”エーガ” から ”ジャズ” か?

(安田)
ジャズの聖地といわれる岩手県一関市の「ベイシー」の50周年特別番組、BSで放映されました。店主菅原正二とは長年懇意にしていて、何10回と入り浸ったところです。僕の勤めていた会社の音響製品を使用しています。

(相川) 10月初めに映画館で見ました。(アップリンク渋谷~東京劇場上映はここだけか) これも奇遇と言うのかな。
昭和にはやったジャズ喫茶、ジャズライブを未だにがんばってやっている店主菅原さんが 友人と日本のジャズ評論や演奏の歴史を語る。 由井正一と言う懐かしい名前も登場。カウントベーシーにほれ込んで店名に。店で演奏もしている。 渡辺貞夫、坂田昭の演奏もよかった。小澤征爾もジャズを語る。 ややマニアックですが、ジャズに関心ある人にはお薦めです。

(安田)映画館で観た方がKWVにおられるとは嬉しいことです。僕も渋谷で映画観ました。5年前から始まった映画作成の過程も知っています。監督も知り合いです。業界ではシーラカンスのような粋な天才と努力が合わさったような魅力的な達人です。ジャズが主ですがクラシックの造詣も半端でなくLPの所蔵も数千枚に及びます。クラシックのみ数時間聴いたこともあります。1942年生まれ。相川さんと同年齢かも。ベイシーでのショット写真お送りします。

注: 鈴木京香は仙台出身で遠くない一関市には高校時代から通っていて菅原さんとは長年の友人。


(小田)主人も早大出身者が始め、タモリ等が出入りしていた事を知っているとかで、一緒に観ました。
ずっと知らなかった”JBL”が分かりました!  娘が忘年会でipodを当て、それに小さなJBLと書いてあるスピーカーを付けて私にくれました。今は650曲位入っていて、炊飯器やお塩の入れ物の横で楽しませてくれます。ベイシーの菅原さんは”車の中では音楽は聴かない”とおっしゃいましたが、先日納品された車のCD機器は助手席の下!もうCDの時代でもなくなってきたのですね。又、使った針は、家2軒買える位とは凄いです ね!

HPのチビ太さんは、主人の話では、大学時代軽音楽部でテナーサックスを吹いており、ラジオに出たり、大橋巨泉に誉められたりしたことがあるそうです。彼もちょっと、ジャズな生き方してきたのかも?

(小泉)後藤さぶちゃん、安田さんから懐かしのSPレコード中心のメールをいただき、若き頃が思い出されます。確かにエーガではありませんが、相川さんが観たのも映画ベイシーの筈。最近は、「パバロッティ太陽の歌声」やメトロポリタンオペラの映画やらも。

何といってもレコード解説の元祖である、あらえびすの話が、レコードを論ずるなら、事始めのようなもので、懐かしい感じがいたします。小生の時代は、サブちゃんよりもレコードに目覚めたのが。少々遅れたか?SPレコードはそれほど買わないうちにLPの時代に入り。当時は高価だったこともあり、そのうちカセットテープに録音することを覚え、ラジオから録音しては、聴いておりました。当時は、FMfanとか、週刊FMなんていう音楽番組の曲名から演奏者を全て克明に時間別に記録する週刊誌が発行されていて、その曲名を切り取り、録音したカセットケースに入れて楽しんだ記憶があります。

野口久光氏と菅原正二様との関係やら、喫茶ベイシーへあれだけの有名人が通っておられるとは驚きでした。野口久光氏と菅原正二様との関係やら種々の資料も有難うございます。

(編集子)今度はジャズフリークのためのグループができるかな?相川さん、”ゆい” さんは ”油井” じゃなかったけ? 小生は本格物はあまり知らず、昔のラジオ関東の深夜番組 ”ポートヨコハマ シーサイドイン” だとかかの ”皆様のお相手をいたしますパイロットは” なんてJALの宣伝番組のポピュラーどまり。引退後数年ほど、銀座スイングの会員になったりしましたがそこまで。現在は自作の6代目のアンプ(安田くん、12AT7 のパラプッシュ、というやつをでっちあげて悦に入ってます。。。がCDプレーヤーがいかれてしまって、参っています。もう単独のマシンでは売っていないようですね)でそこそこ、やっているのが現状。

 

東北の紅葉・温泉・山登り Go to Travel 利用旅 (39 堀川義夫)

