オクラホマ州、1889年に号砲一発で、幌馬車隊が一斉にスター
映画化された「サラトガ本線」「ジャイアンツ」等エドナ・ファーバーの原
アンソニー・マン監督は、プロデューサーのエドモンド・グレインAsianprofile.wikiより)。ランドランでは、ヤンシーは、元恋人だったディクシー・リ
やがて第一次大戦がはじまり、再び戦いに身を投じたことを知らせ
蛇足:題名のシマロンはヤンシーとその子息が同じシマロンと愛称
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
オクラホマ州、1889年に号砲一発で、幌馬車隊が一斉にスター
映画化された「サラトガ本線」「ジャイアンツ」等エドナ・ファーバーの原
アンソニー・マン監督は、プロデューサーのエドモンド・グレインAsianprofile.wikiより)。ランドランでは、ヤンシーは、元恋人だったディクシー・リ
やがて第一次大戦がはじまり、再び戦いに身を投じたことを知らせ
蛇足:題名のシマロンはヤンシーとその子息が同じシマロンと愛称
諸氏の見解を拝読し、小生の思う所を少し述べる。
共産主義の思想的原点はカール・マルクス著「資本論」(Das Kapital)とマルクス・レーニン共著「共産党宣言」(Manifest der Kommunistischen Partei)であろうが、少なくとも小生は「資本論」の全文を学生当時に読んだ記憶では経済学的書物であり、それほどに共産主義という印象は無かった。その後に政治体制を共産化したソ連邦と東欧の社会主義国、中華人民共和国、キューバ等での専制主義によって、共産主義のイメージが植え付けられたと思っている。
多くの社会主義体制の国々(共産主義との言葉使いの使い分けはこの際避けて)は、私の体験と理解では、近年までは明らかに経済発展が民主主義体制の国々より、経済的な発展が遅れてしまっていた。統一前の東西ドイツ(因みに小生は分裂時代の西ドイツに仕事で5年間滞在していた)、ソ連邦時代の東欧諸国、近年までの中国など。
ところが、近年は中国が急速に経済的発展を遂げ、民衆の生活レベルは刮目に値する勢いで近代化し便利になったし、4年前にロシアに2週間旅行した限りの印象では、サンクトペテルブルグ、モスクワ近郊の庶民の生活が、想像以上に便利で生活レベルが上がっている感じがした。つまり、民主主義か強権かという政治体制は民衆が感じなければ、殆ど関係がないのかと私は思うし、むしろ、ややこしく政治に関与しなくても、それで満足する民衆であれば、その方が良いのだろうと思う点も多い。
今の日本が問題なのは、最近だれが作ったフレーズか知らないが“沈みゆく中流“という、これが本当であれば(そんな気がするが・・)、我々の後の世代頃から、民衆(中流を主にした民衆)が、それこそ、普通の生活を取り戻したいと政治活動に現を抜かす時代になってしまうのではないか?という危惧がある。
“キルギスの小母さんについて“ に投稿された諸氏は “沈みゆく中流“ 以上にあるわけだから、体感的に分からない点があるかも知れない(自戒を込めて)。
(編集子)現在の我が国の状況について、いろいろと批判や自戒や政治論議やがあふれているのは承知するし、それなりに合点がいくことも多い。飯田君がいうように本稿で論議をしている仲間内は自分がどう思うかは別として、我が国のアパーミドル、一昔前の懐かしい表現でいえばプチブルであることは間違いない。だからこのキルギスの小母さんの真意は表面には理解したとしてもそれ以上に踏み込むことは実際問題として不可能だ。彼らから見れば、日本という国は豊かであり、平和であり、うらやむべき存在だろう。その国はどうやってできたのか。世界に誇る大政治家がいたからか。大学者がいたからか。
