政府のコロナ対策に関して   (34 船曳孝彦)

先日掲載の本稿記事(新型コロナ対策)について補足しておきます。

感染症の2類に準ずるという方針でスタートし、致死率で比べるとインフルエンザを上回るものではないという議論から、私も含め、昨年早期から適当ではないという意見が強く、インフルエンザ並みの5類にという意見が強くありました。しかし、5類としてしまうと、入院勧告も出来なくなるし、患者届け出も1周間以内となって、現状把握が悪くなるなどの問題点もあります。

重傷者、中等症者、軽症ないし無症状(未症状)者の3グループの扱いが問題なのです。字面上は1類よりも厳しい新型コロナウィルス感染症でありながら、その時その時の社会状況(患者状況)に合わせてその場しのぎの対策で進めたため、あちらこちらに齟齬をきたしています。

重傷者を入院させねばならないことは自明の理ですが、2類から5類へと変更したとしても、感染者病棟というものには厳しい制約があり、おいそれとコロナ用病棟に変更出来るわけではありません。現在の一般重症病棟から2,3ベッドをコロナ用に使用するということには、机上の計算では簡単ても、多くの問題点があり不可能に近いことです。そこを何とかクリヤーしているのが現状なのです。前室(防災衣服着脱)、換気、遮蔽性、床などなどのハード面の問題があるうえに、コロナ用病棟となれば医師、看護師、検査技師など何倍もの人手が要ります。普通の重症病棟では、隣の患者が急変したらその場ですぐ手助けが出来ますが、感染症病棟ではなかなかそうはいきません。国立の簡易病院建設も視野に入って来ます。

この第5波ますます盛んな現在、どうすべきでしょうか。重症、中等症は何とかしてそれぞれの病床へ入院させ、軽症者はホテルなどに収容して医師の管理下に置く。ごく軽症、未症状者に限って自宅、自粛生活とする。出来ればこれも収容させたい。何故なら家族内感染が目に見えています。患者数が減ることはありません。収容施設としてはオリンピック選手村です。パラリンピックの方が人数は少ないはずです。感染した人たちを少しでも減らそうとしない限り、第5波の勢いは収まりません。

それには、ロックダウンです。日本の法律からも、社会構造からも、完全ロックタウンは出来ません。政府が、国を挙げてのロックダウンをしましょう(やはりお願いという形とはなってしまいますが)と、本気にならなければ日本はコロナで滅びたといわれるでしょう。人手を半減(出来れば7割カット)すれば、それだけ感染の機会も減ります。人類史上の大事件です。

ワクチンを打ったから大丈夫ではありませんよ  (普通部OB 篠原幸人)

新型ワクチンを打ったから、他人に移す可能性もなくなったと考えている人は意外に多いようです。貴方や貴女もそうではないですか? 「ワクチンを打ったから家族に移す可能性はない」とか「ワクチンを打ったから、安心して東京から帰省できる」など、テレビのインタビューに答えている人もよく見かけますね。そんな人に私は一寸イラっとします。

例えば貴方が2回目のワクチンまで無事に終了したとします。しかし、ウィルスはそんなことは知りません。貴方が例え「ワクチン接種済み」という札を首からぶら下げていても, ウィルスは字が読めません。ワクチン接種が済んでいる人にも、済んでいない人にも、ウイルスは口や鼻、眼などから入りこみ、鼻・咽頭・気管支などの粘膜にくっつきます。ここまではワクチンを打っていようがいまいが皆さん、同じです。分かりますね。

ウイルスの一部はすぐに粘膜から血液に取り込まれ体中に広がります。しかし若しワクチンが十分効果を発揮し、体内に多数の抗体(まあ自衛隊のようなものです)が出来ていれば、抗体はウイリスが細胞にくっつくのを邪魔します。すなわち感染を予防できるか、発症しても軽くて済む場合が多いのです。これがワクチンの効果です。

しかし、一部のウイルスは暫く貴方の粘膜にとどまり、大声を出したり、咳やくしゃみをした時に、外へ飛び出して、他人に飛び散ったり、場合によっては空中に浮かんで、次のターゲットに移動するのです。だから、貴方がワクチンを打って抗体が十分にあっても、他の人に移す可能性は十分あることは分かりますね。

もう一つ、大事なことであまり知られていないのは、ワクチンを打っていても、咽頭まで入ったウイルスは、そのまま水や食べ物と一緒に貴方の胃から十二指腸・小腸・大腸を抜けて、生きたまま、便として排出されます。ある地域のコロナの感染の蔓延の度合いを調べるのに、下水道のウイルスの量を調べればいいと言われるのはそのせいです。

したがって排便の後、必ず便器に蓋をしてから水を流すように、言われているのはその為なのです(知らなかった?)。蓋を閉めずに水を勢いよくフラッシュすると、見えなくても便のなかのウイルスは便器の周りや床に飛び散り、後でトイレに入ってきた他の人に移っていく可能性が高いのです。よく言われる家庭内感染にはこの点も大きな原因となっていると思います。いくら3蜜を避け、手洗い・うがいを励行しても、感染が拡がる大きな要素はここにもあるのです。

従って、誰が使用したか分からない会社・デパート・ゴルフ場・スーパーなどの共用トイレもなるべく使用しないでください。お尻にウイルスをつけて家まで帰ってくるなんて、家族には良い迷惑です。またそのお尻で自宅の便器に座り、ウイルスをそこに植え付けるのでしょうから。一方、尿の中には多分ウイルスは殆どいないと思います。従って、女性の場合は別として、男性の小用専用トイレはあまり心配ないと思います(でも周囲に飛ばすのははた迷惑ですよ)。また手洗いの水道の蛇口やトイレのノブに不注意に触るのも要注意なのは当然です。

終戦記念日にあたってーなお善意が生きていた話 (普通部OB 田村耕一郎)

昨日の終戦記念日、第二次大戦の記憶をおぼろげながら持つ最後の世代として感慨深いものがあった。戦争の悪や悲惨さを訴え、伝えることも重要だが、そういう事態になおヒューマンな態度を貫き通した人が多くいたはずである。田村君から頂戴したエピソードを転載する。

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友人SMさんより、「HN氏からの日本帝国海軍中佐のエピソード」を貰いましたので、終戦記念日にとご紹介します。軍人でありながら、どんな時でも「あくまでも人道を貫いたこと」と「合理的な思考に立脚した正しい判断力」を失わずにされた方で、海軍の方もいます。第二次世界大戦中の駆逐艦「雷」工藤艦長で、沈没した敵兵英国人422名を救助した方です。

1998年5月昭和天皇が戦後英国を最初に訪問された際に、当時「反日感情」が強く残っていた時代に、この救命の事実記事を英国の「 London Times紙」に掲載されたのが「サムエル・フォール卿」で、救出されたメンバーの一人でした。この記事が英国国民の反日感情を一夜にして一変させたと言われています。

