添付の写真上はスマホのロック画面にした好きな写真。
きっぱりと冬が来た
またまた購読している読売のコラムのことで、同じニュースソースばかりで能がないと思うのだが、昨日は高村光太郎の詩の一節がとりあげられ、能登地震で苦境にある方々への励まし、特に若い人たちへのエールになっていた。自分がやはり高校生のころ、ここで取り上げられている詩に感動したことが思い出される。
高村は造形美術の巨人としてのほうがよく知られている。残念だがそちらには興味のない小生だが、彼の詩は高校生のころから読む機会が多かった。今度取り上げられているのは彼の詩集の一つ ”道程” から、よく知られている ”冬が来た” の一節である。高村の詩集では、若くして心を病んでしまった愛妻を思う ”智恵子抄” が有名だが、どの作品だったかに 智恵子は檸檬をがりりと噛んだ という一節があり、このイメージが読んだ時のぼくの精神状態にもよるのだろうが、妙に心に突き刺さってしまい、それ以来、なんとなく遠ざかってしまった。これと対照的に
”僕の前に道はない 僕のうしろに道はできる”
という有名なフレーズで始まるこの ”道程” という詩集はやはり、未来を見つめている高校生にはわかりやすいのだろう。読売のコラムが取り上げた 冬が来た は、”きっぱりと冬が来た” で始まり、”冬よ 僕に来い 僕は冬の力 冬は僕の餌食だ” と言い、”しみ透れ つきぬけ” そして ”刃物のやうな冬が来た” と結ぶ。北国の厳寒の中でなお前を向き続ける若者にこの詩を紹介した、このコラムのセンスのよさには毎度ながら敬服する。
ほかにもうひとつ、僕からその若者たちに紹介したいのが同じ詩集にある、”カテドラル” だ。これを初めて読んだとき、僕は訳も分からずにただ感動した。圧倒された、というのが正しいかもしれない。
おう又吹きつのるあめかぜ。
外套の襟を立てて横しぶきのこの雨にぬれながら、
あなたを見上げてゐるのはわたくしです。
この初めの一節が、自分の中で凝縮し、どこへどう向けたらいいのかわからない、若者のエネルギーというかパッションというか、それになにかわからないが一つの方向をさししめしてくれた、という風に僕は覚えている。今こうして書いている間も、文字通り ”吹きつのるあめかぜ” の中で雄々しく戦おうとしている能登の若者たちにこの読売のコラムがはげましになることを祈らずにはいられない気持ちである。
米国西部なら多少わかっているとは思っているのだが、欧州にはあまり行く機会もなかったし、今後ももう行く機会はもうあるまい。この カテドラル についてもパリ在住の平井さんあたりにご紹介をいただくのがいいようだが。
秋葉原の半日
秋葉原、という地名はよく知られているように、”電気街” という異名があって、電気販売店の密集地というイメージが強く、外国人観光客の ”爆買い” には人気スポットにもなっている。僕らの中学生時代は当時の先進技術であったラジオやアンプの自作に興味をもった、いわゆるラジオ少年には部品や材料、工具に測定器などの供給地として大げさに言えば一種の聖地みたいな場所であった。
小学校の時、”鉱石ラジオ” なんてものに興味を持ち、中学に入って真空管を3本使った(当時自称 ”通” の間では ”3ペン” とよばれたもの)構成のラジオつくりをクラスメート数人で始めた。家でもなんとか使えるものが出来たことで気をよくして、つぎには ”短波受信機”ってやつを造ろう、ということででっちあげた6球のラジオで英国BBCの放送を受信し、つたない英語で書いたリポートにBBCからカードをもらったことでさらにラジオ熱が上がり、次のステップとしてアマチュア無線へ進んだ。この過程で、小遣いを抱きしめて、秋葉原へは足しげく通ったものだ。 戦後、なぜこの場所がいわばラジオや通信機マニアの聖地化したのかはよくわからないのだが、最盛期には神田駅のガードあたりから万世橋、秋葉原といろんな部品屋が軒を連ねるようになり、それらの店がやがて一つの建物に同居する形になって、いわば現在の用語で言えば電機部品スーパーみたいなものになった。神田から始まって、覚えているだけでも5つか6つはあったと思うのだが、その生き残りとして秋葉原駅にほぼ隣接したところにラジオデパート、というのがまだ営業している。しかし市販されるエレクトロニクス機器がデジタル化と相まってあまりにも高度化してしまったために、アマチュアが一から部品を組み立てる、という時代ではなくなり、“自作” といってもそのクライテリア自体が様変わりしてしまったので、この種の店の存在意義も変わりつつある。