小生の(ひねた観察であることは承知)思うところは、大戦の元凶であり世界の厄介者であり時とすれば同じ位置にあるべきドイツと比較されてはその無策さをあざわれてきたこの国が、だれが何と言おうが歴史に残る事実として80年の間若者の一人として失わずにここまできた、はたまた、犬を連れて散歩に行く人はごみ袋を持ち歩き街路を決して汚さない、屋外に自転車を置いておいても盗まれる不安も感じない、小学生の女の子が夜ひとりで塾から帰ってこれる、個人の自由を束縛するからマスクをしないなどという青くさい論議よりも社会全体のために不満はあっても一度決まれば律義に政策を支持する、そういう社会を築き上げたのが、識者のいう二流三流の政治だったのではないか、ということにある。政治は結果である、ということ、そしてそれを実現したのは現実味のない世界観や壮大な理論よりも、日本人、を支えてきた文化であり、その根本にある倫理観なのだ、ということなのだが。
(36 菅原)キルギスの状況については、小生、全く知りません。ですが、前後の文脈は分かりませんが、「強権か民主かは私にはわからない。生活を改善してくれる指導者が必要だ」を一般化すると、これにピタリと当て嵌まるのは中華人民共和国の指導者です、毛沢東から始まって習近平まで。生活水準はべら棒に向上しています。その一方、デストピアに向かってまっしぐら。いや、もう既に一歩足を踏み入れているかもしれません。蓮舫じゃないけど、「これで良いんでしょうか?」。もし、これで良いんであれば、地球全体を中華人民共和国にすべきじゃないでしょうか。生活は、べら棒に改善されるのは間違いありません。
(36 船津)やや難しいイデエロギーの話になっていますが、「中華人民共枠国
米国は何でも「保険」でカバーする!ある意味では「共産」ですよ
ウェーバー(マックス・ヴェーバー , Max Weber 1864-1920)の資本主義の定義は、組織的におこなわれ る金もうけで、暴力をともなわない経済的な営みをすべて資本主義
まぁ資本主義と民主主義と強権での「民主主義」と世界はどう向か
(44 安田)マルクス・レー二ン主義を掲げて実践しているという意味での共産国家は、現在もはや存在していない。民主主義下にないプーチン個人の権力強化を目指し専制主義を採るロシア、一党独裁を維持するため専制主義を採る中国 両国とも建国当初はあらまほしき人間社会を目指す政体を選択したはずであるが、為政者は権力維持を図るため民衆に対して強権主義的に対応する国家に変貌して来たのが歴史の流れである。あまりに急に発展巨大化した中国はその巨体故、自らの身体を健康に維持する課題に対処する方が、対外的な問題以上に難しくなると予想する。国内の貧富格差拡大、都市と農村の乖離、経済成長鈍化、少子化、力で抑え込んでいる大衆の自由と民主的動向など、人間でいえば内臓疾患が発症するのと似通っている。
少なくとも他国に見える形の恐怖であからさまに民衆を統治する手法は(いくつかの国には存在するが)、もはや時代遅れとなった現在では、「恐怖」の鎧を出来るだけ隠そうとしつつ専制主義体制の国では権力当局は反対勢力を力でねじ伏せ(左遷、降格、解雇、逮捕、場合には暗殺)つつ、一般大衆に対しては、古代ローマの統治の代名詞ともなった「パンとサーカス」と、生命保全のための「医療」がそれに加わり、これらの「利」を潤沢に提供することを目指してきた。それらを満足に享受できれば、一般大衆は極論すれば「理」即ち政治形態(民主主義か強権主義か)はどうでも良いのだ。まさに、キルギスの主婦の発言が一般大衆の本音を言い当てている。
