数字の記憶ー1401 という数字

人間の記憶、というものがどういう現象なのか、門外漢には分からないがともかく日常の人間の営みを越えた、なにか、であることは間違いない。昨日のことも忘れるのが当然の年齢になっても、とんでもない記憶が蘇ることを経験される方も多いだろう。その中で、ある特別な数字だけ、ひょいと思い出すことがある。

編集子は満州から昭和21年に引き上げてきて翌年東京へ出てから、今までに確か7回、引っ越しをしているのだが、その第一号、目黒区のいまでは環状7号に飲み込まれたあたりにあった小さな家の電話番号が06-1788だったとか、小学校の6年生、ほのかな初恋?にときめいた(圧倒的片思いだった)5年生の女の子の住所が大田区石川町173番地だったとか、そういうたぐいだ。何かの出来事が強烈に意識されるとき、併せて数字が脳裏に刻まれる、というのはよくある現象なのだろうか。小生の場合は慶応普通部の入学試験で受験番号が16番だったのもそれだ。当時小学生のあこかれだった赤バット川上哲治の背番号だったのも理由だったかもしれない。もし落第していたら記憶に残ることもなかっただろうが。

数日前、自宅近くのコインパーキングに駐車していた車のナンバープレートが1000番というのに気がついた。このような、きりのいいというか覚えやすいナンバーや自分に意味のある番号を、最近は3000円くらいだったか払えば業者がライセンスナンバーとして手配してくれるようになった。小生クルマそのものには興味はないが、それでも始めて乗った ”ダットサン“ 1500 の中古から今まで、都合7台のクルマのオーナーになった。現在使っているホンダフィットは、これが俺の最後のクルマ、と決めていたので、買い替えるとき注文を出して 1401 という番号を手に入れた。

1401、という数字は小生にとって想い出深い番号なのだが、おそらく、日本中にこの番号に小生と同じような甘酸っぱい記憶を持つ方(小生と同年配くらいのはずだ)がだいぶおられるはずだ。勝手な想像にしかすぎないが、数千、あるいは万単位、といった数になるのではないか、という気がする。そのことを書く。

いまではコンピュータ、という単語はあまりにもありふれたものになっているが、昭和30年代、つまり僕らがが学窓を去ろうかというころはまだまだ特殊なもので、技術の分野での話はよく知られていたが、なんといっても高価であり、一般事務分野での使用は官公庁や大企業などいわば大口に限られていた。小生が卒業したのは1961年だが、その2年前、IBM社が 1401 という型名の主に小規模企業(本来は大型機の入出力補助が目的だったようだが)を想定したシステムを発表した。ウイキペディアの解説は以下のようになっている(なお、コンピュータの回路素子が真空管からトランジスタに変わったのがこのシステムの親機として開発された7000シリーズという新鋭機からだった、という事を付け加えれば時代の変遷がより鮮明になるかもしれない)。

”IBM 1401は、IBMが1959年10月5日に発表した可変ワード長十進コンピュータであり、大成功となった IBM 1400 シリーズの最初の機種であり、パンチカードに格納したデータを処理する電気機械式のタビュレーティングマシンの代替となることを意図していた”

こんなことが卒業時点でわかるわけもないし、ましてやコンピュータという存在が自分のサラリーマン人生を左右するものになろうなどとは想像もしていなかった。高校時代から考えていた新聞記者という夢を4年の夏、最終的にあきらめた小生は電機メーカーに就職しよう、という事だけは決めていたが、縁があって当時のオートメーションブームの寵児的存在だった横河電機にご厄介になろうと決め、首尾よく採用してもらった。此処までは良かったのだが,新人教育を修了したときに、”機械統計課配属“ と申し渡されてひたすらに驚いた。機械統計、というのがなにかよくわからないがパンチカードシステムとかいうものを使って、やたらと表ばかり作る業務らしい、という事しか知らず、ましてや自分がそこに配属されるなどは想像もしなかったのだ。しかも、配属先へ連れていかれて課長へ一応のあいさつが終わったとたん、その足ですぐ、教育プログラムへ行け、と自分の机ももらわずに出張させられ、行ったさきではじめて、そのプログラムというのが IBM1401入門コース というのだったのを知った。今考えても乱暴というか無茶苦茶なサラリーマン双六の始まりだった。

当時、横河電機は優良会社の代表であったとはいえ、、創業時点から電機業界で技術者対象の専門メーカーとして地味に発展してきた会社で、いわば玄人すじに知られていたが、規模もそれほど大きくはなかった。しかしわが高度成長を支えたオートメーションブームで業績にはずみがつき、規模の拡大とともに経営の質の向上をめざす一環として、まだまだ問題もあったがコンピュータによる事務効率の飛躍的改善を目指す、という時点にあったのだ。

したがって、小生のサラリーマン第一歩はプログラマー、という想像もしなかった業務だった。当時はまだCOBOLなどというものも話に聞くだけで、すべてアセンブラーでの力仕事だった。横河が導入を決めたモデルは、メインメモリは8キロ(間違いではない、キロである)バイト、ディスク装置は高価すぎて使えず、外部メモリは磁気テープ装置(それもレンタルの安い低速モデル)だけだったから、月末の受注統計になるとそのデータの分類だけで徹夜仕事というシロモノだった。それでも専用のエアコン完備の部屋に収容しなければならず、毎月のレンタルは確か300万円(当時小生の月給は2万円あまり)。なにしろ、小学生からPCだスマホだインタネットなぞというものに囲まれている世の中からすれば想像もできないほど、”コンピュータ” というのは特別な存在だったのだ。