第二次大戦中、昭和17年(1942年)3月1日午後2時過ぎ、ジャワ海において日本海軍艦隊と英国東洋艦隊巡洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」が交戦し両艦とも撃沈された。その後、両艦艦長を含む乗員420余名の一団は約21時間漂流した。彼らの多くは艦から流出した重油と汚物に汚染され一時目が見えなくなった。加えて灼熱の太陽、サメの恐怖等で衰弱し生存の限界に達しつつあった。中には絶望し劇薬を飲んで自殺を図る者さえいた。

翌2日午前10時頃、日本海軍駆逐艦「雷」は単艦で同海域を哨戒航行中、偶然この集団を発見した。工藤艦長は見張りの報告、「左30度、距離8000(8km)、浮遊物多数」の第一報でこの集団を双眼鏡で視認、独断で、「一番砲だけ残し総員敵溺者救助用意」の号令を下令した(上級司令部には事後報告)。

一方、フォール卿は、当時を回想して「日本人は未開で野蛮という先入観を持っていた、間もなく機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と覚悟したという。ところが「雷」マストに救難活動中の国際信号旗が揚げられ「救助艇」が降ろされた。そして乗員が全力で救助にかかる光景を見て「夢を見ているかと思い、何度も自分の手をつねった」という。

「雷」はその後、広大な海域に四散したすべての漂流者を終日かけて救助した。120名しか乗務していない駆逐艦が敵将兵422名を単艦で救助し介抱した。勿論本件は世界海軍史上空前絶後の事である。

https://www.youtube.com/watch?v=QAevTFqLE0w
工藤俊作中佐【海の武士道】1
https://www.youtube.com/watch?v=ItdMS8N-gkQ
工藤俊作中佐 【海の武士道】2
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784794220707

http://shokan.blog82.fc2.com/blog-entry-155.html?sp

今上天皇皇后両陛下がイギリスを訪問されたのは今から14年前の1998年5月。イギリス政府と国民は歓迎の意を表し、天皇陛下はエリザベス女王と馬車に乗ってロンドン市民の歓迎に応えた。しかし、このパレードには抗議の意味でわざと背を向けた人たちがいた。彼らは、第二次世界大戦中日本の捕虜になり、その時の扱いに抗議し、日本政府に賠償と天皇陛下に謝罪を要求した。

この抗議行動にイギリス政府は遺恨が日英関係を支配してはならない(ブレア首相)と呼び掛けるなど、両陛下及び日本政府に異例の配慮を見せた。当時、日本の財界はイギリスに積極投資するなど、日英関係は経済面で新たな親密度を見せているときだった。ブレア首相の発言は当然だったかもしれない。

しかし、イギリス国民の感情は二分された。
戦時中の捕虜に対する非人道的な扱いを非難し日本政府と天皇に謝罪を要求するものから、個人的に戦争に関わっていない現在の天皇に謝罪を要求することへの疑問、さらには、元捕虜に対する賠償問題は退役軍人にちゃんと年金を払わないイギリス自体の問題だなど、様々な意見が噴出し、両陛下のイギリス訪問が反日運動を起こすきっかけになるのではないかとの不安が巻き起こった。

そんな怪しい空気を一掃するような投稿がロンドンのタイムズ紙に掲載された。その投稿は、元イギリス海軍士官で戦後は、スウェーデン大使を務めサーの称号が与えられたサムエル・フォール卿(投稿当時86歳)のものだった。フォール卿は、大戦中の「スラバヤ沖海戦」で、日本海軍に撃沈された巡洋艦から海に放り出され漂流中のところを日本海軍「雷(いかづち)」に救助されたのだった。このときの体験をタイムズ紙に投稿し、敵兵救助を決断した日本の武士道を賛美し、その国の元首を温かく迎えようと国民に呼びかけたのだ。

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(以下ウイキペディアから転載)
雷型駆逐艦は、大日本帝国海軍が初めて運用した駆逐艦の艦級。第一期拡張計画に基づき、イギリス海軍B級駆逐艦の準同型艦として、明治29年・30年度計画でイギリスのヤーロー社に6隻が発注された。1899年より順次に就役し、日露戦争でも活躍した。

エクセター は、イギリス海軍重巡洋艦で第二次世界大戦の初期、ラプラタ沖海戦ドイツ海軍  のポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペー に損傷を与えて勝利に貢献。 太平洋戦線に転戦後の1942年(昭和17年)2月下旬、スラバヤ沖海戦日本海軍重巡洋艦および水雷戦隊と交戦して損傷、 ジャワ島から撤退中の3月1日、エクセターは護衛の駆逐艦2隻(エンカウンターポープ)と共に日本海軍水上部隊と遭遇]、砲雷撃戦の末に3隻とも撃沈された

(編集子注)上記ラプラタ沖海戦については本稿で紹介した映画 ”戦艦シュペー号の最期” の紹介で触れた。

エーガ愛好会 (79) ”荒野の決闘” をめぐって

 

(大学クラスメート 飯田武昭)

名作です。この映画を改めて観ると、前半のいわば人物紹介的な部分と後半のOK牧場での決闘へ突き進む部分とで、演出的には静と動の切り替えがあって興趣を一層そそる感がしました。各ショットが生き生きと無駄が無く、どこを切り取っても絵になるようなシーンと馬と幌馬車が疾走する蹄と轍の音と映像が特に見事に映像として捉えられているのに改めて驚きます。原題と主題歌でもあるMy Darling Clementine (いとしのクレメンタイン) の歌詞の1stフレーズにDwelt a miner, forty-niner, And his daughter Clementine.があります。特に“49ers Forty-niners,”という1Wordで私には西部への郷愁をまた誘われます。言わずもなが、49ersは一獲千金を夢見て南部St.Louis辺りを出発してカリフォルニアに到達した1849年組を指すわけですが(1説にはSt.Louisから約7週間掛けて西部に到達した日にちと言う説も)、私は元勤務先の会社からN.Y.に4年間(1980~84年)駐在した間にSt.Louisや勿論Califolnia州には何度か出向きました。その後にSt.Louisには娘家族が住むことがあってこの街に2016年に約1か月間滞在しました。St.Louisは西部への玄関口Gateway Arch、Budweiser本社、メジャーリーグの名門St. Louis Cardinals、セントルイスブルースとバーベキューで西部への夢を馳せたものでした。N.Y.駐在当時はアメフト観戦にも興じましたが、当時の最強QBはSan Francisco  49nersのスーパースター、ジョー・モンタナで格好良すぎて、N.Y.Jetsを応援しながらモンタナファンでもあったのが懐かしいです。映画「荒野の決闘」は私にそんなことまで思い出させる名作です。

(44 安田耕太郎)

最初にこの映画を観た一昔前、おやっ!とやや不思議だったのは、ワイアット・アープ(ヘンリー・フォンダ)が密かに恋するクレメンタイン(キャシー・ダウンズ)に別れを告げるシーン。荒漠たる西部の荒野をバック(ジョン・フォードポイントと呼ばれる)にクレメンタインとアープは見つめあって会話を交わす。

