エーガ愛好会(25) 慕情

唄は世につれ、という言葉があるが、映画についてはあまり聞かない。思うに歌曲は聞く、その瞬時に投影され引き起こされる、いわば時間軸に左右されて感情に訴えるのに、映画には脳裏に残る映像があり、それがある種の固定された記憶を呼び起こし、時間の経過とは独立したかたちの印象をもつからではないか。

この映画は僕の高校時代、人がだれでも経過する人生の最も脆弱な時間帯に遭遇したある個人的な経験を思い出させる。フィルムとしての出来や俳優や背景などとは関係のない次元で、タイムワープして60年前の自分に対決するような気持ちで改めて見た。丘の上の一本の樹の映像が思い出させる記憶のほうが僕には重くて、予想はしていたのだが一種の虚脱感が残った、そんな再見だった。以下、愛好会メンバ各位の、メールの一部を紹介させてもらうことでフィルムそのものの感想に代える。引用したイメージは例によって安田君のご厚意による。

(安田)

第二次世界大戦後の1949年、イギリス植民地香港を舞台とした1955年制作の映画。ヒロインのイギリス人と中国人ハーフの未亡人の女医ハン (ジェニファー・ジョーンズ) とアメリカ人特派員マーク・エリオット (ウイリアム・ホールデン) は恋に落ちる。最後は悲恋に終わる物語だか、社会背景、混血、戦争などについても提起されている。監督、ジェニファー・ジョーンスが1943年、のちに双方不倫の末結婚することになった名プロデューサー・セルズニックに見出され、23歳のデビュー映画 「聖処女」(The Song of Bernadette)  でオスカー主演女優賞を獲得した時にも、メガフォンを執ったヘンリー・キング。

ジョーンズがデビューから12年後の映画で、その間 「ジェニィの肖像」 「ボヴァリー夫人」 「黄昏」 「終着駅」 などを経て大スターへの階段を上っていく姿を見(魅)せてくれました。彼女はチャイナドレスがとても似合う、品ある美しさと物腰が特に際立っていた。長身170cmに驚くほど細いウエストが印象的。彼女のみならず1940年~50年代を代表した多くのスター女優のような個性的オーラ溢れる女優には、今はなかなかお目にかかれない。相手役のウイリアム・ホールデンも既にオスカー男優 「第十七捕虜収容所・1953年」であり、「サンセット大通り」 「麗しのサブリナ」 「喝采」 などを経て押しも押されぬスター俳優。演技力を兼ね備えた美男美女の競演ぶりは見応えがあった。「慕情」 と双璧を成す香港を舞台にした洋映画 「スージー・ウォンの世界」 でも主役を演じている。「慕情」のホールデンは彼の多くに映画の中でも、「第十七捕虜収容所」 と並んで気に入っている。

(保屋野)「慕情」、今ビデオで見終えたら、早々に安田君のメールが届いていました。何時もながらの完璧な、解説、感想で、私が付け加えることもありませんが一言だけ・・・

この映画は大昔観た記憶はありますが、ほとんど忘れてました。冒頭1949年の香港の映像・・・当たり前ですが、高層ビルがほとんど無いことに何故か感動。そして、ジェニファー・ジョーンズとウイリアム・ホールデンという、美男美女の恋愛絵巻は、愛情物語に続き、またまた「目の保養」をさせていただきました。特に、ジェニファー・ジョーンズは、ハリウッド有数の正統派美人女優で、かつプロポーションも抜群で、チャイナドレス姿や水着姿等に圧倒されました。、

また、この映画は「旅情」と良く比較されますが、旅情はベネチアが舞台で、キャサリン・ヘプバーンとロッサノ・ブラッツイのコンビ、そして、慕情に匹敵する素晴らしいテーマ曲もありますね。。ちょっと違うのは、方や「絶世の美女」、方や「ハリウッドNO1の演技は女優」ということか。・・・旅情も放映してほしい。