この1401はIBM社にとっては空前のヒット製品であったが、日本ではまだまだ経営トップ層でもコンピュータ投資に及び腰であったことから中規模程度の企業ではメインコンピュータとして採用された。したがって、就職してこの ”マルイチ” で初めてコンピュータなるものと顔を合わせた人たちは全国に相当おられるはずだし、当時の日本の採用慣行から言って小生と似たような環境にほうりこまれた人の数は相当なものになるだろう。百恵くんの歌ではないが、この広い日本のどこかにそういう人たちがいる、と想像するだけでほんのりしてくるから不思議なものだ。

1401、という数字は、したがって小生のサラリーマン生活の入門切符だったとともに、その後、(あいつはコンピュータがわかるはずだ)という(本人からすればはなはだ迷惑な)過分の評価がついてまわり、コンピュータから離れられない会社生活の在り方を決定した、因縁の数字なのだ。もし、横河電機での出発が 機械統計課 でなければ、たぶん、新規に発足した合弁会社、横河ヒューレットパッカード(YHP) への移籍もなかっただろうし、その後のHP(現在あるHPという会社は僕の愛した会社ではないのだが)での、自分でも納得できた社会人経験は出来なかったはずだ。そういう意味では 1401 は 16 とともに僕のラッキーナンバーなのだと僕は信じている。

ぼくの今の1401,すなわち深紅のホンダフィットは息子の週末ゴルフの脚として以外はほとんど、自宅のガレージですねている。気の毒とおもうべきか、長生きしろよ、というべきか、よくわからないのだが。

(HP時代同僚 坂東正康)坂村健の書いた「TRONからの発想」という本があります。発行は1987年。ぼくが八王子で(佐藤敬幸さんの下で)UNIXやMPE(HP3000のOS)や周辺機器(プリンターやプロッターやターミナル)に日本語をしゃべらせるプロジェクトにマーケティングとして参加していた頃に買ったもので、まだ本棚にありました。

その付録ページにコンピュータの歴史がまとめれらており、そこからIBM関連部分の一部を抜き出すと「1956年には、磁気コアという磁気の作用で1、0の値を記憶する部品を主記憶装置に用いたIBM 704やUNIVAC 1103Aというコンピュータが商品として売り出され、よく使われた。・・・1959年のIBM 7090は論理素子が真空管ではなくトランジスタが用いられた。・・・1958年には集積回路(IC)がテキサスインスツルメント社によって発明された。1964年には集積回路を用いた汎用大型電子計算機のスタンダード IBM 360シリーズが発表された。」

残念ながらこの本には IBM 1401は出てきません。

花見、あちこち

(船津)菜種梅雨?サクラが咲くと雨が降る。不思議と週末になると天気が悪い東京です。21日のお彼岸の日が一番の賑わいでした錦糸公園。その後は小雨に濡れています。まぁ例年より早い花見時期は過ぎていきますね。
(飯田)京都・円山公園の≪枝垂れ桜≫を観てきました。現在の大木は二代目で、初代は昭和22年に樹齢220年で枯死してしまいましたが、その初代の種子から大事に育てられた桜が、樹齢約80年を数える大木に成長しています。
満開の時に好天の下で観たいと思っていましたが、コロナ禍で叶わず、本日やっと念願かなって満喫してきました。

(小田)素敵な数々の写真の後ですが、昨日の日野市役所横の桜並木です。

(安田)故郷・九州の友達から送られた写真です。参考までに。
下関から望む関門海峡と関門大橋、対岸は北九州市門司。平家滅亡の壇ノ浦、宮本武蔵vs佐々木小次郎の決闘の場・巌流島も海峡内にある。

エーガ愛好会(207)  ルイ・マルのこと  (普通部OB 菅原勲)

フランスの映画監督ルイ・マルは、1932年10月30日に生まれ、1995年11月23日に鬼籍に入っているから、63歳で逝去したことになる。その全作品は、共同監督を含め22本だが、その内、小生が観たのは最初の4本に過ぎない。つまり、この後には18本もの映画が控えているわけだ。ところが、僅か4本しか観ていないにもかかわらず、マルを語るとは、それこそ神をも恐れぬ大胆不敵な行為と謗られても返す言葉もない。が、英語で言えば、Better late than neverに倣って、それをまーやってみようじゃないか。

「沈黙の世界」(製作年/日本公開年:1956年)。ジャック=イヴ・クストーとの共同監督で、深海を扱った海洋ドキュメンタリー。つまり、マルは劇映画ではなくドキュメンタリーから出発している。ただし、当時、クストーは、アクアラングの発明者であり水中考古学の先駆者として既に名声を博していたことなどから、その陰に隠れ、マルの存在は極めて薄いものだった。従って、小生の記憶の中では、「沈黙の世界」と言う映画は、クストーの作品であると理解しており、その中でマルの役割がどの程度のものだったかは分からない。

