エーガ愛好会 (1) “赤い河” をめぐって

事の始まりは月いち高尾の帰途、川名君との会話から始まった、”エーガ” 談義である。たまたまこの記事が小泉さんの目に留まり、お互い,懐かしいエーガ(どうも映画、という気がしない)の時代の話を始めた。小泉さんとは小生にとっては鬼の3年生、現役時代、ワンデルングで何回もご一緒しているのだが、エーガファンであることは全く知らなかった。

いっぽう、コロナ騒動の少し前、会社時代の同僚で時々本稿に投稿してくれている五十嵐恵美が訪日してくることになり、小生がその世話役になった。結局、コロナ問題で恵美の来日は延期になったのだが、この準備で幹事役をやってくれた、かつて小生のセクレタリだった金藤泰子とメールのやりとりを再開、その延長でこれまた彼女のエーガ愛好ぶりが判明。また普通部高校を通じての友人で小生にそもそもミステリとか映画の楽しさを教えてくれた菅原勲、KWVでは後藤三郎とか最近は安田耕太郎、相川正汎などといったところがメール交換の仲間に加わった。KWV以外はお互い、当然面識もないのだが、このような機会でつながりができる、というのは正にSNS時代の産物でもあり、ある意味、にっくきコロナもそのきっかけと言えるのかもしれない。そのうち、”不要不急”でも外出できるようになったら、ぜひともみんなのご対面を実現したいと思っている(本稿でもご紹介したが、掲載投稿がきっかけになってーこれまた小泉さんが主役なのだがー小生横河電機時代の親友、舟橋利信、47年卒の関谷誠、という3人に共通の話題があることがわかり、一夜、居酒屋で痛飲した実績がある。こういうのを気障にいえば セレンディピティ、というんだろうな)。

とりあえず第一の話題は今は少数派になってしまったが西部劇の話、それからエーガファンなら必ず話題になる、トップシーンとエンディングの論議、はたまた永遠の話題だろうが、自分が好きだったスターの話などなど、まあ、若い人、たとえば川名君あたりにすれば老人のたわごとにしか聞こえないはずだが、そんなことをやっている。このメールのやり取りを金藤がいみじくも映画愛好会(彼女はエーガとはいわないのだ)と名付けた。自粛疲れをいやすことになるかどうか、いくつかの話を(ご本人には許可をもらっていると勝手に思っている)メールのやりとりでご紹介したいと思う。ほかにもご参加いただくことがあればうれしいことだ。

なお、時々画像を転載するが、金藤のアドヴァイスでブログに載せていいものかどうか調べてみた。小生の理解では、その写真がメインではなくあくまで本文に必要な ”引用” で ”引用もと” が明記され、かつ、すでに一般に公開されているもの(したがってグーグルやウイキペディアからの転載は問題ないと理解)であれば著作権の問題はなさそうである。本稿転載の2点はグーグルで公開されているものの引用である(念のため、現在金藤に教えてもらった機関に問合せをしている)。

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(BS103チャネルで西部劇が連続して放映された前後のやりとり)

(中司)今日13時、BS3チャネルで 赤い河 をやっていました。この映画がハリー・ケリー・ジュニアのデビュー作でした。ハリー・ケリー本人もいい役で短時間でしたが出ていたのを確認しました(アビリーンでクリフとから牛を買い取る役)。

(小泉)赤い河は勿論、西部劇の中でも大叙事詩的開拓劇の 模範ともいうべき作品ですから大好きな方です。初めて初老に扮したジョンウエインが、苦い過去の思い出からか、よじれた性格の持ち主として描かれ、捜索者と似たようなイメージを思いました。言われてみれば、主題歌が、リオブラボーのライフルと愛馬の原曲だったのですね。黄色いリボンに出ていた女優ジョーン・ドルーが、モンゴメリークリフトの恋人役で出ていたことを思い出したら、急にジョンウエインの恋人だったゲイルラッセルの清純だが、ひきつけてやまない眼付きとかを
また思い出してしまいました。ついでに、去る3月10日、ロックハドソンとカークダグラスのガンファイターに出ていたドロシーマローンが、またゲイルラッセルをより色っぽくした女優で、西部劇に良く出演していたことを思い出してしまいました。

(中司)ゲイリー・ラッセルはあまり印象にありませんが、ドロシー・マローンは僕も好きなひとりでした。だいぶ前のテレビの連続もの、ペイトン・プレースにでてましたよね? 西部劇は沢山ありますが、テーブルロックの決闘 を覚えています。たしか男役は珍しく主演を張ったリチャード・イーガンだったと思いましたけど。

