本、がもたらすもの

ここ数年、自分の英語に関する知見を増やそうと思い、ミステリや冒険小説に絞って、ポケットブックを原書で読み続けてきた。それなりの効果があったと見えて、本来目的としてきたとおり、ボキャブラリもだいぶ増えてきたので、ここらで少し、”名作” というかクラシックなミステリ作品を読んでみようという気になった。

ミステリの大御所、といえば英国のアガサ・クリスティだが、同時代にアメリカで活躍した作家として、それも当時米国の知的活動の中心だったニューヨークを舞台に、東部のインテリ層に愛好されたヴァン・ダインとエラリー・クインがよく知られている。クリスティの人気は抜群で、翻訳書を本屋でみないことはないが、この二人は多少マニアックな人しか読まないらしく、あまりみかけない。その程度の知識でアマゾンを探したのだが、在庫されている作品は思ったより少なく、価格もものによっては1万円クラスのものもあるのに驚いた。だが考えてみれば僕らが生まれる前に書かれた作品だから新品を探すのが大変なのはやむを得ない。こういう時は ”中古 だが 保存状況よし”、の中から何冊かを購入しているが、今回もそうして注文しておいたものの4冊目、Greek Coffin Mysery (邦題:ギリシャ棺の謎)が昨晩届いた。驚いたことに体裁がポケットブックではなく、立派な装丁の、新品といってもいいような立派な ”本” なのですっかり気に入ってしまったのだが、その目次のページを開いてさらにうなってしまった。

各章の第一文字を順に並べるとそれが本のタイトルと著者の名前になるという誠にしゃれた仕掛けで、クイーンもののいわば ”売り” でもある、”読者への挑戦” の表明が裏表紙になっている。粋なつくりである。

エラリー・クインと名乗った従兄弟ふたり

実はエラリー・クインというのは従兄弟同士二人の筆名で、そのことはよく知られていたが、ヴァン・ダインは実は高名な文学評論家であったハンチントン・ライトという人のペンネームで、ライトはこのことは深く秘匿していた。読者の間でもその真相が話題になっていたらしいが、ある友人が(その手法はよく覚えていないが、たしか別名で手紙を送り、返信の筆跡をライト本人との私信のものを比較した、というのだったと思うが)秘密を暴き、沈黙代としてニューヨーク第一の高級料理店でディナーをおごらせた、ということが知られている。

クイーンが代表作となった 国名シリーズ10冊の題名を***** mystery  ということにして人気をあおれば、ダインは彼の12作の題名を  *****   murder case   として対抗した、などといった裏話も楽しい。

ただ、クインの作品はものの2ページも読めば、3年かかって稼ぎ貯めたはずのボキャブラリではとてもすまされない big words やら表現やらがでてくるし、描かれている社会現象の違いや、会話そのものの現代との違いが歴然としてくる。だから今、同じニューヨークで話されるスタイルは全く違ってしまっているはずだ(そういう意味で、僕はセリフを現代語で話し、結果として現代の発想や感覚が反映されていくという、今放映中の大河ドラマ 光る君 なんてのは作為が先走りしていて、王朝時代の雰囲気というものを反映していないと思うので、みるのをやめてしまった)。

ヴァン・ダイン

こういうトリビアというか、ファンの間で語り継がれ愛される、いわば 作品の余韻というかそういうものは、やはりそれが形に残り手元に置かれ、その存在を物理的に感じ、いわば愛情がこもってくる、本 というメディアによっているからだと思う。映像や音響による効果は事実を的確に、客観的に伝えるという意味では本よりもはるかに優れているだろうが、いわゆる行間を読む、というような知的動作を生むことは難しい。本で書かれた文章は著者そのもののものだが、映像化される過程では第三者の感覚によってその印象は当然、変わってくるだろう。

今回はたまたま米国発の話がきっかけだが、日本でも著者や編集者の中には工夫を重ねて ”本” への動機付けをはかっている人も多いはずだ。社会のありようがすべて ”アプリ” と グーグルで片付けられるようになりつつあるいま、行間を読み、余韻を楽しむ、そういう空間は本を読む、ということからでなければ生まれてこないような気がするのだがいかがであろうか。

 (10月11日 読売新聞朝刊記載記事記事)

 

“白い恋人たち” 補論  (大学クラスメート 飯田武昭)

