(34 小泉)
愛しのクレメンタインの伴奏で道標にスタッフや主演者のタイトルが映し出されるともう懐かしさで一杯。タイトルが終わるとモニュメントバレーに牛の大群と人物と雲とが、巧みな構図で圧倒するが、その後はトウムストンの街が舞台に置かれ、この地での出来事が緩やかに展開する。ジョンフォード監督は「駅馬車」の動的なものから「荒野の決闘」は静的な詩的なものを狙っていたようだ。
各場面から印象的な場面を拾うが、まずは、日曜日ヘンリー・フォンダ扮するワイアット・アープが理髪店で身だしなみを整え、立ち上がると、店主がスイカズラの香水を振りかけられた後、板張りの上に椅子を出させ、座ると所在なげに両足を交互に前の柱にアクロバット的にバランスをとりながら、人々が教会に赴く様子を見るシーンはのどか。その後、弟ワード・ポンド扮するモーガン達が変な匂いがすると言うと俺だと照れる。キャシー・ダウンズのクレメンタインに対しても同じセリフ。これこそ普段は驕り高ぶることなく穏やかな自信をもって照れているが、いざとなれば鬼神をもひしぐような活躍をする猛者という第2次大戦後の勝者アメリカのあるべき姿として訴えたものと言われ、成る程と思ったものだ。
クライマックスのOKコラルでの決闘の場面、馬の群が銃の動きに狂奔する隙を狙っての射ち合い、敵機同士の間を走る駅馬車の砂煙の中での射ち合い。弟モーガンが柵の上で中腰でウオルター・ブレナンのクラントン親父に射ち込むファニングという連発等々。決闘前、応援を志願した町民二人に銃を渡すが、飽く迄おとりということで、弾丸を抜いて手渡すところなんかも細かい。 それにしてもジェームスとヴァージル二人の兄弟を殺されたワイアット、リンダ・ダーネル扮するチワワの手術が成功したかに見えたが死なしてしまうヴィクター・マチュアのドク・ホリディ、息子たち全てを失い泣き叫ぶクラントン親父と登場人物の殆んどが傷を負っている。
最後にフォンダが、見送るクレメンタインに「クレメンタインという名前が好き」と言いながらみるみる小さくなる騎影、広大な空に流れる白い雲、静かにわき起こるコーラス、愛しのクレメンタイン。
(菅原勲)
「荒野の決闘」を見たのは、確か、これで二回目だと思います。そこで益々意を強くしたのが、「荒野の決闘」と言う日本語の題名が極めて不適切であることです。原題は「My Darling Clementine」です。日本語では「我が愛しのクレメンタイン」とでもなるんでしょうか。クレメンタイン(キャシー・ダウンズ)は自明の理ですが、「我が」とは誰のことを指しているのでしょうか。これは、ヘンリー・フォンダ演ずるワイアット・アープだと思います。アープはクレメンタインに初めて会った時から一目惚れ、ダンスに誘うときのアープらしくない躊躇い、そして、最後の「クレメンタイン」が止めの一言です。これは、アープらしい独特の愛情表現そのものです。
こんなことを言うと、「荒野の決闘」Addictから、それこそぶっ飛ばされるかもしれませんが、OK牧場の決闘は、このエーガの、刺身で言うとつまに過ぎません。つまり、このエーガは、OK牧場の決闘を背景としたワープのクレメンタインに対する思慕を描いた作品であると思っています。反論は大歓迎です。
あとでWikipediaを見たら、キャシー・ダウンズは癌で52歳の早死。テレビの「ローハイド」に出ていたようですが、小生の記憶には全くありません。ヴィクター・マチュアは悪くないけど、ここではフォンダに完敗です。リンダ・ダーネルはキャシー・ダウンズより遥かに魅力的だったけど、死んじゃったらしょうがない。確かに、独断と偏見に満ち満ちています。が、「我が谷は緑なりき」を監督したジョン・フォードならではのエーガでした。
(44 安田)
「我が谷は緑なりき」のジョン・フォードらしい作品との菅原さんのご見解に全く同感。彼らしい抒情的な描き方が秀逸。
まさに原題「My Darling Clementine」が相応しい映画だ。西部劇というよりメロドラマの感じ。不器用な二人の男の女性に対するロマンを描いた映画の色合いが、弟殺しの敵討ちが本筋のはずの物語に勝っていた。ワイアット・アープとドグ・ホリデイの友情やクレメンタインへの恋という情感に重きが置かれている。