今回、終わり近くになって、バックに流れるテーマ曲が、 Red River Valley と並んで僕の愛唱歌である My Rifle my pony and me  (これもウエインの代表作 リオ・ブラボー で、ディーン・マーティンが歌いリッキー・ネルソンがギターを弾く、なんせ、いいんである)と同じことに気がついた。そこで終わった後、何もあるまいがダメモト、とおもいながらグーグルに ”Red River, My Rifle and Me” と入れてみたら、なんと!一発でアメリカ人の女性が同じ質問をしていて、その道の専門の人が明確に答えをだしているではないか。この広い世界で同じ経験をした人がいるということもうれしかったが、この解説によると、この2本は主演ジョン・ウエイン、監督ハワード・ホークス、音楽ディミトリ・ティオムキンという共通点があり、1959年に作った ”リオ・ブラボー”にティオムキンが原曲をそのまま使ったのだそうだ。

(金藤)My rifle, my pony and me という歌を知りませんでしたのでYouTube で聞いてみました。 Film appearances の中に、「赤い河の谷間」が流れた西部劇がたくさん載っています。「怒りの葡萄」の中でも流れていたのですね。作曲者不詳のアメリカ民謡で、歌われていた場所により題名が異っているようですが北部のネィティブアメリカン発祥説が多いようです。

”赤い河” 原題 Red River

ジョン・ウエインの代表作のひとつで、オールドファンとくに女性に圧倒的な人気のあった、モンゴメリ・クリフトが初めて出演した西部劇である。歴史的背景としては、テキサスから肉牛を中部の消費地まで届けるため、チザムという男がテキサスからカンサスまでトレイルを開拓した。このチザムトレイル(と想定される、映画ではあきらかにしていない)をウエインとクリフト指揮のカウボーイ群がたどった話である。やはりウエイン主演で チザム という活劇ものがあり、これも早晩、BS103 に登場するだろうと心待ちにしている。この話には、実在の人物であるビリー・ザ・キッドが登場し、リンカーンウオーとよばれた大騒動を引き起こす。シリアスな赤い河と違って、あっけらかんとした娯楽大作である。

”赤い河” の Red River と Red River Valley は同じものか?

1.北アメリカ大陸に Red River という河は2本存在する。うち1本はミネソタ、ノースダコタのあたりから始まり、北上してカナダを流れる。この流域には開拓初期、レッドリバー植民地という地域があった。2本目はテキサス、オクラホマにまたがるミシシッピーの支流である。

2.西部開拓時代、牛肉は主として中部諸州から提供され、テキサス牛(ロングホーンと呼ばれる種類)はまだ流通していなかった。一方、大陸横断鉄道が徐々に伸び、カンサスあたりまで敷設されるようになり、ジェシー・チザムによってテキサス南部からカンサスまでのトレイルが開かれた。この道をたどって、テキサスの牛をカンサスまで運ぶという冒険がはじまった。

3.映画 ”Red River” はこのチザムトレイル開拓史をベースにした物語であり、その脚本のベースになった記録もあるのでこのような話は史実として裏書される(これによって成功者となったチザムを主人公にした単純明快勧善懲悪なウエイン作品が前述した ”チザム”(1970年)である。

4.ま、ほかの俳優ならわからないが、ジョン・ウエインが come and sit by my side if you love me,  なんていうシーンは想像もできないし、僕が思い込んでいる Red River Valley  はどう見てももっとロマンチックな場所であってほしいから、たぶん、上記1番目のレッドリバー植民地であるのだ、と結論したい。

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今回の結論。西部劇、というだけでそっぽを向く人が多いのもよく知っている。文句を言う前に、先ず、この映画をみたまえ! DVD1本、自粛費用としては安いもんだぜ。

 

月いちメンバー家に籠る (26)  (39 堀川義夫)

 

気が狂いそうです。毎日毎日ワンパターンの生活にうんざりしています。山は行っても問題ないのでは、と思うのですが・・・??

パチンコ屋は自粛規制にも関わらず営業をし続け、また、そこに行く馬鹿が沢山いるという現実は本当に理解しがたい! ゴルフ場はやっているところが多いようですね。山はだめでゴルフ場は良い、と言うのもうなずけないですね。まあ、この際はお上の方針通りに従う従順な市民に徹しきりましょうかね。

また、寺家ふるさと村の話で恐縮です。これしかないのです!!!ふるさと村から500mも行くと町田市に入りますが、昨日初めて下三輪玉田谷戸横穴墓群と言うところに行ってみました。説明は以下の写真の通りです。

アヤメ? カキツバタ? 私には区別がつきませんが・・・?? 結構群生して咲いています。Googleで調べると花びらの付け根に以下の違いがある様です。

【アヤメ】花弁の根元が白と黄色、網目模様がある
【ハナショウブ】花弁の根元が白と黄色、模様なし。アヤメの後にハナショウブの時期(6月)が来る。
【カキツバタ】花弁の根元が白一色で模様なし

と言うことは、これはアヤメ???