ところが、そのマルは第二作(実質的には第一作だろう)で大変身を遂げる。いや、それどころか第一作であるにもかかわらず、大変な作品を引っ提げて颯爽と登場して来る。それが、「死刑台のエレベーター」(製作年/日本公開年:1958年)だ。原作はノエル・カレフ(ブルガリア出身でフランスに国籍変更)のスリルとサスペンスに満ちた同名小説。彼にはこの他に「その子を殺すな」と言う傑作もある。従って、マルの映画もスリルとサスペンスに満ち溢れたものだったが、それを台詞だけではなく誠に秀逸な白黒の画面/画像で伝えたところに、マルの斬新さがあった。そして、小生は、これがマルの最大傑作だと思っている、時に弱冠26歳。マイルズ・デイヴィスのトランペットも話題になったようだが、ジャズに馴染みのない小生にはそれに言及するだけの素養はいささかも持ち合わせていない。

「恋人たち」(製作年:1958年/日本公開年:1959年)。これもドミニック・ヴィヴァン・ドノンの「Point de Lendemain」(英訳本の表題は「Tomorrow」となっている。が、Lendemainとは明日ではなく翌日と言う意味らしい)が原作で、1777年に出版され、1812年に改訂版が出されている。しかし、その内容は、どうもポーノグラフィーとまでは行かないが、可なりエロティックな内容だったらしい。従って、映画化に当たって、マルはその辺の直接的な描写は避けたようだ。この映画は男女の睦の画面があって、それが話題となり、同時にそこに流れる甘みな音楽が一躍有名になった。ブラームスの弦楽六重奏曲第一番第二楽章だ。小生、その睦に誘われてこの映画を見に行ったのだが、それ以上にその背景を流れるブラームスに甚く感激。早速、レコード屋でそのLPを贖って聴いた。ところが、肝心の第二楽章は、大変、良いのだが、残りの楽章はお世辞にも面白とは言い難い。逆に言えば、これは、特に第二楽章を選んで映画音楽に使ったマルの嗜好とか選曲眼を高く評価すべきなのだろう。

「地下鉄のザジ」(製作年:1960年/日本公開年:1961年)。田舎から出て来た、歯抜けの小生意気な女の子がパリで巻き起こすドタバタ喜劇。これもレーモン・クノーの同名小説(1959年)が原作だ。これは話しの筋がどうのこうのと言うより、ハチャメチャなドタバタ喜劇を楽しむ映画だ。従って、この類のものに拒否反応を示す人から見ると、何が何だかさっぱり分からず、誠にツマラナイ映画と言う人も多かろう。小生、この女の子、カトリーヌ・ドモンジョ(当時10歳)が気に入ったのだが、その後、二三の映画に出た後、19歳で引退し、地下鉄の歴史家になったそうだ(地下鉄はウソ)。

こう見て来ると、小生にとってマルの代表作は「死刑台・・・」となる。勿論、他に20本足らずの映画があるわけだが、それこそ、小生、見ていないから何とも言えない。確かに、4本の全てに原作があるが、誤解を恐れないで言えば、話しの筋なんてものは、本を読んでりゃー良いんであって、映画は台詞に加え魅力的な画面とそれに伴う音楽でその意図を如何に伝えるかがその最大の使命となる。往々にして文芸大作と言われる映画が面白くなくなるのは、ただただ筋だけを追っかけているに過ぎない場合が多いからだ。そこになにほどかの、いやそれ以上の工夫が施された画面/画像が加わって初めて映画となる。その意味では、カレフの本「死刑台・・・」とマルの映画「死刑台・・・」は全くの別物と考えるべきだろう。

それにしても、世に言う新しい波「ヌーヴェル・ヴァーグ」とは、一体、何だったのだろう。

(安田)僕は「沈黙の世界」以外の3本と「鬼火」を観ました。日本封切り公開時から随分年を経てからです。ということは、僕が青二才の年齢からちょっとばかり大人になってから。「地下鉄のザジ」は先日、管原さんのご推薦もあり後期高齢者の年齢で初めて観ました。「死刑台のエレベーター」「恋人たち」に尽きます。共通点は、ジャンヌ・モローが両方の映画に主演(鬼火にも出演)。共に白黒映画。「フィルム・ノワール」の範疇に入るのだろうか。そして最も感銘を受けたのは主題曲の素晴らしさ。ヌーベル・バーグの旗手と云われたルイ・マル監督26歳の時のメガフォン作品。一つ選ぶとすればやはり「死刑台のエレベーター」でしょうか。

「恋人たち」はジャンヌ・モローの美しさと官能的な映像美、そして何と言ってもブラームスの弦楽六重奏曲第一番第二楽章が映画を惹き立てる全てと云っても過言でない位素晴らしい。これら2つの映画を観てから、ジャンヌ・モローの主演映画「危険な関係」(1959年作)と「突然炎のごとく」(1961年作)を後年続けざまに観たくらいに彼女に興味を持ちました。

(飯田)ルイ・マル監督作品は私も「死刑台のエレベーター」「地下鉄のザジ」他には奇妙奇天烈な「世にも怪奇な物語」程度しか観ていませんが、「死刑台・・」は特筆すべき出来栄えの作品と思います。

