”置き配とタブレット” 追論6   (普通部OB 船津於菟彦)

斎藤さんのご意見についての感想です。
新型コロナウィルス蔓延旋風は確かに置き配に繋がったと思いますが、必ずしも「南米大河」などの配送業者の都合だけではなく、選挙でもいちいち鉛筆を代えるなど、神経質までの感染防止から来ている物、つまりなるべく人と人が直接触らないという事から来ていると思います。配送業者は門前まで来ることには代わらないので合理化には成りませんね。「麦茶」を出すのは確かに素晴らしいのですが、彼らも寸秒を争い搬送しているようで、私の住んでいるマンションではそんな余裕は無い様です!偶にはお菓子をあげますが(後でヒマの時に食べられるもの)。
犬猫の糞や尿の件についてのご観察には異論があります。
この件は日本は断然優れていると思っているのですがどうでしょうか。錦糸公園でも滅多に「ウン」は落ちて居らず、みな袋を下げて拾って帰ります。又、水も掛けて居る方だ多いですね。外国では「フン」を践むのは当たり前的なところもありますし、狂犬病の予防接種などはいかがでしょう。野犬はまず居ませんし、野猫は見当たりますが矢張り少ないですよね。犬の吠え声の苦情はあるでしょうがこれは狭い日本ですからしかたがないこともあるし、欧米は大きな犬が主流で余り吠え無いですが日本は住居が狭くて小型犬が多くキャンキャン五月蠅いことは確かですね。
もう一つの話題ですがタブレットによる注文とか非接触型の決済が多くなると想います。コンビニでも今やお金は自分がレジに入れおつりも自分が取る方式になったり、病院でカード払いの場合、カードを自分が差し込み読み取り自分が抜く方式が多くなりました。ユニクロは値段表にICタグが付けられ、買い物籠ごとレジに置くと自動計算してクレカを入れれば決済完了。一切人は触らない。
マイナカードの保健証の連携で益々病院では非接触型に成ると思います。その関係でしょうが先生も昔の様に直ぐ聴診器を当てる先生は少なくなり、顔色もろくに見ず、ディスプレーで診断するのは抵抗があります。先日久し振りに聴診器で観てくれる先生に会いました。これは医者は仁術ですから、顔色とか話し方なども含めて診断して欲しいです。
その内に「タブレット診断」になるなんてのはご免です。
(編集子)本件、犬猫問題に予想外の関心があるようだが、原文の趣旨は日本の文化というものが歴史に与えてきた事実を改めて見直してはどうか、ということだった。このことについては現在、百田尚樹 の ”日本国紀” を読んで、多少感じるところがある。

“置き配とタブレット”  追論5  (普通部OB 菅原勲)

小生、1990/91年の2年間、パリに飛ばされた。30年以上も前の昔の話しだ。当時、大統領はF.ミッテラン、首相はE.クレソン女史。つまり、社会主義政権(これは、非効率極まりなかった)。パリの生活、不平不満は山ほどあったが、最後は住めば都で胡麻化された。

ここでは、以下の一つの話題に絞り込む。花の都ならぬ、糞の都の話しだ。グチャリ、グチャリの洗礼が始まれば、「何がサルトルの実存主義だ、何がボーヴォワールの第二の性だ、クソクラエ」と毒づき、室内での靴の生活も乙なもんだと思っていたが、急遽、スリッパに変更した。そこで、素朴な疑問。靴を室内まで持ち込む生活と玄関で脱ぎ捨てる生活とでは、「武漢ウィルス」に感染する確率は違うのか。もう一つは、平井さんが指摘されているように、歩道に犬の図が書かれたお手洗いだ。そこで犬が用を足す、しかし、後始末はしない。そこで、確か緑色だったと思うが、オワイ屋ならぬオワイ車が出動して回収に回る。これは、30年ほど前の話し。

そこで、ボンクラは考えた。犬を飼っている奴は、自分の家は頗る清潔で、罷り間違っても、まさか、自分の家が犬の糞まみれになっている筈はない。ところが、一歩、公道に出るとこの様だ。月とスッポンほどの違いがある。そして、その違いは、公衆道徳なんて難しいことを言う前に、自分さえ良ければそれで良いと言う甚だしい身勝手さと言う精神構造にあるのではないかと。