10月15日(木) 今日から先輩1名、同期2名の4人で東北の紅葉と温泉と山を楽しむ旅行に出かけました。折からのGo to Travel のお陰で新幹線代、レンタカー代、4泊の旅館代すべて含めて@12万円ほどの旅行がなんと地域共通クーポン分も差し引くと半額になり、ちょっと贅沢な旅をして来ました。まずは、新青森経由弘前に行き、レンタカーを借りて弘前城を見学。桜の時期以外に訪れたのは初めてのことです。岩木山がりっぱに見えます。

 

今日の宿はいささか女性好みではありますが、ランプの宿として有名な青荷温泉です。大変旅心をくすぐるムード溢れる宿です。難点は薄暗くて年寄りには良く見えない!!折角の料理もよく見えないので、美味しさが半減、曰く、明るいところで食事したい! 部屋でもみんな物探しに時間を費やすという半盲目状態に結構疲れてしまいます。ランプ専用の小屋があり200数十のランプを毎日、整備しているそうです。温泉はいくつか有りどの湯もいい湯でした。

 

10月16日(金) 東北旅行2日目

今日は同行の滝が大好きな友人の願いで、日本100名爆の中でも2、3位と言われる安(やす)の滝見学に行くことにしました。場所は森吉山の近くでマタギの里として有名な阿仁の打当 (うっとう) 温泉から、さらに10kmほど林道を行き、更に小1時間歩いてやっと滝を見ることができる秘境の滝です。周りの紅葉も素晴らしく往復の歩行も楽しい物でした。明日からの登山の良いトレーニングになりました。見学後は約1時間半程で新玉川温泉にチェックイン。岩盤浴を楽しみ料理はバイキングですが大変美味しく、秋田の銘酒に舌鼓を打ちゆったりすることが出来ました。

10月17日(土) 東北旅行3日目

今日は秋田駒ヶ岳に行く予定ですが、雨模様なので宿の出発を1時間遅らせゆっくりと出発しました。今日は土曜日で交通規制があり、八合目まではシャトルバスで行きます。到着時には雨も止み、なんとか登れそうです。爆裂口跡の脇を通り順調に登ると紅葉が見事です。田沢湖もみえてきました。でも、生憎なことに頂上付近にくるとガスが出始め、風も冷たく雪がちらつき何も見えません。避難小屋の寒暖計は−3°Cで寒いはずだ! 下山を早め予定より早いバスで戻り今日の宿泊地である南花巻温泉の開湯1200年と言う山水閣にチェックイン。今晩も豪華な料理で至福の時を過ごしました。

 

10月18日(日) 東北旅行4日目、5日目

今日の目的地は栗駒山です。朝食後直ぐに出発して須川高原へ。紅葉の最後の見頃の日曜日で、しかも天気も良いのですごい賑わいです。やっとのことで駐車することが出来早速アタック開始! まだまだ紅葉を楽しめ思い出に残る良い登山ができました。年内に近郊のハイキング程度は行くと思いますが、私の今年の最後の遠征登山でした。宿泊は鳴子温泉へ、今回の旅行で一番豪華な部屋と食事を楽しみ、翌、19日(月)に東北新幹線の古川でレンタカーを返却して帰宅の途に。レンタカーの走行距離はなんと6300km、ハイブリッド車だったのでガソリンはなんと28リットルしか使用しませんでした。

 

 

 

20年10月 月いち高尾報告    (39 堀川義夫)

 

7月以来の月いち高尾を開催しました。コロナ禍が治まったわけではありませんが、良い意味で皆さんが少しコロナ慣れしてきたのか(?)26名の参加を得て、また、天候にも恵まれ楽しいワンデリングが出来ました。

コロナ対策としては、ワンデリング中の密を避けるため4班に分けそれぞれのリーダーのもと、皆さん久しぶりのワンデリングに楽しい時間を過ごすことが出来ました。

定刻10分前には全員が集合し、意気込みを感じます。今回から新しく参加された下村さん(42年)、猪俣恭子さん(43年)織戸さん(55年)を紹介した後、各班に分かれて出発しました。その後は、午後1時に頂上のテラスで集合写真を撮ること以外は全て班ごとに行動して頂き、最後は希望者だけで何時ものてんぐ飯店で22名の参加を得て打ち上げを開催しました。唯一、心配なのがこの打上で、てんぐ飯店を貸切にしたのですが、やはり密になってしまいました。でも、凄く楽しい時間でした。皆さんも日頃の行動から解放され、のびのびされたのではないでしょうか? リーダーの私も久しぶりで色々とチョンボをしてしまいました。各班の写真を提供してもらい損ねました。従って、集合写真以外は全てケーブル利用班のものです、ご容赦ください。