マンシーニ論のなかで、ジャイさんの言う映画音楽ベスト1 “白い恋人たち” は自分も大好きな曲です。

想うに、この曲の良さの秘密の一部は先ず、ワルツ調の3拍子で特に1拍目に3連符(16分音符の3連符)を入れているので、タツ・タツタツタツータツ・タツ・タツとゆったりしたワルツ調のリズム感のあるメロディーになっている点だと思います。
フランシス・レイは安田さんのリストにもあるように、映画「男と女」「ある愛の詩(うた)」のテーマ曲も名曲ですが、“白い恋人たち”は中でも際立った名曲と思います。
映画「白い恋人たち」(監督ジャン・クロード・ルルーシュ)は冬季オリンピック・グルノーブル大会(1968年)の記録映画として製作されたものですが、この大会で地元フランスのジャン・クロード・キリーが滑降・回転・大回転の3種目で金メダルと取ったことはあまりにも有名です。

冬季オリンピック、スキー、映画という3つのキーワードと振り返ってみると、トニー・ザイラー(オーストリア)が冬季オリンピック・コルチナ・ダンペッツオ大会(1956年)(イタリア)で同じく滑降・回転・大回転の3種目で金メダルとこれ又、KWVやエーガ愛好会の皆さんには以前よりご承知のことではあります。トニー・ザイラー主演の日本公開映画(西ドイツ製作)は別添リストを参照頂きたいですが、これらの映画に付けられた音楽も大変ヒットしました。
特に「黒い稲妻」と「白銀は招くよ」の挿入曲は “白い恋人たち”とは又違ったスキーの楽しさを思い出させる名曲でした。

冬季オリンピックはコルチナ・ダンペッツオ(イタリア、1956年)、スコーバレー(アメリカ、1960年)、インスブルック(オーストリア、1964年)、グルノーブル(フランス、1968年)、札幌(1976年)、デンバー・インスブルック(1976年)、レークプラシッド(1980年)と続きますが、トニー・ザイラーの活躍した1956年とジャン・クロード・キリーの活躍した1968年の間に、トニー・ザイラーは5本の映画の主役で活躍したことになります。この時代はオリンピック、スキー、映画で盛り上がっていた約20年間でしたねえ。

(編集子)”白い小屋” へ通っていた間、大野さんのコレクションを引っ張り出しては、”黒い稲妻” を繰り返し何回も見た。この映画が封切られたのは確か僕らが3年の時。東劇で見て、みんな、当時まだ日本になかったキルティングジャケットにあこがれたものだ。この映画のヒットシーンの、ザイラーが滑りながらアコーディオンをかき鳴らす場面に興奮した37年卒の福永浩介がウクレレを持って滑ろうとして大笑いになったのも楽しかった。陽気で誰にも好かれたコースケの思い出も蘇ってくるようだ。飯田兄、Vielen Dank !

 

 

エーガ愛好会 (284) ヘンリー・マンシーニ  (大学クラスメート 飯田武昭)

テレビ番組「クラシックTV」(3日21時~30分・Eテレ)で映画音楽作曲家のヘンリー・マンシーニを取り上げていたのでみました。

ヘンリー・マンシーニは映画「ティファニーで朝食を」のムーン・リバーの作曲家として余りにも有名ですが、改めて彼の作曲家人生を振り返ったこの番組を見ると、マンシーニ作曲の映画音楽の名曲(映画そのものも名作)が、スタンダード・ナンバーとして今でも度々演奏されるのに気が付かされました。

・ムーン・リバー(映画「ティファニーで朝食を」テーマ曲)
・ピンクパンサーのテーマ
・小象の行進(映画「ハタリ」の挿入曲)
・ひまわり(映画「ひまわり」テーマ曲)
・酒とバラの日々(映画「酒とバラの日々」テーマ曲)

直、スタンダード・ナンバーとして後世に残るこの種の曲はメロディ自体は比較的シンプルで余白部分が多い曲で、別人が編曲し易い曲が多い傾向があるそうです。私はこれらの映画は皆好きですが特にはアフリカの猛獣狩りの映画「ハタリ」(1962年、ハワード・ホークス監督)で、ここで出て来る≪小象の行進≫は最初に見た時に、小象の行進の陽気な可愛い気分が出ていて何んと面白い曲かと思い好きになった曲です。Youtubeを良ければ聴いてください。

https://www.youtube.com/watch?v=TRKb_QuMd1k

時代を遡れば、ハリウッド映画全盛時代の1940年代~70年代には「風と共に去りぬ」のマックス・スタイナーを始め、コール・ポーター、アーヴィング・バーリン、リチャード・ロジャース、デミトリ・ティオムキンなど、キラ星の如く多くの名曲を作って映画の価値を高めた作曲家が多かったです。ヘンリー・マンシーニもこれらの中の一人でした。