「言いたいことは沢山・・・でも、うまく言えないわ」            「ええ、わかっています」                       「この町に残って先生になると聞きました」               「ええ、学校の教師です」                       「私と弟は親父に会いに帰ります。また牛を連れてこの町に寄ってみます」

ここでアープは熱き感情を押し殺すように近づき彼女の頬にそっとキスして言う「さようなら」。アープは馬にまたがり言う、「とてもいい名前だ・・・・クレメンタイン!」やがて、ワープの乗った馬は、坂を下り荒野の彼方へと小さくなっていく。クレメンタインはひとり、去り行くアープに視線を注ぎながらゆっくりと坂道を下る。映画史上最も印象的な美しいラストシーンのひとつだ。

ラストでなぜアープは愛しのクレメンタインと別れなければならなかったのか?それは彼女が、決闘で斃れた親友ドグ・ホリデイの婚約者だったからであろう。男同士の義理の世界が、死を賭けた男たちの友情が、女性への愛を上回ったのだ。ここにジョン・フォードの美意識の世界が描かれている。だが、フォードはアープがいつの日か戻ってきてクレメンタインと結ばれることを示唆している。アイルランド系アメリカ人のフォードは、ロマンチシズムと抒情性を持ち合わせている。この作品の原題「My Darling Clementine」は古い西部民謡から採られた主題歌で、センチメンタルなこの曲が全編に流れ、西部の荒くれ男が愛した女性の名がクレメンタインであったことは、フォードの感傷的な一面を如実に示している。あの別れ以外には考えられない見事なラスト・シーンであった。

(33 小川義視)

ご提案の「荒野の決闘」についてのコメント、愛好会の皆さんのような素晴らしい感想は書けません。ただワンダーのお蔭であのタイトルバックで流れ
る「Oh My Darling Clementine 」が懐かしく一番印象的でした。愛好会のお蔭で昨年から3回も観ました。

(40 武鑓宰)

録画しておいた荒野の決闘オリンピック観戦からも解放されやっと観ました。
無知にもOK牧場の決闘が荒野の決闘のリメイク版と云うこと知りませんでした。荒野の決闘は1946年制作で方やOK牧場は1957年となっており、わずか10年ほどの間ですがこの間のアメリカのハリウッド映画の繁栄ぶりを感じました。しかしアメリカとは云え戦後間もない頃にJ.フォードはよくこんな西部劇大作が造れたものと感心しますが荒野にヒントを得て上手く作られたOKは娯楽性、面白さという点では上という感じでした。
H.フォンダ/B.ランカスターとV.マチュア/K.ダグラスに主題歌My darling Clementine/Gunfight at OK  Corral等の新旧比較比較も興味深く、やはりOKのJ.スタージェスは荒野を上手く利用して娯楽西部劇を作ったと云えるのでしょうか。

(34 小泉幾多郎)

「荒野の決闘」はWikipediaによれば、スチュアート・N・レイクの「ワイアット・アープ フロンティアマーシャル」を原作として制作された第1作「Frontier
Marshal 国境守備隊1934」ジョージ・オブライエン主演と第2作「Frontier
Marshal1939 日本未公開」ランドルフ・スコット主演に次ぐ第3の作品。ジョン・フォードは第2作を観て「荒野の決闘」を撮る気になったとある。

第2作を観ると両作とも、脚本家サム・ヘルマンが書いたストーリーをもとにしていて内容が似ている。生涯430本も撮ったアランド・ワン監督作品だけに70分と短い中に、濃密な作品に仕上っている。アープはランドルフ・スコットで若く魅力的、ドクは、バットマンのジョーカーで有名なシーザー・ロメロ。二人のヒロインも役名は違うが、ほぼ同様に登場し、酒場の女ジェリーがビニー・バーンズ、クレメンタイン役サラにナンシー・ケリーが扮している。ポーカーで、賭博師とのイカサマから、アープが女を水槽に投げ入れるシーン等そっくり。

シェークスピア役者が単なる喜劇役者の違いがあるが、ドクがハムレットの台詞を引き取ってインテリぶりを示すのと同様、サラがドクに、ジュリアス・シーザーのセリフ「臆病者は何度も死ぬ。勇者は一度しか死なない」と捨て鉢と勇敢の違いを示す場面もある。アープとドクの友情、ドクの負傷や流れ弾で重傷を負った子供の手術に見せるドクへの女性恋敵同志の献身的な結束等基本的プロットは変わりない。ドクは子供の手術後殺されてしまい、OK牧場の決闘はアープ兄弟は存在しないことからアープ一人対クラントン一家ならぬ無法者カーリー・ビル(ジョー・ソーヤー扮)一味との対決。アープとサラの思いは第3作ほどではないにしても、二人が結ばれることはアープの動きから窺われる。

では第2作との違いは何だろう。第2作より20分長いだけ、フォード自身の心象を大切にしながら、西部に生きた人々の日常生活を描いたことだろう。ゴールドラッシュを目指した人々を歌った、開拓者たち好んだ My Darling Clementine nの歌から始まり、牛の大群、人物を背景にした雲と人の配合といった雰囲気描写たる風物詩。主人公アープは、アメリカ人の一つの理想的原型と言える実直な自分に誠実な信念の男、推されれば、リーダーになることはいとわないが、むしろ一介の野人のままでいることを良しとする、強さを恥じるような風情で、威圧的なポーズを見せることのできないヒーローなのだ。はにかみ屋で実直な男がポーチの上に座り、伸ばした両足を柱に押し当てるように交互に両足を入れ替えながらまどろむことで、トウムストーンの法と秩序の維持、町並みが教会・学校等々建設されていくことを暗示しているのだ。

(編集子)

芦原伸著 ”西部劇を極める事典“ に 西部劇十大事件 という項目がある。西部劇映画の背景になっている時代、という意味だが、その第一に来るのがテキサス州独立運動にかかわって、当時スペイン支配下にあったメキシコとの間に起きた有名な史実、アラモの闘いであり、十番目に挙げられるのが今度はそのメキシコのスペイン支配からの独立のための革命であって、芦原氏の年表によれば1836 年から1919年あたりがこの ”西部劇の時代“ ということになる。日本で言えば1868年が明治維新のとしであるから、江戸時代末期にあたる半世紀ということになる。映画でいえばジョン・ウエインが製作主演をつとめた アラモ ではじまり、ロバート・ライアンの ワイルドバンチ あるいはゲイリー・クーパーとバート・ランカスターヴェラクルス までの時代である。この間に起きた史実でいえば、カスター将軍の率いる第七騎兵隊がダコタ州リトルビッグホーンでスー族との会戦に敗北、麾下全軍が全滅した事件(映画はエロール・フリン 壮烈第七騎兵隊)や、ニューメキシコ(当時はまだ準州)リンカーン郡で起き、リンカーン・ウオーとまで呼ばれた大規模な牧場主間の争い(ここに有名なビリー・ザ・キッドが登場する)などが西部劇映画(代表作はジョン・ウエイン チザム)に格好の背景を提供しているのだが、中でも1881年10月26日、アリゾナ州トウムストーンで起きたOKコラルの決闘事件を取り上げた作品には傑作が多い。

