民放テレビで2013年に製作された映画「風立ちぬ」をやって居たので再見した。NHKと違ってコマーシャルの多いのには辟易。
堀辰雄の「風立ちぬ」を軸に日本海軍のエース戦闘機、通称零戦を開発した堀越次郎を絡ませ、
飛行機に憧れている少年・堀越二郎は、東京帝国大学で飛行機の設計学を学び、
その結果、で休養を取り、
しかし、菜穂子の病状は良くなるどころか悪化の一途を辿る。
二人の決意を知った二郎の上司・
ふたたび夢に現れたカプローニ伯爵は、


旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
民放テレビで2013年に製作された映画「風立ちぬ」をやって居たので再見した。NHKと違ってコマーシャルの多いのには辟易。
堀辰雄の「風立ちぬ」を軸に日本海軍のエース戦闘機、通称零戦を開発した堀越次郎を絡ませ、
飛行機に憧れている少年・堀越二郎は、東京帝国大学で飛行機の設計学を学び、
その結果、で休養を取り、
しかし、菜穂子の病状は良くなるどころか悪化の一途を辿る。
二人の決意を知った二郎の上司・
ふたたび夢に現れたカプローニ伯爵は、
今夏、最後の登山に行ってきました。6月の80歳の誕生日以降の山行に関しては、普段の山行とは異なり、自分の気持ちの中では「さよなら〇○〇山」登山と位置づけ、この山行がこの山に来る最後の登山になっても悔いのないように、そして素晴らしい思い出を演出してくれた〇○〇山の登山路、植物、景色等々の全てに感謝を込めながら、歩かせてもらっています。もちろん、これから先も訪れるに越したことはありませんが・・・
2021年8月18日(水) 新宿発23:15の夜行バスで扇沢へ。久しぶりに夜行バスで寝られるか心配だったが、ビールと缶酎ハイでぐっすりと良く寝られた。これも特技か・・・?? 夜行としては十分な睡眠で扇沢に到着しました。
8月19日(木) 扇沢から15分ほど歩いて戻り、柏原新道から入山。心配していた雨は全く影響なし。コースタイム通りに種池山荘に到着しました。雲が低く頂上の辺りは雲が掛かってしまいますが素晴らしい景色です。爺岳への登りには猿が歓迎してくれ、また、雷鳥の声がずっとしていたけど遂に姿を見せて呉れませんでした。途中、振り返ると立山そして剱岳が素晴らしい!
岳山頂到着前から小雨が降り始め、我慢して山頂へ到着し、思い切って雨具を着けたとたんに雨は止み、面倒なので雨具を着たまま冷池山荘へ到着。途中、赤岩尾根からの登山路との合流地点に素晴らしい大理石の道標が出来ていた。こんな道標見たことない!!
8月20日(金)
20日の日の出に祝福され鹿島槍(北峰)頂上へ。今日の午前中は天気も良いようなのでゆっくりと稜線歩きを楽しむ。そして、大学4年の夏合宿(58年前)に北峰に向う釣り尾根に残る雪渓のところでテントを張ったのを懐かしく思いながらしばしたたずんで懐古した。今では絶対に出来ない古き良き時代の思い出である。
そして、荒れて恐怖感一杯の登山路をキレット小屋目指して下降を開始、この道は登るのも大変だろうが下りも物凄く神経を使う。やがて、キレットの核心部を通過し、雨の降り始める前(正午過ぎ)に無事キレット小屋に到着です。
8月21日(土)
今日は午後から雨になるとのことで、早めに目的地に着くようにと小屋からのアドバイスがあり、5時30分にキレット小屋を出発して五竜岳へ向かいました。ところが、直ぐに小雨ながら降り始め、滑るのと悪路に難儀しながら約5時間、五竜岳にやっとの思いで登頂することが出来ました。五竜岳山頂には誰もおらず、天気は最高とは言えませんでしたが、振り返れば八峰の急峻な登山路を見返ることが出来ました。2年前のKWV三田会夏合宿で五竜岳から冷池山荘まで、今回の逆コースで行く予定でしたが、私の体調が前日から悪く、若いリーダが気遣って台風接近を理由にして五竜山荘から遠見尾根を下ることにしてくれました。メンバーに大変迷惑をかけたことが悔やまれました。あれから2年。歳を取り、体力も落ちました。でも、工夫次第でまだ行く方法はあることを実証できました。当時のメンバーには申し訳ありませんでしたが、個人的にはリベンジでき満足の山旅となりました。
(編集子)ったく !!!