(編集子 石渡博士、返事してやってもらえますか?)

 

もうじき田植えがはじまるようだ

 

 

Sneak Preview (1) (44 安田耕太郎)

ラパスの夜景

(編集子注)先回紹介したが、安田耕太郎君が近々、著書を刊行する。刊行に先立って、その一部を何回かに分けて紹介してもらうことになった。HP社において、マーケティングに参画していて少しばかり理論をかじった時、製品発表に先立って、戦略的に行う部分的な開示を Sneak Preview ということを教わった。今回以降、何回かに分けてお届けする。

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(1)犬と5400m 峰を登る

ラパスとイリマ二峰6438m

平和を意味するラパス(La Paz)は色々な面で世界でも稀有な都市である。標高が町の一番低い所でも3600メートルある。ランドマークである標高6438メートルのイリマニ山Illimani (ボリビア第2の高峰)が町の至近25キロに聳えている。東京からみて横浜の位置に北アルプス級の2800メートルの山が聳えているようなものである。Illimaniは先住民の言葉で「黄金のコンドル」を意味する。古くから信仰の対象となっていた崇高な山なのだ。

すり鉢状の盆地に都市が建設され、標高が低い、酸素濃度が高い底の地域から人が住み始め、富裕層が住む住宅街も底に集まっている。政治行政の中枢建物も商業施設も底に集まっている。すり鉢状の山腹には底から段々上に住宅がびっしり建っていった。底と上部は400メートルの高度差がある。

朝プーノを発ってチチカカ湖を船で渡り、ボリビア領の湖畔の町から乗ったバスが北の方角からラパスに近づくと、あっと驚く風景が目の前に現れる。色彩も綺麗な夕焼け時に崖の上から見下ろすと、すり鉢状の盆地に町が広がり、左手南東の方角には巨大なイリマニ山が仁王様にように聳えている。強烈な印象が残る光景だった。

インディヘナと呼ばれる先住民が多く目立った。女性は長い髪を三つ編みにして垂らして帽子をかぶり、色鮮やかな民族衣裳に身を包んでいる。 街は都市計画など無しに盆地の底から発展したに違いないが、ごちゃごちゃした混沌が独特の魅力を醸し出していた。

情報収集の為日本大使館を訪れた。立ち寄る日本人が少ない時代、親切に対応してくれた。ラパスから北へ15キロ離れた山に東京大学の宇宙線研究所があり日本人も常駐している。ちょうどそこに行く研究者がいるので紹介する、との予想外の嬉しい話の展開。

2日後、研究所の車で連れて行ってもらった。研究所施設は1962年開設でブラジルとの共同運営。4500メートルを超える高所に位置していた。早めの昼食などご馳走になり、2時間ほど歩けば頂上に行けるよ、との言葉に乗って独りで登ることにした。独りといっても人間は一人だが研究所で飼っている犬が一緒についてきた。勿論、初対面であったがこの人なつっこい犬は途中で自分の棲家(研究所)に戻りもしないで頂上までついてきた。5000メートルを超える高山を犬と一緒に登ったのだ。今でも信じられない体験だった。酸素も薄く2時間ではとても達する高さではなかった。

 

チャカルタヤ峰からのイリマニ山

3時間以上かかった。後で調べると頂上の高さは5385メートル。チャカルタヤ山といった。秋とはいえ前年の雪が残り眼下には氷河も見えた。ラパスへ向かう飛行機が眼下を飛んでいく。ラパス近くの6000メートルを優に超えるイリマニ山の威厳ある姿と大パノラマをしばし堪能し、5000メートルを超える頂上からイリマニ山遠景写真を撮った。忘れ得ぬ一枚だ。犬と一緒の写真も貴重な一枚だ。

単独行はどうしても足早になるもの、高山病の兆候が出始め吐き気がしてきた。無事研究所に降りて暫く休憩して研究者の車でラパスに戻ったが、ちょうど日暮れ時でラパスの夜景が綺麗であった。

 

俺、級長。文句あっか?  (35 森永正幹)

手帳の予定も真っ白、食料以外に買う物も無くお金を使わない毎日。連休中は今まで見た事の無い様なゴーストタウン状の軽井沢銀座、新緑のみが目にまぶしい。

4月5日が今シーズン最後のスキー。板をに tune up、ブーツ、ヘルメット類片付け衣類をクリーニングに出し、来シーズンの準備完了で体力維持の為インターバルウオーキング(毎朝5KM)を開始しました。

コロナ発生で2月後半からのレースは中止が多く消化不良のシーズン(115日、早朝2時間のみ滑走)でした。

全日本マスターズ、尾瀬片品大会、アルペン競技スタートリスト、ゼッケン43番

マスターズ大会は全日本スキー連盟B級公認。44回は栂池で開催、ジャイアントスラローム、男子80歳代レース、第三位入賞。

 

来シーズンへむけてのスタートはすでに開始!