小生は退職後、KWV仲間の浅野三郎君や彼の友人各位の指導でこの道に復帰し、それなりに地球規模の交信を楽しんできた。これは中学時代には想像もつかなかった性能を持つ通信機が専門メーカーによって提供される時代になったからだ。しかし小生はいわば前時代的な、ありていに言えば天邪鬼的思考で、”自分で作った通信機で交信する” という夢が捨てきれない。しかし ”自作” が前提であった時代とは違って、他人に迷惑をかけないためには、メーカー並みとは言わずとも最低の機能を持つ機器を作るというのは並大抵ではないという現実に向き合っているのが現状だ。必要な部品の調達もネット商法によって手軽に入手ができるようになったが、やはり秋葉原で部品屋をほっつきあるくのは誠に楽しい。たまたま、今取っ組んでいるプロジェクトに足りないものがでてきたので、ほぼ半年ぶりに秋葉原へ行ってきた。”自作” が少なくなったうえに、世の中に背を向けて、時代遅れもはなはだしく(というか勉強不足もあって) ”真空管でやる” というドンキホーテ主義を貫いているので、そのためには時代錯誤的な、オールドファン向けの部品を扱ってくれていたある店に行こうと思ったのだ。
しかし、実はやがては来るものと覚悟していたのが現実となり、今日行ってみたら店にシャッターが下りているではないか。隣の、これも良く行く店で聞いたら、やはり昨年末で廃業しました、ということであった。秋葉原で、という事はたぶん全国でおそらくただ一軒、かつてのラジオ少年向けに頑張ってくれていた店主のSさん(確か小生と同年齢だったと思うのだが)にも会えずじまい、また一つ、キザに言えば心の灯みたいなものがなくなってしまった。
これからはあまり好きではないのだが、通販をさがして似通った部品を探すしかあるまい。たとえば話はコマくなるが、すずメッキ電線にかぶせる絶縁チューブは今では当然プラスティックになっているが、昔使っていた、エンパイヤチューブ、という現代のアマチュア諸君はご存じないものが秋葉原廣しと言えども置いてあったのはこの店だけだった。製品としての機能では現在のものの方が格段にいいのだが、”昔” を偲ぶために使い続けてきたのだがこれも終わりにしなければなるまい。現代の発光ダイオードなどというロマンの感じられない不細工なものを避けて、わざわざ模型用の豆電球で、あのほんのりとしたパイロットランプの雰囲気を楽しんできたのだがこれも難しくなっていくだろう。
明治人のいわく “降る雪や 明治は遠くなりにけり” を改めて実感し、今何度目かのスクラップアンドビルド、を繰り返している送信機が ”わが恋の終わらざるごとく この曲も終わらざるなり” なんてオーストリア人の嘆きにならないようにしたいと思いながら帰ってきた。電車を降りたら甲州街道に木枯らしが吹き荒ぶ、寒い半日だった。
エーガ愛好会 (248) 新春・再見エーガのこと (大学クラスメート 飯田武昭)
BS103が無くなって、BS101に纏められてから、番組構成
他に、ちょっと必要があって最近再見したビデオでプレスリーの「
「ブルーハワイ」は1960年代初めの公開で、当時の豪華絢爛の
ハイウエイをビュンビュン飛ばす爽快さと、プレスリーが「ブルー
「さよならをもう一度」はフランソッワーズ・サガン原作の映画化
アンソニー・パーキンス演ずるストーカー紛いのニヒルな付き纏い
人物設定が嫌いで、評価が低かったですが、今回再見(交響曲第3
例によってウイキペディアによれば:
「ブルー・ハワイ」(Blue Hawaii) は、ビング・クロスビーとシャーリー・ロスが主演した1937年のパラマウント映画『ワイキキの結婚』のために、レオ・ロビン作詞、ラルフ・レインジャー作曲によって書かれたポピュラー・ソング。1937年にクロスビーが吹き込んで、「スウィート・レイラニ」のB面として発売されたバージョンでは、「ラニ・マッキンタイア&ヒズ・ハワイアンズ」がバックを務めている[2]。