その成功は菅原さん、安田さんの評論、コメントで尽きると思いますが、少し付け加えるとするなら、原作ノエル・カレフ、監督ルイ・マル、主演のモーリス・ロネ、ジャンヌ・モロー、音楽マイルズ・デイヴィスに加えて、当時のフランス映画界で名を轟かせた撮影のアンリ・ドカエのモノクロ画面のカットとロングパンの撮影の妙があり、演技者では後半にやっと出てくるあの名刑事役リノ・ヴァンチェラのこわもて顔があって、ラストの写真現像室でのシーンで主役二人が、これから受ける懲役10年、20年の刑の重みが増して締まったと思います。

リノ・ヴァンチェラはこの映画でも、ジュラール・フィリップ主演の画家モジリアーニの半生を描いた「モンパルナスの灯」であの面構えでラストに出てくる悪徳な画商の名演技に匹敵する存在感だと思います。

(船津)このエーガに出て来るカメラは一時入れ込んだミノックスカメラ。独逸の空軍の英雄に送られた。

(編集子)小生も難しいことはさっぱりわからないが、死刑台のエレベータ、あのデイヴィスのトランペットは印象に残っている。映画そのものよりも音楽が記憶に残る、というのはよく経験する。小生の場合はなんといっても 白い恋人たち だが。

エーガ愛好会 (206)熱血教師映画2本   (42 保屋野伸)

昨日、今日と雨だったので、先日放映された、熱血教師モノのエーガ2本をビデオで観ました。

①   いまを生きる

ロビン・ウイリアムスが名門スクールの型破りな新任教師役。大昔、会社の研修で観た映画でしたが、ほとんど忘れていたので、改めて新鮮で楽しめました。生徒の自殺が、教師の「個性を重視する教育」のせいだとされ学校を去るラストシーンで、生徒達のある抗議行動が感動的。

*ルート・ロイベリック主演の「朝な夕なに」を思い出しました。

②   コッホ先生と僕らの革命

ドイツ帝政時代、イギリス留学でサッカーを学んだ教師が、サッカーを教育の一貫に取り入れ、最後に成功する実話。モデルのコンラート・コッホはドイツサッカー界の父といわれた人物。

*熱血教師の映画やドラマは「外れがない」と云われますが、日本でも次のドラマが大ヒットしました。

①3年B組金八先生(武田鉄矢) ②熱中時代(水谷豊)③スクールウオーズ(山下真司)~熱血教師ではありませんが、映画では、二十四の瞳(高峰秀子)

 

誤嚥性肺炎について   (普通部OB 田村耕一郎)

 

友人から、親戚の方に起きた事故に関して、注意喚起のメールをもらいました。参考になると思いますので紹介します。

1.誤嚥性肺炎って?

誤嚥性肺炎は、食べ物や唾液などが誤って気道に入り込んだときに、一緒に口やのどの細菌やウイルスが入り込むことで起きる肺炎で、70歳以上の高齢者の肺炎の7割を占めています。

通常、食べ物や唾液を飲み込むときは、空気の通り道である気管にフタがされ同時に食道が広がるので、食べ物や唾液などは食道にだけ入ります。ですが、高齢者や脳卒中などで体にマヒがある人は、このフタの働きが低下して飲み込むときに気管がしっかり閉じにくくなって「誤嚥」が起きます。このときに、口の中やのどにいる細菌やウイルスが食べ物や唾液と一緒に気管から肺に入り、誤えん性肺炎を引き起こします。

一般に、肺炎を発症すると38℃以上の発熱や強いせきなどが起こりますが、誤えん性肺炎ではそうした典型的な症状が現れにくく、「ハアハアと呼吸が浅く速い」「何となく元気がない」「体が異常にだるい」「食欲がない」といった症状が多くみられます。また「せん妄」といって、話す言葉やふるまいなど意識に混乱がみられることもあります。高熱が出るまで、軽い咳込みと食欲がなくなった程度なのに誤嚥性肺炎を起こしていたというケースもあります。

2.口は万病のもと

誤えん性肺炎が高齢者に多い理由は、主に「えん下障害」「せき反射の働きの低下」「口の中が清潔に保たれていない」「体力や抵抗力の低下」の4つとされています。中でも特に重要なのが3番目の「口腔ケア」です。口腔ケアがしっかり出来ていれば、口の中の細菌が少ないので誤嚥しても誤嚥性肺炎になりにくいです。

口腔ケアは誤嚥性肺炎の防止だけではありません。口の中が不衛生で細菌が多いと、様々な疾患を引き起こすことが分かっています。入れ歯のケアをほとんどしていないと高齢からくる誤嚥に、口腔内の不衛生が重なって、誤嚥性肺炎になることがあります。

3.口腔ケアで万病予防

口腔ケアには、歯みがきやうがいなどで口内を清潔に保つだけでなく、口内の働きを良くして「嚥下機能」を向上させるためのリハビリも含まれます。口腔ケアのうち、口内を清潔にするケアを「器質的口腔ケア」、口や喉の筋肉を鍛えるケアを「機能的口腔ケア」と呼びます。