中国では、独裁権力維持の対価として国民へは経済成長を通して豊かさを享受すべく宿命づけられている。そして裏技として、国民が反政府活動に決起せぬよう国民の諸々の自由の権利を奪い、且つ個人情報を丸裸にして保持し、全国津々浦々に配備した監視カメラを用いつつ厳しい管理下に置いている。一般大衆は無邪気な羊のように豊富な草をついばむことさえ出来れば、国内政治や政府に関する発言を一切封じられていても何の文句を言わず(言えず)、個人情報を握られていても満足げに日常生活を送る。国民の多数は多分気付いていないだろうがまさにデストピアに暮らしているのだ。大衆が豊かに成り続ける経済成長こそが権力維持の最大の礎と源だということを政府は強く認識している。長期的に観れば、中国の将来も予断を許さないだろう。 従って、国内経済成長の早晩の鈍化を予見し、海外に経済成長の種を蒔こうとしたのが壮大な「一帯一路」構想である。この構想の、軍国化の鎧をまとい力をちらせつかせながら、「飴」の部分の「利」の下心が見え隠れして警戒する国々が出て来ている。中国の思惑の予断は許さない状況になってきたのが今の現状ではないか。民主主義国家の結束と効果的な対応能力が問われる時代へと明らかに突入してきた。
日本は戦後80年間に亘り、戦争による犠牲者を出さず、キルギスの主婦からみれば桃源郷にでもいるような平和で安全な社会で、満足いく「パンとサーカス」を享受してきたのは誇るべきだと思う。
(36 大塚)「経験の範囲でいうと、
原題「Carrie」は主人公の女性(ジェニファー・ジョーンズ演じる)の名前。邦題「黄昏」は英語ではtwilight, sunsetだが、その意味は「夕暮れ、夕方の薄暗い時」。それを比喩的に用いて「盛りの時期が過ぎて衰えの見えだした頃」を指す。原題「Carrie」は飽くまで主人公はキャリーのジェニファー・ジョーンズであると主張している。対して、邦題はまさに映画のストーリー性を如実に暗示し、悲劇の相手役ローレンス・オリヴィエの生き様を文字通り指している。見事な邦題だと思う。
ジェニファー・ジョーンズの2代表作は「慕情」と「黄昏」(Carrie)だと思う。相手役モンゴメリー・クリフト、監督ヴィットリオ・デ・シーカの「終着駅」も良かったが。両映画とも悲劇的な結末だが、恋愛時代の幸福感に満ちて凛とした前向きな将来への決意と希望を表現した前者に対して、ストーリー自体が重苦しい陰惨な雰囲気の後者なので、演技の巧拙とは関係なく彼女の明暗がその演技や表情にも醸し出されていた。
明るく弾けるような「ローマの休日」1953年の前年に制作されたのが、この哀愁を帯びた悲劇的メロドラマ「黄昏」。同じ監督が1年のインターバルで演出した二つの映画のコントラストにはビックリさせられる。「ローマの休日」でグレゴリー・ペックの友人カメラマンを演じたコメディアン エディ・アルバートが明るいキャラのチャーリー役でいい味を出していた。田舎から仕事を求めてシカゴ出てきた女性キャリー(ジョーンズ)と汽車の中で出逢い、その後ちゃっかり同棲することに。話の展開が徐々に暗く悲劇的になっていく前の、彼の「天真爛漫な天使」振りは嵐の前の清涼剤ではあった。ただし、キャリーの方には彼に対する愛情はなく、チャーリーの好意に甘えて、仕事もせずに利用しているようで、女性はたくましく、そして少しずる賢いキャラを演じているジョーンズの演技も見もの。二人の間に進展がないマンネリのまま時は過ぎ、キャリーはレストラン支配人のオリヴィエと逢い、妻子あるオリヴィエは自らの立場をも顧みずキャリーとの恋に落ちてしまう。キャリーも男ぶりの良いレストラン支配人オリヴィエに惹かれる。オリヴィエは発作的に店の金を盗み、二人は駆け落ちしてニューヨークへ。キャリーは彼が金を盗んだとは知らない。
いい歳のオジサンが若い女性に夢中になり、それも遊びでなく妻子を捨て、結局は財産も放棄して離婚調停・・・・人生を転落していく物語だが、老いらくの恋は切ない結末になる、と映画は教えている。当時、オリヴィエ実年齢44、ジョーンズ32歳。全てを捨てた二人の関係はやがて逆転してしまう。貧乏にも労働にも耐えられないオリヴィエに対して、逞しく前向きなキャリー。過去の成功を引きずる男の弱さはなかなか見るに辛いものがある。