 

トウムストーンは芦原氏の表現によれば、“当時の鉱山景気のただなかで、西部でもっとも俗悪にして、無法がまかり通る新興町” だった。OK牧場の決闘 のテーマ曲の一節に出てくるブーツヒルという墓場は射殺された死体のブーツも脱がせず埋葬した場所だと言われているし、何しろ現代では想像できない無法の町だったことは間違いない。1877年、この近くで銀山が発見され、1880年には2000人だった町が2年後には人口が1万を超えたというのだからその無法ぶりも想像できる。史実として確認されているのはワイアット・アープ兄弟と凄腕のギャンブラー通称ドク・ホリディの四人とクラントン、マクローリー両兄弟とビリー・クレイボーンとの間に行われた銃撃戦だが、片方の親玉アイク・クラントンは逃げ出し、闘い自体は実はわずか30秒で終わったのだそうだ。決闘が行われた場所がはOK Corral と呼ばれ、Corral を牧場、と翻訳したが、コラルというのは馬囲いであって、芦原氏は現代の駐車場のようなものだったはずだ、と言っている。

この騒動は後段があり、クラントン側にたった地元のカウボーイ連中がワイアット側に復讐を試み、ワイアットがこれに対抗して暗闘があったが、ワイアットはコロラドに避難してしまい、その後は実業に転じて成功し、ドク・ホリディはコロラド州グレンウッドにあった結核療養所に入院、36歳で死んだ、というのが史実であるようだ。アープは長寿を全うし、ハリウッドでは当時まだ下働きにすぎなかったジョン・フォードと会ったことがあるということである。

さて映画であるが、このOKコラル騒動を扱った作品は、いわば日本で言えば忠臣蔵みたいなもので数多くあり、我々が見ることができた範囲でいえば、この 荒野の決闘 のほか、OK牧場の決闘(ワイアットはバート・ランカスター/ドクがカーク・ダグラス)、

トウムトーン(カート・ラッセル/ヴァル・キルマー)、墓石と決闘(ジェイムズ・ガーナー/ジェイソン・ロバーツ)、ワイアット・アープ(ケヴィン・コスナー/デニス・クエイド)などがあげられる。OK牧場の件とは別に、ワイアット・アープを主人公にした 法律なき町 (ジョエル・マクリー)、ドク・ホリディ (ステイシー・キーチ)を芦原氏は挙げているが小生は見ていない。

これら一連の作品についての小生の感想を言えば、OK牧場の決闘 はランカスターの主演ということで、ごく普通の西部劇映画(ただしフランキー・レインの歌うテーマソングのメロディは気に入っている)になってしまったし、ワイアット・アープ はアープの実像に迫ったという意味はあるだろうが、家族関係や上述したワイアットへの復讐と返り討ち、そのほかのエピソードがきつすぎて、爽快感のない、いわば暗鬱な映画になってしまった印象が強い。墓石と決闘 は、決闘そのものの描写は芦原氏の解説などから見ると一番史実に近かったような気がするし、アイク・クラントンがトウムストーンから脱出してしまっていた、という点でも実像に一致する気がする。しかし全体の出来上がりは前述のOK牧場と同様、ありきたりの出来上がり、というのが実感だった。その点、主演スターのネームヴァリューは一段落ちるものの、トウムストーン が醸し出した全体のトーンは心に応えるものがあった。特にヴァル・キルマーのドク・ホリディはたぶん当時の肺病やみはこんな具合だったのではという意味も含めて、深い印象を与えた好演だと思っている。

さてこれら多くの作品群の中で、なぜ 荒野の決闘、なのか。

芦原氏も似たようなことを書いているが、それはこの作品が西部劇の形はとっているが西部劇ではない、ということなのだと思う。キザな言い方になるが、この映画は詩、なのだ。フィルモグラフィの専門家からすれば、たとえば画面の作り方とか、白黒の画像の特質を生かした撮影手法など、いろいろな指摘はあるだろうが、まず、西部の乾いた風土がそのまま感じられるような画面のトーンがいい。これがカラー作品だったら、感じはうんとちがっていただろう。地図をみれば、トウムストーンという町はアリゾナの南端、メキシコ国境に近いがこの映画を引き立てているモニュメント・ヴァレーははるか北、ユタ州との境にある。ジョン・フォードがこの長めににほれ込んでしまったのは有名な話であるが(駅馬車は文字通りモニュメントヴァレーでとられたからこそ引き立った)、トウムストーンからあの風景が見えるはずはない。しかし全体を通して感じられる乾燥した空気、特にドク・ホリディとアープが撃ち合いになるまでのカットとか、日曜日の朝のすがすがしさが感じられるシーンなどは文字通りジョン・フォードが書いた詩のように思える。

胸を患って東部のエリート生活から抜け出したがやはり西部に生ききるのにためらいを感じているドクの心情を見事に表したのが酒場でシェイクスピア役者に成り代わって詩を暗唱するシーン、あぜんとしてそれを見つめるアープの表情など、二つの違った魂の出会いが鮮やかである。万年大根役者、と酷評もあるヴィクター・マチュアだが、このシーンでの表情の起伏がが実にいい。ドクの情婦として実在した女性はビッグノーズ・ケートという人らしく、OK牧場の決闘 では濃艶なジョー・ヴァン・フリートが演じているが、この映画では薄幸の酒場女という設定で、そのあばずれぶりがほかにはこれと言って当たり役もないリンダ・ダーネルが見事で、小生としてはヴァン・フリートのいわば出来上がった役作りよりも心にひびく。ジョン・フォードの監督手腕のなせるわざだろうか。

つまり決闘、という題名にはなっているが、あくまでこの映画は詩、なのだ。何回も見ているのに今回はじめて気がついたのだが、ドクに帰れと言われて帰途に就こうとしているクレメンタインがホテルのロビーにいるところへ、そうとは知らずワイアットが入ってくるカットで、ヘンリ―・フォンダが吹いている口笛が実は My Darling Clementine だった。映画の主題歌がそのまま劇中で歌われるという例はほかにもあるだろうが、フォンダがクレメンタイン、という名前に出合うのはここでキャシー・ダウンズ演じる本人に会うのが初めてだったはずなのだし、このメロディが当時すでに人に知られていたのだろうか、などと思ったりする。

