エーガ愛好会(28) 荒野の決闘

(34 小泉)

愛しのクレメンタインの伴奏で道標にスタッフや主演者のタイトルが映し出されるともう懐かしさで一杯。タイトルが終わるとモニュメントバレーに牛の大群と人物と雲とが、巧みな構図で圧倒するが、その後はトウムストンの街が舞台に置かれ、この地での出来事が緩やかに展開する。ジョンフォード監督は「駅馬車」の動的なものから「荒野の決闘」は静的な詩的なものを狙っていたようだ。

 各場面から印象的な場面を拾うが、まずは、日曜日ヘンリー・フォンダ扮するワイアット・アープが理髪店で身だしなみを整え、立ち上がると、店主がスイカズラの香水を振りかけられた後、板張りの上に椅子を出させ、座ると所在なげに両足を交互に前の柱にアクロバット的にバランスをとりながら、人々が教会に赴く様子を見るシーンはのどか。その後、弟ワード・ポンド扮するモーガン達が変な匂いがすると言うと俺だと照れる。キャシー・ダウンズのクレメンタインに対しても同じセリフ。これこそ普段は驕り高ぶることなく穏やかな自信をもって照れているが、いざとなれば鬼神をもひしぐような活躍をする猛者という第2次大戦後の勝者アメリカのあるべき姿として訴えたものと言われ、成る程と思ったものだ。

 クライマックスのOKコラルでの決闘の場面、馬の群が銃の動きに狂奔する隙を狙っての射ち合い、敵機同士の間を走る駅馬車の砂煙の中での射ち合い。弟モーガンが柵の上で中腰でウオルター・ブレナンのクラントン親父に射ち込むファニングという連発等々。決闘前、応援を志願した町民二人に銃を渡すが、飽く迄おとりということで、弾丸を抜いて手渡すところなんかも細かい。 それにしてもジェームスとヴァージル二人の兄弟を殺されたワイアット、リンダ・ダーネル扮するチワワの手術が成功したかに見えたが死なしてしまうヴィクター・マチュアのドク・ホリディ、息子たち全てを失い泣き叫ぶクラントン親父と登場人物の殆んどが傷を負っている。

 最後にフォンダが、見送るクレメンタインに「クレメンタインという名前が好き」と言いながらみるみる小さくなる騎影、広大な空に流れる白い雲、静かにわき起こるコーラス、愛しのクレメンタイン。

 

(菅原勲)

「荒野の決闘」を見たのは、確か、これで二回目だと思います。そこで益々意を強くしたのが、「荒野の決闘」と言う日本語の題名が極めて不適切であることです。原題は「My Darling Clementine」です。日本語では「我が愛しのクレメンタイン」とでもなるんでしょうか。クレメンタイン(キャシー・ダウンズ)は自明の理ですが、「我が」とは誰のことを指しているのでしょうか。これは、ヘンリー・フォンダ演ずるワイアット・アープだと思います。アープはクレメンタインに初めて会った時から一目惚れ、ダンスに誘うときのアープらしくない躊躇い、そして、最後の「クレメンタイン」が止めの一言です。これは、アープらしい独特の愛情表現そのものです。

こんなことを言うと、「荒野の決闘」Addictから、それこそぶっ飛ばされるかもしれませんが、OK牧場の決闘は、このエーガの、刺身で言うとつまに過ぎません。つまり、このエーガは、OK牧場の決闘を背景としたワープのクレメンタインに対する思慕を描いた作品であると思っています。反論は大歓迎です。

あとでWikipediaを見たら、キャシー・ダウンズは癌で52歳の早死。テレビの「ローハイド」に出ていたようですが、小生の記憶には全くありません。ヴィクター・マチュアは悪くないけど、ここではフォンダに完敗です。リンダ・ダーネルはキャシー・ダウンズより遥かに魅力的だったけど、死んじゃったらしょうがない。確かに、独断と偏見に満ち満ちています。が、「我が谷は緑なりき」を監督したジョン・フォードならではのエーガでした。

(44 安田)

「我が谷は緑なりき」のジョン・フォードらしい作品との菅原さんのご見解に全く同感。彼らしい抒情的な描き方が秀逸。

まさに原題「My Darling Clementine」が相応しい映画だ。西部劇というよりメロドラマの感じ。不器用な二人の男の女性に対するロマンを描いた映画の色合いが、弟殺しの敵討ちが本筋のはずの物語に勝っていた。ワイアット・アープとドグ・ホリデイの友情やクレメンタインへの恋という情感に重きが置かれている。
チワワの情熱的な直接的で動の感情表現と、クレメンタインの静の自己表現は対照的で、ドグ・ホリデイとアープのそれも同様の好対照を成していて、異なる人物像を比較させながら鮮明に描いていた。
 
