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Sneak Preview (3)      (44 安田耕太郎)

アルプスを満喫

サンモリッツへの道はインスブルックから200キロの山間の道を縫うようにして蛇行していた。山国スイスへいよいよ入ってきた。スイス国境付近には4000メートル近くに達する高峰が聳え夢に描いたアルプスに近づいた興奮で少しドキドキしたことを覚えている。

サンモリッツは標高が1800メートルもある高所に位置している。南に15キロ行けばイタリア国境でドロミテ(Dolomiti)山塊も遠くない。夏冬ともレジャー施設と素晴らしい自然風景には事欠かないスイス有数の観光保養地だ。ヒッチハイカーには随分高級過ぎる街の佇まいであった。が、運良くユースホステルもあり出費も抑えられた。サンモリッツの町の真ん中にはサンモリッツ湖があり、対岸のアルプスの山々を湖面に映し、ユースホステルからの眺望も素晴らしい。

サンモリッツ

好天に恵まれトレッキングに終日行くことにした。最高峰4049メートルのピークを持つ大きなベルニア(Bernina)山塊がイタリアとの国境に向かって横たわっている。その山麓をトレッキングした。トレッキングといっても標高1800メートルからのスタートで3000メートル近い高所まで登ったはずだ。雪と氷に覆われた山頂付近の絶景を眺め、晩夏から初秋に移り変わる少し早い紅葉も楽しめた。訪問の目的は叶えられ満足感一杯でサンモリッツ湖を眺めながら下り、ユースホステルに戻った。

次はグリンデルヴァルドへ、サンモリッツからは山間を縫うように走り湖の間を意味するインターラーケン(Interlaken)を目指した。名前の通り二つの湖に挟まれた、ベルナー・オーバーラント(Berner Oberland)地方の観光拠点の入口にある数千人ほどの小さな美しい町だ。そこからはスイス国内でも最も美しいと評される深い谷のひとつであるラウターブルンネン(Lauterbrunnen)に立ち寄ることにした。インターラーケンからは10キロほど南に行ったところにある。

この辺りはスイスのほぼ中央部だ。深い谷の細い裂け目、壮大な氷河、切り立った崖の絶壁、雪に覆われた峰々、50を超える滝に囲まれている。お伽話に出てくるようなスイスアルプスの村が山腹や谷間の草原に点在していて、信じがたいほど美しい。谷の入り口辺りでヒッチハイクの車から降り、2時間ほど歩いて素晴らしい至極の風景を満喫した。

ラウタ―ブルンネン

北の方角インターラーケン方面に少し戻り、右折して東へ、夕方近くにグリンデルヴァルドのユースホステルにチェックインした。途中ヒッチハイクの車から車を乗り継ぐ間は道端を歩くのであるが、秋のシーズンとあってリンゴ畑などではしっかりとリンゴを失敬してビタミン補給にも努めた。スイスのリンゴは日本のふじ、王林、紅玉などよりずっと酸味が強くて食感は硬めであった。

グリンデルヴァルドに近づくと右手前方にアイガーの北壁が望まれゾクゾクした。当時、アルプス三大北壁登頂がアルピニストの憧れの挑戦コースになっていて、日本人登山家も果敢に挑んでいる頃であった。目の前のアイガー、次に行く予定のツェルマットから望めるマッターホルン、それとフランス・モンブラン山塊のグランドジョラスが三大北壁だ。  グリンデルヴァルトは標高1034メートル、街から南西の方角にアイガー(Eiger3970メートル)、メンヒ(Mönch4107メートル)、ユングフラウ(Jungfrau乙女の意4158メートル)のベルナー・オーバーラントアルプスの名峰三山が並ぶ壮大な景観がひろがる。街のやや左前方、アイガー峰の左手にはヴェッターホルン峰(Wetterhorn)3701メートルが衛兵のように聳えている。グリンデルヴァルトから高度差3000メートルの天空に聳える岩と氷雪の名峰群に見とれる。

翌日早速歩き出した。電車で9キロ先のアイガーとメンヒの中間標高約3500メートルのユングフラウヨッホ(Jungfraujoch)まで連れて行けるが、懐と相談して電車は諦め標高2061メートルの中間乗り継ぎ駅クライネ・シャイデック(Kleine Scheidegg)まで歩く。電車で行くには勿体ないほどの素敵なハイキングコース、アイガー北壁の真下から壁を見上げながらゆっくり歩くのは、電車で通り過ぎるより圧倒的に貴重だ。垂直に近い角度の壁が高さ1800メートルにわたってそそり聳えている。登攀するクライマーも見え、歩くのを止めしばし見上げてスリルをお裾分けしてもらった。いつまでも歩いていたい快適さだ。

アイガー北壁

クライネ・シャイデックはアイガーとメンヒの中間地点、三峰を望む峠になっていて、至近から標高差2000メートルの雪と岩の殿堂を仰ぎ見る迫力に圧倒された。前日訪れたラウタ―ブルンネンからは登山電車を乗り継げばこの峠に達することができるが、迂回してグリンデルヴァルド経由にして良かったと思った。峠までの絶景を歩いて堪能できたからだ。周囲の峰々と眼下に箱庭のように広がる美しいグリンデルヴァルドの村を見下ろしながらゆっくり歩いて戻った。

次の日は三山とグリンデルヴァルドを挟んで対面にあるトレッキングコース、三山からは少し離れるが全体が俯瞰できて違った味わいを満喫。あと1日はグリンデルヴァルドの街でゆったりと至福の時が流れていった。アルプス山脈の高原地帯に広がる緑の牧草地アルプ(Alp)は周りの山岳風景と調和して見事としか形容できない。その緑の絨毯を縫って歩道が整備されており、スイスアルプス地方特有の建築「シャレ―challet」と呼ばれる大きな屋根の突き出た山小屋タイプの家屋やホテルの軒先は色とりどりの花々で彩られていて、現実離れした絵のような美しさである。次は名峰マッターホルン((Matterhorn)の麓ツェルマットへ向かう。道中は飽きることなく周りの景観を楽しませてくれる。贅沢なひとときだ。

スイスを旅して気づいたことが二つあった。

まず銃を背負った軍服姿の男性を町や駅で見かけたこと。国民皆兵を国是とするスイスの徴兵制は、20-35歳の男子は初年度の15週間の兵役訓練を終えると、毎年約3週間の補充講習・訓練を受け20歳から数えて通算で合計260日の兵役に就かねばならない。その後は予備役に算入される。徴兵制を終えた男子(予備軍)を加えると40万人の兵士が、他国の侵入など有事の際には6時間以内に、動員できる態勢が普段からできている。町で見かけた軍服姿はちょうど徴兵された時期で任務地へ移動中か、週末に自宅に一時帰宅の最中だったのであろう。人口800万の国にしては大変な動員力だ。職業軍人数は4~5千人といわれている。

もうひとつは、山間の谷に軍用ジェット機の滑走路があって驚いた。付随して山腹の崖には穴をあけて格納施設が備わっていた。軍事基地が岩山をくりぬいた地下に建設されるなど高度に要塞化されているという。

