忘年ゴルフレポート (47 伊川望)

スタート前、舌戦開始。
去る12月5日に恒例の「忘年ゴルフ」が快晴の府中カントリーで開催されました。

36年組vs.37年組の対抗戦に端を発し、戦に疲れた両陣営が和解の意を込めて「親睦忘年ゴルフ」へと変遷したとか。噂がうわさを呼び、匂いを嗅ぎつけたゴルフ好き28名が参加。

晩秋とは思えない穏やかな日、青空に映える紅葉が目を楽しませてくれます。練習グリーン上でもお喋りの輪が広がります。8時30分、OUT,IN に分かれてスタート、競技ならびに壮絶なる舌戦の開始。

41年組集合!

我々は相対的に若手中心のパーティ(47田端、51斉藤、52安藤&47伊川)。

目を見張るようなナイスショット、目を覆うようなミスショット、バーディ有り、ダブルスコア有りと賑やかなゴルフです。お互いの好プレイを讃え合い、珍プレイに笑い転げるなど絶え間のない会話。

やっと最終ホールまでこぎつけた時には疲労感が!

後続の37年組に「いやぁ疲れました」と告白した私に、「全然疲れとらん、天気が良いからもう1ラウンドやりたい!」とのお言葉が。皆さまお若い!

年代を超えての初プレイを楽しんだ一日でした。終了後の懇親会で「来年はもっと声をかけて盛大に忘年ゴルフを楽しもうよ!」との提案がございました。来年の開催に向けて微力ではございますがお手伝いさせていただきます。

私のスコア?忘却の彼方に消え去っております・

アサ会忘年山行  (37 小泉幾多郎)

三国山荘についての提案

少し前に越冬プランの案内を頂戴した。最後に雪の山荘へいったのがいつだったか、現役のスキー合宿へコーチに何人かで行ったのが5年くらい前だろうか。OB,現役が一緒に冬を過ごすという企画ができ、一番盛んだったのがたぶん僕らが卒業した年から数年の事だった。まだあの初代の小屋で、煙いストーブ越しに”ボク、猪股です”とヤブが恥ずかしそうに自己紹介したのが何となく記憶にあるし、僕の愛唱歌の一つ”知床旅情”を石井(小倉〉悠子君から習ったのも越冬の時だった。彼女のあまりにも早い他界が改めて悔しく思われるのも、それが越冬という特別な環境でのことだったからかもしれない。その小屋について投稿してくれた現役渡辺君から、時代は変わっても小屋を愛する仲間がいることを知らされてしみじみと嬉しかった。

だが渡辺君の文章を拝見して、うれしさと一緒に僕が漠然と感じて来たことが指摘されているのを見つけ、ここしばらくなんとなくわだかまってきたことが杞憂ではないと思われてきた。彼が指摘したように、純粋に小屋を愛する部員が減少してきたこと、というか、減少せざるを得ない現実のことである。僕らが現役の頃の部員の数の多さは、今考えれば一時的なものであったと思えるが、その時には、そのままの状況が続くであろうこととして、誰も疑っていなかった。また、活動の基本は可能な限り、多くの人間が多くの機会を得て活動することにあり、一般プランはともかく、合宿は全員が集う機会であった。日頃はあまり同行する機会がなくても、できるだけ多くの仲間と時間を共有することが当然だったからだ。このような基本的な思想と人数の多さ、そのために生じる安全性の確保、といったことから、”夢”や”あこがれ”とともに皆が集える場所、として山荘が最大公約数として存在したのだといえる。

しかし渡辺君が明らかにしたように、この原則はすでに絶対的過去のものである。原因の一つは部員の絶対数の減少であり、もう一つ、我々が夢想だにしなかった部活動の基本思想の変化である。その結果として、現役部員が山荘を利用する機会は激減した。特に後者、すなわち現在の部活動の基本となっている”ジャンル別”方式がその主な原因であろう。すなわち我々の時代に ”ワンデルングそのもの” でもあり得た山荘というものを意識しない”ジャンル”があり、山荘には山荘祭とか飲み会の場所としての意味しか持ちえない部員が多数存在するということである。現役の活動は時代や社会環境を反映するものであり、その結果山荘がもはや活動の中核になりえないということは認めたくはないが理解はできる。OBにも山荘に対する意識の差が出てくるのは当然だし、高齢化とともにその傾向はますます強くなる。このことは冷厳な事実として受け止めるべきで、いたずらに山荘離れを嘆いても致し方のないことである。