(編集子)封切りが1年前後したやはりホールデン主演の トコリの橋 を思い出した。出入りの激しい映画だったが、慕情 の背景になった香港と同時期の(朝鮮戦争のころの)日本社会が、多少戯画化されてはいるものの背景にあった映画だった。そのころの人気女優淡路恵子が出ていたっけ。ついでに保屋野兄の待ち望まれる旅情の有名なラストシーンを張り付けておこう。安田解説で出てきた第十七捕虜収容所の悪役で出てきたピーター・グレイヴスと、のちのTV人気番組 ミッションインポッシブル でお目にかかった時はうれしかったものだ。

 

コロナごもり対策 - ミステリや冒険小説でも読んでみないか

コロナごもりがあとどれだけ続くのか、見当もつかないし、バタバタしても仕方のないことだから、それなりの用心をしたうえで社会生活に復帰するしかないと思うのだが, 巣ごもりをしていると、なにか趣味があることがとても貴重なようだ。同じ趣味でもスポーツだと場所やパートナーや天候などに左右されてしまうが、自分ひとり、自宅完結のものにはそういう心配がない。

小生の目下の巣ごもり日常ルーチンだが、朝食を7時半くらいにはすませてしまい、その後のほぼ1時間を初級ドイツ語の勉強に充てるようにしている(一昨日、”ドイツ語練習3000題” というのをすませて、目下意気軒昂)。昼までは何やかやと過ぎてしまうが、グラス一杯のシャルドネで気持ちよく昼寝。午後は昔の用語でいえばラジオ作り(スクラップアンドビルド、というほうが当たっている)で過ごし、夕刻から寝るまではほぼ、ミステリで過ごす。コロナ籠りの日々、有り余る時間を楽しむためにこの ”ミステリで過ごす” ことをお勧めしたい、というのが本日の趣旨である。

前振り的に言えば、シャーロック・ホームズから始まり1920年代に花開いたいわゆる”推理小説”は文字通り、”推理”という頭脳ゲームを当時の知識層を対象に書いたものであって、だれでも知っているアガサ・クリスティー、ヴァン・ダイン、エラリー・クイーン、ディクソン・カー、ほかにもクロフツだチェスタトンだと枚挙にいとまなく、日本で言えば江戸川乱歩や高木彬光なんかが代表としてあげられる。これら ”推理”ということのために書かれた小説はその目的のために複雑な筋を用意し、読者を欺くための仕掛けをこれでもかというほど組み込むことになる。特にクイーンやカーの作品はその傾向が強い。そこへいくとクリスティの作品には時として詩的な展開があったり、人間味のあるプロットが用意されているものが多い。これがミステリの女王、と呼ばれ、英国人の多くが毎年のクリスマスプレゼントにクリスティの新作を待ち続けたということなのだろう。

僕はこの種のいわゆる”本格推理”と呼ばれるものを高校時代、畏友菅原勲の勧めで読み始め、創元社や早川書房の文庫で、代表的なものは一応ほとんど読んできた。しかし正直言えば、細かいヒントを拾って推理をする、というよりも最後になって、ははあ、そうだったのかい、という程度の読者である。そういう範囲の、簡単に手の入る文庫本のなかから、おすすめとして次のようなタイトルをあげてみたので、この機会に試されてはいかが。文庫本ならまあ数百円の投資、安いものではないか。

アガサ・クリスティーなら、アクロイド殺人事件、オリエント急行殺人事件、白昼の悪魔ナイル殺人事件あたりから始めていただこうか。アクロイド以外は映画化されているのでご覧になった向きも多いかもしれない。最後のどんでん返しが痛快で気に入っているのがウイリアム・アイリッシュ 幻の女、オーソドックスな構成でこの著者独特の怪奇趣味も出てないので読みやすい、ディクソン・カー 皇帝の嗅煙草入れ なんかもとっつきやすいのではないかと思う。クイーン、ヴァン・ダインはなじむのが結構大変なので次の段階になるだろうが、もちろん、一級品揃いであることは当然だ。専門?家筋では、最高のミステリはなにかという議論が当然あるわけで、僕がはまっていた時期には、たとえばクイーンの Yの悲劇 がそうだとか、クリスティの そして誰もいなくなった がいいとか、ヴァン・ダイン(いかにも30年代の欧米知識階級に受けそうな著者の衒学趣味が強すぎて僕は辟易した)のどれがいいとか、いうものだったが今はどうだろうか。

