エーガ愛好会 (2) 西部劇だけがエーガじゃないよ!

(小泉)

 金藤泰子様からのメール拝見。ゲイルラッセルについて、インターネットからでしょうか、詳しく紹介いただき有難うございます。拳銃無宿のポスターやらポートレートやら数え切れぬほどあるのですね。拳銃無宿と言えば、スティーヴマックイーンが賞金稼ぎで活躍するTVドラマのこと、映画の方、よくぞ見つけてくれました。それにしても、便利な世の中になったものです(中略)。「昔の映画をビデオで見れば(1990年刊)を今再見しているのですが、発刊当時映画は一回見ればいい、一本勝負の観た映画は生涯忘れないという気持ちから、ビデオの出現がそれを変えた時代だった。今そのビデオもDVDになり、YouTubeになった時代へと変化してきました。映画も封切り後、時間さえ経てば、いつでも見られる時代に変化してきました。 Gisan同様に、過去の映画を推薦するとすれば、何が良いだろう?

あまた数ある中で、英国映画「逢びき」。ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番が全編に溢れるように流れている映画。この映画を推薦したいです。平凡な中流家庭の人妻のつかの間の初めての禁断の恋。不倫の誘惑への葛藤が、この曲とともに進行する。この映画以降、この曲は勿論、ラフマニノフの作品の虜になってしまったのでした。その後マリリンモンローの「七年目の浮気」、ジョーンフォンティーンの「旅愁」、エリザベステイラーの「ラプソディー」や最近の「のだめカンタービレ」等に、この第2番が登場するが、何れもピアニストが演奏しての場面、この映画では人妻の初めて知っただろう心中の激しい葛藤が、この曲と共に展開するのでした。若しご覧になっていたとしても、このコロナの時期ですし、小生もラフマニノフを聴く積りで、観たくなりました。

(金藤)

「逢引き」という映画 題名は聞いた事はありますが 観ていません。“ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番が全編に溢れるように流れている”と言う文章に心惹かれます。 ぜひ、観てみようと思います。
ラフマニノフの曲はフィギュアスケートでもよく使われていますね
他の曲だったと思いますが、パトリック・チャン 安藤美姫等が
ラフマニノフの調べに乗って滑っていたような気がします。

(菅原)貴兄の「西部劇、というだけでそっぽを向く人が多いのもよく知っている。・・・」と言う発言に触発されて、日頃、考えていることを以下に纏めてみた(またもや、小泉先輩にこっぴどくやっつけられることに戦々恐々としている)。

日本人はクソ真面目なことが大好きだ。いや、大好きと言うより、神の如く崇め奉っている。江戸時代の日本人もそうだったのだろうか。でも、落語で代表されるように、そうでなかった可能性が極めて高かったのではないか。何故、クソ真面目になったのかは、明治時代に日本に来たお雇い外国人、特にドイツ人の生き方の影響が多大にあったとのではないかと推測する。勿論、その対象が日本の教養階級であったことは言うまでもない。

今現在、例えば、文学では、直木賞より芥川賞の方が上と見られているし(一平/二太郎が直木賞の受賞者だったように、面白さでは、芥川賞は直木賞の足元にも及ばない。しかし、最近は、直木賞であっても食指をそそられる作品は余りないようだ)、音楽では、中でもオペラでは、「セビリアの理髪師」のG.ロッシーニよりも、「ニーベルンクの指輪」のR.ワググナーの方が上と見られているなど(一方はノー天気であり、もう一方は深遠そのもの)、クソ真面目が上である例は枚挙にいとまがない。

エイガも同じであって、ヨーロッパ、特におフランスのエイガに較べ、西部劇は活動写真と蔑み、一顧だにしない風潮があるのも事実だろう。人生いかに生きるべきか、が主題であるべきであると言う妄想があるからに他ならない(西部劇にも、友情あり、愛情あり、など人生いかに生きるかがちりばめられているかには気づいていないんでしょうね)。

1950年台10年間のキネマ旬報(以下、キネ旬と省略)のベスト10を見ると、初めてベスト10に入った西部劇は1953年7位の「シェイン」であり、あとは1958年1位になった「大いなる西部」のたったの2本に過ぎない(1957年9位の「友情ある説得」は西部劇じゃないと思う)。「黄色いリボン」「赤い河」も全く出てこない。当時のキネ旬が明らかにヨーロッパ、特に、おフランス映画に傾斜していたのは紛れもない事実だ(蛇足だが、左にも大きく傾いていた)。

しかし、良く考えてみると、クソ真面目を崇め奉っている人は、不幸とも言えるだろう。面白い、楽しいことをやせ我慢している面もありそうだからだ。面白いことを面白いと言い、楽しいことを楽しいと言う人生は何と素晴らしいことか!

(小泉) 昨日、KOBUKI(41年卒久米行子)さんから、アマゾンプライスというもので、「旅愁」を懐かしく観て、ラフマニノフの第2番が流れてました・・・のメールを頂戴しました。金藤さんに先日「逢いびき」を推薦いたしましたが、この「旅愁」も推薦したくなりました。ジョーン・フォーンティーンが美しいピアニスト、妻ジェシカ・タンディと息子のいる実業家ジョセフ・コットンが乗り合わせた飛行機が急遽イタリアに降りたっての不倫。こちらはラフマニノフに、セプテンバーソングがからみ、観光も楽しめるという映画でした。

(安田)過去の映画となった旧作を観る基準は、誰でも知っている名画、映画監督作品を辿る、俳優を追うなどでしょうか。

例えば、キャロル・リードの名作「第三の男」の準主役とも云うべきジョセフ・コットンが気になり、彼の出演映画を観ました。「市民ケーン」「疑惑の影」「ガス燈」「ジェニイの肖像」「旅愁」「ナイアガラ」などです。当然、共演のオーソン・ウエルズ、テレサ・ライト、イングリッド・バーグマン、ジェニファー・ジョーンズ、ジョーン・フォンティン、マリリン・モンローの作品にも興味を持ち、彼等彼女等の出演映画を観ることになります。また、演出した監督、例えば、「疑惑の影」のアルフレッド・ヒッチコック、「ガス燈」のジョージ・キューカーの映画を探して観ます。この様に出演俳優、演出の監督作品が絡み合って気が付けば104もの映画を観ていました(編集子注:このリストは長すぎるので残念ながら掲載していない)。