だが、山荘の維持には労力と費用がかかる。”山荘”が常に意識の上部構造にあった時代は何があっても人手を集めることは可能だった。我々多人数世代が卒業しても、その流れはOBに受け継がれ、少し前まで、”新道プロジェクト” や ”あじさい班” などの形で存続していた。しかしその現実はOB主体、というよりも一部OBだけの活動であって、現役の参画はないに等しかった。費用の方も、年の経過や浅貝部落の変貌とともに増えこそすれ減らないし、部とOB会の負担は継続する。このことはすでにOB会においてもいろいろな検討がされてきたし、各種のシミュレーションも公開されてきた。だがOBにも会費免除が増え、その収入の先細りはすでに現実のものであるのに、その現実に明確な対策が論じられているようには思えない(僕の認識が間違っていれば謝らなければならないが)。

僕が恐れているのは、このまま推移すれば、わが三国山荘はそのまま、現役にとって、利用価値も少なく費用だけがかさむ、負の遺産となってしまうことだ。36年代は衆知のように最大の人数を擁したが、すでに卒業時のメンバーの四分の一は鬼籍にはいってしまった。OBの数も急速に減少に向かっているのだ。ここ辺りで、山荘をどうすべきか、真剣な議論が必要なのではないか。我々をはじめ、小屋に特別以上の感情を持つ人が多数おられるのはよく承知しているが、センチメントと決別して、山荘の永続性を考えるべき時にいる、と僕は確信する。

僕らが慶応高校時代、スキーシーズンになると赤倉にあった医学部の山荘に泊めてもらうのが常だった。風呂と蚕棚ベッド、薪ストーブだったが食事も出してくれ、大学生の先輩が数人、当番で常駐してなにかと指導してくれた。一緒に近くの旅館に神戸女学院の生徒がいると知って窓の外まで行って大声で歌を歌ったり、積雪をかき分けてゲレンデを作ったりした思い出もある。しかしヒュッテには厳然とした”慶応大学医学部”の権威と雰囲気があった。このような形で、三国山荘を維持していくことはできないか、というのが僕の提案である。

世話人やコックを常駐させることはできないだろうが、厨房に手を加えトイレと洗面台を改修すれば、安価に泊まれる、自炊可能な場所ができる。大学のゼミの合宿とか、塾職員の研修とかを目的とした施設として、塾に山荘の一元維持管理を要請する(財務上はもともと塾のものなので管理面をいわば”返還”することになる)。KWV関係者の利用には、費用や日程(たとえば合宿とか山荘祭などでの独占使用)など、いくつかの優遇措置を条件として明確にする一方、或る時期にはKWVから小屋番を常駐させる、といった協力は当然のこととしてだ。

再来年には改元があり、憲法改正も視野にはいっている日本の大きな転換点をのぞんで、我々も新たな決意をするときではないだろうか。本稿がきっかけとなって、OB各位、現役諸君を含んだ、政治の用語でいえば ”国民的議論” が展開されることを希望する。公開の目的のご意見ご批判は小生あてメールで頂戴できれば本ブログに転載するので、それをひとつの材料として議論が深まり、しかるべき過程をへて新体制の速やかな実現につながれば嬉しい。

 

 

 

多摩ニュータウン創設の頃 (37 初田正俊)

ことしの12月、寒さが続く師走としては珍しい暖かい晴天の1日、多摩丘陵の「府中カントリークラブ」でワンゲルの仲間とゴルフを楽しんだ。府中カントリーは昭和34年(1959年)戦後多摩丘陵に最初にできた老舗コースだけに、落ち着いた雰囲気で手入れも行き届いている。

「今日はいけるかな」。久しぶりのゴルフに勇んでOUT1番ティーに立つ。ドライバーをおもいきって振ると球は見事な左カーブを描いて崖下の白杭を越え池の中へ消えていった。こんな調子でこの日も18ホールを終えるとお約束どおりの“ライオンズクラブ”(110以上)入りとあいなった。

というわけでゴルフの話はこの程度でご勘弁いただき、コースの外側に見え隠れする「多摩ニュータウン」の思い出話に切り替えることにしたい。今の府中カントリーは多摩ニュータウンの住宅やマンション、オフィスビルに取り囲まれているが、昭和40年のはじめ頃まで多摩丘陵といえば東京近辺にある小学校の遠足の定番コースだった。