(保屋野)(映画音楽音痴だった)私が目覚めたのは、愛好会に入って(チビ太師匠の奨めで観た)「ドクトルジバゴ」のテーマ曲「ララのテーマ」に感動してからでした。この曲は、モーリス・ジャールというフランス人作曲家の作品で、彼は「アラビアのロレンス」の作曲者としても有名です。

その後、ニノ・ロータの「ジェルソミーナ」(道)やモリコーネの「ニュー・シネマ・パラダイス」等の名曲も知りました。ちなみに、アメリカのジョン・ウイリアムスも多くの名曲がありますが、私はヨーロッパ系作曲者の方が好きです。

(安田)ご紹介された珠玉のマンシー二映画音楽の数々、封切り当時に映画を見た折に、深く印象に残り、その後も主題曲を頻繁に聴きました。アメリカ国籍ながら典型的な“・・・ni”で終わる名前からしてもイタリア系ですね。芸術の国イタリアからは、映画音楽作曲分野でもニノ・ロータ、エンニ・モリコーネの両巨匠を産み、フランス国籍ながらフランシス・レイも両親はイタリア人だそうです。

(小田)刑事コロンボやピンクパンサーもヘンリー·マンシーニの曲だったのですね。シンプルな曲がスタンダード ナンバーになる…プレスリーの「Love me tender」のような曲もそうですね。

「ひまわり」でははじめの3音に1ヶ月かかり、後は30分で仕上げたとか、まさに出だしで内容を表しています。先程、先日書いた「女三人のシベリア鉄道」の林芙美子の出る辺りを読み返していましたら、ちょうど「ひまわり」の事が書かれていました!
作者の森まゆみさんが、ミンスクで列車を降り《ミール城》を見学、バスを待つ間周りを歩くと、「ひまわり」の映画に出たような家を発見…、

『頭の中で、あのヘンリー·マンシーニの名曲が鳴りひびいた…』と。

(編集子)小生の映画音楽ベストワンは ”白い恋人たち”。これで決まり、であります。生まれて初めて、カリフォルニアでスキーをしたのが Soda Springs という小さなスキー場でしたが、その時、ゲレンデに流れていたのもこの曲でした。”…….from Grenoble, France,   というアナウンスに改めて異国を感じたものです。

オオタ二さーん話のつづきです   (普通部OB 船津於菟彦)

(金藤)打たれない・走らせないという警戒する中で打ち・走る。記録は多分未だ伸びますね。デンバーは行きましたが高地トレーニングするように空気が希薄なので飛びますよ。また、時間帯がアメリカでは東西に丁度良いところにあるのでCATVの本拠地がデンバー辺りにあるので見学に行きました。
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(船津)オオタニさーんが活躍しているコロラド州デンバークアーズ・フィールド(Coors Field)は標高1マイル(約1600メートル)地点にあるため、通称「マイル・ハイ」と呼ばれている。高地ゆえに気圧が低いため空気抵抗が少なく、結果として打球の飛距離がよく伸びる。ロッキーズ公式サイトでは「海面と同じ高さに設けられた他球場に比べ、約9〜10%も飛距離が伸びる。具体的な例としてはヤンキー・スタジアムでの400フィート(約122メートル)の打球は、クアーズ・フィールドで440フィート(約134メートル)になる」と記述されている。座席の色は緑色だが、3階席20列目の座席だけがロッキーズのチームカラーである紫色になっている。その高さが正確な標高1マイルである。ホームラン是非打ってほしい。

熟年生は未だCATVが創世記の頃米国視察に行った。当時ここデンバーには沢山のCATV局の本部があったので見学に訪れたのは1996年4月。当時CATVは今のAT・AIの様に何でも出来るという歌い込みで在りロスで華々しくCATVフェアが開催され世界から関係者が詰めかけた。今に思えば何て言う事無いが。そしてモデル施設がフロリダのオーランドにあり,何でもCATVから対応可能とか、映画も直ぐに観られるとか、今では可成り当たり前のことが、CATV網で出来るという事だったが、結局出来なかった。CATVフェアの夜、野茂さんは残念ながら出場無しだったが、ドジャーススタジアムを訪ねたことを思い出す。ネット裏地下に「吉野屋」の牛丼が在り「ヨシノヤ」って言いながら通ればフリーパスで通れkた。懐かしい。