しかしいろんな ”本格物” を拾い読みしてきて、推理のために作られた環境ではなく現実にある環境で起きえる犯罪を、現実にあり得る方法で解決していく、そして推理だけでなく、文学としてのロマンや文章を味わえるものとして、日本で言えば社会派推理小説と呼ばれたジャンル、欧米でいえばいわゆるハードボイルド、それとむしろ冒険小説、と呼ぶほうが正解なような、広義のミステリにひかれるようになって現在はその冒険小説系も併せて乱読を続けている、というのが僕の現状だ。その中から、いくつかをおすすめしたい。

ジャック・ヒギンズ からは ご存じの は舞い降りた とその続編 鷲は 飛び立った、狐たちの夜 が第二次大戦に取材したもので、サンダーポイントの雷鳴 はナチの終焉の話(”映画愛好会”シリーズで取り上げた オデッサファイルにからむもの)で史実と照らし合わせると面白いが、読み終わった後の一種の虚脱感を楽しめる 廃墟の東 もおすすめ。ハードボイルド、といえばまず出てくるレイモンド・チャンドラー(注)では、さらば愛しき女よ がわかりやすく、代表作 長いお別れ は筋が複雑でよくわからない部分さえあるので、ミステリとしてよりもむしろ上質の小説としての雰囲気を楽しんでほしい。そういう意味では 大いなる眠り、がむしろチャンドラー入門にはいいかもしれない。彼の直弟子というべきロス・マクドナルドでは 動く標的、さむけ、ウイチャリ家の女 あたり。 クリスティと争う女流作家では、スウ・グラフトンのアルファベットシリーズ (アリバイのA から始まって本人は Z での完結を目指していたが痛恨のきわみだが Y (原題は Y for Yesterday)まで来て著者は逝去)が読みやすいし読んでいて楽しいが、翻訳は残念ながら R までしか出ていない。

日本の作家では、チャンドラーに心酔してミステリを書きはじめたというジャズマン原寮の さらば長き別れ と それまでの明日 は、日本を代表するハードボイルド作品だと僕は思っている。それともうひとつ、少しジャンルが違うし、この本のことを言うと大抵笑われたりすることが多いのだが、高木彬光 成吉思汗(ジンギスカン)の秘密。英国の大家ジョセフィン・ティの 時の娘 の向こうを張った、義経=ジンギスカン説。僕はこの本を読んでこの説を信奉するに至った。ぜひご一読をおすすめする。ミステリ・冒険小説ファンが増えて,紙上討論会、でもやって、コロナごもりが少しでも楽しくなることを願っている。

(注)この人の作品は翻訳がかなり多い。ここにあげたのは清水俊二訳のタイトルで、最近では村上春樹が長編をすべて新訳で出している。僕の好みでは、長いお別れ、だけは清水訳でお読みいただきたいのだが(村上訳は ロンググッドバイ、となっている)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エーガ愛好会(24) シヤーリー・マクレーンとモリコーネ (34 小泉幾多郎)

”真昼の死闘” を観た。 原題名シスターサラのための二頭の騾馬。ハイヌーンの「真昼の決闘」にあやかって、「真昼の死闘」と邦題にしたようだが、内容は死闘らしきものは最後だけ、それも真昼でなく夜。内容に全然そぐわない。シスターサラは、シャーリー・マクレーンが扮し、いつも騾馬に乗っているが、もう一頭は、muleには片意地者とか頑固者という意味もあり、一緒に冒険旅行を楽しむクリント・イーストウッドのことを指すらしい。

