戦後70年、改めてその時代背景を検証する
この10年ほど地元三田会の仲間に誘われて福沢諭吉の著作を輪読する読書会に誘われ、70~80歳の手習いを続けております。
その間、仲間におだてられ50人程の三田会員を集めて講演会をやりましたが、その時の演題が偶々先日NHKで放映された「福澤センセイのすすめ」のテーマに近いものでした。講演時から少し時間が経ちましたが、コロナ禍でご自宅に居られるお時間の暇つぶしに、当時の原稿をお送り致しますので、諸兄妹のご意見ご叱責を賜れば幸甚に存じます。
はじめに
Ⅰ 初期福澤のアジア認識
文明論之概略から時事小言まで
Ⅱ 時事新報発刊から「脱亜論」まで
Ⅲ 脱亜論の要約
Ⅳ 何が「脱亜論」を有名にしたか
むすび
主たる参考文献
福澤諭吉著作集 慶應義塾大学出版会
福澤諭吉のアジア 青木功一
福澤諭吉辞典 慶應義塾150年史資料集
福澤諭吉と朝鮮問題 月脚達彦
福翁自伝 富田正文校訂
未来を拓く福澤諭吉展(2009年)
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始めに
20数年前、識者は21世紀はイデオロギーの対立が激化し混沌の時代を迎えると占ったが、その予想は不幸にも的を射たものになってしまった。世界中がウイルスの恐怖と隣り合わせに生きている今日でも、事態は一層深刻となっている。かって民主主義の本家を自任していた英国は自国主義に転じ、不動産屋を大統領に選んでしまった米国の影響力は低下、習近平の野望は世界中に拡がり止まるところを知らない。経済が停滞し、ささくれ立った国内の不満を解消するために、ナショナリズムを呼びさまして、目を外に転じる手法は国内人気からは、やはり効果的だ。世界中至るところで内なる勢力に突き上げられ、グローバリズムとナショナリズムが火花を散らしている。ナショナリズムが全て悪いわけではない。自分の国が誇りを持てるように、頑張ったり他国を凌ごうと競い合ったりすることは健全なものだとも言えよう。
歴史を振り返ってみれば、やはり国家の危機の時にナショナリズムは表に表れてくる。幕末から明治にかけて西欧列強の圧力をしのぎ、日清・日露に向かった時代。それに続く昭和初期の大陸進出へ向かうウルトラ・ナショナリズムに突き進んだ時代。明治維新から一世紀半が過ぎた。
幕末から明治にかけて、我国の文明開化を先導した福澤諭吉には市民的自由主義者と大陸への侵略を肯定した侵略的思想家との二つの福澤像がある。
蔓延するナショナリズムが危うい方向に行きかねない今日、福澤諭吉が自分が生きた激動の時代に何を語りかけようとしていたのか、改めて見つめ直してみる価値があろう。
Ⅰ初期福澤のアジア認識
*少年時代、中津で蘭学を学んだ福澤が長崎に出たのが1854年(嘉永7年)、翌年には大阪に行って緒方洪庵の適塾に入門する。そもそも適塾は蘭方医の塾で「支那流は一切打ち払うということが何処となく定まっていた」(福翁自伝)と云う様子で、洋学者福澤がそのスタート時点から支那に対する対抗意識を持っていたことが窺える。
*1858年、江戸に出た福澤はオランダ語が役に立たないことに衝撃を受け英語に転ずる事となった。1860年(安政7年)、咸臨丸に乗ってサンフランシスコへ、1862年(文久2年)には幕府のヨーロッパ派遣使節の随員となり、1867年(慶応3年)には再び渡米して東海岸まで行くという三度の西洋経験をしている。
ヨーロッパ行では、香港とシンガポールに立ち寄り、「亜細亜・西洋の複合経験」をしている。
この複合経験のなかで、福澤が強烈に印象に残ったのは、イギリス人人のアジア人に対する「圧制」であった。後に「時事新報」1882年(明治15年)3月の社説でも当時を振り返り「記者は固より他国の事なれば深く支那人を憐れむに非らず、亦英人を憎むにも非らず、唯慨然として英国人の圧制を羨むの外なし。彼の輩が東洋諸国を横行するは無人の里に在るがごとし」。又、福澤の世界情勢に関する最初の論説(1865年:唐人往来)では香港を奪われた中国に対しては「智恵無し」「理不尽」「不調法」と手厳しい。