昭和30年代の高度経済成長を背景として、東京への人口集中が加速、東京圏で働く人の住宅不足や生活環境が悪化してきた。東京都心から近い緑地としてい親しまれてきた多摩丘陵も京王線に沿った八王子や日野市の丘陵地帯が次々と宅地化され、虫食い状態の乱開発が進んでいった。

このままでは、丘陵全体がまとまりのない市街地になるのを防ごうと東京都は昭和39年(1964年)5月、多摩市を中心に八王子、町田、稲城市にまたがる多摩丘陵約3000㌶を生活環境の整った人口33万人、日本最大のニュータウン計画を決定した。実際の建設は日本住宅公団(現在の都市再生機構)が担当、昭和43年頃から大量のブルドーザーやパワーシャベルが投入され丘陵を削っての宅地造成が始まった。

そして46年3月、永山地区で公団住宅の第一次入居が始まった。その頃新聞社で東京都庁を担当していたので、多摩ニュータウンは誕生の時から取材を続けてきた。今でも忘れられないのは、3月26日209戸の第一陣の入居風景である。この日は朝から春一番の南風が吹き、引っ越し荷物を満載したトラックが土ぼこりを巻き上げながら次々に新築の公団住宅に到着した。

当時はまだ京王線も小田急線も開通しておらず、トラックの行列は遠く甲州街道方向から関戸橋を渡ってやってきた。しかも入居を急いだため、住宅各棟への取り付け道路はまだ舗装が間に合わず、トラックが巻き上げる砂塵が新築住宅を覆っていた。 翌日の新聞各紙には「多摩ニュータウン入居始まる 砂塵の中、引っ越し第一陣」」の見出しが大きな写真付きで載っていた。「これはまるで西部劇の幌馬車隊の到着だね」。当日取材に集まった報道陣が皮肉ると、ある公団幹部は「50年後を見てくださいよ」と息巻いた。

50年後まで生きていないと思ったが、あの日から46年を経た今日、ニュータウンの中心地、大企業の本社ビルや高層マンションが林立する多摩センター地区を眺めなが、隣接する府中カントリークラブでゴルフを楽しんでいる。“19番ホール”は多摩センター駅地下のすし屋である。店内は勤め帰りのサラリーマンで大賑わい。半世紀前の幌馬車隊の光景からは想像できない新都心になっていた。

うらやましい話

出版や書籍関係の方ならばあるいはご存知かもしれないが、装丁の専門家で平野甲賀という人物がいる。小生の小学校時代のクラスメートで、幼少のころから天才的な男だった。恩師も健在なクラス仲間で折あるごとに集まっていたうちの一人だが、数年前、突然、小豆島へ移住してしまった。さすが芸術家だなあ、ゴーギャンばりの余生を過ごすのか、とおもっていたが何年振りかでメールが届いた。そのHPを一読、やられたあ!という感じである。こういう老後もあるのだな、というご参考までに夫人からのメールを転載する。ぜひURLをご参照ありたし。彼の活動にご興味あらば、直接夫人あてご連絡ください。

From: 平野 公子 [mailto:haru@jazz.email.ne.jp]
Sent: Friday, December 1, 2017 11:01 PM
To: 早川 仁
Subject: 平野甲賀

 

毎度お騒がせです。

平野老人組 来年からの活動のお知らせ

モーションギャラリーのファンデイング始りました。
是非、お友達に広めていただければ有り難いです
よろしくお願いします。
https://motion-gallery.net/projects/sonofuneninotte_ba

近況です! (47 水町敬)

CLASH読みました (元日本HP 坂東正康)

CLASHとCRASHとCRUSHの意味の違いは、 とくに写真が、参考になりました。

「CLASH !」の投稿者は、ぼくよりもひと回り年上の、 あるグローバル企業における元上司ですが、彼の米国の原像は、 ぼくの眼には、「ジョン・F・ ケネディが大統領になったときの米国」と映りました。 ぼくにとっての米国とは、 テレビドラマを通じてやってきた華やかな米国というのもありまし たが、「ベトナム戦争の責任国としての米国」でした。 二人の原像は、けっこう違うとは、折々に感じていました。