平井さんの情報によると、最近、大分、改善されているらしく、それ自体はご同慶の至りだ。しかし、これは2年後に迫った2024年の五輪を意識してのことだろう。そうであれば、身勝手さと言う精神構造が変わらない限り、五輪と言う錦の御旗が亡くなれば、元の木阿弥に戻るのは間違いない。それにしても、犬の糞の放置を実存主義はどう説明するのだろう。そして、一時流行ったT.ピケティは、どう弁明するのだろうか。

オミクロンをみくびってはいけませんよ   (普通部OB 篠原幸人)

ついに東京都のコロナ患者は連日2万人を超すようになりました。皆さんは御無事でしょうか? 皆さんは大丈夫でも、ご家族や親しい方の間にもコロナ患者は増えてきていると思います。あるいは沢山の方がご自分では気づいていないなんてことも十分想像されます。

中国では毎日あれだけPCR検査が行われているのに、日本ではPCR検査が間に合わないから症状から推定する「みなしコロナ診断」なんて、世界の先進国を自負していたかっての日本はどこへいってしまったんでしょうね。これも1年も2年前からこのような状況を想定して手を打ってこなかった厚生労働省あるいは政治の大失敗であることは明らかです。私も患者さんからの電話だけで、風邪やインフルエンザ、花粉症とコロナを見分ける自信は全くありません。

一方で「安倍のマスク」の嫁入り先が引く手余多だとはしゃいでいた人は、それにかかる運送費がまた莫大にかかると聞いて、おとなしくなってしまいましたね。自分の失敗には目をつぶり、成果は120%強調するのが、優れた政治家だったんですね。

さて、政府は3回目のワクチン接種普及に大わらわです。これ自体は私も大賛成で、是非進めて欲しいと思います。しかし、3回目接種はまだ日本の人口の数%ですが、まだ3回接種したのにこのオミクロン株に感染した人の%は発表されていません。そんな数字を今、出すと3回目接種推進の障害になると考えている役人・政治家もいるのでしょうね。3回打ったって、コロナに罹ることはあり得ます。但し、程度が軽くあるいは無症状になる確率は高いというデーターがあるだけです。もう3回打ったか方、今まで通り、油断をしないことが肝要です。

確かに重症肺炎コロナ患者さんは減りました。しかし死亡例は可なり出ています。特に本稿の読者は高齢な方も多いので、「コロナはもう風邪みたいなものになった」とは絶対に考えないでください。むしろ自分で気づいていない感染者が、貴方の周りにウヨウヨ居て、感染の危険度が高まったと思ったほうが良いかもしれません。

考えても見てください。例えば家族などに感染が出て濃厚接触者と判定されても、7日過ぎて何の症状がなければ、通常活動に戻っていいことになりました。それ自体は経済をまわすためにも私も賛成です。確かに最近のオミクロンは7日以内に99%ぐらいに確率で感染が起こります。だから患者やその可能性のある人に接触しても、7日過ぎて症状がなければ心配ないという考えは理論的には正しいのです。しかし、実はもうとっくに感染し、症状がないままに7日を過ごして、自分はコロナ感染は避けられたと自信過剰になる、こんな人も多いと思います。しかしこの根拠はなにもないのです。だって今回のオミクロンは本人は症状が無いか軽いのに、他人に特に持病を持った方に感染させる可能性が高いのです。久しぶりにお孫さんに会えたからと、イチャイチャするのはもう少し控えてください。オミクロンは無症状感染者が非常に多く、本人は平気でも、その方から感染した高齢者や何らかの疾患を持っている方は、たとえ肺炎にならなくても重篤な症状を呈しあるいは亡くなることも十分考えられるのです。

前回オミクロンは「曲者である」と私が書いた真意はそこにあるのです。オミクロンを見くびってはいけません。彼らは更なる進化(変異)あるいは飛躍を虎視眈々と狙っているに違いないのです。

エーガ愛好会 (120) トム・ホーン  (34 小泉幾多郎)

冒頭「これは実話です」とティロップが流れる。製作総指揮までスティーヴ・マックイーンが請け負ったというから、トム・ホーンの生き方に、感じ入るものがあったのだろう。監督にはTVドラマを作っていたそれ程個性のない人(ウイリアム・ウイアード)を選んでいるところは、自分の意志を前面に出し得る背景を考えたかも知れない。トム・ホーンは駅馬車や要人の警護をへて騎兵隊斥候として数々の戦いに参加し、アパッチとの戦いでジェロニモ投降に貢献したり、賞金稼ぎとしても名を馳せたとのこと。