近世になり18世紀初め頃より時計などの精密機械産業が勃興した。16世紀の宗教改革後、フランスでは数十年に亘ってカトリックとプロテスタントが争った。ユグノー宗教戦争である。迫害されたユグノー(Huguenot)と呼ばれたプロテスタントの技術者が、フランスを逃れてスイスの西部地域などに移り住み、彼らが時計など精密機械工作技術を持ち込んできた。時計工場がジュネーブから北部のフランス国境沿いのジュラ山脈渓谷の町に集まっている理由のひとつである。

山間の貧しい国として、スイスの主な産業のひとつは傭兵であった。スイス人傭兵が敵味方に分かれて戦うことは珍しいことではなかった。よく知られているのはヴァチカン市国を護衛するスイス衛兵。サン・ピエトロ大聖堂ではミケランジェロがデザインした凛々しいユニフォ―ムを着た護衛するスイス衛兵に会える。

スイス傭兵

オーストリアと共に永世中立国の立場を堅持、EUにも加盟せず独自の貨幣スイスフランを流通させている。国連に加盟したのも今世紀になった2002年。世界でもトップクラスの所得水準を誇り、精密機械工業(時計、光学器械)のほか観光業、金融業(銀行、保険、証券)、化学薬品工業、電力業などが主たる産業だ。

標高1608メートルのツェルマットに着いた。長野県北アルプス(飛騨山脈)南部に位置する有名な山岳景勝地・上高地とほぼ同じ標高だ。ツェルマットにはガソリン自動車は乗り入れ禁止。街の手前でストップして歩くか電気自動車で街中まで行くことになる。サンモリッツやグリンデルヴァルドと違い、周囲を山に囲まれた細い谷に開けた村だ。南の方角奥まった高い所に三角錐の圧倒的な存在感のマッターホルン峰の姿が目に飛び込んできた。興奮を禁じ得ない。

ユースホステルは絶好の位置にあった。マッターホルンを見上げるのに前方に何の障害もない。運良くベッドが南側の窓のそばにあったお陰でベッドから三角錐がいつも眺められた。一泊千円以下の宿泊費でこれ以上の贅沢は望めない。ツェルマットには一週間滞在したが毎日飽きることなく眺めた。

マッターホーン

特に素晴らしかったのは、日の出の時間帯である。谷はまだ暗く闇に包まれている時刻、穂先に陽の光が当たり、雪もついた三角錐が上から下へと段々と黄金色に染められて行く。筆舌に尽くし難い、とはこういう超絶した美しさのことをいうのだろう。滞在期間中は毎朝見惚れていた。見上げる標高4478メートルの頂上までの標高差は2800メートル、上高地から望む奥穂高岳3190メートルと比べると1000メートル以上の差があり、迫力が違う。

経済的理由と歩くことが好きなので登山電車に乗らず、標高3130メートルの展望スポットであるゴルナーグラート(Gornergrat)まで歩く。標高2300メートル辺りが森林限界で次第に眺望が開けてくる。途中には写真でよく見る小さな池にマッターホルンの秀麗な姿を逆さまに映す有名な箇所で休憩した。当時は歩くスピードも速く田中陽希ばりに高度と距離を稼いでいたのではないか。標高差1500メートルを一気に登った。

魅力は何といっても眺望だ。ヨーロッパアルプス4000メートル峰の4分の3に当たる29座がツェルマット周辺に集まり、ゴルナーグラートを360度取り囲むように聳えている。まさに絶景だ。南西方面遠くにはアルプスの女王と呼ばれるヨーロッパ最高峰モンブラン(Mont Blanc)4810メートルの雪帽子も手が届いてしまいそうな距離に感じられる。すぐ南側にはゴルナー氷河を挟んでスイス最高峰モンテローザ(Monte Rosa)4634メートルが威風堂々とした山容で迫り、右(西)に目を移せば異なる姿のマッターホルン東壁がこちらを向いている。直線で7~8キロ近く離れていると思われる両峰の間に横たわる広大な氷河の斜面では、小さな豆粒のようにスキーをしている人達が見える。スキーをしたくなった。最近のアルプスの写真を観ると雪が圧倒的に少ない。50年前スキーをした初雪前の10月でも随分標高が低い、今では山肌が露出した山腹まで雪で覆われていて、積雪量も結構あった。地球温暖化の深刻さを突き付けられる。

ゴルナーグラートハイキングの翌日、道具一式、ロープウェイ、リフト代と想定外の結構な出費であったがスキーを楽しんだ。充分過ぎる価値があり元は取れた。服装はスキー用ではないが転ばなければ、それ程寒くない快晴のスキー日和で運にも恵まれた。Tバーに初めて乗った。両足でバーをまたがり腰掛けスキーは雪面を滑っていくリフトだ。苦戦したが慣れてきた。イタリア国境の峠3300メートルまで行ってマッターホルン東壁を左手、モンテローザを右手に見ながら氷河上の雪の斜面を滑った。マッターホルン峰はスイス・イタリア国境に聳えておりイタリア語ではチェルヴィーノ(Cervino)という。スキー斜面は国境稜線をまたいで両国側に広がっている。イタリア側の麓の町チェルヴィニア(Cervinia)までイタリア北部の都会ミラノやトリノからも遠くなく、イタリア人も多い。

レストランはイタリア側が経営する料理が圧倒的に美味しかった。多くの人がワインを飲みながら日光浴をする優雅なヨーロッパのスキー文化に触れた。旅の全行程中、最高に贅沢なレジャーとなった。山行トレッキングコースは幾つも用意されていて、滞在中方々のコースを歩き、ツェルマットを心ゆくまで満喫して、次はジュネーブに向う。

ツェルマットからは谷を下り、平坦な地域まで行って西に方向を変え、レマン湖北岸をドライブした(ヒッチハイクで)。対岸にはフランスのミネラルウォーターで知られる町エビアン(Evian)が望まれ、その後方にはモンブラン峰に連なるフランスアルプスの峰々が遠望できた。

Why does Japan have so few cases of COVID 19 ? (HPOB 菅井康二)

4/28に発表されたイェール大学の岩崎明子教授(免疫学)の「なぜ日本のCOVID-19の症例はこんなに少ないのか?」という論文をご紹介します。

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1.日本の文化は本質的に社会的距離を隔てるのに適しており、マスクの使用はウイルスの蔓延を防ぐ

2.毒性の強いSARS-CoV-2が蔓延する前に、日本人は穏やかなバージョンのSARS-CoV-2に曝されて免疫を獲得している人がいる(但し明確な証拠はない)

3.日本人は、ウイルスが細胞に侵入するレセプターであるACE2の感受性が低い可能性がある。

4.日本人は、SARS-CoV-2に対する免疫耐性を与える明確なHLA(ヒト白血球型抗原、免疫応答の中心的役割を担っている)を持ってる。

5.BCGの接種がCOVID-19に対する防御の役割を果たしている?