二人だけのニューヨークの生活も盗んだ金を返さざるを得なくなり一文無しになり、しかも盗んだことを知られた彼は仕事に就けなくなり、二人の生活は困窮を極める。そんな中、キャリーは舞台女優となり、彼を元の家族に返そうと彼の既婚の息子に会いに行くよう勧める。そして彼の留守中に彼女は姿を消す。彼は息子に会いに行くが、遠くから息子の姿を見ただけでニューヨークに戻る。しかし、そこにはキャリーの姿はなかった。数年後、女優として大成功を収めていたキャリーの許へ、訪ねてきたチャーリーからオリヴィエは店の金を持ち逃げした為、二度と家族のもとに帰ることが出来なったことを初めて知らされる。キャリーはオリヴィエの行方を探すが、浮浪者にまで落ちぶれたとの目撃情報以外得られなかった。
落ちぶれていく一級のシェイクスピア俳優のローレンス・オリヴィエを見るに忍びなかったが、彼の役者としての真髄を味合わせてもらった。現在的目線でみれば、安定した支配人のポジションと妻子まで捨て、しかも金を盗んで駆け落ちする展開はやや現実離れしているし、キャリーにしても表現は悪いが不倫体質的な気質が垣間見え(ジェニファー・ジョーンズには不似合いであったが)、女優として成功しながら駆け落ち相手を元の家族に返えそうとするなど、真に愛していたのかと懐疑的にもなった。ラスト場面の「食べないと死ぬ」と絞り出すように訴え、再会を果たしても小銭一つだけ取って彼女の許から独り立ち去る際にガス栓を開け締めするシーンにはハラハラドキドキさせられた。最後は落ちぶれたと言えども彼のプライドがそうさせたのか?身から出た錆の決着は自らつけるという男の矜持を示したのか?
(保屋野)「黄昏」、初めて観ました。「哀愁」と並ぶ、美男・美女による「
両者共、ストーリーは(現代では)やや陳腐だと思いますが、やは
さて、今回のジェニファー・ジョーンズは「慕情」(1955)と
また、作品としても、私は、主題歌含め「慕情」の方がやや上だと
12月19日付読売新聞の11面のある記事が目に留まった。
キルギス強権へ回帰 という記事で、ソ連解体後の中央アジア各国の間で民主主義を標榜してきたキルギスに強権政治が復活しつつある、という内容である。中央アジア、という領域は日本人にはあまりなじみのない地域で、我々が知っているのはせいぜいモンゴルくらいであろう。キルギスという国は旧ソ連の延長体制が継続している領域で、独自の民主主義的知見によって運営されてきた国だそうだが、昨今は同国の政治体制に変化が生まれ、強権主義的国家に変貌するのではないか、という解説である。中国の動静もふくめて、民主主義というイデオロギーそのものが問われ始めている気がする。しかしこの種の議論そのものには小生にとってはすでに不毛としか思えないのであまり興味がない。
この記事で興味を持ったのは、 “強権か民主的かは私にはわからない。生活を改善してくれる指導者が必要だ” と言い切った一主婦の発言である。この発言には千金の重みがある。一般の国民にとっては、日々の生活をまともに送れる社会ができるのであれば、それがどんなイデオロギーであろうが関係ない、というのが偽りのない真実なのだと思うからだ。
塩野七生のライフワーク、ローマの歴史を少しかじったことがある。その中で、ローマの皇帝にとっての政治とは、国民にパンを与え、娯楽としてサーカスを提供することだった、という(表現は違っているかもしれない)一節を覚えている。歴史書には今の西欧の民主主義の源はといえばギリシャローマの時代、と書いてあるが、その社会のインフラは実は奴隷が支えていたという事実は無視されているのがふつうである。それにもかかわらずこの時代が西欧文化の根源としてある種の理想形態として論議されるのは、実は民主主義か否かなどという議論ではなく、”とにかくパンに事欠かず、サーカスを楽しめれば幸せだ“ということだったのではないか。その陰で奴隷たちがどういう生活を送っていたかなどということは考えずに。