参加者  合計 26名

  • ケーブル利用班 後藤三郎、中司、平松、椎名、堀川(L)、相川、猪俣、猪俣(恭子)  8名
  • 1号路班    翠川(L)、吉牟田、高橋(良)、深谷、遠藤、浅海    6名
  • 稲荷山班    三島、藍原(L)、久米、久米(行)下村、安田、織戸   7名
  • 大垂水班    菅谷、矢部、岡沢(L)、武鑓、関谷 5名

 

エーガ愛好会(27) カサブランカ

(保屋野)5回目の「カサブランカ」、ビデオでじっくり観ました。脚本、俳優、音楽と3拍子揃った、やはり、名作中の名作ですね。でなければ、5回も観ません。

今回、初めて気がついたことがあります。私は、これまで、戦後に制作された映画だと思っていましたが、何と戦争中に制作されたのですね。ネットによると、アメリカ参戦直後に制作された、ドイツを悪者にした「プロパガンダ」映画でもあるそうです。ですから、当然、モロッコ~カサブランカでのロケは無理なので、実際は、アメリカで撮影されたようです。もう一つ。当時カサブランカはフランス領で、ドイツの傀儡・ビシー政権の管轄下にあったものの、実質的なトップであるドイツ軍少佐が何故警察署長に遠慮して?(お尋ね者)のラズロを即逮捕できなかったのか、少々疑問。

ニヒルなボガードと美しいバーグマン、そして、黒人のピアノ弾き、日和見・警察署長、太った顔役、ラズロ役・・・皆、個性あふれる俳優でした。特にラストシーン「(賭に負けた)1万フランは2人分の飛行機代に」という署長のセリフが憎いですね。

(金藤)遅ればせながら「カサブランカ」初めて観ました。評判通り、とてもよかったです。 

イングリッド・バーグマンの美しさは言うまでもなく、ハンフリー・ボガートは美男ではありませんでしたが、男らしく格好よかったあ。
雨の中 駅でバーグマンを濡れたトレンチコートを着て待つ姿、最後に飛行機を見送る時に着ていたよれよれになったトレンチコート。
トレンチコートが彼の心の内を語っているのでしょうか?格好いい男性のトレンチコート姿は、こうでなければ!と思いました(編集子注:申し訳ないけど、俺だってもう30年は着てるよ。アナタやミッキーと毎日顔を合わせてた頃はどうだったか、記憶にないけど)
台詞回はお洒落で、昔の恋人と再会して、俺たちにはパリがある なんて言えますか?流れる曲も、ピアノ弾きのシーンも、ラ・マルセイエーズの合唱も良かったです。最後もホッ、しみじみ・・・ 良い映画でした。
君の瞳に乾杯🍸 Here’s looking at you,kid
  と書きたくなる 気持ち大変良くわかりました。

(小田)名画なので本当にいろいろなセリフがシェクスピアのことばのように使われているのですね。保屋野さん君の瞳に乾杯……のお言葉ありがとうございました。でも目も若くはなくなってきましたので、

“ゆうべはどこにいたの?”
“そんなに昔のことは覚えてない”
“今夜会ってくれる?”
“そんなに先のことはわからない”

が最近には近いかと。

(安田)主題曲 「アズ・タイム・ゴーズ・バイ(As time goes by) – 時の過ぎゆくままに 」 は素晴らしい。監督は、後年ハンフリー・ボガートが主演した映画 「俺たちは天使じゃない」 1955年でもメガホンを執ったハンガリー出身のユダヤ人マイケル・カーティス。公開は1942年。同じ年にチャップリンのサウンド版 「黄金狂時代」 とゲーリー・クーパーがヤンキースの不世出の野球選手ルー・ゲーリックを演じた「打撃王」 が公開。全米脚本家組合 (Writers Guild of America) が「歴史上もっとも優れた映画脚本ベスト101」 というリストを発表していて、第1位に 「カサブランカ」、第2位 「ゴッドファーザー」、第3位 「チャイナタウン」、第4位 「市民ケーン」。ちなみに、「ゴッドファーザーPart2」 10位、「アラビアのロレンス」 14位、「アパートの鍵貸します」 15位、「ショーシャンクの空に」 22位、「風と共に去りぬ」 23位。アメリカ以外の映画は選考に入ってない。