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2.は既に免疫を獲得していた人がいたという説ですが、これをバックアップするような仮説が京都大学大学院医学研究科の上久保靖彦特定教授と、吉備国際大学(岡山県)の高橋淳教授らの研究グループが発表されています。新型コロナウイルスと言われているSARS-CoV-2にはS型、K型、G型という3種類の変異があり、この順番で発生したとしており、

1.S型:無症候性も多い弱毒ウイルス
2.K型: 無症候性〜軽症
3.G型:武漢発で現在のパンデミックを起こしているウイルス

日本を含めた東アジア、中国では沿岸部に殆ど無症状のK型が秘かに広まりこれに曝された人には免疫抗体ができ(勿論全員ではありませんが)、G型が入ってきても感染を防御する働きがあったのでは無いか?という仮説です。

 

 

“エール”の話ー慶応義塾メールマガジンから転載  (44 安田耕太郎)

現在放送中のNHK連続テレビ小説「エール」のモデルとなった小関裕而氏は生涯で5000曲もの作品を生み出した昭和の大作曲家です。歌謡曲、ドラマ・映画音楽・校歌など曲のジャンルは広く、「六甲おろし」(阪神タイガースの歌)、「栄冠は君に輝く」(高校野球選手権大会の歌)など、野球の応援歌も数多く手がけました。
 
アマチュア野球の最高峰とも云うべき早慶戦にも、古関氏の残した曲が受け継がれています。昭和初期、慶應野球部は「若き血」や「丘の上」とともに勢いにのり、六大学リーグで10戦全勝優勝を成し遂げるなど、向かうところ敵なしの黄金時代を迎えます。対する早稲田は、苦しい雰囲気をはねのけようと、知人のつてを頼って当時は無名の新人作曲家であった古関氏に新たな応援歌の作曲を依頼。こうして生まれた応援歌「紺碧の空」(1931年)は古関氏最初のヒット曲とも言われています。
(安田注:紺碧の空を作曲した時、古関は22歳。古関より2歳年下の藤山一郎は慶応幼稚舎、普通部を経て東京芸大進んだが、彼が普通部在籍当時、「若き血」が、紺碧の空に先立つこと4年前の1927年に作られた。早慶戦に向けて普通部に在籍中の藤山が大学生の歌唱指導にあたった。藤山は、上級生でも歌えない者に対してはしごいたため、早慶戦が終わった後、上級生に呼び出され、脅され殴られた、という武勇伝が残っている。藤山は音楽以外にもラグビー部にも所属して、普通部3・4年生の時には全国優勝を経験している。なお、ドラマでは藤山役は人気俳優の柿澤勇人が演じている。古関に応援歌作曲を依頼に行った早稲田大学応援部団長役を山口百恵の次男三浦貴大が演じている)。
 
戦争による中断を経て再開した直後、今度は慶應が「紺碧の空」対抗できる応援歌の制作を古関氏に依頼します。古関氏は自分が「紺碧の空」を作った手前躊躇するところもあったのか、早稲田の了解を作曲の条件としたそうです。
 
無事早稲田の了解も得られたことで、慶應の応援歌「我ぞ覇者」(1946年)が制作されました。
 
 野球だけではなく応援歌でも激しく競い合ってきた両校ですが、いの健闘をたたえ合う共通の応援歌も作られました。それが「早慶讃歌—花の早慶戦」(1968年)です。そしてこの曲も、早慶両校の応援歌を作った古関氏が作曲ました。この曲について古関氏は、「昔から早稲田と慶應とは互いにライバルであると同時に、良き友であります。この歌によって、それがなお一層深まることを望んでやみません」と語っています。

緊急事態解除後の行動について   (34 船曳孝彦)

緊急事態宣言が解除されました。これで新型コロナウィルス感染症を克服できたのでしょうか。WHOまでがJapan Miracle などと言ってくれていますが、正しくはAsia Miracle であって、まだまだ多数の感染者、死者の出ている国が多い中、西太平洋地域の各国は死亡率を抑えて峠を越えたようです。

日本のコロナ対策は正しかったのでしょうか。Oxfordからも、甘すぎたと指摘されています。パンデミックという事態を想定しきれず、水際で何とか抑え込めるという作戦で、感染者から二次感染者へと追いかけ、保健所・帰国者センターという関門一つに絞り込んで管理しようとしてきたのです。PCR検査を制限したのもそのためでしょう。感染が峠に差し掛かるようになって、やっと民間からの力でPCR検査を広げる方向に向かいましたが、Faxによる手計算で、官尊民卑のデータ扱いですので、正確な統一データとはなっていません。検査数という分母が分からないまま分子の数だけ発表されていますので、陽性率、死亡率も分からないままです。コロナか否か不明のまま死亡した人が、国家統計の肺炎・インフルエンザ死亡に加わっています(専門的には超過死亡)。

ともあれ、一応緊急事態は終了しました。今後の感染リスクをどのように考えるべきでしょうか。繰り返し発信してきましたように、PCR検査を受けるべくして受けなかった人がゴマンといる訳ですから、手洗い、うがい、3密を避けるなどの注意は当分守った方が良いと思われます。明るいニュースとしては、感染者からの感染力は発症から1週以内でなくなる(ゼロと言い切れないまでも)という報告も出てきました。何時かは感染しなくなるのは分かっていましたが、意外に早く感染者の体内で抗体が出来た(科学的症名はまだですが)と見てもよいかと思います。無症状ないし軽症感染者にも抗体が出来ますので、多くの人(およそ7~8割)が抗体を持った時、医学的には集団免疫と呼ばれる状態となり、ウィルス感染の終息を迎えることとなります。

そこへ第2波、第3波という問題が起こります。ウィルスは非常に突然変異を起こしやすい性格を持っています。新型コロナウィルスは、RNA分析で、すでに2000以上の型に変異していると言われています。大きく分けてアジア西太平洋型、ヨーロッパ型、アメリカ東海岸型、アメリカ西海岸型と四つに変異し、それぞれ感染力、悪性度が異なっており、日本はじめ西太平洋はこれで救われたと見ることもできます。すなわちヨーロッパで感染爆発した時がすでに第2波だったのかもしれません(科学者は誰もそういっていませんが)。通常、感染が収まって暫くしてから再感染ブームが起こるのを第2波と言っており、本疾患は肺炎ですから、秋、冬に襲って来るのではと心配されています。第2波が強い悪性度を持っていないことを祈り、体力をつけて立ち向かいましょう。その時はPCR検査を始め、国の対応が改まっていない限り、国際的な信用も失い、東京オリンピックも消えてしまうでしょう。

さて解除後のわれわれワンダラーの行動ですが、ハイキング、ゴルフ、サイクリングなどは大いにやりましょう。すし詰めの山小屋泊まりはお勧めしません。都県境制限は、私見としてはあまり意味のないことと思います。その他タウン生活は上記のような一般的注意を守って、良識ある行動をしましょう。

ついでながら、元教育者としていうならば、学校は可及的速やかに再開すべきです。高学年生徒はともかく、低学年生にオンライン授業で教育とは言えません。先生と接して初めて教育と言えます。さらに受験生は大変なハンディです。高校野球を始め、体育部の学生は可哀想に、生涯進むべき道すら変わってくる可能性大です。学校での集団感染の報告もないので一斉休校そのものが必要なかったと思いますし、休校によるデメリットが全く議論されていないのも不満です。大急ぎで失われた3か月半を取り戻すべきです。夏休み半減、土曜日授業、不足教員は定年退職者などで補えます。この際にと、9月入学制度への転換も議論されています。2、3月時点での議論なら可能性あったかもしれませんが、ものすごく多方面、膨大な問題点が待っていますので、拙速な判断は避けるべきでしょう。

さあ、爽やかな空気に触れて、元気をとり戻しましょう。

エーガ愛好会 (2) 西部劇だけがエーガじゃないよ!

