エーガ愛好会(91)  アパッチ砦 (34 小泉幾多郎)

ジョン・フォード騎兵隊三部作の第一作。軍人の精神の鑑として扱われていた第七騎兵隊全滅の事件を、カスター将軍の方に非があったとおそらくは初めて批判的な眼で扱った作品。これ迄は、ラオール・ウオルシュ監督「壮烈第七騎兵隊1942」のようにもっぱら軍人精神のような角度から扱われていた史実だが、何か問題を起こし、責任をとらされたか、 アパッチ族との抗争が絶えない辺境の地に左遷させられたサーズディ中佐(扮ヘンリー・フォンダ)が、アパッチ族を掃討することで呼び戻されることを望み焦りの気持ちに陥っていて引き起こした悲劇、という話になっている。                                            例によってモニュメントバレーの中を向うかう駅馬車の疾走シーンから始まる。赴任する中佐とその娘フィラデルフィア(シャーリー・テンプル)とが乗っている。其処に。その娘と懇意になった士官学校卒のオローク少尉(ジョン・エイガー)も赴任のため馬で一緒する。好きになったフィラデルフィア俗称フィルが父の眼を盗んでコンパクト鏡で馬上のオロークを眺めるのが可愛い。途中の中継所で軍曹たちが出迎え、当然中佐のためと思いきや、電信不通で連絡がなく、自分でなく大尉の出迎えと知り愕然とする。それでも軍曹たちの執り成しで、砦に到着、懇意だったコリンウッド大尉(ジョン・オブライエン)やヨーク大尉(ジョン・ウエイン)と対面、引継ぎは問題なく終わる。オローク大尉の父は軍曹(ワード・ボンド)、母はフィルの亡くなった母と懇意だったこともあり、フィルはその一家と直ぐ打ち解け、オロークとの仲も深まる。名刺交換は日本の慣習とばかり思っていたら、当時の軍隊で初対面で名刺を渡すことが義務ずけられていたとは驚き。父より息子オロークの方が位が上、仲間のマルカーヒー軍曹(ヴィクター・マクラグレン)たちに、息子の上官としての訓練ぶりを聞くところ等微笑ましい。その後、騎兵隊の輸送馬車が襲われたりした頃、フィルとオロークが遠乗りに出掛け、父の中佐に大目玉を食う。中佐は家柄の違い等を理由にして二人の交際を禁止する。

騎兵隊とインディアンの抗争の一番の理由が、インディアンに連発銃や酒を売りつけていたミーチャム(グラント・ウエザース)という男。そもそも政府の官僚でありながら、インディアンを堕落させ追い詰める裏工作を行っていた。ミーチャムを捕えた中佐は、ヨーク大尉からインディアンの有力者コチーズと話し合うことを提案され、ヨーク大尉は通訳の部下ビューフォート軍曹(ペトロ・アルメンダリス)を連れて、白旗を掲げコチーズの許へ。コチーズはスペイン語を操ることの出来る知的で高邁なる人物で、コチーズとは和平が成立したものの、その約束にも拘らず、中佐は連隊全員を招集し強襲すると言い出す。アパッチ族の罠に気づかない中佐は出動を命ずるが、ヨーク大尉は反対し、抗命の理由で、任を外される。中佐は全軍を率いて突撃するが、重囲に落ちて全滅してしまう。誤った一人の上官の命令に従わざるを得ずあたら命を失ったかっての日本軍にも思いを馳せざるを得ない。アパッチの攻撃に備え十数人の兵士たちが銃を構え、めいめいがポーズをとり、滅びゆく一隊の悲愴美を漂わせる様。冒頭からのモニュメントバレーを疾走する駅馬車、馬上で駆け抜ける二人の男女の姿、騎兵隊の出発、砦でそれを見送る妻たちの顔等々、人間たちと巨大な西部の自然との溶け合いよって造形された風景。これらはキャンバスに描かれた絵のように美しい。西部に住みこの地を愛しその風物を描き続けたフレデリック・レミントン(1861~1909)という画家がいたそうで、ジョン・フォードはこのレミントンの絵を愛していたという。映画制作にあたり、レミントンの絵のような映画にしたかったと語ったと言われている。モニュメントバレーを愛していたが、その中の人間のいる西部の風景を愛していたと言えるようだ。

後日、新任の隊長として、記者会見に臨んだヨーク大尉が言う「我が隊の士気は以前より高い。これはサーズデイ中佐の功績だ。」この言葉で、中佐の偏屈さは、軍人精神の正義の守護神として入れ替わってくれたのだった。ヨーク大尉の機転で、後方部隊で生き延びたオローク大尉はフィルと結婚し子息にも恵まれる。蛇足になるが、現実に、映画の3年前に、ジョン・エイガーは妹の同級生であったシャーリー・テンプルと結婚していたが、有名人テンプルの夫という重圧から、酒に溺れ、結婚後5年で破局している。「黄色いリボン」以降、それでも低予算作品、TVドラマ等へ出演し、81歳まで生きた。テンプルは、ご承知のように、子役時代からの映画界キャリアも凄いが、後半生30年に亘り外交等の公職を歴任した。