先週は太平洋戦争(学会ではこの戦争の正式な呼称が決まっていないというのだが)終結80年、ということで回顧や秘話といった報道が沢山あったし、このブログにも畏友船津の一文をご紹介した。いろいろな主張があり、それぞれの戦後があるのは十分承知で、ぼくはこの80年の日本の政治はまさに歴史に残る成功例なのだ、と言ってみたいのである。その心が、上にひいたキルギスの一主婦の至言なのだ。
経済の専門家は日本経済の脆弱を憂い、市民団体や一部自称インテリは憲法9条が平和をもたらしたのだという頑迷な迷信におちいり、右翼の人は日本人の劣化をなげき、かたやいろいろな自己憐憫の果てに殺人や放火を平然とおこなう輩がいる、この日本の80年の政治を、歴史に残る善政だ、と勇気をもって小生は主張する。その理由はただひとつ、1945年8月15日以降、80年の長いあいだ、我が国はただひとりの若者も戦争で死なせていないからだ。日本だけだ、とまで言い切る勇気はないが、このような国がいくつあるか。こんな例は江戸時代の我が国を覗けば稀有の歴史的事実なのだ。キルギスの主婦が喝破したような、そういう社会が今、ここにあるのだ、とは思えないか。
しかしながら今日まで、日本の政治が優れている、と論じた例はまず存在しない。労働生産性が低いとか、平和ボケだとか、確かに現象として存在することはもちろん認めるし、現在が理想状況なのだ、などというつもりはもちろん、ない。ないけれどもあえてふたたび勇気をもって言い切ってしまえば、今日の日本がそれなりの平和を謳歌できる最大の理由は米国の軍事力に支えられているのであって、拝米主義と言われようが沖縄の基地問題があろうが感情論がなんとわめこうと、ある意味ではまことに冷酷な事実なのではないのか。そして何と言われようと、現実は現実である。憲法論議が盛んだが、現憲法では国を支えきれないという単純な事実はなにも憲法学者でなくても、我々にも読めるその前文を一読すればわかることだ。そしてアテネの民主主義が実は奴隷労働によって支えられていた、という史実を思い出してしまうのだ。
しかし国民の多くが、日本の政治の貧困をなげく、最大の理由は見識ある人々を含めて多くの日本人が、一様に極めて薄い間隙からのぞいた他国のいわばいいとこだけを見て、それと日本の現実と比較した結果、だから日本はだめなんだ、という自虐的妄想に落ちいっているからなのではないか。
マスコミの報道は連日のように、政治家や資産家連中の腐敗や騒動やに満ち満ちているが、ほかの国の裏面は特別の機会でもなければ、あるいは情報通、と自称する人々のツイッターでもあさらなければわからない、つまり他人の芝が青いか黒いかも知らずに自分だけで落ち込んでいるのではないか。
面白いのはこの読売記事のタイトルが民主主義、という言葉に対して強権、と言っていることだ。中国はその強権政治の見本みたいなものだが、なお、共産主義、という看板を下ろしていない。小生の共産主義についての知識は共産党宣言を読んだ程度でお話にならないが、それでも、今の中国の在り方がマルクスレニンの主張とはかけ離れたものであることだけはわかる。此処でももう、イデオロギーで政治を論じることの無意味さを改めて感じる。キルギスの主婦の一言が今の世界のすべてで問われるべきことなのではないだろうか。
「中国「国恥地図」の謎を解く」を読んだ(2021年、新潮新書)。父親が中国人、母親が日本人の譚璐美(タン・ロミ)の作品で、塾の文学部卒業。
国恥(国の恥)と言う、オドロオドロしい言葉に惹かれて手に取ったもので、日本で言えば、ロシア、韓国に、夫々、不法占拠された北方四島、竹島の失地回復の類いの話しだ。
その地図には色々な版があるが、一言で言ってしまえば、「中華國恥圖」とは、中華民国の前の清の最大の版図と失われてしまったそれとの比較を通じて、この失地は、国の恥であると中国人の民族主義(ナショナリズム)に訴え、それを高めることを目的としたもので、中華民国の蒋介石が音頭をとって、全土に亘って小学校以上に推進したものだ。その内容は、簡単に言ってしまえば、