(37 杉本光祥)コロナ禍の中、相変わらずすごいですね、
このコースは銀行の山岳会で八方尾根から唐松経由で爺岳へとほぼ逆に行ったことがあり懐かしいです。
それにしても80歳で単独行とはそろそろ気を付けてくださいよ。私の友人でも自信過剰の遭難が出ています。自分ではまだ若いつもりでも臓器は老化しているのです。くれぐれもご自戒を、
この8月BSP放映の西部劇は全て昨年の再放映のみだが、BS-
この二人の魅力よりも、大いに期待したのは、監
号の叛乱1954」「山1956」「愛情の花咲く樹1957」等
居留
映画「モンタナの風に抱かれて」は主演・監督ロバート・レッドフォードが監督・主演した。英文の題はHorse Whisperer。13歳の少女は乗馬中の事故で親友と片足を失い深く絶望する。N.Y.で雑誌編集長をする母は娘の回復には、事故で凶暴になってしまった愛馬の治療が必要だと思う。モンタナに馬の心を理解できるという“馬に囁く者”がいると聞き、遠くモンタナまでその男に会いに行く。大自然の中で自然と心を癒されていく馬と娘。母親も調教師の包容力と大自然の中、安らぎを感じいつしか恋に落ちて行くが最後には娘と馬と共にNYに帰って行く。
アメリカ人の友人がモンタナに大きな牧場を持っていて凄く良い友人がいるから是非行くと良いと紹介された。しかし牧場に行くには乗馬が出来なければつまらない。御殿場の乗馬倶楽部に入り馬も買い鞍なども揃えて富士山の麓を1年程走った。
モンタナの牧場はBosemanと云う西部劇に出てくるような街から45キロ程山奥に入ったところにある。飛行場には牧場主の奥さんパトレシアが迎えに来てくれた。牧場主のジョージは同年配で、1950年頃の良き時代の習慣を頑なに維持している。お爺さんが1897年にオハイオ州から西部に移り住んで牧場を始めた。3200エーカーと云う膨大な土地に自分が建てた数件のログハウス以外何もなく、食事も家族、ゲスト、カウボーイを含む使用人と一緒に同じテーブルで取り、食事の用意が出来るとカラーンと鐘を鳴らし皆が集まる。肉や卵や野菜など食事は全てこの牧場で取れる物で作り、皆で分けるのでとても美味しい。新聞・テレビはなく携帯電話も通じない。
毎日朝9時から12時まで、午後は2時半から5時まで馬に乗る。4代目で本格的はカウボーイのマイクが先導役となって、丘の上を目指して登る。色とりどりの花が咲く花畑を自分の好きなように走る醍醐味は他に例えようが程楽しい。時には朝食後自分でサンドイッチを作り9時過ぎに出発して夕方帰ることもあった。カウボーイ2人と小生だけで7時半かけ45㌔乗った。
ロッジを出て3時間半は歩を休めることなく動き、時々速足、駆け足を入れ昼食の場まで走り続けた。山や谷を越え、川を渡り、急な然も倒木のある坂道を登って行く。雪をかぶった山々が見える木陰で取る昼食は最高で正に絵の中にいるような気分になれた。下りは景色がきれいだが岩だらけの崖や絶壁の細い道を横切ると4本足だとこんな所でも歩けるのだと感じた。
この牧場にいる牛や馬を別の場所まで移動させる為手伝うこともあった。良く訓練させた犬にカウボーイが指示を与え目的地まで到着するとカウボーイになったような気になった。途中群れをなしたElk(ヘラジカ)、鹿、コヨーテ、熊などに会ったがMountain Lion(クーガ)や狼も見た。牧場主の奥さんパトレシアはBostonの近くから来た人で、前述の「モンタナの風に抱かれて」の母親役に似ていると思った。
カウボーイと云うと牛を追い仕事を終えると酒をあおり、喧嘩が絶えない荒くれ者を思い出すが、牧場主を夢見て西部に移る人達も多かった。1865年にCivil War(南北戦争)が終わった時、持ち主が分からない牛が増え過ぎ、1頭2~3ドルでしか売れなかったが、北部では30~40ドルで売れたので、牛を大量に移動させるのがカウボーイの仕事になった。テキサス州から鉄道がひかれたカンサスやミズーリなどに移動させた牛は1967年から1880年だけで550万頭に達したとい云われている。