この曲は、その後、数多くのカバー・バージョンが作られたが、最も成功したのは1961年にエルヴィス・プレスリーが映画『ブルー・ハワイ』の主題歌として歌ったもので、この映画のサウンドトラック・アルバム『ブルー・ハワイ』は、ビルボードのアルバム・チャートであるBillboard 200で連続20週間にわたって首位にとどまった。プレスリー版はアメリカではシングルとしては発売されなかったが、日本では1962年に「ラ・パロマ」とのカップリングで独自にシングルカットされた(日本ビクター SS-1286)[3]。
(編集子)敬愛する飯田兄が 一部の女性ファンがのたまう エルヴィス などと背筋が寒くなるような甘ったるい表現を使わず プレスリー と書いているのは喜ばしいことである。ただ小生、映画 ”ブルーハワイ” はトップシーンが印象にあるが、当時の彼の持ち歌総動員、という程度しか記憶がないのは申し訳ない。
”どうして日本人はこうなんだろう” について (44 安田耕太郎)
スマホのYouTubeを徘徊して時間潰しをすることが増えた昨
エーガ愛好会 (247)カウボーイ (34 小泉幾多郎)
昨12月放映「決闘の3時10分」の監督デルマー・デイビス、主
先ずは出だしから驚く。あのタイトル・デザインの革命児
銃撃
原作は、フランク・ハリスの自伝「カウボー
(編集子)そうそう、ブライアン・ドンレヴィは ”大平原” とか ”落日の決闘” それに ”ボージェスト” の鬼気迫る悪役ぶりでなくちゃ。最近の悪役はみんなスマートすぎて迫力ねえなあ。
(菅井)ハリウッドというよりはN.Y.などEast Coastの典型的な都会派俳優のジャック・
軽めのコメディが得意だったジャック・
ウィキペディアによれば、ジャック・
乱読報告ファイル (51) タナ・フレンチ 捜索者
今の場所に引っ越して以来、すっかりなじみになっていた本屋が閉店するというので名残惜しくなって立ち読みに寄った時、偶然、タイトルにつられて買った本である。アマゾンで調べて原書も手に入れることができた。
この本、表紙に書かれている賛辞によると素晴らしく考え抜かれたミステリ、という事なので期待して読み始めた。シカゴで長い間荒っぽい警官生活を勤めた主人公が引退近くに離婚し、アイルランドで全く違った環境でゆっくり余生を過ごしたいと見知らぬ田舎町に家を買う。古い家なのでいろいろと手を入れなければならず、隣人のアドバイスも受けながら大工仕事をやっているところへ、見知らぬ少年がやってきて、いなくなった兄を探してくれと頼んでくることから始まる。原書にしてほぼ400頁の作品なのだが、期待しつつ読み進むうちになんとなく違和感みたいなものがでてきた。200頁を過ぎても一向ミステリらしい雰囲気にならないのだ。話はともかく兄の結末を見届けるところで終わるのだが、主人公が一度、闇討ちに遭って怪我をする以外、アクション描写もなければ悪漢も出てこないし悪女も現れない。ほぼ400頁の間、主人公は村人に会い、山を歩き、また人に会う。そしていつの間にか、探していた少年を探し当てる。どこがミステリなんだ、と思っているうちに終わってしまった。子供が一人、行方不明になる訳だから、それなりの騒動があってもいいのだが、警察も一切でてこない。それがアイルランドとシカゴの違いなんだ、と納得してみても、どうも読み終わった満足感がないのだ。
この主人公は料金も払ってもらえない子供の願いをかなえてやろうと、そのコミットメントに愚直なまでにただ歩き回り、行動する。難しい理屈も不満もとなえない。違和感が消えないままとにかく読み終わってから、待てよ、これはまさに ハードボイルド文学 の原点なのではないか、という気がしてきた。報酬にも世間の評価ももとめず、ストイックに自分の意思をもちつづけることだけが原理であり、話が終わればまた、自分の生き方にもどっていく。”長いお別れ” でマーロウは友人だと思っていた男と別れ、その足音が遠のいていくのを黙って聞く。出会いがあり別れがある、それだけ。
ニューヨークの批評家がなんといおうと、これはミステリじゃない。これはシカゴやサンフランシスコの裏街ではなく、草深いアイルランドを描いた、優れたハードボイルド文学だ、というのが読後感であった。
”どうして日本人はこうなんだろう”