体制側であるはずの植民地警察の署長がイルザと夫ラズロの逃亡を見逃す飛行場のシーン、阿吽の呼吸で逃亡を助ける協力をしたボガートが署長役のクロード・レインズへ、「 美しい友情のはじまりだな 」  (This is the beginning of our beautiful friendship) と言いつつ満足げに並んで立ち去るシーンには爽やかな男気を感じ清々しい。

名セリフの多い映画だが、特に印象的だったのは 空港で別れ際にリックがラズロに向かって言う 「昨夜イルザが私のところまで来ましてね。出国ビザの件です。手に入れるために、まだ私を愛していますとまで彼女は言いました。でもそれはずっと昔のことです。あなたの為についた嘘ですよ」。このセリフを背中で聞きながら、イルザは涙を拭っている。ハイライト場面のひとつだ。

他にも名セリフが目白押しだ。今でも忘れえない幾度も出てくる名セリフ 「Here’s looking at you, kid] は特に有名だ。直訳すると「君を見ていることに乾杯!」 という意味だが、名和訳  「君の瞳に乾杯!」 が誕生した。末尾のkid は若者、若いの、子ども、という意味だが、ボガートとバーグマンは実年齢16歳離れているので、ここでは親しみを込めて「ねえ、きみ」 くらいの感じであろう。映画制作当時、ボガート43歳、バーグマン27歳。 この 「君の瞳に乾杯!」 のシーンは映画を通して4回出てくる。 

さらに名セリフは続き、「昨日はどこに? そんな昔のことは覚えてない」 「今夜会える?そんな先のことはわからない」。 ルノー署長はリックの出国の意図を聞いて彼へのセリフ 「寂しくなるな。俺よりハレンチなやつがいなくなる 」。 ラズロのリックへのセリフ 「私はいい。彼女を助けてもらいたい。彼女と一緒にカサブランカを出て欲しい。私だってそれほど妻を愛している」、リックのイルザへのセリフ 「愛しているから。だから行って欲しい。君は彼の一部なのだ」。 正に会話のアクション映画である。

(編集子つけたし)

ロック・ハドソンが主演した トブルク戦線 の冒頭に、保屋野くんが言及しているヴィシイ政権下のフランスの状況がちょっとだが出てくる。第二次大戦のヨーロッパ解放についてはノルマンディ侵攻(映画で言えば史上最大の作戦)がいつでも出てくるが、歴史家リック・アトキンソンによると、北アフリカ戦線に投入されたアメリカ軍がドイツの名将ロンメルを制し、アフリカからイタリーへ転戦(有名なアンツィオの激戦を舞台にしたのがヴァン・ジョンソンの 二世部隊)、勝利したことが欧州の運命を決定したのだそうだ。この北アフリカ侵攻が始まったのはカサブランカのすぐ北、アルジェリアの海岸からで、この映画の背景になっているように中立国への逃避や亡命を図った人たちはどういう立場にあったのだろうか。また、ドイツの敗北を決定づけた英米両国の主脳会談がおこなわれたのもカサブランカであったし、そういう意味からも興味がある映画だ。

フィルムの持つ雰囲気、そのほかについてはあえて言うまでもない名画!

 

 

 

コーヒーブレーク

定期に通っているかかりつけ医で採血のため朝食抜き、といわれていたので、終わってから仙川の街へ出て、ミスドでドーナツ二つとコーヒーでブランチにした。この店でいつもきまって選ぶのがハニーディップというやつで、これにはある思い出がある。

生まれて初めてアメリカの土を踏んだのは1967年9月。まだまだ ”日本人“ はサンフランシスコ郊外という親日性の高い地域であってもあきらかなマイノリティ扱いだった。オリエンテーションを担当してくれた男は、”俺はゼロ戦と戦ったことがある”と自慢したし、苦労して新聞広告で探し当てた、低所得住民地域の長屋では、隣の職工さんが興味を持ってくれたのはいいが、Do you have dogs in Japan ? と大真面目で聞かれた時ばかりは耳を疑った。日本、への関心はそんな程度で、悪人じゃないが面倒をみてやらなければならん敗戦国の人間、というのが標準的アメリカ人の見方だったのだろう。