余談だが、冒頭部で雨のキャンプに残って兄たちが飲みに行くのを見送る末弟のジェイムズが三人の兄に向って三回、So long という。Goodbyだけしか知らなかった高校時代、さよなら、には So long という言い方もあるよ、と教わったし、ほかには愛唱歌の Red River Valley には do not hasten to bid me Adieu という一節もある。なるほど、こういう場面は So long なんだ、と時ならぬ英会話のヒントももらった今回の何度目かの鑑賞だった。また、これはフォンダの口癖なのか、ほかの作品を見直さないとわからないが、通常なら very というところを mighty  と言っているのが気になった(very nice ではなく mighty nice というように)。

映画とは関係ないが、小生はHP社在職中、出張をいいことに休暇を取り、コロラド州コロラド・スプリングス(米空軍士官学校や北米防空司令部などがある)からラス・ベガスまで、同行の小田晋吾君(エーガ愛好会メンバー小田篤子さんのご亭主とは別人)と二人して走ったことがあった。ただ暑く、小生の目的だったモニュメントヴァレー(晋吾の目的はラスベガス)にたどり着いたときは二人とも冷やしたビールさえあれば死んでもいいと思うくらいだったのだが、チェックインしたモーテルで Beer ! と怒鳴ったら、Sorry sir, you are in the dry state といわれてしまった。当時の用語で Indian Reservation, 先住民族居住地内だったため、アルコールを一切置くことのできない地域だったのだ。因みに 荒野の決闘 の中でワイアットが保安官になるきっかけは酔っぱらったインディアンを捕まえたからだということになっているのだ。もって瞑すべし、だったのだろうか。

 

 

 

対コロナ対策に朗報-厚生省の対応

(普通部OBの畏友田村耕一郎君が配信してくれている各界の情報の中から、最新の情報を同氏の了解を得て転載する。木村氏ご本人の了解を直接頂戴していないが、広報の目的には合致するものと理解している)

(田村)8/13友人からの配信です。
コロナ関係で木村盛世さん(元厚労省医系技官、TVによく出演)のずばりと本質を突く話に注目です。胸がスカッとしますよ。

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東京オリンピックが終わりました。新型コロナが収束しない中でのオリンピック開催に対しては色々と意見があると思いますが、東京オリンピックがしばしコロナ騒ぎを忘れさせてくれたことは間違いありません。
新型コロナの暗い話題ばかりの日々に戻ってしまいましたが、ひとつだけ明るいニュースを見つけました。

厚生労働省が、新型コロナを感染症法の「指定感染症」から「5類」に格下げすることを検討し始めた、というニュースです。
新型コロナは、結核やSARSやMERSや鳥インフルエンザなどと同じ「2類」扱いからスタートし、いまでは、エボラ出血熱やペストや天然痘などの「1類」以
上の強制力を持つ感染症に分類されています。新型コロナは、感染者の大半が無症状や軽症で済んでいても、史上最強・最悪の感染症として扱われています。

東京都には、病床20以上の病院が約650あり、診療所も1万以上あります。ですが、新型コロナが感染症法の「指定感染症」に分類されているために、新型コロ
ナ患者を受け入れられる医療機関は約170しかありません。よくメディアが「医療崩壊が起きる」と騒いでいるのは、この厳しい分類により新型コロナ患者を診察できる病院がごくわずかしかないからです。もし、新型コロナがインフルエンザと同じ「5類」になれば、全国の病院・診療所で診察することができるようなります。無症状の陽性者がホテルで缶詰め療養させられることもなくなります。マスク着用やワクチン接種といった同調圧力も緩和するでしょう。

ですが、油断は禁物です。
実はちょうど1年前の今ごろも、新型コロナの「2類」相当から「5類」への格下げが検討されました。
ですが、いざふたを開けてみると、「5類」に格下げされるどころか、逆に「新型インフルエンザ等感染症」と同等の指定感染症に格上げされ、入院拒否に罰則が設けられるなど法律まで厳しく改正されてしまいました。

実は、昨年5類への格下げが検討されたとき、アンケートに回答した2千人の医師のうち、約7割の医師が「5類に格下げすべき」と言っていました。

下はそのアンケート時に書かれた医師たちの意見です。

<https://blog.ushinomiya.co.jp/blog/data/blog_img/8404_7_org.png>

<https://blog.ushinomiya.co.jp/blog/data/blog_img/8404_8_org.png>

昨年、これだけの医師たちが5類に格下げすべきだと言っていたのに、結局は下げられませんでした。元厚生労働省医系技官の木村盛世さんも、「ウィズコロナ」の社会を前提に一刻も早い5類格下げを昨年から主張していらっしゃいます。

さて、今年はどうなるでしょうか?今年と昨年との大きな違いは、日本のワクチン接種が進んだことと、それにもかかわらず陽性者数が多くなっていることです。無症状者や軽症者が多くワクチンも普及したから格下げとなるのか、それとも感染者数が増えてるからまだ下げられないのか。

勿論、ハナコは5類に下げてほしいと思っていますが、5類に下げたくない人たちもいるでしょう。視聴率が取れなくなるメディア、ワクチンが売れなくなる製薬企業、ワクチン・パスポートを広めて市民を管理したい人達、などなど・・・。
厚生労働省の皆さん、格下げ反対勢力に負けずに、5類格下げという「金メダル」を取ってください!

ジャンダルムへ行ってきました  (39 堀川義夫)

ジャンダルム(3163m)に行って来ました

今から15、6年前にソロで奥穂側から西穂高、上高地へと一日で縦走しましたが、その時の面白さ、緊張感、達成感が忘れられずにいました。出来ることならもう一度行ってみたいと常々思っていましたが、齢80歳ではソロではとても行けません。そこでツアーに入れて頂き何とか行くことが出来ました。

8月7日に上高地から岳沢小屋に入り、台風9号と10号の狭間で翌日の天候次第ではジャンダルムは諦めて重太郎新道を行こことも視野に入れていましたが最高の天気に恵まれました。岳沢小屋から悪路の道を天狗のコルを目指し、そこから奥穂への縦走路に入りました。そこからは緊張の連続で、またメンバーの方々に励まされながら何とかジャンダルムに登頂することができました。最高に嬉しかった その後、奥穂に登頂し涸沢へと下山しました。穂高山荘直前から雨に降られましたが、濡れることも気にせず涸沢ヒュッテに到着。延13時間掛かりました。そして本当に、本当に疲れたけど私の登山史にも特筆しなければならない、心に残る素晴らしい山旅でした。ツアーの同行の諸氏に心からお礼申し上げます。

コルに着くと真正面に笠ヶ岳を望む

(編集子)

呆然。無言。ッたく!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

乱読報告ファイル (7) スウェーデン発ミステリシリーズ  (44 安田耕太郎)

推理小説はほんのかじるほどしか読んでいない。読んだのはコナン・ドイル、アガサ・クリスティー、エラリー・クィーンなどの英米作品と江戸川乱歩、横溝正史、東野圭吾などを少々である。そんなミス冒には門外漢の僕が10年ほど前「ミレニアム」(Millennium) を読んで惹き込まれた。会社勤めの現役中であったが、久方振りに夜更けまで本から目が離せなくなるほど面白かった。

