「・・インフェルノ」に加えて、海の「ポセイドン・アドベンチャ
1973年1月サンフランシスコに駐在赴任しましたが、丁度、
シスコを舞台にした映画は数多くあり、皆さんよくご存じのS.
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
仕事を辞めて数年してから、一念発起してポケットブックを原文で読み始めた。その一つのきっかけがアマゾンの存在である。学生時代から社会人5年生くらいまでの間、年に数冊は原書を読むことにしていたが、その本はすべて丸善まで行かなければ買うことができなかったし、たまたま店にあった本を買ってくるだけだった。しかしアマゾンという仕掛けを知ってからはその便利さに完全にはまってしまって、月に一度くらいはポケットブックを届けてもらうようになり、最近は “置き配” という方法で本が届く。誠に便利であるし、配送業者にしてみれば時間と手間の削減、硬くいえば労働生産性の向上に効果があるのはよくわかる。
しかし考えてみるとこのような方法はその社会環境に左右される。言いかえれば、よく調べたわけではないが、世界広しといえども、”商品、家の前に置いておきましたよ“ で配達が済む国はわが国だけではないだろうか。届け物を玄関先においても盗難にあう心配をしないで済む国、工事現場に材料やら機械やらを置いて帰っても翌朝にはちゃんとある国、さらに最近夫婦して経験したのだが、どこへ置いてきたかも覚えていないスマホがきちんと戻ってくる国。犬を連れて散歩する人がシャベルに袋まで持って後始末をする国。欧州の先進文化圏にはほとんど行ったこともないので断言しないが、少なくとも米国には全く存在しない安心というものがこの国では至極当然のことになっている。そういう文化があるからこそ、”置き配“ による生産性の向上ができるわけだ。
”我が国の労働生産性は低すぎる“ ”先進国ではこんなことはない“ ”日本はだからダメなんだ“ 一連の識者と呼ばれる先生方は異口同音に発言される。労働生産性、とは要は付加価値、わかりやすくいえば売上金額をそれにかかわる人数で割った比率のことなのだから、その人数が減れば当然向上する。この手の議論には全く経験がないので判然としないのだが、生産性、を上げるために人手を減らす。そこまでは問題ない。しかしそこで ”減らされた“ 人の雇用はどうなるのか、その結果が引き起こす社会現象はどうなるのか、生産性とたとえば失業率とか犯罪発生率とかの関連、そのあたりについて、かの識者先生方のお考えはどうなのだろうか。
コロナ対策で始まった(と理解しているのだがどうもコロナが収まっても続くだろう)現象の一つに、レストランでのタブレット注文、というのがある。これも工数削減に確かに効果があるだろうことは素人目にも確かである。しかし、である。ま、仕事途中にかきこむランチならともかく、一息入れようかというつもりの場での一つの楽しみはやはり店の雰囲気であり、それが一番よくわかるのが店員さんの応対であり、何気ない会話であり、なじみになれば冗談の一つも交わす、というものなのではないか。それが無機質なタブレットに置き換わってしまう、この大げさに言えば喪失感(!)というか断絶というか、たまらなくつまらない。ここまでやるのなら、言ってみれば自動販売機の前にすわるのと同じではないか。
生産性の分母にあたる人数については、レストランの話はともかく、日本における雇用形態と関連があるのは当然で、アメリカ流の hire and fire が前提ではない。この日本的雇用形態についてもうんざりするほどの議論があるのは承知しているが、基本的に個人を尊重しながら社会の調和を考える日本文化は存在し続けるだろうししてほしい。”個人の自由“ を尊重するからマスクはしない、というような理屈ばかりの議論がまかり通る国では、結局, ”置き配“ は実現できないだろう。
「ホラーの帝王」の異名を持つスティーヴン・キング原作の「Misery」(悲惨の意)の、1990年制作の映画。彼の人気小説「キャリー」、「シャイニング」、「スタンド・バイ・ミー」などに続くサスペンス ホラー・ストーリー。1994年には彼の原作「Rita Hayworth and Shawshank Redemption」(邦題:刑務所のリタ・ヘイワース)による映画「ショーシャンクの空に」(The Shawshank Redemption)が人気を博した。「ミザリー」も彼ならではと唸らせる。原作小