チワワの情熱的な直接的で動の感情表現と、クレメンタインの静の自己表現は対照的で、ドグ・ホリデイとアープのそれも同様の好対照を成していて、異なる人物像を比較させながら鮮明に描いていた。
OK牧場の決闘は存外にあっけなくやや迫力には欠けていた感あり。また、結核気味な病気持ちのドク・ホリデイもあんなに早く死なせても良いのかと、彼に可哀そうな気がしたものだ。ホリデイ役の男優はイタリア系だという。そういえばやはりイタリア系のディーン・マーティン似でさらに濃い顔の役者であった。細面のヘンリー・フォンダとも役がら同様巧みな好対照の配役である。
映画の舞台・時代は1882年(明治14年)、こんな辺鄙な西部の荒野の町にシェイクスピア劇団が来て公演するとは映画だとはいえ驚いた。
この映画は、クレメンタインがボストンから駅馬車で到着した時に「My Darling Clementine (いとしのクレメンタイン)」主題曲が流れ、アープがクレメンタインに別れを告げて去る場面ではモニュメント・ヴァレーの雄大な景色が画面いっぱいに広がり、主題曲が流れるな中で映画は終わる。映画の最初とエンディングが見事に仕上がっていると思う。
(36 翠川)
観ました。観ました。ありがとう。LA駐在の帰国間際にアリゾナへ家族旅行した時を思い起こしていました。ユタ州やアリゾナ州の砂漠地帯の風景は懐かしい。
(42 下村祥介)
「荒野の決闘」を拝見。やはり名画ですね。
銃を激しく撃ち合うマカロニウエスタンとは違ってテンポもゆっくり。殺伐とした西部の酒場でシェイクスピアが出てきたりして驚きです。これが西部劇の古典というのでしょうか。 日本でいうと幕末~明治にかけての時代で、わが国も時代の転換期で大変なときでしたが、米国でも南北戦争があったりして激動の時代。ニュースなどを見ていると今のアメリカは150年前のアメリカと同じように見えますね。大統領選などあっけにとられて見ています。
(編集子)誰が何と言おうと、映画史上(!)最高の、心に残るラストシーンだ。これを見たさに、スガチューは二度だというが、小生は映画館で二度、テレビで三度は見ている。DVDはもちろんあるが、動けなくなったら見るためにまだ封は切らずのまま本棚に並んでいる。
各位ご指摘の通り、これはガンプレーや敵討ちが主題の典型セーブゲキ、ではない。古き、良き時代へのオマージュ、と言ってもいいのではないか。フォード演出はまさにそう語っている。安田兄ご指摘のいくつかのシークエンスももちろんだが、フォンダが散髪を済ませて歩いていく、そのシーンの後ろのほうに、(いいやつだなア、ホント)と言いたげに、壁に腕を持たせて見送っている床屋の風情がなんともいい。また、My Darling Clementine をかの 雪よ岩よわれらが宿り と、山好きの人々にとっていまや聖歌と言える愛唱歌に仕立ててくれた、京都大学山岳部の方だったに改めて感謝。その Clementine が彫り付けられた牧場の柵をあしらったタイトルバックもまた心に残る。セーブゲキでない、と言ったが、最後のシーンでワード・ボンドが見せるファンニング(リボルバー型拳銃で引き金を引いてすぐ撃鉄を片手の手のひらで仰ぐようにして発射位置にもどす早撃ち)はほかの本チャンセーブゲキ(たとえば シルバラード でスコット・グレンが見せた)に引けを取らない芸だったと思う。
同じ題材で作られた作品はあと5作くらいあると思うが、このフィルムで悪役の端役だったジョン・アイアランドは OK牧場の決闘 にも同じクラントン一味のひとりだが、これより多少出世した役柄で出ている。この時のホリディはカーク・ダグラス、墓石と決闘 ではジェイソン・ロバーツ、トウームストーンではヴァル・キルマー、ワイアット・アープではデニス・クエイド。なんたってほかでは大根役者と言われ続けたヴィクター・マチュア、ドクの役はこのフィルムでのマチュア君に、これにかなう配役はないやね。
今回ちと疑問が湧いた………ツームストンの街からモニュメントバレーって、あんなに近かったかなあ。なお本編もまた、写真は安田商会提供。