だからもちろん言葉のこともあるが、もうひとつ、人間関係に踏み込めない毎日だった。そのような中で付き合いを広げるのに役立ってくれたのが、コーヒ-ブレーク、という日本では考えられない制度だった。毎朝10時と午後3時、職場にコーヒーポット、プラスチックカップと山盛りのドーナツを載せたカートがやってくる。周りの人間は手を休めてほぼ10分くらい、その周りで雑談をする。なかにはドーナッツを三つも四つもとって朝飯代わりにする若いやつもいた。当時のヒューレット・パッカードでは本社でも個室を持っているのは日本流にいえば会長のパッカードと社長のヒューレットだけで、みんな同じようなデスクが並ぶのがオフィスの在り方で、当然、両創業者もオフィスから出てきてこのブレークに加わるし、もし来客があればその場所につれてきて歓迎する、だれかれなしに よお、どうしてる、とか、先週の釣りはどうだった、とか、話が弾む。隅にいる僕には特に目をかけてくれる人が多くて、冗談交じりにいろんなことを教えてくれた。このような職務を離れて個人としての会話がとても貴重な英語の勉強の場であり、市井人の素顔を知るのにどれだけ役に立ったか、計り知れない。

当時のHP本社

当時僕が勤務していたのはいわゆる本社で、5棟の2階建てのオフィスと工場があった。従業員は少なくとも2000人くらいにはなっただろうから、そこへ定時にコーヒーを届ける、というのも大変な手間だったはずだ。コーヒーはともかくとして、あれだけの数のドーナツはどこから仕入れていたんだろうか。ミスタードーナツは50年代の創業だから多分そこからだろうとは思うのだが、パロアルトやメンロパークといった街角で店を見た記憶はない。

ただ、いずれにせよ、コーヒーカートにかならずあったのが日本では見たこともなかったハニーディップ、というやつだった。もう一種、これはどこでも見かけてドーナッツ、といえばすぐ頭に浮かぶ、どこの喫茶店にもあるような、シンプルで薄く砂糖をまぶした奴、あれは今のミスドにはない。あれだけ何種類もあるのに、である。代わりに選ぶのがオールドファッション、というやつだが、あれは ”あの時の“ コーヒーブレークカートには載っていなかった。

それから。

かのグローバリゼーションとかいう見栄えのいい企業イメージを支えるための現実のまえに、いつの間にかコーヒーブレークは姿を消してしまった。

”人が企業をつくる“ というパッカード、ヒューレットの創業理念が浸透し、職場のコミュニケーションを図ることがマネージャの第一義務とされていた、アメリカ企業ベスト50(20だったかな)の常連だった、”古きHP” はすでに過去のものとなってしまった。自分はケイオーの出身だ、ということと、“あの” HPで育ててもらった、というふたつの事実が僕の誇りであるのだが。

 

秋の上高地 (34 小泉幾多郎)

最近は散歩する気分にならず写真もなし。ところが、一大決心のもと、10月4~6日上高地帝国ホテルに宿泊してきました。

明神池

堀川さんの奥穂や東北の山、三嶋さんの尾瀬、岡島さんの丹沢等健脚のメールを拝見するとメールを躊躇した次第。上高地何回行っただろう?中学時代の1949年に父に連れられて以降、少なくとも10回以上にはなるとは思うが、登山のための訪問だから、帝国ホテルは横目で眺めるだけ。いよいよ四捨五入すると90歳、後がなくなりつつの歳ともなると、一度はあの帝国ホテルに、一度は泊り、ゆっくりベランダから穂高を眺めてみたいという気持を抑えきれなくなったのでした。

明神池嘉門次小屋のイワナ

穂高も何回か登りましたが、52年前長男が生まれた翌年、母親に預けて、家内と涸沢から奥穂へ登り、岳沢へ下りたことがありました。今思えば若気の至りで
したが、家内とは、それ以来の上高地でした。明神池と大正池を回りましたが、過去山へのおつまみだった明神池が、いやに遠く感じる歳になっておりました。

田代池付近で猿に出会う

帝国ホテルからの眺望、雨模様だった翌日の夕方、霧が晴れ、ベランダからの穂高をじっくり眺めたのでした。

霧が晴れた穂高

(編集子)センパイ、やってますなあ。今週は吉牟田君が奥さん孝行で上高地へ行っているはずです。

 

エーガ愛好会(26) アラン・ドロンの西部劇 (34 小泉幾多郎)

