今朝の読売新聞8面、”アジア系米国人” 特集記事にベトナム戦争の時期、ラオスからアメリカへ難民としてわたってきた “モン族” のことが書かれている。この人たちのことを知った(はじめてその前を聞いた)のは、クリント・イーストウッドの映画 グラン・トリーノ である。頑固で孤独で子供たちからも疎まれる老人が心を開いたのが隣家にすむモン族の家族だった。その家の姉兄を人種差別から守り自立させようとする老人の、人生最後の善行を描いた映画である。
アメリカ車全盛の50-60年代、かの フォード・マスタング とそれに対抗してGMが投入したシボレー・カマロが若者の心を虜にしていた。まだアメリカンモーターズという会社があったころで、このメーカーが出したジャヴェリンだとか流線形が美しかったダッジチャージャーなんかが街を席巻していた時期、小生はカリフォルニア駐在で一度でいいからあんなのに乗ってみたい、と指をくわえていた。グラン・トリーノはまだ姿を現していなかったように思う。だが、人種問題などが我々局外者には無縁だったという限定詞付きではあるが、今思えば、よきなつかしき、アメリカ、があった時代だった。
映画は人種差別や家族崩壊などが日常化していた時代の、いわばおとぎ話に近いストーリーであるが、昨今の新聞記事あるいは旧聞にはなるがトランプ騒動で顕在化した白人至上主義の残滓、さらに最近激化の一途をたどる中国人排斥,片や動機さえ特定できない市民間の銃撃など、昨今のアメリカ社会の在り方には暗澹たるものがある。一方、全米人口に占める白人種の比率はすでに逆転し主力はヒスパニックと黒人にうつりつつある。かててくわえてアフガンの傀儡政権がもろくも馬脚を現した現時点ではさらにアラブ対キリスト教国間の対立が激化する恐れが高いようだ。このような危機に対する政治の力はいかにも無力であるように思える。
世界の各地で、グラン・トリーノが示した寛容と決意が生まれていくことを望むや切、である。