OK牧場の決闘は存外にあっけなくやや迫力には欠けていた感あり。また、結核気味な病気持ちのドク・ホリデイもあんなに早く死なせても良いのかと、彼に可哀そうな気がしたものだ。ホリデイ役の男優はイタリア系だという。そういえばやはりイタリア系のディーン・マーティン似でさらに濃い顔の役者であった。細面のヘンリー・フォンダとも役がら同様巧みな好対照の配役である。
映画の舞台・時代は1882(明治14)こんな辺鄙な西部の荒野の町にシェイクスピア劇団が来て公演するとは映画だとはいえ驚いた。
この映画は、クレメンタインがボストンから駅馬車で到着した時に「My Darling Clementine (いとしのクレメンタイン)」主題曲が流れ、アープがクレメンタインに別れを告げて去る場面ではモニュメント・ヴァレーの雄大な景色が画面いっぱいに広がり、主題曲が流れるな中で映画は終わる。映画の最初とエンディングが見事に仕上がっていると思う。

(36 翠川)

観ました。観ました。ありがとう。LA駐在の帰国間際にアリゾナへ家族旅行した時を思い起こしていました。ユタ州やアリゾナ州の砂漠地帯の風景は懐かしい。

(42 下村祥介)

 「荒野の決闘」を拝見。やはり名画ですね。

銃を激しく撃ち合うマカロニウエスタンとは違ってテンポもゆっくり。殺伐とした西部の酒場でシェイクスピアが出てきたりして驚きです。これが西部劇の古典というのでしょうか。 日本でいうと幕末~明治にかけての時代で、わが国も時代の転換期で大変なときでしたが、米国でも南北戦争があったりして激動の時代。ニュースなどを見ていると今のアメリカは150年前のアメリカと同じように見えますね。大統領選などあっけにとられて見ています。

(編集子)誰が何と言おうと、映画史上(!)最高の、心に残るラストシーンだ。これを見たさに、スガチューは二度だというが、小生は映画館で二度、テレビで三度は見ている。DVDはもちろんあるが、動けなくなったら見るためにまだ封は切らずのまま本棚に並んでいる。

各位ご指摘の通り、これはガンプレーや敵討ちが主題の典型セーブゲキ、ではない。古き、良き時代へのオマージュ、と言ってもいいのではないか。フォード演出はまさにそう語っている。安田兄ご指摘のいくつかのシークエンスももちろんだが、フォンダが散髪を済ませて歩いていく、そのシーンの後ろのほうに、(いいやつだなア、ホント)と言いたげに、壁に腕を持たせて見送っている床屋の風情がなんともいい。また、My Darling Clementine  をかの 雪よ岩よわれらが宿り と、山好きの人々にとっていまや聖歌と言える愛唱歌に仕立ててくれた、京都大学山岳部の方だったに改めて感謝。その Clementine  が彫り付けられた牧場の柵をあしらったタイトルバックもまた心に残る。セーブゲキでない、と言ったが、最後のシーンでワード・ボンドが見せるファンニング(リボルバー型拳銃で引き金を引いてすぐ撃鉄を片手の手のひらで仰ぐようにして発射位置にもどす早撃ち)はほかの本チャンセーブゲキ(たとえば シルバラード でスコット・グレンが見せた)に引けを取らない芸だったと思う。

同じ題材で作られた作品はあと5作くらいあると思うが、このフィルムで悪役の端役だったジョン・アイアランドは OK牧場の決闘 にも同じクラントン一味のひとりだが、これより多少出世した役柄で出ている。この時のホリディはカーク・ダグラス、墓石と決闘 ではジェイソン・ロバーツ、トウームストーンではヴァル・キルマー、ワイアット・アープではデニス・クエイド。なんたってほかでは大根役者と言われ続けたヴィクター・マチュア、ドクの役はこのフィルムでのマチュア君に、これにかなう配役はないやね。

今回ちと疑問が湧いた………ツームストンの街からモニュメントバレーって、あんなに近かったかなあ。なお本編もまた、写真は安田商会提供。

 

アメリカ大統領選に思うこと  (37 菅谷国雄)

銃を持たなければ投票所に行けない、アメリカは相当傷んでいます。今正に進行中の大統領選挙を見て誰しも思うことは、今日のアメリカ社会の対立・分断の傷は相当深い、ということです。