「器質的口腔ケア」は、日常的に行う歯みがきやうがいで、歯に付着した食べかすや汚れを落とし、虫歯や歯周病、口内炎を防ぐ効果があります。また、歯ぐきや舌、頬の内側などの汚れにも細菌が多く繁殖しているため、口の中にある肺炎の原因菌を減らせます。入れ歯の場合は、はめっぱなしにすると雑菌が増えやすいので、寝る前は必ず外しましょう。

「機能的口腔ケア」は、口や喉の筋肉を鍛えるケアで、食べ物や唾液がうまく飲み込めるようになるほか、円滑なコミュニケーションにもつながります。よく噛み、よく話すことで脳に刺激を送り、気持ちの安定もサポートできます。

機能的口腔ケアの代表例が「嚥下体操」です。下の要領で口周りの筋肉をほぐしたり鍛えたりします。また、「パタカラ体操」といって、「パ」「タ」「カ」「ラ」を組み合わせて発声練習して、口と舌の動きを滑らかにします。

<https://blog.ushinomiya.co.jp/blog/data/blog_img/9488_7_org.png>

口腔ケアは、単に歯や歯茎のためだけでなく、健康長寿とQOL(生活の質)の維持・向上に必要不可欠です。まだ習慣になってない方は、ぜひ今日から取り組みましょう。

“パーソナルコンピュータ” の歩みを思い出そう  (普通部OB 舩津於菟彦)

米インテルの共同創業者で「ムーアの法則」の提唱者として知られるゴードン・ムーア氏が24日、米ハワイ州の自宅で死去した。同氏の設立した財団とインテルが発表した。94歳だった。

ムーア氏は長年の同僚だったロバート・ノイス氏とともに1968年にインテルを設立。79年から87年まで最高経営責任者(CEO)を務め、同社を世界的な半導体メーカーに育てた。「半導体の集積度は2年ごとに倍増する」という同氏の予測はムーアの法則と呼ばれ、長らく半導体やIT(情報技術)産業の技術革新における指針となった。インテルCEOのパット・ゲルシンガー氏は「ムーア氏は洞察力と先見性によってテクノロジー産業を定義した。トランジスタの力を明らかにすることに貢献し、数十年にわたって技術者や起業家に着想を与えた」と声明を出した。

現在のシリコンヴァレーには数多くのスタートアップ企業が存在しているが、もしインテルの共同創業者であるロバート・ノイスとゴードン・ムーアがいなければ、こうした状況にはなっていなかったかもしれない。そう思える理由のひとつは、マイクロプロセッサの大量生産を最初に始めたのがインテルだったからだ。マイクロプロセッサは現在、スマートフォンやパソコン、サーヴァーなど、あらゆる種類のコンピューターを動かす基幹部品になっている。また、もっと詩的で深遠な理由もある。それは、ムーア氏とノイス氏が安定した企業の職を捨て、自分たちの手で会社を立ち上げ、夢を追求した起業家たちの先駆者だった から、というものだ。

そんな中に日本人も負けては居なかった。卓上電気計算機のビジコンの嶋正利は単身インテルに乗り込み卓上電気計算機用の4004の開発した功績は大きい。その後ビジコンを退職しリコーに転職。インテル社は次期製品として8008を開発。その性能向上にあたり特許戦略および他社による競合製品開発阻止のために、当時インテルのCEOだったロバート・ノイスが嶋をスカウトし1972年インテルに転職。8080では当初より主任設計者を務めて4004の時と同様にほとんど一人でロジックを組み上げ、8080のパターンの隅には嶋家の家紋が刻まれている。その後ファジンらCPU開発チームの主力メンバーと共にスピンアウトしザイログ設立に加わり、Z80やZ8000を設計した。Z80は8ビットマイクロプロセッサのベストセラーのひとつである。

嶋正利は1943年8月22日に生まれる.1967年東北大学理学部化学第二学科卒業.ビジコン社に就職し,電算部門で,各種のプログラミング言語に関する教育を受けプログラマとなる.1967年10月に電卓部門に移り,ハードワイアード論理方式を使った電卓の試作を担当する.当時日本は電卓の供給基地であり,OEMビジネスに適した論理方式を導入することを模索していた.嶋は,1968年11月に,10進コンピュータ・アーキテクチャとROMを使ったストアード・プログラム論理方式のプリンタ付き電卓を開発した.1969年6月に渡米し,10進コンピュータ・アーキテクチャを基本にした事務機向け汎用LSIシステムを開発する過程で,インテル社と協同で世界初のマイクロプロセッサ4004の開発を1971年3月に成功させた.16ピン・パッケージという制限のために4ビットの時分割システムバスを導入し,システムを,プロセッサである4ビットのCPU(4004),命令を格納するROM(4001),データを格納するRAM(4002),出力拡張ポート(4003)の4種類のLSIのみで構成した.当時の科学計算機用電卓には入出力機器としてキーボード,表示(CRT),プリンタ,応用プログラムを読み込むカードリーダなどがあった.開発における最も困難で解決しなければならなかった問題は,電卓というアプリケーション・プログラムを実行しつつ,低性能プロセッサと低速メモリという条件下で,プログラムを使って多種の入出力機器の制御をリアルタイムにどのように行うかであった.問題の解決のために命令セットの最適化と簡単なモニタの導入などを行った.CPUには2,300個のトランジスタを使い,750KHzの動作周波数で約0.065MIPSの性能を達成した.チップ面積は12mm角であった.また,嶋は,4004を使ったプリンタ付き電卓を1971年に開発し,世界初のマイクロプロセッサ使用者となった.電卓の命令用メモリ量は1Kバイトであった.マイクロプロセッサは,知への道具である「知的能力」を人類にもたらし,マイコンへの道を拓いた.1971年9月にリコーに移り,ミニコンへのI/Oタイプライタの接続,大型計算機のチャネルへのグラフィック・ミニコンの接続,高速プリンタの電子制御,ミニコンを使ったドラム記憶装置のテスタ設計に従事した.これらの一連の設計を通してマイクロプロセッサ開発の基礎ができあがった.
今の目の前にあるアップルiMac27インチは当時の空調してテープがクルクル廻るオフコン以上の性能になっているし、LSIはナノの単位になり日本はに遅れてしまっている。