 

(編集子 無言)

月いちメンバー家に籠る (25)  (38 町井かをる)

月2回のドイツ語授業がオンラインレッスンになりました!
スマホを持っていないガラケイ人間ですし、5月に入って80歳になってしまった私がオンラインレッスンなんて、まだ信じられません。
勿論、最初の設定は娘がしてくれましたが、8日のお試しレッスンで私の顔が映ったり、チャットをしたり、グループ分けをされたり、ミュートにしたり、解除したり…をあちこちクリックして、どうにかついてゆけました。
三田会費を登望会員から集める仕事も始まりますので、自粛生活は忙しくなりそうです。
(編集子)やってますね。僕も個人教授で足掛け4年位、ドイツ人(日本女性と結婚、永住することを考えているような人です)にレッスンをしてもらっています(ここしばらくにくきコロナのため中止)。なんせ、記憶能力の減退を嘆くばかりです。

”政府対応” 記事について  (37 菅谷国雄)

新型コロナウイルスの来襲で世の中すっかりおかしくなってしまった。今まで経験したことがないウイルスの蔓延に、政府も慌てふためき、場当たり的な対応策に追われている。特に非常事態宣言と差し替えに出された「国民一人当たり10万円支給」の政策に、国会も満場一致、マスコミも異論を唱えず、国民は「早くよこせ」の大合唱である。当初案の「困窮者優先・30万円支給」はどこかに吹っ飛んでいる。お上が、国民に飴玉を与えてご機嫌を取る選挙目当ての政策に誰もが気付いていながら声を出す者が居ない。リーダーや国会議員を選ぶ選挙制度にも大いに問題がある。与党も野党もこの飴玉探しにやっきとなり、マスコミもこれを煽ることに終始している。世界的ポピュリズムの蔓延に、我が国の民主主義も危ない橋を渡ろうとしている。国民が国を信用しなければ、国も国民を信用しない。愚民政策は恐ろしいことだ。

明治の民主主義の揺籃期に、その困難さに気付いていたのは福澤諭吉であった。個人の自立、智徳の向上、国を支える気概なくして真の民主主義は育たない、デモクラシイーはそれぞれの心の内から崩れていく、このことに最初に気付いた思想家は福澤諭吉であったと、小林秀雄も「考えるヒント」に書いている。

今、もしこのコロナ禍に先生がご健在であったなら、時事新報にどんな社説を述べたのだろうか。

かってウィンストン・チャーチルは「民主主義は最悪の政治形態だ、ただしこれまで試されて来た全ての形態を別にすれば」と述べたが、コロナ後の世界がどの様な方向に進むのか、民主主義が危ない橋を渡ったその先を、誰が描くのだろうか。80歳の老人も刮目し黙っていることは許されない。

チャーチルの名言「現在我々は悪い時期を通過している。良くなるまでおそらく現在よりも悪くなるだろう。しかし忍耐し我慢しさえすれば、やがて良くなることを、我々は全く疑わない」、未だこうした希望を訴える国やリーダーが世界中に少しでも残っているなら、わが国も進んでその仲間に入りたいものだ。

改めて今の愚民政策憂うる!

10万円が出て、自粛中のパチンコ屋に行列が出来ないことを祈りつつ・・・  

(編集子注)ご指摘の問題点、このあたりは全く日本の政治の遅れとはいいませんが、何よりも不甲斐ない野党のために二大政党制が定着しないことが問題だと思うのですがいかが。このことだけについては、”ほかの国はできているのに日本は?”という感覚に賛成です。

         

”政府対応”記事について     (HPOB 菅井康二)

国際比較に使える唯一の指標「超過死亡」で明らかになる実態

COVID-19パンデミックに対する我が国の対応策に対してPCR検査数がOECD諸国中では最低水準で諸外国からはまるでこれもガラパゴス化?かと言われ放題の状態でありますが、興味深い記事を見つけましたのでご紹介させていただきます。あえて私の余計な補足は致しませんので記事をじっくりとお読みくだされば幸いです。

https://bit.ly/3clROnE

あくまでも私見ではありますが早期の沈静化を図るには誤差があるとしても感染者と非感染者を識別するPCR検査の数を劇的に増やす方策を考え出すことが必要だと思われます。そして感染者を徹底的に隔離する。さもないと経済というよりは社会のシステム自体が崩壊してしまいます。