最近の北朝鮮問題も、 朝鮮戦争は現在休戦中といった事情は別にして、ぼくにとっては、 米国による気に食わない外国への脅し、介入という、 ベトナム戦争の延長線上のできごとです。 イランやイラクやアフガニスタンと同じです。そういう意味では、 日米安保条約と日米地位協定が、 日本国憲法のスーパーセットになっている現状と本質的な構造は違 わない。 ペリーのころのクジラ脂ビジネスの食料基地としての日本がそのひ な形です。そういうスーパーセット構造を選択したので、 とりあえずは余裕ができ、デミングのQCブームの土壌が成立しま した。

デミングのQCブームに関してはぼくはたいした意見もないのです が、太平洋戦争中の「八紘一宇」や「非国民」 というもののサブセット的な雰囲気を、 業界や社内でなんとなく実感させてもらえたのが、 ぼくにとっては幸いでした。「八紘一宇」や「非国民」は、 日本では、間欠泉的に現れてきます。たとえば、4年前に発表され た「日本国憲法改正草案(現行憲法対照)自由民主党」には「 八紘一宇」と「非国民」という発想が強く漂っています。 聖徳太子の十七条憲法の第一条と明治憲法の一部と治安維持法が戻 って来たような草案です。フロムの「自由からの逃走」 はまだ生きているようです。

「CLASH !」という投稿記事を読みながらそんなことを考えていました。

CLASH !

ふた月ほど前、読売新聞の書評欄で”日米の衝突”という本のことが出ているのを見つけた。米国企業に籍を置いた日本人の一人として、この種の書にはどうしても目が行く。この本の原題が CLASH とあったので、早速グーグルで当たってみて、著者ウオルター・ラフィーバーという人が米国でも権威のあるバンクロフト賞を受賞したことを知った。

同時に、CLASHという単語が英語の知識啓蒙をしているホームページ (talking-english.net)に誘導してくれた。”衝突”を意味する語にCLASH、CRASH、CRUSHという発音だけでは日本人にはまず識別できないものが三つあり、その差がよくわからなかった。この悩みはどうも僕だけでないようで、このHPは三つの違いを、実に写真入りで解説してくれた。いわく、

CLASH は“ぶつかる”のだが、双方とも深い傷を負わない程度“であるとき

CRASH は”ぶつかって相手も自分も深く傷つく“とき

CRUSH は“ぶつかって相手を完全に押しつぶしてしまうとき

に使うのだそうで、以下の3枚の写真がそえてあった。実に明快な回答であった。

このHPで得た知識で判断すると、この本が扱っている主題がおぼろげながらわかり、それが勤務の間にいやというほど見聞きし、ある時は渦中にほうりこまれた”日米の衝突“のイメージのように思えてきて読書欲をそそられた。だが書評にあった翻訳を読むとなるとどうしても翻訳者の主観がはいってしまい、自分の感覚とずれることもあるような気がして、思い切ってアマゾンで原書を入手した。届いた本は予想以上に分厚く、多少知っていた歴史的事実もあって、思ったよりも楽だったがハードボイルドのように斜め読みもできず、今日(11月19日)までほぼ3月をかけて何とか読了。ほっとしてテレビをつけたら、真珠湾、文字通り”日米の衝突“(この場合はCRASHだったのだろうが)そのものをとりあげた”トラ・トラ・トラ”をやっているではないか。この映画を見るのは3度めになるのだが、読み終えた内容が心にしっかり残っている状況で最後まで見てしまった。そんなこともあって、映画評はともかく、僕がこの本をどう読んだか、ということを書いてみたい(日本語版は彩流社から出ているとのことである)。

本書は12の章に整理され、最後に結論として9ページの記述があり、76ページにおよぶ参考文献と18ページにわたって項目別の索引がついている。その前半はペリーの来航からはじまり明治維新をへて列強の一角に加わるまで、日本史の教科書にでてくる事実の確認になるのだが、当時の日本人が鎖国にかかわらず世界情勢や科学技術に関して広い知識を持っていたことや、ペリー一行が日本人を驚かそうとして持ち込んだ欧米の先進的な技術が、数年後の再来日の時点ではすでに日本人の手で複製されていたことに驚愕した、というような記述がある。当時の日本人エリートの高い知識・知性のレベルがそのあとに続く明治維新を可能にしたのだ、ということ、わずか半世紀でどうして日本が列強入りするまでの国になり得たのか、今まで理解できなかった疑問が氷解したような気がする。