(小泉)安田さん、一つの映画のことから、無数の映画への発展!記憶力とジャンルの知識がなければとても書けないでしょう。

 菅原さん、映画から音楽へ。チェリビダッケのブラームスとは、相当の音楽通です。映画通としては、ブラームスはお好き?「さよならをもう一度」を思い出します。

写真提供:安田

(中司)フランス映画ってのは、望郷、太陽、恐怖、禁じられた遊び、太陽、ジャン・ギャバンやドロンのノワールものもフランス映画なら、あと5-6本見てるかなあ。あまり、見てない、というのが正直なところ。ところで、今、D-day (ノルマンディ上陸)秘話の Double Cross というのを、本当は連休までに読了の予定がまだ半分くらい、200ページまでしか終わってないが読んでる。その中に、ダブルスパイを支援したフランス女優として Simone Simon という名前が出てくる。なんか、関係あるかなあ。

(後藤)シモーヌ・シモンは清純派の女優で戦後の比較的早い時期に日本にも来たことがあります。箱根の温泉旅館で浴室で素っ裸になって(外人は当然ですから)洗い場で小便までやった事から大騒ぎになった話は有名です。シモーヌ・シニョレイほどの大物ではなかったと記憶していますがどの映画に出ていたか覚えていません。

(編集子)妙なエピソードが出てきたところで、今回はこのあたりで。

 

福澤諭吉の脱亜思想と脱亜論 (37 菅谷国雄)

戦後70年、改めてその時代背景を検証する 

この10年ほど地元三田会の仲間に誘われて福沢諭吉の著作を輪読する読書会に誘われ、70~80歳の手習いを続けております。

その間、仲間におだてられ50人程の三田会員を集めて講演会をやりましたが、その時の演題が偶々先日NHKで放映された「福澤センセイのすすめ」のテーマに近いものでした。講演時から少し時間が経ちましたが、コロナ禍でご自宅に居られるお時間の暇つぶしに、当時の原稿をお送り致しますので、諸兄妹のご意見ご叱責を賜れば幸甚に存じます。

はじめに 

Ⅰ 初期福澤のアジア認識

文明論之概略から時事小言まで 

Ⅱ 時事新報発刊から「脱亜論」まで 

Ⅲ 脱亜論の要約 

Ⅳ 何が「脱亜論」を有名にしたか 

むすび 

主たる参考文献 

福澤諭吉著作集 慶應義塾大学出版会

福澤諭吉のアジア  青木功一    

福澤諭吉辞典  慶應義塾150年史資料集

福澤諭吉と朝鮮問題 月脚達彦        

福翁自伝      富田正文校訂  

未来を拓く福澤諭吉展(2009年) 

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始めに

20数年前、識者は21世紀はイデオロギーの対立が激化し混沌の時代を迎えると占ったが、その予想は不幸にも的を射たものになってしまった。世界中がウイルスの恐怖と隣り合わせに生きている今日でも、事態は一層深刻となっている。かって民主主義の本家を自任していた英国は自国主義に転じ、不動産屋を大統領に選んでしまった米国の影響力は低下、習近平の野望は世界中に拡がり止まるところを知らない。経済が停滞し、ささくれ立った国内の不満を解消するために、ナショナリズムを呼びさまして、目を外に転じる手法は国内人気からは、やはり効果的だ。世界中至るところで内なる勢力に突き上げられ、グローバリズムとナショナリズムが火花を散らしている。ナショナリズムが全て悪いわけではない。自分の国が誇りを持てるように、頑張ったり他国を凌ごうと競い合ったりすることは健全なものだとも言えよう。

歴史を振り返ってみれば、やはり国家の危機の時にナショナリズムは表に表れてくる。幕末から明治にかけて西欧列強の圧力をしのぎ、日清・日露に向かった時代。それに続く昭和初期の大陸進出へ向かうウルトラ・ナショナリズムに突き進んだ時代。明治維新から一世紀半が過ぎた。

幕末から明治にかけて、我国の文明開化を先導した福澤諭吉には市民的自由主義者と大陸への侵略を肯定した侵略的思想家との二つの福澤像がある。

蔓延するナショナリズムが危うい方向に行きかねない今日、福澤諭吉が自分が生きた激動の時代に何を語りかけようとしていたのか、改めて見つめ直してみる価値があろう。

時事新報紙面

 

Ⅰ初期福澤のアジア認識 

*少年時代、中津で蘭学を学んだ福澤が長崎に出たのが1854年(嘉永7年)、翌年には大阪に行って緒方洪庵の適塾に入門する。そもそも適塾は蘭方医の塾で「支那流は一切打ち払うということが何処となく定まっていた」(福翁自伝)と云う様子で、洋学者福澤がそのスタート時点から支那に対する対抗意識を持っていたことが窺える。

*1858年、江戸に出た福澤はオランダ語が役に立たないことに衝撃を受け英語に転ずる事となった。1860年(安政7年)、咸臨丸に乗ってサンフランシスコへ、1862年(文久2年)には幕府のヨーロッパ派遣使節の随員となり、1867年(慶応3年)には再び渡米して東海岸まで行くという三度の西洋経験をしている。

ヨーロッパ行では、香港とシンガポールに立ち寄り、「亜細亜・西洋の複合経験」をしている。

この複合経験のなかで、福澤が強烈に印象に残ったのは、イギリス人人のアジア人に対する「圧制」であった。後に「時事新報」1882年(明治15年)3月の社説でも当時を振り返り「記者は固より他国の事なれば深く支那人を憐れむに非らず、亦英人を憎むにも非らず、唯慨然として英国人の圧制を羨むの外なし。彼の輩が東洋諸国を横行するは無人の里に在るがごとし」。又、福澤の世界情勢に関する最初の論説(1865年:唐人往来)では香港を奪われた中国に対しては「智恵無し」「理不尽」「不調法」と手厳しい。