(小泉)

 金藤泰子様からのメール拝見。ゲイルラッセルについて、インターネットからでしょうか、詳しく紹介いただき有難うございます。拳銃無宿のポスターやらポートレートやら数え切れぬほどあるのですね。拳銃無宿と言えば、スティーヴマックイーンが賞金稼ぎで活躍するTVドラマのこと、映画の方、よくぞ見つけてくれました。それにしても、便利な世の中になったものです(中略)。「昔の映画をビデオで見れば(1990年刊)を今再見しているのですが、発刊当時映画は一回見ればいい、一本勝負の観た映画は生涯忘れないという気持ちから、ビデオの出現がそれを変えた時代だった。今そのビデオもDVDになり、YouTubeになった時代へと変化してきました。映画も封切り後、時間さえ経てば、いつでも見られる時代に変化してきました。 Gisan同様に、過去の映画を推薦するとすれば、何が良いだろう?

あまた数ある中で、英国映画「逢びき」。ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番が全編に溢れるように流れている映画。この映画を推薦したいです。平凡な中流家庭の人妻のつかの間の初めての禁断の恋。不倫の誘惑への葛藤が、この曲とともに進行する。この映画以降、この曲は勿論、ラフマニノフの作品の虜になってしまったのでした。その後マリリンモンローの「七年目の浮気」、ジョーンフォンティーンの「旅愁」、エリザベステイラーの「ラプソディー」や最近の「のだめカンタービレ」等に、この第2番が登場するが、何れもピアニストが演奏しての場面、この映画では人妻の初めて知っただろう心中の激しい葛藤が、この曲と共に展開するのでした。若しご覧になっていたとしても、このコロナの時期ですし、小生もラフマニノフを聴く積りで、観たくなりました。

(金藤)

「逢引き」という映画 題名は聞いた事はありますが 観ていません。“ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番が全編に溢れるように流れている”と言う文章に心惹かれます。 ぜひ、観てみようと思います。
ラフマニノフの曲はフィギュアスケートでもよく使われていますね
他の曲だったと思いますが、パトリック・チャン 安藤美姫等が
ラフマニノフの調べに乗って滑っていたような気がします。

(菅原)貴兄の「西部劇、というだけでそっぽを向く人が多いのもよく知っている。・・・」と言う発言に触発されて、日頃、考えていることを以下に纏めてみた(またもや、小泉先輩にこっぴどくやっつけられることに戦々恐々としている)。

日本人はクソ真面目なことが大好きだ。いや、大好きと言うより、神の如く崇め奉っている。江戸時代の日本人もそうだったのだろうか。でも、落語で代表されるように、そうでなかった可能性が極めて高かったのではないか。何故、クソ真面目になったのかは、明治時代に日本に来たお雇い外国人、特にドイツ人の生き方の影響が多大にあったとのではないかと推測する。勿論、その対象が日本の教養階級であったことは言うまでもない。

今現在、例えば、文学では、直木賞より芥川賞の方が上と見られているし(一平/二太郎が直木賞の受賞者だったように、面白さでは、芥川賞は直木賞の足元にも及ばない。しかし、最近は、直木賞であっても食指をそそられる作品は余りないようだ)、音楽では、中でもオペラでは、「セビリアの理髪師」のG.ロッシーニよりも、「ニーベルンクの指輪」のR.ワググナーの方が上と見られているなど(一方はノー天気であり、もう一方は深遠そのもの)、クソ真面目が上である例は枚挙にいとまがない。

エイガも同じであって、ヨーロッパ、特におフランスのエイガに較べ、西部劇は活動写真と蔑み、一顧だにしない風潮があるのも事実だろう。人生いかに生きるべきか、が主題であるべきであると言う妄想があるからに他ならない(西部劇にも、友情あり、愛情あり、など人生いかに生きるかがちりばめられているかには気づいていないんでしょうね)。

1950年台10年間のキネマ旬報(以下、キネ旬と省略)のベスト10を見ると、初めてベスト10に入った西部劇は1953年7位の「シェイン」であり、あとは1958年1位になった「大いなる西部」のたったの2本に過ぎない(1957年9位の「友情ある説得」は西部劇じゃないと思う)。「黄色いリボン」「赤い河」も全く出てこない。当時のキネ旬が明らかにヨーロッパ、特に、おフランス映画に傾斜していたのは紛れもない事実だ(蛇足だが、左にも大きく傾いていた)。

しかし、良く考えてみると、クソ真面目を崇め奉っている人は、不幸とも言えるだろう。面白い、楽しいことをやせ我慢している面もありそうだからだ。面白いことを面白いと言い、楽しいことを楽しいと言う人生は何と素晴らしいことか!

(小泉) 昨日、KOBUKI(41年卒久米行子)さんから、アマゾンプライスというもので、「旅愁」を懐かしく観て、ラフマニノフの第2番が流れてました・・・のメールを頂戴しました。金藤さんに先日「逢いびき」を推薦いたしましたが、この「旅愁」も推薦したくなりました。ジョーン・フォーンティーンが美しいピアニスト、妻ジェシカ・タンディと息子のいる実業家ジョセフ・コットンが乗り合わせた飛行機が急遽イタリアに降りたっての不倫。こちらはラフマニノフに、セプテンバーソングがからみ、観光も楽しめるという映画でした。

(安田)過去の映画となった旧作を観る基準は、誰でも知っている名画、映画監督作品を辿る、俳優を追うなどでしょうか。

例えば、キャロル・リードの名作「第三の男」の準主役とも云うべきジョセフ・コットンが気になり、彼の出演映画を観ました。「市民ケーン」「疑惑の影」「ガス燈」「ジェニイの肖像」「旅愁」「ナイアガラ」などです。当然、共演のオーソン・ウエルズ、テレサ・ライト、イングリッド・バーグマン、ジェニファー・ジョーンズ、ジョーン・フォンティン、マリリン・モンローの作品にも興味を持ち、彼等彼女等の出演映画を観ることになります。また、演出した監督、例えば、「疑惑の影」のアルフレッド・ヒッチコック、「ガス燈」のジョージ・キューカーの映画を探して観ます。この様に出演俳優、演出の監督作品が絡み合って気が付けば104もの映画を観ていました(編集子注:このリストは長すぎるので残念ながら掲載していない)。