政府のコロナ禍対応策への批判について 

ここのところテレビはコロナ対策についてのいろいろな情報とともに、政府対策についてのコメントが目白押しである。また友人の多くからも同様、政府のやり方に対する疑問論が相次いで送られてきている。編集子にも、(なにやってんだ?)という気持も大いにあるし、感情論として現在の対応に納得できないことも多々ある。ただ残念だがいろいろな対策について、確たる知見があるわけではなく、各論について、たとえばPCRがどうあるべきか、などについて批判できる立場にはない。遅いのか、緩いのか、だめなのか、自分で確信をもって語れるわけではない。

ただ一点だけ、多くの批判論について申し上げたいことがある。それは論者に共通している、”外国はこうやっているのになぜ日本はしないのか” (だから日本はだめなんだ)という見方と、その延長にあってとくに欧米諸国からは日本の対応のまずさが指摘され、はては笑われている、という意見である。小生にはこれらの論点の背後に、いまなお日本人特有の敗戦国―歴史的自虐観が見え隠れしている、と思われてならないのである。

”なぜ日本はほかの国のやり方をやらないのか”、これは事実として確定できる。やっていないのは誰の目にもあきらかだからである。しかしなぜ、という点については、それはわが国の在り方が多くの国(あえて言えばほとんどの国)と、良しあしは別として、違っているからなのだと思う。また、”欧米諸国” の日本に対しての批判とか嘲笑、などと言う点に関しては、マスコミの報道以外、我々が自身で確認すべき方法もなく、あまり生産性のある議論ではあるまい。よしんばされていたとしても結果がどうなのか、をみれば解決することなのではないか。

(また、メルケルや英国女王のスピーチに対して高い評価があり、一国の指導者にはこういう姿勢があるべきで、という意見もある。僕自身、スピーチは拝見し、大いに感激し、元首個人が持っておられる識見というか、知性の高さを改めて認識するものである。安倍首相が同じように話をされれば、それに越したことはない。しかし日本の歴史を振り返ってみて、特に戦後の政治において、誰彼を問わず、このような例はないように思う。これは元首個人の個性というより、日本の元首選出の方法論や行政府の在り方そのものからくるものではないだろうか。天皇親政の時代から江戸幕府まで、庶民にとって ”お上” は疑わざるべき絶対であって、批判すべき対象にはなり得なかった。その反動からだろうが現代にあって、ある意味では極左運動につらなる個人崇拝排除主義が生まれ、個人は選挙運動の段階から元首(になるべき人)の日常のありようを見ることに重きを置き、結局、知性とか見識とか言った属人的なファクタよりも、行政上の公約のみを問うて選挙をしてきた。したがって元首なり行政府には、仕事師、を尊重し、人格や識見は二次的なものとなり、元首の発言・行動を制限するような環境があるのではないか。ある意味では、同情すべき点無きにしも非ず、という気がする。しかし、首相、もっと言ってもいいんじゃん、という率直な感じはあるも否定はしないが。)

以下、三つの点から小生の意見をのべさせていただく。

第一に、法律上、私権の制限について、憲法解釈上の問題について、日本ほど厳重に(逆に言えば時として必要以上に)慎重な国はないのではないか。これは別の言い方をすれば、憲法改正につながる問題であり(もちろん自分は改憲論者であるが),現行憲法を尊重する立場を遵守するかぎり、ゆるいといわれようがなんといわれようが、今回の私権制限の方法はせめられるものではないのではないか。それと、もう一つ、重視すべき点として、今回の一連の規制が日本人の良識を信じて実行されたものだ、という点で、大いに異論はあろうが、小生は素晴らしいものだった、と感じている。今回の連休の結果を見たまえ。強制も、処罰もなくして、国民は政府の要請に見事応えた。国民がやるべきことは実行した。これから問われるのは、われわれが、よし、協力しよう、としてしたがった、その方策が現実に正しかったのかどうか、であろう。その結果は本日時点ではなんともわからない。しかしこれについても、当局は専門家の意見を公開し、尊重した。韓国、中国、欧州諸国は憲法上のプロセスに訴えて、大幅な私権制限・戒厳令、国によっては武力の行使まで行わなければならなかった。たしかにスピード感はあったし、強い政府、すぐれたリーダー、というイメージができた。やり方は州単位になっているとはいえ,迷走を続けるトランプ政権なども同じような印象をあたえた。しかしこれら ”ほかの、外国の” 対応と比べて、わが国の施策は透明度においても、民主主義法治国家としての限界を守ったという意味でも、強制のかわりに国民の良識を信じた、その忍耐と努力はみとめるべきではないのか。何が ”外国のようにしないから” いけないのか、が僕には納得できないでいる。