野茂英雄さんがドジャーススタジアムで活躍されているときで、1995年2月13日にロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結ぶ。契約金200万ドル(約1億7000万円)、年俸は10万ドル。近鉄時代の1億4000万円からわずか980万円になった。その後苦難の連続で未だ差別も在る中で活躍して日本人の大リークへの道を切り開いた恩人だ。
米大リーグのドジャースは、本拠地ロサンゼルスでのパイレーツ戦前に球団OBをたたえる式典を実施し、1995年のデビューから「トルネード投法」で活躍しメジャー通算123勝を挙げた野茂英雄さんが出席。背番号「16」のユニホームを着用し、名前がアナウンスされると右手を上げて大歓声に応じた。何故コロラド州デンバーに沢山のCATV局本部があるとか言えば東西に流しても時差がさほど無いからと、高地のため気候が良い。ボルターは高地トレーニングに日本選手も行きますよね。第三の避暑地として宥免人の別荘などが在る。
その後日本のCATVは各商社こぞって設立したが、結局は住友商事が総て買収して-J:COM-560万加入世帯数-例外を除きCATV局のインターネット事業を支援する新会社「クロスビームネットワーク株式会社」を設立する。今やテレビ配信とかこれで家庭の色々な物を動かすとかは出来ず通信網とかゲーム関係で生き延びているようだ。今日の東京は涼しい天候でやっと酷暑から秋へと向かうようだが、未だ多少真夏日はある。暑さで遅れいた錦糸公園の曼珠沙華もチラホラと咲き始めた。

蓋あけし如く極暑の来りけり 星野立子
朝市に磯もの多し神無月 水原秋櫻子
いとしみ綴る日本の言葉曼珠沙華 中村草田男
こと欠かぬ鬼火 大江の彼岸花 伊丹三
まんじゆしやげ花を了れる旗竿を 山口青邨
人来ては去り来ては去り曼珠沙華 鈴木真砂女


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Θ Θ  |  熟年少年探偵団 0号団員 船津 於菟彦|
ι   /Please send me: funa007@me.com
〇   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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エーガ愛好会 (283)  踊る大捜査線   (HPOB 小田篤子)

懐かしく、面白く観ました。

このTVは昔家族でよく観たものです。26年も経つと亡くなった俳優さんも何人か出演していますね。
クールな警視庁エリート軍団と湾岸警察署のおかしな人達、不気味な殺人犯役の小泉今日子も印象的です。
警視庁のゴルフの帰り副総監が誘拐され、警視庁だけの極秘捜査から、公開捜査となり、青島刑事(織田裕二)など所轄組も捜査に加わります。
誘拐された副総監とは友人の、退職した刑事(いかりや長介)が犯人をつきとめますが、団地のゴミ収集所に閉じ込められてしまいます。
ポケットにいれてあった、副総監がブービー賞として貰い、分けてくれた赤いゴルフボールを焼却炉に入れ、その赤い煙で青島刑事(織田裕二)が発見する…このことは黒澤明監督「天国と地獄」の白黒映画に、煙突からピンクの煙が立ち昇る場面を思い出させます。
最後、犯人逮捕の際に怪我をした主人公の青島刑事らを乗せたパトカーを、警察官らは次々敬礼をして見送ります。
このシーンは、検視の仕事も時々引き受けていたという主人の叔父の葬儀の車が署の前を通る時、雪が降る中警察の方々が、並んで敬礼をして見送ってくださった何年も前の光景のようでした

(編集子)小生、”捜査線” シリーズは ”レインボーブリッジ” だけしか見ていないが、サイドライン ”アマルフィ” は面白かった。ここのところ、この時代のリバイバルをよく見ているが、いろいろある中で、村上弘明の ”刑事の証明” と 船越英一郎の ”吉永誠一”  シリーズが気に入っている。偶々、この二つで、仲間の刑事が殉職する話があり、そこで知ったのだが、この場合は二件とも殉職した警官は二階級特進で警部補として葬儀になる。市民の命を守るために身を捧げた仲間に対する敬意をこめた葬列の場面は心に響く。特に ”吉永” シリーズで号泣する小泉孝太郎の演技はよかった。雪は降っていなかったが、心にしみた。
(参考)警察官の”階級”は9つあり、昇任することによって階級を上げることができる。 その階級とは、『巡査』『巡査長』『巡査部長』『警部補』『警部』『警視』『警視正』『警視長』『警視監』『警視総監』『警察庁長官』刑事と呼ばれる警察官は「巡査」や「巡査長」の階級にあたる警察官で、管理職はそれぞれ役職で呼ばれる。