 冒頭、朝日の輝く峰をイーストウッドが馬に乗り歩いていると聞き覚えのメロディが奏でられる、エンニオ・モリコーネの音楽だ。舞台はフランス占領下のメキシコだからマカロニウエスタンと見間違ってしまってもおかしくない。クレジットが始まると先ずはシャーリー・マクレーンから。当時イーストウッドはマカロニウエスタン三部作で、名を上げ、凱旋して2作目、演技の実績も名声もマクレーンのキャリアに遠く及ばなかった。キャリアを経てからメリル・ストリープと共演したりしたが、この頃に大女優になりつつあったマクレーンと共演して、何かを得ようとした気持ちは認めてやっても良いのでは?流石にマクレーンは、キュートなところもあり、売笑婦ながらも修道女に化け、しかもメキシコ革命軍に裏で協力する役柄を楽しくこなしており、革命軍と協力し金儲けを狙う風来坊のイーストウッド、格好は良いが、食われてしまったようだ。

 最初に、悪玉3人に襲われていたマクレーンをイーストウッドが救ったことから二人のバディ&ロードムービーが始まり、協力しての弓矢の取り除き騒動、鉄橋爆破による列車転覆や要塞の攻略によるダイナマイト爆破等の見せ場はあるのだが、何となく、活劇のハラハラ感がない。どうやら悪逆非道なフランス軍に対するメキシコ革命の必然性の説明が皆無だからではないからでは?

 この映画の監督ドン・シーゲルとイーストウッドの係わりも忘れてはならない。当時まで、B級アクション監督としてかたずけられてきたドン・シーゲルとマカロニ・ウエスタンの荒くれスターとしてのみ固定されていたイーストウッドの出会いは「マンハッタン無宿1968」で、西部劇では、この映画で。B級アクションから二人は「白い肌の異常な夜1971」「ダーティハリー1971」の野心作へ発展、さらに二人の友情は、イーストウッドの第1回監督作品「恐怖のメロディ1971」に付き合うまでに至り、その後のイーストウッドの偉大なる監督作品に多大なる影響を与えた。

(安田)映画が公開された1970年当時は確かに三役のシャーリー・マクレーンに対して新入幕を果たしたクリント・イーストウッドが共演しているという風でした。マクレーンは流石に演技上手の大御所然としたオーラが感じられ、イーストウッドも横綱から“金星をあげてやるぞ” の勢いを感じました。今では、映画界(監督も含めて)においては両者とも大関・横綱級の格付けでしょうか。50年前の階段を一歩一歩上がっていく過程の俳優を観るのは愉しいものです。

マクレーンの映画はこの「真昼の死闘」に加えて、1955年21歳の時の初々しく可愛い「ハリーの災難」(BSPで今春鑑賞、26歳の時の彼女の地位を不動にした「アパートの鍵貸します」、円熟の49歳の時のオスカー主演女優賞受賞「愛と追憶の日々」、つい最近2012年出演の英国テレビドラマ「ダウントン・アビー」(78歳時)を観ましたが、65年の歳月の長さを感じます。

(保屋野)今日、毎週観ている「題名のない音楽会」を観たら、偶々、「モリコーネ」特集でした。先日、安田君から紹介された「ニューシネマパラダイス・メドレー」「マカロニウエスタン・メドレー」「ガブリエリのオーボエ」を聴きました。改めて、モリコーネ音楽の素晴らしさを知りました。

今夜、丁度「荒野の用心棒」が放映されるので、映像と共に楽しみたいと思います。ちなみに、明日は「OK牧場の決闘」もありますね。貴君のお陰で、モリコーネの外、モーリス・ジャール、ニーノ・ロッサ等を良く知ることができました。また新しい情報お願いいたします。

(菅原)本日の日経朝刊12頁は映画音楽のモリコーネ(正確には、追悼)17頁はクラシックのブルックナー(実際には、それを指揮したF.コンヴィチュニー礼賛)と言っ具合に極めて好対照な作曲家が取り上げられていました。一見すると、クラシックのブルックナーの方が偉そうに見えますが、さにあらず。小生、勝手に、音楽とは、字句通りに、音を楽しむものと理解しており、両者は全くの同列です。その上で結論付けると、モリコーネの方が遥かに楽しい音楽です。いや、ブルックナーは深遠だから、もっと意味が深い、と言う人があるかも知れませんが、楽しくないものは楽しくないの一言です。ただ、モリコーネが、「P.ブーレーズのような現代音楽をやりたかった」と言ったのには、いささか失望しました。やっぱり、本人自身が、映画音楽はクラシックの下だという劣等感を持っていたんでしょう。しかし、そうならなかったのは幸いです。現代音楽なんてのは、雑音の塊で、楽しさなんて一欠片もありませんから。それとも、モリコーネなら、現代音楽に革命を起こしたかもしれません、「荒野の用心棒」を引っ提げて。これを機会に、「モリコーネ・プレイズ・モリコーネ」でも聴いてみるか。