第二のポイントは、文化の違いについての認識である。日本古来の伝統によって、われわれは家に帰ったら、靴を脱ぐ、という動作を、あたかも呼吸をするように無意識に、当然のこととしてやっている。和風建築は当然として、欧米流を模倣して建てた昨今のモダンな建築においても、玄関、というスペースがかならずあり、そこで靴を履き替えることによって、外部から持ち込まれる異物や病原菌などを、完全ではないにせよ、大幅にシャットアウトする。また日常生活においても挨拶に抱き合ったりする習慣はないし、握手もそれほど日常化した動作ではなく、キスに至っては欧米文化との隔たりは大きい。そのうえ、古来、おそらく、小生の考えでは,神道文化に源があるのだと思うが、汚れを嫌う、その具体的な表れとして神社では手を洗い口を漱ぐ、といった文化、その延長として、国民全体の日常生活の清潔さ、それと現在、まだまだ問題はあるにせよ、国民全体をカバーする医療保険、などなど、一口に言って生活の清潔度が世界一、と言えるくらいのものだ、という事実はもっと認められていいのではないか。ただ経済力か政府の認識かしらないが医療のインフラストラクチュアがそれに追いついていないのは残念だが事実だ。医療関係者の自己犠牲によって戦線が維持されている、という現状はやはり政治の責任であろう。

このような国ごとの特殊性はもちろん日本だけのものではない。今感染状況が深刻な米国、その中でも黒人やヒスパニックの多い南部諸州には、マスク着用を禁じる法律があるという。これはマスクによって顔を隠す犯罪者が多発したためと、それにともなう人種差別行動を抑制するための強行法規であるという。日本人の常識では考えられないが、このことを知って、なぜトランプがマスクをしないのかも明らかになった気がする。同時にここまで選挙を意識した行動を一国の元首がとっていいのか? という、コロナとは関係のない義憤も感じるのだが。

第三、これがおそらく最大のポイントだと思うが、日本人に共通する道義心,公徳心の高さである。深夜、人気のない交差点でも、赤信号なら横断しない、という日本人の律義さをあざ笑ったひともあったが、長い歴史と、近代では明治維新で断行された教育制度の徹底とが、これは外国経験のある方ならまちがいなく納得するだろうが、日本人の民度の高さにつながっている。

以上三点、特に後半ふたつの誇るべき資質、それによって、まだまだ予断は許さないとはいえ、コロナ禍を抜け出られそうなところまで、日本はやってきた。たしかウインストン・チャーチルだったとおもうが、政治とはより悪くないものの選択である、という言葉がある。その選択は国の文化と得られる範囲で最も確実な科学的知見そして願わくば歴史的展望に立って、現実から選択されるべきものであって、決して ほかの国がやってるから なされるべきものではないと思うのだが、諸兄姉、いかがお考えであろうか。活発なご意見、ご反論をお待ち申し上げる(頂戴したものはブログに転載させていただくこともあることをご了解願いたい)。

 

 

本を出版します   (44 安田耕太郎)

まもなく世界一周放浪記を自費出版する予定です。

半世紀以上前の学生時代に2年間に亘って東廻りで世界一周の旅をしました。
健康面の相談をS34 船曳先生にしました。盲腸は切って行った方が良いでしょうか、の質問に笑って一言「何を馬鹿なことを」。太平洋を貨物船で横断しましたが、往復切符を持たぬ出国で当時必要だったアメリカビザの獲得をS38大岡先輩に助けて頂きました

アメリカ入国後、カリフォルニア州パロアルトに赴任しておられた、それまでに面識のなかったS36中司ご夫妻宅に泊めて頂きました。KWVの活動経験から勇気をもらい、諸先輩方々の助けをいただき世界一周放浪の旅を終えることが出来ました。自費出版につきましてもS36「ナンカナイ会そのふみあと」本の製本出版に携わったH7田所君をジャイさんに紹介していただき、上梓に向けて尽力していただいています。KWVに所属してなければ、旅も出版もありませんでした。

5大陸50数ヵ国訪問の旅は1968〜70年、21〜23歳の時期でした。
旅行記は、文章24万字、足跡を示す地図20数枚、写真数十枚を含め600頁を超す長文となりました。前書きと目次に続く最初の書き出し部分をご参考までに下記の通りご紹介します。コロナ禍の影響で上梓は予定より大幅に遅れ今夏になる見込みです