いわゆる有識者とかその道のエキスパートとして知られる人たちが、日本の現状を先進諸国特に西欧社会のそれとを比較して論じることがよくある。たしかにそうだなあ、と納得する議論も多いが、中には(そんなに自虐的に考えるこたあねえとおもうがなあ)という論調も数多い。(日本では)(だから日本人はダメなんだ)(先進国では)といった議論である。これらの弁士を称して 出羽守 という。”日本では” と言い、決まって ”どうして日本人はこうなんだろう” と終わるからである。
昨日、度々引用するが読売新聞のコラムで、この (どうして日本人はこうなんだろう)というフレーズがきわめてポジティヴな意味で使われているのを発見してうれしくなった。いま国民的同情を集めている能登地震に関連してのトピックで、かつて不運にぶつかった東日本大震災のとき、救援に駆けつけてくれたスタッフに、救出された老人が、”ご迷惑おかけしてもうしわけありません” と言った、というエピソードである。また本欄でも一度紹介したが、同じような場面であわてて逃げだしたので、料金をはらっていなかった、すみません、と混乱の真っ最中に食事をしていた店に戻ってきた人がいた、という話もあった。
また、能登の震災とほぼ同時に起きた羽田の日航機から、全員が無事救出されたという事には、全世界から驚嘆の声があがっているという。インターフォンが使えず、一部のドアは使えない、という異常事態を見事に乗り切った機長以下のスタッフの沈着な対応も見事だったが、”荷物は持たないで、あわてないで” という指導にきっちりと対応した乗客の態度もまた賞賛されている(この部分の映像も見て感動した)。今まで同様の事故は海外でも何度か起きているが、いずれも我勝ちに荷物を抱えて脱出するひとびとで大混乱がおきていたそうだ。此処で、読売のコラムは言うのだ:どうして日本人はこうなんだろう? と。嬉しい疑問ではないか。
僕はこの ”どうして” の解答は、我々が子供のころから無意識に植え付けられている、けじめ、という感覚なのではないか、と思うのだ。日本という国では、個人と社会とのかかわりあいの濃密な関係を大切にする。そこには西欧文化の言う意味での個人主義とは異質の、”自分”という個人と全く同列に ”あの人も個人” という感覚を重視する。そこには自分と他人のあいだにはっきりしたけじめ、という意識が生まれる。だから、自分のために危険を冒してくれた、その個人に対して、”迷惑をかけた” という意識が生まれるのだろう。
”人様に迷惑をかけない” というロジックを、個人の尊重をないがしろにするものだ、という批判にすりかえてしまう論調をよく聞く。この議論は突き詰めて言えばなんでもかんでも自己第一、という議論になる。燃え上がる飛行機からの脱出にどうしても自分の荷物だけは持ち出したい、という動機になり、支援物資が届けば我勝ちに持ち出したり、日本では絶対に見ないことだが略奪行為になったりするのではないか。
最近、健康維持と称して早朝、甲州街道を歩く。京王線にしてふた駅分歩いてそこから電車に乗って帰る(5年くらい前までは往復歩いたのだが)と、ちょうどいわゆるラッシュアワーに差し掛かる時間帯になる。サラリーマンの皆さん、ご苦労様、という気持ちなのだが、どうも最近、そういう雰囲気があまり感じられないのだ。なぜだ、と考えてみて、周りの人たちが実はそうなのだが、それが僕らのイメージにある ”サラリーマン” 風でないのだ、という事に気がついた。ネクタイを締めてカバンを持って、というのが僕らのイメージなのだが、そういう人たちも今やネクタイなぞはしめず、ラフな、と言って悪ければスポーティな格好にザックを背負っているのだ、という事である。この風潮はコロナ下で必要に応じていやおうなしに始まった自宅勤務というか ”リモート” モデルと軌を一にした現代改革なのだろう。時間や通勤スタイルなどに関する自由度を増す、という意味ならばまことに結構だし、僕自身、ネクタイなんかは嫌いな方だったから、納得は出来る。しかし片や、現役真っ盛りの息子なんかを見ていると、スマホに追いかけられ、世界のどこにいても電話が追っかけてくる現実は確かに効率はいいだろうが ”個人” と ”社会” とのあいだにあるべき ”けじめ” がつくのだろうか、と心配してしまう。この事象はもちろん世界的な現象であって、出羽守に説教されるまでもないのだが、僕には今回の読売のコラムが使った意味で、(なんで日本人は) と言われれなくなる日の来ることが恐ろしい気がしてならない。.