10月23日BSP放映「テキサス Texas Across the River 1966」の感想

アラン・ドロンが「レッドサン1971」の前に、初出演した西部劇で内容はコメディ的要素が強い。

「太陽がいっぱい1960」で、俳優のキャリアを駆け上がったアラン・ドロンは、1964~1966年にかけて、どうやらハリウッド進出を試みたようで、その時の作品の一つがこれ。他に3作品あるが、結果的には成功せず、それが幸い??フランスに戻り、巨匠の監督や名優たちとの共演で、「冒険者たち1967」「サムライ1967」「「シシリアン1969」「さらば友よ1968」「シシリアン1969」等々のヒット作品に恵まれ、確固たる人気を博したのだった。ハリウッドでの他作品は、不評と言われているものの、調べてみると「黄色いロールスロイス1964」アンソニー・アスキス監督のオムニバス映画、「泥棒を消せ1965」ラルフ・ネルソン監督でアンマーグレット共演、「名誉と栄光のためでなく1966」マーク・ロブスン監督アンソニー・クイン共演で、まずまずの力作と思われるが美し過ぎる容姿が男性的なタイプを好むアメリカの観客に受け入れられなかったのかも知れない。

共演したのがディーン・マーティンで、通算7本の西部劇に出演している。ジェリー・ルイスとの底抜けシリーズで、コメディタッチは得意分野なのだが、出演の西部劇をみると、底抜けを除き、意外に真面目な西部劇が殆んどだ。「底抜け西部へ行く1956」「リオ・ブラボー1959」「テキサスの四人1963」「エルダー兄弟1965」「バンドレロ1968」「対決1973」。

内容は、スペイン貴族に扮するドロンが、地主のアメリカ娘ロ-ズマリー・フォーサイスと結婚するためにやってきたところから始まる。幕開けの音楽は、キングストン・トリオの歌。結婚相手のローズマリーのもと恋人の騎兵隊員が諦めきれず、揉み合いになるうちに、はずみで騎兵隊員が死亡、ドロンは騎兵隊に追われることに。道中途中、武器商人ディーン・マーティンと意気投合し、その相棒インディアン案内人と結婚相手との約束の場所テキサスを目指す。途中コマンチ地区通過による戦闘やコマンチ娘ティナ・マルカンを助けたことから、恋人同士が入れ替わる等すったもんだの挙句に、めでたしで終わる。騎兵隊の隊長にスパイ大作戦のピーター・グレイブスも出演。監督は、マイケル・ゴードンで、「夜を楽しく1959」ドリス・デイ主演のようなコメディタッチが得意とのこと。「シラノ・ド・ベルジュラック1950」でホセ・フェラーにアカデミー賞をとらせた腕もあったというが。内容はまさにB級西部劇で、誰かさん同様途中居眠りの境地へ。それでもアラン・ドロンは、矢張り西部劇姿も格好は良かった。裸のシーンも何回か。締まった身体、胸毛もないし、すね毛もない、つるつるで美しい男の理想形?、「太陽がいっぱい」の肉体美を思い出す。薄いブルーの目、眼力の輝きも。

昨年の8月軽い脳出血で手術し、スイスの病院で休養、その後容態は安定しているとの報道があったが、その後どうなったかの報道はない?。報道がないということは一応元気でいるものと思う。来日の際、柔道を見たいので、是非東京オリンピックには来日したいと言っていたが?

“グレートヒマラヤトレイル”  (41 相川正汎 44 安田耕太郎)

(相川) BSの グレート ヒマラヤ トレイルの 「カンチェンジュンガ」編 見ました。

カンチェンジュンガは ヒマラヤ山脈の(8000m級の)東端、世界3位の8586m。避暑地ダージリンの丘から撮られた写真が19C中頃ヨーロッパで広まり、世界最高峰と見られていた時代があったらしいです。

右はカンチェンジュンガ4峰。左から西峰(ヤルンカン) 主峰 中央峰 南峰。 西峰の左にカンバチェンが入ると5峰に(共に内田良平の「ヒマラヤ50峰」から無断転写させてもらいました)。

5峰のピークからなる山隗で、3峰は8500m級。全部を一望できる映像を見せるのが今回の狙い。その為には6000mのピークまで登る必要があり、雪山氷河登攀に汗をかいていました。360度カメラ やドローンを使うと 視点が広がっておもしろいです。朝焼け・夕焼けも撮れて狙いは成功。 なかなか見られない姿を 楽しめました。1955年にイギリス隊が初登頂. 神聖な山の最高点を踏むことは 遠慮したらしいです。

