懐かしさ溢れる西部劇。20世紀フォックスの派手なマークとテーマ曲で始まるとあの口笛とギターでの主題曲が牛の大群とカウボーイを背景に流れる。其処へ銀バッチが目立つロバート・ライアン扮するキャス・シルバー保安官が走り込む。テキサスから食用牛の大群が入り、好景気に沸くこのカンサスの小さな町の監視がてらやって来たらしい。同じ頃、ブームに目を付けた悪ボスのジョン・バレット(ロバート・ミドルトン)がキーストンの町からやってきて酒場を開くことになる。バレットとキャス保安官とは、キーストンでどうやら、諍いがあったらしい。それと牛を追って来たカウボーイの一人サッド・アンダーソン(ジェフリー・ハンター)が一人町に残るが、彼はキーストンの町で、キャスが保安官当時に父親が丸腰のまま撃たれたと思い込み、キャスを恨んでいた。
この状況下、バレットの酒場で、キャスがサッド相手にイカサマポーカーをやっていた男を暴いたことから撃ち合いになり、サッドが太ももをキャスが左の眉間を傷つけることになる。これが原因で、キャスは、その後一時的に失明することになる。この映画は、この銃創の後遺症から失明状態に陥る保安官の孤立無援の戦いを描くのだが、この保安官の目が見えなくなることと、この保安官がサッドの父親の本当の仇なのかというサスペンスが良く効いている。
この頑固一徹の保安官に、向こう気の強い若者、権謀術策を凝らすボス、鉄火肌の女将サリー(ヴァージニア・メイヨ)、飄々とした老人の看守ジェイク(ウオルター・ブレナン)等芸達者が好演しているが、残念ながら後者二人は、活躍の場が少な過ぎた。
なお、「誇り高き男」に関し、小生の評価をお尋ねとあらば、ライオネル・ニューマンのあの主題歌の効果、単なる保安官対悪者の対決だけでなく、銃創の後遺症による失明や若者の父が保安官に背後から撃たれたという疑心との確執。「真昼の決闘」同様の市民との確執やら、極限状態からの脱出等法の番人の宿命的姿を描いており、西部劇として傑作の部類に入るのでは、と思っている。
(関谷)丸腰の相手は撃たないとの「誇り高き」正義感溢れる保安官の信念・姿を若き仇討に示したかった映画だったのでしょうね。私が愛読する池波正太郎他の「時代小説」に通じるものがありました。
これからもWESTERN映画を楽しみに観ることとします。映画音痴の私として、今日は小雨も降っており、黙って・じっくりと、久々に、鑑賞しました。
(船津)アラートで地下鉄の防空壕に避難してソンしちゃったぁ。そうかGiさんは音楽がよかっのかぁ?
(菅原)セイブゲキアラートに釣られて、久し振りに西部劇を見た。前日のJ―アラートに引き続き、今回も的外れ。アラートも頼りにならなくなって来た、狼少年になっちゃうな。同じ西部劇でも、「荒野の決闘」と較べると、映画全体に締まりがなく、ユルフン。ロバート・ライアンが、なんとなく頼りないせいなのか。監督をやったロバート・D.ウェッブとジョン・フォードじゃー、月とスッポン。そして、どこが「誇り高い」のか、さっぱり分からない。唯一の救いは、ヴァージニア・メイヨ。1956年当時、聖林には綺羅星の如く、それこそスター女優がいたわけだ。と言うのが小生の独断と偏見。
(飯田)小泉さんの映画「誇り高き男」への解説と評価を拝読すると、なるほどな~と思いました。私はロバート・ライアン主演の映画と聞いただけで、
まあ、略、B級娯楽作品と思って観ますが、この作品はロバート・ライアン主演作品の中では含蓄のある面白い作品と思います。
カンザス・シティの小さな街の中及び室内の撮影だけで略ストーリーが進行するのは、確かに小泉さんの言を借りれば「真昼の決闘」に似たシーンの扱いでもあります。ロバート・ライアンがジェフリー・ハンターに早打ちの術を試すシーンだけが唯一、小さな街から外に出た荒野で撮影されたシーンだったです。この作品でちょっと気に入らないのは、ジェフリー・ハンターの役どころで、殺し屋だった父親が保安官のロバート・ライアンに背後から打ち殺されたという設定にしても、彼の顔形からして切れ目の細い目と青い瞳で眼光鋭く、画面に大写しされると、少し不気味な気味悪さが私には伝わってきました。
彼の主演のジョン・フォード監督の「捜索者」でも似たような印象を持った次第ですが どうしても、彼の表情からはショート・テンパーな青年という印象を受けてしまう俳優で、アンソニー・パーキンスにその点では似ています。
この映画では街中や居酒屋、賭博場、室内の装置がいかにも当時のカンザス・シティ辺りの風景・光景と思わせる、おしゃれで豪華なセットであることも、楽しく観られる素晴らしい点だと思います。バージニア・メイヨも勿論素晴らしい!