1.喪失した辺境(例えば、樺太、満州、台湾、香港、マカオ)。 2.撤廃された藩邦(例えば、琉球、朝鮮、ベトナム、タイ、ラオス)。 3.租借された地域(例えば、遼東半島は日本の租借地)。租界或いは居留地(例えば、上海、アモイなど)などであり、日本に較べ国土が桁違いに大きいだけに、ほら話しにも等しい内容の失地の多さがその特徴だ。
中華人民共和国(以下、中共)はそれを踏襲したもので、正当な失地であるならば、正々堂々と回復を促進すべきだろう。しかし、例えば、九段線(キューダンセン)と言われる九つの破線で囲んだ南シナ海の海域を中国領と決めつけた。ところが、ご存知のとうり、2016年、オランダはハーグの常設仲裁裁判所から「法的根拠がなく、国際法に違反する」との判決が下った。ところが、中共は、この判決は紙くずだと言って拒否。一方、提訴していたフィリピンも、大統領が、中国に買収されたにも等しいドゥテルテに変わっていたため、ここでも屑箱に捨てられてしまった。一体、正義はどこに行ったのか!なお、中華民国時代は、それが十一段線だったが、中共がベトナムに配慮して、その内の二段を消去し九段としたもので、この一事をもってしても、この段線が極めて胡散臭い代物であるのは紛れもない事実だろう。
いずれにせよ、裁判所から違法であるとの判決が下ったように、この段線は、今や、中共の完全な創作と言って良い(台湾は、依然として十一段線に固執している)。また、一方では、中国の南限は海南島であると明言している地図もある(これに基づけば、南シナ海は中国に属さないことになる)。事程左様に地図は極めて恣意的に作成されており、濫りに信用するわけには行かないと言うことだ。
最後に、譚璐美の締め括りの言葉、「二十一世紀の今日、中国が近代国家として世界の仲間入りを果たしたのであれば、今さら過去の幻想を夢みて「歴史物語」に酔いしれている場合ではない。歴史は歴史として検証し、現実のこととは切り離して考えるべきだろう」。しかし、無謬の共産党が支配している中共には、何を言っても蛙の面にションベンだし、果たして聞く耳を持つ国だろうか。
第二次世界大戦下、ナチの解読不能と思われた暗号「エニグマ」解読に成功した、アラン・チューリングの物語です。この「天才数学者」による解読過程は、難しすぎて分りませんが、世の中には信じられないほど頭の良い人物が存在するのですね。ご承知かと思いますが、この解読に使った「チューリングマシーン」がコンピューターの原型と云われています。我々が、多大な恩恵を被っているコンピューターはチューリングやフォン・ノイマンのような桁外れの天才達によって生み出されたわけです。
ちなみに、現代の暗号技術は、最先端の数学を利用し、100%解読不能ということですが、凡人にはさっぱり分りません。なお、チューリングは戦後、当時許されなかった「同性愛」で逮捕され、数年後40代の若さで自殺しました。天才の宿命なのかもしれません。しかし、彼の解読のお陰で、終戦が2年早まり、1400万人の命を救った、とも云われています。
最後に、先日話題になった英国女優「キーラ・ナイトレイ」も出演していました。・・・美人女優というより演技派女優という印象でした。