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我がpersonal computerの歴史は兄が米国から帰国時でフロッピーディスクて動くアップルⅡ型が最初の出会いで、自分がpersonal computerを購入したのは日本では未だpersonal computerがが生まれて間もないときに、大阪に飛ばされて単身赴任してやること無いのでこれからは何だろうと、当時NECがボトーの上に乗せたようなむき出しのpersonal computerから、NECとか日立がやっとpersonal computerらしき形の物を発売した頃です。日立レベル3は当時としては最先端のCPUモトローラーのHD68091MHzを搭載してメモリーは24KBとい物でした、本体298,000円はもとよりプリンターとかディスプレー(カラー画面の物は高くて買えない)グリーの物とかフロッピーレコーダーなど何か買うと10万円以上の代物でした。また、プリンターは勿論フルファベットとカタカナしか打てない物はドットプリンターで音が猛烈に大きい。寮で夜間打ち出すときなど枕を被せて–
そしてソフトなど殆ど無くて、BASICのみでシコシコ入れたりして遊んでいましたが、何しろ時間がが掛かるスワップ一つやってもトイレに行って帰ってくるぐらい時間を要した。それでも一応未だ少なかったパソコン講座に通ったり居しましたが、これが元で鉄鋼関係から情報産業へと転勤になりました。良かったのか悪かったのか???? あぁ遠い昔の半世紀も前の話しですね。未だその時の本が取ってあります。結局物にならず現在至っています。
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(編集子)サンフランシスコから101号線で1時間ほど南に位置するパロアルトはスタンフォード大学の所在地だが、ここにはラジオ工学の泰斗とよばれたターマン博士がいて、その門下生だったデヴィッド・パッカードとウイリアム・ヒューレットが博士にすすめられてHP社をおこし、ヒューレットが特許を取った低周波発振器の製造を始めた。その性能が当時映画 ファンタジア を作ろうとしていたハリウッドに認められて世に出、その後 (現代のアラビアンナイトだ)とまでいわれた飛躍をとげるのだが、このHPの成功が引き金となって、パロアルトからサンノゼあたり、かつては茫々たる果樹園だった地域が、現在のシリコンバレー、と呼ばれるエレクトロニクスとその延長線上にある情報産業の一大集積地になった。
HPの歴史にはいろいろとトピックがあるのだが、ある日、一人の青年がヒューレットのもとにやってきて、自分のアイデアを説明し、HPで使ってほしいと要請した。その時、ヒューレットはそれよりも自分で会社を興す方がいいと青年を激励した。その青年がヒューレットのァドバイスをもとに作った会社がアップルコンピュータだったのだ。この時、もしヒューレットが同意していたら、その結果はどうだっただろうか。歴史にIFはない、というの、一若造ではあったがHPという組織体の末端で会社の文化を多少は知っていた経験から興味はつきない。
別の話だが、船津の書いているPCの勃興期からその発展、インテルの拡大といった業界の動きを着実にフォローしたHPは関係分野での測定器を続々と送り出し、おおいに業績をのばした。その後、パッカードは、カリフォルニアで起きたいわゆるゴールドラッシュをひいてこう語ったことがある。ラッシュで設けたのはもちろん、金鉱を掘り当てたやつさ。だけど彼らの仕事が増えれば作業着がいり、給料を運ぶ馬車がいり、その給料を預かる銀行がいる。そうやって大きくなったのがリーバイスだとかウエルズファーゴなんて連中さ。HPは金鉱を探すのはほかの連中にまかせてジーンズや馬車を造ろうとしてるんだよ。
この大原則で小生が働いていた時代のHPは米国の Most Admired Company リストの常連だった。HPの変貌はやはり金鉱探しに手を伸ばし始めた時期に始まった。その結果をどう判断するのか、これまた興味は尽きないが。

春の鎌倉散策      (44 安田耕太郎)