(編集子)鈴木康三郎、幼稚舎時代からのあだ名はあの頃は現役の、今でいう有名タレント、エノケンに似ていたからだという。昭和29年卒普通部E組は5組編成の学年のなかでどうしたことか典型的体育会志向仲間が寄り集まり、運動会の棒倒しだの騎馬戦だのでは鉄壁のチームワークを誇ったクラス、当時結成されたラグビー部フィフティーンのうち11人がいた。エノは運動神経と判断力がものをいうフルバック、小生はガタイを買われ(当時すでに今と同じ体格だった)絵にかいたようなスクラム専門だった。エノはどこか大人びたところがあり、中学生ながら映画に強く、表には出ないがなにかといえば頼りにされる男だった。仕事を辞めてしばらくして馬を始めたという話を聞いていたがモンタナへ行く、その一念だったことがようやくわかった。そんな話もこちらから聞かなければ自慢話もしなかった、そういう男である。今は相模CCで(多分、という想像だが)エイジシュートを狙ってもくもくと練習しているはずだが。
(39 木谷英勝)ご無沙汰しています。
何時もCircle be unbrokenを楽しく拝読させて頂いています。
今回 鈴木康三郎さんが登場されたのでびっくりしました。
鈴木さんは私が入社した時は隣の部門におられ、私が1974年にニューヨークに転勤になった時は、既にNYで活躍されておられました。
当時はまだ半年間は家族を呼べない為、他の若手と共に鈴木家でご
話は変わりますが、孫の一人がパロアルトで産まれました。従い、家内は兎も角私もかなり長い間滞在しました。761 Stone Lane という所で駅から歩ける距離でもあり近くを含み随分歩き回りました。
(編集子)さきほどの電話は大変びっくりしました。
先ずこの顔見て下さい!男・高倉健ここにあり。
2014年11月10日午前3時49分、
昼飯後、余程のことがない限り(例えば、「緋牡丹博徒」)、爆睡してNHKは見ておりません(金藤さん、ご免なさい)。ですから、以下の映画は、夕食後、CATVで見たものばかりです。
一つ目は、「96時間」(2008年)。元CIAの工作員である、リーアム・ニーソンが、誘拐された娘を96時間以内、即ち、4日以内に取り戻す話しです。ニーソンが強い、強い、また、強い。悪い奴に雇われた良い奴(?)を次から次に殺しまくり、娘を助け出します。あの「シンドラーのリスト」のシンドラーってこんなことまでやる奴だったのか。
二つ目は、「夢のチョコレート工場」の続編「チャーリーとチョコレート工場」(2005年)。工場長のジョニー・デップが、例によって、我儘勝手な子供を、彼らを甘やかしていた親ともども、色々な仕掛けのある工場に招待し、懲らしめるお話しです。秀逸なのは、噛むと食事のコースが味わえるガムです。ひときわ我儘な女の子が、スープ、主菜、と来て、デザートはブルーベリー。ところが、それを味わった途端、女の子は、ブルーベリーとなって、ゴミ捨て場に落ち込みます。
三つ目は、「ミッション・インポッシブル」の第6作、「ミッション・インポッシブル/フォールアウト」(2018年)。至極、複雑な話しですが、要は、トム・クルーズが、原爆のよる爆破を1秒前に阻止するお話しです。ここでも、クルーズは不死身。最後は、カシミールにある絶壁で格闘し、滑り落ちて、垂直な壁にしがみつき、五輪のスポーツ・クライミングの金メダリストにも真似の出来ない離れ業を演じて世界を救う。なお、「96時間」も「ミッション・・・」も主な舞台は、皆様のお好きなパリです。ニーソンは走って走って、また、走って、セーヌ河を行くボートに乗り移ったり(ここで娘を取り戻します)、クルーズもパリの町を駆け抜けます。何故か、小生の中では、両方がゴッチャになっています。