そのトムが晩年ワイオミング州ハガービルという地にやって来てからの物語。1960年代「荒野の七人」や「大脱走」等で軽い身のこなしでの恰好良さで魅了し
たマックイーンではなく、老けた淋し気な笑顔と諦観にも似た振舞いが哀愁を放つ。牧場主ジョン・コーブル(リチャード・ファーンズワース)の目に留まり、牧場を狙う牛泥棒撃退の役割を担う。小学校に勤める女教師グレンドレーネ(リンダ・エバンス)と恋仲になり、壮大な自然の中、牛泥棒を追いかけ、ライフルを構え撃った時の衝撃が伝わるマックイーンのサマは相変わらずの魅力を見せるが、見せ場は此処まで。後半になると、マックイーンの消え行くヒーロー像の容赦のない描写に、とてもついて行けない。

牛泥棒撃退に貢献したにもかかわらず、目的のために手段を択ばない荒っぽいやり方に眉を顰める者や自分の手柄を横取りされたと妬む保安官ジョー・ベル(グリーン・ブッシュ)等から少年牧童殺しの嫌疑をかけられてしまう。本来は自分の一発でないのに、保安官ジョーの策略に罹り「俺が殺したなら最高の一発だ。そして最悪のな。」と喋ってしまう。その結果逮捕されてしまう。牢獄での経過が長過ぎ、もう見ていられない。一瞬脱獄のシーンもあるが、マックイーンなら早馬にでも乗って逃げ去るのに、駆け足で逃げる、走り方も尋常でない。当然のように馬で追いかけられ捕まる。最終的には絞首刑。その間、己の死を悟っていたかのような覚悟のようなものを感じる。

悪性胸膜中皮腫と診断されたマックイーンが消えゆくトムと言うヒーロー像に自身のキャリアの終わりを重ね合わせていたのだろうか。この映画の翌年50歳で生涯を終えている。 要は荒っぽい時代、命をとるかとられるかを生き抜いた男にとって、法と秩序の世界では生きられなかったということなのか。そんな単純なものではなかった筈。しかし時代に乗り遅れた人間に社会はどこまでも冷酷ということも事実。マックイーンの最後の西部劇だが、もう二度とは見たくない。前半だけなら見てもよいが。

(安田)スティーヴ・マックウィーンは「荒野の七人」「大脱走」「ネヴァダ・スミス」「ブリット」「ゲッタウェイ」「タワーリング・インフェルノ」などクールなカッコ良さでお気に入りの俳優だった。難病に侵され死期を覚悟してたかも知れない時期、製作総指揮と主演が彼だと知って初めて観た。遺作一本前の映画だ。鑑賞後感は、小泉さん、ジャイさんと全く同感でどっと暗い気持ちになった。彼の死は映画の1年後だと知った上で映画を観たので、小泉さんの名解説通り、映画の結末と彼自身の最期は死因は違えども運命的に似通ったものを感じる。どんな気持ちでこの映画を製作する気になり、演じたのかと想いを馳せた。調べると海兵隊時代(194750年)、兵員輸送船のパイプからアスベストを除去する作業に従事したことがあり、それが起因のアスベスト露出と関連した癌(胸膜中皮腫)で50歳の若さで亡くなったと推測されている。颯爽とカッコいい彼の最期の映画には相応しくない内容だ。哀れな気持ちにさせられた。また、彼は晩年に「信仰のみ」「聖書のみ」を主張する福音主義に改宗もしている。自由奔放な映画人生と私生活を送った末の死が近づく最期に宗教にすがる気持ちにでもなったのだろうか。映画のエンディングの筋書きにも影響を与えたのだろうか。

映画の途中でワイオミングの牧場のど真ん中で東海岸メイン州から汽車で運ばれた大きなメインロブスターを食べるシーンがあって、驚いた。こんな辺鄙な山奥で数千キロ離れた大西洋の海の幸を? 映画の物語は20世紀初頭。アメリカ横断鉄道は既に1869年(明治2年)に大西洋岸と太平洋岸都市を結んでいて山奥のワイオミングへも物資を運んでいたのだ。有名な明治新政府岩倉具視団もサンフランシスコから東部へはこの大陸横断鉄道に乗ったそうだ。アメリカの西部開拓は思っていたより早く進んでいたのが分かった。