この時点でのアメリカの立場は、天皇あてフィルモア大統領の親書にあるように、日本がアメリカ合衆国との間に自由な貿易を開始することを促すものだったそうだ。ところがそれから半世紀たった1989年、当時の国務長官ベイカーは,米国の対日政策は日本を内向き(inward-looking)の重商的な経済大国から外向き(outward-looking)で経済的政治的強国にさせ、アメリカと強固な同盟関係を結ばせることである“と言っている。この間、日米の間の立ち位置・関係は全く変わっていなかったのではないか、というのが著者がその結論の章で述べていることの一つであるし、それが本書のタイトルを”CLASH”とした理由ではないか、と思われる。

このような日米間の交流の始まりがそれからどのように展開していったのか、本書の中では数章を割いて述べている。西部の開拓がおわり、カリフォルニアの先にある太平洋に目を向けたアメリカが必要としたのは実は自国の製品のマーケットとしての中国であり、日本はそのためのいってみれば都合の良い出先として必要だっただけだのだ、ということが重要である。そのアメリカにとって予想外だったのが日本という国の成長の早さであって、明治維新後、日本は西欧技術をすごい速さで消化し発展させた。その技術的展開によって、それまでの技術・国力の水準では必要なかった資源が必要になり、それが日本国内には存在しなかった、ということが日本の眼を外部にむけさせた。その結果、当時の世界の行動原理であった帝国主義にのっとり進出の対象になったのが中国の資源であった。”外向き“にはなったのだが、その理由が中国、アジアを自国製品の市場としてとらえていたアメリカとは全く違った。中国を必要としながら二つの国が同床異夢を見ていたわけだ。その間の展開、中国での戦争、そして真珠湾にいたる過程はすでに僕らの知っている通りである。

しかし第二次大戦の終了、アメリカによる占領から今日までの展開については、(ああ、そういうことだったのか)と感じることが非常に多い。第九章から第十二章までの部分がそれで、僕が特に感銘をうけたというか、なるほど、と感じたことをいくつかあげる。

第十章には、The 1950s: The pivotal decade (転換期となった1950年代) という題がつけられていて、ポイントになる何人かの名前があげられる。いわゆる冷戦の初期で、アメリカ外交の立役者だったダレス国務長官の名前が出ているのは納得できるのだが、実にその次に”デミング”という名前があるのには本当に驚かされた。80年代から90年代にかけて、日本産業界を席捲した、かのQCブームの生みの親であり、僕自身、勤務先でその洗礼を受けたので名前はもちろんよく知っていたが、その人物が日米外交史に登場するのは一体なぜなのか。著者がここでデミングについて触れたのはその理論を実現する素地があるのは、米国企業ではなく日本企業であって、そのことが実はひいては埋めきれない日米の溝なのだ、と言いたいからのようだ。事実、デミングは米国産業界では異端と言っていい存在であって、結果的には日本だけが彼の議論の影響を受けた。それがなぜか、ということがこの本を読んで納得できた。我々はデミング中の数理的技法だけにとらわれているが、著者はデミングが主張したのは職場、グループが一体となって働き、個よりも集団のもつ知恵や士気の高揚によって生産性を上げることであり、数理的な技法はそのための共通の問題点やその解決方法を発見し共有することだったのだという。そしてそれが日本の文化(著者はたびたび wa=和 ということをあげている)になじみ、欧米との技術格差に対抗し得るすべとしての“品質”という武器になり、驚異の高度成長にむすびついたのだ、と主張する。著者はこの影響が朝鮮戦争によって国連軍の兵站基地となった日本にタイミングよく導入されたのだ、ともいう(この主張は多少誤解・誇張があるように思える)。もうひとつ日本経済が飛躍した大きな原因として keiretsu=系列 という概念の存在もくり返し出てくる。これもたしかにアメリカには存在しえないものであって、いずれも個人より帰属するグループを意識する日本伝統の文化のあらわれであり、それは形や程度こそ変わったものの、現在も厳然として存在している事は我々はよく知っている。このような差異に関連して、アメリカが唱えている資本主義と日本のそれが名前こそ同じであっても、政府や公的機関による調整の在り方などにおいて、決して同一の基盤に立っているものではない、ということも各所にでてくる。そしてそれがもたらす間隔は日米両国に今後もあり続けるだろう、というのが著者の結論のひとつであるようだ。

