今朝は放射冷却で冷えました。朝方はマイナス6度、現在はマイナス3度となっています。先週の寒波で凍結防止の節電機器を使用している永住宅では配管の一時凍結で水が出ないトラブルがありました。今週は冷え込みも緩むみたいですので少しホッとできそうです。
移動中に甲府盆地に雲海が広がり、その向こうに富士山が!
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
2024年初 「 月 いち 高尾 」 を1月26日(金)に実施。今冬一番の寒波到来で日本海側、北日本を中心に大雪に見舞われ、高尾山域はどうかとの懸念があったが、典型的な冬型配置で関東一帯は雲一つない冬晴れ、それも山中は無風状態。朝は、放射冷却でかなり冷え込み、日中も低めだったが、穏やかな日差しの下、新春初山行を楽しんだ。
シニアコースの報告
定番の高尾山山頂を目指し15名が参加。一般コースは、2011年から始まった当会で、今まで3回企画されながらも、都度、天候不順で流れてしまった奥高尾の「生藤山」に再挑戦。現世話人の人徳(!)か、平均齢71.3 と 当会 の 若手 グループ(!)14名で多年の念願を果たした。
下山後、高尾駅近くの「テング飯店」に27名が集結し、またまた、貸し切り状態で、懇親新年会で盛り上がった。
一般コースの報告
8:25上野原駅南口バスロータリー集合⇒井戸行バス8:35で出発
井戸バス停9:00⇒(30分)⇒9:30軍刀利神社奥の院9:40⇒(40分)⇒10:20女坂分岐10:30⇒(35分)⇒11:05生藤山頂上11:15⇒(5分)⇒11:20三国山(昼食)11:50⇒(40分)⇒12:30佐野川峠⇒(45分)⇒13:15鎌沢入口バス停14:01⇒(バス13分)⇒14:14藤野駅14:38⇒(JR13分)⇒14:51高尾駅
5階建ての陸橋を繋ぐビルに大改装になった上野原駅の南口ロータリーに定刻に全員が集合、ほぼ貸切りのバスに揺られて終点井戸まで。ロードを15分歩いた軍刀利神社山道の石段150段から登山道に入る。武田信玄伝説の残る軍刀利神社で安全祈願を終え樹林帯の中のつづら折りの山道を登る。女坂分岐の一本で岡田さんから差入れのバナナで元気づけられ、ほぼコースタイム通りに三国山を経て生藤山の頂上に到達する。冬枯れの頂上からは富士山をはじめ南アルプスの山々が大きく見渡せ「『月いち高尾』悲願の山に登った!!」との関谷さんの喜びの声が上がった。皆さんそれぞれ写真撮影を楽しんだ後、三国山まで戻り昼食を摂る。
下りは南に向かうなだらかな笹尾根の道で佐野川峠を経て霜柱をバリバリと気持ちよく踏み割りながら進む、植物の「シモバシラ」も所々に見られた。鎌沢からの傾斜の急なロードを登山口の石柱を通り鎌沢入口バス停まで辿り着いた。
シニアコースの諸々の写真は下記をご覧ください。https://photos.app.goo.gl/Msk6sydyksZ5eZMK9
(47 福本)大変詳細かつ丁寧な報告ありがとうございました。大場さんの投稿、参加したコースは違いますが、楽しめました。寒中とはいえ、否、それが故に素晴らしい山行でした。山頂では富士だけでなく、農鳥をはじめとした南アルプスが、下山途中では房総半島、相模湾まで見えました。
歩きながらの先輩との会話もよかったです。登り、岡沢さんとは高校の、下り、遠藤さんとはスキーの話、大変楽しかったです。
「冷戦史」(下巻―ベトナム戦争からソ連崩壊まで)を読む。青野利彦著、中公新書。2023年12月発行。
ベトナム戦争からソ連崩壊と言えば、正に同時代史に他ならない。従って、詳細はさりながら、その殆どは、こんなこともあったなーとの感慨にふけることとなる。
ただし、その中で特に興味をそそったのは、ソ連はM.ゴルバチョフの「ヨーロッパ共通の家構想」だ(それ以前にも、フランスはC.ド・ゴールの「大西洋からウラルまで」があった)。同じヨーロッパの中でも、ロシアがウクライナに侵攻している現状を鑑みると尚更のこととなる。有体に言ってしまえば、大西洋からウラルまで、東も西もヨーロッパは一つであり、そこには米国の介在は考えられていない。