このように初期の福澤は支那を強く意識していたが朝鮮については殆んど言及していない。1869年(明治2年)刊行の地理書「世界国尽」の末尾に露西亜の記述があり、「北を守りて南を攻め「支那」の満州も半ば「露西亜」に併せられ朝鮮国の境までの勢い、(中略)この行末の有様は知者の目にも難からん」とロシアの東に位置してその侵略に脅かされる国として描かれているだけだ。

*1875年(明治8年)の「文明論の概略・第十章・自国の独立を論ず」の中で、「今我邦の有様を見れば決して無事の日に非ず。按ずるにこの困難事は近来俄かに生じたる病にて、我が国命貴要の部を犯し、之を除かんとして除く可ならず、到底我が国従来の生力を以て抵抗す可らざるものならん。識者はこの病を指して何と名のるや。余輩は之を外国交際と名のるなり」以下福澤はインド等の例を挙げ「欧人の触る処にて、本国の権議と利益とを全うして真の独立を保つものありや」と深慮慨嘆している。

*更に1878年(明治11年)の「通俗国権論」では「鎖国」も「開国」もそれぞれの「国風」は「一国の権」であり、外国の干渉しえないものである、更に続けて「今の禽獣世界に処して最後に訴える可き道は必死の獣力あるのみ、道二つ、殺すと殺されるのみ」と絶望的な表現をしている。

*(明治14年)に刊行された「時事小言」では一層明らかにされた。

論題「国権のこと」では、我が国兵備の実情をヨーロッパ諸国と比較し「今我が国の陸軍海軍は、我が国権を維持するに足るべきものか、我輩これを信ぜず・・・いやしくも今の世界の大劇場に立ち西洋諸国の人民と鋒を争わんとするには、兵馬の力を後にしてまた何者かに依頼すべきや、武を先にして文は後なりと云わざるを得ず」と強調している。(資料参照)

この時期のこうした福澤の過激な思想を捉え、後世一部の学者が「脱亜論」への助走と結びつけて、論争を呼び起こす火種となった。 

Ⅱ時事新報発刊から「脱亜論」まで 

福澤は、1880年(明治13年)新たに発行される政府広報誌の編集者への就任を強く要請され、その準備を進めていたが、明治14年、参議大隈重信の失脚の政変により立ち消えとなった。翌1882年(明治15年3月)この政府広報誌の発行計画の為に準備していた資材や人材を投入して、時事新報は創刊された。創刊号の社説「本紙発兌の趣旨」では、あらゆる党派や利害から離れ「不羈独立」の立場から発言することを宣言し、以後官民調和を基調とし、平易な文体で記された社説は、福澤後半生の言論の舞台となった。

この間、福澤のアジア観が一変する変乱が朝鮮で相次いで起こっている。従ってこの発刊の年から明治18年の「脱亜論」の論説までの4年間は、朝鮮・支那の動乱事変に関する社説は、長短取り交ぜて90篇近い数に上る。

*1882年(明治15年)連載された論説「兵論」は単行本として纏められたが「通俗国権論」や「時事小言」からの引用も少なからず、兵力・艦船の拡充・充実とそのために必要となる増税を提案した論説である。この中で「時事小言」の西洋列強との国力比較に加え新たに清国の兵力とその規模を明らかにして我国軍備の必要を強調している。

*一方、朝鮮に対してはこの時点では開明派への期待を捨てていない。1883年(明治16年)1月に連載された「牛場卓造君朝鮮に行く」では「武」から一転して「文」への分野に新たな企画が試みられ、「隣国の固陋なる者、之を誘因するに」新聞事業を推進する為に牛場が選ばれた。しかしながら朝鮮政府における守旧派の勢力により、この「文」によるアプローチは受け入れられず、早々に帰国することになった。新聞発行のほかに福澤が勧めたのが留学生の日本派遣であった。16年の半ばには30余名の留学生徒を三田の寄宿舎に受け入れ、「政治学の初歩」を教え「独立自主の意義」を会得させようとした。この年の6月、朝鮮の資金援助・借り入れ交渉に日本にやってきた金玉均をバックアップする為、朝鮮への直接投資や民間貸付をすすめる論説を時事新報に掲載したが、清との摩擦を避けた日本政府の消極策により交渉は成功せず、朝鮮は清国主導の悪貨鋳造とインフレをもたらすことになる。こうして朝鮮は開明を目指す独立党の内政における立場は弱体化し、事大党が勢いを増すこととなる。

*独立党のクーデターが決行されたのは17年12月4日の事であった。所謂甲申事変である。一旦は王と王妃を擁しクーデターは成功したかに見えたが、12月6日には袁世凱率いる清国軍に防戦一方となり、僅かな日本部隊とともに日本領事館に辿りつき、逃げのがれる事となる。

*1886年(明治18年)、この年の初め2ヶ月半のアジア関連の社説20篇は大半が清国との朝鮮に係る、前後処理に関するものである。ところが論調転換の節目がやってくる。即ち2月23日の「朝鮮独立党の処刑」である。

「野蛮の惨状、父母妻子にいたるまで惨殺され、この地獄図の当局者は誰ぞと尋ねるに、事大党の官吏にて、その後見の実力を有する者は即ち支那人なり」とその残酷さを攻撃し、三月に入ると「曲彼にあり直我にあり」「国交際の主義は修身論に異なり」と激しい論説が続き「脱亜論」に至るのである。 

Ⅲ「脱亜論」の要約   別紙 

Ⅳ 何が「脱亜論」を有名にしたか 

*「脱亜論」は1925年(大正14年)「時事新報社・15000号記念として福沢諭吉全集」に初めて掲載された。全ての単行本に加え時事新報社説223編・漫言98編が収録されている。次いで「続福澤全集」が完成したのは1934年(昭和9年)石河幹明が富田正文を助手としてその任に当たり「時事新報」を総点検したと言われている。記事の選別は石河の責において行われ、背後に大陸進出への時代が影を落としていたのか、既に新聞社を引退して75歳の老境にあった石河幹明の意図を知る由もない。ただ戦中・戦後、多くの学者の「福澤研究」はこの全集を基に展開する事となる。