(安田)アラン・チューリングは当時法的に許されなかった同性愛で「風俗壊乱罪」宣告を受け(1952年)、刑務所に収監される代わりに同性愛を「治療」するための化学療法を処分として受け入れたが、1954年には青酸カリで自殺した。41歳であった。その時好きなリンゴに青酸カリを塗り食べたという。映画の場面で彼が仲間にリンゴを振舞うシーンがあるが、自殺の事実を知れば意味深なシーンだったと思う。アップル・コンピューターの創立者スティーヴ・ジョブはアラン・チューリングの天才と業績を尊敬していて、アランが死に臨んで最期に食べたとされる彼の好きなリンゴに因み、社名とロゴマークをリンゴ(アップル)にしたと伝えられている。イギリスで同性愛が罪でなくなるのは1960年代、スコットランドやアイルランドではもっと遅く1980年代であった。第二次世界大戦の陰のヒーロー「計算機科学の父」と言われたアラン・チューリングの恩赦は没後59年経った2013年12月24日(クリスマス・イヴの日)に確定した。英国の同性愛者数万人に死後恩赦「チューリング法」が施行されたのは2017年2月1日であった。つい最近であった歴史的事実には驚くばかりだ。戦後チューリングが勤務したマンチェスター大学のある市内には彼の銅像が建てられている。
難攻不落ともみえたエニグマの解読が、ドイツ軍の通信を傍受していて女性職員の会話に決まって特定の言葉が含まれていることに気づく。毎朝6時に発せられる最初の常套句であった「天気」「ハイル・ヒトラー」の単語を拾うように装置を調整すると即座に暗号の解読に成功したという。暗号解読に与えられた研究猶予期間1カ月の期限がせまる間一髪の解読であった。
映画の中で印象深かったのは、
(菅原)真夜中の戯言。話しは知っていましたが、映画は見ておりません。でもこのチューリングって言う人が開発した暗号は誰にも解けないものなんでしょう、本人にとっても。
(小田)シャーロックを観てカンバーバッチが好きになり、この映画も以前
わが家は切ったりんごをいつもガラスの密閉容器に入れておきます
又キーラ・ナイトレイが出ていたことも発見しました。彼女は私の
(小泉)「イミテーション・ゲーム」何の気なしに見たら、引き込まれ最後
(編集子)”エニグマ” の解読という事実を扱った小説はいくつか読んだ記憶があるし、映画でもこの作品のほかにサイドストーリー的に出てきたものもあった。安田君が書いている襲撃計画のほかに、同様の理由でチャーチルが事前に知っていたのに空襲を許したという史実があるようだ。ウイキペディアによると:
この空襲について、イギリス政府は事前にドイツ軍のエニグマ暗号を解読し察知しながら、その後の迎撃戦を有利に運ぶため、コヴェントリー爆撃がわかっていたにもかかわらず故意に放置したとする陰謀論があり、「小の虫を殺し大の虫を生かす」類の説話としてしばしば語られる。しかしBBCによれば、真相はイギリスはエニグマ暗号自体の解読には成功したが電文中で標的は「Korn」とコードネームで書かれていたために、それがすなわちコヴェントリーであるということまではわからなかったとされる。
このあたりはアングロサクソン人種の持つ冷酷なまでの論理性に心冷える感じがする。その意味では主演のカンパ―バッチというのはまさに当を得た配役だったのではないか。先週来、パワーオブザドッグが話題になっているが、はっきり言って小生の好きなタイプではないけれど。
私(関谷)の本籍は生誕地である東京都文京区目白台、これまで住んだ地は国内外様々ですが、東京出身である事を自負しております。その東京の数あるシンボルの中で、未知の世界は「東京タワー」(勿論、「スカイツリー」も!)と「高尾山」でした。東京タワーは未だ制覇しておりませんが、「高尾山」は、2017年末、女川の牡蠣とワインでの忘年登山との「月いち高尾」の誘いに釣られたのが運の尽きでした。爾来、高尾の四季折々の自然、諸先輩方との気の置けないお付き合い、「天狗」での反省会等々に魅了され、本州西端の片隅に住みながらも、可能な限り、参加してまいりました。
ジャイさんを中心にKWV36年卒の「ナンカナイ会」の皆さんで2011年1月から始められた「月いち高尾」ですが、その趣旨について、『ナンカナイ会 その"ふみあと“』(2017発行)から抜粋してみます:
“いくら張り切ってみても加齢現象は我々の現実である。しかしアルプスはダメとしても、せめて低山でいいから、可能な限り、”山“に接したい。低山の代表選手である高尾山くらい、せめて月いちどでいいから、歩いてみないか。あまり期待せずに数人で呼びかけたプランは予想外に長続きしており、さらに最近、直近下級学年からの参加も増えてきて、これがナンカナイ会のみならず、シニアワンダラーの既定プログラムとして継続されそうな気配もしてきた。 この”月いち高尾“が予想外に長く続いたのは、場所と実施日を基本的に固定したこと、事前通知不要として完全に個人の当日の具合で参不参加を決めるようにしたこと(現在では事前エントリーが原則)、および途中から偶然に発見した居酒屋での打ち上げについては、それだけの参加も可としてハイク以外での会合機会としたこと、などが理由であろう。当初は同じところだけではつまらないのではという危惧もあったが、むしろ、季節を変え、ルートを変える事によって、いままで想像もしていなかった高尾山領域の魅力を発見することにつながったし、高齢者の登山に不安となる事故対応がすぐとれるという安全感も大きかった。 発足後6年を経て、他学年各位の参加が増えてきたことから、このWの企画運営を若い層に依頼し、シニアKWVers向けの広いプランにしたらどうか、という気運が生まれ、2017年1月から、その任を39年卒の堀川義夫に委託することとした。我々は今後も積極的に参加するが、より多くのOBにとって、有意義なプランとなってゆくことを期待している。”
2017年1月より、ジャイさんを引き継いで、39年卒の堀川さん、岡沢さんと40年卒の藍原さんで「KWVシニアワンダラーズの世代を超えての心のつながりを維持・持続してゆこう」とのこの集まりの基本理念に基づき、新型コロナという未曽有の禍に直面しながらも、5年にわたり運営いただき、継続されています。この「月いち高尾」の更なる継続・持続の為、堀川さんが傘寿を迎えられる事等々もあり、山行後の飲み会の席で、唐突に、後を頼むとの打診がありました。この集まりの基本理念は、長年、OB会活動に多少なりとも関わってきた私の思いでもありましたので、住まいが遠方であることや、近年、衰えが顕著な足腰の事などすっかり忘れ、飲んだ勢いもあり、引き受けさせていただきました。
千葉県柏に拙宅はあるものの、特養に入所している義母の側面からの面倒見は、当面、続きそうで、山口から首都圏に戻る目途は、今のところ、付きませんが、息抜きも兼ね、定期的に戻りますので、又、強力なサポートの47年同期の伊川さんもおり、2022年1月より、世話人代表として「月いち高尾」を運営させていただき、更なる世代を超えたワンダー仲間の参加を図ってゆく所存です。
なお、伊川さんと51年卒の斎藤邦彦さんに 協力していただき、「安全・安心」を第一とした楽しい集まりにしたと思います。皆様、よろしくお願い申し上げます。 以下、これからの ”月いち高尾” の進め方について確認させていただきます。ぜひ、多くの KWVers の新規ご参加をお待ちしますので、下記連絡先までご遠慮なくお申し込みください。”高尾なんておかしくて行けるか!” などと思っていませんか。 四季折々に訪れることで、(これこそが日本の山なんだ)ということを味わい、”古き友との新しき会合” を楽しみませんか?
2022年 「月いち高尾」の方針 確認事項・お願い等々
世話人代表 関谷 誠 (47年) sekiya@kba.biglobe.ne.jp 080-1289-2250
共同世話人 伊川 望 (47年) qkygj774@yahoo.co.jp 090-5541-5636
共同世話人 斎藤 邦彦 (51年) k.saito@amethyst.broba.cc
参加人数も毎回多くなりました。平均年齢も上がって来ました。体力に合ったコース分けも必要になります。ワンデリング内容の検討およびオーナーとの連絡他必要な活動を3人の合議で決めて行きたいと思います。