(飯田)今回はをBSシネマで観ていませんが、依然見た印象は小泉さんの名解説、安田さんの感想と全く同感します。マックイーン主演の作品はご両人が書かれた文面に出てくるようにクールで格好良い作品が目白押しです。ただ、ご両人が偶々挙げられなかったとも思う「砲艦サンパブロ」(1966年)「パピヨン」(1973年)の2作はそれぞれに3時間、2時間半と長編で公開前から注目を浴びた作品ですが、私は両作品とも鑑賞後に失望を覚えた印象があります。

理由は前者はテーマが重すぎて難解でした。後者は仏領ギアナの流刑囚の救いの無い暗いストーリーだったと思いますが、マックイーンが「トム・ホーン」を含め、クールで格好良いだけでなく、やや分かりにくい俳優なのかも知れないと単純に思う次第です。

(菅原)小生にとって、スティーヴ・マックイーンと言えば、テレビ「拳銃無宿」のジョッシュに尽きます。

(編集子))小泉解説、最後の一行に全く同感で、見れば2回めになる今日は見るのをやめた。この映画のことで思い出すのが ラストシューティスト だ。ジョン・ウエインの遺作になったこの作品、言ってみれば友情出演だったのだろうがジェイムズ・スチュアートとローレン・バコールにもその別れを意識したような、暖かい感じが漂っていた。彼の死期が迫った時、長年の友人だったモーリーン・オハラがメディアに語り掛けて、あの人を何とか救って、と訴えたのを今では何を通じてだったかも思い出せないが、涙をこらえて読んだのを思いだす。最後は最後なのだが、トム・ホーンほど暗くならないのは、ストーリー上、曲がりなりにも最後まで戦った、という言い方はおかしいがポジティブなエンドマークだったせいだろうか。

この翌年、米国出張をごまかして、カリフォルニアはオレンジ郡、オレンジ空港を訪れた。同市がウエインを記念して、空港名を John Wayne Airport と変えたことに感激して、写真を撮って、帰ってきた。

 

”置き配とタブレット” 追論4  (在パリ 平井愛子)


面白い対話ですね。私のフランスの友人達が日本へ行って異口同音にいう事は、日本は道路も公共のトイレもチリ一つ落ちていないで清潔で信じられないほど綺麗だ ということです。犬の糞は大分良くなりましたが、場所によって違います。パリの歩道の所々に実は犬の用足しはここでするようにという印があるのです。その場所は時間によって自動的に噴出する水が道の下に通る下水道にゴミや何かを押し流すようになってはいるのです。でも私がパリに来た頃は、パリは上を向いて歩けないところだとつくづく思いました。もう20年か15年ぐらい前になりますが、犬の糞を飼い主は自分で処理するようポスタ-が張り出されてキャンペ-ンが一時よくされていました。そのポスタ-には車椅子の人が車に手をかけたその車輪に糞が付着しているという写真が印刷されていました。これが効を奏してか、今は随分綺麗になりました。実際犬を連れて散歩をしている人がちゃんとプラスチックの袋で取っているのを私も目撃していますので、随分変わりました。でも所によります。パリの中心や6区7区あたりは綺麗ですが、周辺地域はまだまだです。コロナで一時駅も道路もメトロの中も本当にきれいに掃除され、消毒液で電車のドアや皆が摑まる柱を拭いていたりしていましたが、また元の木阿弥という感じになってきました。清潔感や衛生心理が違うのですよ、日本とは。

でもオリンピックに向けてパリの美化運動は進んでいるようですから、期待はしたいと思います。

(編集子)平井愛子さんは、在パリ30年以上のキャリアウーマン。現在はフランス政府公認ガイド。安田君の元会社同僚の従姉妹で、音楽・美術・歴史・文化、人間の生き様などに関心深く、1年前からフランス便りYouTubeを配信継続中。

 

エーガ愛好会 (119) おとうと   (普通部OB 船津於菟彦)