ここでいささか長いが以下の文章を引用する。「・・・だが、西側とイデオロギーを共有しつつあったゴルバチョフが、強くヨーロッパ秩序への統合を望んでいたことを考えれば、冷戦終結期はロシア問題解決の大きなチャンスだったと考えられよう。しかし、この道はとられなかったのだ」。具体的に言えば、西ドイツのゲンシャー外相、フランスのミッテラン大統領も、ゴルバチョフに呼応する立場をとっていた。しかし、米国のブッシュ大統領(父)、西ドイツのコール首相は、NATOとEUと言う既存の枠組みの中でドイツを再統一するドイツ問題の解決を優先する道を選んだ。
歴史に「たられば」は禁句だろう。しかし、想像を自由に羽搏かせ、もし、ゴルバチョフが求めていたことが現実のものとなっていたならば(しかし、現在のロシアでは、ソ連崩壊の張本人であると見られ、その評判は極めて悪い)、少なくともヨーロッパは今とは全く違ったものとなっていたのではないだろうか、例えば、NATOの消滅。と言っても、所詮は寝言に過ぎないのだが。
歴史は一瞬の過ちが悲惨な結果をもたらす例には事欠かない。例えば、1938年はミュンヘンの宥和が、ヒットラー上等兵を増長させ、第二次世界大戦に繋がったように。
秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず 世阿弥
能の舞台で「花」
そして上野・東照宮では「冬ボタン」
目を前に見て、心輪後ろに置けと世阿弥は言う
花と,面白きと,珍しきと,これ三っは,同じ心なり
毎年愛でにまぃっているが今年は見料が1,000円に値上げにな
小春日和に誘われて上野・東照宮のボタン苑に「冬牡丹」を愛でに
冬牡丹待たれてつひに咲きにけり 幸田露伴
そのあたりほのとぬくしや寒牡丹 高浜虚子
よろこびはかなしみに似し寒牡丹 山口青邨
一匹の蜂いのちなが冬牡丹 山本歩禅
冬牡丹きりきり生きることの愚よ 鈴木真砂女
君がために冬牡丹かく祝哉 正岡子規
天地の色なほありて寒牡丹 高浜虚子
寒牡丹くづる紅帯ほどくごと 吉野義子
寒牡丹白光たぐひなかりけり 水原秋櫻子
紅隈に咲く此冬や寒牡丹 尾崎紅
(参考)撮影機材
カメラ Nikon Z6 レンズレンズ Leitz Canada Elmar 65mm 1:3.5 ビゾフレックス用アダプター+中間リング16471J一個挿入。
カメラ ニコンZfcレンズ NIKKOR ZDX18-140m1:3.5-6.3VR+ レンズ ニッコールDX12-28mm f/3.5-5.6PZVR0等持参
秋葉原には「半日」どころか、
東京オリンピック後の高度成長はベトナム特需の追い風にも乗り、
ワンゲル新年会のあとの帰路でのことである。
土曜の昼下がりで始発駅に近い上野駅、電車は当然すいているだろうと思っていたが、入ってきた電車は思いのほか混んでいた。中ほどへ進みようやく空いているつり革につかまってヤレヤレと思っていたところ、目の前の席の男性がスッと立ち上がって席を譲ってくれた。
予期せぬ行為に一瞬とまどったが、このような時は素直に譲ってもらう方がいいかなと思いお礼を言って座らせてもらったが、よく見たら中国か東南アジア系のツアー客の様子。少しくたびれた感のあるリュックを携えて浅草かアメ横か、近くの観光を終えてどこかホテルへ帰えるのであろう。
これまで日本人にもあまり席を譲られたことのない自分。見ず知らずの外国人に席を譲られたことにある種の感動を感じるとともに年齢を見破られた寂寥感を感じた。旧き友に会い、語り、お酒も入って心地よいひと時を過ごしたあと、さらに異国の人から受けた思わぬ好意にほんわかとした心あたたまる1日になった。
(保屋野)私も昨年「湖東三山」の駐車場で、道路を横断しようとしたら、駐車場係の老人?から「おじいさん、横断歩道はアッチ」と咎められて愕然としました。お互い、80才という年齢を考えれば、席を譲られたり、(他人から)おじいさん、と呼ばれるのは、ごく当たり前の話なのでしょうが・・・
まあ、人間、幾つになっても「自分は若い」と妄想する動物なのでしょう。「年を自覚しつつ、気持ちは若く」で過ごしましょう。
ちなみに、KWV新年会は32年卒の大先輩(89~90才)が5人ほど出席されて、皆さんお元気の様子で、大いに励みになりました。