*第2次世界大戦後10年間の「福澤研究」は丸山真男によって提示された。彼の福澤像は精神において、主体的な独立を目差し、社会に対しては多元的な自由を尊重した市民的自由主義者として評価した。その反論として朝鮮の領有と中国分割を積極的に唱えた侵略的思想家としての福澤像を主張した遠山茂樹・服部之総との論争が展開された。遠山は1951年(昭和26年)の「福澤研究・日清戦争と福澤諭吉」のなかで福澤の対朝鮮、対中国感を取り上げ、アジアを脱し、アジアの隣邦を犠牲にすることによって、西洋列強に伍する日本のナショナリズムを広めた侵略的思想家と捉えている。

*しかし「脱亜論」はそのような侵略を賛美する為に書かれたのだろうか。

時事新報の社説として掲載された福澤の思想が、その時代背景とともに、詳細に検証されたであろうか。遠山は、敗戦による一億総懺悔の時代の中で、「脱亜論」が突然現れたものでなく、政府の方針に先んじて、彼のアジア政策論を「日清戦争義戦論」の準備とさえ位置づけたのである。

*一方丸山真男は、それ以降長く「脱亜論」に言及することはなかった。

1990年日本学士院で「福澤諭吉の脱亜論とその周辺」と題する「論文報告」のなかで「脱亜論者の福澤のイメージは戦後に登場したことである。福澤は朝鮮・開化派が天下を取っているときは、非常に積極的な見解を示し、事大党が天下を取っているときは、非常にぺシミスチックになる。「時事新報」への執筆がいつの時代に書かれたのかその時代背景を見ないで、侵略とか侵略でないかとかいうことは、歴史的事実として必ずしも正確じゃなくなると思うのです」と福澤の侵略思想に偏って言及する研究動向を、批判している。 

*21世紀を迎えてもなおこの論争は続いている。

遠山の流れをくむ安川寿之輔などは、某新聞に「一万札から福澤の写真の退出を願う」などとコラムに掲載し、なにかにつけて「アジア蔑視を広めた思想家」の論陣を主張している。無論多くの福澤研究者によって反論も繰り返されているが、生誕180年、没後115年を過ぎて、なお福澤研究への終わりはない。 

 

むすび 

昭和の文明評論家・小林秀雄は「考えるヒント」の中で福沢諭吉の豪さは、啓蒙の困難さを熟知し「世俗と共に文明の境地に到達せんことに本願を置き、平易な文章を心掛けたが、その行文は平易でも内なる思想は平易でない」と喝破している。

今回、少し範囲を拡げて「脱亜論」の脱稿に至るまでの著作を読んできたが、著者の深遠なる思想を読み取ることが出来たのか、浅学菲才のわが身を顧みて忸怩たる思いがある。

本論における私の結論は、以下の様なものである。

江戸から明治へ云う時代を生きた福澤の時代認識、即ち①欧米列強によるアジア進出・野心②支那・朝鮮の固陋と混迷③日本の総体的国力の脆弱さへの危惧、これらを総合して「脱亜論」を記し、国民や政府に警鐘を鳴らしたものと考える。1901年、明治34年に亡くなった福澤は、日露戦争やその後の軍部独走によるネオ・ナショナリズムには関知する余地もなかった。

今また、世界中にナショナリズムが声高に叫ばれる中で、我が国民も周囲やマスコミに流されることなく、福澤が繰り返し説いた、国民の智徳の向上があってはじめて、国の独立が成されるという、「一身独立して一国独立する」の言葉の意味をよくよく「君自身で考えなさい」と云われている様な気がする。

 2015年の講演原稿を2020年5月25日:加筆修正

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脱亜論 要約

〇交通の利器を利用して西洋文明が東漸し、世界中到る所で文明化が始まっている

〇文明は麻疹の様なもので、防ぐ方法はない。 知識人は国民に早くその気風が広がるように努めるべきだ

〇日本では開国を機に文明化が始まり、旧い政府が 倒れ、新政府の下で独立し「脱亜」という新たな機軸を打ち出した

〇不幸なことに近隣の支那・朝鮮は古風旧慣を断ち切れず自省の念もない

〇この二国はとても独立を維持する方法がない。西洋の植民地となり国が分割される

〇隣国は助け合うべきだが西洋人が見れば日支韓は地理が隣接しているため同一視されることは、我が日本の一大不幸である

〇今の日本には隣国の文明開化を待っている猶予はない。 西洋人が接するように、心において悪友を謝絶するしかない

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資料3:我日本と西洋との兵備の比較(明治14年、時事小言より)

兵備の事に就き、我日本と西洋2・3の国とその比例を示さんために、各国の人口、歳入、海陸軍、及びその歳費は左の如し。この数は1880年出版の原書によるものなり。

人口   歳入  陸軍人  陸軍費  軍艦   海軍費

(百万人) (百万円) (万人) (百万円)(艘)  (百万円)

仏蘭西:37  559  50  110 498  42

日耳曼:43  135  42   80  88  60

英吉利:32  416  13   88 236  59

露西亜:86  419  76  129 223  19

伊太里:27  285  20   41  86   9

荷蘭 : 3   48   6    8  85   5

日本: 36   59   7    8  29   3

封建の時代には、四十万人の士族・軍人を養い、その武器を貯え、巨額の軍費を人民が供して之に堪えて来たが、今日はこれを失い、資力に乏しいことが明らかである。兵備を改良するか否かは人民の資力如何を謀るべきもので、国を護る熱意が糺されている。

 

 

 

          

 

 

Double Cross について   (44 安田耕太郎)

