、状況、問題までも解決する能力として良く使う表現である。

ただし、最近では(JB)は「創造性」の同義語から「悪意・不誠実」に変化してしまったようだ。トランプさんにしろ、キムさんにしろ、イランの指導部の皆さんにしろ、プラス面での“jeitinho brasileiro”を発揮してもらいたいものだ。一方で言えば、ゴーンの自己中の身勝手な行動はまさにJBのマイナス的 ”そこをなんとか” のように思えるのだが。

 

外国語を学ぶということ (4)

以前、”そこをなんとか” という言葉は絶対に英語にならない、と言われた話を書いた。今朝、自習をしている清野智昭氏のドイツ語参考書の中で面白い記事に出会った。タイトルは ドイツ人は悔しがらない? という一文である。

清野教授は授業の一環として学生に演劇作品のドイツ語訳を書かせておられるのだが、そこで出会ったことだ。たまたま、課題として太宰治の ”走れメロス” を選んだ時、王様との間で行き違いが生じ、そこで ”メロスは悔しがった” という一節がどうしても翻訳できない。アシスタントのドイツ人も ”悔しいって何?” と聞くので、苦労した結果、行きついた文章が(ドイツ語をご存知ない人には申し訳ないが原文を引用しないと話がすすまないので書く) Meros argerte sich uber das Misstrauen des Konigis という一文だった。Misstrauen des Konigs というのはメロスに無理を言った王様の不信感、uber は英語で言えば over に当たる。ここで使われた動詞が argerte sich ということで、辞書を引くと 怒る という訳語になる。日本有数のドイツ語の大家がアシスタントに何回説明しても、そういう時にはこの動詞しか使わない、というのだそうだ。そのことを学生に説明すると、次にでてきた質問は、じゃあ、ドイツ人は悔しがらないんですか? ということだったというのだ。

清野氏はこう書いておられる。

本当にドイツ人は悔しがらないのでしょうか。もしかすると、私たち日本人は、たまたま ”悔しい”という言葉があるから悔しがるのかもしれません。(中略)日本人の私は 悔しい というのは人間が持つ感情のうち最も基本的なものの一つであるように感じます。その言葉を持たないドイツ人には心の機微が感じられないのだろうかとも思ってしまいます。いやいや、それは早すぎる結論です。単に私たちがドイツ語をきちんと理解していなかったからかもしれません。sich argern = 自分が肯定したい価値観や物事の成り行きが否定されることによって引き起こされる不満足感や感情の高まりを感じること。怒る、悔しがる、むかつく と辞書に記載したらどうでしょうか。結局、私たちはドイツ語を理解しているようでも、最初に覚えた日本語の訳語でドイツ語の解釈を規定していることが多いものです(後略)。

(中略)いつも思うのですが、学生は日本語で言えることがすべてそのままドイツ語で言えるという前提を持っているようです。そんなことは決してありません。どう考えても,その概念にぴったり合う一語をドイツ語の中に見つけることが不可能なこともあるのです…….

僕らが半分(以上かな)遊び半分で困るくらいならいいのだが、このようなことがビジネスや国際関係の間で起きる、起きている、ということはもちろんあるのだし、その結果が、だれもが想像もしないし望みもしない結果を引き起こしてしまう、ということも十分あり得る。トランプ君とミスターキンのやりとりを読んでるとどうもそんな気がしてくるのだが。

 

 

椿と山茶花はどうちがう?