経済的な面での議論のほかに、(やっぱり、なあ)と思ってしまうのが、人種差別問題である。ウッドロー・ウイルソンは国際連盟の提案者として、その主張は人道的であり平和第一の人格者であると教わってきたが、彼自身は米国金融界の中国市場進出欲を代弁し、かつ日本人に対する反感が非常に強い人物であったとされる。日米開戦時の大統領だったルーズベルトは芯からの排日主義者で、日本にまず手を出させればアメリカの正義が定まる、ということを考えていて、真珠湾攻撃も事前にわかっていたにもかかわらずあえて攻撃をさせたとされている(このことは “トラ、トラ、トラ”にも出てくる)。また近年、正式な国としての謝罪はあったというものの、戦時中、日本人だけが強制収容された事実、公民権運動までつづいた(いまでもなくなったとは言えぬ)黒人などへの差別、また理由は違うかもしれないが最近の移民問題など、わが国では理解できない問題が依然存在する。

また前に見たように、中国の存在が日米共通の問題であることは変わっていないが、この本を読むと、米国指導層の対中国観が揺れ動いていることもよくわかる。ただその動きの底流にあるのは、やはり対決姿勢であって、その理由は依然共産主義に対する反感、恐怖であり、日本との間に存在する“間隔”とは異質のものであろう。その意味で、日本と米国のCLASHは今後もありつづけるであろうが、中国米国の間のそれはCRASHに変貌する危険を持っている、といえるのだろうか。

以上のこととは別に、改めて意識したのが、米国によって占領され、武装解除された日本が、平和主義国家として再生(多少ひっかかることはあるが)しつつあった50-70年代、米ソ冷戦のただなかで、日本の地理的位置から(アジアのことはアジア人同士で戦わせよ)という思想のもとで日本を再武装させようという、まったくもって身勝手な議論があったことである。憲法論議もいろいろあるが、この理不尽な要求を歴代の内閣がいかに苦労してやめさせ、そのエネルギーを経済再生にむけてきたか、という過程はおぼろげながら理解していたつもりだが、この本はそれを実に鮮やかに解説してくれた。佐藤栄作がなぜノーベル平和賞をもらったのか、その理由も初めて分かった気がする。

今、日本はこれまでたどってきた道の、歴史的転換点にいる。そしてその最大の焦点が依然として中国問題であることは、ペリーが来航して開国を迫った時以来、日米間に存在してきた事実であり、歴史のアイロニーであると思わざるを得ない。願わくば日中関係がCRASHにならないことを祈ろう。

PS

やけに言葉にこだわるようだが、昨日、書店で一時有名になったハンチントンの”文明の衝突“の新装版が並んでいるのを見つけ、そのタイトルが CLASH であることに気が付いた。ずいぶん以前に読んだのでよく内容を覚えていないが、今回新たに学んだ知識によれば、これは CRASH であるべきではないか ? 残念ながらハンチントン氏に聞くわけにもいかないのだが。

 

粗古希団塊軍団 熊野を往く (47 関谷誠)

 

和歌山・御坊出身の田端の企画、案内で世界遺産の「熊野古道」を歩こうとの話が6年前、飲み会の席で持ち上がり、腰が重かった田端もその気になってくれたが、2011年9月の紀伊半島を襲った台風12号での甚大な被害の影響でこのプランはポシャってしまった。

今般、KWV卒業45周年記念イベントとして改めて企画され、前世の罪を浄めてくれる「熊野速玉大社」、現世の縁を結んでくれる「熊野那智大社」と、来世を救済してくれる「熊野本宮大社」の熊野三山を巡れば、過去、現在、未来の安寧を得られるとされ、神々が住む癒しと蘇りの聖地「熊野」に、それなりに脛に何らかの傷を持ちながらもそれなりに前向きな未来志向の47会同期22名が集結した。

先発隊のSL伊川、熊倉夫婦、古泉、山本、金沢から舛田、小倉から水町は、11/6、十津川温泉から小辺路を「熊野本宮大社」に抜け、11/8、本隊と合流。

本隊は、東京から空路でL田端、大谷、小野田、鈴木、早川、林、吉田夫婦、岡谷から今井;陸路大阪から奥本、金森、後藤;それに山口から関谷の面々。

風来坊の岩崎は何処を彷徨って来たのか、11/8、川湯の宿で合流。それに、未だ現役で活動中の名古屋の那波は、11/9、南紀勝浦での宴会に駆け付けて来た。又、残念ながら、直前に、母親が入院の内藤は参加出来ず。何やかんやワンダーの中では若手と云われる粗古希・団塊世代22名参加でのプランだった。