 北欧ミステリーブームの火付け役となったのが、スウェ―デン人作家スティーグ・ラーソンの処女推理小説「ミレニアムシリーズ」だった。作者のラーソンは全10部の構想を持っていたが、第1部の出版を待たずして2004年心筋梗塞で急逝。亡くなった時、彼のパソコンには第4部の4分の3ほどに相当する原稿が残されていた。死後の2005年に「ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女」、2006年に「ミレニアム2  火と戯れる女」、2007年に「ミレニアム3  眠れる女と狂卓の騎士」が出版され、世界的大ヒットを記録しながらも絶筆のため第3部をもって完結した。

スウェ―デンでは「読まないと職場で話題についていけない」と云われるほどの人気を博し、3部シリーズ合計で国の人口の40%に当たる380万部を売り上げるベストセラーとなった。30か国以上で翻訳出版され、既に6000万部を超える大ヒットとなっている。日本には2008年から2009年にかけて早川書房から出版され、大きな話題となった。読んでおられる人も多いと推察する。

シリーズ3部とも上・下巻からなり、1部当たり上・下併せて900~1,100ページに及び3部合計すると3,000ページを超える大作だ。ミレニアムは1千年の期間を意味する言葉で、大袈裟な題名だと身構えたが、主人公が勤める出版社の月刊誌名であった。

巻頭の複雑な家系図、紹介されている登場人物の多さに驚く。しかもスウェ―デン人の名前なので覚えにくい上に、舞台となる地名もスウェーデン国内の各地で馴染みは全くなく怯む。登場人物紹介ページと家系図を頻繁に参照しつつ何度もあと戻りしながら読み進めていかざるを得なかった。が、エンジンがかかるとアクセルの踏みっぱなしで10日間ほどで全3部を続了したと記憶する。

月刊誌「ミレニアム」の発行責任者である主人公ミカエルは大物実業家の武器密売を暴く記事をスクープ発表したが、名誉棄損で訴えられ裁判で敗訴し全財産を失う。そんな失意の折、スウェ―デンを代表する富豪から家族の失踪事件の調査依頼を受ける。解決すれば、大物実業家を破滅させる証拠を渡すという交換条件で彼は依頼を受諾し、困難な調査を開始する。40年前に行方不明になった16歳の少女のことであり、一族の誰かに殺されたという。複雑な失踪事件の膨大な資料を調べる一方、富豪一族の謎にも分け入るが、助手が必要と感じた彼は、背中にドラゴンの入れ墨(タトゥー)を入れた女性調査員リスベットの協力を得て二人は調査を開始する。リスベットは富豪から頼まれてミカエルの身辺調査をしていて二人は知り合ったのだ。

二人の調査で明かされる忌まわしい事実、幾重にも張りめぐらされた深まる謎、愛と復讐。スウェ―デンと聞いて思い浮かぶのは、ボルボ、ABBA、IKEA、福祉国家、自由恋愛、金髪碧眼、ノーベル賞などの柔らかいイメージであるが、小説は人身売買、強制売春、拉致、殺人、巨大な陰謀、闇の組織・公安警察特別分析班などが複雑に絡み合い、あらゆるミステリーの要素を織り込んだ波乱万丈の物語と登場人物のユニークな素晴らしさに圧倒される。なかでも印象的なのが、タトゥーをした女性調査員リスベット。特異な風貌をしているが、ガラスのように繊細な心を持ち、超一流のハッカーでもあり情報収集に長けている。現在では良く知られた「ハッカー」だが小説を読んだ10年前当時では馴染みがなく、将来を予見するかのような「ハッカー」の不気味さだけが印象深く残っている。全編を通して彼女の危機と活躍に一喜一憂させられると同時に、主役の二人ミカエルとリスベットの時には二人三脚、時には相克する絡みにも堪能させられた。

ストーリ―を説明するのは膨大複雑すぎて無理であるが、その面白さに、途中で本を閉じることが出来ず、夜更かしする日が続いた。「ミレニアム3部作」は是非お勧めの本である。

「ドラゴン・タトゥーの女」は2011年映画になり、観に行った。が、多くの映画と同じで面白い原作本には足元にも及ばなかった。ミカエル役が007ボンド役で知られたイギリス俳優ダニエル・クレイグ、リスベット役はルーニー・マーラ。彼女は「グラディエーター」、「ジョーカー」でアカデミー主演男優賞のホアキン・フェニックスのパートナーで一子を授かっている。スウェーデンではテレビドラマ化され、久米行子さんは先ずそれをケーブルTVで、それから書籍を読み、最後にハリウッドで制作された映画を観たがスウェ―デン制作のTVドラマは原作に忠実に映像化していて面白かった記憶が鮮明で、ハリウッドのリメイクは全く面白くなかったと言っている。スウェ―デンのTVドラマと書籍の後では特にそう感じられれたのは頷ける。

なお、第3部で絶筆して完結したが、同じスウェ―デン作家のダヴィッド・ラーゲルクランツが続編として3作書き、それぞれ2015年、17年、19年に出版されたが、こちらは未だ読んでいない。

ウイキペディアから転載

スティーグ・ラーソン(Stieg Larsson 英語: [stiːɡ ˈlɑrsən]、本名:Karl Stig-Erland Larsson スウェーデン語: [ˈkɑːɭ ˈstiːɡ ˈæːɭand ˈlɑːʂɔn]1954年8月15 – 2004年11月9日)は、スウェーデンジャーナリスト及び作家。彼は推理小説ミレニアム」3部作を執筆したことで最もよく知られており、死後に出版され、映画化もされた。ラーソンはストックホルムでその人生の多くを過ごし、ジャーナリズムの分野や極右について研究する独立研究者(ラーソンは反極右の立場である)として働いた。

彼はカーレド・ホッセイニに次いで、2008年に世界で2番目に売れている小説家であった。「パブリッシャーズ・ウィークリー」によると、「ミレニアム」の第3部「眠れる女と狂卓の騎士」は、2010年にアメリカで最も売れた本になった[2]2015年3月までに、彼のシリーズは世界中で8000万部を売り上げている

エーガ愛好会 (78)  母と暮らせば   (普通部OB 船津於菟彦)

75年前の8月6日はヒロシマ。9日はナガサキ。と原子爆弾が投下され、一瞬のうちに無差別に15万人以上の方が亡くなられた!詳しい数字は未だハッキリしないようです。その時から76年。平和に東京オリンピツクが開催されています。
1912年10月に大学の友人の仲間で旅行会を開催していて「瀬戸内の美と味を満喫する会」で広島・長崎を訪れた。長崎は本来小倉が爆撃予定地で第2候補であったのが小倉が雲で覆われ、長崎にやって来た!雲が覆っていたが雲が切れて町が直視でき、爆撃された。
そんな長崎の爆心地を訪ねると写真で見るのとは大違いで、その思いは矢張り大きかった。