世界一周に付き合ったリュックサック

1.  旅のはじまり
1969年11月、僕はジブラルタル海峡を渡るカーフェリーの船上にいた。日本を発ってからすでに1年半が経過していた。横浜港から貨物船に乗り込み、14日間かけてアメリカのウイルミントンに上陸し、旅の第一歩を踏み出したのが遠い昔のように思えた。あれからどれだけの足跡を残してきたのだろうか。
アメリカでの旅費稼ぎの日々、憧れのルート66、中南米15ヵ国踏破、犬と登った5400mアンデス峰、南米フィヨルド海域の軍艦乗船、ヨーロッパ最北端ノースケープの白夜、東西冷戦の象徴東ベルリンの壁でのあわやの危機など、日本では決して味わえない経験をしてきた。そして今、未踏の地であるアフリカ大陸に向けて僕を乗せた船は白浪を立てていた。
出港地アルヘシラスから対岸のセウタへはわずか2時間ほどの船旅だ。しかし、僕に旅の思い出をゆっくりと振り返る暇はなかった。フェリー内で僕はある「仕事」をしなければならなかったからだ。それは、これから向かうモロッコを旅する人の車をゲットすることだった。

ジブラルタルのザ・ロック(The Rock)。別名ヘラクレスの柱(Pillar of Hercules)ともいう。

僕はフェリー乗船直後から車で旅する人とできるだけ会話をした。そして、ドイツ人男性とアメリ人女性のカップルが大きなベンツでモロッコを一週間旅することを聞き出し、親しくなることができた。会話に夢中になるあまり、カーフェリーの船内からジブラルタルの「The Rock」の景観を見逃したほどだ。それから一週間、日・独・米の奇妙な組み合わせでモロッコを旅することとなった。
不安を抱いてフェリーに乗り込んだが、フェリーから下船する際にはベンツの後部座席に陣取っている・・・。これまでに幾度もあった旅の面白さの一端がここに凝縮されているように思える。このような幸運に恵まれるのもこれまでの旅で培われた多くの経験によるものだ。そもそもなぜ僕が世界一周へと旅立ったのか。まず旅の始まりから記したい。

モロッコでベンツ車ヒッチハイク。道端でランチピクニック。

自粛また楽しからずや 

各位がこの自粛期間をどうやって過ごしているか、情報交換をお願いしてきた以上、自分がどうしているかも報告しなければならないと思い立った。トピックは三つである。

その前に健康維持だが、ここの所、午前中は小生、午後はワイフ、と時間差散歩をやっている。僕は甲州街道を北上して調布まで、時には旧甲州も歩いたり、突発的に見知らぬ小路を歩いたり、最後は駅前の シャノアール(お気に入りの サンマロ は忠実に休業中) でアイスティ350円、帰りは電車、歩行距離は大体4キロくらいか。オクガタは街道を南下、仙川方面へいく。屋上に腹筋用の器具がおいてあって、毎日、と思っているのだがこれはなかなか日課にはならない。だいぶ暖かくなったので、歩くのを就寝前、に変更するつもりである。

今回、”家に籠る” 羽目になって、趣味をいくつか持っていることをよかったとあらためて思っている。亡父は水彩画にかけては正直、玄人はだしの腕前だったうえ、美術骨董品の収集に眼がなく、謡曲も得意だった。カメラ持参で休日と言えば奈良京都の古寺を尋ね、京都には地元の人もびっくりするくらい詳しかった(僕の小学校時代から大阪に単身赴任)。大の読書家でもあって、その影響で僕にとって本を読む、ということは食事をするのと同様の日常行事になっている。

この自粛生活がはじまってからの読書時間は1日あたり2時間くらいだろうか。1冊目はマーク・ウオルバーグ主演 ”極大射程” で知られるようになったスティーヴン・ハンターの歴史ミステリもの Hunters Honor を読了、現在は第二次大戦の山場、ノルマンディ上陸作戦にあたって英国情報部が仕組んだスパイ活動の実話 Double Cross に挑戦中。浮世にあばよ、とおさらばするまでに原書で10万頁読了という目標はまだ、捨てていない(先月末で約7万2千ページ)。

二つ目はアマチュア無線、いわゆる ハム、の世界である。高校1年のときに自作の送信機で交信ができて以来(この記念すべき第一号交信は、実にKWV 37年卒 国府田君の兄上であった!)、大学へ行くまでは文字通り熱狂していたが、KWVが生活の中心になってからは全く興味を失っていた。在職中、ふとしたことから免許を取り直し、退職後はこの分野での大立者である44年卒浅野三郎君の指導のお陰でほぼ10年近く、仲間内では DX と呼ばれる国外、遠距離との交信に精を出した(ちなみにこのギョーカイでは、浅野三郎といえば大したもので、小生なんぞは彼から声をかけてもらうだけで恐縮し、にじりよってお酌をさせてもらうのが光栄、というくらいなのだ)。ところが、である。