あらすじは結婚してすぐに夫を亡くし、小さな薬局を営みながら、女手ひとつで娘の小春を育てた姉・吟子と、役者としての成功を夢み、無為に歳を重ねてしまった風来坊の弟・鉄郎の物語である。鉄郎は姉・吟子の夫の十三回忌の席で酔っ払って大暴れし、親類中の鼻つまみ者となっていた。以後吟子との連絡も途絶えていたが、娘のように可愛がっていた姪の小春が結婚することをたまたま知り、披露宴に駆けつけた。
歓迎されざる客を追い返そうとする親類を吟子は取りなし、鉄郎に酒は一滴も飲まないと約束させて披露宴に参加させた。しかし鉄郎は目の前に置かれた酒の誘惑に抵抗できず、あっさりと約束を破ったばかりか酔っぱらって大騒ぎを演じ、披露宴を台無しにしてしまう。その事件は、のちに小春の結婚が破綻する一因ともなる。結婚式での乱行に激怒した親類らが次々と絶縁を決め込む中、ただ一人、吟子だけは鉄郎の味方だったが、その吟子も、鐵郎の付き合っている女に150万円借金していてその女が吟子の所へ返済を言いに来て、有り金を総て銀行から下ろして、その女に渡している。この事件をきっかけについに鉄郎に絶縁を言い渡してしまう。鉄郎は悪態を吐いて出て行くが、 このときすでに鉄郎は死の病に取り付かれていた。居なくなった鉄郎の捜索願を出してたんです。で、予想は的中!! 鉄郎は大阪で倒れ、民間のホスピス「みどりのいえ」に引き取られたという鉄郎は、末期がんに侵されていた。面会を拒絶する鉄郎だが、吟子が想像するよりも元気な姿で過ごしている。口達者な鉄郎はみどりのいえでも、よく話を聞かせているという。支払いを心配する吟子だが、生活補助や国からの補助金で賄われていると所長から説明を受けるのだった。、。ここのホスピスの人人が笑いと人としての優しさに満ちあふれている。一つの季節を跨ぎ、みどりのいえから鉄郎の容態が悪化したという連絡が吟子の元に届く。互いの手首にピンクのリボンを巻き付け、存在を確認できるようにした吟子。鉄郎の容態が山場を迎えた頃、小春と亨も駆け付けたが、鉄郎は吟子たちとみどりのいえの人たちに見守られ息を引き取った
しばらくして落ち着いたころ、小春は亨との結婚式を控えていた。痴呆が始まった義母が「あの人だけのけ者だと可哀そう」だと鉄郎の心配をし始めた。これまで白い目で見られてきた鉄郎への優しさに吟子は涙をこらえ、小春は「今からでも呼ぶわ」と声高らかに返答をするのだった。
キャストの• 高野吟子:吉永小百合• 丹野鉄郎:笑福亭鶴瓶• 高野小春:蒼井優が何とも言えない好演。そして何時ものタンタンとした普通の生活を描く• 監督:山田洋次。
邦画らしいというと偏見はあるかもしれないが、とても穏やかに人の温かみを伝える物語である。東京が舞台ながら、人情劇が会話と目線で伝わるのは山田洋次監督の手腕によるものか、吉永小百合などの演者の実力か。淡々とした展開ながら、家庭における普遍的な問題がたくさん提起されている。ベルリン国際映画祭のクロージング作品に選ばれていることからも、世界共通の「家族像」が伝わる一作であることは間違いないだろう。
正に「家族」とは。とか人の「死」とは。「人情」とは。とか語りかけてくることを大声で言うのでは無く、山田洋次監督の独特との描き方で何気なく描いている。そし吉永小百合と笑福亭鶴瓶の好演が光。それをに何とも愛らしい蒼井優がカバーしている。
いい年をした大人の男が、大きな声で「お姉ちゃん!お姉ちゃん!!」と姉を呼ぶ。その屈託のない笑顔は、最期の時を待つまで変わらなかった。いい加減な弟を、腹立たしく思いながらも憎めず、常に心配している姉も、変わらなかった。家族のあり方なんて、仰々しいものではない。家族の本来の姿なんだろう。小生も4人兄弟でしたが既に三人は鬼籍に入り一人残されている!何となく寂しい。やはり「お姉ちゃん!お姉ちゃん!!」と言ってみたかった。

”置き配とタブレット” 追論3   (会社時代友人 齊藤博)