8月9日は忘れぬ日です。核廃絶は世界から核爆弾を無くすべきです。その中気持ちを山田洋次監督は母と息子の会話と婚約相手であつた女生とが絡んで甘く悲しい物語に仕立て上げている。『母と暮せば』(ははとくらせば)は2015年12月12日に公開された日本映画。主演は吉永小百合と二宮和也。監督は山田洋次。
松竹創立120周年記念作品。第89回アカデミー賞・外国語映画賞部門 日本代表作品。

物語は1948年8月9日。長崎で助産婦をして暮らす伸子の前に、3年前に原爆で亡くしたはずの息子・浩二がひょっこり現れる。「母さんは諦めが悪いからなかなか出てこられなかったんだよ」。
その日から、浩二は時々伸子の前に現れるようになる。二人はたくさんの話をするが、一番の関心は浩二の恋人・町子のことだった。「いつかあの子の幸せも考えなきゃね」。
そんなふたりの時間は、奇妙だったけれど、楽しかった。その幸せは永遠に続くようにみえた―。
母親・伸子役に吉永小百合、息子の浩二役に二宮和也、浩二の恋人・町子役には黒木華という理想的なキャスティングで山田洋次監督が初めてつくる、やさしく泣けるファンタジー作品です。浩二がメンデルスゾーンが好きで、生前はその中でも「ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64」がこの映画の「軸」として流れる。

原爆で被爆死したはずの彼が亡霊となって現れる。
伸子は驚きながらも浩二との再会を喜び、その日から息子の子供の頃の話、生前の将来の夢や死んだ浩二の兄の思い出などを語り合う。浩二の生前の恋人・町子は今でも彼を想い続け伸子との交流を続けていたが、彼もまた彼女に未練が残っていた。伸子はそれぞれとの会話で浩二と町子のお互いの想いを知るが、若い彼女が死んだ息子を想って残りの人生を過ごすのを不憫に思い始める。
浩二の母であり、クリスチャン。助産院を営んでおり、妊婦の自宅に出向いて出産や産後ケアなどをしている。浩二が生きていた頃から体が弱く、血圧の薬を服薬している。浩二が幼い頃に夫を結核で亡くし、数年前に長男はビルマで戦死、唯一の家族であった次男・浩二までも原爆で亡くしてしまう。8月9日の長崎原爆で跡形もなく爆死した浩二のことが忘れられず法事をせずに陰膳を続け、3年後に亡霊となって現れた彼と再会する。

伸子は町子のことを思って他の男性との恋を考えるよう助言するが、町子はその申し出を拒む。一方同じく伸子から町子を諦めるよう説得された浩二は、数日間悩んだ末彼女から身を引く決心をする。
年の瀬が迫る頃一人の男性を連れた町子が久しぶりに伸子の家に訪れ、彼と婚約したことを告げる。申し訳無さそうに謝る町子に伸子は「これで良かったのよ」と抱きしめ、婚約者との幸せを願い送り出す。その夜伸子は浩二に町子の婚約のことを伝えた後床につくが、数日前から体調が悪かった彼女はそのまま息を引き取ってしまう。浩二と同じく霊となった伸子は、自らの葬儀が行われている教会へ行き、参列した町子の幸せを祈った後2人で天国へと旅立つ。

8月6日ヒロシマ・9日ナガサキは忘れては成らぬ日ですが「東京オリンピック」開催中世界にどう発信するか。是非「平和の祭典」であるならば大声で世界に核廃絶をこの機会に伝えて貰いたいものです。

乱読報告ファイル (6) 大沢在昌 ”冬の狩人”

要はなんといっても年齢のせいに違いないのだが、3日前、風呂場で体をひねったら腰に激痛が走った。翌朝になっても治らないので近くの整形外科へ行って、骨に異常はないことを確認、例によってシップ薬を処方された。こうなると早くても3日はまともに生活できないとあきらめて、ベッドで気楽に読める本を、と思って大沢在昌の本を2冊、買ってきた。

大沢は日本のハードボイルド作家の中で高く評価されている人だが、今まで、”新宿鮫“ シリーズの1冊しか読んだことはなかったのでいい機会だと思った。”新宿鮫“ は舘ひろし主演でTVドラマにもなった大沢の代表作だが、この ”狩人“ もシリーズキャラクタ本で人気が高いらしい。

”冬の狩人“ はかなり入り組んだ謎解きの部分があり、ミステリとしての重みもあるが、なんといってもテンポの良い文体が気に入った。ハードボイルド、というのは一つの ”書き方“ のジャンルではあるけれども、必ずしも ”ミステリ“ である必要はない。主人公の生き方、事の処し方が徹底的に主体的であり、文体とそれが生む一種の乾燥した雰囲気、そしてそれがもたらす人生に対する透徹した諦観が響いて来る作品、というのが僕の定義するHB文学だと思っているのだが、この作品とついでに買ったもう一冊、”悪魔には悪魔を“ を2日かけて読了して、まず感じたのはスピード感のある大沢の文体のすばらしさだ。

ポケットブックの裏表紙に書かれる宣伝文句のなかに “読みだしたら最後、終わるまでこの本を置くことは不可能です” といったのがよくある。正直、そんな気になった経験はあまりないのだが、この ”冬の狩人“ はそもそも読み始めた動機がいわば不純でたいした期待ははなから持っていなかったのだが、結果的には2冊とも、朝食を済ませてゴロゴロした後ベッドに寝て、朝寝をして昼飯を食べてまた寝転がって、という体たらくのほぼ5時間で、たしかに本を置く気にはならなかった。その理由は謎解きやストーリーの展開、ではなく、スピーディな文体にはまってしまったからだと思う。ミステリ、である以上、筋を書くのは控えておくけれども、大沢作品をこれからも読んでいこうという気になった。日本のHB作家でぼくのイチオシは前にも書いたが原尞、なのだが、この人はなんといっても寡作なので、ここ数年、新著は出てこない。まったく逆に大沢は多作な人なので、本を入手するには問題はないようだ(その分、今回のようにぴったりはまる作品にうまく当たるかどうか、という懸念もあるのだが)。

 

船曳さん、我々はこう考えます

先日、コロナ問題について有益な情報を提供していただいているドクター船曳のCOVIDの爆発的蔓延について のフォローアップ投稿である。編集子は1999年サラリーマン生活に終止符を打ったが、やめていなければかの ”2000年問題”対策の担当になるはずであった。全世界が(起きやしねえよ)派と (世界がひっくりかえるかも)派に分かれて固唾を飲んだけれど何も起きなかった。世界は平和だった。問題が起きたとしても、これだけ準備しているし、対応はできる、という暗黙の自信があったからだ。しかし今回の、まさに天災、宗教家に言わせれば最後の審判だかアルマゲドンだかともいうべき現状、我々の多くはすでに一線にたつことかなわず文字通り横町のご隠居の一哲、ご照覧あれ。