(下村) 素人でセーブ劇の評価基準はまったく分かりませんが、ちょうど水戸黄門の映画を見ている感じで、気楽に楽しめました。歳のせいで涙腺が弱くストレス耐性も弱っているので単純明快な勧善懲悪映画は安心して見られます。ご紹介多謝です。
(小田)街の中だけの出来事で、少し物足りない気もしましたが、インディアンの襲撃や、凄まじい撃ち合いもない西部劇は落ち着いて観られました。眼の後遺症が撃ち合いの時、いつ出るのかと、気になりましたが、人情味のある、誇り高い保安官と音楽…良かったです。
お馴染みの、ウォルター·ブレナンは、リオ ブラボーと同様に監獄の番をひとりきりでしていて…最後は可哀想でしたね。
(保屋野)殺人と正当防衛、当時は難しい判断だったのでしょうね。ただ、ネットに、先に抜いて、相手を殺して罪にならないのは ① 相手が犯罪者やお尋ね者 ② 正式なルール(立会人あり等)にもとづいた決闘
と書いてありました。「誇り高き男」で保安官がかって丸腰の男を撃った、という疑いがありましたが相手が「殺し屋」でなので、例え丸腰でも罪に問われないのでしょうね。
(小泉)先に抜いて罪にならないのは戦場だけか。相手が犯罪者やお尋ね者でも、個人だけの判断では許されないのでは。西部劇の場合、殆んどが争いでの撃ち合いは、所謂決闘の範疇が多い。要は、闇討ち、先手必勝と言っても相手が承知しない間に、撃つことは殆んどなく応戦体制が出来ての射ち合いが殆んど。
「誇り高き男」での丸腰を撃ったという保安官の疑いは、相手が丸腰を装いながらも、銃を取り出す気配を察知して射殺したから罪がないということ。エーガ
の最期に若者が悪者の背中を撃つことになるが、悪者が内ポケットから拳銃を取り出す気配を承知して射殺に及んだことから保安官同様な立場を理解したということで、相手が殺し屋だからではない。
(編集子)小泉さんの ”懐かしさ” という一語に同感。先回も触れたが、ここのところ放映される西部劇映画は、ファンからすれば妙にひねくり回したものが多かった。ハイブラウ(またスガチューには叱られるかも)なファンは名画と言われる数々の作品などに引き比べて ”セーブゲキ” はいつもながら同じようで、という感覚にとらわれるのではないか。米国西部の荒々しい環境の中、法の支配が生き届かず、自分の力だけを信じて開拓に挑んだかれこれ30年くらいの間にだけ存在した世界、それでもなおフェアプレイを貴んだ気風がアメリカという特殊な国の歴史を刻んだ。その一齣の描写が西部劇であり、この映画もその一つである。これをマンネリととらえるならば、我が国の伝統文化たる歌舞伎はどうか。話の筋から所作まで、”伝統” を外れることは許されない。それでもなお、多くの人がくり返し鑑賞するのは、個々の演技者の技にひかれるからであろう。そういう意味で小泉さんが 懐かしき と形容されたのは我が意を得たり、であった。先回も書いたが、オーディ・マーフィやロバート・フランシスなど同じ感慨になってしまうが、ジェフリー・ハンターもその早逝を惜しまれる俳優だった。
なお、主題歌 ”誇り高き男のテーマ” はライオネル・ニューマン作曲、ネルソン・リドル録音、日本ではスリーサンズの演奏による主題曲が日本ビクターから発売され、レコ―ド売り上げは50万枚を超えるヒットになり、文化放送の ユアヒットパレード (当時はヒッパレ、と言われた人気番組)では1956年度年間第9位であった。YOUTUBEなどで一度、聞かれることをお勧めする。
スガチューの ”誇り高き”とは何であるか、という設問があったが、同じように保安官の苦境を描いたクーパー主演、グレイス・ケリーの西部劇初登場、真昼の決闘 (High Noon) の英文の宣伝文句が the man too proud to run であったこを回答とさせてもらう。