啓蟄の時期には人間様も蠢かねばと、鎌倉散策を楽しみ、陶芸にも初めて挑戦してみた。去年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」放映中は混んでいるだろうと敢えて鎌倉行は断念し、春めいて桜も咲き始めた先週久し振りの鎌倉を散策。JR北鎌倉駅から歩き出し、西の方角に位置する駆け込み寺として知られる「東慶寺」へ。境内の墓苑には有名人の墓の多さにびっくり。小林秀雄、西田幾多郎、鈴木大拙、出光佐三(出光創業者)、和辻哲郎、高見順、谷川徹三、野上弥生、安倍能成、織田幹雄、大松博文など。

小林秀雄の墓

法華堂後跡の源頼朝の墓所(裏手には北条義時の墓もある)を訪れる。現在の墓は薩摩藩主島津重豪により、1779年に建てられたという。行く途中、畠山重忠の住居跡を通る。頼朝から北条執権政治への移行期を後追いしているかのようだ。

足利尊氏と対立して捉えられ28歳に若さで非業の死を遂げた、後醍醐天皇の皇子・護良(もりなが)親王を祭る鎌倉宮と親王の墓を足早に通り過ぎ、足利、上杉氏の菩提寺として栄えた報国寺を訪れた。孟宗竹の竹林が有名で、竹の寺とも呼ばれる。竹林を眺めながら美味しい緑茶を堪能。

初めて“ろくろ”を回し陶器の型造りを経験した。素焼きされた陶器に先日、釉薬をかけ窯に入れて焼き上げる作業にはいった。釉薬が陶器の上でどのような色味と模様を創るのか、焼きあがるまで判明せず楽しみではある。

帰路、稲村ケ崎の漁師宅に立ち寄り鎌倉名物「釜揚げシラス」を買い求めた。2万歩の終日におよんだ心地よい疲労感を覚えた鎌倉散策だった。

エーガ愛好会 (205) 不死身の保安官   (34 小泉幾多郎)

 西部劇の巨匠とも言えるラオール・ウオルシュ監督の、晩年に遺作「遠い喇叭1963 」の一つ前の1959年の作品。それは英国の名優ケネス・モアと相手役にあのモンローに匹敵するブロンドのセックスシンボルたるジェーン・マンスフィールドを配し、英米合作のウエスタンコメディを制作したとは珍しい。初めてスペインでロケされたウエスタンとも言われている。

冒頭タイトルバックに流れる歌 In The Valley of Lord(谷あいの心のワルツ)は、マンスフィールドが、画中、谷あいの小道を馬車で走る際にも唄われる。マンスフィールドの歌は他に酒場等で Strolling Round The Lane With Hill や If The Sun Francisco Hills Could Only Talk を唄うが、全てコニー・フランシスが代って唄っていい味を出してミュージカル的味わいも加味されている。

英国からアメリカ西部へ銃を売り込もうと駅馬車で西部へ向かう途中、インディアンに襲われるが何の知識もないまま酋長と判りあったりして仲良くなり、町民に英雄として迎え入れられたり、手首にデリンジャー型の計器を装置していたことが悪漢には剛腕の早撃ちに見られたりして保安官に祭り上げられる要因となる。英国人として何も知らないことが全てに良い方向に進むのだった。最後は牧場同志Lazy SとBox Tの対立もインディアンとの対立もすべて解決。こんなことは有り得ない筈だが、争いごと解決の理想形。他愛ないと言えばそれまでだが、職人技に徹し、肩肘張らず名人芸を見せつけられたと思えばそれで満足。英国紳士と酒場女でありホテル経営者とは、めでたく結婚。新郎の横には、親戚代表?インディアン酋長が。新婚旅行の馬車に矢が突き刺さる。矢に付けられた革の手紙を開けるとThe Endとは、最後まで他愛ない。

(飯田)さて、私もBSシネマで「不死身の保安官」を観ました。
この映画は制作当時、日本で劇場公開されていないことを観終わったあとに
知りました。小泉さんの名解説・コメントにあるように、気楽に楽しめるコメディ・タッチの西部劇で異色でした。私のような年齢になると、気楽に鑑賞できる楽しい映画に出くわすとそれだけで嬉しいものです。

主演の一人、ジェーン・マンスフィールドですが、彼女の名前は何故か有名ですが出演映画が意外に少なかったことを今回、改めて気づきました。
「女はそれを我慢できない」(1956年)の後に、この「不死身の保安官」(1958年)があるくらいで、他の数本はタイトルからして劇場で観たのか、観ていないのか、分らないような2~3流映画の気がします。

彼女が有名になったのは、ケネディ大統領の弟のロバート・ケネディ(当時の司法長官)と深い仲だったとスキャンダルが報じられて、むしろそちらで有名になったのか?と思っています。「女はそれを我慢できない」はトム・イーウエル(「七年目の浮気」でマリリン・モンローの相手役をやった、可笑しな演技をする俳優)との共演で、私は近年も度々観ています。

(保屋野)私も観ました。お二人の名解説に付け加えることはありません。まあまあ楽しいB級西部劇ですね。それと、私は、何でこんな映画にM・モンローが出てるのか不思議でしたが、このソックリさんはJ・マンスフィールドでした。