11/8(水) 雨

本隊は、10時過ぎ、JR白浜駅にて集結、マイクロバスにて熊野参詣道・中辺路の起点となる「滝尻王子宮」に参拝し、プランの安全を祈願。

昼前、先発隊7名と熊野本宮大社近くのバス停で合流。舛田ガリメはここから帰金沢。

39年卒堀川先輩に紹介していただいた、富山・高岡出身、熊野在住25年の語り部ガイドの番留京子さんとも落ち合い、道の駅「熊野古道本宮」での昼食後、コース説明を受けた。

12:45 小雨の中、スタート地点の「発心門王子」社殿に関谷が一行を代表し、先頭で二礼二拍一礼の作法で恭しく神々に挨拶した後、番留ガイドが吹くホラ貝に導かれ「熊野古道」中辺路の域に踏み入れた。

道端に点在する江戸時代からのお地蔵さんの由来等々を番留さんから説明を受け、ご利益あるように拝みながら、「水吞王子」を経て、14:15 「伏拝王子」の茶屋にて温泉水で濾したコーヒーで一本。

道中ではスペイン人、アメリカ人、オーストリア人等々に出会うが、何と外国人参詣者の多いこと!恐らくSNSでこの神秘的なパワースポットが取り上げられているのだろう。茶屋で出会ったスペイン人は、スペインのサンチアゴ巡礼路には多くの日本人が来ているよと笑っていた。それもそうだ!

幻想的な杉林の中、所々、江戸時代に敷かれた石畳を踏みしめながら、ガイドさんも苦笑していたが、この人数となると健脚組、だらだら歩き組、おしゃべり優先組等々のグループにばらけてしまい、ポイントポイントで人数点呼しながら、16:00、7kmの行程を踏破し、「熊野本宮大社」を参詣した。「熊野本宮大社」は、杉木立が生い茂る静かな森にあり、古式ゆかしき雰囲気を漂わせているが、明治22年(1889)の熊野川の大洪水で流失を免れた社殿をそのまま移設したものとの事。元々は、10分程の熊野川の中州に日本一高い大鳥居(33.9m)をくぐった先の「大斎原」の旧社地にあった。平安時代の上皇法皇をはじめ江戸時代に至っての庶民の熊野詣はこの大斎原を目指したものだった。かつての社地があった石祠の前にたたずむと神妙な気持ちになったのはなぜだろうか。

この夜の宿は、これも堀川先輩から紹介いただいた川湯温泉の民宿「立石」。観光協会のパンフには「心のこもったサービスと、料理のおいしい民宿」とあったが、その通りで、恐らく家族経営と思われるが、気持ちの良い女将さんのもてなしとアユの天ぷらをはじめとするテーブル一杯の心のこもった料理は美味かった。それを同期の小嶋が米沢から送ってくれた銘酒・東光と、地元和歌山の黒牛でワイワイガヤガヤの宴会となった。川原を掘ると熱い湯が湧き出すとの事で、酔い覚ましに川原の露天風呂を堪能。

11/9(木) 晴れ

8:30 前夜、入浴に行こうとして、迂闊にも転倒、足を打撲したO君は、朝食を食べたら突如回復(!)、離脱することなく全員で旅を続行。宿の女将に見送られ、一路、新宮・那智勝浦を目指し、熊野川沿いを南下。途中のさつき公園で平成23年の紀伊半島大水害時、熊野川氾濫の最高水位リメンバー塔を見上げて一同自然の脅威に改めて畏怖の念に打たれた。

9:30 538段の石段を登りつめ、熊野の神々が最初に降臨した聖地と伝えられている「神倉神社」を参拝、しめ縄で巻かれた巨大な「ゴトビキ岩」に両手を添え新たなパワーを貰った。「熊野速玉大社」に向かう途中、清流・古座川の名水を72時間かけて製氷したかき氷の「仲氷店」に立ち寄る。有名人も多く訪れ、TVでもたびたび紹介されているようだが、食べてもキーンとならず、柚子の変種との「じゃばら汁」と自家製シロップのかき氷は何とも言えなかった。この氷でのバーボン・オンザロックは最高だろうな!