特にこの4年間は、大統領たる最高権力者の発信がこの対立分断を一層煽り、混迷の度合いを深刻なものにして来ました。かって、民主主義を標榜する各国のリーダーとして存在し、その寛大さや自由闊達さに寧ろ憧れさえ抱いたアメリカは、何処かに逝ってしまいました。

塾祖・福澤諭吉が「文明論の概略」の執筆に当たり、手本としたフランスの政治思想家・アレクシ・ド・トクビル(1805~1859)の「アメリカのデモクラシー」の序文に「道徳の支配無くして自由の支配を打ち立てることは出来ない。民主主義に於いては、人々は自分たちにふさわしい政府を持つ」と書きましたが、2世紀近くを経た現在もなお、心に沁みる言葉となりました。

いずれ選挙の結果は確定し次の時代が始まります。専制独裁の習近平やプーチンの野望は尋常でありません。民主主義を標榜する各国が結束し、新しい秩序を模索していくことが急がれます。我が国も、周りに右顧左眄することなく信念を以って発信するリーダーの存在が問われています。世話役・事務局長が相応しい人材を総理に選んだ我が国のこれからが心配になります。

追伸: 分断・対立はアメリカだけではありません。文明の衝突、文化・宗教の対立だけでなくその原因、根っこにあるのは富の偏在にあるのでしょう。2014年に刊行され世界中で話題となった、トマ・ピケティの「21世紀の資本」を改めて読み直します。博学・諸兄妹のご高説もお聞かせください。

 

 

 

アメリカはどこへ行くのか? (44 安田耕太郎)

時には蒼っぽく見える正義感を振りかざして、普遍的価値とは、正義とは、自由とは、民主主義とは、世界的秩序とはなど根源的テーマについて、理念と理想を掲げるのがアメリカの長所だと思っていた。今のままでは「古き良きアメリカ」が消えていく危惧を持つ。
戦後70年にわたって世界で得た敬意、リーダーシップを放棄しているようにみえる。残念なことだと思っている。ほぼ50/50に国が分断された選挙結果、さらに民主主義の弱点を見透かしたかのように独裁的国家運営の下、迅速な意思決定でアメリカと西側陣営に挑戦し続ける中国とロシアの動向を踏まえると、アメリカの対応には目が離せない。新大統領(現時点でバイデンが有力)が、国民皆の大統領として職務を果たす旨宣言せざるを得ない難しい舵とりを託されたアメリカと、今回の選挙によって日本は民主主義と社会主義がブレンドされた素晴らしさを再認識させられたが、弱肉強食のルールが暗黙のうちに存在する世界政治・経済と安全保障面でいかにアメリカと付き合っていくのだろうか?

共鳴します   (36 翠川幹夫)

”国民の民度と倫理性によって、社会主義と民主主義を両立させている国。日本はそういう国なのだ”に共鳴。

テレビで見ている限りでは、「駐在していた半世紀前のアメリカと比較して、何という国だろう、ベトナム戦争とアポロ打ち上げを両立させ、必死だった頃のアメリカと何処がどう変わったのだろう?」と感じています。

米国大統領選挙に思うこと

米国大統領選挙が混迷を深くしている。好き嫌いとか事情通の人ならば国際情勢への影響とか、いろいろあるだろうが、所詮は外国の内政問題であり、我々が知ることのない(たとえ知っていても理解できない)かの国の国民の事情があるわけだから、結果に賢明に対処していくしかあるまい。

また現在深まるばかりの国民間の溝が埋まるのか、14歳の少女まで銃で武装させる結果になる憲法とはいったいなんなのか、といった選挙後の米国の在り方は、外国の内政事情だけではありえない。今までわれわれが規範としてきた民主主義、というものが崩壊してしまうという危険が現実味を帯びる。選挙戦の間に出てきた論調の中に、たとえば、民主党が勝てばアメリカは社会主義になってしまう、,というように、あたかも社会主義はあってはならない、というような曲解と合わせて、背筋が寒くなるような展開である。

われわれは60年代の日米安保改定騒動やベトナム戦争の是非の激論、経済成長の加速に伴う公害問題、相次ぐ天災、大規模な汚職、などわが国を揺るがす事件を経験してきた。しかし未曾有の危機にあっても、現在のアメリカで起きているような暴動や略奪や選挙への暴力介入などということは決して起きなかった。一方、もちろんまだまだ不備はあるものの国民皆保険制度が定着したし、頭でっかちの経営学者先生がいろいろ議論をしても、なお、企業は雇用の安定を第一に考える。今回の経済危機にあっても、大企業の多くはまず役員の報酬減額があって、それから給与削減、自主退職、他社への一時的退避、などの方策によって米国ならただちに起きる従業員解雇は最後まで回避しようとしている。