ヒヤリ、はっと を軽視していませんか? (普通部OB 篠原幸人)

まえに「物忘れ日誌のすすめ」を書きましたが、覚えていますか? 認知症とは縁遠いと自負している貴方こそ、些細な物忘れのエピソードがどのくらいの頻度で起こったかを日時と共に記載しておくことが、5年先を考えると必要だと思いますよ。
最近、新しい抗認知症薬(レケンビ)が発売され、小生の病院でも可なりの患者さんに試みています。そのためにも、物忘れなどの発症の正確な時期の把握が重要で、「物忘れ日誌」にちょっとしたエピソードの記載が日時と共に残っていると、専門医師は大変助かります。
認知障害は物忘れだけとは限りません。計算力・注意力その他が先に衰えることもあります。これも以前に書きました。
小生はシルバーウィークを利用してまた軽井沢で過ごしていましたが、先週末、車で上田市の別所温泉付近の松茸山まで片道1時間半強もドライブし、松茸料理を堪能してきました。その帰り道、付近の真田家ゆかりの生島足島神社に柄にもなくお参りしましたが帰り道の選択で家内と一寸口論しながら細いT字路を右折しようとして、危うく直進車と接触しそうになりました。典型的な「ヒヤリ・ハット」です。私の注意力不足は明らか。
こんなエピソードを私は「物忘れ日誌」の小ノートを逆にして、最終頁から自分の「ヒヤリ・ハット集」として記載を残すことにしています。まだ2冊目に移るほどのエピソードは多くありませんが。
皆さんも沢山のヒヤリとしたり、ハッとする経験があると思います。無論、相手側が100%悪い時もあるでしょう。そんな時も含めて、是非皆さん、これも始めませんか? これを始めることで、却ってヒヤリ・ハットが減るかもしれません。そのノートがお医者さんに皆さんが自分の症状を説明するのに役立たないことを祈っています。この逆説的な言い方、理解してください。

“小屋” というところ

”小屋“ という名詞はだれでも使う単語であるが、多くの場合は背後に ’小さい” とか  ”貧弱な“ といった、どちらかといえばネガティヴなイメージを持つ。日本の住宅事情を自虐的に示した ”ウサギ小屋“ などが思い浮かぶ。 しかしこれに ”山“ という接頭語をつけると、そのイメージは一転して、何となくロマンチックな響きを持つ。それはその後ろに ”旅“ が意識されるからだろう。

KWVでの4年間、僕が泊めてもらった ”山小屋“ はそれほど多くはない。これは小屋、よりも苦労して運んだテントこそモノホンだ、という思い込みがあったからだと思う.。これは僕一人の勝手な理屈なのだが、登山という行為の一部としてよりも、そこで過ごす時間が自分が抱く ”wanderun” のフィーリングに会う場所であれば、小さい小屋であれ豪華なホテルであれ、それが自分の “小屋” として記憶に残るものになっているように思えるのだ。

山を愛する人なら、一度は仲間たちと占有できる小屋が欲しい、と思ったことがあるに違いない。そういう意味で、KWVの仲間にとって ”小屋“ とは新潟と群馬を分ける三国峠の先にある、”浅貝(部落の名前)のKWV山荘“ である。”浅貝の小屋“ はKWVの先輩の皆さんが抱いてこられた思いを結実させたものだ。多くの先輩方の支援のもとに、僕はといえば2年生部員という中堅どころであった時期、総務(今の現役の間では部長、というらしいが、つまり運動部でいえばキャプテン)だった妹尾先輩の強力なリーダーシップと、すでに社会で活躍しておられた先輩方の支援によって完成した、ある意味、当時の僕らにとっては神聖な場所でもあった。完成後、上越国境の山歩きのベースとしてはもちろん”小屋で過ごす仲間との時間“ を満喫する場所であり、卒業後は暮れから正月にかけての ”越年”はかけがえのな行事であったし、同期の卒業後の ”夏合宿” の場でもあり続けた。