置き配というシステムは、新型コロナ禍で始まった緊急避難的な業務遂行方法だと思っている。つまり、Amazonを始めとする通販会社によって、その販売を継続させるために考えついた戦術に過ぎなかった。新型コロナ禍でこの方法が始まって、禍、すなわち難儀でなくなっても、この置き配は続くのだろうかと思う。

新型コロナ禍の前から、少子化という視点も含めて、宅配業者にとって、宅配すべき物品をどのように効率よく受取人に渡すかが問題になっていたように記憶している。たまたま降って湧いた新型コロナ禍で、追加コストをほとんど掛けずに、物品を受取人に渡す算段がついたのは、ラッキーだと思う。

私の住むマンションには25年前から宅配ロッカーというものがある。近くの駅にはヤマト運輸関連のPUDOステーション(Pick Up & Drop Off station)というものがある。これは佐川急便の宅配でも使える。近くにはコンビニがあり、宅配をコンビニで預かってもらうことも出来る。最近では戸建て用の宅配ロッカーもあるようだ。実にコンビニエントな都市生活になったものだ。我が家では、宅配のお兄ちゃんお姉ちゃんが暑いさなか荷物を届けてくれると、一杯の麦茶を出すのが恒例になっていた。配達員のご苦労をありがとうと言葉とともに伝えていたつもりであった。一杯の麦茶を出すのは、生産性と言うか効率の観点では最悪かもしれない。でも、私の周りにいる人と人とのつながりではないかと思う。

タブレット注文も、Giさんの仰るとおりだと思う。追加であるが、メニューでもタブレットでも、舐めて味がするわけない。どちらでも良いじゃないかと、お店にとっては集計の手間を掛けずにできるのが良いというわけなのであろう。自分の好みや、子供のアレルギーでの禁忌な物の問いかけも出来ない。色々と食事制限のある身にとっては、困る。北京オリンピックで天井から食事がおりてくるのに似ている。

皆さんのコメントとは違った角度でみて、置き配とタブレット注文は、SDGsと叫ばれていながら、反対方向の事に思う。売る側の論理だと思う。戦略と戦術を混同している日本の表面だけを捉える文化に見えて仕方がない。

蛇足であるが、犬猫の糞や尿の件では、小生の最近の保健所での経験から現状はきれいごとでは済まないと感じていて、もしかすると先進国の中で日本は最悪の部類に属すると思う。保健所勤めで受けた苦情の多くの部分は、放置された糞尿、鳴き声であった。私の最多訪問国のドイツやオーストリアではありえない現象で、日本はイギリスに似ていた。そのことについてご参考までに付記する。

しばらく前の良き時代は、多くの犬の飼い主は、本文のように、シャベルと袋を持って犬の散歩をしていたと認識していたが、保健所に勤めて色々と学ぶと、知らないことばかりで驚くことばかりであった。例えば、ブルドックは、自力で出産できずすべて帝王切開、ボクサーという犬は、それなりの長さの尻尾があるが生まれてまもなく切断するのが当たり前、など、知らないことばかりだった。
犬を飼う場合には、予防注射だ何だかんだで、多額の費用がかかるが、今時、そのような予備知識もない方が多いようだし、犬一頭あたりの価格は、安くても3〜40万円もするほどに高騰しているが、それでも、小さな犬を衝動的に買われる経済力を持った方が増えた。それにつれて保護犬を扱うNPOがたくさんできている。
犬猫は外で排泄するものと思っている方も多いようで、マンションの玄関や、近所の駐車場などの暗がりで排泄させる。散歩をして排泄させる場合でも、糞用の袋や尿を流す水を持参して散歩すべきだが、尿をしても、見せかけ程度の少量の水かけしかしない。金属製の電柱の根本が腐って倒れたニュースもあった。狂犬病予防法における犬の登録も、予防注射も罰則付きの法律があるということも知らない場合がある。最近では、うっかり道路の端や草の茂った所を歩くと、「うんのつき」となって、腹立たしさに保健所にしつこくクレームをつける方も増えてきている。区や市によるけれども、糞の始末は、区道であれば、区の清掃事務所が担当するが、私道や個人の敷地の場合は、所有者が行うのが一般的なルールとなっているし、ネズミや鳥、路上の猫の毛皮も同様である。
実は私は「ねずみ算式に増える」という話はネズミのことだと思っていたのだが、ネズミに対抗して猫もねずみ算式に増える。動物の世界では相対する種では、当たり前の話のようだ。