このような日本人がある意味では誇るべき行動や現象を、米国民は社会主義,と考えてしまうのではないか。彼らが唱える米国の民主主義、とは第一に個人に対する機会の平等であり、その先は個人の能力次第、という理想主義でもある。そのこと自体は素晴らしいが、結果の平等、ということはないがしろにされる.というよりむしろ軽蔑さえさることが多い。しかしここには個人がただ一人存在するのではなく、あくまで社会の一部である、という視点が欠落している。彼らからすれば、日本人が幼少のころから教え込まれる、他人に迷惑をかけない、という倫理の基礎が希薄である。東日本大震災の救助に駆けつけてくれた米国の司令官は、援助物資の運送に協力した地元民の統制、冷静さ、暴動や略奪行為等起きえない社会の在り方に衝撃を受けた、と言ったそうだが、BLMという社会正義への行動が次の瞬間に略奪に転じてしまうかの国の在り方は何なのだろうか。

我々は小学校時代に給食という制度を通じて米国国民の在り方に接し,アメリカンドリームにあこがれてきた。そして日本の民主主義は幼稚である、と教えられ、以後、官民通じて、その実現への努力をしてきたのではなかったか。何年前になるか、話題になった本 歴史の終わり でフランシス福山は民主主義と資本主義の勝利を宣言した。あの熱気はどこへ行ったのだろうか。

一方、僕らは程度の差こそあれ、マルクス主義から無縁で過ごしてきたわけではない。だが現実の前に、というか社会主義共産主義を論じる人たちの行き過ぎた教条主義のまえに社会主義国家というものは専制なくしては実現しないものだ、と考えるようになっていた。之もある意味では福山の論調を支えていたのではないか。

だが、今のアメリカの現実、他方、いかに苦しくても雇用を守ろうとする多くの企業の在り方などを見ると、我が国日本は結果として世界で初めて、人権、自由、社会正義、といった倫理を資本主義、民主主義と共存させている国なのではないか、と思えてきた。地球規模の環境問題や安全保障などといった、それこそグローバリズムが基礎となるこれからの世界で専制主義によらず国民の民度と倫理性によって、社会主義と民主主義を両立させている国。日本はそういう国なのだ、と思わないか?

(36 翠川)
”国民の民度と倫理性によって、社会主義と民主主義を両立させている国。日本はそういう国なのだ”に共鳴。

テレビで見ている限りでは、「駐在していた半世紀前のアメリカと比較して、何という国だろう、ベトナム戦争とアポロ打ち上げを両立させ、必死だった頃のアメリカと何処がどう変わったのだろう?」と感じています。

 

”エーガ” から ”ジャズ” か?

(安田)
ジャズの聖地といわれる岩手県一関市の「ベイシー」の50周年特別番組、BSで放映されました。店主菅原正二とは長年懇意にしていて、何10回と入り浸ったところです。僕の勤めていた会社の音響製品を使用しています。

(相川) 10月初めに映画館で見ました。(アップリンク渋谷~東京劇場上映はここだけか) これも奇遇と言うのかな。
昭和にはやったジャズ喫茶、ジャズライブを未だにがんばってやっている店主菅原さんが 友人と日本のジャズ評論や演奏の歴史を語る。 由井正一と言う懐かしい名前も登場。カウントベーシーにほれ込んで店名に。店で演奏もしている。 渡辺貞夫、坂田昭の演奏もよかった。小澤征爾もジャズを語る。 ややマニアックですが、ジャズに関心ある人にはお薦めです。

(安田)映画館で観た方がKWVにおられるとは嬉しいことです。僕も渋谷で映画観ました。5年前から始まった映画作成の過程も知っています。監督も知り合いです。業界ではシーラカンスのような粋な天才と努力が合わさったような魅力的な達人です。ジャズが主ですがクラシックの造詣も半端でなくLPの所蔵も数千枚に及びます。クラシックのみ数時間聴いたこともあります。1942年生まれ。相川さんと同年齢かも。ベイシーでのショット写真お送りします。

注: 鈴木京香は仙台出身で遠くない一関市には高校時代から通っていて菅原さんとは長年の友人。


(小田)主人も早大出身者が始め、タモリ等が出入りしていた事を知っているとかで、一緒に観ました。
ずっと知らなかった”JBL”が分かりました!  娘が忘年会でipodを当て、それに小さなJBLと書いてあるスピーカーを付けて私にくれました。今は650曲位入っていて、炊飯器やお塩の入れ物の横で楽しませてくれます。ベイシーの菅原さんは”車の中では音楽は聴かない”とおっしゃいましたが、先日納品された車のCD機器は助手席の下!もうCDの時代でもなくなってきたのですね。又、使った針は、家2軒買える位とは凄いです ね!