卒業翌年の5月連休、同期生の好漢児玉博が上越国境縦走の途次、悪天のため無念の遭難死をとげた。その後、児玉家から令息の想い出として何か意義あることに使ってほしい、として資金のご提供があった。現場に何かの慰霊碑でも、というご意向だったのだが、我々は遭難の悲劇を繰り返させないためにという熱意を持って、ほぼ半年にわたって休日ごとに有志で材料を運び上げ、完成後は ”越路避難小屋“ として広く一般登山者に親しまれることになる小屋(というには余り小さかったが)を遭難現場にちかい縦走路沿いに建てた。その後、地元の要望もあって現在は場所も変更されてしまったが僕ら建設に微力を尽くした仲間の間では今なお、”俺たちの小屋” の熱い記憶として残っている。この ”小屋” にかかげておいた由来を書いたプレートは確か山荘にあるはずだ。

僕が米国勤務などで浅貝から離れていた間に開業した “豊島ロッジ”は、社会人生活になれたわれわれにとって、”浅貝小屋“ とはまた違った、いわば ”大人の小屋“ として親しまれた。地元出身のオーナー豊島さんのおおらかな人柄が醸しだす、一種独特の雰囲気にひかれて足しげく通ったものだ。苗場と三国峠を一望にできたガラス張りの部屋での時間(35年卒の徳生先輩はこれを ennui アンニュイ と表現された。まさに言い得て妙、であった)は、スキー場に出ることがばかばかしくなるような、そういう時間であった。

就職した先でお世話になった先輩から紹介されて、八方尾根山麓の ”白い小屋“ へ行ったのも同じころだった。創業者の大野さんは著名なクライマーであり、夫人の榧(かや)さんは著名な熊谷画伯を父に持つ芸術家で、センスにあふれた、ロマンチックな小屋のつくりや、昔からある”八方のスキー宿“ というイメージからかけはなれた、シックな雰囲気には完全にとりこになってしまい、スキーシーズンは苗場か八方で決まり、というのがしばらく続いた。

スキー、といえば現役時代からお世話になったのが妙高高原は燕温泉スキー場にあった、”燕ハイランドロッジ“ だ。同期の翠川幹夫の父上は古くからのスキー愛好家で、若いころ通っておられた燕温泉の岩戸屋旅館に出資され、赤倉から燕へ抜ける林の中に、瀟洒なロッジを建設された。その創業の冬、翠川に招かれて、”雑用をする“ という口実で同期の飯田昌保と二人で滞在させてもらった。その後も卒業まで、何回も ”手伝い“ と称して泊めてもらった。当時まだ 田口、という名前だった妙高高原駅まで荷物を取りに行き、翠川と二人、荷物を担いでゲレンデの真ん中をシールでこれ見よがしに歩いたり、客の初心者にスキーの履き方を教えたり、挙句の果て、赤倉との間で雪崩に巻き込まれたり、いろんな思い出がある。僕が曲がりなりにもSAJ1級のバッジをもらったのも燕であった。

卒業後も続けてきた山歩きは、仲間にもいろいろな事情が起き、かたや娘を持つ身になって、パートナーは家を空けることができないので単独行を余儀なくされたが、その数年のあいだ通っていた北八ツで、麦草峠に至る縦走路にあった高見石小屋には何回かお世話になった。これは無念にも病を得て早逝してしまった37年卒ジュンこと村井純一郎の勧めで初めて泊り、その後僕の愛読書になった名著 ”北八つ彷徨“ の影響もあって、何回か泊めてもらった。ロマンチストで愛書家だった村井好みの、またオーナーのSさんの心遣いあれふる、実に感じのいい小屋だった。11月半ば,冬支度の最中だったここで、Sさんとストーヴを囲んで過ごした一夜の思い出は忘れられない。

そうこうしている間に、サラリーマン生活を終える日が来て、以前からあたためていた自分の小屋、を作る決意をした。”別荘”という名前がどうもしっくりこないまま、考えてみたらほぼ20年、今では北杜、なんてもっともらしい名前になったが、南八ヶ岳の南端、小淵沢の小さな別荘地に退職金をはたいて建てた ”小屋“ での生活は、旅の間の一夜を過ごした感覚をどこかに感じながら時間が過ぎていく、かけがえのない止まり木的な存在になっている。