例年、元日か2日に夫婦で深大寺へ初詣にいくのがここのところの年はじめになっているのだが、今年はいろいろと用事ができてしまい、今日5日になって出かけた。バスで行った都合でまずは神代植物公園(なぜ深大寺の隣が神代なのか、以前説明を受けたことがあるのだが忘れてしまった)へ立ち寄ることにした。この時期、どんな花があるのか、予備知識もなく入園したら、牡丹と山茶花の特集というのか、特別の展示をしていた。この時期を代表する花、ということなのだろう。

その中に 椿と山茶花の見分け方、というコーナーがあった。実はだいぶ前のことだが、月いち高尾の打ち上げのとき、なじみの天狗飯店にデザートメニューに汁粉とぜんざい、というのがあって、この二つはどう違うか、大激論になったことがあった。これは40年の藍原君が事細かに調べてくれて結果は本稿にも掲載させてもらっているが、この2種の花についてもこの時のことを思い出し、あいちゃんの顔など思い浮かべながら、まじめに説明を読んでみた。結論は花芯部分が違うということで、椿は雄蕊と雌蕊が重なってついているので、筒状であるのに、山茶花は雄蕊雌蕊が明確に分かれていて結果として花芯の部分がひろがっている、ということだ。それでは、と少し離れたところにある つばきさざんか園 へ行ってみて現物をよく見て納得した。

この次は初夏に来て ”いずれ あやめか かきつばた” をくらべてみるか、ついでに ”立てばシャクヤクすわればナンとかてえ比較もしてみようか”などと笑っていたら、不意に花の落ちた椿に行き当たった。

およそ花などには知識のない自分だが、この花を落とした椿の一本には花そのものというよりもなんだか一つの生命体のありようを見ているような、妙なセンチメンタルな気分にさせられた。それと同時に、椿の花の散りようが兜首が落ちるようなので、武士の家には椿は植えないのだ、という話をどこかで読んだことを思い出した。なるほど、と感心しているうちに ! と気が付いた。三船敏郎と仲代達矢の決闘シーン、日本映画で初めて、刀が人間を切り裂く音を出したということで話題になった、かの ”椿三十郎” のことである。あのストーリーのメイン部分が展開されるのは隣り合った武士の館であったのに、その庭は、映画の題名通り、椿がチョー満開だったではないか。これはどういうことだ? という疑問が出てきて、そんなことを考えてる間に肝心の牡丹もろくに鑑賞せずに出てきてしまった。

三が日はもっと混んだんだろうな、と思われる雑踏で蕎麦屋は超満員、甘酒も飲まずに(なんと人の足元をみやがって、スチロールカップ1杯400円、というのに頭にきたこともあって)つつじヶ丘駅まで戻り、エキナカの蕎麦屋で食べた遅い昼食がカレー南蛮。これはいったいなんだったんだろうかと反省しつつ帰宅。妙な初詣であった。

”とりこにい” 抄 (5) 2年 夏の妙高あたり

大学1年の冬、同期の仲間 翠川幹夫の父上が出資された妙高高原のホテル、”燕ハイランドロッジ” の開業にあたって手伝いという名目で長期にわたって滞在させてもらった。飯田昌保なんかもこのうまい話にのっかった同志である。

燕温泉に入るのさえ大変だったころで、積雪は現在から想像できないほど多かった。スキー客は赤倉からリフトを乗り継いでやってくる。その出迎えとか、荷物を運ぶとか、初心者にスキーの履き方を教えるとか、いったことをしていた。豪雪に遭遇し、赤倉へ行く道で表層雪崩に巻き込まれたこともあった。

(創業直後のハイランドロッジ。お嬢さん方の出迎えなんかをやっていた。当時最新流行のスキーモードにご注目)

ミドリとの付き合いが始まったのはこれがきっかけで、夏場にはそれまで無縁だった妙高周辺を歩くことができた。 そのころの雑観を書いたものが出てきた。いつだったか、場所がどのあたりだったか、薄暗い捲き道を通り過ぎてたどり着いた草間地だったような記憶がある。精神的に安定していなかった時期の鬱屈がにじんでいるような気がする。

 

湿原にて

 

夏の午後  モウセンゴケとの戯れに飽いて

俺は 湿原の中に立ち尽くした

ダケカンバの林を抜けてたどり着いた

亜高山帯樹林の一角に立てば

時間よ - 貴様はまた

このかぐわしい晩夏の 午後の風に隠れて

針葉樹林のかなたへ逃げようとするか

それともまた

明日を約束するあの積乱雲のかげへか?