見る人が見れば、クダラナイ、バカバカしい、碌でもない映画です。でも、だからこそ無条件で面白い。世に言う傑作、名作ばかりが映画だとは思いません。大いに楽しみました。
(編集子)スガチュー、いいこと言うね。こういう小生もCATVの3つか4つのチャネルを駆け回って ”くだらない” と卑下することは不要と思うが、まあ名作傑作というにははばかられるカツゲキものを愛好している。
何度か触れたが、”時代劇専門チャネル” に復活した、いわば二大江戸町奉行すなわち ”遠山の金さん”(松方弘樹ほか)および ”大岡越前”(加藤剛)をほぼ欠かさず見ている。”金さん” は目下放映時間がニューズ番組とぶつかるので、少し頻度は落ちたが、”大岡” は午後5時放映、と理想的なので、ジントニックとつまみの沢庵3キレをもってテレビの前に座るのがここ半年くらいの日課である。ほかにもこれまた無敵荒唐無稽ヒーローの典型、スティーブン・セガールのシリーズとか、時々出てくる準(?)正当もののトム・クルーズ、最近売り出し中のジェイムズ・バトラーのものなんかである。いくつかのチャネルではなつかしいセーブゲキも時々出てくる。昨日なんとなく合わせたチャネルで リオグランデの砦 をやっていたので、キャストで今まで知らなかったのを確認したり、サンズオブパイオニアーズのコーラスに集中したり、再発見がいろいろあって楽しかった。
”大岡”シリーズはいやはや大部なもので、発足当時の加藤剛と第12部(!)あたりの加藤とは別人といえるくらい変わっている。シリーズキャラクタも入れ替わるけれども高橋元太郎と松山英太郎だけは出ずっぱりで、昔をしのぶには結構な時間である。”金さん” はストーリーの必然的展開として 最後に奉行がもろ肌脱ぎ ”この桜吹雪、知らねえたあ言わせねえ。てめえらま、だシラ切ろうってのか!” と言わなければならないので、落ちは絶対に勧善懲悪の断罪なのだが、”大岡” のほうは例えば有名な 三方一損損 のような人情ものもあったりするし、その白洲では推理小説でよくつかわれるトリックが解明されたりと、変化に富む。ただ最初の15分程見ればほぼストーリーの組み立てはばれてしまい、小生はこれをパターンAからパターンCと分類していて、最後にやっぱしそうだろ、越前!と納得するのが楽しい。
ま、船津のつぶやきではないが…….もっとも奴はカツゲキなんかみないだろうが…….エーガっていいなあ。
今朝の読売新聞8面、”アジア系米国人” 特集記事にベトナム戦争の時期、ラオスからアメリカへ難民としてわたってきた “モン族” のことが書かれている。この人たちのことを知った(はじめてその前を聞いた)のは、クリント・イーストウッドの映画 グラン・トリーノ である。頑固で孤独で子供たちからも疎まれる老人が心を開いたのが隣家にすむモン族の家族だった。その家の姉兄を人種差別から守り自立させようとする老人の、人生最後の善行を描いた映画である。
アメリカ車全盛の50-60年代、かの フォード・マスタング とそれに対抗してGMが投入したシボレー・カマロが若者の心を虜にしていた。まだアメリカンモーターズという会社があったころで、このメーカーが出したジャヴェリンだとか流線形が美しかったダッジチャージャーなんかが街を席巻していた時期、小生はカリフォルニア駐在で一度でいいからあんなのに乗ってみたい、と指をくわえていた。グラン・トリーノはまだ姿を現していなかったように思う。だが、人種問題などが我々局外者には無縁だったという限定詞付きではあるが、今思えば、よきなつかしき、アメリカ、があった時代だった。