 

 

尾瀬を歩いて来ました  (39 三嶋睦夫)

堀川さんの素晴らしい 涸沢~奥穂の写真を眺め 体力と意欲に改めて感心するばかりです。しかし ”最後の穂高”という言葉には 同感ですよ!
堀川さんにははるかに及びませんが、私は10/12~13 ”最後の尾瀬”で紅葉を満喫してきました。丁度紅葉が始まったところで ”鮮度”が良く、今年は紅葉の当たり年が期待できそうです!
歩いて感じたことがありますので、参考情報としてご覧ください。
1. 尾瀬の山小屋・人出
ご承知の通り 小屋は7月からオープンしましたが、営業している小屋は 半分以下で、見晴では 弥四郎小屋他2軒、尾瀬沼の長蔵小屋、山の鼻は2軒 のようでした。 小屋や土産物屋などの話では 人出は例年の30%以下・・・・・と嘆き節です。
2. 尾瀬は1泊すれば十分と思っていましたが、 意外にも2泊して のんびりと楽しまれる方が増えている感じがしました。
ルートもメインの鳩待峠から だけでなく、御池や沼山峠からの方が少なくありません。
御池には (ご存知と思いますが)浅草からの東武特急で 会津高原経由のアクセスが悪くないようです。(マイカーでない場合)
3. GoTo
泊まった 弥四郎小屋は GoTo対象で 検温・消毒・マスクは勿論ですが、密を避ける為 10畳に4人、寝具も旅館並みと言えるほどで 山小屋としては快適そのものでした。
JTBを通しての予約、前払い に地域クーポン券を入れると ほぼ半額の@5000円位でした。
GoToは経済活性化とは言え 何か違うのでは・・・・・と思ったほどです。
と言いながら既に何度か利用しましたので、社会還元でもしますかね。
三嶋兄

素晴らしい写真、僕が故酒井先輩とふたり、同じようなコースを歩いたのもこの時期だったかなあと思います。酒井さんとは小学校の同窓という縁がありましたが、あまり一般のWでご一緒することがないままでした。この山行でぐっと親しくなった記憶があります。

孫娘に贈った本

ついこの間、受験に奮闘していた末の孫娘が大学院進学を決めた、と報告してきた。まさに時間の経過、恐るべし、その間こっちは何をしていたか、と落ち込んでしまうが、なにより、我が一族にとって初めての理系が誕生したことに感動し、うれしくなった。

彼女の門出に何か、と思うのは当然だが、とりあえず、本を一冊、贈ることにした。小生、父親の影響もあって、子供のころから本好き人間である。中学時代、世界文学全集、なんかにあこがれ、高校時代はヘッセとヘミングウエイをよく読んでいたが、ある出来事を境にすっかり読書傾向が変わってしまい、当時の高校生の必読書、といわれた “魅せられたる魂” も ”チボー家の人々"も ”ジャンクリストフ” にもそっぽを向いて過ごした。それでも読んだ本の数だけはだいぶあった。ま、乱読、というのだろうか。

その中で、一冊、何かを挙げてみろ、といわれたら躊躇なく上げたいのが大佛次郎の 帰郷 だ。終戦直後の日本の混乱、特に文化の変質を憂えた本で、当時のことがそれでもうっすらと記憶にある世代のひとりとして、共感もし、主人公守屋恭吾の生き方に一種のあこがれも持った。孫娘の世代はいやおうなしに、特に彼女が専攻しようとしている環境にまつわる問題などは日本だけでなく、世界を規模に展開されるべきことがらだし、そうではなくとも現在社会のボーダーレス傾向はますます強まっていくのは必至である。そういう中で、”日本人” のアイデンティティーを持ち続けるのは逆に今よりも重要なことになっていくだろう。