この ”自分の小屋“ で周りを囲むミズナラの林を眺めていると、現役時代にはなかった時間の感覚にひたってしまう。戦前からある蓼科とか、野辺山から小海線沿いに開発された高級別荘地とは違って、われわれ ”サラリーマン卒業生” クラス“ の人たちがいわばひっそりと第二の人生を模索する、そんな感じのある場所で、何年か通ううちに周りの人たちとのあいだに心地いい仲間意識ができてきた、深い森のフィトンチッドに満ち溢れるいい場所であり、とにかく、静かな、風の音くらいしか聞こえてこない時間に、あらためて “人生は旅なのだ” と思い、これが俺の小屋なのだ、と感じる時間が経過していく。

しかし、時間、とは冷酷なものでもある。あれだけ通い詰めていた豊島ロッジは事情があって閉館してしまい、僕自身は行ったことがないが経験者によれば、後身は効率第一の、味気ないありきたりのスキー宿になってしまったようだし、高見石小屋も創業者のSさんが、部外者にはわからないが複雑な事情に巻き込まれてオーナーを降りてしまったあとは、ここもまた、”小屋が岳” 群の、一連の営業小屋になってしまった。一度、麦草峠へ遊びに行って足を延ばしたことがあるが、あの頃の雰囲気は望むべくもない。”白い小屋” は事業者としても成功した大野さんのプラン通り、拡張もされ施設もモダンなものになって、同期の連中と何度か訪れていい時間を過ごしたのだが、大野さんご逝去のあとは訪れる気も起きず、もう5年もたってしまった。ハイランドロッジもその人柄で誰にも好かれたオーナー経営者で岩戸屋旅館の次男坊、通称 ”ろくちゃん” こと宮沢英雄さんが病に倒れられた後は足が遠のいたままだ。赤倉に通った古いスキー仲間の間では、”燕” は上級者のいくところだというイメージがあって、あの辺りでは僕ら世代のスキーヤーには別格な場所だった ”燕” が由緒あったスキー場を閉鎖してしまった現在、経営環境も悪化してしまったのではないか、という気もする。取り越し苦労ならいいのだが。

わが 浅貝の小屋、はどうか。何度かの改築を経て、現在は僕らの抱く、”けむい小屋でも黄金の御殿” ではなく、近代的な設備を持つ施設になったし、現役諸君の間ではそれなりの浅貝生活があるようだ。しかし僕個人にとっては、いわば民宿並みになってしまったこの近代化、がしっくりこない。これは施設の問題ではなく、あの ”小屋の時間” がもう戻っては来ないという、当たり前のことがなお受け止められていないし,”トヨシマのおじさんおばさん” のいない浅貝部落そのものがどっかへ行ってしまった、ということなのだろう。そんなセンチメンタルな気分のまま、一昨年の山荘祭へ参加した時、(長い間ありがとう)という感謝を込めて、国道から苗場の山稜を、惜別の思いをこめて眺めてきた。多分、もう浅貝、をおとずれることはないだろう。

10月になった。すこしばかり早い紅葉を楽しみに、来月には小淵沢へ行こうと思っている。

 

 

 

赤富士がきれいでした     (42  河瀬斌)

昨日の日の出前、それまで見えなかった富士が薄明かりに現れたのを見ていますと、5:40分、わずかな雲間から山頂下の雲に突然日光が差し、金色に輝きました。
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それから数分後、日差しは弱まり、見事な「赤富士」が現れました。わずか8分の自然のドラマで、30分後にはその富士も雲中に搔き消えました。
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私達は千変万化の富士を見るのが好きで、何度もこの窓から富士を見ていますが、北斎の「赤富士」を実際に見たのはこれが初めてです。
9月25日 山中湖エクシブでのことでした。

(保屋野)赤富士、私も一度見たいものです。貴重な写真ありがとうございます。

山中湖エクシブには何回か泊まらせていただきましたが、添付写真はホテルの裏山(鉄炮木の頭)からの冬富士です。先頭を歩いているのはDr河瀬です。

(斎藤孝)初めて見ました。凄い凄い、雲も朝焼けしている。たしかに「北斎の赤富士」ですね。

(堀川)
いや〜。素晴らしい写真ですね‼️
最高のシャッターチャンスです。
赤富士に乾杯‼️

オオタ二! 四冠王の予感  (36 大塚文雄)

2024年MLB(米国大リーグ野球)もいよいよ大詰めにきました。大谷選手が史上最初の「50-50」をどこまで伸ばすか興味ぶかいところです。「50-50」の凄さは、MLBには40-40を達成した選手をメンバーとする「40-40クラブ」があって、そのメンバーは僅か3選手しかいないことからも分かります。ドジャースの残り試合は6試合(全試合数162)です。