(小泉)安田さん、一つの映画のことから、無数の映画への発展!記憶力とジャンルの知識がなければとても書けないでしょう。

 菅原さん、映画から音楽へ。チェリビダッケのブラームスとは、相当の音楽通です。映画通としては、ブラームスはお好き?「さよならをもう一度」を思い出します。

写真提供:安田

(中司)フランス映画ってのは、望郷、太陽、恐怖、禁じられた遊び、太陽、ジャン・ギャバンやドロンのノワールものもフランス映画なら、あと5-6本見てるかなあ。あまり、見てない、というのが正直なところ。ところで、今、D-day (ノルマンディ上陸)秘話の Double Cross というのを、本当は連休までに読了の予定がまだ半分くらい、200ページまでしか終わってないが読んでる。その中に、ダブルスパイを支援したフランス女優として Simone Simon という名前が出てくる。なんか、関係あるかなあ。

(後藤)シモーヌ・シモンは清純派の女優で戦後の比較的早い時期に日本にも来たことがあります。箱根の温泉旅館で浴室で素っ裸になって(外人は当然ですから)洗い場で小便までやった事から大騒ぎになった話は有名です。シモーヌ・シニョレイほどの大物ではなかったと記憶していますがどの映画に出ていたか覚えていません。

(編集子)妙なエピソードが出てきたところで、今回はこのあたりで。

 

福澤諭吉の脱亜思想と脱亜論 (37 菅谷国雄)

戦後70年、改めてその時代背景を検証する 

この10年ほど地元三田会の仲間に誘われて福沢諭吉の著作を輪読する読書会に誘われ、70~80歳の手習いを続けております。

その間、仲間におだてられ50人程の三田会員を集めて講演会をやりましたが、その時の演題が偶々先日NHKで放映された「福澤センセイのすすめ」のテーマに近いものでした。講演時から少し時間が経ちましたが、コロナ禍でご自宅に居られるお時間の暇つぶしに、当時の原稿をお送り致しますので、諸兄妹のご意見ご叱責を賜れば幸甚に存じます。

はじめに 

Ⅰ 初期福澤のアジア認識

文明論之概略から時事小言まで 

Ⅱ 時事新報発刊から「脱亜論」まで 

Ⅲ 脱亜論の要約 

Ⅳ 何が「脱亜論」を有名にしたか 

むすび 

主たる参考文献 

福澤諭吉著作集 慶應義塾大学出版会

福澤諭吉のアジア  青木功一    

福澤諭吉辞典  慶應義塾150年史資料集

福澤諭吉と朝鮮問題 月脚達彦        

福翁自伝      富田正文校訂  

未来を拓く福澤諭吉展(2009年) 

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始めに

20数年前、識者は21世紀はイデオロギーの対立が激化し混沌の時代を迎えると占ったが、その予想は不幸にも的を射たものになってしまった。世界中がウイルスの恐怖と隣り合わせに生きている今日でも、事態は一層深刻となっている。かって民主主義の本家を自任していた英国は自国主義に転じ、不動産屋を大統領に選んでしまった米国の影響力は低下、習近平の野望は世界中に拡がり止まるところを知らない。経済が停滞し、ささくれ立った国内の不満を解消するために、ナショナリズムを呼びさまして、目を外に転じる手法は国内人気からは、やはり効果的だ。世界中至るところで内なる勢力に突き上げられ、グローバリズムとナショナリズムが火花を散らしている。ナショナリズムが全て悪いわけではない。自分の国が誇りを持てるように、頑張ったり他国を凌ごうと競い合ったりすることは健全なものだとも言えよう。

歴史を振り返ってみれば、やはり国家の危機の時にナショナリズムは表に表れてくる。幕末から明治にかけて西欧列強の圧力をしのぎ、日清・日露に向かった時代。それに続く昭和初期の大陸進出へ向かうウルトラ・ナショナリズムに突き進んだ時代。明治維新から一世紀半が過ぎた。

幕末から明治にかけて、我国の文明開化を先導した福澤諭吉には市民的自由主義者と大陸への侵略を肯定した侵略的思想家との二つの福澤像がある。

蔓延するナショナリズムが危うい方向に行きかねない今日、福澤諭吉が自分が生きた激動の時代に何を語りかけようとしていたのか、改めて見つめ直してみる価値があろう。

時事新報紙面

 

Ⅰ初期福澤のアジア認識 

*少年時代、中津で蘭学を学んだ福澤が長崎に出たのが1854年(嘉永7年)、翌年には大阪に行って緒方洪庵の適塾に入門する。そもそも適塾は蘭方医の塾で「支那流は一切打ち払うということが何処となく定まっていた」(福翁自伝)と云う様子で、洋学者福澤がそのスタート時点から支那に対する対抗意識を持っていたことが窺える。

*1858年、江戸に出た福澤はオランダ語が役に立たないことに衝撃を受け英語に転ずる事となった。1860年(安政7年)、咸臨丸に乗ってサンフランシスコへ、1862年(文久2年)には幕府のヨーロッパ派遣使節の随員となり、1867年(慶応3年)には再び渡米して東海岸まで行くという三度の西洋経験をしている。

ヨーロッパ行では、香港とシンガポールに立ち寄り、「亜細亜・西洋の複合経験」をしている。

この複合経験のなかで、福澤が強烈に印象に残ったのは、イギリス人人のアジア人に対する「圧制」であった。後に「時事新報」1882年(明治15年)3月の社説でも当時を振り返り「記者は固より他国の事なれば深く支那人を憐れむに非らず、亦英人を憎むにも非らず、唯慨然として英国人の圧制を羨むの外なし。彼の輩が東洋諸国を横行するは無人の里に在るがごとし」。又、福澤の世界情勢に関する最初の論説(1865年:唐人往来)では香港を奪われた中国に対しては「智恵無し」「理不尽」「不調法」と手厳しい。

このように初期の福澤は支那を強く意識していたが朝鮮については殆んど言及していない。1869年(明治2年)刊行の地理書「世界国尽」の末尾に露西亜の記述があり、「北を守りて南を攻め「支那」の満州も半ば「露西亜」に併せられ朝鮮国の境までの勢い、(中略)この行末の有様は知者の目にも難からん」とロシアの東に位置してその侵略に脅かされる国として描かれているだけだ。

*1875年(明治8年)の「文明論の概略・第十章・自国の独立を論ず」の中で、「今我邦の有様を見れば決して無事の日に非ず。按ずるにこの困難事は近来俄かに生じたる病にて、我が国命貴要の部を犯し、之を除かんとして除く可ならず、到底我が国従来の生力を以て抵抗す可らざるものならん。識者はこの病を指して何と名のるや。余輩は之を外国交際と名のるなり」以下福澤はインド等の例を挙げ「欧人の触る処にて、本国の権議と利益とを全うして真の独立を保つものありや」と深慮慨嘆している。

*更に1878年(明治11年)の「通俗国権論」では「鎖国」も「開国」もそれぞれの「国風」は「一国の権」であり、外国の干渉しえないものである、更に続けて「今の禽獣世界に処して最後に訴える可き道は必死の獣力あるのみ、道二つ、殺すと殺されるのみ」と絶望的な表現をしている。