HPのチビ太さんは、主人の話では、大学時代軽音楽部でテナーサックスを吹いており、ラジオに出たり、大橋巨泉に誉められたりしたことがあるそうです。彼もちょっと、ジャズな生き方してきたのかも?

(小泉)後藤さぶちゃん、安田さんから懐かしのSPレコード中心のメールをいただき、若き頃が思い出されます。確かにエーガではありませんが、相川さんが観たのも映画ベイシーの筈。最近は、「パバロッティ太陽の歌声」やメトロポリタンオペラの映画やらも。

何といってもレコード解説の元祖である、あらえびすの話が、レコードを論ずるなら、事始めのようなもので、懐かしい感じがいたします。小生の時代は、サブちゃんよりもレコードに目覚めたのが。少々遅れたか?SPレコードはそれほど買わないうちにLPの時代に入り。当時は高価だったこともあり、そのうちカセットテープに録音することを覚え、ラジオから録音しては、聴いておりました。当時は、FMfanとか、週刊FMなんていう音楽番組の曲名から演奏者を全て克明に時間別に記録する週刊誌が発行されていて、その曲名を切り取り、録音したカセットケースに入れて楽しんだ記憶があります。

野口久光氏と菅原正二様との関係やら、喫茶ベイシーへあれだけの有名人が通っておられるとは驚きでした。野口久光氏と菅原正二様との関係やら種々の資料も有難うございます。

(編集子)今度はジャズフリークのためのグループができるかな?相川さん、”ゆい” さんは ”油井” じゃなかったけ? 小生は本格物はあまり知らず、昔のラジオ関東の深夜番組 ”ポートヨコハマ シーサイドイン” だとかかの ”皆様のお相手をいたしますパイロットは” なんてJALの宣伝番組のポピュラーどまり。引退後数年ほど、銀座スイングの会員になったりしましたがそこまで。現在は自作の6代目のアンプ(安田くん、12AT7 のパラプッシュ、というやつをでっちあげて悦に入ってます。。。がCDプレーヤーがいかれてしまって、参っています。もう単独のマシンでは売っていないようですね)でそこそこ、やっているのが現状。

 

東北の紅葉・温泉・山登り Go to Travel 利用旅 (39 堀川義夫)

10月15日(木) 今日から先輩1名、同期2名の4人で東北の紅葉と温泉と山を楽しむ旅行に出かけました。折からのGo to Travel のお陰で新幹線代、レンタカー代、4泊の旅館代すべて含めて@12万円ほどの旅行がなんと地域共通クーポン分も差し引くと半額になり、ちょっと贅沢な旅をして来ました。まずは、新青森経由弘前に行き、レンタカーを借りて弘前城を見学。桜の時期以外に訪れたのは初めてのことです。岩木山がりっぱに見えます。

 

今日の宿はいささか女性好みではありますが、ランプの宿として有名な青荷温泉です。大変旅心をくすぐるムード溢れる宿です。難点は薄暗くて年寄りには良く見えない!!折角の料理もよく見えないので、美味しさが半減、曰く、明るいところで食事したい! 部屋でもみんな物探しに時間を費やすという半盲目状態に結構疲れてしまいます。ランプ専用の小屋があり200数十のランプを毎日、整備しているそうです。温泉はいくつか有りどの湯もいい湯でした。

 

10月16日(金) 東北旅行2日目

今日は同行の滝が大好きな友人の願いで、日本100名爆の中でも2、3位と言われる安(やす)の滝見学に行くことにしました。場所は森吉山の近くでマタギの里として有名な阿仁の打当 (うっとう) 温泉から、さらに10kmほど林道を行き、更に小1時間歩いてやっと滝を見ることができる秘境の滝です。周りの紅葉も素晴らしく往復の歩行も楽しい物でした。明日からの登山の良いトレーニングになりました。見学後は約1時間半程で新玉川温泉にチェックイン。岩盤浴を楽しみ料理はバイキングですが大変美味しく、秋田の銘酒に舌鼓を打ちゆったりすることが出来ました。

10月17日(土) 東北旅行3日目

今日は秋田駒ヶ岳に行く予定ですが、雨模様なので宿の出発を1時間遅らせゆっくりと出発しました。今日は土曜日で交通規制があり、八合目まではシャトルバスで行きます。到着時には雨も止み、なんとか登れそうです。爆裂口跡の脇を通り順調に登ると紅葉が見事です。田沢湖もみえてきました。でも、生憎なことに頂上付近にくるとガスが出始め、風も冷たく雪がちらつき何も見えません。避難小屋の寒暖計は−3°Cで寒いはずだ! 下山を早め予定より早いバスで戻り今日の宿泊地である南花巻温泉の開湯1200年と言う山水閣にチェックイン。今晩も豪華な料理で至福の時を過ごしました。