左端がジャヌーのたんこぶピークです。怪峰ぶりが良くわかります。

前回の ジャヌー7710mは 「怪峰」 と呼ばれる変な山。頂上部分が円筒形のように突き出た独特の形で 獅子の頭とかスフインクスとも言われるらしい。日本人の小西政継が 北壁からの初登頂、 頂上は2人立てるだけの狭さだったというのが不思議。カンチェンジュンガの一望映像でも 左端(東)に 一緒に写っていました。芸人イモトを モンブランやマナスルに登らせた貫田さんが BC班で 時々顔を出していました。彼は 新弥さんがまとめていたネパール支援のボランテイア活動のアドヴァイサーをしていた。(10年間の活動は2014年に終了) オランさんや堀川さんとも顔なじみです。歳とりましたね。

(安田)「カンチェンジュンガ」編観ました。それまでの3編も観ています。グレートヒマラヤトレイルをさらに西に進みK2まで達する番組があることを楽しみにしています。ジャヌー、ローチェ、マカルー、エヴェレスト、カンチュンジュンガ・・・・、ヒマラヤの凄さに圧倒されます。登山家・写真家の二人の行動にも魂消ます。ワンゲルの人達も行ったゴーキョ、カラパタールも登場していましたね。二人にとっては簡単な高尾山くらいの感じでした。

貫田さん本人もイモトと一緒にアイガー東南稜を頂上まで登っていました。南極の最高峰登頂も一緒でなかったかと記憶しています。いずれにしても、ドローンを駆使しての撮影は今まで見たことがない映像を提供してくれて、感嘆至極です。

深大寺散歩

晴れた週末(週末である必要はないのだが、偶然こうなった)深大寺(正確に言えば神代植物公園)へふらりと行ってきた。コロナ騒動はどうなったかというくらい、結構な人出。芝生で嬉々と跳ね回っている子供たちを見ているとこちらまでなごんでくる、いい午後だった。

先回来たときは確か椿のころだったが、今頃はバラだというのでバラ園へ回ったみた。プリンセスミチコ、というのがあったはずとオヤエが言うので探し回ったがわからず。

マリアカラス、というのとイングリッドバーグマン、というのをみつけた。やはりバラ、というイメージにふさわしい人たちというのがいるんだ。ほかにもフランスの有名女性とか、なんだか誇大妄想的なネーミングも結構あって、申し訳ないが名前と花を結びつけた由来を創造するのは結構むずかしかった。

当然だが、ジョンウエイン、なんてのはなかった。ま、バラ、というイメージはないやな。Yellow Rose of Texas, なんてのはどうだろうか、と黄色い集落をみたがやはりセーブゲキはおよびじゃないようだ。

解説によるとここは開園の時、ロサンゼルスの植物園から寄贈されたバラから始まったとある。世界中にいるバラ愛好家たちの傑作がある中で、日本人の栽培家が作った品種もいくつかあった。

今回は西日に向かって歩くのが億劫で往復バス、歩いた歩数は4000くらいだが、ぶらぶら歩くのはかえって疲れるものだ。

 

蓼科の秋です   (42 下村祥介)

昨日まで原村に行っておりました。大きくなりすぎて鬱陶しくなってきた庭の白樺の木を6本伐採し、久しぶりに重労働をしてきました。伐採は地元の職人さんにお願いしたのですが、家の屋根を傷つけないように、また他の木を傷めないように倒すのが結構大変です。最大の課題は切った後の木を玉切りにする作業。これは自力でやらなければならず隣家の上智大ワンゲルOBの人がチェーンソーを持ってきて手伝ってくれましたが、丸3日間の仕事になりました。

60年前の三国山荘でのワ―キャンを思い起こし、きつい作業ではありましたが上智のOBと語らいながら楽しくできました。まだ半分ほど残っていますが、雨が降ってきたので残りは次回以降の宿題となりました。

夕方、村営のもみの湯に行きました。受付で住所記帳と検温、脱衣場は一つおきとなっていて結構神経を使っていることが分かり、逆に安心しました。この冬は寒くなるようですね。NHKで長期予報を流していました。冬はまた近くのスキー場へでも行ければと思っております。我が家の窓から見た秋の気配です。