映画は人種差別や家族崩壊などが日常化していた時代の、いわばおとぎ話に近いストーリーであるが、昨今の新聞記事あるいは旧聞にはなるがトランプ騒動で顕在化した白人至上主義の残滓、さらに最近激化の一途をたどる中国人排斥,片や動機さえ特定できない市民間の銃撃など、昨今のアメリカ社会の在り方には暗澹たるものがある。一方、全米人口に占める白人種の比率はすでに逆転し主力はヒスパニックと黒人にうつりつつある。かててくわえてアフガンの傀儡政権がもろくも馬脚を現した現時点ではさらにアラブ対キリスト教国間の対立が激化する恐れが高いようだ。このような危機に対する政治の力はいかにも無力であるように思える。
世界の各地で、グラン・トリーノが示した寛容と決意が生まれていくことを望むや切、である。
先日掲載の本稿記事(新型コロナ対策)について補足しておきます。
感染症の2類に準ずるという方針でスタートし、致死率で比べるとインフルエンザを上回るものではないという議論から、私も含め、昨年早期から適当ではないという意見が強く、インフルエンザ並みの5類にという意見が強くありました。しかし、5類としてしまうと、入院勧告も出来なくなるし、患者届け出も1周間以内となって、現状把握が悪くなるなどの問題点もあります。
重傷者、中等症者、軽症ないし無症状(未症状)者の3グループの扱いが問題なのです。字面上は1類よりも厳しい新型コロナウィルス感染症でありながら、その時その時の社会状況(患者状況)に合わせてその場しのぎの対策で進めたため、あちらこちらに齟齬をきたしています。
重傷者を入院させねばならないことは自明の理ですが、2類から5類へと変更したとしても、感染者病棟というものには厳しい制約があり、おいそれとコロナ用病棟に変更出来るわけではありません。現在の一般重症病棟から2,3ベッドをコロナ用に使用するということには、机上の計算では簡単ても、多くの問題点があり不可能に近いことです。そこを何とかクリヤーしているのが現状なのです。前室(防災衣服着脱)、換気、遮蔽性、床などなどのハード面の問題があるうえに、コロナ用病棟となれば医師、看護師、検査技師など何倍もの人手が要ります。普通の重症病棟では、隣の患者が急変したらその場ですぐ手助けが出来ますが、感染症病棟ではなかなかそうはいきません。国立の簡易病院建設も視野に入って来ます。
この第5波ますます盛んな現在、どうすべきでしょうか。重症、中等症は何とかしてそれぞれの病床へ入院させ、軽症者はホテルなどに収容して医師の管理下に置く。ごく軽症、未症状者に限って自宅、自粛生活とする。出来ればこれも収容させたい。何故なら家族内感染が目に見えています。患者数が減ることはありません。収容施設としてはオリンピック選手村です。パラリンピックの方が人数は少ないはずです。感染した人たちを少しでも減らそうとしない限り、第5波の勢いは収まりません。
それには、ロックダウンです。日本の法律からも、社会構造からも、完全ロックタウンは出来ません。政府が、国を挙げてのロックダウンをしましょう(やはりお願いという形とはなってしまいますが)と、本気にならなければ日本はコロナで滅びたといわれるでしょう。人手を半減(出来れば7割カット)すれば、それだけ感染の機会も減ります。人類史上の大事件です。
新型ワクチンを打ったから、他人に移す可能性もなくなったと考えている人は意外に多いようです。貴方や貴女もそうではないですか? 「ワクチンを打ったから家族に移す可能性はない」とか「ワクチンを打ったから、安心して東京から帰省できる」など、テレビのインタビューに答えている人もよく見かけますね。そんな人に私は一寸イラっとします。
例えば貴方が2回目のワクチンまで無事に終了したとします。しかし、ウィルスはそんなことは知りません。貴方が例え「ワクチン接種済み」という札を首からぶら下げていても, ウィルスは字が読めません。ワクチン接種が済んでいる人にも、済んでいない人にも、ウイルスは口や鼻、眼などから入りこみ、鼻・咽頭・気管支などの粘膜にくっつきます。ここまではワクチンを打っていようがいまいが皆さん、同じです。分かりますね。