(日本HPOB 甲谷勝人)今起きているパンデミックは全く手が付けられないですね。特に腹立たしいのは若者たちの態度。もちろんすべての若者がいい加減なわけでもないし、国や官僚の態度や対応についても如何なものかと思われることが多々ありますが、今の環境下で一番有効と思われる対策は、一日も早くワクチン接種の範囲を拡大することだと思います。

私は今ファミリーの中では「小言幸兵衛」に徹していて、それぞれの家族の中でワクチン接種の予定はどうなっているか、ファミリーメンバーが集まるときの人数や飲食の予定はどうなっているかなどを家内を始め主としてお嫁ちゃんたちにチェックをかけています。特に家内からは大いに嫌がられていますが、これが老人のリスク管理の出番だと思っています。少なくともファミリーの中からワクチン接種に異論を唱えるものが出ないように気を付けています。

(大学時代クラスメート 飯田武昭)昨年の今頃つまり1年前頃にはマスクを着用して手指消毒の徹底、「3密」回避、「ステイホーム」など、そのどれもが重要な効果があると今でも思っています。しかし、飲食店やバーなど酒類提供の業種に1年半以上に及ぶ相変わらずのお願いベースでの規制が続いている現実は、最早、看過できない政治行政の能力の欠如と考えています。これらの業種(旅行宿泊業も含めて)にどれだけの日本人が関わって生活をしているか、又日本的な伝統文化がこの分野に依存しているかを思う時に、やはり私が当初から感じてきた現在の政治家諸氏の能力と感覚の欠如が全てに及んでいると感じます。

元々、安倍総理時代から今の菅総理の政府の諮問会議の尾身会長の発言も含めて、極めて政治的な発言だと感じていましたが、新型コロナがいくら新規の感染症といっても、それを予防する方法はその後の市中の検査データ等を種々分析して、プラス先行する欧米の沢山の有力な情報を的確に分析していけば、自ずとある程度、明確に具体的に示せる筈です。

それを毎週、決まった日時に(例えば、毎週2回とか)政府が会見の場を持つことをすべきです。感染症の専門家にはTVを見ている限り数人の正しい情報をもって立派な考え方がおられますが、総じて言うと全部が考え方や発出の仕方が正しいと思われない方が多々見受けられます。感染症は医学の分野では、日本では特にややマイナーだった?か、と独り言ですが思っています。対策は時には予想する効果が出なかったり失敗することも当然あります。そうしたらその理由を付して考えうる別の対策を提示して実行に移したら良いのですが、具体的と思われる対策が専門家会議からも出てこない。政治家がここへきて、発信力の弱さとかの問題でなく、本当に問題がどこにあってそれをどのように解決するかという思考回路的な能力の無さを残念至極ながら露呈していると思います。野党は与党がこれだけコケているのに、未だに支持率が上がらない点はもっと責任は重大かも知れません。

酒類提供業者のことに戻れば、この1年半の間に、どのような店のレイアウト(アクリル板の高さや置き方や座席の間隔等々)であり、人数は4人まで、食べる時はマスクを外して黙って食べる、しゃべるときはマスクを着ける、くらいで営業してもOKくらいの科学的データに基ずく公報ができても良いはずです。ワクチン問題でも河野大臣が担当になって期待したのですが、こちらも毎週決まった日時に会見を開くかと思いきや、初めは打ち手不足を心配していたのに、ワクチン接種が急速に進んだ頃からは、定期的な会見ではなく、どこかの民放やSNSでちょこちょことしゃべるものだから、本当は在庫があるのか無いのか、すら分からなくなってまっています。

東京オリンピック開催については、遅くとも開幕1か月前の時点で菅総理大臣として、開幕か中止か難しい判断ではあるが、「斯く斯く云々(しかじか)という理由で、次の何項目かを安全対策として実施するので開幕する決断に至った」という談話を1時間くらいかけて、総理と関係閣僚(橋本オリンピック組織委員会会長等)が、具体的な安全対策を国民に示しておくべきであり、これには万が一、途中で中止する危機管理はこのような状態という点も含めて、それをやってこそ国民も開催に納得しリスクを共有してオリンピックを楽しめたと思います。菅総理他の談話は常に「安心安全なオリンピック」と言うだけで、安心安全は受け取る方の国民や日本に来る外国人が感じて得るものであって、総理大臣や閣僚が手段も言わずに祝詞の如くしゃべるのは極めて不可思議であると思っています。

(普通部OB 船津於菟彦)一部にマスコミが煽っている。「ヒステリーマスコミ」などと揶揄する輩もいますが、確かに人類の禍根を残す「東京オリンピックコロナ禍」と言われない様に、注意するし、医療機関の方々も踏ん張って下さい。人流とやらも減って居ないのに「安心ー安全」とーーー。

「パラリンピック中止」ぐらいの「喝」入れないと収まらないのでは ?

(37 宍倉)今まではコロナ問題は私の日々関心事(一喜一憂)一番でした。今では、引き続きワイドショウの飯の種になっている日々のコロナ報道・情報にはなげやり的な気分です。感染者の日々増加とともに私のストレスも増加しています。

ワクチン接種が全体で50%にも達していないのに、新たに感染力の強いデルタ株感染者増加、加えて早くもが3回目の接種が必要とも言われ始めています。都心、又夜の街に出る機会は意識的に避けています。私の日々の行動範囲で見る限り、街中ではほぼ100%の人がマスクをしており、レストラン、スーパー等でも皆密集をさけ、マスク着用で、入り口には手消毒液・検温器等が設置されており、対策はそれなりに取られています。それでも日々感染者は増加の一途です。こうなったら自己防衛あるのみです。

酒があたかもコロナ感染源であるかの風潮には疑問を持ちます。一人静かに飲む酒もあります。要はマスコミで日々報道されている、夜の街の若者を中心とした飲食(特に飲)での、密集、大声での盛り上がりに問題であろうと思います。この状況を規制するには法制上の問題が壁となっています。

現政権の遅れ遅れの政策・対応には大いに問題もありますが、仮に秋の総選挙でリーダーが変わっても、又同じようなリーダーが生まれる事でしょう。政治の貧困、そんなリーダー生みだす土壌を作ってしまった我々国民の責任は大きいです。この現状一番の犠牲者は、子供達ではないでしょうか。部活等始め日々の活動が規制され、本来の活動も出来ない若者のストレスの高まりも理解できます。特に学年最上級生は、これまでの自己研さん・努力を発揮できる最後の機会が奪われています。甲子園を目指した高校野球でも、コロナ禍が災いし出場の機会が奪われた高校3年生も出てきています。

我々高齢者も残り少ない余生にそれぞれの人生終活の計画を持っていたと思いますが、それ断念せざるを得ず、誠に残念です。