サラリーマン時代の末期、めぐり合わせでいわゆる グローバリゼーション なる妖怪とどう向き合うべきか、特に当時担当していた人事・組織・労働組合などといった分野を統括する立場にあって、アジア諸国の担当者たちとのあいだには目に見えない,厚い壁があるのを感じた。むしろ西欧諸国の連中のほうが話は通じやすかった経験がある。今考えてみると、後者には長い間の歴史と闘争の間に培われた、確固たるアイデンティティがあったのに対し、彼らの侵略と植民地化に耐えてきた諸国には強烈な愛国心はあるが、なにが国のアイデンティティなのか、まだ模索している期間であったのかもしれない。こういう問題はこれから、多くの場面でおきてくることだろう。その時に、やれグローバルだ世界だという前に、”日本人”として持つべきものは何か、を考えておくことが必要なのではないか、と思う。いろんな本があり、多くの傾聴すべき議論があるから、これからは彼女が自分で判断していくことになるのは当然だが、自分があらためてこの問題を考えてみたとき、あらためて 帰郷 という本を思い出したのである。

大佛の作品が改めて新版が出る可能性はすくないし、全集となると焦点がぼけてしまうのではとアマゾンを検索してみたら、なんと2018年に新装版が出ていた。うれしくなって早速注文した・・・・のはいいのだが、何を間違えたか2冊、贈られてきた。思い出すと注文の過程で何だったか覚えていないがメールを打ち直した気がするので、先方のミスではあるまい。ちょうどいい、手元に大事に保管してある昭和25年版と読み比べてみよう。僕の趣味としては、

丘の斜面の芝原で柄の長い鎌をふるって草を刈ってゐたマレー人が・・手を休めて突っ立って見てゐた。

という出だしのほうが

丘の斜面の芝原で柄の長い鎌をふるって草を刈っていたマレー人が・・手を休めて突っ立って見ていた。

よりもなんとなく好ましいのだが、新仮名遣い、という国策のあたりも日本文化の変質、であるのかもしれない。

 

KWV ワイン  (36 翠川幹夫)

KWV印の「ピノタージュ赤」は近所のスーパー「いなげや」で十数年前から買っています。
特に美味しいとは思わないが(数年前からKWV三田会の夏・冬の合宿にも持ち込んでいました)、慣れたので家では良く親しんでいます。

輸入業者は国分グループで、国分での取り扱いの切っ掛けは森田さんご自身だったそうです(数十年前の話でしょうが。)ね。

KWV 印の ジン て知ってた ?

40年来通っている床屋へ散髪に行った帰り、ほぼ3か月ぶりに旧居にいたころ通っていたバーへ顔を出した。2時間半、ほかに来客なし。ギョーカイの大変な苦境ぶりを実感。定番のジントニックなんか作ってもらってるうちに、カウンターに KWV のマークがあざやかなジンがあるのに気が付いた。南アフリカのブドウでつくった逸品だそうだ。隣に並んでいたビーフイータと比べてみて(写真ではわからないが、その瓶自体が革のベルトが巻いてあったり、大層なつくりでいかにも高価)これと比べて高いの?と聞いたら、ママいわく、”そりゃあ、もう” と。すでに自分で決めている定量は飲んでいたが、ままよとこれで作ってもらった。
酒の味を語るような資格は自分にはないが、ビーフイータやらボンベイやらスミルノフなどというなじみとは全く違った味だったことは確か。うまく表現できないが、なにかとても硬い、口の中になにかが突っ張った、というような感じ。酒の通の方のお話を聞いてみたい。
KWVというのは醸造元の名前かと思っていたが、南アフリカの言ってみれば農協みたいな団体だそうだ。国分商店、とママが言っているように、35年の森田さんが同社に勤務中KWVという販売元を発見して輸入され、それ以来、KWVのワインのほうはワンダー仲間ではよく知られるようになっている。”そりゃあもう” がいくらだったか、単価は聞き忘れたが、そんじょそこらの酒店にはないことは確か、というところで引き揚げた。帰路、足もふらつかず、電車でも眠くならず、快調。KWVにこだわってるうちに肝心の名前を忘れてしまったのでママにメール。返信を添付。
写真を添付しました。
クラックスランド 国分グループ本社株式会社が輸入元です。