(編集子)投稿者はお二人同期生、我々が感じている現実、を理解され始められた、という事ですかな。因みにKWV OB会新年会は今年は場所を変えて上野精養軒で開催された。保屋野君言及の ”大先輩” のトップは32年卒で、出席人数でも群を抜いて多かった。先輩、我々も見習わなくてはいけませんな。
(33 小川)
シモのブログ編集子コメントで一寸気になったこと・・・。最大部
「秋葉原の半日」の記述は、長年通った電気屋さんが何の挨拶をする間もなく、とうとう閉店してしまったことを知り、自宅近くの駅に降り立った時の寒風が身に沁みたと言う、何とも寂寥感溢れる名文で心に沁みました。通信機やハムのことは全く分らない私ですが、読後、思い出したことがあります。
最近まで使っていた愛用のデジカメとビデオカメラを今年になって処分しかかっています。デジカメが普及しだしたのは、1995年前後で私は第2の職場に異動した頃だったことでよく覚えています。
現場写真が役立つ仕事なので部下がデジカメで沢山撮ってきた写真の中から、不要な分を消去しるのを見ながら、何と便利なカメラが出て来たものだと感心して、自分も、それまで愛用していたOLYMPUS-PENを、その頃からSONY-CYBER-SHOTのデジカメに買替え、同型機種を4台ほど買替て使ってきました。一方でビデオカメラも同じくSONY-HANDYCAMを数台買い替えて、専門的な写真ではなく、家族写真、旅行、イベント等の写真撮りに重宝してきました。
SONYカメラで思い出すのは2007年にフランクフルト経由でプラハ、ドレスデン、マイセン、ライプチッヒ、ハンブルグ、リューネブルグ、カッセルと家族旅行したセンチメンタル・ジャーニー?の初日の午前中、プラハの道幅の広いショッピング街で、いきなりカメラを手荷物からスリ取られ、直ぐに警察に被害届に行ったものの、担当の警察官が彼女を警察署に呼んでいていちゃいちゃいするも、依頼している被害届をなかかな作成してくれず、結局は夕方になって漸く1枚の被害届を渡してくれたものの、カメラの機種以外は全てチェコ語で書かれていて、全く内容が分らずに日本に持ち帰ってきて、翻訳に出したことがありました。
デジカメ、ビデオカメラ共に機械自体は未だ元気に使えていたのに、近年に至り、どちらも電池(バッテリー)が先ず、製造中止になり、時々、NETで探しては中古を買ったりしていましたが、遂にそれも面倒になり、今やスマホでデジカメ、ビデオカメラ以上の写真・動画か撮れる時代になっていまい、機械本体を大事に思う昭和時代の残渣のような私の意識の古さを感じています。
監督セルジオ・レオーネ、主演クリント・イーストウッド、音楽エ
コーネのトリオが放った「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」「続
主演は二人の賞金稼ぎ、リー・ヴァン・クリーフ扮するダグラス・
性格の対称的な主演の二人は案の定対立し、
る。モーティマーが復讐も果たしことから、賞金はモンコに譲り、
最後、
私も小学校のころからの秋葉原通いを思い出しました。当時大宮に住んでいたので30円の硬券を握りしめて秋葉に通っていました。当時子供料金で30円ぐらいでした。まだ自作の真空管ラジオは失敗ばかりでしたがそれなりに部品集めや主にジャンクに漁りが目的でした。
ジャイさんと同様に中学時代にアマチュア無線を始めましたがちょっと自作まではいかずFD-AM3という当時の井上電機(いまのICOM )の名器を手に入れて夜遅くまでもっぱらラグチューに夢中になっていました。それでもアルミシャーシの加工用にリーマーやハンドニブラー、真空管時代の80Wのはんだごてなどいろいろ持っていました。最近は自作なんて全然できませんが一応半導体用はんだごてとはんだは常備しています。もちろんテスターも。
いつもラジオデパートは上から地下までくまなくパトロールです。なのでシャッターだらけの今は本当に寂しいです。もはや秋葉原は電気街ではなくオタクの街になっているので。若松通商や秋月通商までの道のりで多くのメイドさんに声をかけられる(最近はさすがに爺なので少ないですが)がなんともです。今でも真空管にチャレンジされているジャイさんは素晴らしいし、うらやましいです。最近は自宅の家電も半田ごてで治せるものがないのがさみしいです。