昔から狩猟民族にとっては、当然ながら獲物や敵についての情報が, 生死を決めかねない最も重要な鍵を握る。いわば扇の要だ。農耕民族である我が日本は、さて情報の重要性を充分に認識し、且つ運用しているであろうか?その昔、太平洋戦争で山本五十六がブーゲンビリア島で撃墜されたのもアメリカに暗号を解読されていたのが大きな理由。映画にもなった2013年の元CIA職員エドワード・スノーデン事件は、アメリカ政府による個人情報監視の実態を暴いた。ロシアへ亡命した元CIA職員エドワード・スノーデンの実話をイギリスのガーディアン誌が報じたスクープにより、アメリカ政府が秘密裏に構築した国際的監視プログラムの存在が発覚した。世界の政界著名人の電話盗聴などに驚愕させられた。情報は昔も、現在も、更に将来もその致命的重要性が減じるどころが増し続けていくのは確実であろう。
その昔ヒトラーが第一次大戦の戦場で伝令兵として奮闘し、下級兵士では通常もらえぬ一級鉄十字勲章をもらい誇らしげに掲げているを不思議に思ったことがある。イギリス映画「1917 命をかけた伝令」はまさにその伝令兵の活躍と情報の重要性を描いたもので、映画を観てヒトラーの勲章受賞が納得できた。題名通り、時は1917年、舞台は第一次世界大戦中の激戦地西部戦線。膠着状態の戦線でドイツ軍がわざと撤退して連合軍側をおびき寄せ一挙にせん滅する作戦を実行に移すところで、連合軍もその意図を察知。しかし、前線の部隊へは電話線を切られ無線も使えず連絡する手立ては兵士を走らせて伝える以外に方法はない。その決死のミッションを与えられた若き二人のイギリス兵士の一日を描くドラマです。100年前の戦争の戦場がどんな具合だったのか、塹壕での生活の厳しさと危険性などが良く理解できる、情報の重要性を再認識させられる実話に基づく映画であった。

Double Crossについて (普通部時代友人 菅原勲)

524日のブログ、拝見。「ダブル・クロス」は読んでいないが、スパイと聞いて真っ先に名前が出て来るのがキム・フィルビー、そして、ケンブリッジ五人組(詳細はWikipedia参照)。小生、いまだに、ケンブリッジにごまんと学生がいたにもかかわらず、何故、この5人に限って、祖国の英国を裏切り、最後はソ連に亡命までしたのか(小生、見ていないが、「裏切りのサーカス」の題名で映画化された)。フィルビーに至っては、ソ連で国葬までされた(利用価値が極めて高かったのは事実らしい)。ジョン・ル・カレ(スマイリー三部作)、グレアム・グリーン(ヒューマン・ファクター)などの本を読んでも、依然として、何故かは分からない。結局、「人間、この未知なるもの」か。

(ハロルド・エイドリアン・ラッセル・「キム」・フィルビーは、イギリス秘密情報部職員でソビエト連邦情報機関の協力者。 イギリスの上流階級出身者から成るソ連のスパイ網「ケンブリッジ・ファイヴ」の一人でその中心人物。MI6の長官候補にも擬せられたが、二重スパイであることが発覚しソ連に亡命)

(中司)この原文に、奇妙なことにフィルビーの名前が散見される。この当時はとにかくドイツが相手で、ソ連との話はまだ先だ(すでにドイツ側にはこの時期に英国と休戦して、共同して共産主義を防ごうという機運があったようだ)という感じだったんじゃないかという気もする。フィルビーもご指摘の連中も、ダブルクロスに利用された連中とは動機がもっと思想的なものだったのではないか。日本でも戦後のどさくさに紛れて左翼が急上昇したよね。

ま、ご指摘の通り、人間、わからんね。

Double Cross という本の衝撃

 

”史上最大の作戦” タイトル

 

4年前、スコットランド旅行をした時、エディンバラの本屋で何冊か第二次世界大戦関連の本を買った。2冊は早々と読んでしまったがこの1冊だけ何となく手付かずでほうってあった。”自粛” 体制の間に読んだ1冊である。

欧州戦線でヒトラーは欧州を席巻し、最後に英国本土攻略に取り掛かったものの英国空軍戦闘機に阻まれてドーバー海峡を越すことができなかった。歴史に名高いバトル・オブ・ブリテン (映画は 空軍大戦略 となっている)である。この失敗の結果ドイツ側は守勢に立たされ、今度は連合軍が反対側からドーバーを越えて1944年6月6日、南仏ノルマンディに上陸する。反攻必至とみたドイツ側はアフリカ戦線の名将ロンメルのもとで、強固な防御ラインを敷いて 大西洋の壁、と号し、ロンメルはその堅固さを誇って、反抗してくる連合軍はここで一番長い日を迎えるだろう、と断言する。映画 史上最大の作戦(The Longest Day)作戦 はこのノルマンディ上陸作戦を描いたものだが、その初めの部分でジェイムズ・メイスン扮するロンメルがこの有名なせりふを語ることになる。この上陸場所がどこになるか、は連合軍側にとっては最高の機密であり、逆にドイツ側は一刻も早くその場所を特定したかった。ここで英国側は緻密な情報戦をしかけ上陸地点についてありとあらゆる偽情報をばらまく。結果、ヒトラーは連合軍の反攻が北フランスのカレーかあるいはノルウエイであり、ノルマンディ後も英国にはまだ大部隊が残っていて第二波がかならずくる、と信じ込んでしまったため、連合軍は計画通り、ノルマンディに上陸を果たし、以後のヨーロッパ解放戦が始まる。この情報戦の内幕を史実に基づいて書いたのがこの本である。

このアイデア、つまり虚偽情報をばらまいてヒトラーに上陸場所を誤認させ、ノルマンディの防御を手薄にする、という計画は英国情報部 (MI5 とか 6とか、いろいろあったらしい)が思いついた。そのツールとして英国プロパーのスパイではなく、欧州全土に散らばっている各国のスパイを抱き込み、またドイツが英国に送り込んでくる情報部員をとらえて寝返らせて使う、ということが裏切り=ダブルクロス、という標題になっている。このことだけでも、このような大規模の欺瞞作戦は、つまるとことろ欧州だから可能だったのだな、ということがわかる。