1シーズンで打率、本塁打、打点の3部門でリーグトップの選手が「三冠王」で、これに盗塁王が加わると「4冠王」です(注:ナショナルリーグとアメリカンリーグ単位の記録)。MLBが打者部門で年間表彰するタイトルはこの4つだけです。140年におよぶMLBの歴史の中で「三冠王」は17名いるものの、「4冠王」は皆無です。そのため「三冠王」が最高の打者の称号として独り歩きしていますが、MLBは打者部門の最高タイトルの一つとして盗塁王を設けて、四冠王の出現を首長くして待っています。

私は、打者専門(DH)の大谷選手が次々と盗塁を成功させるのをみながら、今年が4冠王になる最初で最後のチャンの年と思っていました。投手はケガをおそれてあまり盗塁しないから、二刀流に戻る来年以降に盗塁王はあり得ないからです。今シーズンの盗塁はすでに55ですが、2019年から2023年までの盗塁実績は12、7、26、11、20で年平均15回からみても、来年激減するのは明らかで、四冠王は不可能です。

今シーズンを見るとは、盗塁は64の選手、0.301の打率は0.318の選手が上にいるので四冠王は絶望的で、ホームラン王と打点王の二冠で終わる可能性が極めて高くなりました。

来シーズンはケガなど思いもよらぬ事を起すことなく、打率、本塁打、打点の3部門でリーグトップの三冠王になって欲しいと思います。本塁打王は出場数が減る可能性を入れても間違いなしでしょう。打率王は今シーズンでも三振(160)の1割を四球にしていれば、安打数が同じでも一位を競う0.318になります。実際シーズン途中にしばらく一位の時期があったことなどから来シーズン打率王競争に加わる可能性は高いと思います。打点王は前の打者の出塁に左右されます。今シーズンのドジャースは下位打線の出塁率が低く、大谷選手自身も得点圏打率が低い時期がありました。それでも今トップの打点をあげているので、来シーズン打点王になる可能性は高いと思います。三冠王になるのを今から楽しみにしています。

ちなみに、MLB全体の打撃三冠王ライバルはアメリカンリーグ所属のニューヨークヤンキースのジャッジ選手です。AIに訊ねると、今シーズン現在の成績は打率0.321,打点138,本塁打55本で、三部門いずれも大谷選手を上回っています。

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(安田)OPS(On-base plus slugging)は、野球において打者を評価する指標の1つで、出塁率と長打率を足し合わせた値である。数値が高いほど、打席あたりでチームの得点増に貢献する打者だと評価される。アメリカ大リーグ(MLB)では重要視される指標で、最近よく耳にするが、日本のプロ野球で用いられず、関心はあまりないようだ。

0.9000を超えれば一流打者、1.000を超えれば超一流打者だと評価される。今シーズンのMLBで、今のところ1.000を超えている選手はアーロン・ジャッジと大谷翔平の2人しかいない。0.9000を超えた選手は二人を除くとア・ナ両リーグ併せて10人しかいない。打者の指標として本塁打数、打点、打率が重要視される値で、数字が打撃成績をストレートに示すので分かり易い。ジャッジも大谷も本塁打と打点の2冠は2位以下を多く引き離して確実視されている。因みに、シカゴカブスの鈴木誠也のOPSは0.841で、一流までもう少しだ。
ジャッジは本塁打数は53本、3塁打1本、2塁打35本、単打83本で合計塁打数は大谷より少ない368(vs大谷383)だが、打数が圧倒的に少ない539(vs大谷693)ので長打率0.683(vs大谷0.636)となる。ジャッジは打率が大谷より0.020(2分)高い上に、四死球が135と大谷の82より53も多く、その分打数も少なくなり、合計塁打数は大谷より少ないにも拘わらず、長打率が高くなっている。出塁率では、四死球の多さが出塁率の値を高くして、0454 (大谷0.378)の値を示している。ジャッジのOPSは1.137となり、大谷を0.122凌駕している。
OPSには表れない、大谷の凄さと貢献の高さは盗塁数の多さであろう。単打が2塁打になり、2塁打が3塁打になる勘定だ。盗塁数を塁打数にカウントすると、大谷の長打率は0.675(vsジャッジ0.683)と0.039高く、OPSは1.054に跳ね上がる。
いずれにしても大谷とジャッジの2人がMLBを代表するスラッガーの東西横綱であるのは間違いない。