忘却と追憶の間にビブラムをおけば

夏の午後

西の空はすでに紅

 

今日は大晦日、令和元年のおわりである。スキーの無い冬も2回目になる。改めて燕に通っていたころのひたむきな気持ちが思い出される。あと45分後に始まる新しい年はどんなものになるのだろうか。

外国語を学ぶということ 3

イタリア旅行を考えたとき、せめて挨拶くらいはできるようになりたい、と思い夫婦で足掛け1年くらい、イタリア語を学んだことがある。いわゆるグループレッスンというやつで、初めのグループの人たちとはとてもよく気が合い、レッスン以外にも親しくしてもらったが、第二期めくらいからなんとなくグループで学ぶことの限界を感じ始めたのと、同じころ英語検定1級を目指していたのでそれに集中しようと思ってやめてしまった(八恵子のほうはこのクラスはやめたものの、ずっとNHK講座で勉強をつづけている)。

英検1級がなんとかとれたあと、別の動機から今度はドイツ語に挑戦しようと思い立った。現時点でほぼ3年、英語とバイリンガルのドイツ人にほぼ週1回、レッスンを受けている。この過程で”なぜ英語が世界共通語になったのか?”という疑問に答えが見つかったような気がしてきた(ここで対象にしているのは欧州の言語中心であるが)。答えは明瞭で、英語が一番簡単だから、なのだと思う。

例を挙げれば、イタリア語でも同じだが、名詞一つ一つが性を持つ。ドイツ語で言えば、スプーンは女性でフォークは男性でナイフは中性。なぜ、という説明はない。人称代名詞でも二人称が二つあるし、動詞の変化も人称と数によって変わる。英語なら, 助動詞を使えば解決するところを接続法という話法を学び、それに伴う動詞の変化を覚えなければならないし、ドイツ語は特に文法が厳重に守られる。もちろん、英語にもきちんとした文法はあるわけだが、文章にも話し言葉にも、ドイツ語に比べれば自由度というか柔軟性というか、つまりチャランポラン性において、ブロークンな意思交換がやりやすいような気がする。

欧州主要国はほとんどかつてはローマ帝国の一部であり、ほぼ同じアルファベットを持ち、宗派の違いはあってもキリスト教の影響下で何世紀も繁栄してきたし、国々の間の関係もアジアに比べればはるかに濃密だったはずだ。陸続きでほかの国と接し、早い話が通りの向こうはほかの国、という日本人には想像できない地政的な関係があるにもかかわらず、異なった言語を守り続けてきて、共通言語として発足したはずのエスペラント語も消滅して、結局、大陸外の島国の言語である英語が実質的に共通語となっている、というのは実に面白い。別の言い方をすれば、欧州人はそれだけ自国の文化言語をかたくなにまもり、結果としてEUという壮大な歴史的実験にいたったのではないか。

こう考えてくると、ただ言葉が通じない、という現象だけにとらわれ、それなら実質上の世界語である英語を学べ、それも幼少の時から学ばねばならぬ、だから小学校の時代から英語を必修とすべきだたという、なんだか明治鹿鳴館時代に戻ったようなことを国策としている日本は、小手先のことに翻弄されて本質を見失ってしまうだろう。多くの外国人が英語を話せる、俺たちは話せない、という劣等感が先に立っていないか。共通項の多い欧州だって、英語を使うのはそれが必要な人たちであって、国民の多くは自国語しか必要としていない。それは日本人だって全く同じである。子供たちが多少の英語がわかり、発音が多少良くなったとしても、その何割が英語を使わなければならない立場に立つというのか。

繰り返すが、英語は確かに世界共通語になっている。それは事実だし、できるにこしたことはない。しかし言語の前には自国の文化伝統をしっかり把握し、意識することができて初めて本当のコミュニケーションが成り立つ。”そこをなんとかして” という日本 ”語” が翻訳できないのではなく、日本 ”文化” が翻訳できないのである。外国 ”語” を学ぶ,ということの意味はこの辺から考えていくことが大切だと思う。