 

10月18日(日) 東北旅行4日目、5日目

今日の目的地は栗駒山です。朝食後直ぐに出発して須川高原へ。紅葉の最後の見頃の日曜日で、しかも天気も良いのですごい賑わいです。やっとのことで駐車することが出来早速アタック開始! まだまだ紅葉を楽しめ思い出に残る良い登山ができました。年内に近郊のハイキング程度は行くと思いますが、私の今年の最後の遠征登山でした。宿泊は鳴子温泉へ、今回の旅行で一番豪華な部屋と食事を楽しみ、翌、19日(月)に東北新幹線の古川でレンタカーを返却して帰宅の途に。レンタカーの走行距離はなんと6300km、ハイブリッド車だったのでガソリンはなんと28リットルしか使用しませんでした。

 

 

 

20年10月 月いち高尾報告    (39 堀川義夫)

 

7月以来の月いち高尾を開催しました。コロナ禍が治まったわけではありませんが、良い意味で皆さんが少しコロナ慣れしてきたのか(?)26名の参加を得て、また、天候にも恵まれ楽しいワンデリングが出来ました。

コロナ対策としては、ワンデリング中の密を避けるため4班に分けそれぞれのリーダーのもと、皆さん久しぶりのワンデリングに楽しい時間を過ごすことが出来ました。

定刻10分前には全員が集合し、意気込みを感じます。今回から新しく参加された下村さん(42年)、猪俣恭子さん(43年)織戸さん(55年)を紹介した後、各班に分かれて出発しました。その後は、午後1時に頂上のテラスで集合写真を撮ること以外は全て班ごとに行動して頂き、最後は希望者だけで何時ものてんぐ飯店で22名の参加を得て打ち上げを開催しました。唯一、心配なのがこの打上で、てんぐ飯店を貸切にしたのですが、やはり密になってしまいました。でも、凄く楽しい時間でした。皆さんも日頃の行動から解放され、のびのびされたのではないでしょうか? リーダーの私も久しぶりで色々とチョンボをしてしまいました。各班の写真を提供してもらい損ねました。従って、集合写真以外は全てケーブル利用班のものです、ご容赦ください。

参加者  合計 26名

  • ケーブル利用班 後藤三郎、中司、平松、椎名、堀川(L)、相川、猪俣、猪俣(恭子)  8名
  • 1号路班    翠川(L)、吉牟田、高橋(良)、深谷、遠藤、浅海    6名
  • 稲荷山班    三島、藍原(L)、久米、久米(行)下村、安田、織戸   7名
  • 大垂水班    菅谷、矢部、岡沢(L)、武鑓、関谷 5名

 

エーガ愛好会(27) カサブランカ

(保屋野)5回目の「カサブランカ」、ビデオでじっくり観ました。脚本、俳優、音楽と3拍子揃った、やはり、名作中の名作ですね。でなければ、5回も観ません。

今回、初めて気がついたことがあります。私は、これまで、戦後に制作された映画だと思っていましたが、何と戦争中に制作されたのですね。ネットによると、アメリカ参戦直後に制作された、ドイツを悪者にした「プロパガンダ」映画でもあるそうです。ですから、当然、モロッコ~カサブランカでのロケは無理なので、実際は、アメリカで撮影されたようです。もう一つ。当時カサブランカはフランス領で、ドイツの傀儡・ビシー政権の管轄下にあったものの、実質的なトップであるドイツ軍少佐が何故警察署長に遠慮して?(お尋ね者)のラズロを即逮捕できなかったのか、少々疑問。

ニヒルなボガードと美しいバーグマン、そして、黒人のピアノ弾き、日和見・警察署長、太った顔役、ラズロ役・・・皆、個性あふれる俳優でした。特にラストシーン「(賭に負けた)1万フランは2人分の飛行機代に」という署長のセリフが憎いですね。