ウイルスの一部はすぐに粘膜から血液に取り込まれ体中に広がります。しかし若しワクチンが十分効果を発揮し、体内に多数の抗体(まあ自衛隊のようなものです)が出来ていれば、抗体はウイリスが細胞にくっつくのを邪魔します。すなわち感染を予防できるか、発症しても軽くて済む場合が多いのです。これがワクチンの効果です。
しかし、一部のウイルスは暫く貴方の粘膜にとどまり、大声を出したり、咳やくしゃみをした時に、外へ飛び出して、他人に飛び散ったり、場合によっては空中に浮かんで、次のターゲットに移動するのです。だから、貴方がワクチンを打って抗体が十分にあっても、他の人に移す可能性は十分あることは分かりますね。
もう一つ、大事なことであまり知られていないのは、ワクチンを打っていても、咽頭まで入ったウイルスは、そのまま水や食べ物と一緒に貴方の胃から十二指腸・小腸・大腸を抜けて、生きたまま、便として排出されます。ある地域のコロナの感染の蔓延の度合いを調べるのに、下水道のウイルスの量を調べればいいと言われるのはそのせいです。
したがって排便の後、必ず便器に蓋をしてから水を流すように、言われているのはその為なのです(知らなかった?)。蓋を閉めずに水を勢いよくフラッシュすると、見えなくても便のなかのウイルスは便器の周りや床に飛び散り、後でトイレに入ってきた他の人に移っていく可能性が高いのです。よく言われる家庭内感染にはこの点も大きな原因となっていると思います。いくら3蜜を避け、手洗い・うがいを励行しても、感染が拡がる大きな要素はここにもあるのです。
従って、誰が使用したか分からない会社・デパート・ゴルフ場・スーパーなどの共用トイレもなるべく使用しないでください。お尻にウイルスをつけて家まで帰ってくるなんて、家族には良い迷惑です。またそのお尻で自宅の便器に座り、ウイルスをそこに植え付けるのでしょうから。一方、尿の中には多分ウイルスは殆どいないと思います。従って、女性の場合は別として、男性の小用専用トイレはあまり心配ないと思います(でも周囲に飛ばすのははた迷惑ですよ)。また手洗いの水道の蛇口やトイレのノブに不注意に触るのも要注意なのは当然です。
昨日の終戦記念日、第二次大戦の記憶をおぼろげながら持つ最後の世代として感慨深いものがあった。戦争の悪や悲惨さを訴え、伝えることも重要だが、そういう事態になおヒューマンな態度を貫き通した人が多くいたはずである。田村君から頂戴したエピソードを転載する。
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友人SMさんより、「HN氏からの日本帝国海軍中佐のエピソード」を貰いましたので、終戦記念日にとご紹介します。軍人でありながら、どんな時でも「あくまでも人道を貫いたこと」と「合理的な思考に立脚した正しい判断力」を失わずにされた方で、海軍の方もいます。第二次世界大戦中の駆逐艦「雷」工藤艦長で、沈没した敵兵英国人422名を救助した方です。
1998年5月昭和天皇が戦後英国を最初に訪問された際に、当時「反日感情」が強く残っていた時代に、この救命の事実記事を英国の「 London Times紙」に掲載されたのが「サムエル・フォール卿」で、救出されたメンバーの一人でした。この記事が英国国民の反日感情を一夜にして一変させたと言われています。