*(明治14年)に刊行された「時事小言」では一層明らかにされた。

論題「国権のこと」では、我が国兵備の実情をヨーロッパ諸国と比較し「今我が国の陸軍海軍は、我が国権を維持するに足るべきものか、我輩これを信ぜず・・・いやしくも今の世界の大劇場に立ち西洋諸国の人民と鋒を争わんとするには、兵馬の力を後にしてまた何者かに依頼すべきや、武を先にして文は後なりと云わざるを得ず」と強調している。(資料参照)

この時期のこうした福澤の過激な思想を捉え、後世一部の学者が「脱亜論」への助走と結びつけて、論争を呼び起こす火種となった。 

Ⅱ時事新報発刊から「脱亜論」まで 

福澤は、1880年(明治13年)新たに発行される政府広報誌の編集者への就任を強く要請され、その準備を進めていたが、明治14年、参議大隈重信の失脚の政変により立ち消えとなった。翌1882年(明治15年3月)この政府広報誌の発行計画の為に準備していた資材や人材を投入して、時事新報は創刊された。創刊号の社説「本紙発兌の趣旨」では、あらゆる党派や利害から離れ「不羈独立」の立場から発言することを宣言し、以後官民調和を基調とし、平易な文体で記された社説は、福澤後半生の言論の舞台となった。

この間、福澤のアジア観が一変する変乱が朝鮮で相次いで起こっている。従ってこの発刊の年から明治18年の「脱亜論」の論説までの4年間は、朝鮮・支那の動乱事変に関する社説は、長短取り交ぜて90篇近い数に上る。

*1882年(明治15年)連載された論説「兵論」は単行本として纏められたが「通俗国権論」や「時事小言」からの引用も少なからず、兵力・艦船の拡充・充実とそのために必要となる増税を提案した論説である。この中で「時事小言」の西洋列強との国力比較に加え新たに清国の兵力とその規模を明らかにして我国軍備の必要を強調している。

*一方、朝鮮に対してはこの時点では開明派への期待を捨てていない。1883年(明治16年)1月に連載された「牛場卓造君朝鮮に行く」では「武」から一転して「文」への分野に新たな企画が試みられ、「隣国の固陋なる者、之を誘因するに」新聞事業を推進する為に牛場が選ばれた。しかしながら朝鮮政府における守旧派の勢力により、この「文」によるアプローチは受け入れられず、早々に帰国することになった。新聞発行のほかに福澤が勧めたのが留学生の日本派遣であった。16年の半ばには30余名の留学生徒を三田の寄宿舎に受け入れ、「政治学の初歩」を教え「独立自主の意義」を会得させようとした。この年の6月、朝鮮の資金援助・借り入れ交渉に日本にやってきた金玉均をバックアップする為、朝鮮への直接投資や民間貸付をすすめる論説を時事新報に掲載したが、清との摩擦を避けた日本政府の消極策により交渉は成功せず、朝鮮は清国主導の悪貨鋳造とインフレをもたらすことになる。こうして朝鮮は開明を目指す独立党の内政における立場は弱体化し、事大党が勢いを増すこととなる。

*独立党のクーデターが決行されたのは17年12月4日の事であった。所謂甲申事変である。一旦は王と王妃を擁しクーデターは成功したかに見えたが、12月6日には袁世凱率いる清国軍に防戦一方となり、僅かな日本部隊とともに日本領事館に辿りつき、逃げのがれる事となる。

*1886年(明治18年)、この年の初め2ヶ月半のアジア関連の社説20篇は大半が清国との朝鮮に係る、前後処理に関するものである。ところが論調転換の節目がやってくる。即ち2月23日の「朝鮮独立党の処刑」である。

「野蛮の惨状、父母妻子にいたるまで惨殺され、この地獄図の当局者は誰ぞと尋ねるに、事大党の官吏にて、その後見の実力を有する者は即ち支那人なり」とその残酷さを攻撃し、三月に入ると「曲彼にあり直我にあり」「国交際の主義は修身論に異なり」と激しい論説が続き「脱亜論」に至るのである。 

Ⅲ「脱亜論」の要約   別紙 

Ⅳ 何が「脱亜論」を有名にしたか 

*「脱亜論」は1925年(大正14年)「時事新報社・15000号記念として福沢諭吉全集」に初めて掲載された。全ての単行本に加え時事新報社説223編・漫言98編が収録されている。次いで「続福澤全集」が完成したのは1934年(昭和9年)石河幹明が富田正文を助手としてその任に当たり「時事新報」を総点検したと言われている。記事の選別は石河の責において行われ、背後に大陸進出への時代が影を落としていたのか、既に新聞社を引退して75歳の老境にあった石河幹明の意図を知る由もない。ただ戦中・戦後、多くの学者の「福澤研究」はこの全集を基に展開する事となる。

*第2次世界大戦後10年間の「福澤研究」は丸山真男によって提示された。彼の福澤像は精神において、主体的な独立を目差し、社会に対しては多元的な自由を尊重した市民的自由主義者として評価した。その反論として朝鮮の領有と中国分割を積極的に唱えた侵略的思想家としての福澤像を主張した遠山茂樹・服部之総との論争が展開された。遠山は1951年(昭和26年)の「福澤研究・日清戦争と福澤諭吉」のなかで福澤の対朝鮮、対中国感を取り上げ、アジアを脱し、アジアの隣邦を犠牲にすることによって、西洋列強に伍する日本のナショナリズムを広めた侵略的思想家と捉えている。

*しかし「脱亜論」はそのような侵略を賛美する為に書かれたのだろうか。

時事新報の社説として掲載された福澤の思想が、その時代背景とともに、詳細に検証されたであろうか。遠山は、敗戦による一億総懺悔の時代の中で、「脱亜論」が突然現れたものでなく、政府の方針に先んじて、彼のアジア政策論を「日清戦争義戦論」の準備とさえ位置づけたのである。

*一方丸山真男は、それ以降長く「脱亜論」に言及することはなかった。

1990年日本学士院で「福澤諭吉の脱亜論とその周辺」と題する「論文報告」のなかで「脱亜論者の福澤のイメージは戦後に登場したことである。福澤は朝鮮・開化派が天下を取っているときは、非常に積極的な見解を示し、事大党が天下を取っているときは、非常にぺシミスチックになる。「時事新報」への執筆がいつの時代に書かれたのかその時代背景を見ないで、侵略とか侵略でないかとかいうことは、歴史的事実として必ずしも正確じゃなくなると思うのです」と福澤の侵略思想に偏って言及する研究動向を、批判している。 

*21世紀を迎えてもなおこの論争は続いている。

遠山の流れをくむ安川寿之輔などは、某新聞に「一万札から福澤の写真の退出を願う」などとコラムに掲載し、なにかにつけて「アジア蔑視を広めた思想家」の論陣を主張している。無論多くの福澤研究者によって反論も繰り返されているが、生誕180年、没後115年を過ぎて、なお福澤研究への終わりはない。 

 

むすび 

昭和の文明評論家・小林秀雄は「考えるヒント」の中で福沢諭吉の豪さは、啓蒙の困難さを熟知し「世俗と共に文明の境地に到達せんことに本願を置き、平易な文章を心掛けたが、その行文は平易でも内なる思想は平易でない」と喝破している。