このように初期の福澤は支那を強く意識していたが朝鮮については殆んど言及していない。1869年(明治2年)刊行の地理書「世界国尽」の末尾に露西亜の記述があり、「北を守りて南を攻め「支那」の満州も半ば「露西亜」に併せられ朝鮮国の境までの勢い、(中略)この行末の有様は知者の目にも難からん」とロシアの東に位置してその侵略に脅かされる国として描かれているだけだ。
*1875年(明治8年)の「文明論の概略・第十章・自国の独立を論ず」の中で、「今我邦の有様を見れば決して無事の日に非ず。按ずるにこの困難事は近来俄かに生じたる病にて、我が国命貴要の部を犯し、之を除かんとして除く可ならず、到底我が国従来の生力を以て抵抗す可らざるものならん。識者はこの病を指して何と名のるや。余輩は之を外国交際と名のるなり」以下福澤はインド等の例を挙げ「欧人の触る処にて、本国の権議と利益とを全うして真の独立を保つものありや」と深慮慨嘆している。
*更に1878年(明治11年)の「通俗国権論」では「鎖国」も「開国」もそれぞれの「国風」は「一国の権」であり、外国の干渉しえないものである、更に続けて「今の禽獣世界に処して最後に訴える可き道は必死の獣力あるのみ、道二つ、殺すと殺されるのみ」と絶望的な表現をしている。
*(明治14年)に刊行された「時事小言」では一層明らかにされた。
論題「国権のこと」では、我が国兵備の実情をヨーロッパ諸国と比較し「今我が国の陸軍海軍は、我が国権を維持するに足るべきものか、我輩これを信ぜず・・・いやしくも今の世界の大劇場に立ち西洋諸国の人民と鋒を争わんとするには、兵馬の力を後にしてまた何者かに依頼すべきや、武を先にして文は後なりと云わざるを得ず」と強調している。(資料参照)
この時期のこうした福澤の過激な思想を捉え、後世一部の学者が「脱亜論」への助走と結びつけて、論争を呼び起こす火種となった。
Ⅱ時事新報発刊から「脱亜論」まで
福澤は、1880年(明治13年)新たに発行される政府広報誌の編集者への就任を強く要請され、その準備を進めていたが、明治14年、参議大隈重信の失脚の政変により立ち消えとなった。翌1882年(明治15年3月)この政府広報誌の発行計画の為に準備していた資材や人材を投入して、時事新報は創刊された。創刊号の社説「本紙発兌の趣旨」では、あらゆる党派や利害から離れ「不羈独立」の立場から発言することを宣言し、以後官民調和を基調とし、平易な文体で記された社説は、福澤後半生の言論の舞台となった。
この間、福澤のアジア観が一変する変乱が朝鮮で相次いで起こっている。従ってこの発刊の年から明治18年の「脱亜論」の論説までの4年間は、朝鮮・支那の動乱事変に関する社説は、長短取り交ぜて90篇近い数に上る。
*1882年(明治15年)連載された論説「兵論」は単行本として纏められたが「通俗国権論」や「時事小言」からの引用も少なからず、兵力・艦船の拡充・充実とそのために必要となる増税を提案した論説である。この中で「時事小言」の西洋列強との国力比較に加え新たに清国の兵力とその規模を明らかにして我国軍備の必要を強調している。