著者は本の最終章で、The Double Cross double agents spied for adventure and gain, out of patriotism, greed and personal gain  と、この作戦に加わったスパイの多くが決して愛国心に燃えた快男児でもなければ孤高の英雄でもなく、極端に言えば金と快楽とを引き換えに謀略行為を働いた人間だったと述べている(中には真に忠実だった一人がドイツにとらえられ、ゲシュタポの手にかかるが頑として沈黙を守り、収容所から脱出したという、まさに映画的な話が載っているが、その本人は脱出後、消息不明のまま。ただ、このダブルクロスによって得た巨額の金を各国に預金していたので、たぶん,悠々と余生を生きたのだろうという結論になっている)。ほかにも何人かの例が詳細に記されているが、英独両方から多額の金を受け取り、当時の欧州社会での上流階級の豪奢な生活を約束させ、あるものは国際的プレイボーイとして次々と情婦を取り換えていく。女スパイのひとりはスペインから英国に入国するとき、可愛がっていた子犬を連れてこられなかった(当時英国には犬を入国させないという妙な法律があったらしい)ことを最後まで恨み、土壇場でドイツ情報部に情報を打電*したとき、(これは嘘)というコードを送信してしまう、つまり激情のあまりトリプルスパイになったことも書かれている。このような個人本位のふるまいは英国、ドイツ、フランス、など欧州の先進国が言語こそ違え、物質的生活水準や階級意識は共通のものだったからこそ可能だったのではないか。同じような作戦を日本が中国との軋轢の間でやろうとしても、ましてや欧米との間では到底不可能であっただろう。一定の文化的・歴史的・人種的同一性のもとで戦われた欧州戦線と、三国協定によって中国戦線を対欧米諸国に拡大せざるを得なかった日本の戦争がそのプロセスにおいて、戦後の処理において、大きく違ったのは歴史の必然だったのだろう。このことはドイツの戦後処理(贖罪行為)がなぜ日本と違うのか、という(ここでまた、例の -だから日本はだめなんだー 自虐趣味が出てくるのだが)議論の中核をなすのではないか、と考える。

もう一つ、衝撃的な史実が書かれていて、心底驚いたことがある。

日本を無謀な世界戦争に引きずり込んだのが軍部の一部の人間の策謀であったことは事実であるが、その大きなきっかけがナチスドイツを過信し、日独伊三国協定にふみきったことだったといわれている。その動きを推進したのが当時の外相松岡洋右と駐ドイツ特命全権大使だった大島浩(のち陸軍中将)であるが、大島が滞在中ヒトラーに直接会って情報交換をしていたのは当然で、その内容は秘密電報で外務省に報告されていた。この本が明らかにしたのは、実はこの大島大使の秘密電報はすべて英国情報部に解読されていて、ヒトラーの動きを推測するのに大きな貢献をした、ということだ。日独の協力のため、努力したつもりが実はドイツ崩壊の手助けになっていたとは、これ以上考えられないほどの歴史の皮肉であろうか。

かなり分厚い本で、正直読了まで勇気が要ったが、その価値は大きかった。コロナもまあ、いいこともやるなあ。

*当時はインタネットもファクスもないわけで、スパイはすべて個人で小型送信機を持ち、モールス信号を打っていた。この例では、文面のある部分にダッシュ記号をいれることが偽、という取り決めにしてあったという。つまり英国ではダブルスパイと思っていたが実はもう一皮あったということだろう。

 

”とりこにい” 抄 (8) 白馬回帰

高校1年の時、初めて山登りを経験したのが白馬。栂池から大池経由の旅だったが、その翌年、後立山縦走を目指したときが白馬2度目の登頂。KWVに入ってからはほかの山をあさっていたので、3回目に回帰したのは3年の6月、大嵐の日だった。残念なことにすでに鬼籍に入ってしまった村井純一郎や金沢央などとのことがあらためて思い出される。

OBになってからこの時にも一緒だった菅谷国雄などとともに4度目の山頂を踏んだ。その時にもまずい詩のようなものを書いたのだが、残念だが原文がみつからない。メンバーの何人にかはメールした記憶があるのだが(もしどなたかのファイルに残っていればお送りいただけるとありがたい)。いずれにせよ、白馬ー ”ハクバ” なぞでなく、”シロウマ” ー は山歩きの原点としてぼくの心の中にひっそりと座り続けている。

 

白馬にて

 

白馬岳。

厚くよせるガスの波

払いのけ、払いのけ、じっと俺を見つめている

白馬岳。

お前はもう一度、俺にささやく。

はるかな夢、遠い幻 。

 過ぎしかた 越えきしかた

そして今 帰りきたったこの頂。

頂に立てば むら雲、くろ雲、雨、そして風。

歓喜のあらしのなかの その一時のしじまのうちに

お前は唄うというのか 

訪ね歩み 求めつづけた 俺のこの唄を ?

促されてトレイルを下ればお前は早くもガスのむこうにかくれ

俺はただ

前だけを見て歩き続ける。

 

 

Sneak Preview (2) (44 安田耕太郎)

(前略)

断念せざるを得なかったアラスカ蟹工船仕事とは別に、日本出発前に資金調達の切り札として詳しく下調べをしていた、稼ぎの良い植木屋仕事を始め、ある有名な日系gardener (植木屋) に雇われた。日系アメリカ人が経営する、ロス市内中心地に近い植木屋の助手が多く住む寄宿舎のようなアパートに宿を定め、腰を据えて資金稼ぎ仕事に専念することとなった。

日本と異なり広い芝生の庭を持つ邸宅の芝刈りが主たる仕事だ。スプリンクラー(sprinkler)と呼ばれる自動散水機による充分な水の供給とカリフォルニアの陽光で芝生の成長は早い。週一回のローテーションで顧客の家を回ってlawn mowerという芝刈り機で刈りとった。一日に数軒ずつ訪れ、毎週繰り返した。
機械は結構なサイズで重く最初は取り扱いに難儀した。伸びた芝の中にスプリンクラーが数メールおきに隠れていて、集中力を欠くと、前へ前へと進む芝刈り機の回転し続ける刃で切り飛ばすことになりかねない。結果は悲惨で突然芝生の絨毯から噴水が吹き上がることになる。

後処理が大問題だ。スプリンカー交換には50センチ四方の穴を結構な深さまで掘り、部品を取り換える。芝生は剥がれ醜いこと甚だしい。弁償したうえで解雇される。また、ドライブとブレーキを巧みに操作しなければ、機械が暴走して運が悪ければプールに飛び込むことにもなりかねない。実際、スプリンカー切断とプールへ芝刈り機がダイビングした事故例を聞いていたが、幸い事故には遭わなかった。