(金藤)遅ればせながら「カサブランカ」初めて観ました。評判通り、とてもよかったです。 

イングリッド・バーグマンの美しさは言うまでもなく、ハンフリー・ボガートは美男ではありませんでしたが、男らしく格好よかったあ。
雨の中 駅でバーグマンを濡れたトレンチコートを着て待つ姿、最後に飛行機を見送る時に着ていたよれよれになったトレンチコート。
トレンチコートが彼の心の内を語っているのでしょうか?格好いい男性のトレンチコート姿は、こうでなければ!と思いました(編集子注:申し訳ないけど、俺だってもう30年は着てるよ。アナタやミッキーと毎日顔を合わせてた頃はどうだったか、記憶にないけど)
台詞回はお洒落で、昔の恋人と再会して、俺たちにはパリがある なんて言えますか?流れる曲も、ピアノ弾きのシーンも、ラ・マルセイエーズの合唱も良かったです。最後もホッ、しみじみ・・・ 良い映画でした。
君の瞳に乾杯🍸 Here’s looking at you,kid
  と書きたくなる 気持ち大変良くわかりました。

(小田)名画なので本当にいろいろなセリフがシェクスピアのことばのように使われているのですね。保屋野さん君の瞳に乾杯……のお言葉ありがとうございました。でも目も若くはなくなってきましたので、

“ゆうべはどこにいたの?”
“そんなに昔のことは覚えてない”
“今夜会ってくれる?”
“そんなに先のことはわからない”

が最近には近いかと。

(安田)主題曲 「アズ・タイム・ゴーズ・バイ(As time goes by) – 時の過ぎゆくままに 」 は素晴らしい。監督は、後年ハンフリー・ボガートが主演した映画 「俺たちは天使じゃない」 1955年でもメガホンを執ったハンガリー出身のユダヤ人マイケル・カーティス。公開は1942年。同じ年にチャップリンのサウンド版 「黄金狂時代」 とゲーリー・クーパーがヤンキースの不世出の野球選手ルー・ゲーリックを演じた「打撃王」 が公開。全米脚本家組合 (Writers Guild of America) が「歴史上もっとも優れた映画脚本ベスト101」 というリストを発表していて、第1位に 「カサブランカ」、第2位 「ゴッドファーザー」、第3位 「チャイナタウン」、第4位 「市民ケーン」。ちなみに、「ゴッドファーザーPart2」 10位、「アラビアのロレンス」 14位、「アパートの鍵貸します」 15位、「ショーシャンクの空に」 22位、「風と共に去りぬ」 23位。アメリカ以外の映画は選考に入ってない。

体制側であるはずの植民地警察の署長がイルザと夫ラズロの逃亡を見逃す飛行場のシーン、阿吽の呼吸で逃亡を助ける協力をしたボガートが署長役のクロード・レインズへ、「 美しい友情のはじまりだな 」  (This is the beginning of our beautiful friendship) と言いつつ満足げに並んで立ち去るシーンには爽やかな男気を感じ清々しい。

名セリフの多い映画だが、特に印象的だったのは 空港で別れ際にリックがラズロに向かって言う 「昨夜イルザが私のところまで来ましてね。出国ビザの件です。手に入れるために、まだ私を愛していますとまで彼女は言いました。でもそれはずっと昔のことです。あなたの為についた嘘ですよ」。このセリフを背中で聞きながら、イルザは涙を拭っている。ハイライト場面のひとつだ。

他にも名セリフが目白押しだ。今でも忘れえない幾度も出てくる名セリフ 「Here’s looking at you, kid] は特に有名だ。直訳すると「君を見ていることに乾杯!」 という意味だが、名和訳  「君の瞳に乾杯!」 が誕生した。末尾のkid は若者、若いの、子ども、という意味だが、ボガートとバーグマンは実年齢16歳離れているので、ここでは親しみを込めて「ねえ、きみ」 くらいの感じであろう。映画制作当時、ボガート43歳、バーグマン27歳。 この 「君の瞳に乾杯!」 のシーンは映画を通して4回出てくる。 

さらに名セリフは続き、「昨日はどこに? そんな昔のことは覚えてない」 「今夜会える?そんな先のことはわからない」。 ルノー署長はリックの出国の意図を聞いて彼へのセリフ 「寂しくなるな。俺よりハレンチなやつがいなくなる 」。 ラズロのリックへのセリフ 「私はいい。彼女を助けてもらいたい。彼女と一緒にカサブランカを出て欲しい。私だってそれほど妻を愛している」、リックのイルザへのセリフ 「愛しているから。だから行って欲しい。君は彼の一部なのだ」。 正に会話のアクション映画である。

(編集子つけたし)