 

秋深まる涸沢から穂高へ  (39 堀川義夫)

最近は、何をするにも、何処に行くのもこれが最後になるかもしれないということが何時も頭の片隅にあるような気がする。今回もそうだ。10月1日の夜行バスで新宿から上高地に向かった。目的は涸沢の紅葉の最後の見納めと奥穂高の久しぶりの登頂。そしてテント泊での単独行の最後になるかもしれない・・・と思いながら・・・来年のことはわからない! 10月2日(金)朝5時過ぎにバスは上高地に着いた。3列乗車のバスはゆったりしていてしっかりと寝ることが出来、直ぐに涸沢に向けて出発できるのは、本当にありがたいことである。

10月2日 (金) 晴れ

目標は11時30分前に涸沢に着くこと。天気は雲一つ無いドピーカンで言うことなし、でもザックは重い!フル装備で55Lのザックが目いっぱいである。16kgある。これだけ背負うのもこれが最後になるかもしれないと思いながら涸沢を目指す。何度この道を歩いただろうか? 歩きながら走馬灯のように様々なシーンが思い出される。明神、徳沢、横尾と景色を楽しみながら快調に歩を進める。でも、若い人たちにどんどん追い抜かれる。悔しい!!言訳ではないが、良い景色を見て写真を撮っているから時間がかかっているんだと自分に言い聞かせながら焦らず、マイペースで、ゆっくり且つ迅速に。

横尾で少し長めの休憩を取り、本谷出会いに向け出発。懐かしい景色が次から次へと楽しませてくれる。なんと言ってもここの見所は屏風岩だ!! ここも無事に本谷へ予定時間内で到着出来た。

 

10月3日(土) 晴れ

今日は、5年ぶりに奥穂高の登頂を目指します。奇しくも5年前に船曳先輩の傘寿の記念山行に同行させて頂いた同じ傘寿を私も迎えています。晴天の中、見事に奥様とご一緒の登頂に成功されたことを当時、非常に羨ましく思い、自分も5年後に登頂することが出来るだろうかと思っていましたが、今日、それが実現しました。登り始めて、涸沢小屋を過ぎたあたりから、正に涸沢の紅葉にふさわしい見事な景色が展開し始めました。

若い人たちに抜かれながら、ゆっくり目ではあるがザイテングラードをこなし、約3時間で奥穂山荘到着。山荘に勤める、マッキンリー登頂の際の山仲間に久しぶりで再会、しばし、楽しい歓談を楽しんで頂上へ。途中振り返ると槍から、今夏縦走した薬師から立山の遠望、笠ヶ岳、乗鞍、富士山まで360°の眺望を十分にみることが出来た。頂上では記念撮影に列が出来ていて、バカくさいとは思いながらもこれが最後の奥穂高山頂かと思うとやむを得ず並んで撮ってもらった。どこでとっても良い面白くない写真である。奥穂山荘で昼飯をゴチになり、一気に頑張って1時間20分で下山できました。

下山後は、今日、登ってきた山仲間と会って、ビールを飲み、持参したジャックダニエルをしこたま飲み、涸沢最後の夜をしみじみと楽しむことが出来ました。蛇足ながら、持参した真鯛とホウボウのこぶ〆は大好評でした。

大満足の写真です。

出来たら来年も再来年も同じように涸沢のような場所に来れたら良いなあ~と思っています。何時までも山には行き続けたい、でも、自分の意志に関係なく身体の不具合や体力の衰えを感じざるを得ない歳になって来ました。これからは、年齢相応の、だけどちょっぴり頑張ったら何とかなりそうな山をマイペースで楽しんでいきたいと思います。

 

コロナ対策について   (34 船曳孝彦)