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エーガ愛好会 (246) ウエスタン (34 小泉幾多郎)
今年2024年NHKBS1最初の放映西部劇。マカロニウエスタンの巨匠と称
冒頭から約10分余セリフもなし。3人の男が、ある駅で誰かを待
場面は代り、数年前に妻を
と鉄道の利権を収めるようになったジルが、この映画の中心人物と
モートンが部下を使い、フランクを狙う場面等も
壮大な夢を実現すべく、ジルは町の大衆の中へ、入って行く。古き
(安田)小泉さんのご丁寧な追加解説で「ウエスタン」
久しぶりのサントリーホールで起きたこと
年も明け、コロナ騒動でしばらく遠ざかっていたサントリーホールへパートナーのお供で出かけた。高校時代、母親がなにかの義理で東京交響楽団の後援会に入っていて、毎月、チケットが来る。それを自動的にもらって日比谷へ分かったような顔をして出かけたものだったが、現在、同様に何がきっかけだったか我がパートナーも覚えていないのだがなんとなく毎月、スケジュールが送られてくる。今回は小生でも知っているポピュラーな曲目だったので気安くでかけた。自分には演奏技術だとかなんだとかいう事を云々する感性も知識もなく、クラシックの名曲もまた一種のBGMを聞くくらいのつもりなのだが、やはりジョニー・キャッシュでもというのとは大分違った会場の雰囲気も悪くはなかった。
新春、ということなのだろうが幕開けにシュトラウスのワルツがあり、2曲目が小生の好きなラフマニノフのピアノコンチェルト2番。家で聞いているときは、いろんなことをやりながら、ま、今日は小林旭じゃあねえか、ラフマでもかけるか、という程度に流すだけなのだが、今日はどういうわけか、出だしのピアノの連打が終わったあたりから、全くなぜだかわからないのだが、高校時代のことをつぎつぎと思い出した。高校時代に特にこの曲に関わる想い出があるわけではないし、何より、あの時代にこの曲を聞いた記憶もない。しかし曲が終わるまで、高校時代のあのこと、このことが思い出されてきて、なんとも妙な気分でいるうちに最後の豪華なフィナーレになり、ピアニスト(小山実稚恵)がたかだかと手を挙げ、満場の拍手になってしまった。
僕は幸い、中学高校大学と一貫教育を受け、高校時代を受験という試練を受けずにきままに過ごすことが出来た。そのおかげで中学時代はラグビーで、大学はこれまたワンダーフォーゲル部での毎日とほんの少し、エリヒ・フロムをかじっただけで卒業してしまった。そういう意味では、高校の3年間の、あのゆるやかなというか、ある意味ではたおやかな、そういう時間が自分の人生観というか生き方を決めた時間だったような気がする。高校へ進学した時点では、ラグビーを辞めますと言って先輩に屋上で殴られる寸前まで苦労し、その反動半分、迷わずに新聞会という部活動に溶け込んだ。その後卒業までの間につき合った仲間たちとは文芸誌みたいなものに携わったり、一時は文学部へ行こうかなど真面目に考えたこともあったし、などとそんなことどもが次々に蘇ってきて、当時はやっていた名曲喫茶なんてのにも出入りしたものだったな、と思いいたると、どうもこのコンチェルトは俺の高校時代の描写なんだ、というようなこじつけができたから不思議なものだ。
この曲のどこが、どの部分がどうした、という議論はとてもできないし、なぜ今まで同じ曲を何度聞いてもそういう気にならなかったのはなぜか、ということもわからない。言ってみればこの日の演奏が作り出した周波数が自分の回路に共鳴した、というようなまことに不思議な体験だった。音楽を聴く、という行為としてこれがどうなのか、わからない。ただ、この日の小山さんの演奏が素晴らしかった、というのはずぶの素人の自分にもわかった。アンコールの拍手は鳴りやまず、彼女は6回、ステージにあがるという劇的な演奏であった。
この日、ラフマニノフが自分をとらえた、感傷だか何だかわからないものが、好きな立原道造の詩から感じるものと似ているような気もする。 ”のちのおもひに” というこの詩は、次のように終わる。
夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには
夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう
(安田)小山実稚恵のピアノ演奏をお聴きだとのことですが、彼女は198
ラフマニノフのピアノコンチェルト2番となれば、「エーガ愛好会
サントリーホールの思い出で忘れがたいのは、2004年11月、