第二次大戦中、昭和17年(1942年)3月1日午後2時過ぎ、ジャワ海において日本海軍艦隊と英国東洋艦隊巡洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」が交戦し両艦とも撃沈された。その後、両艦艦長を含む乗員420余名の一団は約21時間漂流した。彼らの多くは艦から流出した重油と汚物に汚染され一時目が見えなくなった。加えて灼熱の太陽、サメの恐怖等で衰弱し生存の限界に達しつつあった。中には絶望し劇薬を飲んで自殺を図る者さえいた。
翌2日午前10時頃、日本海軍駆逐艦「雷」は単艦で同海域を哨戒航行中、偶然この集団を発見した。工藤艦長は見張りの報告、「左30度、距離8000(8km)、浮遊物多数」の第一報でこの集団を双眼鏡で視認、独断で、「一番砲だけ残し総員敵溺者救助用意」の号令を下令した(上級司令部には事後報告)。
一方、フォール卿は、当時を回想して「日本人は未開で野蛮という先入観を持っていた、間もなく機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と覚悟したという。ところが「雷」マストに救難活動中の国際信号旗が揚げられ「救助艇」が降ろされた。そして乗員が全力で救助にかかる光景を見て「夢を見ているかと思い、何度も自分の手をつねった」という。
「雷」はその後、広大な海域に四散したすべての漂流者を終日かけて救助した。120名しか乗務していない駆逐艦が敵将兵422名を単艦で救助し介抱した。勿論本件は世界海軍史上空前絶後の事である。
https://www.youtube.com/watch?v=QAevTFqLE0w
工藤俊作中佐【海の武士道】1
https://www.youtube.com/watch?v=ItdMS8N-gkQ
工藤俊作中佐 【海の武士道】2
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784794220707
http://shokan.blog82.fc2.com/blog-entry-155.html?sp
今上天皇皇后両陛下がイギリスを訪問されたのは今から14年前の1998年5月。イギリス政府と国民は歓迎の意を表し、天皇陛下はエリザベス女王と馬車に乗ってロンドン市民の歓迎に応えた。しかし、このパレードには抗議の意味でわざと背を向けた人たちがいた。彼らは、第二次世界大戦中日本の捕虜になり、その時の扱いに抗議し、日本政府に賠償と天皇陛下に謝罪を要求した。
この抗議行動にイギリス政府は遺恨が日英関係を支配してはならない(ブレア首相)と呼び掛けるなど、両陛下及び日本政府に異例の配慮を見せた。当時、日本の財界はイギリスに積極投資するなど、日英関係は経済面で新たな親密度を見せているときだった。ブレア首相の発言は当然だったかもしれない。
しかし、イギリス国民の感情は二分された。
戦時中の捕虜に対する非人道的な扱いを非難し日本政府と天皇に謝罪を要求するものから、個人的に戦争に関わっていない現在の天皇に謝罪を要求することへの疑問、さらには、元捕虜に対する賠償問題は退役軍人にちゃんと年金を払わないイギリス自体の問題だなど、様々な意見が噴出し、両陛下のイギリス訪問が反日運動を起こすきっかけになるのではないかとの不安が巻き起こった。
そんな怪しい空気を一掃するような投稿がロンドンのタイムズ紙に掲載された。その投稿は、元イギリス海軍士官で戦後は、スウェーデン大使を務めサーの称号が与えられたサムエル・フォール卿(投稿当時86歳)のものだった。フォール卿は、大戦中の「スラバヤ沖海戦」で、日本海軍に撃沈された巡洋艦から海に放り出され漂流中のところを日本海軍「雷(いかづち)」に救助されたのだった。このときの体験をタイムズ紙に投稿し、敵兵救助を決断した日本の武士道を賛美し、その国の元首を温かく迎えようと国民に呼びかけたのだ。
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