ロック・ハドソンが主演した トブルク戦線 の冒頭に、保屋野くんが言及しているヴィシイ政権下のフランスの状況がちょっとだが出てくる。第二次大戦のヨーロッパ解放についてはノルマンディ侵攻(映画で言えば史上最大の作戦)がいつでも出てくるが、歴史家リック・アトキンソンによると、北アフリカ戦線に投入されたアメリカ軍がドイツの名将ロンメルを制し、アフリカからイタリーへ転戦(有名なアンツィオの激戦を舞台にしたのがヴァン・ジョンソンの 二世部隊)、勝利したことが欧州の運命を決定したのだそうだ。この北アフリカ侵攻が始まったのはカサブランカのすぐ北、アルジェリアの海岸からで、この映画の背景になっているように中立国への逃避や亡命を図った人たちはどういう立場にあったのだろうか。また、ドイツの敗北を決定づけた英米両国の主脳会談がおこなわれたのもカサブランカであったし、そういう意味からも興味がある映画だ。

フィルムの持つ雰囲気、そのほかについてはあえて言うまでもない名画!

 

 

 

コーヒーブレーク

定期に通っているかかりつけ医で採血のため朝食抜き、といわれていたので、終わってから仙川の街へ出て、ミスドでドーナツ二つとコーヒーでブランチにした。この店でいつもきまって選ぶのがハニーディップというやつで、これにはある思い出がある。

生まれて初めてアメリカの土を踏んだのは1967年9月。まだまだ ”日本人“ はサンフランシスコ郊外という親日性の高い地域であってもあきらかなマイノリティ扱いだった。オリエンテーションを担当してくれた男は、”俺はゼロ戦と戦ったことがある”と自慢したし、苦労して新聞広告で探し当てた、低所得住民地域の長屋では、隣の職工さんが興味を持ってくれたのはいいが、Do you have dogs in Japan ? と大真面目で聞かれた時ばかりは耳を疑った。日本、への関心はそんな程度で、悪人じゃないが面倒をみてやらなければならん敗戦国の人間、というのが標準的アメリカ人の見方だったのだろう。

だからもちろん言葉のこともあるが、もうひとつ、人間関係に踏み込めない毎日だった。そのような中で付き合いを広げるのに役立ってくれたのが、コーヒ-ブレーク、という日本では考えられない制度だった。毎朝10時と午後3時、職場にコーヒーポット、プラスチックカップと山盛りのドーナツを載せたカートがやってくる。周りの人間は手を休めてほぼ10分くらい、その周りで雑談をする。なかにはドーナッツを三つも四つもとって朝飯代わりにする若いやつもいた。当時のヒューレット・パッカードでは本社でも個室を持っているのは日本流にいえば会長のパッカードと社長のヒューレットだけで、みんな同じようなデスクが並ぶのがオフィスの在り方で、当然、両創業者もオフィスから出てきてこのブレークに加わるし、もし来客があればその場所につれてきて歓迎する、だれかれなしに よお、どうしてる、とか、先週の釣りはどうだった、とか、話が弾む。隅にいる僕には特に目をかけてくれる人が多くて、冗談交じりにいろんなことを教えてくれた。このような職務を離れて個人としての会話がとても貴重な英語の勉強の場であり、市井人の素顔を知るのにどれだけ役に立ったか、計り知れない。

当時のHP本社

当時僕が勤務していたのはいわゆる本社で、5棟の2階建てのオフィスと工場があった。従業員は少なくとも2000人くらいにはなっただろうから、そこへ定時にコーヒーを届ける、というのも大変な手間だったはずだ。コーヒーはともかくとして、あれだけの数のドーナツはどこから仕入れていたんだろうか。ミスタードーナツは50年代の創業だから多分そこからだろうとは思うのだが、パロアルトやメンロパークといった街角で店を見た記憶はない。

ただ、いずれにせよ、コーヒーカートにかならずあったのが日本では見たこともなかったハニーディップ、というやつだった。もう一種、これはどこでも見かけてドーナッツ、といえばすぐ頭に浮かぶ、どこの喫茶店にもあるような、シンプルで薄く砂糖をまぶした奴、あれは今のミスドにはない。あれだけ何種類もあるのに、である。代わりに選ぶのがオールドファッション、というやつだが、あれは ”あの時の“ コーヒーブレークカートには載っていなかった。

それから。

かのグローバリゼーションとかいう見栄えのいい企業イメージを支えるための現実のまえに、いつの間にかコーヒーブレークは姿を消してしまった。

”人が企業をつくる“ というパッカード、ヒューレットの創業理念が浸透し、職場のコミュニケーションを図ることがマネージャの第一義務とされていた、アメリカ企業ベスト50(20だったかな)の常連だった、”古きHP” はすでに過去のものとなってしまった。自分はケイオーの出身だ、ということと、“あの” HPで育ててもらった、というふたつの事実が僕の誇りであるのだが。