(編集子)齊藤さんは小生と同じ外資系企業勤務で、同じように文化の違いやらなにやらで悩みを語り合ったりした仲。親会社の関係で欧州での経験も豊富。医療関係の造詣が深く、最近は保険所で勤務の経験がある。

蝋梅鑑賞    (34 小泉幾多郎)

2月5日、蝋梅のことをネットで開くと早渕公園という所に60本程咲いているとあった。横浜地下鉄グリーンライン東山田駅から早渕川という川沿いに歩いて10分程度で到着。竹林の傍に咲いていた蝋梅をご紹介します。穴場なのか、階段を下りたわかりずらい場所に咲いているからか、ひっそりと咲いている感じで、土曜日というのに殆んど人に会わずじまい。

(飯田)早渕公園なる所の「蝋梅」の珍しい写真、楽しませて頂きました。
有難うございます。

ところで、日頃、疑問に思っていることを、この「蝋梅」の写真で思い出しました。植物が花を咲かせる主な目的は受粉であると小学校時代に覚えた知識で現在まで進化していない私ですが、「蝋梅」やこの寒い時期に散歩する道端に大きな花を沢山着けて咲く「寒椿」などは、何故、こんな寒い時期に咲くのでしょうか?いくら周りを見渡しても受粉に必要な昆虫類は全く飛んでないし、この年になるまで調べも人に聞きもせず疑問に思っています。
動物の進化論は今また流行りのダーウインを小さい頃に昆虫や動物が好きで
良く読みましたが、植物は綺麗だ!!と人一倍思うだけで、何故なのかは殆ど知らずに生きています。高山植物なら高地で生き残れる生命力があるからだと納得できますが、「寒椿」や「蝋梅」が何故、もっと昆虫や鳥が飛び交う春ではなくこの寒い真冬に満開の花を咲かせているのか、その目的を知りたいと「蝋梅」ならず、「狼狽」しながら伺う次第です。

(船津)何故あんな綺麗な色で花は咲くのでしょうか?「擬態」なども不思議ですね。ウィルスなとも分からない事だらけですね。どうやら光輝高齢者の「老化」は防げるような研究は進んでいるようですが、それでも死は無くならないそうです。生命の起源が分からないようで、懸命に解析中のようですね!遺伝子は殆どが解読されたようです。
哲学的な質問されると「ウヒャー」で「狼狽」してしまいます。さてさて。
「緋寒桜」もチラホラ寒風の中咲いています!紅梅・白梅」も満開に成ってきました!不思議ですね。でもチャンとムシが寄ってきていますね。
綺麗な女性を観ると「何故綺麗?」と思うのでしょうか。それぞれ本能なのでしょうね。意味の無い事無いのでそれぞれ「意味」があるのだと思います。悩むなぁ。

(編集子)フナツ兄、も一度、”平家物語” をお読みあれ。

”置き配とタブレット” 追論2  (36 大塚文雄)

本論を補足する意味で、小生現在執筆中の本から関係する部分を抜き書きしましたのでご一読ください。同書脱稿しましたが出版まではまだ少し時間がかかります。自分の経験から書いた主題はインタンジブルス(無形資産)ですが、本の題名に入るかどうかも分かりません(表紙は出版社が決める領域だそうです)。

 

日本は欧州主要三ヶ国と競いあっていて生産性はそれほど低くない

たしかに日本のGDPは長期にわたり良い数字ではないし、GDPを指数とする経済成長率も低くなります。そこに、日本国民一人当たりGDPは参加38ヶ国中の20位あたりが定位置というOECD情報が加わり(第十六章参照)、日本の生産性が国際的に低いと考える日本人が多くなりました。マスメディアでは常識扱いです。

これは欧米で何年も生活し、欧米人社員と仕事をしてきた肌感覚とは合いません。そこで、ADA思考法で2019年の順位表を読み込んでみました。日本の一人あたり名目GDPは、欧州主要三ヶ国(ドイツ・イギリス・フランス)と4万ドル台で競いあっていて、日本人の生産性がそれほど低いとは思えないのが結論です。

表①はOECD発表の上位22位までに絞り、人口と人口密度を加えたものです。1位から12位までには小人口・低人口密度の国が並んでいて、13位から22位までには人口5,000万以上の国が並んでいます。