全国熊野神社の総本宮である「熊野速玉大社」では神主から説明を受ける。覚えているのは、樹齢約千年と云われる境内の梛(ナギ)の巨木の葉は切れないので縁結び、夫婦仲等にご利益ありとの事。勿論、そのご利益をとお守りを求めた!

昼飯にこの地の名物、高菜の浅漬で包んだにぎりの入った「めはり寿司」を勝浦で受け取りに行く途中、古泉ギッコが、予定には入っていなかった世界遺産の「補陀洛山寺」に寄りたいと。ネットを検索していたら、「日本人の心を揺さぶる云々」とあったので是非寄って見たいとのことで。これが何と驚きだった。

「補陀洛」とはサンスクリット語で観音浄土を意味するようだが、日本人ではあろうが、正に、サンスクリットのインド系ではなかろうかと思える様な目つきをした寺の管理人が、浄土を求めた修行僧侶であった渡海上人の話を熱っぽく語ってくれた。史料が全く残っていないので、伝承・推測でしかないようだが、生きながらに南海の観音浄土を目指し、平安時代から江戸期まで、20数回にわたり、寺の住僧達が、釘付けされた狭い箱舟に閉じ込まれ、那智の海岸から送り出されたとのこと。

又、本堂には平安後期の作と伝えられる高さ1.9mの千手千眼観世音菩薩の木造立像が厳重な金庫の中に納められおり、渡海上人の話を神妙に聞いた我々に対する特別の計らいとかで、金庫を開け、拝観させてもらった。いずれは国宝に指定される模様の重要文化財。サプライズ訪問となったこの寺は、正に、我々の心を揺さぶったのは事実だ!

昼食後、「那智大社」の参詣道である「大門坂」の杉木立に包まれた石段を行くと、突然、ほら貝の音色で迎えられた。番留さんの仲間の山伏だった。たまたま打ち合わせがあったので、我々の参詣を知り、出迎えたとの事。小生のボケの始まりか!話はうろ覚えだが、この山伏の関係者のどなたかが慶応山岳部で槍の慶応尾根由来の一人だったとか。

日本一の落差を誇る那智の滝をご神体とし、命の根源である水を敬う「熊野大社」と、隣り合わせの観音信仰の中心的霊場でもある「那智山西岸渡寺」、それに「那智の滝」そのもの、いずれも世界遺産、を参拝して今回の行動プランを終えた。

2日間にわたり行動を共にしてくれた番留さんと、大門坂の駐車場で、名残りを惜しみながら別れ、南紀勝浦温泉の「ホテル一の滝」へ。名古屋から駆け付けた那波も合流し、JR南紀勝浦駅近くのマグロ専門の郷土料理店「桂城」で二日目の大宴会。この店を探すのに駅周辺をうろうろしてしまい、アカズが女学生に尋ねたところ、なんと偶然にも、「私の家です」とのこと。学校帰りの「桂城」の高三のお嬢さんだった!「桂城」では、吉本で修業したのではと思える様な口達者な板前の、店先での「マグロ解体ショー」のアトラクションもあり、解体したばかりのマグロを肴に盛り上がった。来年、知り合って50年と粗古希を記念し、何処かでの再会を約して解散。

11/10(金) 晴れ

大阪3人組の奥本、金森、後藤は、早朝の特急で、帰阪。本隊は、JR紀伊勝浦駅で、三々五々、それぞれの目的地に向かった。今回リーダーの田端は故郷の御坊に寄って帰ると。ギッコは串本から自転車を借りて潮岬灯台を見てくるとか。タクは一人で懲りずに又何処かを放浪するとかで消えた。那波は名古屋へ、それにクマ・アカズも名古屋の息子一家に寄ってからと。水町ピンスケは関空からタダ券で東京へ。その他帰京組と関谷は、白浜の新鮮魚の「とれとれ市場」で土産を買い出し、白浜空港から東京へ。

KWV47年卒で三田会費納入の実質会員36名中、22名が参加した今回の卒業45周年記念「熊野古道」ワンデルングを無事終えた。熊野各聖地のパワースポットで新たな活力・知力を充電、那智の延命水を各々がそれなりの延命年数の願いを込め何杯かを飲み、夜な夜な学生時代に戻ったかのように飲み食い、語り合った我々は、これからの人生も(を)大いにエンジョイしようと各人が期することが出来たプランだった。皆、ありがとう。

なお、先発隊の行動記録は別掲する。

 

11月 月いち高尾  (39 岡沢晴彦)