*一方、朝鮮に対してはこの時点では開明派への期待を捨てていない。1883年(明治16年)1月に連載された「牛場卓造君朝鮮に行く」では「武」から一転して「文」への分野に新たな企画が試みられ、「隣国の固陋なる者、之を誘因するに」新聞事業を推進する為に牛場が選ばれた。しかしながら朝鮮政府における守旧派の勢力により、この「文」によるアプローチは受け入れられず、早々に帰国することになった。新聞発行のほかに福澤が勧めたのが留学生の日本派遣であった。16年の半ばには30余名の留学生徒を三田の寄宿舎に受け入れ、「政治学の初歩」を教え「独立自主の意義」を会得させようとした。この年の6月、朝鮮の資金援助・借り入れ交渉に日本にやってきた金玉均をバックアップする為、朝鮮への直接投資や民間貸付をすすめる論説を時事新報に掲載したが、清との摩擦を避けた日本政府の消極策により交渉は成功せず、朝鮮は清国主導の悪貨鋳造とインフレをもたらすことになる。こうして朝鮮は開明を目指す独立党の内政における立場は弱体化し、事大党が勢いを増すこととなる。
*独立党のクーデターが決行されたのは17年12月4日の事であった。所謂甲申事変である。一旦は王と王妃を擁しクーデターは成功したかに見えたが、12月6日には袁世凱率いる清国軍に防戦一方となり、僅かな日本部隊とともに日本領事館に辿りつき、逃げのがれる事となる。
*1886年(明治18年)、この年の初め2ヶ月半のアジア関連の社説20篇は大半が清国との朝鮮に係る、前後処理に関するものである。ところが論調転換の節目がやってくる。即ち2月23日の「朝鮮独立党の処刑」である。
「野蛮の惨状、父母妻子にいたるまで惨殺され、この地獄図の当局者は誰ぞと尋ねるに、事大党の官吏にて、その後見の実力を有する者は即ち支那人なり」とその残酷さを攻撃し、三月に入ると「曲彼にあり直我にあり」「国交際の主義は修身論に異なり」と激しい論説が続き「脱亜論」に至るのである。
Ⅲ「脱亜論」の要約 別紙
Ⅳ 何が「脱亜論」を有名にしたか
*「脱亜論」は1925年(大正14年)「時事新報社・15000号記念として福沢諭吉全集」に初めて掲載された。全ての単行本に加え時事新報社説223編・漫言98編が収録されている。次いで「続福澤全集」が完成したのは1934年(昭和9年)石河幹明が富田正文を助手としてその任に当たり「時事新報」を総点検したと言われている。記事の選別は石河の責において行われ、背後に大陸進出への時代が影を落としていたのか、既に新聞社を引退して75歳の老境にあった石河幹明の意図を知る由もない。ただ戦中・戦後、多くの学者の「福澤研究」はこの全集を基に展開する事となる。
*第2次世界大戦後10年間の「福澤研究」は丸山真男によって提示された。彼の福澤像は精神において、主体的な独立を目差し、社会に対しては多元的な自由を尊重した市民的自由主義者として評価した。その反論として朝鮮の領有と中国分割を積極的に唱えた侵略的思想家としての福澤像を主張した遠山茂樹・服部之総との論争が展開された。遠山は1951年(昭和26年)の「福澤研究・日清戦争と福澤諭吉」のなかで福澤の対朝鮮、対中国感を取り上げ、アジアを脱し、アジアの隣邦を犠牲にすることによって、西洋列強に伍する日本のナショナリズムを広めた侵略的思想家と捉えている。
*しかし「脱亜論」はそのような侵略を賛美する為に書かれたのだろうか。
時事新報の社説として掲載された福澤の思想が、その時代背景とともに、詳細に検証されたであろうか。遠山は、敗戦による一億総懺悔の時代の中で、「脱亜論」が突然現れたものでなく、政府の方針に先んじて、彼のアジア政策論を「日清戦争義戦論」の準備とさえ位置づけたのである。
*一方丸山真男は、それ以降長く「脱亜論」に言及することはなかった。
1990年日本学士院で「福澤諭吉の脱亜論とその周辺」と題する「論文報告」のなかで「脱亜論者の福澤のイメージは戦後に登場したことである。福澤は朝鮮・開化派が天下を取っているときは、非常に積極的な見解を示し、事大党が天下を取っているときは、非常にぺシミスチックになる。「時事新報」への執筆がいつの時代に書かれたのかその時代背景を見ないで、侵略とか侵略でないかとかいうことは、歴史的事実として必ずしも正確じゃなくなると思うのです」と福澤の侵略思想に偏って言及する研究動向を、批判している。