もちろん、モンローには適わないでしょうが、歌(本人が歌ったどうか分りませんが)を含めて中々魅力的でした。

(船津)確かに娯楽超大作ですね。面白い・可愛い。まるでウクライナ問題を茶化しているみたいですね。原住民の矢でロシアも停戦してくれると良いのですがね。

(編集子)ラオール・ウオルシュの西部劇、という先入観を払拭するのにだいぶ時間がかかった。ケネス・モアと言えば小生がお目にかかった作品は ”ビスマルク号を撃沈せよ” ”史上最大の作戦” ”空軍大戦略” とすべて第二次大戦ものばかりで、あのおっさんがセーブゲキか、という興味が先だった。マンスフィールドの映画はほかには1本も見ていない。ワイフの卒業論文がキャサリン・マンスフィールドだったが、何度も言い間違えて怒られた。無理もなかったと思うんだが。

エーガとは無関係だが、飯田兄のコメントにあるボブ・ケネディが暗殺された日、小生はシリコンバレーに居合わせて、言いようのない気もちになったことを思いだした。それにしても大統領兄弟そろってグラマー女優とのスキャンダルてえのは呆れるべきか、馬鹿にしたもんか、うらやむべきか、これも難しい。もっともこの国の兄貴分英国では皇太子がそうだもんな。皇女がスケコマシと駆け落ちするどっかの国なんか、平和といえば平和だわな。どうせならローマの休日風に落ち着けば万々歳だったはずなのに。しかしこういう場合、ご本人たちを密会の場所まで運んだ運転手とか、警護官なんかは口止め料をもらうんだろうか?

 

私の見た大谷翔平    (普通部OB 田村耕一郎)

日本選手は昨夜試合終了後、夜中に出発しフロリダに到着。スピーデイな世の中になりましたね。もと野球に明け暮れていたものとして言えば、今回、大谷選手の最も優れたプレーは、あのバントでした。大谷シフトがありヒット、長打を警戒している中で、大谷がまさか地味なバントをすると思った人はほとんどいなかったでしょう。
かつて報道の現場にいた友人からのメールを転送します。ぜひご一読ください。

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入団3年目の2015年のオールスター後、当時、私がキャスターを担当していたスポーツニュース番組に生出演してくれた日でした。 大谷選手らと社食に向かい、他の社員さんがいる中で300円の牛丼を食べました。楽しそうに、にこやかな表情を浮かべながら、本当に美味しそうに世界のOHTANIが牛丼をほおばっていました。  時間の使い方を最も大切にしていた大谷選手にとって、お台場からレインボーブリッジを渡っていく食事会場への時間は勿体ないと考えていたのです。20歳前後なのに……感服でした。

“明日やるべきことはすべて決まっている。時間の使い方は考え抜いている。18時にマウンドに上がる時には、そこからすべて逆算して1分1秒を大切に組み立てていく”  これが日本に居る時からの大谷青年でした。少しの時間も無駄にしない。オンエアで出会う大谷翔平は常に時間と向き合っていました

海を渡り、アメリカ大リーグに挑戦してからもエンゼルスのロッカールームでは規則正しく、規律正しく、時間を無駄にしないルーティンを続ける大谷翔平がいました。着替える時間、身体をほぐす時間、ベンチ裏でバットを振る時間、各選手とコミュニケーションを図る時間……無駄な時間は全くありませんでした。その中でもデータを見る時間、映像を確認する作業に時間を費やし、その時間を大切にしている大谷選手がいました。データ、映像を見ながら自分の動き、プレーを想像し、動きのイメージを頭の中で膨らませている姿が見て取れました。リアルに身体を動かす時間以外に、常に頭の中で想像し、頭の中でプレーをしている時間も特段大切にしているのだと気付かされました。今の活躍ぶりを見ていると肘の怪我を乗り越えたこと、トミージョン手術を行ったことさえも忘れそうになります。肘の傷はとても長い。10センチくらいでしょうか、縫い傷の跡が残っているんです。   ロッカールームで「手術跡を少し見せてくれますか?」と聞いたら、にやっと笑いながら「ダメですよ(笑)。絶対に見せません」と答えてくれたのを思い出します。  自分の傷や、苦しみや痛みを絶対に他に見せない。自分の中で閉じ込め、自らと向き合い解決していく。それを力に変えていく大谷翔平もいました。

「僕は二刀流をやっているとは思っていません。打って、投げて、走って。野球をやっているだけです」  キャスター時代、大谷翔平に「二刀流は難しい、困難ですよね?」という質問は愚問でした。野球をやっているだけですから。二刀流という言葉を彼が極力使わない理由はここにある気がします。「二刀流」ではなく「野球」をやっている。野球全てのプレーを堪能している。  だから時間を切り詰める、時間を無駄にしない、動いていない時は頭で想像する、イメージ
する.
辛いなんて言わない、言っている暇はない、すべてプラスに転換させru…だからこそ人の何倍も時間を要するはずの二刀流を成功させている、ピークをこことい
う時に合わせ、パフォーマンスを最大化させることが出来る。久しぶりに日本でプレーしてくれている大谷翔平選手を観て、色んな答え合わせが出来た気がしました。

今でも牛丼を食べると……目の前でにこやかに、楽しそうに食事をしている大谷青年の顔を思い出す。そして、割りばしの箸袋にこんな文字が浮かび上がってくる…「時間は無限ではなく有限」だと。