刈り取った水分をたっぷり含む芝生は、機械に備え付けたバケツのような入れ物にすぐたまる。これが重く、捨てる場所まで運ぶのが一番負担のかかる作業であった。何せ庭が広く持ち運ぶ距離が長いのだ。
植木屋の仕事も日米で天と地ほどの違いがあった。日本では植木屋の助手などにとても雇われる技術も経験もない素人が、この肉体労働に朝7時から夕方まで、週6日間励んだ。慣れてくると能率もあがり、仕事は順調に進んだ。そんな折、思いもしない事故に遭った。

仕事帰り交差点で信号待ちをしていた植木屋の車が追突されたのだ。助手席に乗っていて首に軽いむち打ち症を感じた。雇い主が紹介してくれた交通事故専門の弁護士を訪ねた。病院での診断結果もむち打ち症。診断書を発行してもらう。 日本では治療費の弁償で片が付くくらいの軽傷であったが、そこは訴訟社会のアメリカ。雇い主も弁護士も慰謝料を請求すべきだとアドバイスというより強く主張した。その間仕事は休まず続けていた。

観光で滞在している身分で一番心配したのは、怪我のことでも慰謝料の額のことでもなく、滞在の理由とどういう状況で事故に遭ったのかなど、やってはいけない仕事をしている事実が暴露されかねない質問と事情聴取を相手の弁護士から受けはしないかということであった。法的決着がつくまで2~3か月かかったと記憶するが、その間ひやひやして日々過ごしたのを覚えている。よく理解できない英語で専門外の法律・医学関連の折衝を一人で行えたのは今から思い出しても奇跡としかいえない。辞書を片手に片言で相手の弁護士と交渉したのである。

結果として数千ドルを手に入れた。日本の大卒初任給の数年分に相当する大金だ。「人間万事塞翁が馬」ではないが、人生何が起こるかわからないということ、そして実際対処してみないと結果はわからないということを学んだ。訴訟社会のアメリカの現実の一端も垣間見た。

植木屋助手仕事の稼ぎの良さには、嬉しさを通り越して本当に驚いた。日米の富の格差に愕然としたものだ。今から振り返れば途轍もなく危なっかしい資金調達方法であったのだが、運にも恵まれた。アラスカ就職失敗を経て怪我の功名に救われた。もちろん交通事故慰謝料も大いなる予期せぬボーナス財源となって、併せると充分な資金を手にすることができた。

そんな折、ある有名俳優宅の芝生刈り仕事をすることとなった。「ルート66」「サンセット77」は1950年代後半から60年代にかけて大人気のテレビ番組。劣らず人気を博したのが西部劇 「ララミー牧場」であった。今では名優・監督として有名な若きクリント・イーストウッド出演の「ローハイド」と双璧で西部劇テレビドラマ人気を分け合っていた。

主演のジェス役ロバート・フラーが来日した際の熱気は凄まじく、日本中を虜にした。当時の総理大臣池田勇人に招かれるなど、あのビートルズでさえ受けなかった厚遇振りが話題となったほどだ。戦後15年以上を経て高度成長期にさしかかる日本の上昇気流を感じさせる社会現象でもあったのだろう。そのフラー家の芝刈りをやったのだ。

勿論、事前には知らず、立派な庭の邸宅だな!くらいの気持ちで芝刈りを始めた。ランチのコーヒーを美しい女性が持ってきてくれて雑談になった。「私の夫は映画の仕事で日本に行ったことがあり、とても日本好き。日本でも知られているのじゃあないかしら」と驚きの発言。すかさず尋ねた「夫の名前は?」。ロバート・フラーでテレビ映画ララミー牧場のジェス役と答えが帰ってきてビックリ仰天!以後、フラー家に行くのが楽しみとなった。思わぬ巡り合わせである。

洗足池あたりのこと   (43  中川芳子)

(町井かをる あて)

カボちゃん!すごーい!

洗足池のカルガモ親子の写真を撮って送信したいのですが、携帯の写真をPCに取り込めなくて残念です。 

  軽鳬の子を先に行かせて遊ばせて    望子

(堀川義夫)

中川芳子さんんが洗足池で撮った画像と映像を代行して送ります。

(37 杉本光祥)

我々がコロナ自粛をしているうちに、カルガモはもうこんなに育っているのですね。揃っての無事成長を祈るのみです。

コロナの世軽鳧(かる)の一家の末祈る 光祥

いい句を沢山作り続けてください。

(37 菅谷国雄)

カルガモ親子の動画を見ました。
洗足池は学生時代まで緑が丘に住んでいたので私のホームグランド、懐かしく拝見しました。

それにしても俳句の世界、カルガモを軽鳬と詠むのですね。
辞書で「鳬」を探して納得です。

(43 猪股博康)

洗足池懐かしいです。
洗足池のボートによくのりにきました。
今年3月に亡くなった従弟が、博康兄ちゃん(私のこと)と散歩し
その後ボートに乗るというのがとても楽しかったと言っていたこと
思い出しました。ちなみに、実家は小池小学校近くにありました。

そのような記憶があったので、日吉に住んでいた頃に、孫が遊びに
きた時、車で洗足池まできて、ボートにのせてあげてあげました。
彼らにも思い出として残ることでしょう。
池の畔にある中学校で、2年の時、同じクラスでしたね。洗足池に
殊の外思い出を感じます。

こんな鬱陶しいときに、カルガモの愛らしい写真を送っていただき
楽しい思い出をよみがえらせてもらいました。ありがとうございます。

 

(編集子)小生、昭和21年6月に満州から引き上げ、しばらく伯母の所に寄寓後、22年12月から大田区立赤松小学校に入学した。大井町線北千束駅前、というより、本件の発信者もうここと中川芳子の姉上、立川おちえご自宅の真ん前にある、ま、小学校でいえば ”名門”、である。なんたって(在学時の)校歌に ”池は洗足水かがみ” ”花はあけぼの桜山” とあるくらいだし、トーゼン、洗足池あたりではよくあそんだものだ。本件を通じてはじめて菅谷・猪俣両兄と洗足のつながりを知った。ヤブの方は少し年が離れているが、おじいとはどっかですれ違っていたかもしれないと思えば愉快である。もうこのご自宅は大岡山と聞くが、赤松在学中自宅は旧住所で言えば目黒区宮ヶ丘、いまは環状7号にかき消されてしまったあたりに住んでいて、大岡山は毎日のように通っていた。そういう意味でも懐かしい。ヤブともうこ、ひょっとして六中?