今回、少し範囲を拡げて「脱亜論」の脱稿に至るまでの著作を読んできたが、著者の深遠なる思想を読み取ることが出来たのか、浅学菲才のわが身を顧みて忸怩たる思いがある。

本論における私の結論は、以下の様なものである。

江戸から明治へ云う時代を生きた福澤の時代認識、即ち①欧米列強によるアジア進出・野心②支那・朝鮮の固陋と混迷③日本の総体的国力の脆弱さへの危惧、これらを総合して「脱亜論」を記し、国民や政府に警鐘を鳴らしたものと考える。1901年、明治34年に亡くなった福澤は、日露戦争やその後の軍部独走によるネオ・ナショナリズムには関知する余地もなかった。

今また、世界中にナショナリズムが声高に叫ばれる中で、我が国民も周囲やマスコミに流されることなく、福澤が繰り返し説いた、国民の智徳の向上があってはじめて、国の独立が成されるという、「一身独立して一国独立する」の言葉の意味をよくよく「君自身で考えなさい」と云われている様な気がする。

 2015年の講演原稿を2020年5月25日:加筆修正

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脱亜論 要約

〇交通の利器を利用して西洋文明が東漸し、世界中到る所で文明化が始まっている

〇文明は麻疹の様なもので、防ぐ方法はない。 知識人は国民に早くその気風が広がるように努めるべきだ

〇日本では開国を機に文明化が始まり、旧い政府が 倒れ、新政府の下で独立し「脱亜」という新たな機軸を打ち出した

〇不幸なことに近隣の支那・朝鮮は古風旧慣を断ち切れず自省の念もない

〇この二国はとても独立を維持する方法がない。西洋の植民地となり国が分割される

〇隣国は助け合うべきだが西洋人が見れば日支韓は地理が隣接しているため同一視されることは、我が日本の一大不幸である

〇今の日本には隣国の文明開化を待っている猶予はない。 西洋人が接するように、心において悪友を謝絶するしかない

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資料3:我日本と西洋との兵備の比較(明治14年、時事小言より)

兵備の事に就き、我日本と西洋2・3の国とその比例を示さんために、各国の人口、歳入、海陸軍、及びその歳費は左の如し。この数は1880年出版の原書によるものなり。

人口   歳入  陸軍人  陸軍費  軍艦   海軍費

(百万人) (百万円) (万人) (百万円)(艘)  (百万円)

仏蘭西:37  559  50  110 498  42

日耳曼:43  135  42   80  88  60

英吉利:32  416  13   88 236  59

露西亜:86  419  76  129 223  19

伊太里:27  285  20   41  86   9

荷蘭 : 3   48   6    8  85   5

日本: 36   59   7    8  29   3

封建の時代には、四十万人の士族・軍人を養い、その武器を貯え、巨額の軍費を人民が供して之に堪えて来たが、今日はこれを失い、資力に乏しいことが明らかである。兵備を改良するか否かは人民の資力如何を謀るべきもので、国を護る熱意が糺されている。

 

 

 

          

 

 

Double Cross について   (44 安田耕太郎)

昔から狩猟民族にとっては、当然ながら獲物や敵についての情報が, 生死を決めかねない最も重要な鍵を握る。いわば扇の要だ。農耕民族である我が日本は、さて情報の重要性を充分に認識し、且つ運用しているであろうか?その昔、太平洋戦争で山本五十六がブーゲンビリア島で撃墜されたのもアメリカに暗号を解読されていたのが大きな理由。映画にもなった2013年の元CIA職員エドワード・スノーデン事件は、アメリカ政府による個人情報監視の実態を暴いた。ロシアへ亡命した元CIA職員エドワード・スノーデンの実話をイギリスのガーディアン誌が報じたスクープにより、アメリカ政府が秘密裏に構築した国際的監視プログラムの存在が発覚した。世界の政界著名人の電話盗聴などに驚愕させられた。情報は昔も、現在も、更に将来もその致命的重要性が減じるどころが増し続けていくのは確実であろう。
その昔ヒトラーが第一次大戦の戦場で伝令兵として奮闘し、下級兵士では通常もらえぬ一級鉄十字勲章をもらい誇らしげに掲げているを不思議に思ったことがある。イギリス映画「1917 命をかけた伝令」はまさにその伝令兵の活躍と情報の重要性を描いたもので、映画を観てヒトラーの勲章受賞が納得できた。題名通り、時は1917年、舞台は第一次世界大戦中の激戦地西部戦線。膠着状態の戦線でドイツ軍がわざと撤退して連合軍側をおびき寄せ一挙にせん滅する作戦を実行に移すところで、連合軍もその意図を察知。しかし、前線の部隊へは電話線を切られ無線も使えず連絡する手立ては兵士を走らせて伝える以外に方法はない。その決死のミッションを与えられた若き二人のイギリス兵士の一日を描くドラマです。100年前の戦争の戦場がどんな具合だったのか、塹壕での生活の厳しさと危険性などが良く理解できる、情報の重要性を再認識させられる実話に基づく映画であった。

Double Crossについて (普通部時代友人 菅原勲)

524日のブログ、拝見。「ダブル・クロス」は読んでいないが、スパイと聞いて真っ先に名前が出て来るのがキム・フィルビー、そして、ケンブリッジ五人組(詳細はWikipedia参照)。小生、いまだに、ケンブリッジにごまんと学生がいたにもかかわらず、何故、この5人に限って、祖国の英国を裏切り、最後はソ連に亡命までしたのか(小生、見ていないが、「裏切りのサーカス」の題名で映画化された)。フィルビーに至っては、ソ連で国葬までされた(利用価値が極めて高かったのは事実らしい)。ジョン・ル・カレ(スマイリー三部作)、グレアム・グリーン(ヒューマン・ファクター)などの本を読んでも、依然として、何故かは分からない。結局、「人間、この未知なるもの」か。

(ハロルド・エイドリアン・ラッセル・「キム」・フィルビーは、イギリス秘密情報部職員でソビエト連邦情報機関の協力者。 イギリスの上流階級出身者から成るソ連のスパイ網「ケンブリッジ・ファイヴ」の一人でその中心人物。MI6の長官候補にも擬せられたが、二重スパイであることが発覚しソ連に亡命)

(中司)この原文に、奇妙なことにフィルビーの名前が散見される。この当時はとにかくドイツが相手で、ソ連との話はまだ先だ(すでにドイツ側にはこの時期に英国と休戦して、共同して共産主義を防ごうという機運があったようだ)という感じだったんじゃないかという気もする。フィルビーもご指摘の連中も、ダブルクロスに利用された連中とは動機がもっと思想的なものだったのではないか。日本でも戦後のどさくさに紛れて左翼が急上昇したよね。

ま、ご指摘の通り、人間、わからんね。

Double Cross という本の衝撃

 

”史上最大の作戦” タイトル

 

4年前、スコットランド旅行をした時、エディンバラの本屋で何冊か第二次世界大戦関連の本を買った。2冊は早々と読んでしまったがこの1冊だけ何となく手付かずでほうってあった。”自粛” 体制の間に読んだ1冊である。