表②は22位までを人口の多い順に並びかえたものです。人口5,000万人以上は7か国で、米国を除くと、一人当たり名目GDPが4万ドル台なのは日本と欧州主要三ヶ国(ドイツ・イギリス・フランス)だけです。

参考表③は人口一億人以上の13ヶ国の一人当たり名目GDPで、米国と日本が群をぬいていることが見てとれます。欧州主要三ヶ国と日本は50年間一人当たり名目GDP競争をしてきたのです。

 

 

 

 

 


1950年代に労働組合が「ヨーロッパ並みの賃金」というスローガンを掲げ、「追いつき追い越せ」が日本の流行語になりました。

グラフ①から追いつき追い越せたのは、25年後の1980年頃です。それからさらに25年後の2010年頃に、欧州主要三ヶ国が日本を抜き返したことがわかります。意識の外にあったとは言え、日本と欧州主要三ヶ国は50年の長きにわたり1人当たり名目GDP競争をしてきたことになります。

 

”置き配とタブレット” 追論     (44 安田耕太郎)

ブログ拝読しました。思わず大きく 膝をたたき ました。全く同感。言ってみれば、概ね同一民族による均質性の高い文化・習慣を歴史的に長らく維持し育んできた島国国家・日本の特長・美点を挙げられたと理解します。その多くは日本では当たり前な普通のことでも外国からみれば稀有な驚愕することのようです。

海外から初めて日本に来て驚いたと彼らが指摘することを追加すれば、一つには、現金が詰まった無数の “自動販売機“ が野放図に道端に設置されている事実。最近、自動販売機荒らしが報告されるようにはなったが(外国人の犯行だと目されている)、彼らにとっては信じがたい驚愕する日本の現実。この類の日本独自の美点とも云うべき事例をあげれば枚挙に暇がないが、2~3挙げると、海外から来日した取引先の外国人は、建物の工事現場を見て皆驚いていた。周囲を幕で覆い美観対策のみならず、安全面での対処法にも目をむいて驚く。犬の糞を踏まずに散策できる公園。海外旅行においては命・パスポート・クレジットカードの次に大事なスマホを紛失したが、本人の許に届けられ泣かんばかりに感激した外国人旅行者。彼らにとっては夢のような国。テレビで報告された事例では、紛失したあと帰国した外国人の母国にまで届けられたこともあった。

いわば温かい人間の血が通ったアナログ的な美点を誇りに感じるべき日本人は、現在、便利さ・効率性・労働生産性を追求するいわばデジタル的な会社経営のみならず社会運営を強いられているかのような呪縛に陥っているように見える。それが、社会の進歩と発展と直結していると錯覚するきらいがある。大間違いだ。

日本が挑戦すべきは、例にも挙がった日本のアナログ的美点・習慣を維持しつつ(無意識に維持され)、如何にして貧困化の流れを食い止め、経済発展・成長路線へ国を社会全体を方向転換させるかということに尽きる。安全、安心で裕福な住みよい社会が究極なゴールだ。言ってみれば、アナログとデジタルが究極的に効率よくブレンドしたハイブリッドな社会を目指すべきだと思う。二つは決して二律背反の矛盾することはなく、労働生産性を追求した結果、失業した労働者の仕事・職を確保する新たな雇用機会を新しい産業を興すことで吸収する必要があろう。時間は暫くかかるが、世界的に観て競争力のある付加価値を産む産業の育成、日本の産業構造転換・労働人口の適切な配置・分配、大きな新規雇用機会の創出などを達成せねば貧困化には歯止めがかからない。

日本の現状は、“ 貧すれば鈍す “、” 悪貨は良貨を駆逐する” のスパイラルに巻き込まれている気がして、更に危険が増幅する可能性も大いにありうる。上手く方向転換させなければ、結果はさらなる貧困化をもたらし、そして何百年と維持・運用されてきた長い歴史と文化の土台の上の成り立って来た、このブログ交信でも挙げた幾多の素晴らしい(世界を驚愕させる)日本の美点を犠牲にしかねないということだ。貧困、失業者に歯止めがかからず、“ 置き配” や “自動販売機” は盗難の危険が心配になる社会に決してしてはならない。政・官・産業界・民・教育界・家庭・・全ての関係者・国民にとって突きつけられ挑戦しがいのある課題であろう。