*21世紀を迎えてもなおこの論争は続いている。
遠山の流れをくむ安川寿之輔などは、某新聞に「一万札から福澤の写真の退出を願う」などとコラムに掲載し、なにかにつけて「アジア蔑視を広めた思想家」の論陣を主張している。無論多くの福澤研究者によって反論も繰り返されているが、生誕180年、没後115年を過ぎて、なお福澤研究への終わりはない。
むすび
昭和の文明評論家・小林秀雄は「考えるヒント」の中で福沢諭吉の豪さは、啓蒙の困難さを熟知し「世俗と共に文明の境地に到達せんことに本願を置き、平易な文章を心掛けたが、その行文は平易でも内なる思想は平易でない」と喝破している。
今回、少し範囲を拡げて「脱亜論」の脱稿に至るまでの著作を読んできたが、著者の深遠なる思想を読み取ることが出来たのか、浅学菲才のわが身を顧みて忸怩たる思いがある。
江戸から明治へ云う時代を生きた福澤の時代認識、即ち①欧米列強によるアジア進出・野心②支那・朝鮮の固陋と混迷③日本の総体的国力の脆弱さへの危惧、これらを総合して「脱亜論」を記し、国民や政府に警鐘を鳴らしたものと考える。1901年、明治34年に亡くなった福澤は、日露戦争やその後の軍部独走によるネオ・ナショナリズムには関知する余地もなかった。
今また、世界中にナショナリズムが声高に叫ばれる中で、我が国民も周囲やマスコミに流されることなく、福澤が繰り返し説いた、国民の智徳の向上があってはじめて、国の独立が成されるという、「一身独立して一国独立する」の言葉の意味をよくよく「君自身で考えなさい」と云われている様な気がする。
2015年の講演原稿を2020年5月25日:加筆修正
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脱亜論 要約
〇交通の利器を利用して西洋文明が東漸し、世界中到る所で文明化が始まっている
〇文明は麻疹の様なもので、防ぐ方法はない。 知識人は国民に早くその気風が広がるように努めるべきだ
〇日本では開国を機に文明化が始まり、旧い政府が 倒れ、新政府の下で独立し「脱亜」という新たな機軸を打ち出した
〇不幸なことに近隣の支那・朝鮮は古風旧慣を断ち切れず自省の念もない
〇この二国はとても独立を維持する方法がない。西洋の植民地となり国が分割される
〇隣国は助け合うべきだが西洋人が見れば日支韓は地理が隣接しているため同一視されることは、我が日本の一大不幸である
〇今の日本には隣国の文明開化を待っている猶予はない。 西洋人が接するように、心において悪友を謝絶するしかない
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資料3:我日本と西洋との兵備の比較(明治14年、時事小言より)
兵備の事に就き、我日本と西洋2・3の国とその比例を示さんために、各国の人口、歳入、海陸軍、及びその歳費は左の如し。この数は1880年出版の原書によるものなり。
人口 歳入 陸軍人 陸軍費 軍艦 海軍費
(百万人) (百万円) (万人) (百万円)(艘) (百万円)
仏蘭西:37 559 50 110 498 42
日耳曼:43 135 42 80 88 60
英吉利:32 416 13 88 236 59
露西亜:86 419 76 129 223 19
伊太里:27 285 20 41 86 9
荷蘭 : 3 48 6 8 85 5
日本: 36 59 7 8 29 3
封建の時代には、四十万人の士族・軍人を養い、その武器を貯え、巨額の軍費を人民が供して之に堪えて来たが、今日はこれを失い、資力に乏しいことが明らかである。兵備を改良するか否かは人民の資力如何を謀るべきもので、国を護る熱意が糺されている。