僕が高校時代、日本ではハムと言えば、まあ100パーセント近くの人が手製の通信機と竹竿にひっかけたくらいの原始的なアンテナで通信をやっていた。いま使われているメーカー製に比べればスーパーコンピュータとガラケーぐらいの差があったが、それだけにたとえ隣町の人であろうと、自分でやった、という満足感があった。一方、国外との交信(われわれの用語ではDXという) などはほんの数えるくらいのベテランにしかできない、一高校生にすればはるか遠くの夢でありあこがれであったのだ。それが現在はメーカー製品が当たり前の世界になり、はっきり言えば少し金をかければ、俺でもまあまあのことができるのがわかってきた。そういうなかで、せめてサブローから声をかけてもらえるくらいまでやろう、という気持ちと、どうもなあ、という年寄りのひがみか偏屈かわからないが、今の在り方に少しばかり興ざめの状態に陥っている。それが自粛の間、毎日通信機の前に座っていてもいいのだが、この3ケ月くらいはスイッチをいれたこともない、というありあまる時間の使い方としては妙な具合になっている。

それはひとことでいうと、アマチュア無線の仕組みそのものがいまやほとんど100パーセント、プロのメーカーの製品と、あわせて日進月歩のIT技術との両天秤で進行する、という現実への(これが ”アマチュア” なのか?)という疑問であり、ときとして (これならインタネットのほうがいいじゃん)などと感じる事もあるからだ。1970年代かな、あまり確かではないがトリオ、いまでいうケンウッド、はじめ多くのメーカーが出てくるまで、日本にはハム機器を作るメーカーはほとんどなく、当初はその少ないメーカーが完成品とあわせて自社製の製品に使う主要部品の小売りもしていたから、当時腕に自信のある人はそれを利用して、時としては(メーカー製に劣らないものを素人が作ったぞ!)と自作品がつぎつぎと発表されたりしていた。しかし時代は移り今やハム機器も高度の性能を持った自社設計のLSIやディジタル技術が満載され、自作、ということ自体、ハムの世界からなくなったとは言わないがきわめてまれであり、仮に通信機ができあがったとしても、それが現在の厳しい電波監理局の規制に合格できるかどうかはわからない(というよりできない確率がきわめて大きい)。わからないけど、やってみる価値はないのか。

なぜ、山に登るのか。 Because it is there ,といつもの無茶苦茶精神が起きてきて、何年かかるかわからないが送信機受信機の自作、それもオールドボーイの手の届く、真空管でやろうと実はここ数年、ひそやかにやってきた実験ベースを(ひょっとすると遺品になるかもしれないが)使えるものにしたい、というのがいまの挑戦である。2枚の写真は現在進行中の作品の例で、プリント板、なんてものすらない、昭和のタマシイみたいなものだが、結果、部屋じゅうにアルミの削り屑やらはんだの飛び散りやら落ちたビスやらが散乱、セーターははんだ鏝の焼け焦げだらけ。はじめは ”毎日、掃除して!” と怒っていた我が妻オヤエも昨今はあきらめ(はじめた)たようだ。なまじっか中古とはいえ、昔だったら想像もできない測定器などをそろえてしまった結果、昔ならわかりもしなかっただろう不具合連発発見、しゃあねえ、はじめから組みなおし、と自粛の時間では足りるわけがないのが現実である。しかし、これが楽しい。いつの日か、隣町のひとでもいい、この送信機に俺の声を載せてやる、その意地だけのことだ。

第三、がこれは 自粛生活、が開いてくれた新たな局面、題してSNS(と言えば大げさで、メールとブログにアイフォンだけだが)に目覚めるの記、である。

ブログを通じてOB会メンバー、在職中世話をしてくれた小生のセクレタリー、米人と結婚して現在はいわばメリーウイドウでシリコンバレーにいる旧友、普通部高校と通じての友人、というお互い面識のない間柄で起きている愉快な話がいろいろあり、先だって本稿で紹介した、小泉先輩、47年の関谷君、横河電機時代の親友、という異世界?の友人との出会い、このセレンディピティとでもいうような現象を再現したいと思わせる楽しいパスタイムのひとつを ”エーガ愛好会” として稿を改めてご紹介したいと思っている。月いち高尾” 同様、ご興味お持ちの方の参画を期待する。

小生にとって エーガ と言えばまずこの(左の)人なのだ)