(編集子)ダコタ州ブラックヒルズで金鉱が発見されたのは1874年であるが、このあたりは先住民族との間の協定で彼らの居住区となっていた。貪欲な資本家に押された政府は協定を無視したため、この地域に白

ブラックヒルズ山地

人の山師たちが集中して、金鉱発掘ブームとなる。これに激怒した先住民側は部族を超えて団結,強力な抵抗運動を始める。1876年、カスター将軍は周囲の反対にもかかわらず自分の率いる第七騎兵隊のみで地域に進攻し、圧倒的な兵力差の下で全滅した。これを映画化したのが小泉解説にある 壮烈第七騎兵隊でカスターを当時人気の高かった

壮烈第七騎兵隊の江ロール・フリン

エロール・フリンが演じた。添え物の女優役はやはり絶頂期にあったオリヴィア・デ・ハヴィランド。この戦闘がきっかけとなって、小康状態にあった西部地域が先住民族との激闘に巻き込まれる。名高い酋長にジェロニモという男がいて白人たちの恐怖の的になった。”駅馬車” のトップシーンは電信線を破壊されて重要な情報が届かなくなる場面から始まるが、電信手が最後に受信した単語が ジェロニモ! だということでその場に恐怖が走ったのをお気づきだったろうか。ただ、こういう史実を知ってみると、こういう国に、ウイグル人問題などで正義を振りかざす資格なんてあるんだろうか(だから習近平が正しいというのではもちろんないが)と思ってしまう。所詮、歴史は勝者だけのものなだろうが。

さて、いよいよジョン・フォード騎兵隊三部作、の登場である。アパッチ砦で若き大尉だったウエインは リオグランデの砦 では妻(モーリーン・オハラ)と別居を余儀なくされた中年の役を演じる。結局元の鞘に収まるきっかけは一兵士となってウエイン部隊に配属された息子(クロード・ジャーマン・ジュニア)の

リオグランデの砦

活躍になるのだが、この息子の後ろ盾となるのが同じ兵士仲間の ベン・ジョンソン、ハリー・ケリー・ジュニア。彼らの指導役の軍曹になったヴィクター・マクラグレン、グラント・ウイザース、チル・ウイルス、キャロル・ナイシュ、ワード・ボンド、ペドロ・アルメンダリス、などを加えた面々がいわゆる フォード一家、と呼ばれた人々である。ハリー・ケリーの父親はフォードと同時代に名プロデューサー兼俳優として尊敬されていた人で(赤い河 では締めくくりに登場してクリフトから牛を買い付ける紳士を演じている)、フォードは彼に対する敬意もあってジュニアをよく登場させた。三部作最後の 黄色いリボン はすでに老齢に達したウエインが引退を前にして若い士官たちを助けて、夕陽の中を去る。ただ、最後の最後に大統領令で彼はもう一度、”スカウト” として隊へ呼び返される。

ベン・ジョンスン

この通知を持ってカリフォルニアへと落ちていくウエインを呼び戻すのが、小生のお気に入り、ベン・ジョンソンである。三部作のうちで最も好ましいこの作品、機会があればお見過ごしなきよう、おススメしておく次第。なお面白いことにウエインの演ずる大尉が前2作ではヨーク、なのに黄色いリボンではブリトルズと名前が変わっている。なぜだか、わからないが。

 

三部作、のほかにフォード一家の登場する映画は数々あるが、三人の名付け親 という名画は、話の筋から言ってあまり多くの人物が登場せず、ウエイン、アルメンダリス、ケリージュニアにワード・ボンド、この4人だけのつまりフォード一家の映画といってもいいものだ。この連中のほか、女優でよく出てきたのがミルドレッド・ナトウイック。大物ではジェイムズ・スチュアートとリー・マーヴィンもフォードのお気に入りだったらしいが(この二人が主演したのが リバティバランスを射った男 である)、一説によるとウエインとマーヴィンは犬猿の仲だった、という裏話もある。

時々話題になる、作家というか、くせものリポータ広瀬隆に ジョン・ウエインはなぜ死んだか という一冊があり、彼の言うところによればウエインの死因となった癌に感染したのは、彼が数多くの西部劇映画撮影の場所としたネヴァダ州の砂漠地域が、実は同州で数多く行われた原爆実験の場所だったからだ、という。この本によれば 三人の名付け親 で共演したペドロ・アルメンダリスも癌の宣告に絶望して自殺したのだというのだ。この作品で、砂漠の放浪の果て、アルメンダリスはこれ以上歩けなくなった、と知り、コヨーテに食われるよりは、と言って、ウエインが背を向けたときに自殺してしまう。なんだか不気味な話ではないか。

も一つ、関係ない話だと思うが、僕らの高校時代に華やかだった歌手、ドリス・デイに、日本語の題名はわすれたが Take me back to the Black HIlls という曲があった。歌詞に ……Black HIlls of Dakota という一節があるので、同じ場所のことだと思うのだが、映画でも活躍した金髪の、誠にこれぞアメリカンガール、と感じさせた風貌はまだ瞼に鮮やかである。もっと無関係なことでいえば、Secret Love なんてのもあったなあ。も一つ余談だが、昨晩の夕刊にニューミュージック170曲、というCDの広告があった。数えてみたがちょうど1割17曲しか知らなかった。歌は世につれ、だろうな。