欧州戦線でヒトラーは欧州を席巻し、最後に英国本土攻略に取り掛かったものの英国空軍戦闘機に阻まれてドーバー海峡を越すことができなかった。歴史に名高いバトル・オブ・ブリテン (映画は 空軍大戦略 となっている)である。この失敗の結果ドイツ側は守勢に立たされ、今度は連合軍が反対側からドーバーを越えて1944年6月6日、南仏ノルマンディに上陸する。反攻必至とみたドイツ側はアフリカ戦線の名将ロンメルのもとで、強固な防御ラインを敷いて 大西洋の壁、と号し、ロンメルはその堅固さを誇って、反抗してくる連合軍はここで一番長い日を迎えるだろう、と断言する。映画 史上最大の作戦(The Longest Day)作戦 はこのノルマンディ上陸作戦を描いたものだが、その初めの部分でジェイムズ・メイスン扮するロンメルがこの有名なせりふを語ることになる。この上陸場所がどこになるか、は連合軍側にとっては最高の機密であり、逆にドイツ側は一刻も早くその場所を特定したかった。ここで英国側は緻密な情報戦をしかけ上陸地点についてありとあらゆる偽情報をばらまく。結果、ヒトラーは連合軍の反攻が北フランスのカレーかあるいはノルウエイであり、ノルマンディ後も英国にはまだ大部隊が残っていて第二波がかならずくる、と信じ込んでしまったため、連合軍は計画通り、ノルマンディに上陸を果たし、以後のヨーロッパ解放戦が始まる。この情報戦の内幕を史実に基づいて書いたのがこの本である。

このアイデア、つまり虚偽情報をばらまいてヒトラーに上陸場所を誤認させ、ノルマンディの防御を手薄にする、という計画は英国情報部 (MI5 とか 6とか、いろいろあったらしい)が思いついた。そのツールとして英国プロパーのスパイではなく、欧州全土に散らばっている各国のスパイを抱き込み、またドイツが英国に送り込んでくる情報部員をとらえて寝返らせて使う、ということが裏切り=ダブルクロス、という標題になっている。このことだけでも、このような大規模の欺瞞作戦は、つまるとことろ欧州だから可能だったのだな、ということがわかる。

著者は本の最終章で、The Double Cross double agents spied for adventure and gain, out of patriotism, greed and personal gain  と、この作戦に加わったスパイの多くが決して愛国心に燃えた快男児でもなければ孤高の英雄でもなく、極端に言えば金と快楽とを引き換えに謀略行為を働いた人間だったと述べている(中には真に忠実だった一人がドイツにとらえられ、ゲシュタポの手にかかるが頑として沈黙を守り、収容所から脱出したという、まさに映画的な話が載っているが、その本人は脱出後、消息不明のまま。ただ、このダブルクロスによって得た巨額の金を各国に預金していたので、たぶん,悠々と余生を生きたのだろうという結論になっている)。ほかにも何人かの例が詳細に記されているが、英独両方から多額の金を受け取り、当時の欧州社会での上流階級の豪奢な生活を約束させ、あるものは国際的プレイボーイとして次々と情婦を取り換えていく。女スパイのひとりはスペインから英国に入国するとき、可愛がっていた子犬を連れてこられなかった(当時英国には犬を入国させないという妙な法律があったらしい)ことを最後まで恨み、土壇場でドイツ情報部に情報を打電*したとき、(これは嘘)というコードを送信してしまう、つまり激情のあまりトリプルスパイになったことも書かれている。このような個人本位のふるまいは英国、ドイツ、フランス、など欧州の先進国が言語こそ違え、物質的生活水準や階級意識は共通のものだったからこそ可能だったのではないか。同じような作戦を日本が中国との軋轢の間でやろうとしても、ましてや欧米との間では到底不可能であっただろう。一定の文化的・歴史的・人種的同一性のもとで戦われた欧州戦線と、三国協定によって中国戦線を対欧米諸国に拡大せざるを得なかった日本の戦争がそのプロセスにおいて、戦後の処理において、大きく違ったのは歴史の必然だったのだろう。このことはドイツの戦後処理(贖罪行為)がなぜ日本と違うのか、という(ここでまた、例の -だから日本はだめなんだー 自虐趣味が出てくるのだが)議論の中核をなすのではないか、と考える。

もう一つ、衝撃的な史実が書かれていて、心底驚いたことがある。

日本を無謀な世界戦争に引きずり込んだのが軍部の一部の人間の策謀であったことは事実であるが、その大きなきっかけがナチスドイツを過信し、日独伊三国協定にふみきったことだったといわれている。その動きを推進したのが当時の外相松岡洋右と駐ドイツ特命全権大使だった大島浩(のち陸軍中将)であるが、大島が滞在中ヒトラーに直接会って情報交換をしていたのは当然で、その内容は秘密電報で外務省に報告されていた。この本が明らかにしたのは、実はこの大島大使の秘密電報はすべて英国情報部に解読されていて、ヒトラーの動きを推測するのに大きな貢献をした、ということだ。日独の協力のため、努力したつもりが実はドイツ崩壊の手助けになっていたとは、これ以上考えられないほどの歴史の皮肉であろうか。

かなり分厚い本で、正直読了まで勇気が要ったが、その価値は大きかった。コロナもまあ、いいこともやるなあ。

*当時はインタネットもファクスもないわけで、スパイはすべて個人で小型送信機を持ち、モールス信号を打っていた。この例では、文面のある部分にダッシュ記号をいれることが偽、という取り決めにしてあったという。つまり英国ではダブルスパイと思っていたが実はもう一皮あったということだろう。

 

”とりこにい” 抄 (8) 白馬回帰

高校1年の時、初めて山登りを経験したのが白馬。栂池から大池経由の旅だったが、その翌年、後立山縦走を目指したときが白馬2度目の登頂。KWVに入ってからはほかの山をあさっていたので、3回目に回帰したのは3年の6月、大嵐の日だった。残念なことにすでに鬼籍に入ってしまった村井純一郎や金沢央などとのことがあらためて思い出される。

OBになってからこの時にも一緒だった菅谷国雄などとともに4度目の山頂を踏んだ。その時にもまずい詩のようなものを書いたのだが、残念だが原文がみつからない。メンバーの何人にかはメールした記憶があるのだが(もしどなたかのファイルに残っていればお送りいただけるとありがたい)。いずれにせよ、白馬ー ”ハクバ” なぞでなく、”シロウマ” ー は山歩きの原点としてぼくの心の中にひっそりと座り続けている。

 

白馬にて

 

白馬岳。

厚くよせるガスの波

払いのけ、払いのけ、じっと俺を見つめている

白馬岳。

お前はもう一度、俺にささやく。

はるかな夢、遠い幻 。

 過ぎしかた 越えきしかた

そして今 帰りきたったこの頂。

頂に立てば むら雲、くろ雲、雨、そして風。

歓喜のあらしのなかの その一時のしじまのうちに

お前は唄うというのか 

訪ね歩み 求めつづけた 俺のこの唄を ?

促されてトレイルを下ればお前は早くもガスのむこうにかくれ

俺はただ

前だけを見て歩き続ける。