熊野神社市民の森     (34 小泉幾多郎)

先日久しぶりに市民の森を散策してきたので、報告。

杉山神社

月いち高尾を引っ張っていただいている、堀川、岡沢の両君が、高尾の代りに市民の森を散策されていることを知り、その刺激を受けて近所の熊野神社市民の森を散策してきた。熊野神社は、東急線大倉山駅から10分程度にあり、3本足の八咫烏(やたがらす)を御社紋としていることから、日本サッカー協会の同じシンボルマークである公認のお守りや絵馬が販売されている。参拝者も多く、資金も潤沢なのか?

入口のところを何か修理工事を行っていた。本殿裏手から鎮守の森を少々上ると小高い権現山に。樹々の間から武蔵小杉方面の高層ビルが望めた。一旦元の場所へ戻り、住宅街をちょっと抜けて、再び樹々の囲まれた小道を歩く。鬱蒼と樹々が茂り周りは住宅街なのに、喧噪をわすれ散策を楽しめた。天神平という広場を

権現山から武蔵小杉方面を望む

過ぎ、階段状の道を下ると杉山神社境内へ。前に来たときは、みすぼらしいような目立たない神社が見違えるようで、階段やら鳥居や参道も立派。調べてみたら、平成14年(2002)か17年(2005)にかけて、大整備を行ったとのこと。ということは、もう20年前以来の訪問だったのだ。いやーあまりの年月の早さに唖然としてしまった。この杉山神社という名前の神社、横浜だけで35社もあるとのこと。

天神平の天然林

全てが鶴見川流域にあるのが特徴で、暴れ川と言われ、幾多の水害をもたらしたことから、その水害除けの方策を願って。流域各に杉山神社が祀られるようになったと言われている。

久しぶりに歩いたせいか、約1万歩、情けないことに帰宅したら脚が攣ってしまった。

(編集子 足が 攣る なんて字、読めても書けない! よじ登る と同じだっけ?)

新型コロナウィルス感染症緊急事態宣言解除にあたって  (34 船曳孝彦)

大方の予想通り、一部解除と決まりました。世の中、解除ブームに乗って、一気に街に繰り出すような気配に心配しております。日本は無症状感染者が多いと思われますので、第2波の感染爆発を怖れます。友人の科学者からのメールが来ましたので、それも踏まえて書きます。

コロナ対策の厳しさはOxford大学で点数化して評価していますが、それによるとSweden,Singapoleに次いで下から3番目です。大甘と言えます。私は2,3月時点から、このPCR検査低施行率が続けば、ある日感染爆発が起こり、やがて集団免疫獲得が早く到来するのを意図的に待っているのではないかと勘繰っていました。Swedenが大きな犠牲を払いつつ、はっきりした集団免疫獲得政策として対処していることは、今回友人から学びました。

友人も最近の驚くべき四つのニュースと言っています。①コロナの報告がファックスでなされていたこと ②PCR検査が行政検査であったこと ③37.5℃以上4日間の基準は誤解であったとのこと ④感染者は10倍、20倍、30倍いるかもという専門家会議副議長の国会での発言です。

厚労省健康局結核感染課から各都道府県、保健所設置市、特別区あてに出された『ウィルス行政検査について』、および『新型コロナウィルス感染症に関する行政検査依頼』なるものを読みますと、37.5℃発熱かつ濃厚接触者、発熱かつ渡航歴、発熱かつ入院を擁する肺炎症状、医師が疑わしいと診断した患者に対し、季節インフルエンザ検査で陰性なものに対して検査を行うと明記され、地方衛生研究所において実施不可能な時は、公印付きの依頼書とともに直接国立感染症研究所に送付すると書かれ、輸送にあたっての責任者、容器なども厳重に規定されています。とにかく検査を絞り込むことに重点を置いた対応としか思えません。しかも発熱などを誤解ですという神経は許せません。

感染者数は現公表数よりはるかに多い(私の印象では一桁違い)のではないかと思っていますが、専門家会議副議長の立場の人が、しかも国会で10~30倍という発言には驚かされました。立場というものがあります。海外で驚きを持って報じられました。とにかくPCR検査数が他国と比べて2桁も違っては検討に値しないと相手にされなくとも致し方ありません。しかもそのデータの扱いが、FAXであったり、判定日だったり、保健所・地方衛生試験所以外の大学、研究所、病院で独自に検査した数値は加算されていないなど、どうしようもない体たらくとしか言えません。陽性者は感染法に基づき報告し統計されているでしょうが、陰性者は検査数に反映されるようになったのでしょうか。先日の報告ミスがあったという訂正発表は、実はこの陽性者を加えた変更ではなかったかと思います。

保健所の施設数(半減)、人員、予算全て削減しておいて、今回のコロナ対策を、全て保健所を通すような仕組みで対応させようとは、信じがたい政治です。公的病院の併合によるベッド数削減案(コロナ禍で一時延期)にせよ、国立大学の経費削減にしても、利益、経済効率を追求するのが新自由主義であり、これを国の政治基本としていることに諸弊害の根源があると思います。世界でも問題が多発し、新自由主義、これに基づくグローバリズムが崩壊してきているというのに、日本はまだ固持し続けていることに、切歯扼腕しています。

嘆かわしく、まさに日本沈没の危機に瀕しているように感じています。二流国どころか三流国、発展途上国(高度な医療レベルは持っているという自負はまだ捨てていませんので)でなく後退している後進国になってしまいます。

無症状感染者が多いことから、東京の緊急事態宣言解除の日はまだまだ先のことになると思います。

自分だけは大丈夫という信念みたいなもの(これを正常性バイアスというのだそうです)は全く根拠ありません。すべての人がコロナウィルスレセプターACEⅡを持っているのです。クワバラクワバラ

皆さん、くれぐれもご自愛のほどを祈念しております。