首相が変わっても、やはりコロナ対策が大きく変わることはありませんでした。安倍首相がオリンピック待ちで後手後手となり、感染者が増加し、一斉休校、アベノマスクで不評を買い、PCR検査を増やすと盛んに宣伝していた(5月)ころ、厚生労働省は「検査を増やせば陽性者が増え、医療崩壊につながる」と検査抑制方針を崩さなかった内部資料が、民間団体(シンクタンク)の調査で分かりました。PCR検査で正確に判定できるのは陽性者の70%、陰性者の99%であるから、百万人都市で全例検査し、感染者が1000人いたと仮定すると、感染者300人は陰性の判定で健康だと誤解して出歩き、一方本当は未感染者であっても999,000人の1%(9,990人)が陽性と出て、病院なり指定施設なりに収容が必要となって医療崩壊につながるという理論でした。この偽陽性者を少なくするために、濃厚接触者や間違いなく感染患者と思われる人のみ検査を絞ったため、検査をしてもらえない人が多く出て社会問題化したのです。感染した人の調査では、約半数が無症状(毎度述べているが無症状というより未発症)感染者から感染したというデータもあります。

本来検査で100%などという検査はないし、健康な陰性であっても翌日に感染してしまうことだってありえます。それは再検査をどこまでやるかにかかってきます。プロ野球で感染者が出た球団では2,3日単位で再三検査をするところもでてきました。

確かにこのところ感染者が出たという話が身近になってきました。例の有効再生産数が1.0を前後し続けており、日本の数値はヨーロッパの数値より悪いのです。これが小さくならないと収束に向かいません。

死亡率は下がっているもののVirusの感染力は衰えていません。うつされない・うつさない対策をしっかり守る必要があります。そのためにも検査の重要性は大きいのです。検査の精度は上がって(90%以上)きていますし、唾液検査の成績が鼻咽頭ぬぐい液検査と全く遜色ないという論文も出てきています。まだ ‟希望” 検査が何万円という状態が続いています。抗原の簡易検査も出ていますし、PCR検査でも複数検体一括検査(プール式検査)なら、例え全国民を検査したと仮定しても、Go-To-○○に掛ける1兆3千万円の1/5で済むという提言(ノーベル賞受賞者本庶氏)もあります。

死亡率が減って来たのは、重症化予測できるマーカーを発見したり、重症管理医療が進歩したりしたためであり、弱毒化したのではないと警鐘が鳴らされています。私達高齢者は十分な注意が必要です。

常識外れのトランプ大統領が、未承認ワクチンと重症者対象薬を使って快復したと大見得を切っていますが、真相は如何なものでしょうか。政争の具にされてはかなわないと、お膝元のアメリカ製薬会社CEOから評価申請の提出は早くても11月末になると慎重論が出ています。

町中では多少緩んできているようにも見受けますが、マスク着用による感染抑制効果は、医療従事者を対象にした研究で証明されましたので、ヒト気のない場合を除いてマスクはやはり積極的に活用しましよう。三密については、世の中神経質になりすぎている場面と、密すぎるという場面が混在していると感じます。クラシック演奏会など復活して欲しいし、外野席がらがらのスタンドは虚しさを感じます。With Coronaの時代であっても、むやみに怖れることなく、適正に行動し、日本の文化、伝統を守りましょう。学校を始め、人と人とのコミュニケーションは大切です。 まだまだ先が見えて来ません。あと半年と目標を立てて踏ん張りましょう。

12月25日には世界的科学者であり我が畏友黒木登志夫氏著『コロナの科学』が中公新書から出版されます。私も期待しています。

学術会議騒動について  (普通部旧友 菅原勲)

ジャイ 大兄

貴兄のブログを拝読しました。全面的に賛成です。

付け加えるとすれば、この問題に対する対応で、ニセモノであることがはっきりした人たちが分かって来たことです。何故、6人が任用されなかったかをしつこく問い続けている人たちです。差し支えるので、名指しはしません。なかでも、我が母校の名誉教授M氏は、もともと、その言説には100%同意しかねましたが、この問題を契機に、それに加え品性下劣であることが明らかとなりました。もし、卒業生に塾の教授の任命権があるならば、真っ先にこの不名誉教授を罷免します。こう言うのが亡国の輩なんだろうな。

既得権をぶっ潰すのは並大抵のことではないが、塾に籍をおいたことのある太郎君、頑張れ!

では、また。