説の方が、映画より場面を想像して膨らませられるだけ、より不気味で怖かった。それでも映画も充分に怖い。彼がこの小説を執筆したのはロンドンへと飛ぶ機内で見た夢に出てきた話を基に一挙に書き上げた由。当時、キングはアルコールと薬物中毒の治療を受けていて、看護婦の世話になっていたところから、主人公の女性を看護婦とした、と言われている。
穏やかで人の良い中年女性役の多いキャシー・ベイツの怖く不気味な怪演が光る。オタクおばちゃんの演技がうますぎる。喜びで浮かれまくっている時のはじける笑顔と、いきなりサイコパス顔に豹変する落差が凄まじい。笑顔と恐怖の顔が繰り返され、次第に恐怖が増幅していく仕掛けになっている。正気と狂気、微笑み・優しさと恐怖の対比による相乗効果は特筆もの。ヒッチコック監督のサイコパス映画「サイコ」1960年で精神病質者を演じたアンソニー・パーキンスの役名はノーマン・ベイツ。どちらの ”ベイツ“ も不気味で怖かった。キャシー・ベイツ42歳時の映画で、アカデミー主演女優賞に値する好演だ。以後、出演機会が増え確固たる位置を占める女優となる。「タイタニック」、「ミッドナイト・イン・パリ」でも好演していた。
ベイツに翻弄される作家役を、「ゴッドファーザー」や「遠すぎた橋」(A Bridge Too Far)などで豪放な役を演じた50歳のジェームズ・カーンが魅せる。彼の両映画出演写真添付。キャシー・ベイツの好演が全てのようではあるが、相手役を演じたカーンの演技も秀逸で、ベイツに対する恐怖や痛みの表現と逃れるための必死の行動があって「ミザリー」は成立している。カーン演じる作家は著作「ミザリー・シリーズ」で知られた存在。映画の題名「Misery」は“悲惨“ と ”小説内のヒロイン名“ の両方を掛けている。巧妙だ。更に、アニーが可愛がるペットの豚の名前もミザリーだ。ファン心理からくるサイコパス女性の狂気を描き、異常なまでに作家を追い込み占有したい欲求に駆られ、それが裏切られた際の恐怖に満ちたヒステリーを演じたキャシー・ベイツには脱帽だ。彼女の狂気から必死に逃れようともがく作家との間の死闘ともいうべき攻防は見応えがある。
物語は、雪に閉ざされた小さな家の中で起こる密室に近い映画舞台設定は、ヒッチコックの「裏窓」1954年、オードリー・ヘップバーン主演の「暗くなるまで待って」1967年のサスペンス映画と同じだ。いやが上にも両主役俳優の名演技と演出が際立つ舞台設定だ。 映画の最後に近く主人公が小説を執筆していたシーンで、チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番が流れていて、ホラーを和らげるかの雰囲気を醸し出すが、そのすぐ後にポールとアニーの命を懸けた血みどろの決闘が始まる。印象的な場面だった。
(保屋野)「ミザリー」、初めて観ました。ホラー&サスペンスというジャンルなのでしょうか。気違い女に監禁された作家が、いかに彼女から逃れられるか、という筋立てで、ハラハラドキドキ感もありました。
主役のキャシー・ベイツはこの気違い女の役でアカデミー主演女優賞をとったそうです。作家役のジェイムス・カーンも雰囲気のある良い俳優だとおもいます。出演はほぼこの二人だけ、という安上がり?の映画ですね。
私はホラー映画が苦手でほとんど観ませんが、この映画や「サイコ」はサスペンスの要素が強く、まあまあ面白かったです。さて、私がこれまで観た映画(少ないですが)の中で、最もハラハラドキドキしたものは「逃亡者」でしょうか。~テレビの方が面白かったですが。あとは「ポセイドン・アドベンチャー」や「恐怖の報酬」あたりかな。
(船津)安上がりの映画。気持ち悪さで引っ張っていく。何となくホラーで
1900年のニューメキシコのシノーラという所を舞台に、土地所
権力と結びついた名目だけの保安官(グレゴリー・ウオルコット)
雄大なロケーションとガンアクション、高性能ライフルでの遠距離
(編集子)ロバート・デュバル はやはり ゴッドファーザー での初見参の印象が強く、どうもこの映画ではミスキャストではなかったかという気がする。ジャック・ヒギンズの名作 鷲は舞い降りた で準主役のラードル大佐を演じたところまでは記憶にあるが、往年のテレビシリーズ コンバット に出ていたとは知らなかった。ローンパインはカリフォルニア中部のサンジョアキンバレーに位置し、デスヴァレーとかマウントホイットニーなどへの入り口にある街で、パイン(松)は見かけなかった気がするし、むしろ ローン、という形容詞のほうが印象に残った、編集子の印象としては冴えない印象が残っている。